7.渡世の情
青い空に雲が流れている
ちゃぽん…
そんな音と共にその空が揺らいだ
周りを見渡せば
緑色の線
細い茎から青い若葉がすぅっと伸びている
辺り見渡す限りそこに見える
そこは水田であった
そこの向こうに見える山の斜面にも段をつくって田が作られている
風にそよぐ稲
緑溢れる一面の水田
どこかで蛙が鳴いている
水田沿いにある小道
その道は棚田へと続いている
棚田の麓には、小さな祠があった
祠の脇には人の背ほどの楠がやさしく揺れている
その木陰で男が昼寝をしていた
ちょうど昼飯を食べ終わり、腹も膨れた所でうつら…うつら…としたようだった
安らかな寝息をたてる男
たったったったった
そんな男目指して駆けて来る小さな足音があった
「にぃちゃん!にぃちゃん!!」
小さな男の子。彼は男のそばに来ると揺さぶる
「にぃちゃん・・・にぃちゃん!」
「・・・うん?なんだタツ坊か。昼寝してんだから起こすな」
タツ坊というのは男の家の近くに住む家族の子だった
「にぃちゃん。またあれやってよあれ」
「・・・またか。妹のお守りはどうした?」
「いまはかぁちゃんにまかせた」
「かあちゃんも今は忙しいだろうに・・・」
「だからぁはやくぅ、にぃちゃんあれやってよぅ。どうしても聞きたいんだよぅ」
「しょうがねぇな」
タツ坊の言う“アレ”・・・
男は、被っていた笠を手に取るとそこへと置き
立ち上がると、腰を少し落として左手を左膝へ、右手は前に差し出した
「ごめんなすって・・・北の方より流れて来るは、現世の義理もしがらみもうまれてこの方無頼旅。渡世人、銀之丞たぁ…あっしのことで!」
「いよっ!にぃちゃん!!」
「褒めるモンでもねぇ」
めんどくさそうにそう答えた男
「格好よかったよ。にぃちゃん」
「タツ坊は絶対に“渡世人”なんてやくざモンになっちゃいけねえぜ?」
「うん。わかってるよにぃちゃん。おいら、とぉちゃんとかぁちゃんといもうととじぃちゃんとばぁちゃんと仲良くやっていくよ」
一人ずつ数えながら小さな手を開いていくタツ坊
「それでいい。タツ坊、おまえのおっとぅとおっかぁの前では絶対にこれをやっちゃぁなんねぇ。悲しんでしまうぞ?わかったな」
「うん。やらない。おいら、みんなのかなしい顔なんて…みたくない」
「それでいい。世を拗ねたヤクザモンなんて俺だけでいい。さて、昼ももういいだろう。タツ坊?おっかぁの所へ帰れ。俺ももう少し田の手入れをしなけりゃならねぇ」
「うん。にぃちゃん!またあとでね!」
タツ坊が走り去っていくのを、手を振りながら見送る男
男は、伸びをして体をほぐすと、近くの田へと入っていった
田植えから夏にかけてのこの時期は、稲がぐんぐん伸びる
それと共に、田の中の雑草も同じように伸びてしまうので、毎日毎日とってやらないといけない
自分のことを“渡世人”と言ったこの男がなぜ百姓と同じことをしているかというとワケがあった
数ヶ月前のこと、秋の長雨の時期であった
男はふらりと山の中を歩いていた
名も無き細道。獣道のような道
ちょうど、水田を望める景色の良い所に差し掛かったときだった
足場が悪く泥濘に足を捕られて、そのまま下に落ちてしまった
落ちた時に足を挫いたらしく、痛みがあった
泥だらけになりながら、他に怪我はないかと体を動かしていた時、向こうから水田の見回りをしていた村の衆に会い、助けられたのだった
「あっしは、世を拗ねた渡世モンでございやす。こんなヤクザな奴と係わっちゃぁ、おめぇさん方も・・・」
「ヤクザだろうがなんだろうが、困ったお人を見逃すわけにはいかない。しばらく、この村で養生するとええ」
と、村長は言ってくれた
その後、養生の甲斐あって足も治った
受けた恩を返す為に男はここで村の手伝いをすることにした
村長は、恩など返さなくても、困っている者を助けるのは当たり前だと言ってくれたが、
「ヤクザにも仁義っつうモンがありやす。受けた恩を返さなければ、あっしの気がすまねぇ。ここは、刀を鍬に持ち替えて少しずつ恩を返しやしょう」
そうして、男は村の空き家で暮らすこととなったのだった
それ以来、年寄りのところに行っちゃぁ手伝いを、ガキのいる家に行っちゃぁガキのお守りをといろいろとやっていた
そんなわけで、ヤクザだと言うのに村の皆は親しくしてくれていた。そんな村に、男も少しずつ惹かれていっていた
ある日の夕方、タツ坊がやってくると言った
「にぃちゃん!明日の朝方、早くに起きて?」
「なんでだ?」
「なんでも!」
「なにかいいことでもあるのか?」
「うん!」
顔をニコニコさせて頷くタツ坊
「・・・ふぅむ。よくわからんが・・・分かったタツ坊、できるだけ早くに起きてみらぁ」
「うん!ぜったいだよ!にぃちゃん」
そして、元気よく帰っていった
次の日の朝
タツ坊が言っていたように早くに起きると、あたり一帯は朝靄に包まれていた
少し蒸してきているが、まだまだ涼しかった
東の空がほのかに明るくなり始めている
山山の向こうでは、もう日は出ているのだろう
靄が日の光を浴びて少しずつ白く明るくなってくる
いつもの棚田下の祠で待ってみるが…
なかなかタツ坊はやってこない
寝坊か?
と思っていると、向こうから人影がやってくるのが見えた
…タツ坊にしては背が高い?
訝しく見ていると、徐々にそれがどんな人なのか見えてきた
「…女か?」
黒髪の女
巫女のような出で立ち
白い着物に、緋袴
背をしゃんと伸ばして歩いてくる
女は銀之丞のところにやってくると、目の前で止まった
「おはようございます」
そういうと、少し会釈をする女
「おはようございます」
挨拶を返すと、女は微笑んだ
「これを…」
竹筒を渡す女
「?」
「稲の葉先から出る朝露をここに集めてください」
「なぜだ?」
「七夕です。この地の七夕は、この露を集めその水で墨を磨り、短冊に願いを書き笹に吊るすと願いが叶うとあります。あなた様もどうぞお一つ」
竹の器と墨入れを渡すと、彼女は会釈をしてそのまま朝靄に包まれた田の中へと入っていった
唖然と見送った
「七夕…もうそんな季節になっていたか。願いが叶う…か」
銀之丞もなんとなくそれに従い田の中へと入っていった
この季節になると夜、稲は大量の水を吸い上げる。その吸い上げた水を露として葉の先から出す。何故、露をたらすのか分からない。稲に不思議な力でもあるのではないかと思われた。だから、七夕ではその露を集めて短冊に願いを書くと、願いを叶える事ができると言うこととなったのだろう
棚田と祠の近くに笹が生えていた
彼女は、何事かを短冊に走らせそれをそこに掛けた
「銀之丞は何を願ったのです?」
「俺は…」
何も言わずに短冊を渡す
そこには、村の者達の幸せを祈る言葉が書かれていた
「俺は、流れの渡世人さ。誰かの幸せを願うなんざ、ガラでもねぇが…世話になったこの村のモンにゃ幸せになってもらいたいものよ」
「…そこに自分のことは含まれてないのですか?」
「俺は、幸せにゃなれねぇ。死ぬ時も畳みの上なんて上品な死に方はできねぇし、しちゃいけねぇ。たぶん、どっかで野垂れ死にというとこか…」
「…なんで」
「うん?」
「なんで自分の幸せを願わないのですか?」
「俺は、ヤクザモンさ。今までやらかしたことを考えれば赦されるもんじゃねぇ。渡世人には渡世人の生き様っていうモンがある。女子供にはわからねぇことよ」
そう言った銀之丞
女は伏せ目がちに言った
「…悲しい人」
「そういうおまえさんは何を願ったんだ?」
「……」
「言えねぇか。まぁ願い事なんざ人に聞かせるモンじゃねぇな」
「いえ…良き方と巡り逢えますように…と」
なぜか女はまっすぐに銀之丞の目を見て言った
「そうかぁ。まぁそういう奴に巡り会えるといいな。まぁ微力ながら俺もあんたの願いが叶うように祈っているぜ」
女は、銀之丞の短冊も笹に掛けた
「にぃちゃーん」
靄の向こうからタツ坊の声と足音が聞こえてくる
「タツ坊!遅いぞー!!」
そう返してやると、息をはぁはぁ言わせてやってきた
「遅いぞ?タツ坊」
「にぃちゃんゴメン…おいら、おねぼうしちゃった」
「それでね。朝露を…」
「朝露を集めて短冊に願いを書くとそれが叶うって?」
「にぃちゃん。知ってるの?」
「知ってるも何も、このねぇちゃんが……あれ?」
振り向いたが、さっきまで女がいたところには誰もいない
「にぃちゃん。オイラが来たとき、ここにはにぃちゃんしかいなかったよ?」
「そんな…化かされたのか?まさかな…」
「にぃちゃん。そこの笹に短冊があるよ。片方には字が書いてあるけど、もう片方にはなにも書いてないよ?」
「その書いてあるほうが俺が書いたんだ。もう片方は…もう一人居たんだが…まぁいい。タツ坊、おめぇは字書けんのか?」
「ううん。おいらまだ書けないから、おさのじっちゃんに書いてもらうんだ。だから、つゆだけ集める」
そういうと、竹筒を見せるタツ坊
「そうか。頑張れよ」
「うん!」
集め終わる頃には、日も高く昇っていた
空があんなにも青い
また、熱い一日になりそうだ
昼頃、ゆっくりとした足取りで長が二人の前にやってきた
「銀之丞さん、タツ坊せいがでるのう」
