壁の花
初春の陽が沈んでいく。
空気に夜の気配が満ちていくことに本能的な高揚を感じて、私は身じろぎした。
初等部四年にこちらの世界に作られた守結学園に転入してはや七年目。陽の光の下での生活にも大分慣れたと思っていたが、ヴァンパイアという種族的にはどうもそうはいかないらしい。
ほとんど終わった課題を脇に置いて時計を確認する。
教室には誰も残っていない。皆、部活なり逢引などに出かけたのだろう。
私もそろそろ生徒会室に行かなければならない時間だ。席を立とうとすると、教室の後方にあるドアから音もなく気配が侵入してきた。
振り向くと、初等部からの付き合いになる、この世界生まれのファントムが居た。
彼女は私を見ておや? という顔をする。
「ルアナ様ではありませんか。本日はたしか生徒会が部活の予算を決定する会議があるはずでは?」
「そうだミレイ。皆が資料をまとめるまでの時間を課題に充てている」
ミレイは腕を広げて「なる程!」と訳知り顔で叫んだ。
「皆、鬼がすぐ傍に居ては資料のまとめどころではないと、そういうことなのですね?!」
「鬼とは無礼な。今の私は肉体的には下等な人間並だ」
「嗚呼、怒らないでいただきたい。不機嫌な顔をされては見事な金の御髪も精彩を欠くというものです」
「ミレイ。君、中等部二年でファントムになってから、本当にいい性格になったな」
「守結学園高等部首席、貴族であり二年生にして生徒会長の座に君臨する我らが会長のお褒めに預かるとは光栄の至りでございます」
大仰な物言いは相変わらず。私としては初めてミレイを見つけた頃の、ゴーストになった自分を理解出来ておらず混乱していた、あのなんとも哀れを誘った姿を懐かしく思う次第だ。
「どんなに褒めても演劇部の予算は増えないが」
「ルアナ様、私めが所属しているのは正確には実践派演劇テロ集団<仮面舞踏会>バル・マスケでございます」
「……そうやって部を小分けにするから予算委員会で担当が頭を抱えて部室が足りなくて異次元作成依頼が増えることになるのだ」
とは言うが、ミレイたちが行う演劇は即興でその場に居合わせた人物も巻き込んでは最終的には学内で性交を含む劇を実行する過激派。馴染みきれない人間や引っ込み思案のドッペルゲンガーたちや純粋に劇について学びたい者たちとの住み分けという意味ではこういう分派も有りではある。
「おや、難しい顔をしておられますね。近頃は夜会に生徒会にと大忙しのご様子。どうかご自愛ください」
誰のせいで難しい顔をしているのか教えてやりたいところだ。
「忠告ありがとう」
「何か力になれることがあればいつでも言ってください。私はルアナ様のためにならば全力で事に当たらせていただきます」
「ああ」
「私だけではありませんぞ。それこそ、ルアナ様が普段の峻険な顔を緩めてもっと皆に話しかければその思いを表に出す者もまた増えましょう」
ミレイは悪い娘ではないが、どうにも妄想癖が強い部分がある。夫と共に演劇風の特殊な交わりを行っているらしいので月日が経つごとにその傾向は強くなっているようにも感じる。
「貴族でもない相手に話しかけるというのは私たちヴァンパイアの流儀ではない」
「またそのようなことを仰る。まだゴーストだった頃から私めのような道化相手でも話しかければ付き合ってくださるではありませんか」
「声をかけられれば反応するさ。民の声を聞かない領主などただの暗君だ」
ミレイは大げさに肩を竦めた。
「何はおいても妹君の気さくな部分だけは見習うべきではないかと思うのです」
「妹は妹。私は私だ。さて、そろそろ行かなければ」
「む、私も行かなければ計画に遅れてしまいますな」
「……あまり混乱を起こさないように」
「お任せあれ。私共の手にかかれば諸人は混乱する間もなく演劇の舞台役者になっていますよ」
不安になる言葉を残して礼をすると、ミレイは教室を出て行く。私も荷物をまとめ、
「……そんなに厳しい顔をしているつもりもないのだが」
零れた言葉をため息で打ち消し、教室を出た。
今夜は夜会もある。終わる頃には夜も深くなっているため課題を終わらせてしまいたかったが、少し残ってしまった。生徒会の予算会議が終わった後に少し残って片付けようか。
夜会への参加も二年目。振る舞いも板についてきたように思える。
こういった物事を一つずつこなすごとに向こうの世界にある領地を治めるための準備が整うように感じて身が引き締まる思いだ。
そのようなことを考えていたら生徒会室の前についていた。
先のことより、まずは目先のことを確実に。そう自戒しながら生徒会室に入室する。
●
予算委員会は順調に進んでいた。
役員たちがまとめた資料を見ながら予算の割り振りを微調整し判を捺していき、次の部を会計が提示して予算が話し合われる。
高等部の生徒会は各学年から三名ずつの九名で構成されている。
人魔共学のこの学園は、人が魔物化したり、留学生として魔物が転入してくることがあるため年次が進むごとに徐々に生徒総数における魔物の割合が増えていく。
高等部ともなれば魔物の割合も過半数を超え、生徒会も役員全員が魔物だった。
唯一顧問が人間の男性だったのだが、彼は今、役員の一人に拉致されてしまって長期休業している。このままでは子作り休暇も使い果たしてしまうだろうが、大丈夫だろうか? ともあれ、監禁されたから休職すると連絡を寄越した正規顧問の代理として、元勇者が名を貸してくれているのだが、彼は剣道部と掛け持ちのため顔を出さないことが多い。
そのような事情で現状、生徒会長は実質生徒会の長だった。
更に、守結学園はリリム様や教頭ちゃまに止められない限りは生徒に自治権を認めているため、生徒会の長とは高等部の長とほぼ道義でもあった。
学園の方針に関わる物事に関わることができ、魔界の大物とも繋がることができ、更には領主としての将来の自分の勉強にもなる。
それが故に私は生徒会長の座に二年にして就いていた。
役員になるような魔物娘たちはまだ夫となる存在を見つけていないか、夫が居てもそれ以外に心を砕いて学園生活を良い思い出を作る舞台としようとするような者がほとんどだ。
今年度の高等部生徒会は私以外全員がつがいを持つ者たちであり、彼女らの生徒会活動における原動力は良い学園生活を。というこの学園をゼロから創造したリリム様の意向に沿うものだった。
そんな彼女らが行う会議は、魔界で大人たちがするものよりも熱意という面では上かもしれない。
もちろん、ある程度の権力を与えられている以上、役員たちも熱意だけの者たちではない。私同様貴族の子女や、爵位こそ持たないもののギルドの階級を所持する者などが名を連ねている。
私に判断できない案件も尋ねれば専門家の見地からわかりやすい答えが返ってくるのが頼もしい。
「さて、こんな所でしょうかね。会長」
パン、と手を打ってサキュバスの先輩が会の終わりを告げる。
「そうだな。ではこれを生徒会からの各部活への予算案として先生方に提出する。皆、ありがとう」
●
完全に陽が落ちて、我が身にヴァンパイアとしての力が戻ったのを感じながら役員たちを見送る。
肩の力を抜き、決裁された書類の山を眺めつつ思うのは、皆への確認を挟む頻度を減らせるように務めなければということだ。
そうすれば会議は短くて済み、皆もつがいのもとへと早く合流できるだろう。
私にはよく理解できないが、好きな者と共に居ることは何物にも代えがたい幸福であるつがい達が多いことを知ってはいる。
先輩たちに会長の座を譲ってもらっている身としては、より一層立場にふさわしいだけの仕事をして学園生活の改善と、そこに携わる者のつがいとの時間の確保を両立せねばと思うのだ。
ドワーフのツナにでも建築関係の知識を教授してもらって、金銭関係は刑部狸の赤殿(せきでん)に教えを乞おうか……。
一年生と同輩の役員の顔を思い浮かべながら、彼女らのつがいとの時間を奪わないようにするのが肝要だなと考える。
赤殿は自身が何かを差し出す以上、こちらからも取るものは取っていくだろうが、ツナはこちらが先輩であることも含めて言われるままに時間をくれかねない。
搾取しきってしまわないように気をつけねばな。
そう自らに確認していると、生徒会室の扉が開いた。
入って来た老齢の男の纏う雰囲気に、自然と姿勢を正していた。
彼は私たちが元居た世界で勇者と呼ばれていた者の一人だ。かつて戦場を我が物顔で駆け抜けたであろう彼は所在なげに室内を見回し、
「……会議は終わってしまったか」
「つい今しがた。これから判を捺した案を先生方に回覧します」
「指導が終わってから出来る限り急いで来たのだが、やはり遅かったか」
「仕方がありません。武術を教授する場を放置しておくこともできませんから」
手を出す彼に書類を渡す。
彼が指導を行っている剣道部では妹も世話になっている。こちらには急遽代理として無理を言って名を貸してもらっているのだから、顔を出せないのは仕方のないことだ。
「そう言ってもらえると救われる。ああ、ラリサ・フロレスクだが、やはり筋がいい。初等部の頃から道場に来ている弟子から一本取ったぞ」
「あの子は元々運動神経は抜きん出ていますから。それに故郷に居た頃、基礎の基礎ではありますが我が領の騎士に剣術を習ってもいました」
「なるほど。基礎があったのか」
「変な癖が付いてお手を煩わせませんでしたか?」
「いやなに、問題ない。教えたのはデュラハンたちなのだろう? 魔物の身体能力をもって相手を打ち倒すという意味での剣術ではあちらがより実戦的だ」
「勇者のお言葉ですね」
「元、だがな。今では異世界で気ままな道場主生活だ」
そう言って精悍に笑う彼は、前魔王様の御代にドラゴンを相手に勝利を収めたという。
リリム様からの信頼も篤い彼に手ほどきを受けているのだから、妹が楽しそうに道場通いをしているのも納得できるというものだ。
「……そうだな。他に手すきが居なかったとはいえ、引き受けた仕事だ。道場を見る者を他に探してこちらの仕事に時間を割くことができるようにしておこうか」
書類に目を通しながら呟いた彼に、私は待ったをかけた。
師範はつがいであるリビングアーマー共々道場主としての生活を生きがいとしている。そうでなくても勇者部隊として学園の式典や公の場での護衛や警備を任されているのだ。これ以上仕事を増やして彼の生きがいの時間まで奪ってしまうのは忍びない。
「貴方が道場を離れるとなれば生徒会が門下の者に恨まれてしまいます。こちらのことは気にしないでください。本来の顧問が戻ってくるまでは私たちで維持します」
「彼はたしかウィル・オ・ウィスプの娘に連れて行かれているのだったか……長引くのではないか?」
「……それは」
長引く。確実に。
彼女とてあちらの世界からこちらの世界にわざわざ渡って来てまで何かを学びたいと思っていたのだ。連れ去られた彼が説得をして彼女の情欲を超えて納得させることができれば戻ってくることも可能だろうが、今現在そのような兆候はない。
生徒の説得も教師の仕事だろうに。これだから人間は頼りないのだ。
師範は私の顔を見て、口もとを軽く歪めた。
考えていることが読まれただろうか?
