ある日の会議風景 U (後編)
太陽も漸く西に傾き始めていたが、それでもまだ忌まわしい日の光は煌々と街を、城を、そして何よりもあの吸血鬼を照らしていた。
薄いレース状のカーテンで窓を覆ってはいるが、生地は薄く、窓の向こう側が見えている。
それは日の光をさえぎる力などほとんど無い。
陽光に照らされながら、吸血鬼は見た。
部屋の向こう、壁際から一気に駆け出す幼子のような魔物を……
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姿勢を前傾に、彼女の出せる目一杯の速さで氷雨は走る。
当然部屋はそこまで広くないので、あっという間にラピリスに肉薄する。
ラピリスは剣技による妨害を仕掛けてこなかった。
「一つ!」
「!」
目の前まで踏み込んだ氷雨は低い姿勢から、真下からの切り上げる斬撃を放つ。
短剣に込められた濃い風の魔力が仄かな光の軌跡を作った。
それ自体はラピリスにあっさり回避されるが、氷雨の動きはそこから更に激しくなっていく。
「二つ、三つ、四つ、五つ!!」
「っ!…!!」
ラピリスでさえ苦しそうな吐息を吐いたそれは、加速する斬撃。
氷雨は数を数えながら、その数だけ斬りつけた。
2連撃、3連撃、4連撃と徐々に斬撃が速くなり、一太刀当たりの速度も目で追うのが辛くなり始めた。
各連撃の間に一瞬間があり、ラピリスは少しずつタイミングをずらされていく。
そして、最後に放たれた5連撃は流石のラピリスも危機感を覚えたのか、刀で受け止められてしまった。
「まだまだ!!」
「くっ…」
刃と刃を合わせた状態で氷雨は楽しそうにそう言い、ラピリスの視界から消える。
ラピリスは今の剣技に少し驚いたが、それだけだ…氷雨が自分の頭上を飛び越えようとしていること位は気配だけで分かった。
だが、氷雨は空中からも再び斬撃を浴びせてきた。
それは先程よりも更に多く、更に早く。
「六つ、七つ、八つ、九つ……」
「舐めるな!」
6連撃、7連撃、8連撃、9連撃、一振りずつ増える斬撃は既にラピリスの目ですら追うのがギリギリ間に合う程度の速さで、白い軌跡を残しながら襲い掛かる。
ラピリスには『自分の目で追うことも危うい斬撃速度』を半人前程度の氷雨が生み出せる事には流石に驚きを隠せない。
だが、それでもラピリスは30にも及ぶ斬撃は全て避け、受けきった。
手応えを感じる事の出来なかった氷雨は着地した瞬間、確認もせずに振り向きながら、再度短剣を振るった。
ラピリスの反撃は一瞬遅い、間に合わなかった。
その数は最多、その速さは最速。
「十!!」
ラピリスには見えた。
いや、見えたというのはあくまでも短剣の軌道だけである。
氷雨の短剣が振るわれた軌道は魔力と速度の為か、白い軌道を残しているので分かる。
ラピリスは分かった。
高速で多量の斬撃は、短剣だけが生み出しているわけではない。
何故なら、短剣の軌道以外の場所からも『斬撃の白い軌跡』が迫ってくるからだった。
実際のところ、確かに短剣はラピリス自身に向けて振るわれている。
だが、それ以上の数の斬撃の軌道が、その周辺から時間差をつけて迫ってきていた。
それらを回避、防御しながらラピリスは考える。
(そうか…魔法剣とはそう言う事か…)
風術を込めた魔法剣は斬撃の高速化と風刃による手数の増量が目的だった。
前半の斬撃では風刃を起こさず、高速化のみを付加していた為、気づくのが遅れた。
(中途半端な魔術と剣術では此処までの魔法剣にはならないはずだが……)
それでもラピリスは思案しながら、9の斬撃の回避と防御に成功する。
最後の一振りはそのどちらをする必要もなく、ラピリスにかする事も無い方向に放たれた。
全てを防ぎきったラピリスの姿勢は低く、しゃがみこむようなものであった。
一方の氷雨は最後の斬撃を加えた時の位置から動いていない。
「…速いな…」
「そうじゃろう…あれにはわしもついていくのが大変じゃった」
間も無く訪れた静寂の時間、最後の10連撃を目の当たりにしたスレイは感嘆の声を漏らした。
それは魔術による効果を付加しての結果ではあるが、それでもその力に振り回されて制御不能になるわけでもなく、ほぼ正確な斬撃に転用できている。
(しかし、魔術を見ると言われていたのに、魔法剣で近接戦闘をするなんて何を考えているんだ?)
スレイがそんな事を考えていると、ラピリスがゆっくりと立ち上がる。
実はこの時のラピリスは少し本気を出して防御をしていたのだが、それを億尾にも出すこともなく彼女は氷雨に声をかけた。
「見事な魔法剣と立ち回りだが、純粋な魔術の実力にはやはり自信がないのか?」
「……」
氷雨は押し黙った。
そして、そのまま短剣をラピリスに向かって突き付ける。
「私の魔術は既に終わってます」
「どういうことだ?」
氷雨の答えにラピリスは首を傾げる。
彼女はいつ魔法剣ではなく、通常の攻撃魔術を行使したのか?