「長殿もお元気そうで」
「じぃちゃん。集めたから書いて?」
短冊と竹筒を差し出すタツ坊
「銀之丞さんも書いたのかい?」
「はい、朝一で。長殿、この村にはあんな若い娘子がいたのか?」
「あんな若い娘子?……どんな娘でしたかの?」
…長い髪の巫女のような出で立ち
特徴を話すと、長は顎をさすって言った
「それは、おそらく“お守り様”じゃな」
「お守り様?」
「この村には、昔っから居られるんじゃよ。この村を見守っていてくださる方がの」
そうして、長は昔話を始めた
その昔、この村が出来る前
ここに一匹の狐がおった
そしてある時、一人の炭焼きの男がこの里へとやってきた
互いにそんな者がいるのは知っていたが、干渉することもなく静かに暮らしていたと言う
ある年、長い日照りがやってきてここいら一帯の水も食べ物もほとんどのうなってしまっての
狐は食べ物ほしさに、男の前に姿を現した
男も、日照り続きで心細かったのであろうな
狐に僅かな食べ物を与えて共に暮らすようになったという
炭焼きで作った僅かな金子で、食べ物をどこからか持ってきては共に暮らした
日照りが収まると、男は体を壊した
そのうちに、この里に人が多く住むようになる
里に来た者達が炭焼きの元を訪れると、男の体は治っていて、傍には美しい女がいた
甲斐甲斐しく世話をする女。不思議な力を持っていたとも言う
あまりにも美しかったために評判となった
その女は、病の者がいるとたちどころに治し、体を痛めた者がいるとこれも治した
ある時、また日照りが里だけではなく、この地一帯を襲った
しかし、女の力によってこの里は豊かな豊穣に恵まれた
その豊穣を、里の者達は辺りの村々に分け与えた
そんなことで、その女は神として奉られたんじゃ
奉られ社が建てられると、女は炭焼きの男と一緒に暮らし始めた
とあるモンが二人のもとを訪れると、女の頭には狐の耳、そして尻に尾がはえておったという
二人は、ずっとこの地を見守った。そして二人の間に子が出来きある程度育つと、その子にこの地のことを任せてどこかに行ってしまうらしいのよ。それが、この地にいるお守り様じゃ
おそらく今いるお守り様は新しいお守り様じゃろう
今は不満もなく我らは健やかに過ごせている。ありがたいことじゃて
「銀之丞さん。おそらくその娘はそのお守り様じゃ。お守り様は、時々人の前に姿を現すらしい。この七夕の時もな、一緒に願いを込めるのじゃ。でも、お守り様の書いた短冊はあってもその字を見ることは誰にもかなわんのじゃ」
「じぃちゃん、この短冊……なにも書いていないんだ」
「ああ。たぶんそうじゃろうな」
「…狐。人ではないものか……」
「なに、恐ろしい者ではないぞ銀之丞さん。むしろ、会えたんじゃ。誠、運のええことじゃて」
「わかっているさ。この世で最も恐ろしいのは、人という生き物だ。奴らは平気で、人を騙し、奪い、殺す。因果な者さ」
銀之丞の顔にはなんとも言いがたい悲しげな翳が、一瞬差し込んだ
「さて、俺は仕事に戻る。長殿、タツ坊また後で…」
そう言って歩き出した銀之丞の背は寂しげだった
「にぃちゃん…」
「なんとか、あの銀之丞さんの背負ったものをなんとかしてやりたいもんじゃなぁ…」
長とタツ坊の悲しげな声がそこに響いた……
夜、日が落ちた頃……
銀之丞の家の扉を叩く音があった
とん…とん…
その音は、力弱い…
「誰だ?」
「にぃちゃん……おいらだよぅ」
「タツ坊?ちょっと待っていろ」
戸を開けてやると、タツ坊が戸の前で縮こまっていた
「どうした?」
「うん。とぉちゃんとかぁちゃんに七夕の話をしてもらったんだよぅ。おいら、天の川をみたくなって…」
「家先でも見えるだろう?」
「ううん。ここからだと雲が出ていて見えないんだ……。だから、にぃちゃんに広い所に連れて行ってもらいたいんだ」
「とぉちゃんとかぁちゃんはどうした?」
「寝てる。おいら……そっと抜け出てきたんだ…」
「…ふぅ。しかたねぇな……じゃぁ少しだけだぞ?」
「うん!!」
「しーーー」
「うん…」
天の川……棚田の上ならば見えるだろうか?
銀之丞はタツ坊と手を繋いで歩いていった
虫虫や蛙の声が響き渡る畦道
時折、蛍が小さな光を出しては飛んでいる
「にぃちゃん…」
「…ああ」
タツ坊の残念そうな声…
空には、雲がかかっていた
ちょうど、天の川があるであろうところに…
「お空のにぃちゃんとおねぇちゃんが会えているといいね…」
「そうだな…」
しばらく見ていたが…やはり、雲がひく様子はなかった
「タツ坊…今日はもう帰ろう」
「…うん」
気落ちした声…
そんな時
びゅおうぅぅ!!
と、どこからともなく風が吹く音がした
風は、瞬く間に空の雲をどこかへと追いやっていく
タツ坊と二人、唖然としてその様子を見ていた…
「にぃちゃん!」
「おう…」
光り輝く空の川…
西の空低い所には弓月が浮かんでいる
きらきらと眩く光る…
「にぃちゃん!見て!田んぼにも!!」
声につられて下を見れば田に星の輝きが映りこんでいる
いっぱいの星の光に触発されたのか、蛍たちが一気に輝きだした
星の白い瞬きと、蛍の黄色い瞬き…
「きれいだね…おいら、もっと見ていたいよぅ…」
「そうだな…だが、今日はもう遅い。あんまり遅いと、とぉちゃんとかぁちゃんが心配するぞ?」
「…うん。おいら、帰るよ」
「送るぞ」
「ううん…大丈夫。おいらひとりで帰れるもん」
「そうか・・・気をつけて帰るんだぞ?」
「うん!また明日ね!にぃちゃん!!」
ひとり、駆けて行くタツ坊。薄く見える田の中を小さく黒い影が一つ走り抜けては一軒の家へと消えていった
それを一人、棚田の上から見守った銀之丞
「ふぅ…」
軽く息を吐くと、棚田の石垣に腰掛けた…
「……出て来いよ。いるんだろう?」
銀之丞は誰とも知れずに話しかけた
「…こんばんわ銀之丞」
朝靄の中で会った女の声が後からした
「…こんばんは」
人ではない者と聞かされて、なんと話しかけてよいものかと思案していると
「ふふふ。私のことをお聞きになったのですね?確かに私は、神のように奉られてはいるけど魔物。稲荷と言われています」
隣に立って笑う女
「いなり…」
「私の名は、和葉」
「…俺の名は、銀之丞だ」
「知っているわ」
「そういや、前に一度名を呼んでいたな。なんで知ってんだ?」
「この里にやってきた人の名などみんな知っているの」
「…そうか。まぁ…なんだ……座ったらどうだ?」
「……いいの?じゃぁ隣…お邪魔します…」
隣に座った女
「雲をはらったのおまえだろう?」
「わかりました?」
「タツ坊が残念そうに声を出した途端に風が吹いて、雲がどこかへと行ったからな…。まず、人の業じゃぁねぇと思った」
「ふふっ。ばれてしまいました」
「まったく、狐っつぅモンはいたずら好きらしい……だが…タツ坊も喜んでいたしいいか…」
「天の川…。彦と姫…。愛し合う二人…。祈らずにはいられません」
「何をだ?」
「幸せを…」
彼女の指先にとまった蛍。やさしく明滅を繰り返す
それを見つめながら、銀之丞にやさしく言った和葉…
「幸せ…か」
「はい」
「…俺には…よくわからねぇな。どちらかと言えば、誰かの幸せをぶち壊してきたような男だからなぁ…」
今までやってきたことを思い出して、銀之丞は足に肘をついて顎を乗せた
「昔は昔、今は今・・・。人はいつでも幸せを願ってもいいのではないですか?例え昔何があっても…」
「和葉よ。前にも言ったが……先は野垂れ死んじまうと思ってるような奴にはわからねぇ話だ。俺はいつかはここを出て行くことになるが…ここには幸せを願う奴がいたことは俺も忘れねぇぜ。まぁ今日のところは上の二人が会えるか会えねぇかという大事な日だ。俺の昔話なんざ聞いたら上の二人が気を悪くすんだろう。だから、俺はもう寝るぜ…おやすみな…」
「銀之丞……おやすみ…」
少し悲しそうな和葉の声が響く…
蛍はどこかへと飛んでいってしまっていた
ふと、空を見上げれば…
薄雲が出てきて天の川を覆い隠しだした
それは、もどかしさを感じる和葉の心のようだった
青々とした空に蝉声が忙しなく響く頃…
いつものように夜が明けきっていないうちから田の見回り
もう、だいぶ稲に籾が出てきていた
もうそろそろ、花が咲くのかと思って見守っていると…
「こんにちは銀之丞」
「こんにちは…和葉」
「名を覚えていてくれた!うれしい」
「あの夜以来だな」
「そうね。タツ坊…喜んでくれてよかった」
「そうだな」
「銀之丞?私はこの里の皆も…あなたも幸せにしてみせるわ」
「和葉…」
「私は諦めないから!あなたがどんなに拗ねていようとね」
「そうか…まぁ……頑張れよ…」
「はい!!」
眩しくなるような笑顔で頷く和葉
それが、銀之丞にはとても眩く見えた
「…まったく」
「さて、銀之丞と話せたし、お仕事お仕事!!」
楽しげに笑うと、扇を取り出した
黒の漆に塗られた扇を取り出すと、両の手に持ち静かに開いていく
しなやかな手がゆっくりと扇をひらいた
開ききると片手に持って、前をゆっくりと二三仰ぐ
『――――・・・――――・・・』
何かの節を唱える…
ぴょこんっ!
