明星
「う〜ん……」
私はまだ身体に疲れが残っているのを感じながらも身体を起した
「3時か……」
時計を見ると時刻は午後3時をとっくのとうに迎えていた。どうやら、私は7時間近く眠っていたようだ。しかし、それでも身体からだるさは抜けず、布団から体を出すのにも時間が掛かった。そして、
―グ〜―
「お腹空いた……」
腹の音がなり、自分の空腹感を感じたので疲労で覚束ない足で歩きながら台所のキッチンにある籠からインスタントラーメンを取り出そうとするが
「ない……」
インスタントラーメンは見つからなかった。どうやら、インスタントラーメンを切らしてしまったようだ
「はあ〜……仕方ない、外に食べに行こ……」
私はインスタントラーメンを切らしたことに気づくと、洗面台に向かい眠気とダルさを少しでも和らげるために顔を洗い、寝癖のついた髪を櫛で梳かし、ジャージとパーカーに着替えて財布とPHSを持って、外で軽食をする準備をした
―キー……―
「いってきます……」
私は部屋をです際に誰もいない部屋に向かって、そう呟いた。しかし、心の底では
この部屋に対して、もうこれ以上『ただいま』も『いってきます』も言いたくないのにね……
とそう呟いた。しかし、仮に借金を全て返済したとしても、私にはもはやここ以外に居場所なんて存在しない。恐らく、私に待っているのは男にとっては都合のいい『娼婦』としての道しかないのだろう
「お、響ちゃん、外出かい?」
「あ、はい……」
私が寮の入り口に着くとそこにはこの寮の管理人の久川(くがわ)さんが窓口にいた。彼は私にここを紹介してきた借金取りの友人で私の勤めている店の店長と一緒に店の風俗嬢を全て監督している人だ
「あの……ちょっと、食事に」
私が久川さんに外出の要件を話すと
「そうか、じゃあ……そこに帰宅の時間を書いておいて」
久川さんは私に帳簿を渡して、そこに外出時間と帰宅予定時間を書くように言ってきた。この寮では風俗嬢が外出をする際にはこう言った記憶をとるのが決まりだ
「あ、はい」
この決まりの理由は二つある
一つは風俗嬢の脱走を防止するためだ。この寮には私のような借金が原因で働いている者も多くおり、実はこう言った風俗業は違法スレスレのものであり、この生活が嫌になった風俗嬢が警察などに訴えると取り締まりの危険があるらしい。ゆえに店側からすれば風俗嬢を監視しなくてはならないのだ
もう一つは風俗嬢の安全を守るためだ。風俗嬢はかなり危険な仕事でもあり、トラブルに巻き込まれる可能性もあり、帰宅予定時間より遅い場合はこの辺りをシマにしている組織に捜索を頼むことにしているらしい
「はい、どうぞ」
私は時間帯を書き終えると久川さんに帳簿を渡した
「ご苦労様……ん?ちょっと、響ちゃん」
久川さんは私から帳簿を受け取り内容を確認すると、少し気になったことがあるらしく私に何かを尋ねようとしてきた
「……なんですか?」
私はそれに対して、面倒臭く感じて適当に返事をした。すると、久川さんは
「なんですか?て、響ちゃん……いくらなんでも、外出時間が短すぎるよ」
久川さんは私の外出時間の短さにどうやら危惧したらしく、私に外出時間を少し延ばすことを遠回しに言ってきた
「いいですよ……ファミレスとかのすぐに食事ができる所に行くだけですし、すぐに帰ってきますよ」
私は久川さんにそう言って外出時間を最低限だけにしようとするが
「いやいや……あのさ、響ちゃん?今まで黙ってきたけど、響ちゃんは自分のことを追い詰めすぎだよ?せっかくの外出なんだから過ごし位は気晴らしでもしてきなって」
久川さんは私のことを気遣って、私に気晴らしをすることをすすめてきた
「……私が逃げると思わないんですか?」
私は彼に対して、逃げることを指摘するが彼は少し表情を和らげて
「響ちゃんはいい娘だからね〜……何よりも真面目な娘じゃないか?借金を踏み倒す様な娘にはとても思えないし、それにそれは磐田(いわた)の奴も保障してるよ」
「……」
久川さんは私に対して、理由にもならない理由を言ってきた。磐田と言うのは私にここを紹介した借金取りの名前だ
「むしろ、磐田の奴は君のことを心配してたよ?」
「え?」
久川さんのその一言に私は驚きを隠せなかった。当然だ。借金取りにとっては、借主は借金を返せば客ではあるが、返せない場合は道具のように扱うのが普通のはずだ。しかし、なぜ、あの借金取りは私のことを心配するのかがわからない
「意外そうな顔をしてるね……響ちゃん、言っておくけどね……俺や磐田が所属している組は自分で言うのもどうかと思うけど、まだ……『マシ』な方なんだよ?」
久川さんは私の驚いた顔から私の心中を察して、そう言ってきた。しかし、彼の目は何かしらの哀愁を漂わせていた
「まあ、それも親父のおかげなんだけどな……あの人、はっきり言うと『時代遅れ』の人間なんだけど、外道じゃない人だからな……」
どうやら、久川さんは自分の組の組長のことを尊敬しているようだ。彼らの組長はそう言った人間なのだろう
「だから、あいつは君みたいな……言っちゃ悪いけど、鴨が葱背負った様な人間を放っておけないんだよ……それに君の仕事ぷりは真面目なのはいいことだけど、身体を壊さないか冷や冷やするよ……だから、休むのも『仕事』だと思って欲しいんだ」
彼はそう言って、私に休むことを静香に強く懇願した。世間では彼らは人でなし集団である人種だろう。しかし、彼らはやり方は非道であるが心の底までは外道になっていないようだ
私と言う『商売道具』を大切にしているだけかもしれないけどね……
私はそれを聞いて予定を改めた
「じゃあ……四時間ほど外出しますね?」
私はその辺を適当に回って、久川さんの心配をなくすために少なくもなく、多くもない時間を見積もった。それを聞くと久川さんは安心したのか微笑みながら
