第一話:ありがとう
「あなた。あなた」
「ん……?」
肘置きがあり、普通の椅子よりも座高が低く座椅子との中間ぐらいの背もたれの傾度をレバーで調節できる二万円で購入した座ると楽になる椅子に腰かけ、ちょうど座椅子に座っていると物を置くと快適なテーブルの上に趣味の読書のために本棚から本を5冊積んで、大窓を空けてそよ風を感じながら読書をしていると僕のことを呼ぶ愛おしい声が聞こえてきた
僕はその声に導かれるままに背もたれから少し背を離しその声の主を目に入れることで生まれるいつも感じるささやかな幸せを求めて辺りを見回すと
「もう、先ほどから呼んでいるのに……」
椅子に座っている僕のことをまるで世話のかかる子供を見て、怒らずに窘めてお説教をする様に両手を腰に持っていき、いつもの様に僕がすぐに声に応えないことを窘める絹の様に白くて美しい触れると心地よさそうな髪と鬼灯の実の様に赤い綺麗な見つめられるだけで再び惚れてしまいそうになる目を持つ僕の妻が立っていた
「ごめん、ごめん……ちょっと、読書に夢中になっちゃってね」
「またですか?」
妻の怒った顔を可愛いと思いながらいつもの様に何度言われても治らない僕の悪い癖から来る彼女の呼びかけに応えなかった理由を口に出した
僕は基本的に周囲からはのんびりした性格と言われて、自分でも認めるほどの面倒臭がり屋だ。よく昔の友達に皆と遊びに出かけようと誘われてもあまり気乗りせず、正直に言うとすごくかったるいと思う程だ。特に学生時代なんて付き合いで部活がない日もしくは終わった後の午後に遊びに行こうとほぼ強制的に遊びに行かなくてはならず、『自分の時間』を潰されのが苦痛であった程だ
我ながらよく結婚できたなと常々、考える程だ
とまあ、これぐらい僕は無気力人間もといダメ人間、いや、ダメインキュバスだけど、自分が面白い、もしくは興味深いと思ったことに関しては周囲が引くほどに夢中になる時がある気分屋でもある。むしろ、他人が興味を持たないことを深く追求し過ぎてしまって、周りとの会話について行けない、ないしは周りがついて行けないことが多い。例えば、普通の人間なら学校の試験なんて手っ取り早く『答え』だけが欲しいのに僕は『答え』よりも『式』の方を求めてしまうことが多くて、どうしてこれはこうなるんだと思って、結局いい点数を取れるはずの試験の点数を大幅に下げることなんてザラだ
要するに『空気読めない奴』という感じだ。おかげで読書ばっかりが趣味になったり、学生時代に『おひとり様』をしていると『ぼっち』とよく馬鹿にされることがあった
「もう……いい加減にしないとあなたごと本も燃やしちゃいますよ?」
僕がいつもの言い訳になっていない言い訳を言うと妻は半分冗談で本文本気の怒りを込めた冷たくも熱さを感じさせる一言を言った
「え〜……それだけは勘弁してよ」
僕は少し、焦りに汗を顔に滲ませて笑ってそう言った
「はあ……で、今日はどの本を読んでいたんですか?」
彼女は僕が笑顔で誤魔化そうとしているのを見るといつもの様に呆れを込めながらもいつもの様に僕が呼んでいる本のことを訊ねてきた
「ああ、これだよ」
僕はそれを聞くとお気に入りのこげ茶色のブックカバーを外し文庫本サイズの本の表紙を妻に見せた
「……これですか」
妻は僕が呼んでいる本を知ると少しため息混じりにそう言った
僕が今読んでいる本はドイツの宰相にして詩人であり、小説家、劇作家であるゲーテの生涯をかけて完成させた作品、『ファウスト』だ。この本は文学史上で評価される文豪ゲーテの作品の中でも特に評価の高い作品である
僕も最初、そう言った肩書に乗せられただけで読んでみた人間だ。しかし、正直に言おう、初めてこの作品を読んだ時は苦痛だった。なぜなら、文体は脚本形式で登場人物の台詞だけ、さらには日本人の僕にはあまり馴染みのない単語ばかりだったからだ。シェイクスピアの四大悲劇などでそう言った文学に慣れているとは言え、厚さと長さが段違いだった。あれほど、現代文学の読書初心者でも読める丁寧さに感謝したことはなかった