と、頭の上と腰に何かが見えた
「?!」
よく見れば、狐耳と狐の尾だった
3本のふさふさとしたしっぽが見える
和葉がちょこっとこちらを見た
いたずら小僧がいたずらを見つかって、少し悪びれて笑ったかのような笑みを浮べていた
そして、その体が黄金色に光りだした
茶色かった瞳も、黄金色に見えた
気が付けば―
水田の上を滑るように踊り、舞っている
足元を見れば浮いていて、空を滑り舞っている
黄金の光が残滓のように水田へ降り注ぐ
稲を見ると、一斉に花開いていた
和葉は、扇を仰ぐ。その動きにあわせるように風が田をやさしく抜けていく。その風と共に舞う
稲に声援を贈るかのごとく、不思議な旋律の歌を詠っている
籾が開いて黄色のおしべが伸びてきて花粉が飛ぶと、風が掬い取るようにその中の綿のようなめしべへと届けていく
優雅に舞う和葉に銀之丞は見惚れていた
心に響く旋律に心奪われていた
時間にして、一刻もなかっただろう
呆けたように立ち尽くしていると、和葉がやってきた
「銀之丞?どうしたの?呆けたような顔をして?」
「…きれいだった」
「え?なに聞こえなかったんだけれど?」
「あ…いや……なんでもねぇ」
バツの悪そうな顔をしてごまかす銀之丞
「ふふっ」
なにがおかしかったのか、和葉は笑った
「ははっ」
つられて銀之丞も笑ってしまった
顔をつきあわせて笑う二人
銀之丞は今までずっと忘れていた、人に心を許すということを思い出し始めていた
そんな毎日を送っていた銀之丞だったが…
とうとう恐れていたことが起こってしまった
川原で汗を流そうと手ぬぐいを水に浸している時…
林から飛び出す男達がいた
「やっと見ぃつけたぜぇ!!銀之丞!!」
眼つきの悪い出っ歯が言った
「てめぇ!よくも頭を殺ってくれたなぁ!」
小太りの男が刀を抜きながらいった
「この落とし前、どうつけてくれるのか!?」
チビな奴が言った
他にも2〜3人ほどが飛び出してきた
銀之丞はずっと旅をしてきたワケ・・・
とある一家にいた時だった
頼まれて、その一家のお頭を殺ってしまったのだった
当然、追われる事となり流浪の日々を送っていた
「お前達か・・・あれは頭の落ち度よ。てめぇの女の心根も知らねぇで、次から次へと違う女に手を出しまくった…な」
「まさか、姉さんが死んだのは・・・」
「そうよ。姉さんが、次から次へ女を作りまくるお頭に頭に来て殺してくれと頼んで来たんよ。私も後を追って地獄行くからって言ってなぁ。お頭は元々、ヤクザモンの頭じゃぁなかった。元はお侍よ。姉さんに惚れて、お家の縁組相手捨てて、家を捨てちまったお人だぁ。姉さんはそんなお頭に心底惚れた。でも、ヤクザモンになってお頭は変わってしまわれた。欲と金にもの言わせてやりたい放題・・・。姉さんは、そんなお頭を見てられなかったんだろうよ」
昔見た姉さんの泣き顔・・・
「おめぇ!姉さんに惚れてたのか?」
「さぁなぁ。昔のことよ」
「とにかく、こっちはお頭の仇討ちだぁ!!覚悟しやがれ!このこんこんちきがぁ!!」
言い終わると一斉に抜刀して飛び込んでくる
「でぇぇぇぇぃぃぃ!!!」
刀をしゃむにに振り回すやくざ共
それをかわしながら、走る・・・走る
借家にくると刀を取って、また走る
そんなところで斬り合いなどしたら村の誰かが傷ついてしまう
銀之丞は歯を食いしばりながら、人のいない方へと走った
刀を抜くと、不用意に近づいた者を斬りつける
こちらは銀之丞一人に対し、数で勝るヤクザ共
じりじりと包囲されつつあった
そんな時・・・
「動くなぁ!刀ぁ捨てろ!銀之丞!!」
「にぃちゃん!!」
「タツ坊?!」
眼つきの悪い男がタツ坊の首筋に刀を突きつけている
「銀之丞!このガキが可愛かったら刀を捨てろぃ!」
いつまでたっても取り押さえられないのに苛立ったのか、タツ坊を攫ってきたようだった
「・・・てぇめぇら!!」
ぎりぎりと歯が鳴る
「捨てろ!!」
仕方がなく、銀之丞は刀を地面に突き刺した
「これでいいだろう?タツ坊をこちらに寄こせ!」
出っ歯が銀之丞の刀を回収するのを黙ってみていると、奴らはタツ坊を放った
「にぃちゃん!」
怖かったのだろう。すぐに足にすがり付いてきた
「タツ坊!!すまねぇ。とんだことに巻き込んじまった」
タツ坊を抱きかかえる銀之丞
じりじりと迫る奴ら
「さぁ、銀之丞!逃げ場はねぇ!おとなしく死にやがれ!!」
「安心しろい!寂しくねぇようにガキも一緒よ!」
「けけけけっ!!あの世のお頭と姉さんによろしくなぁ!!」
「おい、ガキ!恨むんなら、巻き込んだ銀之丞を恨むんだな!」
「ちっ・・・」
逃げようと隙を見ても囲まれていて、抜け出せそうもない
奴らが一斉に振りかぶったとき・・・
「待ちなさい!!」
その時、辺りに凛とした声が響き渡った
振り返るとそこには険しい顔をした和葉が立っていた
「・・・なんだ?おめぇは!」
「へへへ!いい女だなこりゃぁ!」
「おい、兄貴!とっ捕まえて売っちまえばいくらになりやすかね」
ヤクザ共が下卑た笑いを混ぜながら口々に何かを言っている
「和葉!おめえさんなんでこんな所に?!」
「おおぅ?銀之丞の女か・・・これはこれは・・・」
品定めするようにぐるぐる回り出すヤクザ共
「なんとも、もったいねぇなぁ!おい、姉さん。そんな男捨てて俺んとこ来ないかい?いい思いさせてやんぜ?」
眼つきの悪い出っ歯が和葉の肩に手を掛けて言った
「触るな!下郎!!」
打てば響く声が辺りに響く
「おうおうお高くとまってんじゃねぇかよ!その柔肌切り刻んでやってもいいんだぜ?」
刀の刃先を突きつける出っ歯
交渉は不可と見た和葉
「ふぅ。仕方がないですね。ならば・・・」
あの扇を帯から取り出す
そして、言った・・・
『―舞え!』
目を瞑り、顔の前に扇を持ってくると、ぱさっと一つ開いた
風が吹き出した
それはだんだんと強くなる
ヤクザ共を中心にまわり…吹き付ける
木枯らしのように…
竜巻のように…
水田の稲は風に煽られて、大きくしなる
そんな様にわけもわからずただ呆然と見ているヤクザ共
不安に声を上げる者もいる
「てめぇは!化け物か!!」
いきがってそう言い、刀を振り乱しても風はどうしようもない勢いになっていた
『―集え!』
ぱさっと扇がもう一つ開かれる
和葉の姿は、黒髪の姿からいつかの時のように黄金色の髪、狐の耳、3本の尾といった姿に変わっていた
和葉の体は黄金色に光を帯びていて、神々しく見える
その艶やかな髪と尾が、力を受けてゆらゆらと軽やかに舞っている
吹き荒れる風は、ヤクザどもをその場に押さえつけるように吹き荒ぶ
と・・・
どこからか、ばさっばさっと鳥の羽ばたくような音が聞こえ始めた
一つ・・・二つ・・・三つ・・・
バサバサと・・・たくさん音が集まってくる
音のするほうへと頭を回すと、鳥のような魔物たちがこちらへと向かって来ているのが見えた
『―踊れ!』
顔の前の扇がまた一つ開かれる
さらに勢いをつける風
猛烈な風は竜巻になり
吸い出すようにヤクザ共を天高く舞い上げた
「「「うわぁぁぁぁぁ!!」」」
情けない声を上げて、舞い上がっていく
『―歌え!』
天高く舞い上げられたヤクザ・・・
鳥の魔物たちは、歓声を上げて男達を攫いだした
そんな魔物を威嚇しようと刀を振り乱しても、飛んだこともない者だ、無防備に攫われ口を塞がれる
体を弄ばれてその内に、魔物たちと共に甘ったるい嬌声を上げ始めた
『―去れ!』
開ききった扇
きっと目を見開くと、払いのけるかのように扇を振った
集まっていた風はどこかへと散っていく
風と共に、男を攫った鳥達が自分の塒へと帰っていった・・・
・・・辺りには誰もいなくなった
大きく波打っていた稲も何事もなかったかのよう…
銀之丞とタツ坊は唖然と辺りを見回したが、もうヤクザ共の姿はどこにもなかった
落ちていた自分の刀を銀之丞は腰に納めると辺りを見回した
和葉を見れば、その姿は光るのをやめていた
「もう大丈夫です。銀之丞?タツ坊?怪我はないですか?」
「和葉・・・」
「安心してください。彼らはもうここへは・・・人の世で見かけることはないでしょう」
そう言って笑顔をみせた
彼女の狐耳としっぽがぴょこんと動いた
そんな、和葉にタツ坊が近づいた
「おねぇちゃん・・・もしかして、お守りさま?」
「そうよ。タツ坊」
タツ坊と同じ目線に座ると笑顔を見せた
「おいらのこと知っているの?」
「もちろん。いつも元気よく走り回っているでしょう?それに、銀之丞と仲いいでしょう?」
「うん!」
「いいなぁ」
「おねぇちゃんもにぃちゃんのこと好きなの?」
「そうよ。おねぇちゃんは、銀之丞のお嫁さんになりたいの」
「わぁ!いいなぁ!ねぇ?にぃちゃん!どう思う?」
「・・・」
銀之丞は、何かを見つけたらしく田の畔へと厳しい顔して歩いていった
そして、刀を抜くと一気に畔に掛かる板に突立てた
『ひゃぁ!!』
板下からはびしょ濡れの何者かが這い出してきた
「一人でなにしてんだい?」
「おっおおお…俺は・・・」
「逃げようったってそうは問屋がおろさねぇ!覚悟しろやこのゲス野郎!!」
銀之丞が刀を振りかぶると、和葉がそれを止めた
「お待ちなさい!ここでの殺生は許しません!」
「止めるな!和葉!!こいつを今仕留めねぇと、また次いつ来るか!!」
「殺生は何も生みません!」
そういって、和葉は銀之丞を諌めた
その代わりに、残ったヤクザに近寄る
和葉は、自分の指を口に当て、何かを口ずさむと、ヤクザの額にその指を当てた・・・
ヤクザの額が僅かに光ったように見えた・・・
「何をしたんだ?」
「殺生よりも、もっといい方法です」
「ひっひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー」
一瞬の隙をついて、そいつは逃げ出した
「あっ!待て!!この野郎!!」
それを追って銀之丞も走り出した
