王子の選択肢
「ふ〜……なんとか抜け出せた……」
俺は衛兵たちが見張る門をなんとか突破することに成功したことに安堵の声を出して、抱えていた緊張感を解こすように息を漏らした。
「しっかし、意外とばれないものなんだな……この格好……」
後ろの今まで自分が暮らしていた城と今、俺が立っている城下を分ける門を振り返り、自分が城から抜け出せたことに安心感を覚え、心に余裕を持てたことで俺は今の自分がしている服装を自分で見回して思わず、控えめとは言え笑ってしまった。
なぜなら、今の俺の服装は侍女達が普段着ている城に仕える身として恥ずかしくない様になるべく品質のいい緑色の布地に白いエプロンをかけた給人服を着ている。つまりは女装しており、兵士や城内の人々は俺の女装にまんまと騙されたのだ。そのことに俺はおかしくて仕方ないのだ。
まあ、俺の身分のおかげで顔を余り知られていないことやまだ成長期を迎えていなくて男女の違いがはっきりと表れていないことや母に似た顔立ちをしていることもあって、ばれなかったのだろう。
だから……父上は俺のことを嫌っているんだろうな……
俺は自分が亡き母の生き写しとも言える顔に手を当ててつい、物思いに耽ってしまった。
前王妃であった亡き母によく似て、この国の王である俺の父は俺のことを嫌っている。
まだ、母が生きていた頃から王妃である母に対して、父が良い感情を抱いておらず、母のことを面白く思っていなかったことは幼かった当時の俺ですら察することができた。
母は主神教団の有力国の名門貴族出身で非常に教養深くて気品に満ち溢れ、美しい女性であった。何よりも母は貴族出身とは言え、人を身分の上下泣く対等に扱い、この国の王である父に対しても間違いがあれば物申す気概に溢れた人であった。
けれど、そんな母のことを父は煙たがっていた。この国は母の国と比べると田舎らしく、父は軍事力を強大化して近隣諸国を制圧していくばかりで母は父とこの国のそう言った行いを非難していたが、父は育ちの良い母の考えを毛嫌いした。元々、母と父の結婚は力を強めていく新興国であったこの国の国力に目を付けた母の出身国がパイプを作りたかったことと余り生まれや血統が好ましくない父がこの国の王室に神聖さを求めたかったことで成立したものだ。そこに愛など存在していないことは理解できていた。
そして、その母への嫌悪は母が亡くなると母に懐き、母の教育方針を受けていた俺に向けられるようになっていき、父は母が死んでから即座に新しい王妃を迎え、その新しい王妃に子供が生まれると俺を廃嫡しようと何度も工作を仕向けてきた。
巷では母は父に殺されたのではと言う噂すらあるほど、父は俺達、母子を憎んでいる。
俺が城から出たのは、そんな場所にいたらいつかと殺されると考えて、先手を打って逃げただけだ。
俺は父が大嫌いだ。
それは父が俺を憎んでいることもあるが、何よりも母がどれだけ憎まれても父を愛していたのに父はその愛を無下にしたからだ。
母がなぜ父に嫌われたり憎まれても父に忠言し続けたと言うと、それは父を愛していたからだ。父は力に溺れ、家臣や民は父を恐れ、誰も父に反対せず、父のもたらす暴虐によって生まれた悦楽のお零れに与かろうとする。けれど、母はそれでは父がいつか、独りになってしまうと悲しんだ。
父は母に対して、常に暴行を働いてきた。父と母が臥所を共にすると朝になって母が帰って来ると痣を身体中に作っていた。
フリード、いい?私は悲しいの。あの人がいつか王でなくなった時に誰もあの人のために泣かないことが……
俺が母のそんな姿を見て、いつも涙を浮かべて「どうして、母様は父様を許すの!?」と訊くと、常に母は父への祈りを込めてそう言っていた。
どこまでも母は父を愛していた。その献身が報われることなくともどこまでも愛していた。
でも、俺は母の愛を無下にした父に対して、母の様な広い心を持つことはできない。