しかし、読み進めるうちに自然と話が理解できていき、主人公の悲恋(まあ、大体主人公のうっかりが原因だけど)や成長、そして、主人公の最後の台詞と亡き恋人の愛が彼を救う極めてありきたりだけど、とても長い筋書きでありながら、これほど感動するとは思わなかった。流石、あのゲーテがその生涯をかけて完成させた作品だ
おかげで僕は月に一度はこの本を読む癖が付いてしまった
「ん?不満?」
話は逸れたけど、この本を僕が読んでいると今の様に妻はいつも不満そうな表情をする
まあ、大体理由は理解できるけどね。それは
「『時よ止まれ、あなたは美しい』……
ええ、不満ですとも……何せ、プロポーズの言葉をまさか、本の台詞から持ってくるなんて……思いませんでしたよ」
僕が彼女にプロポーズした時に言った言葉が原因だ
これは『ファウスト』の最も有名な台詞であり、主人公が悪魔との契約でこの言葉を口にしたら、時獄へと連れて行かれる言葉である
「いいじゃないか、僕は基本的に自分が尊敬する言葉を相手に囁くことこそ、最大の礼儀だと思っているし、ずっと前からこの一言を言えるだけの瞬間に立ち会いと思っていたからこそ、そう言っただけだよ」
「あのね……実際にそれを面と向かって言われた私の身になってくれませんか?しかも、プロポーズの場面で」
僕が自分の言い分を主張すると彼女は一般的に見て、当然の反応と感想、そして、不満を口に出した
実際、僕がその言葉を告げた瞬間、妻は普通女性が男性に愛の告白を受けた時にするであろう呆気に取られていると言う表現が正しい反応と見た目は似ているが、その心の中で生じる感情の種類が違っていたのは確かであった
「うん、知っているし、理解してるよ?だけど、僕は言いたかったからそう言っただけ」
「はあ……」
でも、僕はその言葉を口に出す前からも出した後も彼女と夫婦になった今でもその言葉に向けられた彼女の気持ちなんて予測できていたし、察することもできた
それでも僕は彼女に向かって件の言葉を告げたかった
ぶっちゃけると、世間でよく言われるストーカーやロミオやジュリエットと僕との違いだなんて、自分が異常だと認識しているか、それが他人のためと言いながらも結局のところ自分のことしか考えていないと言うことに気づいていないかの違いだと思っている
「普通は『愛している』とか、『結婚してくれ』とか、『ずっと傍にいてくれ』とか言うものでしょ?」
妻は世間一般的に男性が恋人に囁く愛の言葉を引き合いに出してきた
「え〜……だって、愛とか好きとかて魔物からして見れば当然のことじゃないか?だから、あえて僕なりのプロポーズの言葉を考えてみたんだけど」
「あなたて……本当に知識ばかりはあるけど、馬鹿なんですね?」
僕は僕なりの考えを持ってあの告白の言葉を言ったのだけれど、それを聞いた妻は呆れと共に多少の苛立ちを込めてそう言った
けれど、妻は勘違いをしている。妻は僕が魔物にとって、『愛』とか『好き』とか言う言葉が普通だから、告白の時に言っても意味がないからその言葉を選んだと考えている様だけど、その考察は間違いだと言える
魔物にとって『愛』とか『好き』と言う言葉がどれだけの価値があるなんて、当然ながら知っているし理解している。平穏な日常なんてつまらないと思いながらも、それがなくなるのは嫌だと心のどこかで理解しているのと当然なぐらい、僕は知っている
だから、僕は妻のことが大好きだし愛している
「あはは……よく家族にも言われたよ、友達にもね
ところで、なんで僕を呼んでいたんだい?」
僕は妻と出会う前から大切で親しかった人々に『馬鹿』と呼ばれていたあの懐かしくも楽しかった日々を思い出しながら笑った後に話題を切り替えようとした
「あ、そうでしたね……今日の夕食ですけど、おかずは何がいいですか?」
「肉」
僕はその問いに即答した
「……は、早いですね……でも、昨日も肉でしたよね?どうして、また……」