「銀之丞!!追わなくても・・・」
和葉のとめる声がむなしくその場に響いただけだった
銀之丞は村長の家にいた
その出で立ちは、笠に合羽・・・刀を腰にした姿だった
「長殿。このたび、あっしの不注意で村のモンを危険にさらしたことを詫びやす。その為に、あっしはこの村を出ることにしやした」
「それでいいのかい?銀之丞さん」
「はい。あっしのせいで村の衆が傷ついては、申し訳がたたねぇ。・・・今まで世話になりやした」
「皆、あんたにいてもらいたいと思っている。それに、タツ坊だってあんたに懐いている。皆悲しむだろうなぁ・・・」
「ご免なすって・・・」
一礼をし、村長の家を後にした銀之丞
里を出るには、棚田の下にあるあの祠の前を通らなくてはならない
楠の影から、和葉が道を遮るように出てきた
「どちらへ?」
「・・・」
「里を出ようと?」
「・・・ああ。俺はまた旅に出る」
「なぜ?」
「俺がここにいたら、またどこからともなくヤクザ共がやってきて里のモンになにかよくねぇことが起こっちまうかもしれねぇ。奴を逃がしちまったからな。だから、ここを出て行くのさ。行き先は…足の向くまま気の向くまま…」
「あなたを慕ってくれた、里の者達やタツ坊はどうなるのですか?」
「・・・」
「皆、あなたのことを本当に慕っています。あなたが背に背負っているものを何とかしたいとも思っています。それなのに、あなたはそれを無視して逃げると言うのですか?」
「・・・和葉。こんなろくでもねえヤクザ人のことを気遣ってくれるのはありがてぇ。だが、こんな俺の巻き添えにしていいもんじゃぁねぇんだ。もうおまえさんたちは、俺と関わりはねぇことに・・・」
「関わりはないなんて悲しいことは言わないで!!これからもずっと!!あなたは私が守ります!それでも…それでもダメなのですか?それとも私が魔物だから嫌なのですか?」
「・・・そうじゃぁねぇんだ。和葉」
笠で顔を隠すように俯いて言った
「俺はな。ずっと、ずっと…世の中拗ねて生きて来たもんだからな、おまえさんたちの好意にどう向き合っていけばいいのかわからねぇんだよ」
「・・・そんなこと。ただ、黙って背を預けてくれればいいのです。人は寄り添って生きていくもの。つらい時には誰かに頼ってもいいのではありませんか?」
「・・・誰かに背を預ける。・・・そんなこと考えたこともなかったな」
「私は、ずっと寄り添って生きてくれる方を探していました。一人でいるのはつらいのです。だからこそ、一人でいるつらさを知っている人に一緒にいてもらいたい。共に生きて共に幸せを育んでいくそんな日々を送りたい」
「共に生きて、共に幸せを育む・・・か」
「銀之丞、私と共に生きて。あなたと寄り添って生きていきたい」
銀之丞は俯いてしまった。肩が震えている
「銀之丞?」
「・・・情けねぇ・・・情けねぇなぁ」
顔を上げて空を見上げる、その目には涙があった
「女が、こんなにも慕ってくれているのに俺は逃げることしか頭になかったんだからよ・・・世を拗ねるのをやめて、一人の女のために生きてみるのもいいかもなぁ」
涙を見せまいと下を向く銀之丞
「銀之丞?泣いて…?・・・あなたは誰かの前で泣いたことはないのですか?」
・・・在りし日のことが一瞬、銀之丞の頭に甦る
「俺が・・・無茶ばかりやらかしていた時だ・・・血の臭いをさせたまま女郎屋へいって、昂ったまま女ぁ抱こうとした時、女が言ったんだ。“あんたは何を怯えているのさ。あんたはヤクザなんだってね。一人で生きているようでも実は、臆病もんさ。あんたは今人を傷つけてきたんだろうけど人を傷つけることしか出来ないあんたが、わたしのところへ来た、何故だい?怖かったんだろう?自分以外信用できなくてほかの者が怖くて怖くて。だから、傷つける。だから、女のところへ来てすがりたかったんだろう?”ってな。俺には何を言われているのかわからなかったが女は続けた。“だれも頼れるものがいないのは不幸なことさ。誰も慰めてくれない時はあたしの所に来な。少しでもあんたの隙間を埋めてあげるよ”ってな・・・。俺は、なにがなんだかわからなかったが、すっと泣いちまったんだ。いつも肩を怒らせて他人を信用しないで見下していたのに、その一言は俺の心根にすっと入り込んできちまったんだ」
「・・・」
「和葉。おめえの今の言葉はそれと同じに、心根にすっと入り込んできた。俺はどうしたらいい?俺がここにいたらまた奴らが来るんじゃねぇのか?」
「銀之丞。私が一人逃がしたのを見ていたでしょう。逃げた者がいるからまた、あの者達が来ると思っているのでしょうけど、そうはなりません。あの者に術を吹き込みました」
「術?」
「あの者は、方々にあなたが死んだと言うことを吹き込むでしょう。そして、その言葉には私の言霊が宿っています。それを聞いたものはあなたがこの世にいないことを信じてしまうでしょう。誰かがあなたが生きているといっても、誰も心にとどめることはもう出来ない。だから、気にすることはないのです」
「・・・そんなことを」
「銀之丞?あなたはもう一人じゃない。私も、里のみんなもいる。だから、一緒に暮らそ…」
そう言って胸に顔を埋めた和葉
戸惑う気持ちとうれしい気持ち
銀之丞は静かに和葉を抱きしめた
山の上の社
そこからは、山も里も棚田も一望できた
真っ青な夏の空
遠くに大きな入道が天高くそびえている
辺りの森からは蝉が、これでもかと鳴き
それと共に、近くに小川でもあるのだろう
涼しい風と涼しげな水音が聞こえてきた
「銀之丞、こっちよ〜♪」
社へと案内する和葉は楽しげだった
「転ぶぞ?」
「大丈夫!」
軽やかな足取りで、早く早くとこちらを振り向きながら先を行く
三つのしっぽが本当に楽しそうにふわりふわりと揺れている
和葉が導いた先には社があった
中に入ると、板張りの部屋がありそこにはたくさんの藁が敷かれていて
丸く窪んだところがある。そこを指差して、
「ここが私の寝所よ」
と言った
「ここが・・・?」
「ええ。でも、ここを使うのも今朝が最後でしょう」
そういうと、和葉は銀之丞の腕を抱きながら奥の部屋へと導いた
その部屋は、きちんとした畳の間
屏風が置いてあり、その向こうには一組の布団・・・
「ここが私達の寝所となるのですから・・・」
「和葉・・・」
朱に染まる和葉の顔に銀之丞も気恥ずかしさがはしる
「もともと、ここはとぉ様とかぁ様が使っていたんだけど・・・」
「そうか…」
腕を抱きしめる和葉。見上げるその瞳を見ながらサラサラと流れる髪を撫でてやる
「銀之丞?あなたをもっと間近かでいろいろなとこ見ていい?」
甘えるようにそう言った
「・・・ああ」
屏風に仕切られた向こうから、衣擦れ音が聞こえる
敷かれた布団の上で、銀之丞は緊張してしまっていた
女を抱くのは初めてではないが…
美しく舞っていた和葉
それが、屏風一枚隔てた向こうにいるのだ
気恥ずかしさが込み上げる
「おまたせ」
「おう」
「くすっ!そんなに顔をそむけなくてもいいわよ?」
「そうは言ってもな。こんな真昼間から・・・」
そっと見てみる
白い襦袢姿の和葉
本当の姿である狐耳、刈り取り時の稲のような黄金色の髪の毛・尻尾の姿でそこにいた
襦袢から伸びる足・・・
瑞々しく柔らかそうな足が伸びていた
「黒髪の人の姿ではないんだな」
「あちらがいいですか?」
「いや。その姿の方が可愛らしくていいぞ」
「銀之丞!!」
突然、飛びついた和葉
「和葉?」
「これが銀之丞の匂い!」
すりすりとほお擦りをする和葉
「和葉・・・意外と甘えんぼ?」
「だって、とぉ様とかぁ様がいなくなって、ずっと一人きりだったんですもの!」
「そうか・・・」
包み込むように抱きしめてやる
すっぽりと腕の中に納まった和葉
狐耳が時々、銀之丞の頬を撫でた
和葉は、上目遣いに聞いてきた
「銀之丞・・・私ね?ずっと一人きりでいたから、一人の寂しさをよく知っている人に来てもらいたかったの」
「・・・」
しっぽと艶やかな髪そして、へにゃりと曲がった耳をやさしく撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める和葉
「そうすれば、寂しいっていう心の隙間を埋め合うことが出来るでしょう?」
「・・・そうかもな」
「銀之丞?あなたがこの里に来た時、寂しげな翳を浮べていたわ。幸せそうに笑顔を浮べる家族を見ているとき…タツ坊が無邪気にはしゃいでいるとき…まるで、自分には縁遠いものだとそう思っているような…それを見て、私はあなたに惹かれた。この人はそういうものと今まで縁が薄かったんじゃないかと…。この里で暮らすようになったあなた…悲しげな翳は見えなくなったけれども、幸せな人を見ていると眩しげな瞳で見ていたの。それがとても心に残ったわ」
「そんなところまで見られていたか…まぁ…昔話は好きじゃねぇ。ただ…。ただ、家族の情とかと縁が薄かったのは否定しねぇやな」
「これからはいつもあなたの側に私がいる。だから、私だけを見て銀之丞」
「和葉・・・」
胸にもたれ掛かるように頭を預ける和葉
頬に掛かる彼女の柔らかな温かさがやさしい
体から伝わる温かさが、体を心を少しずつ温めてくれるのを銀之丞は感じていた
「銀之丞・・・銀って呼んでいい?」
「・・・ああいいぞ」
「ぎん…口吸って?」
「ん…」
ちゅ……
小さな唇に吸い付くように口づけを交わす
和葉は片時も見続けようとじっと銀之丞を見続ける
銀之丞も吸い込まれるようにその瞳を見続けていた
舌先で口をあけるように促すとおずおずと口をあけた
小さな舌を見つけ出し求めるように絡ませると、最初は控えめだった絡みもすべてを舐めとってしまうかのように絡ませてきた
ちゅ……じゅ……んんん…
時々、舌を休ませるように引っ込めると、今度は私の番とばかりに舌を入れてくる
じゅ…じゅる……ちゅぅ……あはぁ…