「よかった……じゃあ、帳簿の方は俺が書いておくから服を着替えてきてね」
安堵が込められた言葉で私にそう言った。私はそれに相手を心配させないように笑顔を繕って
「はい」
返事をした後にすぐに自室へと向かい、服装を変え始めた。意外にもあの借金取りは金目の物はかなり差し押さえたが服などは最低限の物を残してくれていたのだ
裏の住人のくせに……お人好しね……
私はこう言った彼らの気遣いには感謝はしているが、結局は彼らの生きている世界や彼ら自身のしていることについては一応は一般人の倫理観や道徳観を持っている私からすれば忌み嫌うものだ
まあ……お金を返せないのに借りた私が馬鹿なんだけどね……
しかし、結局のところ、私がこんな状況に陥っているのは私自身の愚かさが招いたのも理由の一つだ。久川さんや磐田さんは私のような馬鹿な女やお金欲しさに身を売る女を利用している商売人に過ぎない
そう、彼らは別に自分の欲望のためだけに働いているわけではないのだ。彼らは組織、いや、正確には自分達を拾ってくれた組織の長のために働いているだけなのだ
それでも……やっぱり、私は……
服を着替えながら私はこう思った。それは
普通の生活に戻りたい……
と言う極めて単純だけど、とてもかけがえのない願いだった。できることなら、私はここから出て普通の人生を送りたい。だけど、その願いはもう叶うことはないだろう。なぜなら、私は
「最低な女だもの……」
あんなに好きだった男性のことを疑い、彼が傷ついているのに助けもせず、さらにはその失恋の傷を癒したいがために好きでも男に『初めて』をあげた『女として最低の分類』だからだ
「それに……私みたいな穢れた女なんて……男の人は嫌よね……」
私はもう、既に何人もの男に抱かれた娼婦だ。よく、『心はあなたのことを愛しているの』と言う浮気した女の正当化にもなっていない一言があるが、娼婦の私が言うのもどうかと思うけど、私は同じ女としてそんな言葉が大嫌いだ
だって……『心は』て……じゃあ、どうして浮気をする必要があるの?
私からすれば、そんなの自分の浅ましさと醜さを認めたくないが自己欺瞞と自分の保身を図るための自己弁護にしか思えない
私はそんな身勝手な女にはなりたくない。どんなに理由を取り繕っても、私は所詮『薄汚い売女』なのだから
本当に馬鹿みたい……先輩を助けもしなかったのに、心の底では誰かにここから連れ出してほしいと願っているのよね……
そう、私は先輩への想いと罪悪感を捨てきれないのに誰かに助けて欲しいと願っているのだ
「……いってきます」
私はよそ行きの服に着替え終わると再び自室から出て、寮の入口へと向かった
「お、響ちゃん。準備できた?」
入口に着くと久川さんは私に気がつきそう言ってきた。私はそれに対して
「はい……いってきます」
と返事をした。そして、彼もまた
「いってらっしゃい」
と返した。私はそれを聞くと、寮を出て昼過ぎの繁華街へと足を進めた
「何食べようかな……」
私は繁華街の雑踏の中を歩きながら、これから何を食べるかを考えながら駅前へと向かった。その道中に私は色々な人を見た
カラオケ点に入っていく6人ほどの高校生達。不良が学生から身体だけは成長したようなバッドボーイ系の男達。そして、繁華街をデートする若い恋人達
将来のことは考えていないんだろうな……
私は彼らを見てそう思った。彼らは将来に対しての不安を持っていないから今を楽しんでいるのだろう。いや、正確には将来への不安を持たないように必死に努力しているのだろう。一見すると、彼らは馬鹿にしか見えないけど、彼らを見て私はこうも思ってしまった
羨ましい……
彼らは将来に対して、不安を抱けずにすんでいる。それが私との大きな違いだ。彼らは私と違って、必死になって努力すれば明るい未来を手に入れられる可能性もあるのだ。だからこそ、『今』を楽しく生きれるのだ
「いらっしゃいませ!」
そう、考えているうちに私はファーストフード店に着いた。そして、私はそこで一番安いセットを頼み昼過ぎで席が空いている中で適当に席に座った
「いただきます……」
食事をしながら、私は借金を返し終わった後の将来を考えた。しかし、どうしても私には何も見えなかった
返し終わっても……一度、こんな世界に足を踏み入れた私には外の世界に『居場所』なんてないのよね……
一度、風俗嬢となった私には表社会での職場で働くかつての『キャリアウーマン』としての道も好きな男性と共に生きると言う『女』としての道も存在しない
もういっそのこと……『快楽』に溺れて娼婦として生きていくしかないのかな……
私は悲嘆しながら自暴自棄な人生を送ることを次第に考えてしまった。恐らく、久川さんも私に対して『諦め』をつかせるために今日一日を遊びに費やさせて、『楽な生き方』を伝えようとしたのだろう
「でも……先輩も辛かったんだから、私だけが助かるなんて……」
『虫が良すぎる』と私は自分を軽蔑した。そして、私はそうやって自分を苦しめた。結局、私は先輩のことを『愛していた』と言う『証』が欲しいだけなのだろう
「ごめんなさい……先ぱ―――」
私が再び、先輩への謝罪を繰り返そうとすると
「……貴水?」
「……え?」
私の本当の名前を呼ぶ声がした。私が顔を上げるとそこには
「的場さん……?」
私のかつての同僚で私と先輩と同じようにあの『悪魔』にハメられた人物
的場 哲哉(てつや)が立っていた
「やっぱり、貴水か!久しぶり!」
彼は私を見ると嬉しそうにそう言った。どうやら、かつての同僚と再会できたことに的場さんは嬉しく思った様で明るい声でそう言ってきた
「お久しぶりです……」
私はそれに対して、対照的に暗い声で返した。私にとっては『貴水 奏』と言う人間の知人に会うことは苦痛でしかないからだ
「あの……的場さん……どうして、ここに?」
彼自身には何も嫌な思いはないが私は一刻も早く、かつての同僚と別れたくなり的場さんに用事があることを期待してそう聞いた