「お言葉に甘えて道場は空けないとしても、誰か代わりの者を生徒会に呼んだ方がいいか。ルアナ・フロレスク。誰か希望する教員は居るかな?」
その問いに、反射的によく知った顔が浮かんだが、彼は師範とは違い生き方に落ち着きがないというか、頼りない。それこそ下等な人間そのもののような存在だ。
それに、彼には彼で教員以外にも個人的な仕事がある。遅くなることもある生徒会の顧問までやらせるわけにはいくまい。
始めに浮かんだ教員が彼だったせいで苦い気分を味わっていると、師範が確認を終えた書類の束を抱えて立ち上がった。
「候補が居るようなら考えておいてくれ。こちらでも探しておこう」
「私たちだけでは生徒会の維持は難しいと判断されますか?」
師範はいや、と首を振って、
「お前たちはお前たちで専門の者やそれを志す者ばかりなのは知っている。学園の内部組織として機能させる分にはお前たちだけで充分だろう。だが、こちらの世界にはこちらの世界の流儀があり、生徒会が下す決定はそれなりの影響力がある。こちら側の流儀に合わせるための調整役として、そして責任を学園側のものにするために教員は必要だ」
「申し訳ございません。傲慢でした」
そうだ、こちらの世界にはこちらの流儀がある。来たばかりの頃に学んだことを忘れていたわけではないが、目指すものを見据えているとどうにも気が逸る。
「いや、若い者が意気軒昂なのは大変喜ばしい。では、私は職員室にこれを持っていこう。今夜は夜会だろう? 準備に一旦家に戻るといい」
「お心遣いありがとうございます」
●
こちらの世界で私が暮らす屋敷の広さは生家に比べれば半分にも満たないが、こちらの世界基準ではそれなりの豪邸ということになるらしい。
住んでいるのは私たち姉妹とこちらの世界出身の客が一人。
こちらの世界とあちらの世界とで貿易が行われているため、こちらの風土について理解しておくことと、リリム様が始めた学園≠ニいうものに単純に興味を示した母様の意向で私たち姉妹と、こちらの世界について知識を持っていた客人が送り出されたのだ。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま。大過ないか?」
「ええ、問題ありません」
三人で住むには広すぎる屋敷の維持のため、通いの使用人が何人も居る。
領内で異世界に興味がある者の働き口として、あるいはこちらの世界で発生してまだ右も左も分からないゴーストやゾンビなどが魔物娘として落ち着くまでの研修として、彼女らは働いている。
学園に行く者が大半故に主な仕事の時間が放課後になっているため、今頃が一日で最も屋敷が賑やかな時間だ。
ミレイもかつては我が家で一時を過ごした一人だ。だからこそ私にあんなにも気安いのだろう。
こちらの世界にこの大きさの屋敷をわざわざ作ったのはそういった者たちを受け入れるための受け皿を作るためだったらしい。
こちらに来ることが母様の意向であるならば、当地でのフロレスク家の振る舞いの基礎を敷いたのは父――いや、今は父様でいいのか。
『私に傷を付けられる、人間にしては優秀な個体』ということで母様がヴァンパイアハンターだった父様を夫に迎えてから生まれたのが私。そしてその数年後。まだ人間だった父と、母様の間に生まれたのがダンピールの妹、ラリサだった。
それからも長らく人間のままで生活していた父だが、私たちをこちらに送り出してからすぐ。……そう、私がこちらに来たのが初等部四年で、学年が変わる前にインキュバスになったことが便りで伝えられてきたのだったか。
たまに会う父様は以前とあまり変わりがないが、母様が変わった。会うたびに留守中の間の父様の話を聞かせてくるようになったのが印象的だ。
……そういえば、ラリサは母様が父様の話をよくするようになったことを喜んでいたな。
ダンピールの彼女は生来ヴァンパイアの貴族的な所を苦手とするきらいがあるので母様が人間だった父様に取っていた態度が気に入らなかったのだろう。何度か母様に詰め寄っている姿を見かけたものだ。
必死な顔で強大な力を持つ母様に挑みかかっていた妹の顔が懐かしい。そんなあの子も今は自分の恋に忙しいようだ。
そう、あの子は今、恋をしている。その相手は――
「武彦。君はそこで何をしている」
廊下の隅に屈んでいた男が私の声に振り向いた。
「ルアナお嬢様、お帰りなさい。
いやね、せっかく身につけた使用人としての技術を枯らしてしまってはもったいないのでね。少し手伝いをさせてもらっていたんだ」
そう朗らかに言う彼は守結学園の教師であり、我が家の客人であり、私の所有物である武彦だ。
教員であって間違っても掃除夫ではないし、何より使用人たちに世話をされる側の人間であるはずだった。
「当家のかわいい使用人諸君の大事な仕事を奪わないでもらおうか」
誰がこなそうと大した違いは無いが、蘇ったばかりのアンデッドたちは労働や日常生活の送り方を忘れてしまっている者たちも居る。ここで彼女らの社会復帰のための機会を奪わないでもらいたい。
敢えてその機会を奪おうというなら社会に戻れない彼女らの責任を取るのは君ということになるだろうに。
そうなると妹は悲しむだろう。
そんな私の思いを知ってか知らずか、彼は「僕がやり方を思い出すため以上の手出しはしていないさ」とこちらの世界の極東人特有の宥めるような笑みを浮かべた。
武彦は私たち姉妹と共にこちらの世界に渡ってきた者だが、生まれはこちらの世界。旅暮らしをしている時にあちらとこちらの世界の間を繋いだ穴に巻き込まれて魔界に落ちて、そこで行き倒れていたところを両親に拾われたという変わり種だ。
しばらく私たちの生家で使用人の真似事をしていたが、こちらの学園に私たちが行くことになるのにあたって彼もこちら側の世界を知ることからアドバイサー、それに家庭教師を兼任として送り出されていた。
元旅人にしては教師としてまずまずの能力をもっていたようで、こちらの世界独特の知識をそれほど苦労することなく習得できた記憶がある。
「あ、あのルアナお嬢様……」
遠間から様子を伺っていた使用人が窺うように声をかけてきた。
彼女が言わんとしていることは分かっている。
彼自身の言の通り、武彦は手伝いこそすれ、彼女らの仕事を奪ってはいまい。
元旅人らしいというのか、彼は立ち回りが巧い。他者の領分を荒らさないのだ。それは理解している。
が、君の仕事はそうではないだろう……いや、私の八つ当たりであることは分かっているのだが。
気がつくと、声をかけてきた使用人だけでなく、やり取りを聞いていた使用人が全員こちらの様子を窺っていた。
彼女らになんでもないと手で示して額を叩き自戒とする。
「あんまり怖い所を見せてはいけないよ、ルアナお嬢様」
誰のせいで……っ。
一瞬心がざわめくが、ひとまず今の発言は不問として、代わりに働きたい者には働いてもらうことにした。
「夜会に出るにあたって少し飲んでおきたい。用意しておくように」
「仰せのままに。食堂に用意しておきましょう」
武彦の声を背中に聞きながら自室に向かう。
悪い者ではないのだが、アレに焦がれるとは、ラリサも少し考え直した方がいいのではないだろうか?
●
食堂に行くと武彦と我が妹が既に席についていた。
「あ、お姉ちゃん、やっと来た」
「その呼び方は控えるように言ってあるはずだ」
食卓に向かいながら言うと、ラリサは私と同じ紅い瞳に不満を滲ませた。
「身内しか居ない時くらい、いいじゃない」
微かな足音がして、給仕の者が入ってくる。
「ね、お姉様? 早くお席につきませんと、給仕の方が困ってしまいますわ」
そう言って肩までの金髪も鮮やかに微笑んで見せるラリサに、私は肩を竦めた。
「そうだな。分かった」
悪意の無いウインクを送られながら席につく。
彼女が私の妹にしてダンピール、ラリサだ。
やはり父様の血が濃く出たのか、貴人というよりは冒険者のような肉体派で、運動部を複数掛け持ちしている。最近の興味の的は勇者が教える剣道部だ。
部活仲間も多く、他者との交流を得意とする彼女は、客観的に見てひどく愛でたくなる外見も相まって友人が多い。ミレイは妹のそういうところを見習うべきだと言っていたが、確かに美徳だ。しかし、私には不要のものだろう。
私が席に座ると、戸惑っていた給仕がこちらに許可を求めるような視線を向けてきた。
頷いてやると、安心したような表情で食事が運ばれてくる。
並べられるのはこちらの世界の料理だ。本家の料理人の指導を受けた品々は侮ることができない。
それらを妹と武彦が食べ始めるのを見ながら、私は自分用の食事に手を伸ばした。
基本的に私は食事をエネルギー補給にとどめている。大抵の日は口にするのは赤い液体だけだ。
鉄の匂いを口に含む――武彦め、血液型が今日の私好みだ。
こちらの世界は輸血パックという代物があって素晴らしい。人類も捨てた物ではない。
味はともかく、効率の悪い食事でエネルギーを補給しなくても良い上に、血を飲むたびに感じていた体の火照りも鮮度が無いためかあまり感じることがない。
常に冷静なヴァンパイアで居られるのだ。
おかげで私はこちらの世界に来てからというもの、人から血を吸うことなく生活できている。
私がこちらの世界に愛着を感じるとすればその一番の理由はこれになるだろう。
短いながらも充分な時間をかけた食事を終えて一息ついていると、ラリサが食事の手を止めてこちらを見ていた。
「お姉ちゃん、今夜も夜会に行くの?」
どことなくなじるような口調だ。夜会に行くということは既に伝えてあるというのに、困った妹である。
「去年私がそうだったように、この時期は夜会デビューする者たちが面通しに来る。彼らとの挨拶もあるゆえ席は外せない」
新参の挨拶が重なれば自然と夜会開催回数は増えてしまい、この月に入ってからは多少忙しい日が続いている。
「へえ、私たちと居るよりも夜会の方が楽しいんだ」
「そういう話をしているのではないだろう?」
「そうだけどぉー、なんか最近家のことが疎かじゃない?」
言われてみると、たしかにこのところ家に居ることが少ないため、使用人たちの様子など、見切れていない所がある。
が、ラリサと武彦ならばわざわざ私に伺いを立てずとも、相応に家を維持することはできるだろう。それができないというのならば、
「そうお前が考えるのなら、よく学ぶといい」
「話題を逸らさないでほしいなあ。それに、武兄ィに教えてもらってるから成績はぐんぐん上がってるよ」
そういう話でもないのだが、すれ違ってしまった話を無理に修正する必要もないだろう。
話題の一区切りとして息をつくと、ラリサがむっとした顔で睨んできた。
「お姉ちゃん、何か言いたいことがあるなら言ってよ」
「いや、私から言うべきことは特にないな」
ラリサが何か言いたそうに口をひらきかけて、それまで静観していた武彦が口を挟んだ。
「成績が上がっているのは本当のことです。その点は褒めてあげてもいいのではないかな? ルアナお嬢様?」
彼のその言葉にラリサの顔から険が抜ける
わかりやすい奴め。
「では、そのように成績を上げてくれた当家の客人にも相応の礼をしなければならないな」
「いりませんよ。元々家庭教師として僕はこちらに来たのだしね」
「その任は私が高等部に上がった記念に年季明けとして、今は正式な客分なのだがな」
「その後に学園の教職を紹介して頂いた僕からのお礼と家賃みたいなものです。……ルアナ様にもまたお教えしましょうか? こちらの世界で普通に教えられていた教科ならまだ僕でも教えられますよ?」
苦笑と共に告げられたので、同じく苦笑で返す。
「もう私に君の助けはいらないな」
「お姉ちゃん、武兄ィを馬鹿にするような態度が最近多すぎない? 年上で先生なんだし、そういう所はしっかりした方がいいと思う」
勢い良く反応したラリサに少し戸惑う。殊更貶したつもりではないが、そういうふうに聞こえてしまっていただろうか?