そんな事を考えていた。
「氷雨の奴…間違いなくわしにもやった『あれ』をやるつもりじゃ…」
「…それがフェリン様が氷雨ちゃんと戦いたくないと言う理由ですか?」
「うむ…」
フェリンは苦笑いを浮かべた。
それは、嫌な思い出であると同時に、氷雨と出会った時の思い出でもあったからだ。
そんな、師の様子を他所に氷雨は声を張り上げた。
「では、往きます!」
「!!」
氷雨は何もない空間を短剣で薙いだ。
ただそれだけ、それだけのはずである。
ラピリスには魔力の流れは感じられなかった。
無論、魔術などが行使された様子もない。
それなのに…いや、それでも、ラピリスの本能が危険信号を発し始める。
「なっ!?」
何故、突然周囲に魔力を感知するのか、いつの間に魔術が自分を包囲する形に展開されているのかラピリスはそんな事を考えていた。
目には見えないが、鋭利な刃のように模られた風の魔術を感じ、ラピリスの思考は状況を把握・打開しようと一気に加熱する。
「舞え!、風刃!!」
「くっ…」
氷雨が謳い、風の刃が一斉にラピリス目掛けて動き出す。
50を超える風術の数にラピリスは一瞬判断を迷う。
だが、そこはやはり歴戦の魔物である。
即座に風刃と風刃の隙間、そしてそれぞれの発動位置の確認と軌道予測を立てる。
回避経路を選び、決まるまではほんの一瞬、1秒もかかっていない。
(出現位置は、氷雨の斬撃軌道からだ…)
氷雨の繰り出した斬撃の軌道を全て覚えているわけではないが、風術の8割以上がその斬撃が通った場所から出現している。
ラピリスは氷雨を目指し、一歩踏み出す。
そして、それと同時に彼女は歪に身体を捻った。
すると、不可視の風刃は全て彼女を避けるように上方から床に向かって落ちていく。
それらは、まるで豪雨のように濃密に降り注いだ。
実際には風刃は高速で放たれているのだが、瞬間的に全ての軌道を見切ったラピリスには、それらがとてもゆっくりに見えた。
更に踏み込む。
前方及び後方からの風刃は着弾の誤差から生まれる隙間を縫う様に避けた。
目には映らない風の刃を避けるその様子は、まるで踊っているようであった。
(こいつを防いで次を避ける……)
目の前に迫っているだろう風の刃を刀でいなし、それと交差するように後方から迫まる風刃を頭を下げ、姿勢を低くして避けた。
前後から殺到する風刃は20と少し、上方から落ちてきたそれよりはやや少ない、前後からの挟撃とは言え、この程度であればラピリスに対応できるレベルであった。
ラピリスはもう一歩踏み込む…まだ遠い。
最後の風刃がラピリスに迫る。
1つは低く、ラピリスの足首ほどの高さで前から、1つは最初の風刃と逆にラピリスの首くらいの高さで後ろから、そして、正面から十字架のように交差した状態で迫る風刃であった。
厄介なことに最後は同時着弾であり、ラピリスでも対処に困るものであった。
だが、ラピリス自身は後ろに引く気は一切無かった…氷雨に対して後退すると言うこと自体が彼女の選択肢には無かったのだ。
(これで最後だ!)
ラピリスは床を蹴る。
身体を宙に投げ出し、姿勢を床と平行にする。
空中で身体を捻る。
両腕が傷つく可能性を減らすために、左手は刀を持ったまま自分の腰に絡め、右手は自分の胸元に添えている。
視線が廻り、床から一瞬だけ正面、そして天井の様子が瞳に入り込んできた。
「…♪」
「?!」
一瞬だけラピリスの目に映った氷雨の顔は、とても楽しそうに歪んでいた。
緑眼は初めて顔を合わせた時よりも、更に怪しく輝いている。
長い年月を過ごした吸血鬼は、一気に悪寒を覚える。
4つの風刃はまるで格子を作るように空中で交差する。
ラピリスはその間をすり抜け始める。
高音域の耳に刺さる音が聞こえた気がした。
危険範囲には入っていないのだが、それでも嫌な予感は拭えず、万が一も考え、片手に握った刀を動かそうとした。
一手遅い。
そう、氷雨が呟いた気がした。
氷雨が左手を振り下ろしたのは、その呟きが聞こえるか否かのタイミングであった。
(魔力感知!?)