「いや、職場が休みでさ……暇だから、どこかでブラブラしてようかと思ってたら小腹が空いて、ちょっと、何か食べようとしてこの店に入ったら貴水がいて……」
私の淡い希望は砕かれた。彼にはこの後に何も予定がないらしい。つまりは彼の気がすむまで私は彼と一緒にいなくてはならない可能性が出てきた
「あ、そっちの席に座っていいか?」
「え?」
彼は私の向かい側の席を指差して相席を頼んできた
「え、あの……その……」
私は彼の突然の発言に言葉を出すことができなかった。そうしていると彼は
「ごめん……久しぶりに同僚に会えたから嬉しくてさ……でも、迷惑だよな……」
「……え?」
彼は少し寂しそうな顔をして、そう言ってきた
「だって、俺……『横領』でやめた人間だろ?」
的場さんは自嘲しながらそう言った
「……それは!」
私はそれに対して、彼に何かを言おうとした。確かに彼は私の勤めていた会社を『横領』の疑いで追われた。しかし、それは偽りであった
『まったくだな……あいつ、会計費を見てその出資先を見つけそうだったし、前にクビを切った的場のことについてもおかしいと思って探ってたしな』
『馬鹿よね?的場さんがクビになったんだから、その時点で探ったら自分も危ない目に遭うのは目に見えいているのに……それも的場さんをハメた本人に相談するなんて』
あの『悪魔』達の会話が私の頭で再生された。彼はハメられたのだ。そして、私はそのことを知っている。だからこそ、彼の言い方は卑怯だった。もっとも、彼は私が『真実』を知っていることを知らないが
「いいんだよ……ま、俺みたいな奴と一緒にいたくないよな……じゃ!」
「あっ……!!」
彼は自分のことを卑下しながら、そのまま立ち去ろうとした。私はそれを見た瞬間、無意識のうちに手を伸ばし
―ギュ―
「え?」
「あ……」
彼の服の裾を掴んで、彼を引き留めてしまった。私は自分がどうしてこんなことをしたのかがわからなかった。そして、私は口を開いてあることを伝えようとした
「実は的場さん……私……」
私は少し言葉を出すのを躊躇ってしまった
「どうしたんだ?」
彼はそんな私の様子を見て足を止めた。私は本当なら、余計な詮索はしたくはされたくなかったのだけど、どうしても彼に伝えたいことがあった
「会社……やめたんです……」
私は嘘を吐いた。しかし、これは彼に本当に伝えたいことじゃない。この嘘は今の私の現状を隠すための嘘だ。そして、この嘘を聞いた彼は
「な……どうして……」
目を少し開いて驚き、私にその訳を尋ねようとしてきた
「あの……それは今から話しますから……席に座ってくれませんか?」
そんな彼に対して、私はとりあえず席に座ることを頼んだ
「え?……ああ、じゃあお言葉に甘えて……」
彼は私の言葉を聞くと席に座った。そして、
「貴水、どうして会社をやめたんだ?」
私に再び質問してきた
「………………」
私はそれを聞くと罪悪感に苛まされてしばらく黙ってしまったが、すぐにそれを振り払い彼に向き合い、そして、口を開いて言った
「私……知っちゃったんです……的場さんが『無実』だったことを……」
私が本当に言いたかったこと
それは彼が『無実』であることだ
「……!」
私のその言葉を聞くと、的場さん先ほどよりも大きく目を開いて驚いた
「恐かったんです……あんな人達の会社にいることが……」
私は『会社をやめた』と嘘を吐いたが、恐かったのは本当のことだ。実際、私はハメられなくても自分であの会社はやめるつもりだった
しかし、私は会社をやめたのではなく、やめさせられたのだ。そして、私は彼に対して嘘を吐いたことと彼を当時信じなかったことに罪悪感を抱いてしまった
「ごめんなさい……的場さん……」
私は同時に自分の新たな過ちに気づいてしまった。私は今まで先輩のことと自分のことしか考えず、私達と同じようにハメられ、先輩と同じように誰にも信じてもらえず、汚名を着せられた彼に対して何も感情を持たなかったのだ
本当に馬鹿よ……私……
「………………」
私が謝罪すると、彼は黙り込んだ
許してくれるなんてこと……ないわよね……
彼は恐らく、私のことを許さないだろう。無実の罪で罰を受けたら、最初は必死になって潔白を訴え続けようとする。それは1人でも自分のことを信じてくれる誰かを必要とするからだ
人間とはそう言ったものだ
的場さんも先輩も……本当はそんな『誰か』がいて欲しかったのに……
だが、的場さんには先輩がおり、先輩には九条先輩がいた。私はあの時、2人を信じられなかった。そして、だからこそ、私のことを信じてくれる人は誰もいないのだろう
「貴水……」
彼は徐に口を開き、私の名前を呼んだ
「………………」
私は顔を上げた。すると、彼が私のことを見据えて、何かを言おうとしている。恐らく、私のことを弾劾しようとしているのだろう。だけど、彼にはその権利がある
濡れ衣を着せられ、誰にも信じてもらえず、そして、目の前には自分を否定した存在が全てを受け入れようとしているのだ
彼には私を裁く『権利』がある。そして、私にはそれを受け止める『義務』がある
むしろ、裁いて……お願い……
世の中には『罰』から逃げるために相手に温情を求めようとする人間もいる。だけど、私はそんなのは嫌だ
もう……逃げるのは嫌……
私は先輩を信じることができず、『逃げて』しまったことにトラウマを抱えてしまった。だからこそ、私は裁かれたかった
そして、私は彼の目を見つめて『罰』を受け入れようと覚悟した。しかし、待っていたのは
「……ありがとう」
彼は穏やかな表情でそう言った
「……え?」
「そう言ってくれるだけで俺は大丈夫だよ」
彼の口から出てきたのは『裁き』でも、『恩赦』でもなかった。出てきたのは『感謝』だった。私はその言葉の意味がわからなかった