「そうか……すまないな。私個人は君の助けは必要とはしていないが、だからといって君の教師としての力を低く見積もっているつもりはない。それに、ラリサの成績の向上については当家を代表して心の底から感謝している」
「それは光栄です。ラリサちゃんも、体を動かすことが好き過ぎて勉強に興味が向かなかっただけで、地頭の方はルアナ様と同じくらいあってね、最近は興味も向いてきたのか教えたことをすぐに吸収してくれるから教える側としては楽しいよ」
「そうであるならばありがたい」
物覚えがいいのは決して勉学に興味が向いただけではないだろうことは、褒められた途端に大人しくなった妹を見れば分かる。
最近は私よりも武彦の方に懐いているようで、うらやましい限りだ。
「さて、悪いが私はそろそろ行かせてもらおう」
我が妹の機嫌も落ち着いたところで席を立つと、二人分の声が送り出してくれた。
●
今の魔王様の御代になってから、世界の様子はそれまでからは想像もできない程に変わったらしい。
愛を尊び、性を謳歌する。
それはそれで素晴らしいものだろう。
だが、相手を伴う場合、その相手とは私たちから見れば完全に種族が違う存在になってしまう。そこで同族間なら発生しないような問題が生まれる。
かつてのように全てを力で押し通すことができれば楽なのだろうが、そうもいかないのが今の世だ。
単純にはいかない今の世だからこそ、醸成されるものもある。それの一つがこの夜会だ。
昼、仕事で忙しい立場ある者たちの体が空く夜になって集まり歓談しつつ関係を深める会。というのがこちらとあちらの門を至近に構えた守結学園の講堂で催されている夜会の建前だ。
実態としては、両世界の価値観を擦り合わせるためにやすやすと公にできない話をする場であり、それと同時に建前通り昼間出会いの機会を作ることができない魔物たちのための場でもある。
この場で話し合われたことが両世界の交流の方針になったりするなど、異世界同士の結節点で開かれるこの夜会は参加するだけでも非常に名誉がある会だった。
私も昨年から参加して、貴重な交流を得ていた。
そんな夜会であるが、リリム様が創設した学園の夜会らしく、海千山千の魑魅魍魎が両世界の天秤のバランスを取っている傍らで初々しい出会いの場が提供されてもいる。このような光景となると、私の出身国ではなかなか見ない。
向こうでは政治的な話に終始するか淫蕩の限りを尽くすかのどちらかに傾くことが多いからだ。
この夜会の混沌としている感じはまだお互いに手探りな状態だということを表しているのだろうと思う。
故郷の夜会とは違ってこちらでは生者の参加が過半数を占めていたり、ジパングや霧の大陸のような、故郷では見かけなかった魔物たちも居て目に楽しい。また、人魔入り乱れて踊りに興じている光景というのは美しく、安心するものに感じられる。
魔物の洗練された踊りに比べれば添え物程度の立ち位置とはいえ、下等な人間に心を落ち着かされているというのはなんとも認めがたいことではある。とはいえ、夜会に参加する人間は皆それなりの立場がある者であるということを考えれば、彼らを多少認めなくもない。
学園の上層部や知った顔。そして今年から夜会に参加し始めた者たちに挨拶を済ませると、処女輸血パックの血を注がれたワイングラスを傾けて喉を湿らせる。
軽い火照りを感じながら華やかな踊りを眺めていると、声をかけられた。
「フロレスク家のお嬢様ではありませんか」
「お久しぶりです」
「大取様。ご機嫌麗しゅう」
挨拶を交わしたのは、故郷でこちらの世界の物品を卸している貿易会社の社長夫妻だ。
夫人は大取氏の半歩後ろにゆったりとした表情で立っている。
夫婦揃って佇む姿は自然なのに隙がない。二人共師範の手ほどきを受けていたことがあるらしく、身のこなしは流石の一言だ。
「こちらにお戻りになられていたのですね」
「ええ、お父様とお母様に会ってまいりましたよ。お二人共、お嬢様方を気にかけておられました」
「お二人に言伝を頼むとは、我が両親のことながら申し訳ございません」
「いえ、それ以上に今回はよいお話をいただきましたので」
彼がそう言うということは本当に良い商談ができたのだろう。
母様は父様がインキュバス化してからインキュバス全体に対する態度が急速に軟化していたことだし、これまで通いつめていた彼の努力がここに来て実を結んだということだろうか。
どういった話だったのか、気にはなるが追究はすまい。
そういった話に手を出すのはまだ早かろう。背伸びをして考えを弄んだところで所で彼のつがいたるキキーモラに見抜かれて、己の未熟さを思い知らされるだけだ。
「そういえば、そちらのお屋敷に以前本家で働いていらした男性がおられますか?」
夫人の言葉に私は頷く。
「ええ。元はこちらの世界の者ですので私たち姉妹がこちらで暮らす際になにかと助けになるだろうと両親が付けてくれました。当初の任務も終えたということで、今では守結学園で教師をしております」
彼女は「そうなのですね」と頷き、
「私たちの娘も守結学園に通っているのですが、その彼、ボランティア部でちょっと人気があるそうですよ」
「……そうなのですか」
「ええ、どことなく放っておけないような所が良いというお話でした」
なるほど、ボランティア部に入部するような世話好きな魔物たちなら彼のような頼りなげな存在が人気になるのも頷ける。
「娘のお友達たちがその先生に決まった相手がいらっしゃるのかと気にかけていたので訊ねさせていただきましたが……そうですね、これは愚問でした」
そう言って夫人は笑んだ。
「あなたのお屋敷に居られるということは、そういうことなのでしょう」
「いや、待って」
言われた言葉に反射的にストップをかける。
咳払いを一つ入れて平静を取り戻し、
「お待ちください。私と彼はそのような関係ではありません」
「あら、そうなのですか?」
「彼は当家の客人であり、私の所有物であるというだけです。
彼とそのような関係になりたいのは私ではなく愚妹の方でございます」
「あら」
夫人は口もとに手を当てた。
「そうでしたの」
「ええ。あの子ときたら共に居られる時間を伸ばそうと苦手な勉強にも真剣に取り組むようになりまして。私が言ってもなかなか聞かなかったというのにあの男の言うことは殊勝に聞いて。それはそれで良いのですがあの男もあの男で学園での教師としての仕事もまだ日が浅いというのに家庭教師を続けるなど負担が大きいはず。にもかかわらず今日など使用人の真似事まで――」
彼と妹について語っていると、夫人は目元を緩めた。
いかん。話し過ぎたか。
「……申し訳ございません。益体もない話を長々と」
「いいえ、ご家族をとても大事に想っていることが伝わってくる、良いお話でした」
そう言われると、どのような顔をしたらいいのか困る。
これは、話させられたのかもしれんなと思っていると、夫人は優しげな表情そのものの声音で言う。
「娘には件の彼には決まった方ができそうだと伝えておきましょう。そうでないと、大層人気の方のようですもの――大変ですよね?」
「すみません。感謝します」
「いいえ。事実を伝えるだけですもの。それを聞いて行動を起こす娘も居るかもしれないことにはご容赦を」
「分かっております」
それほどに武彦は人気なのだろうか? だとしたら、ラリサには早急に彼をどうするのか決めさせねばならないだろう。
私が思考に沈んでいると、大取氏が言葉を挟んできた。
「さて、宴もたけなわと言うのでしょうか。楽隊の奏でる音も盛り上がって参りましたので、私たちはそちらに行かせていただきます」
完全に相手のことを失念していた。それを察してくれたのか、失礼にあたる前に声をかけてくれた大取氏に私は頭を下げるしかなかった。
「これは申し訳――」
「いえ、我が妻が少々話し過ぎたので混乱してしまわれたのでしょう。こちらこそ申し訳ございません。さ、アーニャ。あちらで僕と一曲踊ってくれるかい?」
「ええ、旦那様が望まれるのでしたら」
そう言って夫人も礼をして去って行く。
「いかんな……」
どうにも、あの二人のことが絡むと調子が狂ってしまう。
頭を冷やそうとバルコニーに出ると、地上では玄関から目の前にある噴水にかけてまでが壮麗なダンスフロアになっていた。
会場入りするまでは存在しなかったそれは幻術の類だろう。
この規模と質。そして本物と見まごう存在感を勘案するに、ミレイたちファントムが総力を挙げて展開しているのだろう。
噴水ではアプサラスとメロウが思わず釣り込まれそうな艶やかな踊りを披露しており、サテュロスのものであろう笛の音が人魔を踊らせている。
男性の中には敢えて学園側が提供した結界を外している者たちも居る。今夜はもう難しい話はなしということだろう。
そんな人々の中に大取夫妻の姿があった。
リードする大取氏に完璧に合わせていく夫人。
互いを見つめ合い、多くの人々の中で自分たちだけの世界に没入しているような二人の姿は否定しようもなく美しい。
だからだろうか。
……あの光景の中に私が居るのならば。
そのように考え、ダンスのパートナーとして浮かんだ男の顔に急いで首を振る。
……何故よりにもよって武彦の顔が浮かんでくるのだ……っ!
いや、分かっている。候補が自分の中でなさ過ぎて自動的に手近な彼の顔が浮かんできてしまったのだ。まったく、それもこれも眼下の光景が美し過ぎるのが悪い。
こんな自分がいつかあの輪の中に加わりたいと思っているということに笑ってしまう。
雰囲気にあてられたな。
今宵は無為な考えしかしない頭を働かせることをやめて、美しいものを美しいものとして楽しもう。
賞賛の念を込めて広場に流れる音楽を口ずさみながら、私は人魔の織りなす幸せの景色を愛でた。
●
そして翌朝。私は武彦を睨みつけていた。
煩わしい陽の光が私から夜の充実感を奪っていくが、その程度では私の威厳はいささかも削がれることはない。
ただ、ヒールを履いていないせいで私が武彦を見上げている形になっているのはいただけない。
「……頭が高いな」
「はい」
武彦は正座という、ジパング地方に独特の座法をとった。
さて、と私は朝からこのような構図になっている原因について糺す。
「昨日、彼女らの仕事を奪わないようにと言い置いたはずなのだが」
「弁明のしようもありません」
彼の足元には庭木の剪定のための道具が転がっていた。
この男は性懲りもなく使用人の仕事を自ら行おうとしていたのだ。
「私の言うことが聞けないということか?」
「そういうわけではないのですが……」
そう言いよどむ彼が気に入らない。
武彦の態度はこの屋敷の支配者である私に対して何らかの意見があるということを示している。そしてそのような態度をこうもあからさまに出してくるということは、
「武彦。君はこの屋敷から出て行きたいのか?」
「……」
彼はこちらの世界で仕事に就いている。夜会で聞いた話によれば人気もあるようだ。
仕事も安定しているし、私程度が何を言った所で学園が彼を不当に解雇することもないだろう。つまり、この屋敷から追い出されたとしても彼が生活に困ることはない。
その気になれば私に反抗して屋敷を追い出されようとも問題ないというわけだ。
……この屋敷での生活は、出て行きたいと思う程に苦痛だっただろうか?
分からない。私には下等な人間の考えることなど理解できない。
周囲にある気配に視線をやると、庭の整備をする予定だったゾンビがまだ上手く回らない口を懸命に動かそうとしている。
言わんとすることは分かっている。
蘇ったばかりの彼女らが小利口にサボタージュしようなどと考えつくはずもなく、武彦も自身の技術の確認くらいの理由で働いていたのだろう。
「まあいい。私は私の所有物に寛大だ。何か言い訳があるのなら聞こうか」
武彦が何と言おうとも私は彼を注意をするに留めてこの件を終えるつもりだった。
「お姉様!」
闖入者が現れるまでは。
何をしに来たのかと問うより早く武彦の前に立った妹は、彼を庇うように手を広げて私に挑みかかるような視線をぶつけてきた。
「屋敷の主ともあろうお姉様が客人に何をなさっているのですか?」
「主の言いつけを守ることができない客人にわきまえを説こうとしていたのだ」
「客人がしていたのは生き直すのにまだ不慣れな者たちへの助力でしょう。責められるようなことではないと思います」
「私は、彼女らの仕事に手を出すなと言ったのだ。例外はない」
「あの子たちではまだ仕事を全うできなかったかもしれない。それに対する、これは客人の気遣いではありませんか」
……彼女たちのことをそう侮るものではないな。
それに、屋敷の美観に無頓着な主だと思われるのは困るので公言はしないが、私は屋敷の景観が多少損なわれようともそれはそれで構わないと思っている。ゾンビの彼女が理性の欠片を得る頃に直った庭を見て浸るのもここでの生活の楽しみの一つだ。
いや、そんなことより。ラリサにはこの一件で彼女が武彦に好感を持ってしまうかもしれないことを警戒して欲しいのだがなあ。ライバルが多いと大変だろう。
普段頼りなさそうにしているくせに、稀に役立つ所を見せてくる。こんなことを相手を構わず行うからこの男でも人気があるということだろうか。で、あればあまり放っておくと誰かに身請けでもされかねない。
ともあれ、由々しき懸念を意識してかせずにか、この件を見過ごさずに庇いに現れた妹を私は微笑ましく思っている。
故に。
この子のためになるように何か手を打とうか……。
そう考えていると、武彦が口を開いた。
「ごめんねラリサちゃん。僕がやりたいと思って強引に手を出しただけなんだ。気遣いなんて立派なものじゃないんだよ」
この男……。ラリサがせっかく取りなそうとしているのにそれを無碍にするつもりか。
次の瞬間、私は武彦に命令していた。
「そんなに使用人の真似事をしたいのならば、屋敷の管理は君一人でするがいい」
「お姉ちゃん?!」
ラリサが慌てて何事か言おうとしてくるが、私は決定を告げているだけだ。そこに余人の意見が挟まる余地はない。
よって、私は妹を無視して少し離れた位置からこちらを窺っていた向こうの世界出身の落ち武者娘に使用人を全員使用人室に集めるように命じた。
「は、はいぃっ!」
彼女は事態を不安げに見ていたゾンビを抱えて脱兎のごとく去って行った。
さて、
「お姉ちゃん……」
「お姉様と呼ぶように言ってあるはずなのだが」
「そんなことより、一人でこの屋敷を見きるなんて無茶だよ。武兄ィは先生もやってるんだよ?」
「主の命令に反した罰だからな。重いのは当然だろう。出来なければ更に罰が積まれるのもまた然りだ」
「お姉ちゃん」
「これだけ言っても言葉が改まらないとは……。よほど教育係の質が悪いとみえる」
これみよがしに家庭教師に視線を送ると、彼は自身の舌禍であることを理解しているのか、困った顔で視線を受け止めた。ただ、私から逃げようとしないしラリサに庇われようともしない。
これはこれで、流石に強かな奴だ。
視線を転じてラリサを見れば、こちらは強い目を返してきた。
うむ、いい度胸だ。
強者に媚びないその強さ。褒美をやろう。
「ああ、お前も手伝いたいのなら、手伝ってやっても構わない。
昔から、下等な人間共とつるむのが好きなのだものな」
妹の視線に敵意に近しい反抗の意志が宿るのが見えた。
「お姉ちゃん……嫌い」
拗ねたような声にいちいち構う必要はない。
私はマントを払って背を向けた。
私に交渉する気が一片もないことを察したのか、二人からそれ以上言葉が発されることはなかった。
●
ではルアナさん。この問題を解いてください。
「はい」
席を立ち、黒板に書かれた問題を解いていく。
体が問題を解いていくのに任せながら、私の頭は今朝のことを反芻していた。
『お姉ちゃん……嫌い』
あの時のラリサの言葉は本気だった。
その事実に私は……動揺しているのか……?