そこには何も無かったはずだった。
物質的要因も魔術的要因も……ラピリスの感知能力では確認できなかった。
だからこそ回避経路として選んだ。
(位置は…真上、軌道は…落ちる、場所は…首)
しかし、またしても魔術が突如として出現した。
氷雨にはやはり魔術を使った様子は無い。
先程の動作にしても魔術の行使、魔力の流れは一切感知出来なかった。
(これは…最後の…)
10連撃の最後の一閃、それはラピリスを狙ったものではなかった。
この風術の出現位置が氷雨の斬撃軌道上からであるならば、最後の攻撃が明後日の方向に向けて放たれた意味に気がつけるはずであった。
(…一度やられたことをまたやられるとは…)
異様な術を目の前で見ておきながら、それを再び使われる可能性を考えなかったのは、ラピリスにしては珍しいのかもしれない。
(少し興奮しすぎた……か)
侵攻部隊迎撃戦や氷雨との立会いに、ラピリスは楽しくてしょうがなくなっていた。
それでも何とか頭を冷やす。
そうしないとこの状況は危険であった。
(まずはこれを何とか…)
彼女の刀速で以ってしても、刀での防御は僅かに間に合わない。
ならばどうするか…無理矢理にでも止めるだけである。
ラピリスは風刃に対し胸元に添えていた右手を突き出した。
その方が左手を振るうよりも遥かに早い。
右手に触れた風刃がラピリスの不健康な白い手を切り裂き、鮮血で真っ赤に染める。
彼女はその状態で風刃を掴んだ。
吸血鬼の血が飛び散り、不可視の風の刃を赤く染め上げる。
目に見えるようになった風の刃は三日月の様な形をしていた。
それはゆっくりとラピリスの右手を傷つけ続けていたのだが、それでも掴むのをやめない。
ラピリスの身体が風刃の格子を完全に抜けきった。
ラピリスは更に空中で身体を捻り、床に足から着地した。
「さあ、往くぞ!!!」
「!?」
次の瞬間、彼女の身体は跳ねた。
床のカーペットがそこだけ裂けてしまう程の、疾走の名が相応しい速さである。
狭い部屋の中ではこの速度に対応する事は難しい。
ラピリスは左手の刀を宙に放り、右手の風刃を引き抜く。
掌が縦に裂け、引き抜いたそばから出血が始まるがそんなものは構っていられない。
そのままの勢いで、やっとラピリスの突進に反応し始めた氷雨の顔面を左手で掴んだ。
風術の結界を抜けられ、即反撃に転じられては、氷雨には成す術は無い。
反応の遅れが彼女を床に転がす結果となった。
左手で顔を掴まれ、突進の勢いを受けて床に倒される。
そして、落下してきた刀を血濡れの右手で掴んで氷雨の首に押し当てた。
「……どうする?」
「どうするも何もありません、降参です」
氷雨の緑眼は先程の様な輝き方はしていなかった。
ラピリスも表情がいつもの無愛想なものに変わっていく。
つまりはこれで終わりだった。
スレイも、リシアも呆然としている。
フェリンだけは一度その身で体験している事なので2人の様にはならないが、それでも冷や汗は止まらなかった。
そして、氷雨が床に押し倒され、彼女が降参した所で3人の時間は動いたようだった。
「フェリン様…あれは何ですか?」
「…」
スレイが掠れた声でそう言うが、フェリンの反応は鈍かった。
「フェリン様、氷雨ちゃんが何をしたのか…教えてください」
「あ…ああ」
フェリンの時も動き出したようだった。
そして、年長のバフォメットは若いバフォメットの話を始めた。
「あやつの魔術は魔女にも劣る、これはさっきも話したな?」
「はい、ですが剣技は拝見する限り十分だと思います、なんならボクがもっと鍛えてもいいけどね」
「じゃが、氷雨の魔術には2つ例外があっての」
「2つ…ですか?」
ラピリスは立ち上がり、無言のまま氷雨に手を差し伸べた。
それは彼女なりに氷雨を認める気持ちの表れなのかも知れない。
氷雨の表情は肩まである髪の毛がぐちゃぐちゃに乱れて顔にかかっているせいでよく見えなかった。
ラピリスの手をとりゆっくりと立ち上がる氷雨の顔は少し悲しげだった。
立ち上がった氷雨にラピリスは何かを話し始めたが、小声であったため、とてもではないが聞こえない。
2人を横目で見つつ、フェリンは話を続けた。
「あいつは風術はわしにも劣らない、他がからっきし駄目なのにコレだけできると言うのも変な話なのだがな」
「確かにあれは面白い使い方だったと思います」
魔法剣という技法自体が下火になっている昨今においては珍しい使い手であった。
と、いうのも剣に魔法を付加するくらいなら相手に放ったほうがいい、と言う場面の方が多かったと言うのがある。
もう1つには魔術と剣技をどちらも最大限に鍛え上げなければ実用レベルに成り得なかった、という経緯があった。
「もう1つあいつが得意だったのが『魔力隠蔽術』じゃ」
「?、聞いた事が無い術ですね」
「ボクも聞いた事が無い……」
リシアもスレイも聞き慣れない単語に首を傾げた。
フェリンは説明するのが難しそうな顔をする。
「ん〜なんと言うべきか…魔力を制御・隠蔽する事で魔力や魔術を相手に察知させない技法じゃな」
「…それはいわゆる隠蔽術式の事では無いのですか?」
フェリンの説明にリシアが異論を唱えた。
確かに、氷雨に限らずとも人化の魔術を使う魔物は皆、魔物が持つ多量の魔力で察知されないように、魔力を隠す隠蔽術式を用いている。
「それは確かにそうなのじゃが、氷雨の『魔力隠蔽術』はわしらが使う隠蔽術式とは異なるものだと考えたほうがよい」