妻は僕が即答したことに戸惑いながら僕に理由を訊ねて来たので僕は素直に
「だって、肉を食べて少しぽっちゃりした君のお腹の肉を摘まみたいんだもん」
「本気で怒りますよ」
「ごめんなさい」
自分の欲望を何の躊躇いなく口に出した。それは女性に対してはデリカシーのない発言だと理解しながらも、当然だと思えるそれを聞いた妻が笑顔だけど目が笑っていない一種の迫力を感じさせる怒りを間髪入れることなく発したことを感じて僕はすぐに謝った
デリカシーのない発言だと自覚しているけど、僕は妻の肉を摘まみたかったんだ。言っておくけど、僕は決して肥満体の女性が好きなのではないし、妻の白蛇ゆえの蛇行運動でシェイクアップされたウエストやあの豊満な体の脂肪率の割に大きくて手で覆うと形が変わるあの柔らかい乳房が大好きだ。しかし、それでも僕は彼女の下半身の蛇の腹部に僕自らの上半身を預け、少し油断した彼女の脇腹に寝ころびながら手を伸ばし、そのまま摘まみたいんだ。もちろん、その後に妻の赤面した顔や怒った顔も見てみたいのだ。僕にとって、妻の全てはご褒美なんだ
「まったく……本当にいい加減にしてください……じゃあ、買い物に行ってきますね」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
少し、機嫌を直した彼女はそのまま夕食の支度のために買い物へと向かおうとすると
「ねえ、朔(さく)……一ついいかな?」
僕は買い物に行こうとする妻の背中に向かって、彼女に一つ訊いておきたかったことがあって、呼び止めた
「なんですか?」
僕の呼び止めを聞くと朔は振り返った
そして、僕はそのまま彼女に
「君は僕と結婚して良かったのかな?」
と少しイジワルで卑怯で最低な質問をした
魔物にとっては、夫とは何よりも大切だし大切なものだ。それに魔物にとっては結婚は人間と違い、本当の意味で一生物の話だ。今さらになって、離婚なんてできる筈がない
けれど、僕は知りたかった。こんなにも狂っていて、面倒臭くて、情けなくて、卑屈で、僕自身でさえ嫌悪する僕のことを夫として選んで彼女は本当にとよかったのかと
すると彼女は
「はあ……」
今日、何度目かわからないタメ息を吐いてから
「まあ、たまに面倒臭いな……と思ったり、馬鹿な人て思う時はありますよ?」
と容赦なく僕への不満を口に出してきた
「でも……」
けれど
「私はあなたといると安心できるんですよ。和弥(かずや)さん。だから、あなた以外の夫なんて考えられませんよ」
彼女は続けてそう言った
それはよく、僕が学生時代にクラスや部活動でよく異性に言われていた言葉だった。まあ、理由としては僕は基本的に極力目立たない様に生活していたのと色々と波風が立たない様に大人しくしていたのが大きいけど。おかげで授業を真面目に受けていたことや父親から授かった頭の回転の速さもあって、成績も中の上か上の下だったこともあり、よくあるクラスのアンケートみたいな奴で『いい人止まり』や『結婚相手ならともかく恋人としてはちょっと』と言うある意味、面白みのない人間扱いされてきたけど
捻くれた考えであり邪推であるが世間でよく浮気や不倫をされる男性の大半はこう言った純朴で誠実で最高に『いい人』ばかりだ。要するに僕は『都合のいい人間』扱いと言うことだ。あの学生時代ほど、『恋』など下らないと思ったことはない。『恋』は所詮、冷めるものだ。いつまでも人間は若くないし、『恋』で人間は生きていられる訳じゃない。『恋』をしている時は相手の全てを知っている訳じゃないし、相手の本当の姿を知ったら幻滅するなんてよくあることだ。それなのに、僕自身はそんな『いい人』達に入っていないと思っているが、そんな『いい人』達の優しさや誠実さがそんな下らなくて身勝手でワガママな感情に一時的とは言え、負けるのがムカつくのだ。なんで、そんな『いい人』達が傷つき、苦しみ、馬鹿にされなきゃいけないのか僕には理解できないし、理解したくない。僕は敢えて言うと、そう言った真面目に生きてる人間が大好きだ。だから、僕はフローベールの『ボヴァリー夫人』のみたいな身勝手な『恋』と言う感情は大嫌いだ。同じ時代の恋愛文学でも僕はオースティンの『高慢と偏見』の主人公の真摯な『恋』の方が断然、大好きだ