いや、ああいった反応が返ってくると予想した上で私は言ったはずだと反論してみるが、実際の私の思考は延々繰り返す朝のやり取りに埋め尽くされて進展を見せない。
認めよう。私は、妹のあの言葉に私自身でも思いもよらないほどに打ちのめされたのだ。
思えば、両親と離れて遠い世界の地へ来てからというもの、唯一の肉親とは喧嘩をしたこともなかった。面罵されたのはこれが初めてだ。
想像するための情報が不足していたが故に、受けるダメージの予測が外れてしまったのだろう。
「ルアナさん……?」
「ん? ああ、他の問もこなしていこう」
「え? あの……、あ、じゃあお願いします」
次の問題に目を通して、私は反省会を執り行う。
武彦を貶すような物言いになってしまったことについては、私としても悪いことをしたとは思っている。彼にはこちらの世界で解き明かされている理や、こちらの世界の人間が辿った歴史について家庭教師として解説してもらった。そんな過去のやりとりから彼の教師としての力量を、私はおそらく本人が自覚している以上に把握している。その上、彼にはこちらの世界に来たばかりの頃、これから私はどのように生きていくべきなのかという命題について一つの指針を与えられてもいる。
彼のあれはきっと天性のものだ。冒険者よりもよほど教師という立場が似合っている。
だから、今朝のあの言葉は根拠のないただの暴言だ。
そのようなものを、彼のことを好ましく思っているラリサに聞かせたらどのようなことになるのかなど、想像するのは容易い。そして想像の通りにあの子は怒り、一方で私は想像以上のダメージを受けた。
そもそも、あそこまであの子を煽る必要があったのかと言えば、答えはNOだ。
今朝のあれは結局のところ八つ当たりなのだ。
だが、ラリサももう少し、屋敷の主という私の立場を考えて発言してくれてもよかったと思わないではない。
彼には昨日も同じような話をしているのだ。その私の注意を無視した上であのような――気の早い娘ならば口説いていると扱うような行為を行ったのだ。主としては屋敷の風紀のためにも、命令に逆らう者には何らかの咎を与えねばなるまい。
そうだ。彼は、少なくとも屋敷の中においてはもう少し私のことを立ててくれても良いと思うのだ。私の所有物の分際で私の命に逆らうというのはやはり道理に合わない。
そこを考慮した対応を妹にも求めたいところだが、それよりも対処すべきは命令を聞かない武彦だろう。
いっそ吸血でもして主がいったい誰なのかということをはっきりさせてやるべきか。
そうすれば、どうにも危機感の薄いラリサも多少は焦って積極的な行動にでるようになるやもしれん。
武彦もラリサも教師と生徒という枠組みのままここまできたが、このままでは武彦は誰かに奪われてしまうだろう。一石を投じる時期に来ているのだ。
折良くラリサにも嫌われ始めた所だ。どうせならばこれを利用してとことんまで嫌われるような行動をとるのもいいだろう。
その結果、心の底からラリサに嫌われてしまうかもしれないが、まあ、仕方あるまい。
冒険者とダンピールなら、私のやり口がどうしても気に入らなければ駆け落ちという手段も取ることが可能だろう。
そうなったら私も一人か。
今よりも一層広く感じることになるであろう屋敷を想像しようとした時、黒板に滑らせていたチョークが軋んだ音を立てて砕けた。
「――っと、すまない。つい力を入れすぎてしまった。陽の下ならばこれくらい力を入れようと大丈夫だと思ったのだがな」
手をハンカチで拭いながら黒板を見ると、問題は解けている。
「えっと、ありがとうございましたルアナさん」
「いや、こちらこそチョークを破壊してしまってすまない」
教師の遠慮がちな声に応じながら席に戻ろうとすると、クラスの注意がこちらに向いてきた。
意に介さずに席に着き授業を終えるが、教師が去った後も、昼食時だというのに教室には硬い沈黙があった。
タイミング的には私が何か彼らに働きかけてしまったということになるのだろうが、先程の授業中にしてしまったことといえば、力加減を誤ってチョークを粉砕してしまったことくらいだ。
それくらいでこんなに大げさに緊張しないでも良いだろうに。
「ルアナ様、予定が空いているようでしたら私と生徒会室でお昼などいかがでしょうか」
「ミレイ。生徒会室は私の私室ではないのだ。特に用事もないのに利用するのは好ましくないと私は考えている」
教室の空気など露知らずといった様子で弁当箱片手にやってきたミレイは「実のところね」と呟く。
「昨夜の夜会で大掛かりな舞台装置を仕込んだ際に少し無理をしてしまってね。落ち着いて休む場所が欲しいのさ。今夜の夜会のためにも披露は残しておきたくはないし、私の監督に弱ったところを見せたくないのだ。かといって保健室は竜宮城の出張所となっていて本格的に体調が悪くならないかぎりはお邪魔するのも気が引けてしまうのですな」
「そうか……」
昨夜の壮麗な幻術を見ている私としては、彼女らがつがいとの時間を削ってでも夜会に尽力してくれた労はねぎらいたくもある。
それに、生徒会室は用もなく来て面白い場所ではないため普段は人が来ない。
誰に迷惑がかかるわけでもない……か。
牽制としてため息を一つ吐きながら、私は了承した。
「わかった。行こうか」
「感謝いたします。ルアナ様」
ミレイの求めに応じると決めた時、教室の扉が開いて男子生徒が数名入ってきた。
「会長。悪いんだけどちょっと話聞いてもらっていい?」
その内の一人の言葉にミレイがビクリと動きを止めた。
彼らを代表して話をしている男は自分たちを野球部とサッカー部だと名乗った。
こちらで魔物や魔法が入るルールは未だ制定されていないので魔物が実際に競技に参加する余地はなかなかないが、観戦するだけならば私も幾度か経験した。
人間が己の粋を尽くして争うそれを私は嫌いではない。最近では感化された魔物たちが独自のルールを定めてこれら球技の真似事をする部を立ち上げたりもしている。
ラリサも実際に興じていたなと思いながら用件を問うと、彼らは今日の部活動で使用するはずだったミーティングルームがバッティングしてしまったと話した。
「そうか……今の時期だと他のミーティングルームも埋まってしまっているな」
この時期は申請した予算に対する生徒会からの回答を受けて今年度の活動を話し合う部活がほとんどなので、ミーティングルームに余裕がない。
昨今は部活が細分化されているため一週間ほど全てのミーティングルームは予約でいっぱいだった。
文化部棟の空き教室も使用申請を受けていた記憶があるので高等部に使える教室はもうないだろう。
「分かった。大学部の講義室を使わせてもらえるよう手配しておこう。どちらがミーティングルームを使うかなどはこちらから顧問に伝えさせてもらうが構わないか?」
「それでお願い。助かるよ生徒会長」
ほっとした顔で男たちが教室から出ていく。
私は輸血パックを取り出してミレイに待たせたことを詫びた。
ミレイはそんな私にほっとした顔で頷いた。
●
生徒会室で昼食の血を飲んでいると、弁当箱を広げて食事をしているミレイがこちらをちらちらと見てきていることに気づいた。
「どうした?」
「……ルアナお嬢様は本日は虫の居所が悪かったりするのかな?」
「皆、教室で私に目を向けていたが、今日の私はそんなに不機嫌に見えたか?」
「昼餉に行くというタイミングで男たちが持ってきた生徒会管轄か怪しい仕事に怒りはしないかと心配になる程度には」
笑みを含んだ言葉に、私は肩をすくめる。
「そう、か……。確かにあの用件だと生徒会よりも直接教師に伝えてもらった方がいいかとは思うが、私の手でなんとかできる範囲ではあったからな。怒るようなことではない」
「で、あったら良いんだけれどね。授業中にチョークを四散させた時など、教室の時間が停まったかと思ったよ」
「あれは単に力加減を間違えただけだ」
「指示されていないのに次々と問題を解いていった件についてはどのような理由がおありなのですかな?」
……そうだったのか。
そう言われてみれば次の問題に取り掛かる際の教師の態度には戸惑いがあったようにも思う。
「それは、自覚がなかったな。早とちりだった」
ミレイは「そうかい?」と言うと笑みを収めた。
「何かお悩みでしたら相談していただければ尽力させていただきますが」
そう言うと彼女は身を乗り出し、
「私はルアナ様に助けていただきました。そのことを一瞬たりとも忘れてことはございません」
「別に、見返りが欲しくて助けたわけではない」
心外だ。という響きを込めて言うと、ミレイの瞳が揺れた。
「……下々のものにも受けた恩は返さなければという殊勝な心はあるのですよ」
言葉にいつものような大仰とした感じがない。私が墓地で彼女を見つけた時の自身の肉体の死を受け入れられずに不安に慄いていた目に近い。が、今彼女は目を逸らさずにいる。
そんな彼女から感じられる成長に口もとが緩むのを感じながら、私は血を飲み干した。
「たいしたことではないのだ。ただ、今朝ラリサと喧嘩をしてしまってな。その時に嫌いと言われてしまった。それが思いの外効いているのだ」
「ラリサ様とルアナ様が喧嘩……ですか。
ヴァンパイアとダンピールという間柄の姉妹でありながらこれまで喧嘩をしたという話は聞いたことがないような気がしますな」
「そうだな。実はここまで明確に喧嘩のような形になったのは初めてだ」
「それはルアナ様が何かしてしまったのが原因なのですね」
「なぜそう思う?」
「ルアナ様が考え込んで受けておられるからですよ。自らに落ち度があるとお考えだから、妹君のお言葉に対して真剣に悩んでおられる」
「なかなか言うではないか」
「出過ぎたことを申しております」
「良い」
まあ、心配させてしまった手前もある。それに屋敷での生活が何を目的にしているどのようなものかを知っている彼女にならば全て話してもいいだろう。
「武彦を知っているな?」
「それはもちろん。彼にも世話になった。今やこの学園の教員の一人でもありますな」
さすがに話が早い。
「あれが今朝、使用人の仕事を代わりにやろうとしていたのだ。前日もそのようなことはやめるようにと伝えておいたのにもかかわらずな。
それで、私は主の命令に従えないのかと彼を責め、それをかばいに来たラリサの前で……あー、彼のことを不当に貶めるようなことを言ってしまった」
ミレイは唸り、
「それは、ラリサ様が怒るのも致し方なしですな」
「やはり、好いている者が貶められるのは耐え難いか?」
「私自身のことに置き換えるのでしたら、その通りですな。それを行うのが敬愛している姉であるとなると妹君としては更にショックでしょう」
「……ふむ」
私はまだあの子の敬愛を受けることができるだろうか。
「しかし、命令に背いた罰は罰だ。
屋敷の使用人たちには暇を出し、代わりに彼に屋敷の雑事をこなしてもらうようにした」
「あの屋敷を一人で? それは現実的ではないのでは?」
「一人では流石に手が回らないだろうと考えた。そこで二人が共にいられる時間を確保する意味も込めて、ラリサに武彦のことを手伝っても構わないという許しを与えておいた。
あの男はどうやら学園で多少は人気があるようだからな。安易に良い顔を振りまくあれを放っておいたらその内誰かが武彦を奪ってしまうだろうと判断したのだ。危機感が薄いらしいラリサのためにもなろう」
「……そのような意図のもとに指示を出したと、ラリサ様には説明されたので?」
「なぜそのようなことをわざわざ言わねばならない?」
「…………なるほど」
「ラリサはあれで実は聡い。武彦とつがうことができた頃には私の意図も気づいてくれているのではないかと期待してはいる」
ミレイはやはりラリサを知るがゆえか、あの子を聡いと評した私の発言に考えるような間を少し取った後に頷いた。
「早く分かってくれればいいですね」
ミレイはそれから納得したように頷き、
「ありがとうございますルアナ様。これで貴女の様子がおかしかった理由がはっきりしました。クラスの皆には恐れるようなことではないとそれとなく伝えておきましょう」
「いや、私自ら気にするなと伝えよう」
「それでは皆かえって構えてしまいますな」
「そういうものだろうか?」
「ルアナ様は貫禄がありますから」
ミレイめは含むように笑って付け足す。
「それに、ルアナ様にはこの件。もう少しご自身の中で深く考えて頂きたいとも、不肖私ミレイは思うのです」
「もっと悩めと?」
「苦悩は画になりますから」
「お前たちの劇の題材になるのは構わないが、どこから着想を得たのかは話さないように」
「それはまた難しいことを仰る。敬愛する友が悩んだ姿を題材にした。となれば我が<仮面舞踏祭>の面々からは質問攻めにされるに決まっております。特にそれが恋愛を絡めた話ともなれば徹底的な追究にあってしまいましょう」
「ならば自分が思いついた題材だとだけ伝えればよかろ――」
私はミレイの言葉の違和感に気づいた。
「ミレイ。恋愛絡みとはどういうことだ?」
今の話の流れで恋愛絡みで悩む、となればその主語はラリサではなく私を指していることになる。だが、私は色恋沙汰にうつつをぬかしてはいない。
ミレイは「気づかれましたか」と悪戯を見抜かれた子供のようにおどけた笑みを浮かべた。
「これはまさしく恋の悩みですよ。ルアナ様。
だって、貴女は――貴女も。武彦先生のことがお好きでしょう?」
「何を言うのかと思えば、私があの下等な人間を好き、だと?」
ミレイは「ええ」と頷いた。
「そうでなければこんなにも長い間、下等な彼を同じ部屋に住まわせる理由はありますまい」