「と言いますと?」
「わしらの隠蔽術式は体内から漏れ出す魔力に蓋をするイメージじゃ」
イメージとしては臭いが上がって来る樽に上から蓋をする感じだ、フェリンはそう言い、更に続けた。
「氷雨の『魔力隠蔽術』は漏れ出す魔力自体を改竄して、魔力として認識させないようにする……つまり、樽に蓋をするのではなく、臭い自体を変えてしまうのじゃ」
今までそれなりに長く生きてきた2人ではあったが、そんなものは聞いた事が無かった。
「それに、氷雨の『魔力隠蔽術』は本人だけでなく、放った魔術をも隠蔽させることが出来る」
「何の物理・魔術的要因の無い空間に、いきなり魔術を出現させた様に見えたあれがそうか……」
「うむ、じゃが実際のところ、そこには魔術が存在していたのじゃ、意図的に待機状態にしておいたようじゃがな」
それに…とフェリンは続けた。
「氷雨の風術はその気になれば肉眼で捉えられない様に打ち出すことも出来る…先程の風術はそれじゃな」
「…魔力を認識できるならば、感知できるが…それすらも『魔力隠蔽術』でもってギリギリまで隠しておける…という事か…」
「その通りじゃ……」
「しかし、発動させた魔術を隠蔽させる際にも一切魔術を関知させないとは…」
リシアは感じた疑問をフェリンに問う。
どちらかというと魔術偏重型の戦闘スタイルであるリシアは、氷雨の魔法剣と魔術の併用という戦闘スタイルが気になって仕方なかったのだった。
それを知っているバフォメットも快く答えた。
「だからこそ、氷雨は魔法剣を使い、その軌道上で魔術を発動させ、即座に隠蔽したんじゃ」
「魔法剣を振るいながら、その斬撃軌道上で魔術を発動させ、魔法剣が放っている魔力でそれを誤魔化しながら隠蔽する…ですか…氷雨ちゃんって本当に反魔物領で生活していたんですか?」
「…本人から少しだけ話を聞いたが、どうやら父親の指南のようではあるな…」
フェリンが2人に説明を終えた頃合で、氷雨とラピリスが3人の前まで戻ってきた。
ラピリスの右手は袖口から肘にかけては真っ赤であるが、傷自体は既に消えていた。
吸血鬼の肉体再生能力は相変わらずだ、そうスレイは言葉を漏らした。
そして、ラピリスはどこか満足げに3人の前に立った。
だが、ラピリスの隣に立っている氷雨の様子は妙だった。
唇を噛み締め、手を硬く握り、何かのきっかけで一気に崩れてしまいそうな、そんな表情をしている。
立ち上がった時からそうだったのかもしれないし、ラピリスに小声で何か言われた時からなのかもしれないが、フェリンには分からなかった。
フェリンはそんな様子の氷雨を心配し、目の前まで近寄り声をかけた。
「氷雨……頑張ったな…」
きっかけはあっさりと与えられた。
フェリンの優しい言葉……それを聴いた瞬間、氷雨の何かが決壊した。
「申し訳ございません…フェ…リン様……私…期……待……こ……え…ウッ…グスッ……」
聞き取れたのは最初だけ、あっという間に言葉が音として聞き取れなくなっていく。
そんな、徐々に嗚咽が混じる氷雨の声でフェリンは動いた。
フワリと…氷雨はフェリンに抱きしめられる。
フワフワの毛が氷雨の身体をくすぐった。
緑眼から止め処なく溢れる涙はフェリンの体毛を徐々に濡らしていく。
「…あ…」
「泣く事は無いじゃろう…この泣き虫め」
「ごめんなさい…ヒック……私…フェリン様に……グシュ……見捨てられたら……行くところなんて……エグッ…」
「……そうじゃったな…」
両親とは死に別れ、反魔物領から逃げ出してきたのだから、行くところなどあるわけが無かった。
それはフェリンが氷雨を手元におきたいと思った理由の一端でもあった。
氷雨を抱きしめたまま、フェリンは首だけラピリス向けて、彼女に問いかけた。
「どうじゃ、ラピリス…氷雨はわしの弟子として相応しいと思うか?」
「……剣技も魔術も鍛えれば光るかもしれん……現状では次第点…赤点ギリギリといったところだ」
明後日の方向を見ながら、ラピリスはそう答えた。
回りくどい言い方をしているが、フェリンはそれだけで十分だった。
「氷雨…お前は今日から、わしの弟子じゃ…よろしく頼むぞ」
「……!!……はいっ」
そして、氷雨に優しく声をかける。
氷雨は最初は驚いた顔で…間も無く嬉しさ一杯の顔で、返事をした。
「こら、氷雨、泣きながら笑うな!、気味が悪いぞ」
「はいっ!!、これから頑張ります!!」
ずれた返事をしながらも、氷雨はフェリンに力いっぱい抱きついた。
その様子を見ていたスレイは口元だけで笑い、リシアは間も無く氷雨に祝福するために飛び掛り、ラピリスは黙って部屋を出て行くのだが、
肝心の氷雨はラピリスに…そして誰よりもフェリンに此処に居る事を認めて貰えた事、それだけで頭が一杯であった。
この日、魔王軍に1人のバフォメットが加わった。
間も無く、フェリンが歓迎会と称して人を集め、乱交騒ぎを引き起こすのだが、それは別の話。
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氷雨という名のバフォメットはフェリンの弟子として、やがてはフェリンの右腕として、方々で名前を知られる事となる。
だが、それはまだまだ先の話であった。
無論、この時点でそれを知る者はいない。
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―これはなんというか―