「どうして……そんなこと言うんですか……」
私は少し、苛立ちを込めて彼に尋ねた。それは裁いてもらえないことに対する『焦り』と自分を裁こうとしない的場さんに対する謂れもない『怒り』から来るものだった。すると、彼は穏やかに次の言葉を言い放った
「だって……貴水は謝ってくれたじゃないか」
ただ、それだけだった。だけど、それでは先ほどの言葉の理由としては不十分だ。だけど、その後に出てきた言葉に私は何も言えなかった
「俺さ……職場の皆から、否定されたから……その『言葉』さえも向けてもらえないと思ったんだ……まあ、多少は怒ってるけどな」
「……!的場さん……」
彼は嬉しかったのだ。一度否定された自分に対して、私が謝罪したことに。同時に彼は怒っていない訳ではない。彼は『鬼』にならないために怒りに身を任せようとしない『強さ』ももっていたのだ。しかし、
―ズキ―
私は辛かった。彼を見ていると自分がいかにして惨めな存在なのかを認識させられるのだ
そして、再び罪悪感が襲った。やはり、どうしても彼を一度でも疑ったことや信じなかったこと、そして、彼に会うまで彼のことを考えることのできなかった自分の浅はかさを許せなかった
「だから、気にすんな貴水……それに新しい職場も悪くない」
私が辛そうにしてると思ったらしい的場さんはそう言った
「仕事……見つかったんですか?」
私はそれに驚いた。言いにくいことなのだが、彼は私と同じように『横領』の濡れ衣でクビにされた人間だ。その彼を雇うとすると、ブラック企業しかありえないのだが、今の彼にはそんな後ろめたさがなかった
「ああ……今は藤堂(とうどう)さんのところの経理課で働いてるよ」
「と、藤堂さんですか!?」
私は驚いてしまった。藤堂さんとはとある通商会社の社長であり、『藤堂家』の長でもある人だ
『藤堂家』は九条先輩の実家である『九条家』、そして、あの悪魔の実家『進藤(しんどう)家』と並ぶ資産と家柄を持つ旧家だ
「意外そうな顔をしてるな……」
驚いた私に的場さんはそう言った
私は彼が藤堂さんの会社で働いることに驚きを隠せなかった。藤堂さんは企業家としても優秀な一面を持つが、それ以前に清廉潔癖な人格の持ち主としても知られており、はっきり言うと色々と黒い噂が絶たなかった私達の元職場のことを毛嫌いしている人でもある
「いや、その……なんで、藤堂さんは……」
私は的場さんに尋ねた
藤堂さんからすれば、あの会社の元社員で、しかも『横領』の疑惑でやめさせられた的場さんを雇う気にはならないはずだ、私が疑問に思っていると的場さんは上を仰いである人の名前を呟いた
「課長のおかげだよ……」
「……え?」
先輩……?
彼の口から出てきたのは私が最も罪悪感を抱いている人の名前だった
「……加藤……課長のことですか……?」
私は罪悪感から来る痛みに耐えながら彼に確認した。すると、かれはコクリと頷いて
「ああ……あの人、俺が会社から追い出されそうになった時にすぐに藤堂さんのところに頭を下げて、新しい職場を紹介してくれたんだ……」
彼は先輩に対して、感謝を込めるようにそう言い放った
「………………」
私はそれを聞いて、黙ることしかできなかった。あの時、的場さんを信じていたのは先輩だけだった。そして、彼は的場さんを救うために頭を下げて、彼を守ったのだ
先輩……
あの人の優しさと誠実さを思い出し私は辛かった。あれほど、誰よりも他人のことを思いやっていたあの人がよりによって、『裏切り』によって、『居場所』をなくしたのが辛かった。そして、あの人を信じることができなかった自分自身に
私が自責の念に駆られて深く後悔していると
「あの……その……貴水?お前はどうなんだ?」
「……え?」
彼は突然、私に何かを尋ねようとしてきた
「私ですか……?」
私は今の自分の現状を知られたくなく言葉を濁そうとするが
「さっき、会社をやめたって言ってたから、貴水は今はどうしているのか聞きたくなったんだ」
彼は私にとって、最も聞いて欲しくないことを彼は聞いてきた。私は
「……その……恥ずかしいんですけど……今はその……バイトと退職金で生活してます……」
自分の小さなプライドを守るために新たな嘘を吐いた。どうしても、穢れてしまった今の自分のことを私は表の世界の知人には知られることだけは嫌だった
「大丈夫なのか……?」
私の嘘を聞くと的場さんは私のことを気遣ってくれた。私は彼を騙したことに罪悪感を覚えながらも
「……大丈夫です……ありがとうございます」
彼に感謝した。彼は本当の私のことを知らないから心配してくれたのだが、それでも私は嬉しかった
でも……本当のことを言ったら……軽蔑されちゃうわよね……
私は本当のことを伝えるのことができないことに心の中で悲嘆しながら
「じゃあ、的場さん……さようなら」
二度と会うこともできないであろう表の世界の住人であり、『貴水 奏』の知人である彼と別れようとした
しかし、
「あ……貴水!!」
私が席から立とうとすると、突然彼は私のことを呼び止めた
「……なんですか?」
私は彼の呼びかけに体を止めた。そして、ゆっくりと彼の方を見ると
「えっと……その……」
彼は妙に照れくさそうにしており、口は言葉を出そうとしているのに言葉を出せずにいた
「あの……どうしたんですか?」
私は一刻も早く、この場を離れたくなりながらも表の世界の象徴である彼と別れるのも惜しくなりそのジレンマのせいで少し、イライラしながらも尋ねた
すると、彼は
「くっ……!!貴水……!!」
何かを決心したように私のことしっかりと強く見つめて
「俺と……付き合ってくれ!!」
強く、そして、しっかりとはっきりとそう言った
「……え?」
私はそれを聞いた瞬間、あまりのことに驚くことを通り越して考えることすらやめてしまった
私はまだ身体に疲れが残っているのを感じながらも身体を起した