そして、何よりも俺が城を抜け出しても生きようとするのは母が唯一、この世に残すことができた俺と言う存在が何も残さないで死ぬことなどできない。だから、俺は城を出ようと思ったのだ。
「と言っても……城から抜け出したとしてもその後はどうすればいいんだ……」
母の思い出を振り返り終わると俺は現実に目を戻し、これからの自分の身の振り方を考えた。
今の俺は身辺検査を突破して衛兵に怪しまれない様に金目の品も持たず、少しの額しかお金を持っていない。しかも、今の俺は女の服を着ており実はあまり落ち着かない。
王室にいても生命の保障がないかもしれないが、白から抜けだした後に野垂れ死になどしては元も子もない。
と言っても、たかが十歳の子供、しかも、女装している世間知らずの王子様が一般人として、どうやって生きていけばいいのだろうか。
「……やっぱり、ここは音楽院に行くしかないのか……」
俺が悩みに悩んで考え抜いて見つけた模索した答えは孤児院を兼ねている音楽院に行くことであった。
教団国家では行き先のない孤児をオペラで歌う歌手として育てる音楽院と言う公共施設が存在する。そこでは厳しい稽古を施して、一流の歌い手を輩出することもある。
一見すると慈善事業にも思えるが、そこで大成する孤児など極少数だ。大人になれば、音楽院から追い出され、普通に生きる知識も力もない彼らの多くは兵士になるか、娼婦になるか、男娼になることでしか生きていけない。結局は死を先延ばしにすることぐらいしかできないのだ。
昔、母に連れられて母の故郷で有名なオペラ歌手の出演するオペラを観に行ったことがある。
その歌手の声はまさに天から授けられた至高の宝物とも思えるほど美しかった。あらゆる楽器と音比べをしてもあの声に勝るものはないと思えたほどであった。だけど、その歌声を聴いた俺が感じたのは悲しみでもあった。
そして、それは隣で聴いていた母も俺と同じ涙を流していた。
俺があの声を聴いて悲しみ感じたのは生きるための切実さとあの声の持ち主の歌への情熱からなのだろう。上演が終わった後に母に聞かされたあの男でありながら天上すら震わせるであろう高い音程を発するオペラ歌手の歩んできた道を俺はあの声を耳に入れた時から感じていたのだろう。
俺の年齢は十歳だ。仮令、音楽院に入れたとしてもあの歌手と同じ道を辿ることは容易に想像できる。
「生きるためとは言え……流石にそれだけは嫌だ……」
俺の考えがとんでもないワガママで甘いものだとは理解している。
王族でしかない自分が民の1人として生きていくと言うことはそうでしか生きていけないと言うことなのだ。
けれども、やはりこの母にもらったからだと生命で母に顔向けできないことはしたくないのだ。
王宮にいても、外の世界にいても、結局俺の居場所などないのだ。
今や、宮廷には俺の継母である現王妃を父へのご機嫌取りのために支持する者ばかりで俺に忠誠を誓う臣下などいない。母はこの生前、この国の軍事力をいいことに腐敗していく朝廷を少しでも改善しようとしたが、そんな母のことを臣下達は快く思わず、やはりその憎悪は息子である俺に向けられている。
どちらにしても、俺に未来などない。なら、僅かでも生き残れる道がある王宮の外に出るしかなかったのだ。
言っておくが、俺は母は間違っていたとは思わないし母のことを憎くも思わない。むしろ、母の気高さに誇りを抱いている。
「だけど、どちらにしても明日からの生活を考えないと……」
馬鹿な俺は自らの行動が無謀だと理解しながらも外に出たのだ。そして、今は生きるための方針を考えている。
―ガシャガシャ―
「……ん?」
俺がしばらく悩んでいるとどこからか金属が揺れて重なることで生まれた鎧の音が響いてきた。
「おい、見つかったか!?」
「いや、全く……」
「ちっ……!何としてでも見つけろ!!」
「はっ……!!」
「……!?」
音がした方を振り向くと、そこには城の兵士達がいた。兵士達は声を荒らしながら少し息を切らし、何かを捜している様であった。
ま、マズイ……!