そして、朔の言葉はそんな不名誉な肩書きを思い出す発言であったが
「ありがとう」
と僕は心の底から嬉しさを感じて愛する妻でありしっかりと僕のことを見ていてくれる朔に感謝を込めてそう言った
他の女性にそう言われると苛つくのに朔にそう言われると怒りではなく安らぎや幸福感、嬉しさを感じるのは多分、朔は本当に僕のことを知っていて、値踏みしている訳じゃないからだと思う
だって、今まで僕にそう言ってきた女性なんて結局のところ僕の本当の姿を知らないからだ。僕のことをちゃんと知らない人間に『人格』のことをどれだけ褒められても嬉しさなんか感じられるはずがない。だけど、朔は違う。彼女は僕の良い所も悪い所もちゃんと知っていてそう言ってくれている
それにこれは僕の『惚れた弱み』だ
「それじゃ、お買い物に行ってきますね」
僕の質問に答えた彼女は買い物に今度こそ行こうとした。そんな妻の姿を見て僕は
「うん、今度こそいってらっしゃい」
と僕にいつも美味しくて栄養満点な食事を作るために頑張ってくれている白き髪の君にいつもの様に表に出さないけど感謝しながら彼女を見送ろうとした
「いってきます」
そして、彼女がこの場からいなくなるとふとこう言いたくなった
「時よ止まれ、あなたは美しい」
この言葉を贈ることのできる時間を与えてくれた朔に感謝を込めてそう告げた
彼女とケンカしたり、笑ったり、愛し合ったり、心を通わせることができるこの幸福な日々。それを彼女は僕にくれた
ああ、やっぱり、彼女は素晴らしい。結局のところ、僕は骨の髄まで彼女に惚れているんだ。そして、僕は彼女を愛している
「ん……?」
肘置きがあり、普通の椅子よりも座高が低く座椅子との中間ぐらいの背もたれの傾度をレバーで調節できる二万円で購入した座ると楽になる椅子に腰かけ、ちょうど座椅子に座っていると物を置くと快適なテーブルの上に趣味の読書のために本棚から本を5冊積んで、大窓を空けてそよ風を感じながら読書をしていると僕のことを呼ぶ愛おしい声が聞こえてきた
僕はその声に導かれるままに背もたれから少し背を離しその声の主を目に入れることで生まれるいつも感じるささやかな幸せを求めて辺りを見回すと
「もう、先ほどから呼んでいるのに……」
椅子に座っている僕のことをまるで世話のかかる子供を見て、怒らずに窘めてお説教をする様に両手を腰に持っていき、いつもの様に僕がすぐに声に応えないことを窘める絹の様に白くて美しい触れると心地よさそうな髪と鬼灯の実の様に赤い綺麗な見つめられるだけで再び惚れてしまいそうになる目を持つ僕の妻が立っていた
「ごめん、ごめん……ちょっと、読書に夢中になっちゃってね」
「またですか?」
妻の怒った顔を可愛いと思いながらいつもの様に何度言われても治らない僕の悪い癖から来る彼女の呼びかけに応えなかった理由を口に出した
僕は基本的に周囲からはのんびりした性格と言われて、自分でも認めるほどの面倒臭がり屋だ。よく昔の友達に皆と遊びに出かけようと誘われてもあまり気乗りせず、正直に言うとすごくかったるいと思う程だ。特に学生時代なんて付き合いで部活がない日もしくは終わった後の午後に遊びに行こうとほぼ強制的に遊びに行かなくてはならず、『自分の時間』を潰されのが苦痛であった程だ
我ながらよく結婚できたなと常々、考える程だ
とまあ、これぐらい僕は無気力人間もといダメ人間、いや、ダメインキュバスだけど、自分が面白い、もしくは興味深いと思ったことに関しては周囲が引くほどに夢中になる時がある気分屋でもある。むしろ、他人が興味を持たないことを深く追求し過ぎてしまって、周りとの会話について行けない、ないしは周りがついて行けないことが多い。例えば、普通の人間なら学校の試験なんて手っ取り早く『答え』だけが欲しいのに僕は『答え』よりも『式』の方を求めてしまうことが多くて、どうしてこれはこうなるんだと思って、結局いい点数を取れるはずの試験の点数を大幅に下げることなんてザラだ