少女は1人考えた。
―会議資料だから会議の内容を残したんだろうけど、戦果報告よりもその後の騒動のほうが時間かかってるじゃん―
昔からこの大陸の魔王軍はこんな状態だったのかと、少女は頭を抱えた。
―でも…もうすぐ終わり―
そう、少女が知りたいのはこの大陸での反魔物派・新魔物派の争いの決着までである。
こうやって過去の軌跡を辿るのも、あと少しであった。
―次は…あれ…この人の名前、どこかで―
少女は前に読んだ記述にあった名前を再び見つけた。
それは久しぶりに目にしたが、少女の記憶にはしっかりと残っていた。
その名前は……
薄いレース状のカーテンで窓を覆ってはいるが、生地は薄く、窓の向こう側が見えている。
それは日の光をさえぎる力などほとんど無い。
陽光に照らされながら、吸血鬼は見た。
部屋の向こう、壁際から一気に駆け出す幼子のような魔物を……
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姿勢を前傾に、彼女の出せる目一杯の速さで氷雨は走る。
当然部屋はそこまで広くないので、あっという間にラピリスに肉薄する。
ラピリスは剣技による妨害を仕掛けてこなかった。
「一つ!」
「!」
目の前まで踏み込んだ氷雨は低い姿勢から、真下からの切り上げる斬撃を放つ。
短剣に込められた濃い風の魔力が仄かな光の軌跡を作った。
それ自体はラピリスにあっさり回避されるが、氷雨の動きはそこから更に激しくなっていく。
「二つ、三つ、四つ、五つ!!」
「っ!…!!」
ラピリスでさえ苦しそうな吐息を吐いたそれは、加速する斬撃。
氷雨は数を数えながら、その数だけ斬りつけた。
2連撃、3連撃、4連撃と徐々に斬撃が速くなり、一太刀当たりの速度も目で追うのが辛くなり始めた。
各連撃の間に一瞬間があり、ラピリスは少しずつタイミングをずらされていく。
そして、最後に放たれた5連撃は流石のラピリスも危機感を覚えたのか、刀で受け止められてしまった。
「まだまだ!!」
「くっ…」
刃と刃を合わせた状態で氷雨は楽しそうにそう言い、ラピリスの視界から消える。
ラピリスは今の剣技に少し驚いたが、それだけだ…氷雨が自分の頭上を飛び越えようとしていること位は気配だけで分かった。
だが、氷雨は空中からも再び斬撃を浴びせてきた。
それは先程よりも更に多く、更に早く。
「六つ、七つ、八つ、九つ……」
「舐めるな!」
6連撃、7連撃、8連撃、9連撃、一振りずつ増える斬撃は既にラピリスの目ですら追うのがギリギリ間に合う程度の速さで、白い軌跡を残しながら襲い掛かる。
ラピリスには『自分の目で追うことも危うい斬撃速度』を半人前程度の氷雨が生み出せる事には流石に驚きを隠せない。
だが、それでもラピリスは30にも及ぶ斬撃は全て避け、受けきった。
手応えを感じる事の出来なかった氷雨は着地した瞬間、確認もせずに振り向きながら、再度短剣を振るった。
ラピリスの反撃は一瞬遅い、間に合わなかった。
その数は最多、その速さは最速。
「十!!」
ラピリスには見えた。
いや、見えたというのはあくまでも短剣の軌道だけである。
氷雨の短剣が振るわれた軌道は魔力と速度の為か、白い軌道を残しているので分かる。
ラピリスは分かった。
高速で多量の斬撃は、短剣だけが生み出しているわけではない。
何故なら、短剣の軌道以外の場所からも『斬撃の白い軌跡』が迫ってくるからだった。
実際のところ、確かに短剣はラピリス自身に向けて振るわれている。
だが、それ以上の数の斬撃の軌道が、その周辺から時間差をつけて迫ってきていた。
それらを回避、防御しながらラピリスは考える。
(そうか…魔法剣とはそう言う事か…)
風術を込めた魔法剣は斬撃の高速化と風刃による手数の増量が目的だった。
前半の斬撃では風刃を起こさず、高速化のみを付加していた為、気づくのが遅れた。
(中途半端な魔術と剣術では此処までの魔法剣にはならないはずだが……)
それでもラピリスは思案しながら、9の斬撃の回避と防御に成功する。
最後の一振りはそのどちらをする必要もなく、ラピリスにかする事も無い方向に放たれた。
全てを防ぎきったラピリスの姿勢は低く、しゃがみこむようなものであった。
一方の氷雨は最後の斬撃を加えた時の位置から動いていない。
「…速いな…」
「そうじゃろう…あれにはわしもついていくのが大変じゃった」
間も無く訪れた静寂の時間、最後の10連撃を目の当たりにしたスレイは感嘆の声を漏らした。
それは魔術による効果を付加しての結果ではあるが、それでもその力に振り回されて制御不能になるわけでもなく、ほぼ正確な斬撃に転用できている。
(しかし、魔術を見ると言われていたのに、魔法剣で近接戦闘をするなんて何を考えているんだ?)
スレイがそんな事を考えていると、ラピリスがゆっくりと立ち上がる。
実はこの時のラピリスは少し本気を出して防御をしていたのだが、それを億尾にも出すこともなく彼女は氷雨に声をかけた。
「見事な魔法剣と立ち回りだが、純粋な魔術の実力にはやはり自信がないのか?」
「……」
氷雨は押し黙った。
そして、そのまま短剣をラピリスに向かって突き付ける。
「私の魔術は既に終わってます」
「どういうことだ?」
氷雨の答えにラピリスは首を傾げる。
彼女はいつ魔法剣ではなく、通常の攻撃魔術を行使したのか?