俺は兵士達を見て、焦りを顔に浮かべながらもなるべく彼らに気づかれない様にゆっくりと動揺を隠して俺は彼らに背を向けて見つからない様に人気の無い裏路地へと足を向けた。
恐らく、彼らは俺が城から抜け出したことに気づいて、俺を連れ戻しに来たのだろう。
だとするとマズイ。ただでさえ、一国の王子が城から抜け出しただけでも問題なのだが、俺の場合はさらに事情がマズイ。王子がそんな不祥事を犯した時点で辺境への蟄居などが当然の処分だが、俺の場合は父や重臣、継母などの政敵が多く、宮中には味方が誰もいないことからこれを口実に死罪になりかねない。仮に命拾いしたとしても、蟄居先での命の保障はない。
だから、捕まる訳にはいかなかった。
俺は兵士がうろついているであろう表の通りではなく、建物と建物が身を押しつけられてるかのように密集している隙間にできた薄暗い路地裏を選んだ。
この際、治安や衛星の悪さなど気にしている暇などない。
―グチャ―
―グチャ―
―グチャ―
裏路地を懸命に走る中で感じたのは日が差し込まないことで蔓延しているジメッとした空気と何かが腐ったかのような臭い、肌に染みついてくる湿気、色あせたレンガ、足から伝わる泥のような何かの感触。
ここが長らく、整備されて来なかったことを物語る人間が感じ取れるものとしては最悪なものばかりだ。ここが王都にも関わらず。
そして、
「うぅ……」
「……っ!」
トドメとばかりに耳にそんな暗い世界の中で生きる住人達の声が入ってきた。
「……お嬢さん……どうか……お恵みを……」
「お願いします……」
「……子供は……もう何日も……」
「ひっ……!?」
この辺りで唯一、しっかりと肉が付き、服も使用人の服とは言え、城に仕えている者の作業服と言うことから綺麗なことから、お金を持っているのかと思ったのか、周囲のもう何日も食事を摂っていないのか、手足はやせ細り、服はボロボロで髪はボサボサで土気色一歩手前の肌をした人々が俺に施しを求めてきた。
次第に集まってくるその幽鬼に似た人々に恐れを感じた俺はさっきよりも転ぶことを構いもせずに足を速めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
俺は助けを求める人々の声をこれ以上、耳に入れまいと耳を塞ぎ、何もできない悔しさと僅かとは言え、お金があるのに恥も外聞も捨てて俺に助けを求める人々の手を振り払ったことに自噴と自責の念を抱きながら、俺は意味のない謝罪を何度も何度も呟き続けながら走り続けた。
この地獄にいたら、心が狂いそうになる気がしたのだ。
そんな俺のことを「ろくでなし」、「人でなし」、「悪魔」、「守銭奴」、「欲張り」と糾弾するかのように俺の両手を通り抜けて来る雑音。本当は存在しないかもしれない言葉。けれど、今の俺には小さな音すらも俺を糾弾するかの様な罵倒に聞こえてきた。
「はあはあ……」
ようやく、日が身体に当たり、地獄を抜け出したことを理解した俺は呼吸を整えながら立ち止まった。
「何やってんだろう……俺……」
呼吸が落ち着いて来て感じたのは後悔と無力感だった。
その原因は自分の命のためだけに城を抜け出したことに対してだった。
俺はこの国の王子だ。非力とは言え、もしかするとこの国を変えることができる可能性があったのにも関わらず、俺は逃げ出してしまったのだ。
あの俺に助けを求めてきた人々はこの国の政治の犠牲者だ。
俺は臣下を粛清して暴君になってでも彼らを救うべきだったのだ。それは古の多くの暴君と言われた君主がしてきた過ちだ。しかし、そうでもしなければこの国の未来はない。俺の手が血に濡れて悪名が後世に伝わる程度のことだけなのに俺は彼らを見捨てたのだ。
今、この国は周辺諸国を力で攻め潰し、その領土と人民を奪い取る政策を取っている。しかし、戦争をするにはかなりの費用が必要となり、その皺寄せが国民に来る。先ほどの人々はそう言った重税によって家や生活を失った者達だ。
父は周辺諸国を滅ぼした後にその領土と国民を従わせて、その人口力で経済を建て直そうとしているが、それは大きな過ちである。
力で無理矢理従わせられた他国の人々は我々を憎み、素直に従うはずがない。それどころか、手にした領土に反乱が起きる可能性も高く、それを防ぐには治安維持の兵を常駐させる必要があり、兵力は分散し、さらにはその維持費は莫大なものに変わり、結局は国の財政を圧迫することになってしまう。