要するに『空気読めない奴』という感じだ。おかげで読書ばっかりが趣味になったり、学生時代に『おひとり様』をしていると『ぼっち』とよく馬鹿にされることがあった
「もう……いい加減にしないとあなたごと本も燃やしちゃいますよ?」
僕がいつもの言い訳になっていない言い訳を言うと妻は半分冗談で本文本気の怒りを込めた冷たくも熱さを感じさせる一言を言った
「え〜……それだけは勘弁してよ」
僕は少し、焦りに汗を顔に滲ませて笑ってそう言った
「はあ……で、今日はどの本を読んでいたんですか?」
彼女は僕が笑顔で誤魔化そうとしているのを見るといつもの様に呆れを込めながらもいつもの様に僕が呼んでいる本のことを訊ねてきた
「ああ、これだよ」
僕はそれを聞くとお気に入りのこげ茶色のブックカバーを外し文庫本サイズの本の表紙を妻に見せた
「……これですか」
妻は僕が呼んでいる本を知ると少しため息混じりにそう言った
僕が今読んでいる本はドイツの宰相にして詩人であり、小説家、劇作家であるゲーテの生涯をかけて完成させた作品、『ファウスト』だ。この本は文学史上で評価される文豪ゲーテの作品の中でも特に評価の高い作品である
僕も最初、そう言った肩書に乗せられただけで読んでみた人間だ。しかし、正直に言おう、初めてこの作品を読んだ時は苦痛だった。なぜなら、文体は脚本形式で登場人物の台詞だけ、さらには日本人の僕にはあまり馴染みのない単語ばかりだったからだ。シェイクスピアの四大悲劇などでそう言った文学に慣れているとは言え、厚さと長さが段違いだった。あれほど、現代文学の読書初心者でも読める丁寧さに感謝したことはなかった
しかし、読み進めるうちに自然と話が理解できていき、主人公の悲恋(まあ、大体主人公のうっかりが原因だけど)や成長、そして、主人公の最後の台詞と亡き恋人の愛が彼を救う極めてありきたりだけど、とても長い筋書きでありながら、これほど感動するとは思わなかった。流石、あのゲーテがその生涯をかけて完成させた作品だ
おかげで僕は月に一度はこの本を読む癖が付いてしまった
「ん?不満?」
話は逸れたけど、この本を僕が読んでいると今の様に妻はいつも不満そうな表情をする
まあ、大体理由は理解できるけどね。それは
「『時よ止まれ、あなたは美しい』……
ええ、不満ですとも……何せ、プロポーズの言葉をまさか、本の台詞から持ってくるなんて……思いませんでしたよ」
僕が彼女にプロポーズした時に言った言葉が原因だ
これは『ファウスト』の最も有名な台詞であり、主人公が悪魔との契約でこの言葉を口にしたら、時獄へと連れて行かれる言葉である
「いいじゃないか、僕は基本的に自分が尊敬する言葉を相手に囁くことこそ、最大の礼儀だと思っているし、ずっと前からこの一言を言えるだけの瞬間に立ち会いと思っていたからこそ、そう言っただけだよ」
「あのね……実際にそれを面と向かって言われた私の身になってくれませんか?しかも、プロポーズの場面で」
僕が自分の言い分を主張すると彼女は一般的に見て、当然の反応と感想、そして、不満を口に出した
実際、僕がその言葉を告げた瞬間、妻は普通女性が男性に愛の告白を受けた時にするであろう呆気に取られていると言う表現が正しい反応と見た目は似ているが、その心の中で生じる感情の種類が違っていたのは確かであった
「うん、知っているし、理解してるよ?だけど、僕は言いたかったからそう言っただけ」
「はあ……」
でも、僕はその言葉を口に出す前からも出した後も彼女と夫婦になった今でもその言葉に向けられた彼女の気持ちなんて予測できていたし、察することもできた
それでも僕は彼女に向かって件の言葉を告げたかった