そんな事を考えていた。
「氷雨の奴…間違いなくわしにもやった『あれ』をやるつもりじゃ…」
「…それがフェリン様が氷雨ちゃんと戦いたくないと言う理由ですか?」
「うむ…」
フェリンは苦笑いを浮かべた。
それは、嫌な思い出であると同時に、氷雨と出会った時の思い出でもあったからだ。
そんな、師の様子を他所に氷雨は声を張り上げた。
「では、往きます!」
「!!」
氷雨は何もない空間を短剣で薙いだ。
ただそれだけ、それだけのはずである。
ラピリスには魔力の流れは感じられなかった。
無論、魔術などが行使された様子もない。
それなのに…いや、それでも、ラピリスの本能が危険信号を発し始める。
「なっ!?」
何故、突然周囲に魔力を感知するのか、いつの間に魔術が自分を包囲する形に展開されているのかラピリスはそんな事を考えていた。
目には見えないが、鋭利な刃のように模られた風の魔術を感じ、ラピリスの思考は状況を把握・打開しようと一気に加熱する。
「舞え!、風刃!!」
「くっ…」
氷雨が謳い、風の刃が一斉にラピリス目掛けて動き出す。
50を超える風術の数にラピリスは一瞬判断を迷う。
だが、そこはやはり歴戦の魔物である。
即座に風刃と風刃の隙間、そしてそれぞれの発動位置の確認と軌道予測を立てる。
回避経路を選び、決まるまではほんの一瞬、1秒もかかっていない。
(出現位置は、氷雨の斬撃軌道からだ…)
氷雨の繰り出した斬撃の軌道を全て覚えているわけではないが、風術の8割以上がその斬撃が通った場所から出現している。
ラピリスは氷雨を目指し、一歩踏み出す。
そして、それと同時に彼女は歪に身体を捻った。
すると、不可視の風刃は全て彼女を避けるように上方から床に向かって落ちていく。
それらは、まるで豪雨のように濃密に降り注いだ。
実際には風刃は高速で放たれているのだが、瞬間的に全ての軌道を見切ったラピリスには、それらがとてもゆっくりに見えた。
更に踏み込む。
前方及び後方からの風刃は着弾の誤差から生まれる隙間を縫う様に避けた。
目には映らない風の刃を避けるその様子は、まるで踊っているようであった。
(こいつを防いで次を避ける……)
目の前に迫っているだろう風の刃を刀でいなし、それと交差するように後方から迫まる風刃を頭を下げ、姿勢を低くして避けた。
前後から殺到する風刃は20と少し、上方から落ちてきたそれよりはやや少ない、前後からの挟撃とは言え、この程度であればラピリスに対応できるレベルであった。
ラピリスはもう一歩踏み込む…まだ遠い。
最後の風刃がラピリスに迫る。
1つは低く、ラピリスの足首ほどの高さで前から、1つは最初の風刃と逆にラピリスの首くらいの高さで後ろから、そして、正面から十字架のように交差した状態で迫る風刃であった。
厄介なことに最後は同時着弾であり、ラピリスでも対処に困るものであった。
だが、ラピリス自身は後ろに引く気は一切無かった…氷雨に対して後退すると言うこと自体が彼女の選択肢には無かったのだ。
(これで最後だ!)
ラピリスは床を蹴る。
身体を宙に投げ出し、姿勢を床と平行にする。
空中で身体を捻る。
両腕が傷つく可能性を減らすために、左手は刀を持ったまま自分の腰に絡め、右手は自分の胸元に添えている。
視線が廻り、床から一瞬だけ正面、そして天井の様子が瞳に入り込んできた。
「…♪」
「?!」
一瞬だけラピリスの目に映った氷雨の顔は、とても楽しそうに歪んでいた。
緑眼は初めて顔を合わせた時よりも、更に怪しく輝いている。
長い年月を過ごした吸血鬼は、一気に悪寒を覚える。
4つの風刃はまるで格子を作るように空中で交差する。
ラピリスはその間をすり抜け始める。
高音域の耳に刺さる音が聞こえた気がした。
危険範囲には入っていないのだが、それでも嫌な予感は拭えず、万が一も考え、片手に握った刀を動かそうとした。
一手遅い。
そう、氷雨が呟いた気がした。
氷雨が左手を振り下ろしたのは、その呟きが聞こえるか否かのタイミングであった。
(魔力感知!?)