そして、先ほどの人々はこの国の未来の縮図だ。
何よりも問題なのはこの国の人々の思考回路だ。彼らは自らの国家が連戦連勝する度にそれを自らの力だと過信する様になり、敗者である敵国の人々を見下し、彼らを奴隷にすることに迷いを感じることがなくなり驕ることになる。あの苦しんでいる人々はこの国に負けた国の人々も多くおり、彼らは土地を奪われてこの国に職を求めに来たのだ。
「母様、ごめんなさい……俺は……」
俺は亡き母に己の不甲斐無さを詫びた。
母はいつも、父に殴られながらも「真の政道」を説いていた。
それはただの綺麗事で理想論なのかもしれない。
けれど、母は俺にいつも
仮令、現実が厳しいものであっても理想を忘れてはダメ。
どれだけ、この世の中が穢れていても自分の心までそれに染まってはいけないの。
現実が穢いのなら、自分が清水となって少しでもその濁りを薄くしなくてはいけないの。
不満を漏らすぐらいなら、自分で周りを変えていくことをしていきなさい。
父に殴られた母の姿を見て、泣いていると母は俺の不安を少しでも取り除こうと優しく抱きしめながらそう語った。
母は気高い人だった。周囲に味方がおらず、どれだけ正論を叫んでも声が届くことがないにもかかわらず、それでも母は父に訴えていた。
俺は母の決して口先だけではない暴力を奮われても退くこともなく、徒党を組んで強くなった気にはならず、正論を吐いたことで悦に浸ることもなく、相手を貶すのでもなく、世を憎むことのない強さと美しさが大好きだった。
母こそ、どんな勇者よりも立派な勇者だったのだ。
それなのに俺は逃げ出した。
誰よりも母の強さを近くで見ながらも逃げ出した。
母が救おうと願った人々を見捨てて、俺は逃げ出したのだ。
俺は決して自分が何でもできると自惚れている訳ではない。
けれど、俺は母が確かに教えてくれた何よりも尊い生き方すらも捨てて逃げたのだ。
母の息子として生まれ、この国の王子として生まれ、それしかない「務め」すら捨てて逃げたのだ。
それは母の勇気を無駄にすることに他ならないと言うことであるのに。
「ヒグっ……!グス……!」
優しくて美しく強かった母との思い出を思い出し俺は涙を流した。母がいなくなってから心を許せる人間がいないことから、俺は母の思い出を思い出す度にその思い出に浸りながら女々しくもないてしまう。
―ガバッ!―
「……!?」
だが、そんな母との思い出に浸ると言う俺の唯一の幸せすらも現実は許してくれず、俺はこの国が抱く闇へと引き摺り込まれた。
俺は衛兵たちが見張る門をなんとか突破することに成功したことに安堵の声を出して、抱えていた緊張感を解こすように息を漏らした。
「しっかし、意外とばれないものなんだな……この格好……」
後ろの今まで自分が暮らしていた城と今、俺が立っている城下を分ける門を振り返り、自分が城から抜け出せたことに安心感を覚え、心に余裕を持てたことで俺は今の自分がしている服装を自分で見回して思わず、控えめとは言え笑ってしまった。
なぜなら、今の俺の服装は侍女達が普段着ている城に仕える身として恥ずかしくない様になるべく品質のいい緑色の布地に白いエプロンをかけた給人服を着ている。つまりは女装しており、兵士や城内の人々は俺の女装にまんまと騙されたのだ。そのことに俺はおかしくて仕方ないのだ。
まあ、俺の身分のおかげで顔を余り知られていないことやまだ成長期を迎えていなくて男女の違いがはっきりと表れていないことや母に似た顔立ちをしていることもあって、ばれなかったのだろう。
だから……父上は俺のことを嫌っているんだろうな……
俺は自分が亡き母の生き写しとも言える顔に手を当ててつい、物思いに耽ってしまった。
前王妃であった亡き母によく似て、この国の王である俺の父は俺のことを嫌っている。
まだ、母が生きていた頃から王妃である母に対して、父が良い感情を抱いておらず、母のことを面白く思っていなかったことは幼かった当時の俺ですら察することができた。
母は主神教団の有力国の名門貴族出身で非常に教養深くて気品に満ち溢れ、美しい女性であった。何よりも母は貴族出身とは言え、人を身分の上下泣く対等に扱い、この国の王である父に対しても間違いがあれば物申す気概に溢れた人であった。