「3時か……」
時計を見ると時刻は午後3時をとっくのとうに迎えていた。どうやら、私は7時間近く眠っていたようだ。しかし、それでも身体からだるさは抜けず、布団から体を出すのにも時間が掛かった。そして、
―グ〜―
「お腹空いた……」
腹の音がなり、自分の空腹感を感じたので疲労で覚束ない足で歩きながら台所のキッチンにある籠からインスタントラーメンを取り出そうとするが
「ない……」
インスタントラーメンは見つからなかった。どうやら、インスタントラーメンを切らしてしまったようだ
「はあ〜……仕方ない、外に食べに行こ……」
私はインスタントラーメンを切らしたことに気づくと、洗面台に向かい眠気とダルさを少しでも和らげるために顔を洗い、寝癖のついた髪を櫛で梳かし、ジャージとパーカーに着替えて財布とPHSを持って、外で軽食をする準備をした
―キー……―
「いってきます……」
私は部屋をです際に誰もいない部屋に向かって、そう呟いた。しかし、心の底では
この部屋に対して、もうこれ以上『ただいま』も『いってきます』も言いたくないのにね……
とそう呟いた。しかし、仮に借金を全て返済したとしても、私にはもはやここ以外に居場所なんて存在しない。恐らく、私に待っているのは男にとっては都合のいい『娼婦』としての道しかないのだろう
「お、響ちゃん、外出かい?」
「あ、はい……」
私が寮の入り口に着くとそこにはこの寮の管理人の久川(くがわ)さんが窓口にいた。彼は私にここを紹介してきた借金取りの友人で私の勤めている店の店長と一緒に店の風俗嬢を全て監督している人だ
「あの……ちょっと、食事に」
私が久川さんに外出の要件を話すと
「そうか、じゃあ……そこに帰宅の時間を書いておいて」
久川さんは私に帳簿を渡して、そこに外出時間と帰宅予定時間を書くように言ってきた。この寮では風俗嬢が外出をする際にはこう言った記憶をとるのが決まりだ
「あ、はい」
この決まりの理由は二つある
一つは風俗嬢の脱走を防止するためだ。この寮には私のような借金が原因で働いている者も多くおり、実はこう言った風俗業は違法スレスレのものであり、この生活が嫌になった風俗嬢が警察などに訴えると取り締まりの危険があるらしい。ゆえに店側からすれば風俗嬢を監視しなくてはならないのだ
もう一つは風俗嬢の安全を守るためだ。風俗嬢はかなり危険な仕事でもあり、トラブルに巻き込まれる可能性もあり、帰宅予定時間より遅い場合はこの辺りをシマにしている組織に捜索を頼むことにしているらしい
「はい、どうぞ」
私は時間帯を書き終えると久川さんに帳簿を渡した
「ご苦労様……ん?ちょっと、響ちゃん」
久川さんは私から帳簿を受け取り内容を確認すると、少し気になったことがあるらしく私に何かを尋ねようとしてきた
「……なんですか?」
私はそれに対して、面倒臭く感じて適当に返事をした。すると、久川さんは
「なんですか?て、響ちゃん……いくらなんでも、外出時間が短すぎるよ」
久川さんは私の外出時間の短さにどうやら危惧したらしく、私に外出時間を少し延ばすことを遠回しに言ってきた
「いいですよ……ファミレスとかのすぐに食事ができる所に行くだけですし、すぐに帰ってきますよ」
私は久川さんにそう言って外出時間を最低限だけにしようとするが
「いやいや……あのさ、響ちゃん?今まで黙ってきたけど、響ちゃんは自分のことを追い詰めすぎだよ?せっかくの外出なんだから過ごし位は気晴らしでもしてきなって」
久川さんは私のことを気遣って、私に気晴らしをすることをすすめてきた
「……私が逃げると思わないんですか?」
私は彼に対して、逃げることを指摘するが彼は少し表情を和らげて
「響ちゃんはいい娘だからね〜……何よりも真面目な娘じゃないか?借金を踏み倒す様な娘にはとても思えないし、それにそれは磐田(いわた)の奴も保障してるよ」
「……」
久川さんは私に対して、理由にもならない理由を言ってきた。磐田と言うのは私にここを紹介した借金取りの名前だ
「むしろ、磐田の奴は君のことを心配してたよ?」
「え?」
久川さんのその一言に私は驚きを隠せなかった。当然だ。借金取りにとっては、借主は借金を返せば客ではあるが、返せない場合は道具のように扱うのが普通のはずだ。しかし、なぜ、あの借金取りは私のことを心配するのかがわからない
「意外そうな顔をしてるね……響ちゃん、言っておくけどね……俺や磐田が所属している組は自分で言うのもどうかと思うけど、まだ……『マシ』な方なんだよ?」
久川さんは私の驚いた顔から私の心中を察して、そう言ってきた。しかし、彼の目は何かしらの哀愁を漂わせていた
「まあ、それも親父のおかげなんだけどな……あの人、はっきり言うと『時代遅れ』の人間なんだけど、外道じゃない人だからな……」
どうやら、久川さんは自分の組の組長のことを尊敬しているようだ。彼らの組長はそう言った人間なのだろう
「だから、あいつは君みたいな……言っちゃ悪いけど、鴨が葱背負った様な人間を放っておけないんだよ……それに君の仕事ぷりは真面目なのはいいことだけど、身体を壊さないか冷や冷やするよ……だから、休むのも『仕事』だと思って欲しいんだ」
彼はそう言って、私に休むことを静香に強く懇願した。世間では彼らは人でなし集団である人種だろう。しかし、彼らはやり方は非道であるが心の底までは外道になっていないようだ
私と言う『商売道具』を大切にしているだけかもしれないけどね……
私はそれを聞いて予定を改めた
「じゃあ……四時間ほど外出しますね?」
私はその辺を適当に回って、久川さんの心配をなくすために少なくもなく、多くもない時間を見積もった。それを聞くと久川さんは安心したのか微笑みながら
「よかった……じゃあ、帳簿の方は俺が書いておくから服を着替えてきてね」
安堵が込められた言葉で私にそう言った。私はそれに相手を心配させないように笑顔を繕って