そこには何も無かったはずだった。
物質的要因も魔術的要因も……ラピリスの感知能力では確認できなかった。
だからこそ回避経路として選んだ。
(位置は…真上、軌道は…落ちる、場所は…首)
しかし、またしても魔術が突如として出現した。
氷雨にはやはり魔術を使った様子は無い。
先程の動作にしても魔術の行使、魔力の流れは一切感知出来なかった。
(これは…最後の…)
10連撃の最後の一閃、それはラピリスを狙ったものではなかった。
この風術の出現位置が氷雨の斬撃軌道上からであるならば、最後の攻撃が明後日の方向に向けて放たれた意味に気がつけるはずであった。
(…一度やられたことをまたやられるとは…)
異様な術を目の前で見ておきながら、それを再び使われる可能性を考えなかったのは、ラピリスにしては珍しいのかもしれない。
(少し興奮しすぎた……か)
侵攻部隊迎撃戦や氷雨との立会いに、ラピリスは楽しくてしょうがなくなっていた。
それでも何とか頭を冷やす。
そうしないとこの状況は危険であった。
(まずはこれを何とか…)
彼女の刀速で以ってしても、刀での防御は僅かに間に合わない。
ならばどうするか…無理矢理にでも止めるだけである。
ラピリスは風刃に対し胸元に添えていた右手を突き出した。
その方が左手を振るうよりも遥かに早い。
右手に触れた風刃がラピリスの不健康な白い手を切り裂き、鮮血で真っ赤に染める。
彼女はその状態で風刃を掴んだ。
吸血鬼の血が飛び散り、不可視の風の刃を赤く染め上げる。
目に見えるようになった風の刃は三日月の様な形をしていた。
それはゆっくりとラピリスの右手を傷つけ続けていたのだが、それでも掴むのをやめない。
ラピリスの身体が風刃の格子を完全に抜けきった。
ラピリスは更に空中で身体を捻り、床に足から着地した。
「さあ、往くぞ!!!」
「!?」
次の瞬間、彼女の身体は跳ねた。
床のカーペットがそこだけ裂けてしまう程の、疾走の名が相応しい速さである。
狭い部屋の中ではこの速度に対応する事は難しい。
ラピリスは左手の刀を宙に放り、右手の風刃を引き抜く。
掌が縦に裂け、引き抜いたそばから出血が始まるがそんなものは構っていられない。
そのままの勢いで、やっとラピリスの突進に反応し始めた氷雨の顔面を左手で掴んだ。
風術の結界を抜けられ、即反撃に転じられては、氷雨には成す術は無い。
反応の遅れが彼女を床に転がす結果となった。
左手で顔を掴まれ、突進の勢いを受けて床に倒される。
そして、落下してきた刀を血濡れの右手で掴んで氷雨の首に押し当てた。
「……どうする?」
「どうするも何もありません、降参です」
氷雨の緑眼は先程の様な輝き方はしていなかった。
ラピリスも表情がいつもの無愛想なものに変わっていく。
つまりはこれで終わりだった。
スレイも、リシアも呆然としている。
フェリンだけは一度その身で体験している事なので2人の様にはならないが、それでも冷や汗は止まらなかった。
そして、氷雨が床に押し倒され、彼女が降参した所で3人の時間は動いたようだった。
「フェリン様…あれは何ですか?」
「…」
スレイが掠れた声でそう言うが、フェリンの反応は鈍かった。
「フェリン様、氷雨ちゃんが何をしたのか…教えてください」
「あ…ああ」
フェリンの時も動き出したようだった。
そして、年長のバフォメットは若いバフォメットの話を始めた。
「あやつの魔術は魔女にも劣る、これはさっきも話したな?」
「はい、ですが剣技は拝見する限り十分だと思います、なんならボクがもっと鍛えてもいいけどね」
「じゃが、氷雨の魔術には2つ例外があっての」
「2つ…ですか?」
ラピリスは立ち上がり、無言のまま氷雨に手を差し伸べた。
それは彼女なりに氷雨を認める気持ちの表れなのかも知れない。
氷雨の表情は肩まである髪の毛がぐちゃぐちゃに乱れて顔にかかっているせいでよく見えなかった。
ラピリスの手をとりゆっくりと立ち上がる氷雨の顔は少し悲しげだった。
立ち上がった氷雨にラピリスは何かを話し始めたが、小声であったため、とてもではないが聞こえない。
2人を横目で見つつ、フェリンは話を続けた。
「あいつは風術はわしにも劣らない、他がからっきし駄目なのにコレだけできると言うのも変な話なのだがな」
「確かにあれは面白い使い方だったと思います」
魔法剣という技法自体が下火になっている昨今においては珍しい使い手であった。
と、いうのも剣に魔法を付加するくらいなら相手に放ったほうがいい、と言う場面の方が多かったと言うのがある。
もう1つには魔術と剣技をどちらも最大限に鍛え上げなければ実用レベルに成り得なかった、という経緯があった。
「もう1つあいつが得意だったのが『魔力隠蔽術』じゃ」
「?、聞いた事が無い術ですね」
「ボクも聞いた事が無い……」
リシアもスレイも聞き慣れない単語に首を傾げた。
フェリンは説明するのが難しそうな顔をする。
「ん〜なんと言うべきか…魔力を制御・隠蔽する事で魔力や魔術を相手に察知させない技法じゃな」
「…それはいわゆる隠蔽術式の事では無いのですか?」
フェリンの説明にリシアが異論を唱えた。
確かに、氷雨に限らずとも人化の魔術を使う魔物は皆、魔物が持つ多量の魔力で察知されないように、魔力を隠す隠蔽術式を用いている。
「それは確かにそうなのじゃが、氷雨の『魔力隠蔽術』はわしらが使う隠蔽術式とは異なるものだと考えたほうがよい」
「と言いますと?」
「わしらの隠蔽術式は体内から漏れ出す魔力に蓋をするイメージじゃ」
イメージとしては臭いが上がって来る樽に上から蓋をする感じだ、フェリンはそう言い、更に続けた。
「氷雨の『魔力隠蔽術』は漏れ出す魔力自体を改竄して、魔力として認識させないようにする……つまり、樽に蓋をするのではなく、臭い自体を変えてしまうのじゃ」