けれど、そんな母のことを父は煙たがっていた。この国は母の国と比べると田舎らしく、父は軍事力を強大化して近隣諸国を制圧していくばかりで母は父とこの国のそう言った行いを非難していたが、父は育ちの良い母の考えを毛嫌いした。元々、母と父の結婚は力を強めていく新興国であったこの国の国力に目を付けた母の出身国がパイプを作りたかったことと余り生まれや血統が好ましくない父がこの国の王室に神聖さを求めたかったことで成立したものだ。そこに愛など存在していないことは理解できていた。
そして、その母への嫌悪は母が亡くなると母に懐き、母の教育方針を受けていた俺に向けられるようになっていき、父は母が死んでから即座に新しい王妃を迎え、その新しい王妃に子供が生まれると俺を廃嫡しようと何度も工作を仕向けてきた。
巷では母は父に殺されたのではと言う噂すらあるほど、父は俺達、母子を憎んでいる。
俺が城から出たのは、そんな場所にいたらいつかと殺されると考えて、先手を打って逃げただけだ。
俺は父が大嫌いだ。
それは父が俺を憎んでいることもあるが、何よりも母がどれだけ憎まれても父を愛していたのに父はその愛を無下にしたからだ。
母がなぜ父に嫌われたり憎まれても父に忠言し続けたと言うと、それは父を愛していたからだ。父は力に溺れ、家臣や民は父を恐れ、誰も父に反対せず、父のもたらす暴虐によって生まれた悦楽のお零れに与かろうとする。けれど、母はそれでは父がいつか、独りになってしまうと悲しんだ。
父は母に対して、常に暴行を働いてきた。父と母が臥所を共にすると朝になって母が帰って来ると痣を身体中に作っていた。
フリード、いい?私は悲しいの。あの人がいつか王でなくなった時に誰もあの人のために泣かないことが……
俺が母のそんな姿を見て、いつも涙を浮かべて「どうして、母様は父様を許すの!?」と訊くと、常に母は父への祈りを込めてそう言っていた。
どこまでも母は父を愛していた。その献身が報われることなくともどこまでも愛していた。
でも、俺は母の愛を無下にした父に対して、母の様な広い心を持つことはできない。
そして、何よりも俺が城を抜け出しても生きようとするのは母が唯一、この世に残すことができた俺と言う存在が何も残さないで死ぬことなどできない。だから、俺は城を出ようと思ったのだ。
「と言っても……城から抜け出したとしてもその後はどうすればいいんだ……」
母の思い出を振り返り終わると俺は現実に目を戻し、これからの自分の身の振り方を考えた。
今の俺は身辺検査を突破して衛兵に怪しまれない様に金目の品も持たず、少しの額しかお金を持っていない。しかも、今の俺は女の服を着ており実はあまり落ち着かない。
王室にいても生命の保障がないかもしれないが、白から抜けだした後に野垂れ死になどしては元も子もない。
と言っても、たかが十歳の子供、しかも、女装している世間知らずの王子様が一般人として、どうやって生きていけばいいのだろうか。
「……やっぱり、ここは音楽院に行くしかないのか……」
俺が悩みに悩んで考え抜いて見つけた模索した答えは孤児院を兼ねている音楽院に行くことであった。
教団国家では行き先のない孤児をオペラで歌う歌手として育てる音楽院と言う公共施設が存在する。そこでは厳しい稽古を施して、一流の歌い手を輩出することもある。
一見すると慈善事業にも思えるが、そこで大成する孤児など極少数だ。大人になれば、音楽院から追い出され、普通に生きる知識も力もない彼らの多くは兵士になるか、娼婦になるか、男娼になることでしか生きていけない。結局は死を先延ばしにすることぐらいしかできないのだ。
昔、母に連れられて母の故郷で有名なオペラ歌手の出演するオペラを観に行ったことがある。
その歌手の声はまさに天から授けられた至高の宝物とも思えるほど美しかった。あらゆる楽器と音比べをしてもあの声に勝るものはないと思えたほどであった。だけど、その歌声を聴いた俺が感じたのは悲しみでもあった。
そして、それは隣で聴いていた母も俺と同じ涙を流していた。
俺があの声を聴いて悲しみ感じたのは生きるための切実さとあの声の持ち主の歌への情熱からなのだろう。上演が終わった後に母に聞かされたあの男でありながら天上すら震わせるであろう高い音程を発するオペラ歌手の歩んできた道を俺はあの声を耳に入れた時から感じていたのだろう。
俺の年齢は十歳だ。仮令、音楽院に入れたとしてもあの歌手と同じ道を辿ることは容易に想像できる。