「はい」
返事をした後にすぐに自室へと向かい、服装を変え始めた。意外にもあの借金取りは金目の物はかなり差し押さえたが服などは最低限の物を残してくれていたのだ
裏の住人のくせに……お人好しね……
私はこう言った彼らの気遣いには感謝はしているが、結局は彼らの生きている世界や彼ら自身のしていることについては一応は一般人の倫理観や道徳観を持っている私からすれば忌み嫌うものだ
まあ……お金を返せないのに借りた私が馬鹿なんだけどね……
しかし、結局のところ、私がこんな状況に陥っているのは私自身の愚かさが招いたのも理由の一つだ。久川さんや磐田さんは私のような馬鹿な女やお金欲しさに身を売る女を利用している商売人に過ぎない
そう、彼らは別に自分の欲望のためだけに働いているわけではないのだ。彼らは組織、いや、正確には自分達を拾ってくれた組織の長のために働いているだけなのだ
それでも……やっぱり、私は……
服を着替えながら私はこう思った。それは
普通の生活に戻りたい……
と言う極めて単純だけど、とてもかけがえのない願いだった。できることなら、私はここから出て普通の人生を送りたい。だけど、その願いはもう叶うことはないだろう。なぜなら、私は
「最低な女だもの……」
あんなに好きだった男性のことを疑い、彼が傷ついているのに助けもせず、さらにはその失恋の傷を癒したいがために好きでも男に『初めて』をあげた『女として最低の分類』だからだ
「それに……私みたいな穢れた女なんて……男の人は嫌よね……」
私はもう、既に何人もの男に抱かれた娼婦だ。よく、『心はあなたのことを愛しているの』と言う浮気した女の正当化にもなっていない一言があるが、娼婦の私が言うのもどうかと思うけど、私は同じ女としてそんな言葉が大嫌いだ
だって……『心は』て……じゃあ、どうして浮気をする必要があるの?
私からすれば、そんなの自分の浅ましさと醜さを認めたくないが自己欺瞞と自分の保身を図るための自己弁護にしか思えない
私はそんな身勝手な女にはなりたくない。どんなに理由を取り繕っても、私は所詮『薄汚い売女』なのだから
本当に馬鹿みたい……先輩を助けもしなかったのに、心の底では誰かにここから連れ出してほしいと願っているのよね……
そう、私は先輩への想いと罪悪感を捨てきれないのに誰かに助けて欲しいと願っているのだ
「……いってきます」
私はよそ行きの服に着替え終わると再び自室から出て、寮の入口へと向かった
「お、響ちゃん。準備できた?」
入口に着くと久川さんは私に気がつきそう言ってきた。私はそれに対して
「はい……いってきます」
と返事をした。そして、彼もまた
「いってらっしゃい」
と返した。私はそれを聞くと、寮を出て昼過ぎの繁華街へと足を進めた
「何食べようかな……」
私は繁華街の雑踏の中を歩きながら、これから何を食べるかを考えながら駅前へと向かった。その道中に私は色々な人を見た
カラオケ点に入っていく6人ほどの高校生達。不良が学生から身体だけは成長したようなバッドボーイ系の男達。そして、繁華街をデートする若い恋人達
将来のことは考えていないんだろうな……
私は彼らを見てそう思った。彼らは将来に対しての不安を持っていないから今を楽しんでいるのだろう。いや、正確には将来への不安を持たないように必死に努力しているのだろう。一見すると、彼らは馬鹿にしか見えないけど、彼らを見て私はこうも思ってしまった
羨ましい……
彼らは将来に対して、不安を抱けずにすんでいる。それが私との大きな違いだ。彼らは私と違って、必死になって努力すれば明るい未来を手に入れられる可能性もあるのだ。だからこそ、『今』を楽しく生きれるのだ
「いらっしゃいませ!」
そう、考えているうちに私はファーストフード店に着いた。そして、私はそこで一番安いセットを頼み昼過ぎで席が空いている中で適当に席に座った
「いただきます……」
食事をしながら、私は借金を返し終わった後の将来を考えた。しかし、どうしても私には何も見えなかった
返し終わっても……一度、こんな世界に足を踏み入れた私には外の世界に『居場所』なんてないのよね……
一度、風俗嬢となった私には表社会での職場で働くかつての『キャリアウーマン』としての道も好きな男性と共に生きると言う『女』としての道も存在しない
もういっそのこと……『快楽』に溺れて娼婦として生きていくしかないのかな……
私は悲嘆しながら自暴自棄な人生を送ることを次第に考えてしまった。恐らく、久川さんも私に対して『諦め』をつかせるために今日一日を遊びに費やさせて、『楽な生き方』を伝えようとしたのだろう
「でも……先輩も辛かったんだから、私だけが助かるなんて……」
『虫が良すぎる』と私は自分を軽蔑した。そして、私はそうやって自分を苦しめた。結局、私は先輩のことを『愛していた』と言う『証』が欲しいだけなのだろう
「ごめんなさい……先ぱ―――」
私が再び、先輩への謝罪を繰り返そうとすると
「……貴水?」
「……え?」
私の本当の名前を呼ぶ声がした。私が顔を上げるとそこには
「的場さん……?」
私のかつての同僚で私と先輩と同じようにあの『悪魔』にハメられた人物
的場 哲哉(てつや)が立っていた
「やっぱり、貴水か!久しぶり!」
彼は私を見ると嬉しそうにそう言った。どうやら、かつての同僚と再会できたことに的場さんは嬉しく思った様で明るい声でそう言ってきた
「お久しぶりです……」
私はそれに対して、対照的に暗い声で返した。私にとっては『貴水 奏』と言う人間の知人に会うことは苦痛でしかないからだ
「あの……的場さん……どうして、ここに?」
彼自身には何も嫌な思いはないが私は一刻も早く、かつての同僚と別れたくなり的場さんに用事があることを期待してそう聞いた