ぶっちゃけると、世間でよく言われるストーカーやロミオやジュリエットと僕との違いだなんて、自分が異常だと認識しているか、それが他人のためと言いながらも結局のところ自分のことしか考えていないと言うことに気づいていないかの違いだと思っている
「普通は『愛している』とか、『結婚してくれ』とか、『ずっと傍にいてくれ』とか言うものでしょ?」
妻は世間一般的に男性が恋人に囁く愛の言葉を引き合いに出してきた
「え〜……だって、愛とか好きとかて魔物からして見れば当然のことじゃないか?だから、あえて僕なりのプロポーズの言葉を考えてみたんだけど」
「あなたて……本当に知識ばかりはあるけど、馬鹿なんですね?」
僕は僕なりの考えを持ってあの告白の言葉を言ったのだけれど、それを聞いた妻は呆れと共に多少の苛立ちを込めてそう言った
けれど、妻は勘違いをしている。妻は僕が魔物にとって、『愛』とか『好き』とか言う言葉が普通だから、告白の時に言っても意味がないからその言葉を選んだと考えている様だけど、その考察は間違いだと言える
魔物にとって『愛』とか『好き』と言う言葉がどれだけの価値があるなんて、当然ながら知っているし理解している。平穏な日常なんてつまらないと思いながらも、それがなくなるのは嫌だと心のどこかで理解しているのと当然なぐらい、僕は知っている
だから、僕は妻のことが大好きだし愛している
「あはは……よく家族にも言われたよ、友達にもね
ところで、なんで僕を呼んでいたんだい?」
僕は妻と出会う前から大切で親しかった人々に『馬鹿』と呼ばれていたあの懐かしくも楽しかった日々を思い出しながら笑った後に話題を切り替えようとした
「あ、そうでしたね……今日の夕食ですけど、おかずは何がいいですか?」
「肉」
僕はその問いに即答した
「……は、早いですね……でも、昨日も肉でしたよね?どうして、また……」
妻は僕が即答したことに戸惑いながら僕に理由を訊ねて来たので僕は素直に
「だって、肉を食べて少しぽっちゃりした君のお腹の肉を摘まみたいんだもん」
「本気で怒りますよ」
「ごめんなさい」
自分の欲望を何の躊躇いなく口に出した。それは女性に対してはデリカシーのない発言だと理解しながらも、当然だと思えるそれを聞いた妻が笑顔だけど目が笑っていない一種の迫力を感じさせる怒りを間髪入れることなく発したことを感じて僕はすぐに謝った
デリカシーのない発言だと自覚しているけど、僕は妻の肉を摘まみたかったんだ。言っておくけど、僕は決して肥満体の女性が好きなのではないし、妻の白蛇ゆえの蛇行運動でシェイクアップされたウエストやあの豊満な体の脂肪率の割に大きくて手で覆うと形が変わるあの柔らかい乳房が大好きだ。しかし、それでも僕は彼女の下半身の蛇の腹部に僕自らの上半身を預け、少し油断した彼女の脇腹に寝ころびながら手を伸ばし、そのまま摘まみたいんだ。もちろん、その後に妻の赤面した顔や怒った顔も見てみたいのだ。僕にとって、妻の全てはご褒美なんだ
「まったく……本当にいい加減にしてください……じゃあ、買い物に行ってきますね」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
少し、機嫌を直した彼女はそのまま夕食の支度のために買い物へと向かおうとすると
「ねえ、朔(さく)……一ついいかな?」
僕は買い物に行こうとする妻の背中に向かって、彼女に一つ訊いておきたかったことがあって、呼び止めた
「なんですか?」
僕の呼び止めを聞くと朔は振り返った
そして、僕はそのまま彼女に
「君は僕と結婚して良かったのかな?」
と少しイジワルで卑怯で最低な質問をした
魔物にとっては、夫とは何よりも大切だし大切なものだ。それに魔物にとっては結婚は人間と違い、本当の意味で一生物の話だ。今さらになって、離婚なんてできる筈がない
けれど、僕は知りたかった。こんなにも狂っていて、面倒臭くて、情けなくて、卑屈で、僕自身でさえ嫌悪する僕のことを夫として選んで彼女は本当にとよかったのかと