「生きるためとは言え……流石にそれだけは嫌だ……」
俺の考えがとんでもないワガママで甘いものだとは理解している。
王族でしかない自分が民の1人として生きていくと言うことはそうでしか生きていけないと言うことなのだ。
けれども、やはりこの母にもらったからだと生命で母に顔向けできないことはしたくないのだ。
王宮にいても、外の世界にいても、結局俺の居場所などないのだ。
今や、宮廷には俺の継母である現王妃を父へのご機嫌取りのために支持する者ばかりで俺に忠誠を誓う臣下などいない。母はこの生前、この国の軍事力をいいことに腐敗していく朝廷を少しでも改善しようとしたが、そんな母のことを臣下達は快く思わず、やはりその憎悪は息子である俺に向けられている。
どちらにしても、俺に未来などない。なら、僅かでも生き残れる道がある王宮の外に出るしかなかったのだ。
言っておくが、俺は母は間違っていたとは思わないし母のことを憎くも思わない。むしろ、母の気高さに誇りを抱いている。
「だけど、どちらにしても明日からの生活を考えないと……」
馬鹿な俺は自らの行動が無謀だと理解しながらも外に出たのだ。そして、今は生きるための方針を考えている。
―ガシャガシャ―
「……ん?」
俺がしばらく悩んでいるとどこからか金属が揺れて重なることで生まれた鎧の音が響いてきた。
「おい、見つかったか!?」
「いや、全く……」
「ちっ……!何としてでも見つけろ!!」
「はっ……!!」
「……!?」
音がした方を振り向くと、そこには城の兵士達がいた。兵士達は声を荒らしながら少し息を切らし、何かを捜している様であった。
ま、マズイ……!
俺は兵士達を見て、焦りを顔に浮かべながらもなるべく彼らに気づかれない様にゆっくりと動揺を隠して俺は彼らに背を向けて見つからない様に人気の無い裏路地へと足を向けた。
恐らく、彼らは俺が城から抜け出したことに気づいて、俺を連れ戻しに来たのだろう。
だとするとマズイ。ただでさえ、一国の王子が城から抜け出しただけでも問題なのだが、俺の場合はさらに事情がマズイ。王子がそんな不祥事を犯した時点で辺境への蟄居などが当然の処分だが、俺の場合は父や重臣、継母などの政敵が多く、宮中には味方が誰もいないことからこれを口実に死罪になりかねない。仮に命拾いしたとしても、蟄居先での命の保障はない。
だから、捕まる訳にはいかなかった。
俺は兵士がうろついているであろう表の通りではなく、建物と建物が身を押しつけられてるかのように密集している隙間にできた薄暗い路地裏を選んだ。
この際、治安や衛星の悪さなど気にしている暇などない。
―グチャ―
―グチャ―
―グチャ―
裏路地を懸命に走る中で感じたのは日が差し込まないことで蔓延しているジメッとした空気と何かが腐ったかのような臭い、肌に染みついてくる湿気、色あせたレンガ、足から伝わる泥のような何かの感触。
ここが長らく、整備されて来なかったことを物語る人間が感じ取れるものとしては最悪なものばかりだ。ここが王都にも関わらず。
そして、
「うぅ……」
「……っ!」
トドメとばかりに耳にそんな暗い世界の中で生きる住人達の声が入ってきた。
「……お嬢さん……どうか……お恵みを……」
「お願いします……」
「……子供は……もう何日も……」
「ひっ……!?」
この辺りで唯一、しっかりと肉が付き、服も使用人の服とは言え、城に仕えている者の作業服と言うことから綺麗なことから、お金を持っているのかと思ったのか、周囲のもう何日も食事を摂っていないのか、手足はやせ細り、服はボロボロで髪はボサボサで土気色一歩手前の肌をした人々が俺に施しを求めてきた。
次第に集まってくるその幽鬼に似た人々に恐れを感じた俺はさっきよりも転ぶことを構いもせずに足を速めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
俺は助けを求める人々の声をこれ以上、耳に入れまいと耳を塞ぎ、何もできない悔しさと僅かとは言え、お金があるのに恥も外聞も捨てて俺に助けを求める人々の手を振り払ったことに自噴と自責の念を抱きながら、俺は意味のない謝罪を何度も何度も呟き続けながら走り続けた。
この地獄にいたら、心が狂いそうになる気がしたのだ。
そんな俺のことを「ろくでなし」、「人でなし」、「悪魔」、「守銭奴」、「欲張り」と糾弾するかのように俺の両手を通り抜けて来る雑音。本当は存在しないかもしれない言葉。けれど、今の俺には小さな音すらも俺を糾弾するかの様な罵倒に聞こえてきた。