「屋敷の一室を提供したのは彼は客人であるからだ。あちらの世界に飛ばされる前に居た場所には今更戻っても仕方がないと言っていた。行き場がないのならこちらの都合で領地から連れ出してきた以上はそれなりの待遇をせねばなるまい」
「私が屋敷を卒業したころからは拾ってきたアンデッドたちを屋敷に住まわせることもしなくなりましたね。領地から派遣された住み込みの使用人たちも別邸に住まわせるようになりました」
「ラリサがあれのことを好いていると気づいたのでな。あまり他の娘たちと接点ができないように配慮させてもらった。権力の濫用のようでもあるが、まあこれくらいは許されるだろう」
「なるほど。すべては武彦先生のお立場と境遇。ラリサ様の恋への援助のためであると申されるのですね」
「まあ、そうなるな」
どれもこれも明確に恋とは無縁の理由であると説明できることばかりだ。これがどう私の恋に繋がるというのだろう? ミレイめ、演劇に傾倒し過ぎて妄想力が強くなりすぎたのではないだろうか。
彼女次の言葉を待っていると、ミレイはでは、と問うてきた。
「武彦先生をルアナ様自身の所有物にしているのは何故なのですか? ラリサ様が武彦先生を好いているのならば、彼女直属の執事にでもしてあげればよかったのではありませんか?」
「武彦が私の所有物になっているのは、それが彼に対する罰だからだ。ラリサのものにしなかったのは、あの時はまだ武彦にあの子が恋心を抱いてはいなかったため、特にそのようなことをする理由がなかったのだ」
「罰……ですか?」
「あの男はこの私に説教を垂れたからな」
幼く驕っていた私に苦言をぶつけてきた彼の顔を思い出すだけで屈辱と笑みが浮かんでしまう。
「説教を垂れた後、あの男は私に厳しいことを言ったと随分気にしていた。あれは見ての通り、覇気が無いだろう? 放っておけば行くあても無いくせにふらりと何処かへ消えてしまいそうだったのでな。私の物だという首輪を付けておくことにしたのだ。説教をされておいてそのまま勝ち逃げまでされたとなれば私の沽券に関わろう」
「ルアナ様が武彦先生を貴女の所有物にした理由は分かりました。存外負けず嫌いなのですね」
「領主について私に説いたあの男が領主になった私を見てどのような評価をするのかが楽しみでな。その結果を得るまでは私は武彦を放さないだろう」
そしてこれは、
「無論。好いた惚れたの話ではない。ミレイ、君が言ったとおり、私は存外負けず嫌いなんだよ」
空気に夜の気配が満ちていくことに本能的な高揚を感じて、私は身じろぎした。
初等部四年にこちらの世界に作られた守結学園に転入してはや七年目。陽の光の下での生活にも大分慣れたと思っていたが、ヴァンパイアという種族的にはどうもそうはいかないらしい。
ほとんど終わった課題を脇に置いて時計を確認する。
教室には誰も残っていない。皆、部活なり逢引などに出かけたのだろう。
私もそろそろ生徒会室に行かなければならない時間だ。席を立とうとすると、教室の後方にあるドアから音もなく気配が侵入してきた。
振り向くと、初等部からの付き合いになる、この世界生まれのファントムが居た。
彼女は私を見ておや? という顔をする。
「ルアナ様ではありませんか。本日はたしか生徒会が部活の予算を決定する会議があるはずでは?」
「そうだミレイ。皆が資料をまとめるまでの時間を課題に充てている」
ミレイは腕を広げて「なる程!」と訳知り顔で叫んだ。
「皆、鬼がすぐ傍に居ては資料のまとめどころではないと、そういうことなのですね?!」
「鬼とは無礼な。今の私は肉体的には下等な人間並だ」
「嗚呼、怒らないでいただきたい。不機嫌な顔をされては見事な金の御髪も精彩を欠くというものです」
「ミレイ。君、中等部二年でファントムになってから、本当にいい性格になったな」
「守結学園高等部首席、貴族であり二年生にして生徒会長の座に君臨する我らが会長のお褒めに預かるとは光栄の至りでございます」
大仰な物言いは相変わらず。私としては初めてミレイを見つけた頃の、ゴーストになった自分を理解出来ておらず混乱していた、あのなんとも哀れを誘った姿を懐かしく思う次第だ。
「どんなに褒めても演劇部の予算は増えないが」
「ルアナ様、私めが所属しているのは正確には実践派演劇テロ集団<仮面舞踏会>バル・マスケでございます」
「……そうやって部を小分けにするから予算委員会で担当が頭を抱えて部室が足りなくて異次元作成依頼が増えることになるのだ」
とは言うが、ミレイたちが行う演劇は即興でその場に居合わせた人物も巻き込んでは最終的には学内で性交を含む劇を実行する過激派。馴染みきれない人間や引っ込み思案のドッペルゲンガーたちや純粋に劇について学びたい者たちとの住み分けという意味ではこういう分派も有りではある。
「おや、難しい顔をしておられますね。近頃は夜会に生徒会にと大忙しのご様子。どうかご自愛ください」
誰のせいで難しい顔をしているのか教えてやりたいところだ。
「忠告ありがとう」
「何か力になれることがあればいつでも言ってください。私はルアナ様のためにならば全力で事に当たらせていただきます」
「ああ」
「私だけではありませんぞ。それこそ、ルアナ様が普段の峻険な顔を緩めてもっと皆に話しかければその思いを表に出す者もまた増えましょう」
ミレイは悪い娘ではないが、どうにも妄想癖が強い部分がある。夫と共に演劇風の特殊な交わりを行っているらしいので月日が経つごとにその傾向は強くなっているようにも感じる。
「貴族でもない相手に話しかけるというのは私たちヴァンパイアの流儀ではない」
「またそのようなことを仰る。まだゴーストだった頃から私めのような道化相手でも話しかければ付き合ってくださるではありませんか」
「声をかけられれば反応するさ。民の声を聞かない領主などただの暗君だ」
ミレイは大げさに肩を竦めた。
「何はおいても妹君の気さくな部分だけは見習うべきではないかと思うのです」
「妹は妹。私は私だ。さて、そろそろ行かなければ」
「む、私も行かなければ計画に遅れてしまいますな」
「……あまり混乱を起こさないように」
「お任せあれ。私共の手にかかれば諸人は混乱する間もなく演劇の舞台役者になっていますよ」
不安になる言葉を残して礼をすると、ミレイは教室を出て行く。私も荷物をまとめ、
「……そんなに厳しい顔をしているつもりもないのだが」
零れた言葉をため息で打ち消し、教室を出た。
今夜は夜会もある。終わる頃には夜も深くなっているため課題を終わらせてしまいたかったが、少し残ってしまった。生徒会の予算会議が終わった後に少し残って片付けようか。
夜会への参加も二年目。振る舞いも板についてきたように思える。
こういった物事を一つずつこなすごとに向こうの世界にある領地を治めるための準備が整うように感じて身が引き締まる思いだ。
そのようなことを考えていたら生徒会室の前についていた。
先のことより、まずは目先のことを確実に。そう自戒しながら生徒会室に入室する。
●
予算委員会は順調に進んでいた。
役員たちがまとめた資料を見ながら予算の割り振りを微調整し判を捺していき、次の部を会計が提示して予算が話し合われる。
高等部の生徒会は各学年から三名ずつの九名で構成されている。
人魔共学のこの学園は、人が魔物化したり、留学生として魔物が転入してくることがあるため年次が進むごとに徐々に生徒総数における魔物の割合が増えていく。
高等部ともなれば魔物の割合も過半数を超え、生徒会も役員全員が魔物だった。
唯一顧問が人間の男性だったのだが、彼は今、役員の一人に拉致されてしまって長期休業している。このままでは子作り休暇も使い果たしてしまうだろうが、大丈夫だろうか? ともあれ、監禁されたから休職すると連絡を寄越した正規顧問の代理として、元勇者が名を貸してくれているのだが、彼は剣道部と掛け持ちのため顔を出さないことが多い。
そのような事情で現状、生徒会長は実質生徒会の長だった。
更に、守結学園はリリム様や教頭ちゃまに止められない限りは生徒に自治権を認めているため、生徒会の長とは高等部の長とほぼ道義でもあった。
学園の方針に関わる物事に関わることができ、魔界の大物とも繋がることができ、更には領主としての将来の自分の勉強にもなる。
それが故に私は生徒会長の座に二年にして就いていた。
役員になるような魔物娘たちはまだ夫となる存在を見つけていないか、夫が居てもそれ以外に心を砕いて学園生活を良い思い出を作る舞台としようとするような者がほとんどだ。
今年度の高等部生徒会は私以外全員がつがいを持つ者たちであり、彼女らの生徒会活動における原動力は良い学園生活を。というこの学園をゼロから創造したリリム様の意向に沿うものだった。
そんな彼女らが行う会議は、魔界で大人たちがするものよりも熱意という面では上かもしれない。
もちろん、ある程度の権力を与えられている以上、役員たちも熱意だけの者たちではない。私同様貴族の子女や、爵位こそ持たないもののギルドの階級を所持する者などが名を連ねている。
私に判断できない案件も尋ねれば専門家の見地からわかりやすい答えが返ってくるのが頼もしい。
「さて、こんな所でしょうかね。会長」
パン、と手を打ってサキュバスの先輩が会の終わりを告げる。
「そうだな。ではこれを生徒会からの各部活への予算案として先生方に提出する。皆、ありがとう」
●
完全に陽が落ちて、我が身にヴァンパイアとしての力が戻ったのを感じながら役員たちを見送る。
肩の力を抜き、決裁された書類の山を眺めつつ思うのは、皆への確認を挟む頻度を減らせるように務めなければということだ。
そうすれば会議は短くて済み、皆もつがいのもとへと早く合流できるだろう。
私にはよく理解できないが、好きな者と共に居ることは何物にも代えがたい幸福であるつがい達が多いことを知ってはいる。
先輩たちに会長の座を譲ってもらっている身としては、より一層立場にふさわしいだけの仕事をして学園生活の改善と、そこに携わる者のつがいとの時間の確保を両立せねばと思うのだ。
ドワーフのツナにでも建築関係の知識を教授してもらって、金銭関係は刑部狸の赤殿(せきでん)に教えを乞おうか……。
一年生と同輩の役員の顔を思い浮かべながら、彼女らのつがいとの時間を奪わないようにするのが肝要だなと考える。
赤殿は自身が何かを差し出す以上、こちらからも取るものは取っていくだろうが、ツナはこちらが先輩であることも含めて言われるままに時間をくれかねない。
搾取しきってしまわないように気をつけねばな。
そう自らに確認していると、生徒会室の扉が開いた。
入って来た老齢の男の纏う雰囲気に、自然と姿勢を正していた。
彼は私たちが元居た世界で勇者と呼ばれていた者の一人だ。かつて戦場を我が物顔で駆け抜けたであろう彼は所在なげに室内を見回し、
「……会議は終わってしまったか」
「つい今しがた。これから判を捺した案を先生方に回覧します」
「指導が終わってから出来る限り急いで来たのだが、やはり遅かったか」
「仕方がありません。武術を教授する場を放置しておくこともできませんから」
手を出す彼に書類を渡す。
彼が指導を行っている剣道部では妹も世話になっている。こちらには急遽代理として無理を言って名を貸してもらっているのだから、顔を出せないのは仕方のないことだ。
「そう言ってもらえると救われる。ああ、ラリサ・フロレスクだが、やはり筋がいい。初等部の頃から道場に来ている弟子から一本取ったぞ」
「あの子は元々運動神経は抜きん出ていますから。それに故郷に居た頃、基礎の基礎ではありますが我が領の騎士に剣術を習ってもいました」
「なるほど。基礎があったのか」
「変な癖が付いてお手を煩わせませんでしたか?」
「いやなに、問題ない。教えたのはデュラハンたちなのだろう? 魔物の身体能力をもって相手を打ち倒すという意味での剣術ではあちらがより実戦的だ」
「勇者のお言葉ですね」
「元、だがな。今では異世界で気ままな道場主生活だ」
そう言って精悍に笑う彼は、前魔王様の御代にドラゴンを相手に勝利を収めたという。
リリム様からの信頼も篤い彼に手ほどきを受けているのだから、妹が楽しそうに道場通いをしているのも納得できるというものだ。
「……そうだな。他に手すきが居なかったとはいえ、引き受けた仕事だ。道場を見る者を他に探してこちらの仕事に時間を割くことができるようにしておこうか」
書類に目を通しながら呟いた彼に、私は待ったをかけた。
師範はつがいであるリビングアーマー共々道場主としての生活を生きがいとしている。そうでなくても勇者部隊として学園の式典や公の場での護衛や警備を任されているのだ。これ以上仕事を増やして彼の生きがいの時間まで奪ってしまうのは忍びない。
「貴方が道場を離れるとなれば生徒会が門下の者に恨まれてしまいます。こちらのことは気にしないでください。本来の顧問が戻ってくるまでは私たちで維持します」
「彼はたしかウィル・オ・ウィスプの娘に連れて行かれているのだったか……長引くのではないか?」
「……それは」
長引く。確実に。
彼女とてあちらの世界からこちらの世界にわざわざ渡って来てまで何かを学びたいと思っていたのだ。連れ去られた彼が説得をして彼女の情欲を超えて納得させることができれば戻ってくることも可能だろうが、今現在そのような兆候はない。
生徒の説得も教師の仕事だろうに。これだから人間は頼りないのだ。
師範は私の顔を見て、口もとを軽く歪めた。
考えていることが読まれただろうか?