「いや、職場が休みでさ……暇だから、どこかでブラブラしてようかと思ってたら小腹が空いて、ちょっと、何か食べようとしてこの店に入ったら貴水がいて……」
私の淡い希望は砕かれた。彼にはこの後に何も予定がないらしい。つまりは彼の気がすむまで私は彼と一緒にいなくてはならない可能性が出てきた
「あ、そっちの席に座っていいか?」
「え?」
彼は私の向かい側の席を指差して相席を頼んできた
「え、あの……その……」
私は彼の突然の発言に言葉を出すことができなかった。そうしていると彼は
「ごめん……久しぶりに同僚に会えたから嬉しくてさ……でも、迷惑だよな……」
「……え?」
彼は少し寂しそうな顔をして、そう言ってきた
「だって、俺……『横領』でやめた人間だろ?」
的場さんは自嘲しながらそう言った
「……それは!」
私はそれに対して、彼に何かを言おうとした。確かに彼は私の勤めていた会社を『横領』の疑いで追われた。しかし、それは偽りであった
『まったくだな……あいつ、会計費を見てその出資先を見つけそうだったし、前にクビを切った的場のことについてもおかしいと思って探ってたしな』
『馬鹿よね?的場さんがクビになったんだから、その時点で探ったら自分も危ない目に遭うのは目に見えいているのに……それも的場さんをハメた本人に相談するなんて』
あの『悪魔』達の会話が私の頭で再生された。彼はハメられたのだ。そして、私はそのことを知っている。だからこそ、彼の言い方は卑怯だった。もっとも、彼は私が『真実』を知っていることを知らないが
「いいんだよ……ま、俺みたいな奴と一緒にいたくないよな……じゃ!」
「あっ……!!」
彼は自分のことを卑下しながら、そのまま立ち去ろうとした。私はそれを見た瞬間、無意識のうちに手を伸ばし
―ギュ―
「え?」
「あ……」
彼の服の裾を掴んで、彼を引き留めてしまった。私は自分がどうしてこんなことをしたのかがわからなかった。そして、私は口を開いてあることを伝えようとした
「実は的場さん……私……」
私は少し言葉を出すのを躊躇ってしまった
「どうしたんだ?」
彼はそんな私の様子を見て足を止めた。私は本当なら、余計な詮索はしたくはされたくなかったのだけど、どうしても彼に伝えたいことがあった
「会社……やめたんです……」
私は嘘を吐いた。しかし、これは彼に本当に伝えたいことじゃない。この嘘は今の私の現状を隠すための嘘だ。そして、この嘘を聞いた彼は
「な……どうして……」
目を少し開いて驚き、私にその訳を尋ねようとしてきた
「あの……それは今から話しますから……席に座ってくれませんか?」
そんな彼に対して、私はとりあえず席に座ることを頼んだ
「え?……ああ、じゃあお言葉に甘えて……」
彼は私の言葉を聞くと席に座った。そして、
「貴水、どうして会社をやめたんだ?」
私に再び質問してきた
「………………」
私はそれを聞くと罪悪感に苛まされてしばらく黙ってしまったが、すぐにそれを振り払い彼に向き合い、そして、口を開いて言った
「私……知っちゃったんです……的場さんが『無実』だったことを……」
私が本当に言いたかったこと
それは彼が『無実』であることだ
「……!」
私のその言葉を聞くと、的場さん先ほどよりも大きく目を開いて驚いた
「恐かったんです……あんな人達の会社にいることが……」
私は『会社をやめた』と嘘を吐いたが、恐かったのは本当のことだ。実際、私はハメられなくても自分であの会社はやめるつもりだった
しかし、私は会社をやめたのではなく、やめさせられたのだ。そして、私は彼に対して嘘を吐いたことと彼を当時信じなかったことに罪悪感を抱いてしまった
「ごめんなさい……的場さん……」
私は同時に自分の新たな過ちに気づいてしまった。私は今まで先輩のことと自分のことしか考えず、私達と同じようにハメられ、先輩と同じように誰にも信じてもらえず、汚名を着せられた彼に対して何も感情を持たなかったのだ
本当に馬鹿よ……私……
「………………」
私が謝罪すると、彼は黙り込んだ
許してくれるなんてこと……ないわよね……
彼は恐らく、私のことを許さないだろう。無実の罪で罰を受けたら、最初は必死になって潔白を訴え続けようとする。それは1人でも自分のことを信じてくれる誰かを必要とするからだ
人間とはそう言ったものだ
的場さんも先輩も……本当はそんな『誰か』がいて欲しかったのに……
だが、的場さんには先輩がおり、先輩には九条先輩がいた。私はあの時、2人を信じられなかった。そして、だからこそ、私のことを信じてくれる人は誰もいないのだろう
「貴水……」
彼は徐に口を開き、私の名前を呼んだ
「………………」
私は顔を上げた。すると、彼が私のことを見据えて、何かを言おうとしている。恐らく、私のことを弾劾しようとしているのだろう。だけど、彼にはその権利がある
濡れ衣を着せられ、誰にも信じてもらえず、そして、目の前には自分を否定した存在が全てを受け入れようとしているのだ
彼には私を裁く『権利』がある。そして、私にはそれを受け止める『義務』がある
むしろ、裁いて……お願い……
世の中には『罰』から逃げるために相手に温情を求めようとする人間もいる。だけど、私はそんなのは嫌だ
もう……逃げるのは嫌……
私は先輩を信じることができず、『逃げて』しまったことにトラウマを抱えてしまった。だからこそ、私は裁かれたかった
そして、私は彼の目を見つめて『罰』を受け入れようと覚悟した。しかし、待っていたのは
「……ありがとう」
彼は穏やかな表情でそう言った
「……え?」
「そう言ってくれるだけで俺は大丈夫だよ」
彼の口から出てきたのは『裁き』でも、『恩赦』でもなかった。出てきたのは『感謝』だった。私はその言葉の意味がわからなかった
「どうして……そんなこと言うんですか……」