「はあはあ……」
ようやく、日が身体に当たり、地獄を抜け出したことを理解した俺は呼吸を整えながら立ち止まった。
「何やってんだろう……俺……」
呼吸が落ち着いて来て感じたのは後悔と無力感だった。
その原因は自分の命のためだけに城を抜け出したことに対してだった。
俺はこの国の王子だ。非力とは言え、もしかするとこの国を変えることができる可能性があったのにも関わらず、俺は逃げ出してしまったのだ。
あの俺に助けを求めてきた人々はこの国の政治の犠牲者だ。
俺は臣下を粛清して暴君になってでも彼らを救うべきだったのだ。それは古の多くの暴君と言われた君主がしてきた過ちだ。しかし、そうでもしなければこの国の未来はない。俺の手が血に濡れて悪名が後世に伝わる程度のことだけなのに俺は彼らを見捨てたのだ。
今、この国は周辺諸国を力で攻め潰し、その領土と人民を奪い取る政策を取っている。しかし、戦争をするにはかなりの費用が必要となり、その皺寄せが国民に来る。先ほどの人々はそう言った重税によって家や生活を失った者達だ。
父は周辺諸国を滅ぼした後にその領土と国民を従わせて、その人口力で経済を建て直そうとしているが、それは大きな過ちである。
力で無理矢理従わせられた他国の人々は我々を憎み、素直に従うはずがない。それどころか、手にした領土に反乱が起きる可能性も高く、それを防ぐには治安維持の兵を常駐させる必要があり、兵力は分散し、さらにはその維持費は莫大なものに変わり、結局は国の財政を圧迫することになってしまう。
そして、先ほどの人々はこの国の未来の縮図だ。
何よりも問題なのはこの国の人々の思考回路だ。彼らは自らの国家が連戦連勝する度にそれを自らの力だと過信する様になり、敗者である敵国の人々を見下し、彼らを奴隷にすることに迷いを感じることがなくなり驕ることになる。あの苦しんでいる人々はこの国に負けた国の人々も多くおり、彼らは土地を奪われてこの国に職を求めに来たのだ。
「母様、ごめんなさい……俺は……」
俺は亡き母に己の不甲斐無さを詫びた。
母はいつも、父に殴られながらも「真の政道」を説いていた。
それはただの綺麗事で理想論なのかもしれない。
けれど、母は俺にいつも
仮令、現実が厳しいものであっても理想を忘れてはダメ。
どれだけ、この世の中が穢れていても自分の心までそれに染まってはいけないの。
現実が穢いのなら、自分が清水となって少しでもその濁りを薄くしなくてはいけないの。
不満を漏らすぐらいなら、自分で周りを変えていくことをしていきなさい。
父に殴られた母の姿を見て、泣いていると母は俺の不安を少しでも取り除こうと優しく抱きしめながらそう語った。
母は気高い人だった。周囲に味方がおらず、どれだけ正論を叫んでも声が届くことがないにもかかわらず、それでも母は父に訴えていた。
俺は母の決して口先だけではない暴力を奮われても退くこともなく、徒党を組んで強くなった気にはならず、正論を吐いたことで悦に浸ることもなく、相手を貶すのでもなく、世を憎むことのない強さと美しさが大好きだった。
母こそ、どんな勇者よりも立派な勇者だったのだ。
それなのに俺は逃げ出した。
誰よりも母の強さを近くで見ながらも逃げ出した。
母が救おうと願った人々を見捨てて、俺は逃げ出したのだ。
俺は決して自分が何でもできると自惚れている訳ではない。
けれど、俺は母が確かに教えてくれた何よりも尊い生き方すらも捨てて逃げたのだ。
母の息子として生まれ、この国の王子として生まれ、それしかない「務め」すら捨てて逃げたのだ。
それは母の勇気を無駄にすることに他ならないと言うことであるのに。
「ヒグっ……!グス……!」
優しくて美しく強かった母との思い出を思い出し俺は涙を流した。母がいなくなってから心を許せる人間がいないことから、俺は母の思い出を思い出す度にその思い出に浸りながら女々しくもないてしまう。
―ガバッ!―
「……!?」
だが、そんな母との思い出に浸ると言う俺の唯一の幸せすらも現実は許してくれず、俺はこの国が抱く闇へと引き摺り込まれた。
15/06/11 20:14更新 / 秩序ある混沌
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