口を離すと甘い吐息が耳に付いた
うっとりとして頬を染める和葉…それがどうしようもなく可愛らしく見えた
「ぎん……」
「和葉……」
互いのことを確認するかのように名を呼び合う
それから、互いの心の隙間を埋めあうように求め合った…
幸せな時間…そんな時の中、銀之丞はまだ伝えていなかったこころを伝えた
「…かずはぁ…すきだ…」
「……ぎん…ちゅ……ん。……やっとすきって言ってくれたぁ♪」
「すきだ。かずはぁ」
「ぎん……わたしだってすきなんだからぁ……もうぜったいにはなさないんだからぁ」
気持ち良い余韻に浸りながらのまどろみ…
いつまでも余韻に浸っていたいと二人は戯れる
「…ぎん」
「ん?」
「…」
いつしか寝てしまったようだ
安心した顔をして、ゆっくりとした寝息をたてている
添い寝している和葉をなでながら、銀之丞は同じように睡魔に身を任せていった…
一緒に暮らすようになって、二人は里の者達に事の次第を話した
お守り様と親しんでいた方と、ヤクザといいながらも心優しい男が一緒になると言う話
皆、大層喜んでくれた
タツ坊は突然いなくなってしまった銀之丞を見ると泣いてしまった
二人でこの里の上の社に住まうことになるというと、泣きながらも喜んでくれた
世を拗ね、一人で生きてきた男と
やさしく人々の暮らしを見守りながらも、ひとり頑張ってきた女
心の隙間を埋めるように互いに求め合う
そして、里の人々の情
これからもずっと、そんなやさしさに包まれていくのだろう
そう・・・いつまでもずっと・・・
ちゃぽん…
そんな音と共にその空が揺らいだ
周りを見渡せば
緑色の線
細い茎から青い若葉がすぅっと伸びている
辺り見渡す限りそこに見える
そこは水田であった
そこの向こうに見える山の斜面にも段をつくって田が作られている
風にそよぐ稲
緑溢れる一面の水田
どこかで蛙が鳴いている
水田沿いにある小道
その道は棚田へと続いている
棚田の麓には、小さな祠があった
祠の脇には人の背ほどの楠がやさしく揺れている
その木陰で男が昼寝をしていた
ちょうど昼飯を食べ終わり、腹も膨れた所でうつら…うつら…としたようだった
安らかな寝息をたてる男
たったったったった
そんな男目指して駆けて来る小さな足音があった
「にぃちゃん!にぃちゃん!!」
小さな男の子。彼は男のそばに来ると揺さぶる
「にぃちゃん・・・にぃちゃん!」
「・・・うん?なんだタツ坊か。昼寝してんだから起こすな」
タツ坊というのは男の家の近くに住む家族の子だった
「にぃちゃん。またあれやってよあれ」
「・・・またか。妹のお守りはどうした?」
「いまはかぁちゃんにまかせた」
「かあちゃんも今は忙しいだろうに・・・」
「だからぁはやくぅ、にぃちゃんあれやってよぅ。どうしても聞きたいんだよぅ」
「しょうがねぇな」
タツ坊の言う“アレ”・・・
男は、被っていた笠を手に取るとそこへと置き
立ち上がると、腰を少し落として左手を左膝へ、右手は前に差し出した
「ごめんなすって・・・北の方より流れて来るは、現世の義理もしがらみもうまれてこの方無頼旅。渡世人、銀之丞たぁ…あっしのことで!」
「いよっ!にぃちゃん!!」
「褒めるモンでもねぇ」
めんどくさそうにそう答えた男
「格好よかったよ。にぃちゃん」
「タツ坊は絶対に“渡世人”なんてやくざモンになっちゃいけねえぜ?」
「うん。わかってるよにぃちゃん。おいら、とぉちゃんとかぁちゃんといもうととじぃちゃんとばぁちゃんと仲良くやっていくよ」
一人ずつ数えながら小さな手を開いていくタツ坊
「それでいい。タツ坊、おまえのおっとぅとおっかぁの前では絶対にこれをやっちゃぁなんねぇ。悲しんでしまうぞ?わかったな」
「うん。やらない。おいら、みんなのかなしい顔なんて…みたくない」
「それでいい。世を拗ねたヤクザモンなんて俺だけでいい。さて、昼ももういいだろう。タツ坊?おっかぁの所へ帰れ。俺ももう少し田の手入れをしなけりゃならねぇ」
「うん。にぃちゃん!またあとでね!」
タツ坊が走り去っていくのを、手を振りながら見送る男
男は、伸びをして体をほぐすと、近くの田へと入っていった
田植えから夏にかけてのこの時期は、稲がぐんぐん伸びる
それと共に、田の中の雑草も同じように伸びてしまうので、毎日毎日とってやらないといけない
自分のことを“渡世人”と言ったこの男がなぜ百姓と同じことをしているかというとワケがあった
数ヶ月前のこと、秋の長雨の時期であった
男はふらりと山の中を歩いていた
名も無き細道。獣道のような道
ちょうど、水田を望める景色の良い所に差し掛かったときだった
足場が悪く泥濘に足を捕られて、そのまま下に落ちてしまった
落ちた時に足を挫いたらしく、痛みがあった
泥だらけになりながら、他に怪我はないかと体を動かしていた時、向こうから水田の見回りをしていた村の衆に会い、助けられたのだった
「あっしは、世を拗ねた渡世モンでございやす。こんなヤクザな奴と係わっちゃぁ、おめぇさん方も・・・」
「ヤクザだろうがなんだろうが、困ったお人を見逃すわけにはいかない。しばらく、この村で養生するとええ」
と、村長は言ってくれた
その後、養生の甲斐あって足も治った
受けた恩を返す為に男はここで村の手伝いをすることにした
村長は、恩など返さなくても、困っている者を助けるのは当たり前だと言ってくれたが、
「ヤクザにも仁義っつうモンがありやす。受けた恩を返さなければ、あっしの気がすまねぇ。ここは、刀を鍬に持ち替えて少しずつ恩を返しやしょう」
そうして、男は村の空き家で暮らすこととなったのだった
それ以来、年寄りのところに行っちゃぁ手伝いを、ガキのいる家に行っちゃぁガキのお守りをといろいろとやっていた
そんなわけで、ヤクザだと言うのに村の皆は親しくしてくれていた。そんな村に、男も少しずつ惹かれていっていた
ある日の夕方、タツ坊がやってくると言った
「にぃちゃん!明日の朝方、早くに起きて?」
「なんでだ?」
「なんでも!」
「なにかいいことでもあるのか?」
「うん!」
顔をニコニコさせて頷くタツ坊
「・・・ふぅむ。よくわからんが・・・分かったタツ坊、できるだけ早くに起きてみらぁ」
「うん!ぜったいだよ!にぃちゃん」
そして、元気よく帰っていった
次の日の朝
タツ坊が言っていたように早くに起きると、あたり一帯は朝靄に包まれていた
少し蒸してきているが、まだまだ涼しかった
東の空がほのかに明るくなり始めている
山山の向こうでは、もう日は出ているのだろう
靄が日の光を浴びて少しずつ白く明るくなってくる
いつもの棚田下の祠で待ってみるが…
なかなかタツ坊はやってこない
寝坊か?
と思っていると、向こうから人影がやってくるのが見えた
…タツ坊にしては背が高い?
訝しく見ていると、徐々にそれがどんな人なのか見えてきた
「…女か?」
黒髪の女
巫女のような出で立ち
白い着物に、緋袴
背をしゃんと伸ばして歩いてくる
女は銀之丞のところにやってくると、目の前で止まった
「おはようございます」
そういうと、少し会釈をする女
「おはようございます」
挨拶を返すと、女は微笑んだ
「これを…」
竹筒を渡す女
「?」
「稲の葉先から出る朝露をここに集めてください」
「なぜだ?」
「七夕です。この地の七夕は、この露を集めその水で墨を磨り、短冊に願いを書き笹に吊るすと願いが叶うとあります。あなた様もどうぞお一つ」
竹の器と墨入れを渡すと、彼女は会釈をしてそのまま朝靄に包まれた田の中へと入っていった
唖然と見送った
「七夕…もうそんな季節になっていたか。願いが叶う…か」
銀之丞もなんとなくそれに従い田の中へと入っていった
この季節になると夜、稲は大量の水を吸い上げる。その吸い上げた水を露として葉の先から出す。何故、露をたらすのか分からない。稲に不思議な力でもあるのではないかと思われた。だから、七夕ではその露を集めて短冊に願いを書くと、願いを叶える事ができると言うこととなったのだろう
棚田と祠の近くに笹が生えていた
彼女は、何事かを短冊に走らせそれをそこに掛けた
「銀之丞は何を願ったのです?」
「俺は…」
何も言わずに短冊を渡す
そこには、村の者達の幸せを祈る言葉が書かれていた
「俺は、流れの渡世人さ。誰かの幸せを願うなんざ、ガラでもねぇが…世話になったこの村のモンにゃ幸せになってもらいたいものよ」
「…そこに自分のことは含まれてないのですか?」
「俺は、幸せにゃなれねぇ。死ぬ時も畳みの上なんて上品な死に方はできねぇし、しちゃいけねぇ。たぶん、どっかで野垂れ死にというとこか…」
「…なんで」
「うん?」
「なんで自分の幸せを願わないのですか?」
「俺は、ヤクザモンさ。今までやらかしたことを考えれば赦されるもんじゃねぇ。渡世人には渡世人の生き様っていうモンがある。女子供にはわからねぇことよ」
そう言った銀之丞
女は伏せ目がちに言った
「…悲しい人」
「そういうおまえさんは何を願ったんだ?」
「……」
「言えねぇか。まぁ願い事なんざ人に聞かせるモンじゃねぇな」
「いえ…良き方と巡り逢えますように…と」
なぜか女はまっすぐに銀之丞の目を見て言った
「そうかぁ。まぁそういう奴に巡り会えるといいな。まぁ微力ながら俺もあんたの願いが叶うように祈っているぜ」
女は、銀之丞の短冊も笹に掛けた
「にぃちゃーん」
靄の向こうからタツ坊の声と足音が聞こえてくる
「タツ坊!遅いぞー!!」
そう返してやると、息をはぁはぁ言わせてやってきた
「遅いぞ?タツ坊」
「にぃちゃんゴメン…おいら、おねぼうしちゃった」
「それでね。朝露を…」
「朝露を集めて短冊に願いを書くとそれが叶うって?」
「にぃちゃん。知ってるの?」
「知ってるも何も、このねぇちゃんが……あれ?」
振り向いたが、さっきまで女がいたところには誰もいない