私は少し、苛立ちを込めて彼に尋ねた。それは裁いてもらえないことに対する『焦り』と自分を裁こうとしない的場さんに対する謂れもない『怒り』から来るものだった。すると、彼は穏やかに次の言葉を言い放った
「だって……貴水は謝ってくれたじゃないか」
ただ、それだけだった。だけど、それでは先ほどの言葉の理由としては不十分だ。だけど、その後に出てきた言葉に私は何も言えなかった
「俺さ……職場の皆から、否定されたから……その『言葉』さえも向けてもらえないと思ったんだ……まあ、多少は怒ってるけどな」
「……!的場さん……」
彼は嬉しかったのだ。一度否定された自分に対して、私が謝罪したことに。同時に彼は怒っていない訳ではない。彼は『鬼』にならないために怒りに身を任せようとしない『強さ』ももっていたのだ。しかし、
―ズキ―
私は辛かった。彼を見ていると自分がいかにして惨めな存在なのかを認識させられるのだ
そして、再び罪悪感が襲った。やはり、どうしても彼を一度でも疑ったことや信じなかったこと、そして、彼に会うまで彼のことを考えることのできなかった自分の浅はかさを許せなかった
「だから、気にすんな貴水……それに新しい職場も悪くない」
私が辛そうにしてると思ったらしい的場さんはそう言った
「仕事……見つかったんですか?」
私はそれに驚いた。言いにくいことなのだが、彼は私と同じように『横領』の濡れ衣でクビにされた人間だ。その彼を雇うとすると、ブラック企業しかありえないのだが、今の彼にはそんな後ろめたさがなかった
「ああ……今は藤堂(とうどう)さんのところの経理課で働いてるよ」
「と、藤堂さんですか!?」
私は驚いてしまった。藤堂さんとはとある通商会社の社長であり、『藤堂家』の長でもある人だ
『藤堂家』は九条先輩の実家である『九条家』、そして、あの悪魔の実家『進藤(しんどう)家』と並ぶ資産と家柄を持つ旧家だ
「意外そうな顔をしてるな……」
驚いた私に的場さんはそう言った
私は彼が藤堂さんの会社で働いることに驚きを隠せなかった。藤堂さんは企業家としても優秀な一面を持つが、それ以前に清廉潔癖な人格の持ち主としても知られており、はっきり言うと色々と黒い噂が絶たなかった私達の元職場のことを毛嫌いしている人でもある
「いや、その……なんで、藤堂さんは……」
私は的場さんに尋ねた
藤堂さんからすれば、あの会社の元社員で、しかも『横領』の疑惑でやめさせられた的場さんを雇う気にはならないはずだ、私が疑問に思っていると的場さんは上を仰いである人の名前を呟いた
「課長のおかげだよ……」
「……え?」
先輩……?
彼の口から出てきたのは私が最も罪悪感を抱いている人の名前だった
「……加藤……課長のことですか……?」
私は罪悪感から来る痛みに耐えながら彼に確認した。すると、かれはコクリと頷いて
「ああ……あの人、俺が会社から追い出されそうになった時にすぐに藤堂さんのところに頭を下げて、新しい職場を紹介してくれたんだ……」
彼は先輩に対して、感謝を込めるようにそう言い放った
「………………」
私はそれを聞いて、黙ることしかできなかった。あの時、的場さんを信じていたのは先輩だけだった。そして、彼は的場さんを救うために頭を下げて、彼を守ったのだ
先輩……
あの人の優しさと誠実さを思い出し私は辛かった。あれほど、誰よりも他人のことを思いやっていたあの人がよりによって、『裏切り』によって、『居場所』をなくしたのが辛かった。そして、あの人を信じることができなかった自分自身に
私が自責の念に駆られて深く後悔していると
「あの……その……貴水?お前はどうなんだ?」
「……え?」
彼は突然、私に何かを尋ねようとしてきた
「私ですか……?」
私は今の自分の現状を知られたくなく言葉を濁そうとするが
「さっき、会社をやめたって言ってたから、貴水は今はどうしているのか聞きたくなったんだ」
彼は私にとって、最も聞いて欲しくないことを彼は聞いてきた。私は
「……その……恥ずかしいんですけど……今はその……バイトと退職金で生活してます……」
自分の小さなプライドを守るために新たな嘘を吐いた。どうしても、穢れてしまった今の自分のことを私は表の世界の知人には知られることだけは嫌だった
「大丈夫なのか……?」
私の嘘を聞くと的場さんは私のことを気遣ってくれた。私は彼を騙したことに罪悪感を覚えながらも
「……大丈夫です……ありがとうございます」
彼に感謝した。彼は本当の私のことを知らないから心配してくれたのだが、それでも私は嬉しかった
でも……本当のことを言ったら……軽蔑されちゃうわよね……
私は本当のことを伝えるのことができないことに心の中で悲嘆しながら
「じゃあ、的場さん……さようなら」
二度と会うこともできないであろう表の世界の住人であり、『貴水 奏』の知人である彼と別れようとした
しかし、
「あ……貴水!!」
私が席から立とうとすると、突然彼は私のことを呼び止めた
「……なんですか?」
私は彼の呼びかけに体を止めた。そして、ゆっくりと彼の方を見ると
「えっと……その……」
彼は妙に照れくさそうにしており、口は言葉を出そうとしているのに言葉を出せずにいた
「あの……どうしたんですか?」
私は一刻も早く、この場を離れたくなりながらも表の世界の象徴である彼と別れるのも惜しくなりそのジレンマのせいで少し、イライラしながらも尋ねた
すると、彼は
「くっ……!!貴水……!!」
何かを決心したように私のことしっかりと強く見つめて
「俺と……付き合ってくれ!!」
強く、そして、しっかりとはっきりとそう言った
「……え?」
私はそれを聞いた瞬間、あまりのことに驚くことを通り越して考えることすらやめてしまった
14/03/03 21:28更新 / 秩序ある混沌
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