今までそれなりに長く生きてきた2人ではあったが、そんなものは聞いた事が無かった。
「それに、氷雨の『魔力隠蔽術』は本人だけでなく、放った魔術をも隠蔽させることが出来る」
「何の物理・魔術的要因の無い空間に、いきなり魔術を出現させた様に見えたあれがそうか……」
「うむ、じゃが実際のところ、そこには魔術が存在していたのじゃ、意図的に待機状態にしておいたようじゃがな」
それに…とフェリンは続けた。
「氷雨の風術はその気になれば肉眼で捉えられない様に打ち出すことも出来る…先程の風術はそれじゃな」
「…魔力を認識できるならば、感知できるが…それすらも『魔力隠蔽術』でもってギリギリまで隠しておける…という事か…」
「その通りじゃ……」
「しかし、発動させた魔術を隠蔽させる際にも一切魔術を関知させないとは…」
リシアは感じた疑問をフェリンに問う。
どちらかというと魔術偏重型の戦闘スタイルであるリシアは、氷雨の魔法剣と魔術の併用という戦闘スタイルが気になって仕方なかったのだった。
それを知っているバフォメットも快く答えた。
「だからこそ、氷雨は魔法剣を使い、その軌道上で魔術を発動させ、即座に隠蔽したんじゃ」
「魔法剣を振るいながら、その斬撃軌道上で魔術を発動させ、魔法剣が放っている魔力でそれを誤魔化しながら隠蔽する…ですか…氷雨ちゃんって本当に反魔物領で生活していたんですか?」
「…本人から少しだけ話を聞いたが、どうやら父親の指南のようではあるな…」
フェリンが2人に説明を終えた頃合で、氷雨とラピリスが3人の前まで戻ってきた。
ラピリスの右手は袖口から肘にかけては真っ赤であるが、傷自体は既に消えていた。
吸血鬼の肉体再生能力は相変わらずだ、そうスレイは言葉を漏らした。
そして、ラピリスはどこか満足げに3人の前に立った。
だが、ラピリスの隣に立っている氷雨の様子は妙だった。
唇を噛み締め、手を硬く握り、何かのきっかけで一気に崩れてしまいそうな、そんな表情をしている。
立ち上がった時からそうだったのかもしれないし、ラピリスに小声で何か言われた時からなのかもしれないが、フェリンには分からなかった。
フェリンはそんな様子の氷雨を心配し、目の前まで近寄り声をかけた。
「氷雨……頑張ったな…」
きっかけはあっさりと与えられた。
フェリンの優しい言葉……それを聴いた瞬間、氷雨の何かが決壊した。
「申し訳ございません…フェ…リン様……私…期……待……こ……え…ウッ…グスッ……」
聞き取れたのは最初だけ、あっという間に言葉が音として聞き取れなくなっていく。
そんな、徐々に嗚咽が混じる氷雨の声でフェリンは動いた。
フワリと…氷雨はフェリンに抱きしめられる。
フワフワの毛が氷雨の身体をくすぐった。
緑眼から止め処なく溢れる涙はフェリンの体毛を徐々に濡らしていく。
「…あ…」
「泣く事は無いじゃろう…この泣き虫め」
「ごめんなさい…ヒック……私…フェリン様に……グシュ……見捨てられたら……行くところなんて……エグッ…」
「……そうじゃったな…」
両親とは死に別れ、反魔物領から逃げ出してきたのだから、行くところなどあるわけが無かった。
それはフェリンが氷雨を手元におきたいと思った理由の一端でもあった。
氷雨を抱きしめたまま、フェリンは首だけラピリス向けて、彼女に問いかけた。
「どうじゃ、ラピリス…氷雨はわしの弟子として相応しいと思うか?」
「……剣技も魔術も鍛えれば光るかもしれん……現状では次第点…赤点ギリギリといったところだ」
明後日の方向を見ながら、ラピリスはそう答えた。
回りくどい言い方をしているが、フェリンはそれだけで十分だった。
「氷雨…お前は今日から、わしの弟子じゃ…よろしく頼むぞ」
「……!!……はいっ」
そして、氷雨に優しく声をかける。
氷雨は最初は驚いた顔で…間も無く嬉しさ一杯の顔で、返事をした。
「こら、氷雨、泣きながら笑うな!、気味が悪いぞ」
「はいっ!!、これから頑張ります!!」
ずれた返事をしながらも、氷雨はフェリンに力いっぱい抱きついた。
その様子を見ていたスレイは口元だけで笑い、リシアは間も無く氷雨に祝福するために飛び掛り、ラピリスは黙って部屋を出て行くのだが、
肝心の氷雨はラピリスに…そして誰よりもフェリンに此処に居る事を認めて貰えた事、それだけで頭が一杯であった。
この日、魔王軍に1人のバフォメットが加わった。
間も無く、フェリンが歓迎会と称して人を集め、乱交騒ぎを引き起こすのだが、それは別の話。
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氷雨という名のバフォメットはフェリンの弟子として、やがてはフェリンの右腕として、方々で名前を知られる事となる。
だが、それはまだまだ先の話であった。
無論、この時点でそれを知る者はいない。
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―これはなんというか―
少女は1人考えた。
―会議資料だから会議の内容を残したんだろうけど、戦果報告よりもその後の騒動のほうが時間かかってるじゃん―
昔からこの大陸の魔王軍はこんな状態だったのかと、少女は頭を抱えた。
―でも…もうすぐ終わり―
そう、少女が知りたいのはこの大陸での反魔物派・新魔物派の争いの決着までである。
こうやって過去の軌跡を辿るのも、あと少しであった。
―次は…あれ…この人の名前、どこかで―
少女は前に読んだ記述にあった名前を再び見つけた。
それは久しぶりに目にしたが、少女の記憶にはしっかりと残っていた。
その名前は……
11/12/15 11:32更新 / 月影
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