「にぃちゃん。オイラが来たとき、ここにはにぃちゃんしかいなかったよ?」
「そんな…化かされたのか?まさかな…」
「にぃちゃん。そこの笹に短冊があるよ。片方には字が書いてあるけど、もう片方にはなにも書いてないよ?」
「その書いてあるほうが俺が書いたんだ。もう片方は…もう一人居たんだが…まぁいい。タツ坊、おめぇは字書けんのか?」
「ううん。おいらまだ書けないから、おさのじっちゃんに書いてもらうんだ。だから、つゆだけ集める」
そういうと、竹筒を見せるタツ坊
「そうか。頑張れよ」
「うん!」
集め終わる頃には、日も高く昇っていた
空があんなにも青い
また、熱い一日になりそうだ
昼頃、ゆっくりとした足取りで長が二人の前にやってきた
「銀之丞さん、タツ坊せいがでるのう」
「長殿もお元気そうで」
「じぃちゃん。集めたから書いて?」
短冊と竹筒を差し出すタツ坊
「銀之丞さんも書いたのかい?」
「はい、朝一で。長殿、この村にはあんな若い娘子がいたのか?」
「あんな若い娘子?……どんな娘でしたかの?」
…長い髪の巫女のような出で立ち
特徴を話すと、長は顎をさすって言った
「それは、おそらく“お守り様”じゃな」
「お守り様?」
「この村には、昔っから居られるんじゃよ。この村を見守っていてくださる方がの」
そうして、長は昔話を始めた
その昔、この村が出来る前
ここに一匹の狐がおった
そしてある時、一人の炭焼きの男がこの里へとやってきた
互いにそんな者がいるのは知っていたが、干渉することもなく静かに暮らしていたと言う
ある年、長い日照りがやってきてここいら一帯の水も食べ物もほとんどのうなってしまっての
狐は食べ物ほしさに、男の前に姿を現した
男も、日照り続きで心細かったのであろうな
狐に僅かな食べ物を与えて共に暮らすようになったという
炭焼きで作った僅かな金子で、食べ物をどこからか持ってきては共に暮らした
日照りが収まると、男は体を壊した
そのうちに、この里に人が多く住むようになる
里に来た者達が炭焼きの元を訪れると、男の体は治っていて、傍には美しい女がいた
甲斐甲斐しく世話をする女。不思議な力を持っていたとも言う
あまりにも美しかったために評判となった
その女は、病の者がいるとたちどころに治し、体を痛めた者がいるとこれも治した
ある時、また日照りが里だけではなく、この地一帯を襲った
しかし、女の力によってこの里は豊かな豊穣に恵まれた
その豊穣を、里の者達は辺りの村々に分け与えた
そんなことで、その女は神として奉られたんじゃ
奉られ社が建てられると、女は炭焼きの男と一緒に暮らし始めた
とあるモンが二人のもとを訪れると、女の頭には狐の耳、そして尻に尾がはえておったという
二人は、ずっとこの地を見守った。そして二人の間に子が出来きある程度育つと、その子にこの地のことを任せてどこかに行ってしまうらしいのよ。それが、この地にいるお守り様じゃ
おそらく今いるお守り様は新しいお守り様じゃろう
今は不満もなく我らは健やかに過ごせている。ありがたいことじゃて
「銀之丞さん。おそらくその娘はそのお守り様じゃ。お守り様は、時々人の前に姿を現すらしい。この七夕の時もな、一緒に願いを込めるのじゃ。でも、お守り様の書いた短冊はあってもその字を見ることは誰にもかなわんのじゃ」
「じぃちゃん、この短冊……なにも書いていないんだ」
「ああ。たぶんそうじゃろうな」
「…狐。人ではないものか……」
「なに、恐ろしい者ではないぞ銀之丞さん。むしろ、会えたんじゃ。誠、運のええことじゃて」
「わかっているさ。この世で最も恐ろしいのは、人という生き物だ。奴らは平気で、人を騙し、奪い、殺す。因果な者さ」
銀之丞の顔にはなんとも言いがたい悲しげな翳が、一瞬差し込んだ
「さて、俺は仕事に戻る。長殿、タツ坊また後で…」
そう言って歩き出した銀之丞の背は寂しげだった
「にぃちゃん…」
「なんとか、あの銀之丞さんの背負ったものをなんとかしてやりたいもんじゃなぁ…」
長とタツ坊の悲しげな声がそこに響いた……
夜、日が落ちた頃……
銀之丞の家の扉を叩く音があった
とん…とん…
その音は、力弱い…
「誰だ?」
「にぃちゃん……おいらだよぅ」
「タツ坊?ちょっと待っていろ」
戸を開けてやると、タツ坊が戸の前で縮こまっていた
「どうした?」
「うん。とぉちゃんとかぁちゃんに七夕の話をしてもらったんだよぅ。おいら、天の川をみたくなって…」
「家先でも見えるだろう?」
「ううん。ここからだと雲が出ていて見えないんだ……。だから、にぃちゃんに広い所に連れて行ってもらいたいんだ」
「とぉちゃんとかぁちゃんはどうした?」
「寝てる。おいら……そっと抜け出てきたんだ…」
「…ふぅ。しかたねぇな……じゃぁ少しだけだぞ?」
「うん!!」
「しーーー」
「うん…」
天の川……棚田の上ならば見えるだろうか?
銀之丞はタツ坊と手を繋いで歩いていった
虫虫や蛙の声が響き渡る畦道
時折、蛍が小さな光を出しては飛んでいる
「にぃちゃん…」
「…ああ」
タツ坊の残念そうな声…
空には、雲がかかっていた
ちょうど、天の川があるであろうところに…
「お空のにぃちゃんとおねぇちゃんが会えているといいね…」
「そうだな…」
しばらく見ていたが…やはり、雲がひく様子はなかった
「タツ坊…今日はもう帰ろう」
「…うん」
気落ちした声…
そんな時
びゅおうぅぅ!!
と、どこからともなく風が吹く音がした
風は、瞬く間に空の雲をどこかへと追いやっていく
タツ坊と二人、唖然としてその様子を見ていた…
「にぃちゃん!」
「おう…」
光り輝く空の川…
西の空低い所には弓月が浮かんでいる
きらきらと眩く光る…
「にぃちゃん!見て!田んぼにも!!」
声につられて下を見れば田に星の輝きが映りこんでいる
いっぱいの星の光に触発されたのか、蛍たちが一気に輝きだした
星の白い瞬きと、蛍の黄色い瞬き…
「きれいだね…おいら、もっと見ていたいよぅ…」
「そうだな…だが、今日はもう遅い。あんまり遅いと、とぉちゃんとかぁちゃんが心配するぞ?」
「…うん。おいら、帰るよ」
「送るぞ」
「ううん…大丈夫。おいらひとりで帰れるもん」
「そうか・・・気をつけて帰るんだぞ?」
「うん!また明日ね!にぃちゃん!!」
ひとり、駆けて行くタツ坊。薄く見える田の中を小さく黒い影が一つ走り抜けては一軒の家へと消えていった
それを一人、棚田の上から見守った銀之丞
「ふぅ…」
軽く息を吐くと、棚田の石垣に腰掛けた…
「……出て来いよ。いるんだろう?」
銀之丞は誰とも知れずに話しかけた
「…こんばんわ銀之丞」
朝靄の中で会った女の声が後からした
「…こんばんは」
人ではない者と聞かされて、なんと話しかけてよいものかと思案していると
「ふふふ。私のことをお聞きになったのですね?確かに私は、神のように奉られてはいるけど魔物。稲荷と言われています」
隣に立って笑う女
「いなり…」
「私の名は、和葉」
「…俺の名は、銀之丞だ」
「知っているわ」
「そういや、前に一度名を呼んでいたな。なんで知ってんだ?」
「この里にやってきた人の名などみんな知っているの」
「…そうか。まぁ…なんだ……座ったらどうだ?」
「……いいの?じゃぁ隣…お邪魔します…」
隣に座った女
「雲をはらったのおまえだろう?」
「わかりました?」
「タツ坊が残念そうに声を出した途端に風が吹いて、雲がどこかへと行ったからな…。まず、人の業じゃぁねぇと思った」
「ふふっ。ばれてしまいました」
「まったく、狐っつぅモンはいたずら好きらしい……だが…タツ坊も喜んでいたしいいか…」
「天の川…。彦と姫…。愛し合う二人…。祈らずにはいられません」
「何をだ?」
「幸せを…」
彼女の指先にとまった蛍。やさしく明滅を繰り返す
それを見つめながら、銀之丞にやさしく言った和葉…
「幸せ…か」
「はい」
「…俺には…よくわからねぇな。どちらかと言えば、誰かの幸せをぶち壊してきたような男だからなぁ…」
今までやってきたことを思い出して、銀之丞は足に肘をついて顎を乗せた
「昔は昔、今は今・・・。人はいつでも幸せを願ってもいいのではないですか?例え昔何があっても…」
「和葉よ。前にも言ったが……先は野垂れ死んじまうと思ってるような奴にはわからねぇ話だ。俺はいつかはここを出て行くことになるが…ここには幸せを願う奴がいたことは俺も忘れねぇぜ。まぁ今日のところは上の二人が会えるか会えねぇかという大事な日だ。俺の昔話なんざ聞いたら上の二人が気を悪くすんだろう。だから、俺はもう寝るぜ…おやすみな…」
「銀之丞……おやすみ…」
少し悲しそうな和葉の声が響く…
蛍はどこかへと飛んでいってしまっていた
ふと、空を見上げれば…
薄雲が出てきて天の川を覆い隠しだした
それは、もどかしさを感じる和葉の心のようだった
青々とした空に蝉声が忙しなく響く頃…
いつものように夜が明けきっていないうちから田の見回り
もう、だいぶ稲に籾が出てきていた
もうそろそろ、花が咲くのかと思って見守っていると…
「こんにちは銀之丞」
「こんにちは…和葉」
「名を覚えていてくれた!うれしい」
「あの夜以来だな」
「そうね。タツ坊…喜んでくれてよかった」
「そうだな」
「銀之丞?私はこの里の皆も…あなたも幸せにしてみせるわ」
「和葉…」
「私は諦めないから!あなたがどんなに拗ねていようとね」
「そうか…まぁ……頑張れよ…」
「はい!!」
眩しくなるような笑顔で頷く和葉
それが、銀之丞にはとても眩く見えた
「…まったく」
「さて、銀之丞と話せたし、お仕事お仕事!!」
楽しげに笑うと、扇を取り出した
黒の漆に塗られた扇を取り出すと、両の手に持ち静かに開いていく
しなやかな手がゆっくりと扇をひらいた
開ききると片手に持って、前をゆっくりと二三仰ぐ
『――――・・・――――・・・』
何かの節を唱える…
ぴょこんっ!