「お言葉に甘えて道場は空けないとしても、誰か代わりの者を生徒会に呼んだ方がいいか。ルアナ・フロレスク。誰か希望する教員は居るかな?」
その問いに、反射的によく知った顔が浮かんだが、彼は師範とは違い生き方に落ち着きがないというか、頼りない。それこそ下等な人間そのもののような存在だ。
それに、彼には彼で教員以外にも個人的な仕事がある。遅くなることもある生徒会の顧問までやらせるわけにはいくまい。
始めに浮かんだ教員が彼だったせいで苦い気分を味わっていると、師範が確認を終えた書類の束を抱えて立ち上がった。
「候補が居るようなら考えておいてくれ。こちらでも探しておこう」
「私たちだけでは生徒会の維持は難しいと判断されますか?」
師範はいや、と首を振って、
「お前たちはお前たちで専門の者やそれを志す者ばかりなのは知っている。学園の内部組織として機能させる分にはお前たちだけで充分だろう。だが、こちらの世界にはこちらの世界の流儀があり、生徒会が下す決定はそれなりの影響力がある。こちら側の流儀に合わせるための調整役として、そして責任を学園側のものにするために教員は必要だ」
「申し訳ございません。傲慢でした」
そうだ、こちらの世界にはこちらの流儀がある。来たばかりの頃に学んだことを忘れていたわけではないが、目指すものを見据えているとどうにも気が逸る。
「いや、若い者が意気軒昂なのは大変喜ばしい。では、私は職員室にこれを持っていこう。今夜は夜会だろう? 準備に一旦家に戻るといい」
「お心遣いありがとうございます」
●
こちらの世界で私が暮らす屋敷の広さは生家に比べれば半分にも満たないが、こちらの世界基準ではそれなりの豪邸ということになるらしい。
住んでいるのは私たち姉妹とこちらの世界出身の客が一人。
こちらの世界とあちらの世界とで貿易が行われているため、こちらの風土について理解しておくことと、リリム様が始めた学園≠ニいうものに単純に興味を示した母様の意向で私たち姉妹と、こちらの世界について知識を持っていた客人が送り出されたのだ。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま。大過ないか?」
「ええ、問題ありません」
三人で住むには広すぎる屋敷の維持のため、通いの使用人が何人も居る。
領内で異世界に興味がある者の働き口として、あるいはこちらの世界で発生してまだ右も左も分からないゴーストやゾンビなどが魔物娘として落ち着くまでの研修として、彼女らは働いている。
学園に行く者が大半故に主な仕事の時間が放課後になっているため、今頃が一日で最も屋敷が賑やかな時間だ。
ミレイもかつては我が家で一時を過ごした一人だ。だからこそ私にあんなにも気安いのだろう。
こちらの世界にこの大きさの屋敷をわざわざ作ったのはそういった者たちを受け入れるための受け皿を作るためだったらしい。
こちらに来ることが母様の意向であるならば、当地でのフロレスク家の振る舞いの基礎を敷いたのは父――いや、今は父様でいいのか。
『私に傷を付けられる、人間にしては優秀な個体』ということで母様がヴァンパイアハンターだった父様を夫に迎えてから生まれたのが私。そしてその数年後。まだ人間だった父と、母様の間に生まれたのがダンピールの妹、ラリサだった。
それからも長らく人間のままで生活していた父だが、私たちをこちらに送り出してからすぐ。……そう、私がこちらに来たのが初等部四年で、学年が変わる前にインキュバスになったことが便りで伝えられてきたのだったか。
たまに会う父様は以前とあまり変わりがないが、母様が変わった。会うたびに留守中の間の父様の話を聞かせてくるようになったのが印象的だ。
……そういえば、ラリサは母様が父様の話をよくするようになったことを喜んでいたな。
ダンピールの彼女は生来ヴァンパイアの貴族的な所を苦手とするきらいがあるので母様が人間だった父様に取っていた態度が気に入らなかったのだろう。何度か母様に詰め寄っている姿を見かけたものだ。
必死な顔で強大な力を持つ母様に挑みかかっていた妹の顔が懐かしい。そんなあの子も今は自分の恋に忙しいようだ。
そう、あの子は今、恋をしている。その相手は――
「武彦。君はそこで何をしている」
廊下の隅に屈んでいた男が私の声に振り向いた。
「ルアナお嬢様、お帰りなさい。
いやね、せっかく身につけた使用人としての技術を枯らしてしまってはもったいないのでね。少し手伝いをさせてもらっていたんだ」
そう朗らかに言う彼は守結学園の教師であり、我が家の客人であり、私の所有物である武彦だ。
教員であって間違っても掃除夫ではないし、何より使用人たちに世話をされる側の人間であるはずだった。
「当家のかわいい使用人諸君の大事な仕事を奪わないでもらおうか」
誰がこなそうと大した違いは無いが、蘇ったばかりのアンデッドたちは労働や日常生活の送り方を忘れてしまっている者たちも居る。ここで彼女らの社会復帰のための機会を奪わないでもらいたい。
敢えてその機会を奪おうというなら社会に戻れない彼女らの責任を取るのは君ということになるだろうに。
そうなると妹は悲しむだろう。
そんな私の思いを知ってか知らずか、彼は「僕がやり方を思い出すため以上の手出しはしていないさ」とこちらの世界の極東人特有の宥めるような笑みを浮かべた。
武彦は私たち姉妹と共にこちらの世界に渡ってきた者だが、生まれはこちらの世界。旅暮らしをしている時にあちらとこちらの世界の間を繋いだ穴に巻き込まれて魔界に落ちて、そこで行き倒れていたところを両親に拾われたという変わり種だ。
しばらく私たちの生家で使用人の真似事をしていたが、こちらの学園に私たちが行くことになるのにあたって彼もこちら側の世界を知ることからアドバイサー、それに家庭教師を兼任として送り出されていた。
元旅人にしては教師としてまずまずの能力をもっていたようで、こちらの世界独特の知識をそれほど苦労することなく習得できた記憶がある。
「あ、あのルアナお嬢様……」
遠間から様子を伺っていた使用人が窺うように声をかけてきた。
彼女が言わんとしていることは分かっている。
彼自身の言の通り、武彦は手伝いこそすれ、彼女らの仕事を奪ってはいまい。
元旅人らしいというのか、彼は立ち回りが巧い。他者の領分を荒らさないのだ。それは理解している。
が、君の仕事はそうではないだろう……いや、私の八つ当たりであることは分かっているのだが。
気がつくと、声をかけてきた使用人だけでなく、やり取りを聞いていた使用人が全員こちらの様子を窺っていた。
彼女らになんでもないと手で示して額を叩き自戒とする。
「あんまり怖い所を見せてはいけないよ、ルアナお嬢様」
誰のせいで……っ。
一瞬心がざわめくが、ひとまず今の発言は不問として、代わりに働きたい者には働いてもらうことにした。
「夜会に出るにあたって少し飲んでおきたい。用意しておくように」
「仰せのままに。食堂に用意しておきましょう」
武彦の声を背中に聞きながら自室に向かう。
悪い者ではないのだが、アレに焦がれるとは、ラリサも少し考え直した方がいいのではないだろうか?
●
食堂に行くと武彦と我が妹が既に席についていた。
「あ、お姉ちゃん、やっと来た」
「その呼び方は控えるように言ってあるはずだ」
食卓に向かいながら言うと、ラリサは私と同じ紅い瞳に不満を滲ませた。
「身内しか居ない時くらい、いいじゃない」
微かな足音がして、給仕の者が入ってくる。
「ね、お姉様? 早くお席につきませんと、給仕の方が困ってしまいますわ」
そう言って肩までの金髪も鮮やかに微笑んで見せるラリサに、私は肩を竦めた。
「そうだな。分かった」
悪意の無いウインクを送られながら席につく。
彼女が私の妹にしてダンピール、ラリサだ。
やはり父様の血が濃く出たのか、貴人というよりは冒険者のような肉体派で、運動部を複数掛け持ちしている。最近の興味の的は勇者が教える剣道部だ。
部活仲間も多く、他者との交流を得意とする彼女は、客観的に見てひどく愛でたくなる外見も相まって友人が多い。ミレイは妹のそういうところを見習うべきだと言っていたが、確かに美徳だ。しかし、私には不要のものだろう。
私が席に座ると、戸惑っていた給仕がこちらに許可を求めるような視線を向けてきた。
頷いてやると、安心したような表情で食事が運ばれてくる。
並べられるのはこちらの世界の料理だ。本家の料理人の指導を受けた品々は侮ることができない。
それらを妹と武彦が食べ始めるのを見ながら、私は自分用の食事に手を伸ばした。
基本的に私は食事をエネルギー補給にとどめている。大抵の日は口にするのは赤い液体だけだ。
鉄の匂いを口に含む――武彦め、血液型が今日の私好みだ。
こちらの世界は輸血パックという代物があって素晴らしい。人類も捨てた物ではない。
味はともかく、効率の悪い食事でエネルギーを補給しなくても良い上に、血を飲むたびに感じていた体の火照りも鮮度が無いためかあまり感じることがない。
常に冷静なヴァンパイアで居られるのだ。
おかげで私はこちらの世界に来てからというもの、人から血を吸うことなく生活できている。
私がこちらの世界に愛着を感じるとすればその一番の理由はこれになるだろう。
短いながらも充分な時間をかけた食事を終えて一息ついていると、ラリサが食事の手を止めてこちらを見ていた。
「お姉ちゃん、今夜も夜会に行くの?」
どことなくなじるような口調だ。夜会に行くということは既に伝えてあるというのに、困った妹である。
「去年私がそうだったように、この時期は夜会デビューする者たちが面通しに来る。彼らとの挨拶もあるゆえ席は外せない」
新参の挨拶が重なれば自然と夜会開催回数は増えてしまい、この月に入ってからは多少忙しい日が続いている。
「へえ、私たちと居るよりも夜会の方が楽しいんだ」
「そういう話をしているのではないだろう?」
「そうだけどぉー、なんか最近家のことが疎かじゃない?」
言われてみると、たしかにこのところ家に居ることが少ないため、使用人たちの様子など、見切れていない所がある。
が、ラリサと武彦ならばわざわざ私に伺いを立てずとも、相応に家を維持することはできるだろう。それができないというのならば、
「そうお前が考えるのなら、よく学ぶといい」
「話題を逸らさないでほしいなあ。それに、武兄ィに教えてもらってるから成績はぐんぐん上がってるよ」
そういう話でもないのだが、すれ違ってしまった話を無理に修正する必要もないだろう。
話題の一区切りとして息をつくと、ラリサがむっとした顔で睨んできた。
「お姉ちゃん、何か言いたいことがあるなら言ってよ」
「いや、私から言うべきことは特にないな」
ラリサが何か言いたそうに口をひらきかけて、それまで静観していた武彦が口を挟んだ。
「成績が上がっているのは本当のことです。その点は褒めてあげてもいいのではないかな? ルアナお嬢様?」
彼のその言葉にラリサの顔から険が抜ける
わかりやすい奴め。
「では、そのように成績を上げてくれた当家の客人にも相応の礼をしなければならないな」
「いりませんよ。元々家庭教師として僕はこちらに来たのだしね」
「その任は私が高等部に上がった記念に年季明けとして、今は正式な客分なのだがな」
「その後に学園の教職を紹介して頂いた僕からのお礼と家賃みたいなものです。……ルアナ様にもまたお教えしましょうか? こちらの世界で普通に教えられていた教科ならまだ僕でも教えられますよ?」
苦笑と共に告げられたので、同じく苦笑で返す。
「もう私に君の助けはいらないな」
「お姉ちゃん、武兄ィを馬鹿にするような態度が最近多すぎない? 年上で先生なんだし、そういう所はしっかりした方がいいと思う」
勢い良く反応したラリサに少し戸惑う。殊更貶したつもりではないが、そういうふうに聞こえてしまっていただろうか?