すると彼女は
「はあ……」
今日、何度目かわからないタメ息を吐いてから
「まあ、たまに面倒臭いな……と思ったり、馬鹿な人て思う時はありますよ?」
と容赦なく僕への不満を口に出してきた
「でも……」
けれど
「私はあなたといると安心できるんですよ。和弥(かずや)さん。だから、あなた以外の夫なんて考えられませんよ」
彼女は続けてそう言った
それはよく、僕が学生時代にクラスや部活動でよく異性に言われていた言葉だった。まあ、理由としては僕は基本的に極力目立たない様に生活していたのと色々と波風が立たない様に大人しくしていたのが大きいけど。おかげで授業を真面目に受けていたことや父親から授かった頭の回転の速さもあって、成績も中の上か上の下だったこともあり、よくあるクラスのアンケートみたいな奴で『いい人止まり』や『結婚相手ならともかく恋人としてはちょっと』と言うある意味、面白みのない人間扱いされてきたけど
捻くれた考えであり邪推であるが世間でよく浮気や不倫をされる男性の大半はこう言った純朴で誠実で最高に『いい人』ばかりだ。要するに僕は『都合のいい人間』扱いと言うことだ。あの学生時代ほど、『恋』など下らないと思ったことはない。『恋』は所詮、冷めるものだ。いつまでも人間は若くないし、『恋』で人間は生きていられる訳じゃない。『恋』をしている時は相手の全てを知っている訳じゃないし、相手の本当の姿を知ったら幻滅するなんてよくあることだ。それなのに、僕自身はそんな『いい人』達に入っていないと思っているが、そんな『いい人』達の優しさや誠実さがそんな下らなくて身勝手でワガママな感情に一時的とは言え、負けるのがムカつくのだ。なんで、そんな『いい人』達が傷つき、苦しみ、馬鹿にされなきゃいけないのか僕には理解できないし、理解したくない。僕は敢えて言うと、そう言った真面目に生きてる人間が大好きだ。だから、僕はフローベールの『ボヴァリー夫人』のみたいな身勝手な『恋』と言う感情は大嫌いだ。同じ時代の恋愛文学でも僕はオースティンの『高慢と偏見』の主人公の真摯な『恋』の方が断然、大好きだ
そして、朔の言葉はそんな不名誉な肩書きを思い出す発言であったが
「ありがとう」
と僕は心の底から嬉しさを感じて愛する妻でありしっかりと僕のことを見ていてくれる朔に感謝を込めてそう言った
他の女性にそう言われると苛つくのに朔にそう言われると怒りではなく安らぎや幸福感、嬉しさを感じるのは多分、朔は本当に僕のことを知っていて、値踏みしている訳じゃないからだと思う
だって、今まで僕にそう言ってきた女性なんて結局のところ僕の本当の姿を知らないからだ。僕のことをちゃんと知らない人間に『人格』のことをどれだけ褒められても嬉しさなんか感じられるはずがない。だけど、朔は違う。彼女は僕の良い所も悪い所もちゃんと知っていてそう言ってくれている
それにこれは僕の『惚れた弱み』だ
「それじゃ、お買い物に行ってきますね」
僕の質問に答えた彼女は買い物に今度こそ行こうとした。そんな妻の姿を見て僕は
「うん、今度こそいってらっしゃい」
と僕にいつも美味しくて栄養満点な食事を作るために頑張ってくれている白き髪の君にいつもの様に表に出さないけど感謝しながら彼女を見送ろうとした
「いってきます」
そして、彼女がこの場からいなくなるとふとこう言いたくなった
「時よ止まれ、あなたは美しい」
この言葉を贈ることのできる時間を与えてくれた朔に感謝を込めてそう告げた
彼女とケンカしたり、笑ったり、愛し合ったり、心を通わせることができるこの幸福な日々。それを彼女は僕にくれた
ああ、やっぱり、彼女は素晴らしい。結局のところ、僕は骨の髄まで彼女に惚れているんだ。そして、僕は彼女を愛している
15/02/09 15:32更新 / 秩序ある混沌
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