と、頭の上と腰に何かが見えた
「?!」
よく見れば、狐耳と狐の尾だった
3本のふさふさとしたしっぽが見える
和葉がちょこっとこちらを見た
いたずら小僧がいたずらを見つかって、少し悪びれて笑ったかのような笑みを浮べていた
そして、その体が黄金色に光りだした
茶色かった瞳も、黄金色に見えた
気が付けば―
水田の上を滑るように踊り、舞っている
足元を見れば浮いていて、空を滑り舞っている
黄金の光が残滓のように水田へ降り注ぐ
稲を見ると、一斉に花開いていた
和葉は、扇を仰ぐ。その動きにあわせるように風が田をやさしく抜けていく。その風と共に舞う
稲に声援を贈るかのごとく、不思議な旋律の歌を詠っている
籾が開いて黄色のおしべが伸びてきて花粉が飛ぶと、風が掬い取るようにその中の綿のようなめしべへと届けていく
優雅に舞う和葉に銀之丞は見惚れていた
心に響く旋律に心奪われていた
時間にして、一刻もなかっただろう
呆けたように立ち尽くしていると、和葉がやってきた
「銀之丞?どうしたの?呆けたような顔をして?」
「…きれいだった」
「え?なに聞こえなかったんだけれど?」
「あ…いや……なんでもねぇ」
バツの悪そうな顔をしてごまかす銀之丞
「ふふっ」
なにがおかしかったのか、和葉は笑った
「ははっ」
つられて銀之丞も笑ってしまった
顔をつきあわせて笑う二人
銀之丞は今までずっと忘れていた、人に心を許すということを思い出し始めていた
そんな毎日を送っていた銀之丞だったが…
とうとう恐れていたことが起こってしまった
川原で汗を流そうと手ぬぐいを水に浸している時…
林から飛び出す男達がいた
「やっと見ぃつけたぜぇ!!銀之丞!!」
眼つきの悪い出っ歯が言った
「てめぇ!よくも頭を殺ってくれたなぁ!」
小太りの男が刀を抜きながらいった
「この落とし前、どうつけてくれるのか!?」
チビな奴が言った
他にも2〜3人ほどが飛び出してきた
銀之丞はずっと旅をしてきたワケ・・・
とある一家にいた時だった
頼まれて、その一家のお頭を殺ってしまったのだった
当然、追われる事となり流浪の日々を送っていた
「お前達か・・・あれは頭の落ち度よ。てめぇの女の心根も知らねぇで、次から次へと違う女に手を出しまくった…な」
「まさか、姉さんが死んだのは・・・」
「そうよ。姉さんが、次から次へ女を作りまくるお頭に頭に来て殺してくれと頼んで来たんよ。私も後を追って地獄行くからって言ってなぁ。お頭は元々、ヤクザモンの頭じゃぁなかった。元はお侍よ。姉さんに惚れて、お家の縁組相手捨てて、家を捨てちまったお人だぁ。姉さんはそんなお頭に心底惚れた。でも、ヤクザモンになってお頭は変わってしまわれた。欲と金にもの言わせてやりたい放題・・・。姉さんは、そんなお頭を見てられなかったんだろうよ」
昔見た姉さんの泣き顔・・・
「おめぇ!姉さんに惚れてたのか?」
「さぁなぁ。昔のことよ」
「とにかく、こっちはお頭の仇討ちだぁ!!覚悟しやがれ!このこんこんちきがぁ!!」
言い終わると一斉に抜刀して飛び込んでくる
「でぇぇぇぇぃぃぃ!!!」
刀をしゃむにに振り回すやくざ共
それをかわしながら、走る・・・走る
借家にくると刀を取って、また走る
そんなところで斬り合いなどしたら村の誰かが傷ついてしまう
銀之丞は歯を食いしばりながら、人のいない方へと走った
刀を抜くと、不用意に近づいた者を斬りつける
こちらは銀之丞一人に対し、数で勝るヤクザ共
じりじりと包囲されつつあった
そんな時・・・
「動くなぁ!刀ぁ捨てろ!銀之丞!!」
「にぃちゃん!!」
「タツ坊?!」
眼つきの悪い男がタツ坊の首筋に刀を突きつけている
「銀之丞!このガキが可愛かったら刀を捨てろぃ!」
いつまでたっても取り押さえられないのに苛立ったのか、タツ坊を攫ってきたようだった
「・・・てぇめぇら!!」
ぎりぎりと歯が鳴る
「捨てろ!!」
仕方がなく、銀之丞は刀を地面に突き刺した
「これでいいだろう?タツ坊をこちらに寄こせ!」
出っ歯が銀之丞の刀を回収するのを黙ってみていると、奴らはタツ坊を放った
「にぃちゃん!」
怖かったのだろう。すぐに足にすがり付いてきた
「タツ坊!!すまねぇ。とんだことに巻き込んじまった」
タツ坊を抱きかかえる銀之丞
じりじりと迫る奴ら
「さぁ、銀之丞!逃げ場はねぇ!おとなしく死にやがれ!!」
「安心しろい!寂しくねぇようにガキも一緒よ!」
「けけけけっ!!あの世のお頭と姉さんによろしくなぁ!!」
「おい、ガキ!恨むんなら、巻き込んだ銀之丞を恨むんだな!」
「ちっ・・・」
逃げようと隙を見ても囲まれていて、抜け出せそうもない
奴らが一斉に振りかぶったとき・・・
「待ちなさい!!」
その時、辺りに凛とした声が響き渡った
振り返るとそこには険しい顔をした和葉が立っていた
「・・・なんだ?おめぇは!」
「へへへ!いい女だなこりゃぁ!」
「おい、兄貴!とっ捕まえて売っちまえばいくらになりやすかね」
ヤクザ共が下卑た笑いを混ぜながら口々に何かを言っている
「和葉!おめえさんなんでこんな所に?!」
「おおぅ?銀之丞の女か・・・これはこれは・・・」
品定めするようにぐるぐる回り出すヤクザ共
「なんとも、もったいねぇなぁ!おい、姉さん。そんな男捨てて俺んとこ来ないかい?いい思いさせてやんぜ?」
眼つきの悪い出っ歯が和葉の肩に手を掛けて言った
「触るな!下郎!!」
打てば響く声が辺りに響く
「おうおうお高くとまってんじゃねぇかよ!その柔肌切り刻んでやってもいいんだぜ?」
刀の刃先を突きつける出っ歯
交渉は不可と見た和葉
「ふぅ。仕方がないですね。ならば・・・」
あの扇を帯から取り出す
そして、言った・・・
『―舞え!』
目を瞑り、顔の前に扇を持ってくると、ぱさっと一つ開いた
風が吹き出した
それはだんだんと強くなる
ヤクザ共を中心にまわり…吹き付ける
木枯らしのように…
竜巻のように…
水田の稲は風に煽られて、大きくしなる
そんな様にわけもわからずただ呆然と見ているヤクザ共
不安に声を上げる者もいる
「てめぇは!化け物か!!」
いきがってそう言い、刀を振り乱しても風はどうしようもない勢いになっていた
『―集え!』
ぱさっと扇がもう一つ開かれる
和葉の姿は、黒髪の姿からいつかの時のように黄金色の髪、狐の耳、3本の尾といった姿に変わっていた
和葉の体は黄金色に光を帯びていて、神々しく見える
その艶やかな髪と尾が、力を受けてゆらゆらと軽やかに舞っている
吹き荒れる風は、ヤクザどもをその場に押さえつけるように吹き荒ぶ
と・・・
どこからか、ばさっばさっと鳥の羽ばたくような音が聞こえ始めた
一つ・・・二つ・・・三つ・・・
バサバサと・・・たくさん音が集まってくる
音のするほうへと頭を回すと、鳥のような魔物たちがこちらへと向かって来ているのが見えた
『―踊れ!』
顔の前の扇がまた一つ開かれる
さらに勢いをつける風
猛烈な風は竜巻になり
吸い出すようにヤクザ共を天高く舞い上げた
「「「うわぁぁぁぁぁ!!」」」
情けない声を上げて、舞い上がっていく
『―歌え!』
天高く舞い上げられたヤクザ・・・
鳥の魔物たちは、歓声を上げて男達を攫いだした
そんな魔物を威嚇しようと刀を振り乱しても、飛んだこともない者だ、無防備に攫われ口を塞がれる
体を弄ばれてその内に、魔物たちと共に甘ったるい嬌声を上げ始めた
『―去れ!』
開ききった扇
きっと目を見開くと、払いのけるかのように扇を振った
集まっていた風はどこかへと散っていく
風と共に、男を攫った鳥達が自分の塒へと帰っていった・・・
・・・辺りには誰もいなくなった
大きく波打っていた稲も何事もなかったかのよう…
銀之丞とタツ坊は唖然と辺りを見回したが、もうヤクザ共の姿はどこにもなかった
落ちていた自分の刀を銀之丞は腰に納めると辺りを見回した
和葉を見れば、その姿は光るのをやめていた
「もう大丈夫です。銀之丞?タツ坊?怪我はないですか?」
「和葉・・・」
「安心してください。彼らはもうここへは・・・人の世で見かけることはないでしょう」
そう言って笑顔をみせた
彼女の狐耳としっぽがぴょこんと動いた
そんな、和葉にタツ坊が近づいた
「おねぇちゃん・・・もしかして、お守りさま?」
「そうよ。タツ坊」
タツ坊と同じ目線に座ると笑顔を見せた
「おいらのこと知っているの?」
「もちろん。いつも元気よく走り回っているでしょう?それに、銀之丞と仲いいでしょう?」
「うん!」
「いいなぁ」
「おねぇちゃんもにぃちゃんのこと好きなの?」
「そうよ。おねぇちゃんは、銀之丞のお嫁さんになりたいの」
「わぁ!いいなぁ!ねぇ?にぃちゃん!どう思う?」
「・・・」
銀之丞は、何かを見つけたらしく田の畔へと厳しい顔して歩いていった
そして、刀を抜くと一気に畔に掛かる板に突立てた
『ひゃぁ!!』
板下からはびしょ濡れの何者かが這い出してきた
「一人でなにしてんだい?」
「おっおおお…俺は・・・」
「逃げようったってそうは問屋がおろさねぇ!覚悟しろやこのゲス野郎!!」
銀之丞が刀を振りかぶると、和葉がそれを止めた
「お待ちなさい!ここでの殺生は許しません!」
「止めるな!和葉!!こいつを今仕留めねぇと、また次いつ来るか!!」
「殺生は何も生みません!」
そういって、和葉は銀之丞を諌めた
その代わりに、残ったヤクザに近寄る
和葉は、自分の指を口に当て、何かを口ずさむと、ヤクザの額にその指を当てた・・・
ヤクザの額が僅かに光ったように見えた・・・
「何をしたんだ?」
「殺生よりも、もっといい方法です」
「ひっひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー」
一瞬の隙をついて、そいつは逃げ出した
「あっ!待て!!この野郎!!」
それを追って銀之丞も走り出した
「銀之丞!!追わなくても・・・」
和葉のとめる声がむなしくその場に響いただけだった
銀之丞は村長の家にいた
その出で立ちは、笠に合羽・・・刀を腰にした姿だった
「長殿。このたび、あっしの不注意で村のモンを危険にさらしたことを詫びやす。その為に、あっしはこの村を出ることにしやした」
「それでいいのかい?銀之丞さん」
「はい。あっしのせいで村の衆が傷ついては、申し訳がたたねぇ。・・・今まで世話になりやした」
「皆、あんたにいてもらいたいと思っている。それに、タツ坊だってあんたに懐いている。皆悲しむだろうなぁ・・・」
「ご免なすって・・・」
一礼をし、村長の家を後にした銀之丞
里を出るには、棚田の下にあるあの祠の前を通らなくてはならない
楠の影から、和葉が道を遮るように出てきた
「どちらへ?」
「・・・」
「里を出ようと?」