「そうか……すまないな。私個人は君の助けは必要とはしていないが、だからといって君の教師としての力を低く見積もっているつもりはない。それに、ラリサの成績の向上については当家を代表して心の底から感謝している」
「それは光栄です。ラリサちゃんも、体を動かすことが好き過ぎて勉強に興味が向かなかっただけで、地頭の方はルアナ様と同じくらいあってね、最近は興味も向いてきたのか教えたことをすぐに吸収してくれるから教える側としては楽しいよ」
「そうであるならばありがたい」
物覚えがいいのは決して勉学に興味が向いただけではないだろうことは、褒められた途端に大人しくなった妹を見れば分かる。
最近は私よりも武彦の方に懐いているようで、うらやましい限りだ。
「さて、悪いが私はそろそろ行かせてもらおう」
我が妹の機嫌も落ち着いたところで席を立つと、二人分の声が送り出してくれた。
●
今の魔王様の御代になってから、世界の様子はそれまでからは想像もできない程に変わったらしい。
愛を尊び、性を謳歌する。
それはそれで素晴らしいものだろう。
だが、相手を伴う場合、その相手とは私たちから見れば完全に種族が違う存在になってしまう。そこで同族間なら発生しないような問題が生まれる。
かつてのように全てを力で押し通すことができれば楽なのだろうが、そうもいかないのが今の世だ。
単純にはいかない今の世だからこそ、醸成されるものもある。それの一つがこの夜会だ。
昼、仕事で忙しい立場ある者たちの体が空く夜になって集まり歓談しつつ関係を深める会。というのがこちらとあちらの門を至近に構えた守結学園の講堂で催されている夜会の建前だ。
実態としては、両世界の価値観を擦り合わせるためにやすやすと公にできない話をする場であり、それと同時に建前通り昼間出会いの機会を作ることができない魔物たちのための場でもある。
この場で話し合われたことが両世界の交流の方針になったりするなど、異世界同士の結節点で開かれるこの夜会は参加するだけでも非常に名誉がある会だった。
私も昨年から参加して、貴重な交流を得ていた。
そんな夜会であるが、リリム様が創設した学園の夜会らしく、海千山千の魑魅魍魎が両世界の天秤のバランスを取っている傍らで初々しい出会いの場が提供されてもいる。このような光景となると、私の出身国ではなかなか見ない。
向こうでは政治的な話に終始するか淫蕩の限りを尽くすかのどちらかに傾くことが多いからだ。
この夜会の混沌としている感じはまだお互いに手探りな状態だということを表しているのだろうと思う。
故郷の夜会とは違ってこちらでは生者の参加が過半数を占めていたり、ジパングや霧の大陸のような、故郷では見かけなかった魔物たちも居て目に楽しい。また、人魔入り乱れて踊りに興じている光景というのは美しく、安心するものに感じられる。
魔物の洗練された踊りに比べれば添え物程度の立ち位置とはいえ、下等な人間に心を落ち着かされているというのはなんとも認めがたいことではある。とはいえ、夜会に参加する人間は皆それなりの立場がある者であるということを考えれば、彼らを多少認めなくもない。
学園の上層部や知った顔。そして今年から夜会に参加し始めた者たちに挨拶を済ませると、処女輸血パックの血を注がれたワイングラスを傾けて喉を湿らせる。
軽い火照りを感じながら華やかな踊りを眺めていると、声をかけられた。
「フロレスク家のお嬢様ではありませんか」
「お久しぶりです」
「大取様。ご機嫌麗しゅう」
挨拶を交わしたのは、故郷でこちらの世界の物品を卸している貿易会社の社長夫妻だ。
夫人は大取氏の半歩後ろにゆったりとした表情で立っている。
夫婦揃って佇む姿は自然なのに隙がない。二人共師範の手ほどきを受けていたことがあるらしく、身のこなしは流石の一言だ。
「こちらにお戻りになられていたのですね」
「ええ、お父様とお母様に会ってまいりましたよ。お二人共、お嬢様方を気にかけておられました」
「お二人に言伝を頼むとは、我が両親のことながら申し訳ございません」
「いえ、それ以上に今回はよいお話をいただきましたので」
彼がそう言うということは本当に良い商談ができたのだろう。
母様は父様がインキュバス化してからインキュバス全体に対する態度が急速に軟化していたことだし、これまで通いつめていた彼の努力がここに来て実を結んだということだろうか。
どういった話だったのか、気にはなるが追究はすまい。
そういった話に手を出すのはまだ早かろう。背伸びをして考えを弄んだところで所で彼のつがいたるキキーモラに見抜かれて、己の未熟さを思い知らされるだけだ。
「そういえば、そちらのお屋敷に以前本家で働いていらした男性がおられますか?」
夫人の言葉に私は頷く。
「ええ。元はこちらの世界の者ですので私たち姉妹がこちらで暮らす際になにかと助けになるだろうと両親が付けてくれました。当初の任務も終えたということで、今では守結学園で教師をしております」
彼女は「そうなのですね」と頷き、
「私たちの娘も守結学園に通っているのですが、その彼、ボランティア部でちょっと人気があるそうですよ」
「……そうなのですか」
「ええ、どことなく放っておけないような所が良いというお話でした」
なるほど、ボランティア部に入部するような世話好きな魔物たちなら彼のような頼りなげな存在が人気になるのも頷ける。
「娘のお友達たちがその先生に決まった相手がいらっしゃるのかと気にかけていたので訊ねさせていただきましたが……そうですね、これは愚問でした」
そう言って夫人は笑んだ。
「あなたのお屋敷に居られるということは、そういうことなのでしょう」
「いや、待って」
言われた言葉に反射的にストップをかける。
咳払いを一つ入れて平静を取り戻し、
「お待ちください。私と彼はそのような関係ではありません」
「あら、そうなのですか?」
「彼は当家の客人であり、私の所有物であるというだけです。
彼とそのような関係になりたいのは私ではなく愚妹の方でございます」
「あら」
夫人は口もとに手を当てた。
「そうでしたの」
「ええ。あの子ときたら共に居られる時間を伸ばそうと苦手な勉強にも真剣に取り組むようになりまして。私が言ってもなかなか聞かなかったというのにあの男の言うことは殊勝に聞いて。それはそれで良いのですがあの男もあの男で学園での教師としての仕事もまだ日が浅いというのに家庭教師を続けるなど負担が大きいはず。にもかかわらず今日など使用人の真似事まで――」
彼と妹について語っていると、夫人は目元を緩めた。
いかん。話し過ぎたか。
「……申し訳ございません。益体もない話を長々と」
「いいえ、ご家族をとても大事に想っていることが伝わってくる、良いお話でした」
そう言われると、どのような顔をしたらいいのか困る。
これは、話させられたのかもしれんなと思っていると、夫人は優しげな表情そのものの声音で言う。
「娘には件の彼には決まった方ができそうだと伝えておきましょう。そうでないと、大層人気の方のようですもの――大変ですよね?」
「すみません。感謝します」
「いいえ。事実を伝えるだけですもの。それを聞いて行動を起こす娘も居るかもしれないことにはご容赦を」
「分かっております」
それほどに武彦は人気なのだろうか? だとしたら、ラリサには早急に彼をどうするのか決めさせねばならないだろう。
私が思考に沈んでいると、大取氏が言葉を挟んできた。
「さて、宴もたけなわと言うのでしょうか。楽隊の奏でる音も盛り上がって参りましたので、私たちはそちらに行かせていただきます」
完全に相手のことを失念していた。それを察してくれたのか、失礼にあたる前に声をかけてくれた大取氏に私は頭を下げるしかなかった。
「これは申し訳――」
「いえ、我が妻が少々話し過ぎたので混乱してしまわれたのでしょう。こちらこそ申し訳ございません。さ、アーニャ。あちらで僕と一曲踊ってくれるかい?」
「ええ、旦那様が望まれるのでしたら」
そう言って夫人も礼をして去って行く。
「いかんな……」
どうにも、あの二人のことが絡むと調子が狂ってしまう。
頭を冷やそうとバルコニーに出ると、地上では玄関から目の前にある噴水にかけてまでが壮麗なダンスフロアになっていた。
会場入りするまでは存在しなかったそれは幻術の類だろう。
この規模と質。そして本物と見まごう存在感を勘案するに、ミレイたちファントムが総力を挙げて展開しているのだろう。
噴水ではアプサラスとメロウが思わず釣り込まれそうな艶やかな踊りを披露しており、サテュロスのものであろう笛の音が人魔を踊らせている。
男性の中には敢えて学園側が提供した結界を外している者たちも居る。今夜はもう難しい話はなしということだろう。
そんな人々の中に大取夫妻の姿があった。
リードする大取氏に完璧に合わせていく夫人。
互いを見つめ合い、多くの人々の中で自分たちだけの世界に没入しているような二人の姿は否定しようもなく美しい。
だからだろうか。
……あの光景の中に私が居るのならば。
そのように考え、ダンスのパートナーとして浮かんだ男の顔に急いで首を振る。
……何故よりにもよって武彦の顔が浮かんでくるのだ……っ!
いや、分かっている。候補が自分の中でなさ過ぎて自動的に手近な彼の顔が浮かんできてしまったのだ。まったく、それもこれも眼下の光景が美し過ぎるのが悪い。
こんな自分がいつかあの輪の中に加わりたいと思っているということに笑ってしまう。
雰囲気にあてられたな。
今宵は無為な考えしかしない頭を働かせることをやめて、美しいものを美しいものとして楽しもう。
賞賛の念を込めて広場に流れる音楽を口ずさみながら、私は人魔の織りなす幸せの景色を愛でた。
●
そして翌朝。私は武彦を睨みつけていた。
煩わしい陽の光が私から夜の充実感を奪っていくが、その程度では私の威厳はいささかも削がれることはない。
ただ、ヒールを履いていないせいで私が武彦を見上げている形になっているのはいただけない。
「……頭が高いな」
「はい」
武彦は正座という、ジパング地方に独特の座法をとった。
さて、と私は朝からこのような構図になっている原因について糺す。
「昨日、彼女らの仕事を奪わないようにと言い置いたはずなのだが」
「弁明のしようもありません」
彼の足元には庭木の剪定のための道具が転がっていた。
この男は性懲りもなく使用人の仕事を自ら行おうとしていたのだ。
「私の言うことが聞けないということか?」
「そういうわけではないのですが……」
そう言いよどむ彼が気に入らない。
武彦の態度はこの屋敷の支配者である私に対して何らかの意見があるということを示している。そしてそのような態度をこうもあからさまに出してくるということは、
「武彦。君はこの屋敷から出て行きたいのか?」
「……」
彼はこちらの世界で仕事に就いている。夜会で聞いた話によれば人気もあるようだ。
仕事も安定しているし、私程度が何を言った所で学園が彼を不当に解雇することもないだろう。つまり、この屋敷から追い出されたとしても彼が生活に困ることはない。
その気になれば私に反抗して屋敷を追い出されようとも問題ないというわけだ。
……この屋敷での生活は、出て行きたいと思う程に苦痛だっただろうか?
分からない。私には下等な人間の考えることなど理解できない。
周囲にある気配に視線をやると、庭の整備をする予定だったゾンビがまだ上手く回らない口を懸命に動かそうとしている。
言わんとすることは分かっている。
蘇ったばかりの彼女らが小利口にサボタージュしようなどと考えつくはずもなく、武彦も自身の技術の確認くらいの理由で働いていたのだろう。
「まあいい。私は私の所有物に寛大だ。何か言い訳があるのなら聞こうか」
武彦が何と言おうとも私は彼を注意をするに留めてこの件を終えるつもりだった。
「お姉様!」
闖入者が現れるまでは。
何をしに来たのかと問うより早く武彦の前に立った妹は、彼を庇うように手を広げて私に挑みかかるような視線をぶつけてきた。
「屋敷の主ともあろうお姉様が客人に何をなさっているのですか?」
「主の言いつけを守ることができない客人にわきまえを説こうとしていたのだ」
「客人がしていたのは生き直すのにまだ不慣れな者たちへの助力でしょう。責められるようなことではないと思います」
「私は、彼女らの仕事に手を出すなと言ったのだ。例外はない」
「あの子たちではまだ仕事を全うできなかったかもしれない。それに対する、これは客人の気遣いではありませんか」
……彼女たちのことをそう侮るものではないな。
それに、屋敷の美観に無頓着な主だと思われるのは困るので公言はしないが、私は屋敷の景観が多少損なわれようともそれはそれで構わないと思っている。ゾンビの彼女が理性の欠片を得る頃に直った庭を見て浸るのもここでの生活の楽しみの一つだ。
いや、そんなことより。ラリサにはこの一件で彼女が武彦に好感を持ってしまうかもしれないことを警戒して欲しいのだがなあ。ライバルが多いと大変だろう。
普段頼りなさそうにしているくせに、稀に役立つ所を見せてくる。こんなことを相手を構わず行うからこの男でも人気があるということだろうか。で、あればあまり放っておくと誰かに身請けでもされかねない。
ともあれ、由々しき懸念を意識してかせずにか、この件を見過ごさずに庇いに現れた妹を私は微笑ましく思っている。
故に。
この子のためになるように何か手を打とうか……。
そう考えていると、武彦が口を開いた。
「ごめんねラリサちゃん。僕がやりたいと思って強引に手を出しただけなんだ。気遣いなんて立派なものじゃないんだよ」
この男……。ラリサがせっかく取りなそうとしているのにそれを無碍にするつもりか。
次の瞬間、私は武彦に命令していた。
「そんなに使用人の真似事をしたいのならば、屋敷の管理は君一人でするがいい」
「お姉ちゃん?!」
ラリサが慌てて何事か言おうとしてくるが、私は決定を告げているだけだ。そこに余人の意見が挟まる余地はない。
よって、私は妹を無視して少し離れた位置からこちらを窺っていた向こうの世界出身の落ち武者娘に使用人を全員使用人室に集めるように命じた。
「は、はいぃっ!」
彼女は事態を不安げに見ていたゾンビを抱えて脱兎のごとく去って行った。
さて、
「お姉ちゃん……」
「お姉様と呼ぶように言ってあるはずなのだが」
「そんなことより、一人でこの屋敷を見きるなんて無茶だよ。武兄ィは先生もやってるんだよ?」
「主の命令に反した罰だからな。重いのは当然だろう。出来なければ更に罰が積まれるのもまた然りだ」
「お姉ちゃん」
「これだけ言っても言葉が改まらないとは……。よほど教育係の質が悪いとみえる」
これみよがしに家庭教師に視線を送ると、彼は自身の舌禍であることを理解しているのか、困った顔で視線を受け止めた。ただ、私から逃げようとしないしラリサに庇われようともしない。
これはこれで、流石に強かな奴だ。
視線を転じてラリサを見れば、こちらは強い目を返してきた。
うむ、いい度胸だ。
強者に媚びないその強さ。褒美をやろう。
「ああ、お前も手伝いたいのなら、手伝ってやっても構わない。
昔から、下等な人間共とつるむのが好きなのだものな」
妹の視線に敵意に近しい反抗の意志が宿るのが見えた。
「お姉ちゃん……嫌い」
拗ねたような声にいちいち構う必要はない。
私はマントを払って背を向けた。
私に交渉する気が一片もないことを察したのか、二人からそれ以上言葉が発されることはなかった。
●
ではルアナさん。この問題を解いてください。
「はい」
席を立ち、黒板に書かれた問題を解いていく。
体が問題を解いていくのに任せながら、私の頭は今朝のことを反芻していた。
『お姉ちゃん……嫌い』
あの時のラリサの言葉は本気だった。
その事実に私は……動揺しているのか……?
