読切小説
[TOP]
戒律とイナゴの佃煮
主神の戒律に従えば、本来虫を口にするのは御法度なのだ。だが、もう数十日はまともに食べていない。何しろ、この街に、いやさ、この国に食料はもはや、麦の一粒、粥の一匙さえのこってはいない。奴らが来てから。

「我々ハアバドンダ。オ前達ハ我ラガ培地トナル。抵抗ハ無意味ダ」大きな蟲が、そう宣言した瞬間、世界は闇に包まれた。なぜなら、空を埋め尽くす群れが現れたからだ。甘い匂いが辺りに充満し、まずは牛や馬が蟲の竜巻に吸い込まれた。そこからは、もはや数時間と経たず、住民、兵士、老若男女の区別なく喰らわれた。

私は、この終末の光景になんとも圧倒され、絶望し、同時に魅了された。前から、それこそ修道院で修行している時分から、「主神の教えを蔑ろにする者で世界が溢れた時、物欲と放蕩に塗れた不浄の国々は、より貪欲なる怪物の餌食とならん。肥え太った仔羊が、狼のごちそうとなる如く」と聞かされてきた、まさにその瞬間が来たのだ。

「コーシュコー…聖職者ト推定。抵抗ハエネルギーヲ浪費スルダケ。シュコーパタン…栄養価ノ観点カラ、投降シ、培地トナルコトヲ推奨スル」異形の蟲人は、私を見つけるやいなや、手前勝手な理屈を並べた。それすらも、なんだか演し物のように感ぜられた。いよいよもって、私はその四本腕に抱かれ、空へと拉致されることすら楽しかった。

「名前?識別番号トシテ、我々ノ一個体ノフォーク:7522番ダ。ソシテ、我々ノコロニー管理者ハ43番ロットノ卵カラ孵ッタ。フォーク:43-ND-7522、我々ノコノ個体ヲ呼ブナラ、ソレガ適当ダ」私は、アバドンフォーク…43-ND…イークルツと呼ぶことにした。「イークルツ…新シイ…我々ノ内ノ一個体ハ、イークルツトナッタ」

聖典に記されたその通り、私と街の住人は、もはや草の一本なく、木材や植物繊維、動物由来の建材がなくなった荒野に留め置かれた。傍目には、死体の山が積まれているようにしか見えないだろう。我々は、一切の食料を奪われた。男という男は、死なない程度の栄養(半ば消化した肉塊のようなもの)を口移しされ、後はただ性交により魔力を循環させていく。

女達はといえば、すぐさま隔離され、魔物となってやっと解放される。乳幼児の母親だけは、丁重に保護され、母体は緩やかに魔物になるような食事を提供され、乳飲み子すら間接的に堕落させていく。私も例外なく、イークルツや「姉妹」と呼ぶべきか、彼女曰く「同じ孵化ロット」のフォークに蹂躙されている。肉体はとうに限界を迎えていたが、強烈な体臭を嗅がされ心はむしろ溌剌とさえしていた。寝ても覚めても悪夢であれば、むしろ覚悟ができて清々している。

しかし、それでも、腹は空くのだ。狂気の微睡みに戻るためには、何かを口に入れねばならぬ。イークルツも含めて、私の体調を鑑みた彼女らは甲斐甲斐しいとさえ言えた。すると、先ほど脱いだばかりの外殻を持っている者がいた。イークルツは、それを何らかのタレに漬けて、煮込み始めた。

「人間ハ、餓エレバ、革ノ靴スラ喰ラウト聞イタ。我々モソウダ。何分、個体数ガ多イノデ、脱皮シタコレラモ、タンパク源ダ」饗されたそれは、赤茶けた虫の残骸だった。平時には、食指が動かぬこれも、今の私にはマナとさえ言えた。「良イ喰イブリダ。食ベタ栄養ハ、卵ヲ生厶タメノ精トナリ、新タナアバドンガ、マタ人間ヲ喰ライ、喰ラワレル」

今全てを理解した、食物連鎖、子孫繁栄とは…匂いは記憶を呼び起こす。遠くの地平、地の底から邪悪な意志が、フェロモンが大きなアバドンから発せられた。声なき声を聞く、『我ガ子ラハ、深ク海ヲ呑ミ、高ク山ヲ貪ル。後ニ平ラナ野ヲ残シ、産マレ、育チ、番ウ。全テノ輪廻ハ我ガ胎ニアリ」
25/12/07 00:29更新 / ズオテン

■作者メッセージ
旧約聖書には、食べていい虫について記されていますが、それはサバクトビバッタ(イナゴ)じゃないかと言われています。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33