「・・・ああ。俺はまた旅に出る」
「なぜ?」
「俺がここにいたら、またどこからともなくヤクザ共がやってきて里のモンになにかよくねぇことが起こっちまうかもしれねぇ。奴を逃がしちまったからな。だから、ここを出て行くのさ。行き先は…足の向くまま気の向くまま…」
「あなたを慕ってくれた、里の者達やタツ坊はどうなるのですか?」
「・・・」
「皆、あなたのことを本当に慕っています。あなたが背に背負っているものを何とかしたいとも思っています。それなのに、あなたはそれを無視して逃げると言うのですか?」
「・・・和葉。こんなろくでもねえヤクザ人のことを気遣ってくれるのはありがてぇ。だが、こんな俺の巻き添えにしていいもんじゃぁねぇんだ。もうおまえさんたちは、俺と関わりはねぇことに・・・」
「関わりはないなんて悲しいことは言わないで!!これからもずっと!!あなたは私が守ります!それでも…それでもダメなのですか?それとも私が魔物だから嫌なのですか?」
「・・・そうじゃぁねぇんだ。和葉」
笠で顔を隠すように俯いて言った
「俺はな。ずっと、ずっと…世の中拗ねて生きて来たもんだからな、おまえさんたちの好意にどう向き合っていけばいいのかわからねぇんだよ」
「・・・そんなこと。ただ、黙って背を預けてくれればいいのです。人は寄り添って生きていくもの。つらい時には誰かに頼ってもいいのではありませんか?」
「・・・誰かに背を預ける。・・・そんなこと考えたこともなかったな」
「私は、ずっと寄り添って生きてくれる方を探していました。一人でいるのはつらいのです。だからこそ、一人でいるつらさを知っている人に一緒にいてもらいたい。共に生きて共に幸せを育んでいくそんな日々を送りたい」
「共に生きて、共に幸せを育む・・・か」
「銀之丞、私と共に生きて。あなたと寄り添って生きていきたい」
銀之丞は俯いてしまった。肩が震えている
「銀之丞?」
「・・・情けねぇ・・・情けねぇなぁ」
顔を上げて空を見上げる、その目には涙があった
「女が、こんなにも慕ってくれているのに俺は逃げることしか頭になかったんだからよ・・・世を拗ねるのをやめて、一人の女のために生きてみるのもいいかもなぁ」
涙を見せまいと下を向く銀之丞
「銀之丞?泣いて…?・・・あなたは誰かの前で泣いたことはないのですか?」
・・・在りし日のことが一瞬、銀之丞の頭に甦る
「俺が・・・無茶ばかりやらかしていた時だ・・・血の臭いをさせたまま女郎屋へいって、昂ったまま女ぁ抱こうとした時、女が言ったんだ。“あんたは何を怯えているのさ。あんたはヤクザなんだってね。一人で生きているようでも実は、臆病もんさ。あんたは今人を傷つけてきたんだろうけど人を傷つけることしか出来ないあんたが、わたしのところへ来た、何故だい?怖かったんだろう?自分以外信用できなくてほかの者が怖くて怖くて。だから、傷つける。だから、女のところへ来てすがりたかったんだろう?”ってな。俺には何を言われているのかわからなかったが女は続けた。“だれも頼れるものがいないのは不幸なことさ。誰も慰めてくれない時はあたしの所に来な。少しでもあんたの隙間を埋めてあげるよ”ってな・・・。俺は、なにがなんだかわからなかったが、すっと泣いちまったんだ。いつも肩を怒らせて他人を信用しないで見下していたのに、その一言は俺の心根にすっと入り込んできちまったんだ」
「・・・」
「和葉。おめえの今の言葉はそれと同じに、心根にすっと入り込んできた。俺はどうしたらいい?俺がここにいたらまた奴らが来るんじゃねぇのか?」
「銀之丞。私が一人逃がしたのを見ていたでしょう。逃げた者がいるからまた、あの者達が来ると思っているのでしょうけど、そうはなりません。あの者に術を吹き込みました」
「術?」
「あの者は、方々にあなたが死んだと言うことを吹き込むでしょう。そして、その言葉には私の言霊が宿っています。それを聞いたものはあなたがこの世にいないことを信じてしまうでしょう。誰かがあなたが生きているといっても、誰も心にとどめることはもう出来ない。だから、気にすることはないのです」
「・・・そんなことを」
「銀之丞?あなたはもう一人じゃない。私も、里のみんなもいる。だから、一緒に暮らそ…」
そう言って胸に顔を埋めた和葉
戸惑う気持ちとうれしい気持ち
銀之丞は静かに和葉を抱きしめた
山の上の社
そこからは、山も里も棚田も一望できた
真っ青な夏の空
遠くに大きな入道が天高くそびえている
辺りの森からは蝉が、これでもかと鳴き
それと共に、近くに小川でもあるのだろう
涼しい風と涼しげな水音が聞こえてきた
「銀之丞、こっちよ〜♪」
社へと案内する和葉は楽しげだった
「転ぶぞ?」
「大丈夫!」
軽やかな足取りで、早く早くとこちらを振り向きながら先を行く
三つのしっぽが本当に楽しそうにふわりふわりと揺れている
和葉が導いた先には社があった
中に入ると、板張りの部屋がありそこにはたくさんの藁が敷かれていて
丸く窪んだところがある。そこを指差して、
「ここが私の寝所よ」
と言った
「ここが・・・?」
「ええ。でも、ここを使うのも今朝が最後でしょう」
そういうと、和葉は銀之丞の腕を抱きながら奥の部屋へと導いた
その部屋は、きちんとした畳の間
屏風が置いてあり、その向こうには一組の布団・・・
「ここが私達の寝所となるのですから・・・」
「和葉・・・」
朱に染まる和葉の顔に銀之丞も気恥ずかしさがはしる
「もともと、ここはとぉ様とかぁ様が使っていたんだけど・・・」
「そうか…」
腕を抱きしめる和葉。見上げるその瞳を見ながらサラサラと流れる髪を撫でてやる
「銀之丞?あなたをもっと間近かでいろいろなとこ見ていい?」
甘えるようにそう言った
「・・・ああ」
屏風に仕切られた向こうから、衣擦れ音が聞こえる
敷かれた布団の上で、銀之丞は緊張してしまっていた
女を抱くのは初めてではないが…
美しく舞っていた和葉
それが、屏風一枚隔てた向こうにいるのだ
気恥ずかしさが込み上げる
「おまたせ」
「おう」
「くすっ!そんなに顔をそむけなくてもいいわよ?」
「そうは言ってもな。こんな真昼間から・・・」
そっと見てみる
白い襦袢姿の和葉
本当の姿である狐耳、刈り取り時の稲のような黄金色の髪の毛・尻尾の姿でそこにいた
襦袢から伸びる足・・・
瑞々しく柔らかそうな足が伸びていた
「黒髪の人の姿ではないんだな」
「あちらがいいですか?」
「いや。その姿の方が可愛らしくていいぞ」
「銀之丞!!」
突然、飛びついた和葉
「和葉?」
「これが銀之丞の匂い!」
すりすりとほお擦りをする和葉
「和葉・・・意外と甘えんぼ?」
「だって、とぉ様とかぁ様がいなくなって、ずっと一人きりだったんですもの!」
「そうか・・・」
包み込むように抱きしめてやる
すっぽりと腕の中に納まった和葉
狐耳が時々、銀之丞の頬を撫でた
和葉は、上目遣いに聞いてきた
「銀之丞・・・私ね?ずっと一人きりでいたから、一人の寂しさをよく知っている人に来てもらいたかったの」
「・・・」
しっぽと艶やかな髪そして、へにゃりと曲がった耳をやさしく撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める和葉
「そうすれば、寂しいっていう心の隙間を埋め合うことが出来るでしょう?」
「・・・そうかもな」
「銀之丞?あなたがこの里に来た時、寂しげな翳を浮べていたわ。幸せそうに笑顔を浮べる家族を見ているとき…タツ坊が無邪気にはしゃいでいるとき…まるで、自分には縁遠いものだとそう思っているような…それを見て、私はあなたに惹かれた。この人はそういうものと今まで縁が薄かったんじゃないかと…。この里で暮らすようになったあなた…悲しげな翳は見えなくなったけれども、幸せな人を見ていると眩しげな瞳で見ていたの。それがとても心に残ったわ」
「そんなところまで見られていたか…まぁ…昔話は好きじゃねぇ。ただ…。ただ、家族の情とかと縁が薄かったのは否定しねぇやな」
「これからはいつもあなたの側に私がいる。だから、私だけを見て銀之丞」
「和葉・・・」
胸にもたれ掛かるように頭を預ける和葉
頬に掛かる彼女の柔らかな温かさがやさしい
体から伝わる温かさが、体を心を少しずつ温めてくれるのを銀之丞は感じていた
「銀之丞・・・銀って呼んでいい?」
「・・・ああいいぞ」
「ぎん…口吸って?」
「ん…」
ちゅ……
小さな唇に吸い付くように口づけを交わす
和葉は片時も見続けようとじっと銀之丞を見続ける
銀之丞も吸い込まれるようにその瞳を見続けていた
舌先で口をあけるように促すとおずおずと口をあけた
小さな舌を見つけ出し求めるように絡ませると、最初は控えめだった絡みもすべてを舐めとってしまうかのように絡ませてきた
ちゅ……じゅ……んんん…
時々、舌を休ませるように引っ込めると、今度は私の番とばかりに舌を入れてくる
じゅ…じゅる……ちゅぅ……あはぁ…
口を離すと甘い吐息が耳に付いた
うっとりとして頬を染める和葉…それがどうしようもなく可愛らしく見えた
「ぎん……」
「和葉……」
互いのことを確認するかのように名を呼び合う
それから、互いの心の隙間を埋めあうように求め合った…
幸せな時間…そんな時の中、銀之丞はまだ伝えていなかったこころを伝えた
「…かずはぁ…すきだ…」
「……ぎん…ちゅ……ん。……やっとすきって言ってくれたぁ♪」
「すきだ。かずはぁ」
「ぎん……わたしだってすきなんだからぁ……もうぜったいにはなさないんだからぁ」
気持ち良い余韻に浸りながらのまどろみ…
いつまでも余韻に浸っていたいと二人は戯れる
「…ぎん」
「ん?」
「…」
いつしか寝てしまったようだ
安心した顔をして、ゆっくりとした寝息をたてている
添い寝している和葉をなでながら、銀之丞は同じように睡魔に身を任せていった…
一緒に暮らすようになって、二人は里の者達に事の次第を話した
お守り様と親しんでいた方と、ヤクザといいながらも心優しい男が一緒になると言う話
皆、大層喜んでくれた
タツ坊は突然いなくなってしまった銀之丞を見ると泣いてしまった
二人でこの里の上の社に住まうことになるというと、泣きながらも喜んでくれた
世を拗ね、一人で生きてきた男と
やさしく人々の暮らしを見守りながらも、ひとり頑張ってきた女
心の隙間を埋めるように互いに求め合う
そして、里の人々の情
これからもずっと、そんなやさしさに包まれていくのだろう
そう・・・いつまでもずっと・・・
11/05/14 22:02更新 / 茶の頃
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