読切小説
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Eclogue
ねえ……起きて……
起きてよ……ねえ……
私のために音楽書いてくれるって……言ったよね。
眠ってちゃ……音楽書けないよ……ねえってば……
ベッドに横たわる男を、少女は一心に起こそうと試みる。けれど、男の体が動く気配は無い。
眠っているだけなんでしょ……起きて音楽書いて。また、綺麗な音楽聴かせてよ……
少女の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
……お願い……起きてよぅ…………
男の傍に崩れ落ちた少女は、冷たくなりはじめた手を握り締める。
……ほら、私の魔力あげるから……
少女の背中に美しい翅が伸びる。蝶を模した透き通る虹色の翅から、結晶化した魔力が男へ降り注ぐ。まるで天使の祝福のように……だが、男の体はそれを受け付けない。それは彼の命が既に失われていた事を示していた。

間にあわなかった。

少女がここへ駆けつけた時、男の息はもう微かなものだった。それでも男は震える手で枕元に置いた楽譜を取り、彼女へ差し出す。
「お願い……僕の事は、もう……いいから、これを、フィーナと……いう子に、渡して……ほしい……」
それが彼の最後の言葉となった。
楽譜を託した彼は、その使命を終えるが如く静かに息を引き取ったのであった。
楽譜を受け取った少女は呆然とその場に立ち尽くした。

あとほんの少し、もう少しだけ早く来る事ができたなら、彼を死なさずに済んだのではないか。自責の念が彼女に拳を握らせる。掌に収まった楽譜がクシャリと乾いた音をたて歪んだ。
え……?
微かな香り。それは確かに生の香り。
彼女は急いで楽譜を広げる。一気に広がりをみせる生の息吹。
有り得ない。彼女は楽譜を覗き込み、とある事に気付く。
楽譜いっぱいに描かれた音符は、その全てが赤黒く変色していた。彼女は改めて男の顕になった腕に視線をやり、その光景に息をのんだ。その腕には無数の切り傷が刻まれていたのだ。
何故こんな事を? 少女の疑問は直ぐに氷解した。
机には空になったインク壺が転がっていた。殆どインクの匂いもしない。既にインクを使い果たしてから数カ月を経た状態である事は明らかだった。なら、この楽譜はどうやって書き上げられたのか? 何の事は無い。男は自らの体に傷を付け染み出た血糊をインク代わりにしていたのだ。
―――どうしてこんな馬鹿な事を。言葉にしようとして、少女はソレを飲み込む。楽譜の初めに書かれていた文字に気が付いたから。
“この曲を僕の愛するフィーナに捧ぐ”と。あまりにも拙い文字。彼がまともな教育一つ受けられずにいた事を物語る。学も無くまともな雇い主一人手にできなかった彼は、最後に自らの血をも捧げこの曲を書き上げたのだ。
少女は再び楽譜に視線を落とす。男の……邂逅の前から音だけで私の心を掴み取った芸術家の最後を見届けようと……

フィーナが男の曲に出会ったのは場末に有る古びた飲み屋だった。
唐突に流れ出したメロディーの美しさに彼女は一分と経たず魅了されていた。思わず隠していた翅を広げてしまいそうになる程の美しさに、彼女は居ても立ってもいられずその場で店主に頼み込み楽譜を譲ってもらう。
自らピアノを弾きその音符から溢れる芸術の魂を味わうフィーナ。今まで幾人もの芸術家を見続けてきた彼女が、曲が終わって暫く言葉を失うほどの魅力が音から溢れていた。特に清廉にしてどこか影を含んだ音は、フィーナの波長とよく合った。
もっとこの人の曲を聞きたい。この人の才能が欲しい。この人の、心が欲しい。
楽譜には殴り書きで『サイラス』とだけ書き込まれていた。
その日からフィーナはサイラスを探し始めた、のだが……一向にその姿を捕える事はできなかった。ただ残された楽譜をたどる日々が続く。
そこでフィーナは一計を案じる。サイラスの良く立ち寄る酒場に手紙を残す事にしたのだ。自分の魔力を封じた手紙を。案の定、そう時間もかからず彼から手紙が舞い戻る。ただアリガトウという言葉と美しい曲が書き込まれた楽譜を添えて。
それからフィーナとサイラスの手紙を通じた交流が始まった。サイラスの紡ぐ音は徐々にその色を愛情に染まってゆく。
もう少し。もう少しで彼は私の元へ……
だがある日、手紙は唐突に終わりを告げた。
『ごめんなさい。私はもう長くないのです。私の体は治る事の無い病に冒されているのです。貴方のような素敵な人に私の最後を見せたくはないのです』
と。そして添えられていた楽譜には……ハッキリと死の姿が浮かんでいた。
フィーナは三日三晩町中を探し回り、ようやく彼の住まいを見つける。
だが……
思い人は既に床に伏し、死出の道を歩もうとしていたのであった。

フィーナは残された楽譜から音を紡ぎだす。
静かに始まったピアノの音は彼女を遠い草原に導く。空は晴れどこまでも澄み渡る。弦の音が柔らかな風を連れてくると、草の原に絡み合い柔らかな香りを連れて来る。
彼女は思う。私の生まれ故郷に似ている。と。彼が知る筈の無い妖精の国の姿を映したようで、驚きと同時に郷愁を掻き立てられる。
徐々に強くなる風は空に雲を運び、悲しい記憶を思い出させる。悲しさに折れそうになる心。演奏を止めようとした刹那、誰かが彼女の肩をそっと抱く。
その姿に、フィーナは驚きそして涙する。
サイラス。生を終えた筈の彼がヴァイオリンを携えながら彼女の傍らに佇んでいた。
そうだ、彼はまだ楽譜の中に生きている。フィーナは更に音を紡ぐ。サイラスは彼女のピアノに合わせしなやかな弦の音を紡ぎ出した。
音楽は頂点に向かって走り出す。二人の重なる音が愛を育み、草原に美しい花を咲かせた。
静かに降りて来る音は、草原に夕闇を連れて来る。愛し合う二人にもやがて別れの時は迫る。後ろ髪を引かれるような音に身を委ねながらも、二人は別れを告げる。
…………
彼女は涙を流していた。妖精をも魅了する音楽を紡いだ才能にしてはあまりに質素で恵まれない最後であったが、彼は最後に音符を通じてフィーナに語りかけていた。
『幸せでした』と……

妖精界に不思議な噂が流れている。原色を好むリャナンシーにあって、黒い服に身を包んだ変わり者がいる、と。その者は人間界と魔界の狭間に住み自ら姿を見せない。けれどその姿は、人はおろか魔物さえ魅了するほど美しく艶やかだと。そして、彼女の持つ一片の楽譜は、魂をうばわれるほどに美しいと噂された。
だが、彼女の姿を見た者は居ない。何故なら、その姿や楽譜を求めその妖精の住む場所へ向かった人や妖精は、誰一人として戻らなかったから。
……魅入られたのは死した芸術家だったのか? それとも芸術を愛する妖精だったのか?
今でも時折美しい音楽が流れてくるそうだが、真偽の程は定かでない。

―了―
10/04/15 01:29更新 / DOBON

■作者メッセージ
丁度この魔物娘の紹介文を読んでいる時に
かけていた音楽から触発され、一気の書き上げでした。
拙い分でスミマセン。
ちなみにその音楽は→http://www.youtube.com/watch?v=rIS6mmvtu2k
SSと一緒にどうぞ。
(マイナーな曲ですが、イイ曲ですよ。ひょっとしたら、知っている人もいたりして……)

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