いや、ああいった反応が返ってくると予想した上で私は言ったはずだと反論してみるが、実際の私の思考は延々繰り返す朝のやり取りに埋め尽くされて進展を見せない。
認めよう。私は、妹のあの言葉に私自身でも思いもよらないほどに打ちのめされたのだ。
思えば、両親と離れて遠い世界の地へ来てからというもの、唯一の肉親とは喧嘩をしたこともなかった。面罵されたのはこれが初めてだ。
想像するための情報が不足していたが故に、受けるダメージの予測が外れてしまったのだろう。
「ルアナさん……?」
「ん? ああ、他の問もこなしていこう」
「え? あの……、あ、じゃあお願いします」
次の問題に目を通して、私は反省会を執り行う。
武彦を貶すような物言いになってしまったことについては、私としても悪いことをしたとは思っている。彼にはこちらの世界で解き明かされている理や、こちらの世界の人間が辿った歴史について家庭教師として解説してもらった。そんな過去のやりとりから彼の教師としての力量を、私はおそらく本人が自覚している以上に把握している。その上、彼にはこちらの世界に来たばかりの頃、これから私はどのように生きていくべきなのかという命題について一つの指針を与えられてもいる。
彼のあれはきっと天性のものだ。冒険者よりもよほど教師という立場が似合っている。
だから、今朝のあの言葉は根拠のないただの暴言だ。
そのようなものを、彼のことを好ましく思っているラリサに聞かせたらどのようなことになるのかなど、想像するのは容易い。そして想像の通りにあの子は怒り、一方で私は想像以上のダメージを受けた。
そもそも、あそこまであの子を煽る必要があったのかと言えば、答えはNOだ。
今朝のあれは結局のところ八つ当たりなのだ。
だが、ラリサももう少し、屋敷の主という私の立場を考えて発言してくれてもよかったと思わないではない。
彼には昨日も同じような話をしているのだ。その私の注意を無視した上であのような――気の早い娘ならば口説いていると扱うような行為を行ったのだ。主としては屋敷の風紀のためにも、命令に逆らう者には何らかの咎を与えねばなるまい。
そうだ。彼は、少なくとも屋敷の中においてはもう少し私のことを立ててくれても良いと思うのだ。私の所有物の分際で私の命に逆らうというのはやはり道理に合わない。
そこを考慮した対応を妹にも求めたいところだが、それよりも対処すべきは命令を聞かない武彦だろう。
いっそ吸血でもして主がいったい誰なのかということをはっきりさせてやるべきか。
そうすれば、どうにも危機感の薄いラリサも多少は焦って積極的な行動にでるようになるやもしれん。
武彦もラリサも教師と生徒という枠組みのままここまできたが、このままでは武彦は誰かに奪われてしまうだろう。一石を投じる時期に来ているのだ。
折良くラリサにも嫌われ始めた所だ。どうせならばこれを利用してとことんまで嫌われるような行動をとるのもいいだろう。
その結果、心の底からラリサに嫌われてしまうかもしれないが、まあ、仕方あるまい。
冒険者とダンピールなら、私のやり口がどうしても気に入らなければ駆け落ちという手段も取ることが可能だろう。
そうなったら私も一人か。
今よりも一層広く感じることになるであろう屋敷を想像しようとした時、黒板に滑らせていたチョークが軋んだ音を立てて砕けた。
「――っと、すまない。つい力を入れすぎてしまった。陽の下ならばこれくらい力を入れようと大丈夫だと思ったのだがな」
手をハンカチで拭いながら黒板を見ると、問題は解けている。
「えっと、ありがとうございましたルアナさん」
「いや、こちらこそチョークを破壊してしまってすまない」
教師の遠慮がちな声に応じながら席に戻ろうとすると、クラスの注意がこちらに向いてきた。
意に介さずに席に着き授業を終えるが、教師が去った後も、昼食時だというのに教室には硬い沈黙があった。
タイミング的には私が何か彼らに働きかけてしまったということになるのだろうが、先程の授業中にしてしまったことといえば、力加減を誤ってチョークを粉砕してしまったことくらいだ。
それくらいでこんなに大げさに緊張しないでも良いだろうに。
「ルアナ様、予定が空いているようでしたら私と生徒会室でお昼などいかがでしょうか」
「ミレイ。生徒会室は私の私室ではないのだ。特に用事もないのに利用するのは好ましくないと私は考えている」
教室の空気など露知らずといった様子で弁当箱片手にやってきたミレイは「実のところね」と呟く。
「昨夜の夜会で大掛かりな舞台装置を仕込んだ際に少し無理をしてしまってね。落ち着いて休む場所が欲しいのさ。今夜の夜会のためにも披露は残しておきたくはないし、私の監督に弱ったところを見せたくないのだ。かといって保健室は竜宮城の出張所となっていて本格的に体調が悪くならないかぎりはお邪魔するのも気が引けてしまうのですな」
「そうか……」
昨夜の壮麗な幻術を見ている私としては、彼女らがつがいとの時間を削ってでも夜会に尽力してくれた労はねぎらいたくもある。
それに、生徒会室は用もなく来て面白い場所ではないため普段は人が来ない。
誰に迷惑がかかるわけでもない……か。
牽制としてため息を一つ吐きながら、私は了承した。
「わかった。行こうか」
「感謝いたします。ルアナ様」
ミレイの求めに応じると決めた時、教室の扉が開いて男子生徒が数名入ってきた。
「会長。悪いんだけどちょっと話聞いてもらっていい?」
その内の一人の言葉にミレイがビクリと動きを止めた。
彼らを代表して話をしている男は自分たちを野球部とサッカー部だと名乗った。
こちらで魔物や魔法が入るルールは未だ制定されていないので魔物が実際に競技に参加する余地はなかなかないが、観戦するだけならば私も幾度か経験した。
人間が己の粋を尽くして争うそれを私は嫌いではない。最近では感化された魔物たちが独自のルールを定めてこれら球技の真似事をする部を立ち上げたりもしている。
ラリサも実際に興じていたなと思いながら用件を問うと、彼らは今日の部活動で使用するはずだったミーティングルームがバッティングしてしまったと話した。
「そうか……今の時期だと他のミーティングルームも埋まってしまっているな」
この時期は申請した予算に対する生徒会からの回答を受けて今年度の活動を話し合う部活がほとんどなので、ミーティングルームに余裕がない。
昨今は部活が細分化されているため一週間ほど全てのミーティングルームは予約でいっぱいだった。
文化部棟の空き教室も使用申請を受けていた記憶があるので高等部に使える教室はもうないだろう。
「分かった。大学部の講義室を使わせてもらえるよう手配しておこう。どちらがミーティングルームを使うかなどはこちらから顧問に伝えさせてもらうが構わないか?」
「それでお願い。助かるよ生徒会長」
ほっとした顔で男たちが教室から出ていく。
私は輸血パックを取り出してミレイに待たせたことを詫びた。
ミレイはそんな私にほっとした顔で頷いた。
●
生徒会室で昼食の血を飲んでいると、弁当箱を広げて食事をしているミレイがこちらをちらちらと見てきていることに気づいた。
「どうした?」
「……ルアナお嬢様は本日は虫の居所が悪かったりするのかな?」
「皆、教室で私に目を向けていたが、今日の私はそんなに不機嫌に見えたか?」
「昼餉に行くというタイミングで男たちが持ってきた生徒会管轄か怪しい仕事に怒りはしないかと心配になる程度には」
笑みを含んだ言葉に、私は肩をすくめる。
「そう、か……。確かにあの用件だと生徒会よりも直接教師に伝えてもらった方がいいかとは思うが、私の手でなんとかできる範囲ではあったからな。怒るようなことではない」
「で、あったら良いんだけれどね。授業中にチョークを四散させた時など、教室の時間が停まったかと思ったよ」
「あれは単に力加減を間違えただけだ」
「指示されていないのに次々と問題を解いていった件についてはどのような理由がおありなのですかな?」
……そうだったのか。
そう言われてみれば次の問題に取り掛かる際の教師の態度には戸惑いがあったようにも思う。
「それは、自覚がなかったな。早とちりだった」
ミレイは「そうかい?」と言うと笑みを収めた。
「何かお悩みでしたら相談していただければ尽力させていただきますが」
そう言うと彼女は身を乗り出し、
「私はルアナ様に助けていただきました。そのことを一瞬たりとも忘れてことはございません」
「別に、見返りが欲しくて助けたわけではない」
心外だ。という響きを込めて言うと、ミレイの瞳が揺れた。
「……下々のものにも受けた恩は返さなければという殊勝な心はあるのですよ」
言葉にいつものような大仰とした感じがない。私が墓地で彼女を見つけた時の自身の肉体の死を受け入れられずに不安に慄いていた目に近い。が、今彼女は目を逸らさずにいる。
そんな彼女から感じられる成長に口もとが緩むのを感じながら、私は血を飲み干した。
「たいしたことではないのだ。ただ、今朝ラリサと喧嘩をしてしまってな。その時に嫌いと言われてしまった。それが思いの外効いているのだ」
「ラリサ様とルアナ様が喧嘩……ですか。
ヴァンパイアとダンピールという間柄の姉妹でありながらこれまで喧嘩をしたという話は聞いたことがないような気がしますな」
「そうだな。実はここまで明確に喧嘩のような形になったのは初めてだ」
「それはルアナ様が何かしてしまったのが原因なのですね」
「なぜそう思う?」
「ルアナ様が考え込んで受けておられるからですよ。自らに落ち度があるとお考えだから、妹君のお言葉に対して真剣に悩んでおられる」
「なかなか言うではないか」
「出過ぎたことを申しております」
「良い」
まあ、心配させてしまった手前もある。それに屋敷での生活が何を目的にしているどのようなものかを知っている彼女にならば全て話してもいいだろう。
「武彦を知っているな?」
「それはもちろん。彼にも世話になった。今やこの学園の教員の一人でもありますな」
さすがに話が早い。
「あれが今朝、使用人の仕事を代わりにやろうとしていたのだ。前日もそのようなことはやめるようにと伝えておいたのにもかかわらずな。
それで、私は主の命令に従えないのかと彼を責め、それをかばいに来たラリサの前で……あー、彼のことを不当に貶めるようなことを言ってしまった」
ミレイは唸り、
「それは、ラリサ様が怒るのも致し方なしですな」
「やはり、好いている者が貶められるのは耐え難いか?」
「私自身のことに置き換えるのでしたら、その通りですな。それを行うのが敬愛している姉であるとなると妹君としては更にショックでしょう」
「……ふむ」
私はまだあの子の敬愛を受けることができるだろうか。
「しかし、命令に背いた罰は罰だ。
屋敷の使用人たちには暇を出し、代わりに彼に屋敷の雑事をこなしてもらうようにした」
「あの屋敷を一人で? それは現実的ではないのでは?」
「一人では流石に手が回らないだろうと考えた。そこで二人が共にいられる時間を確保する意味も込めて、ラリサに武彦のことを手伝っても構わないという許しを与えておいた。
あの男はどうやら学園で多少は人気があるようだからな。安易に良い顔を振りまくあれを放っておいたらその内誰かが武彦を奪ってしまうだろうと判断したのだ。危機感が薄いらしいラリサのためにもなろう」
「……そのような意図のもとに指示を出したと、ラリサ様には説明されたので?」
「なぜそのようなことをわざわざ言わねばならない?」
「…………なるほど」
「ラリサはあれで実は聡い。武彦とつがうことができた頃には私の意図も気づいてくれているのではないかと期待してはいる」
ミレイはやはりラリサを知るがゆえか、あの子を聡いと評した私の発言に考えるような間を少し取った後に頷いた。
「早く分かってくれればいいですね」
ミレイはそれから納得したように頷き、
「ありがとうございますルアナ様。これで貴女の様子がおかしかった理由がはっきりしました。クラスの皆には恐れるようなことではないとそれとなく伝えておきましょう」
「いや、私自ら気にするなと伝えよう」
「それでは皆かえって構えてしまいますな」
「そういうものだろうか?」
「ルアナ様は貫禄がありますから」
ミレイめは含むように笑って付け足す。
「それに、ルアナ様にはこの件。もう少しご自身の中で深く考えて頂きたいとも、不肖私ミレイは思うのです」
「もっと悩めと?」
「苦悩は画になりますから」
「お前たちの劇の題材になるのは構わないが、どこから着想を得たのかは話さないように」
「それはまた難しいことを仰る。敬愛する友が悩んだ姿を題材にした。となれば我が<仮面舞踏祭>の面々からは質問攻めにされるに決まっております。特にそれが恋愛を絡めた話ともなれば徹底的な追究にあってしまいましょう」
「ならば自分が思いついた題材だとだけ伝えればよかろ――」
私はミレイの言葉の違和感に気づいた。
「ミレイ。恋愛絡みとはどういうことだ?」
今の話の流れで恋愛絡みで悩む、となればその主語はラリサではなく私を指していることになる。だが、私は色恋沙汰にうつつをぬかしてはいない。
ミレイは「気づかれましたか」と悪戯を見抜かれた子供のようにおどけた笑みを浮かべた。
「これはまさしく恋の悩みですよ。ルアナ様。
だって、貴女は――貴女も。武彦先生のことがお好きでしょう?」
「何を言うのかと思えば、私があの下等な人間を好き、だと?」
ミレイは「ええ」と頷いた。
「そうでなければこんなにも長い間、下等な彼を同じ部屋に住まわせる理由はありますまい」
「屋敷の一室を提供したのは彼は客人であるからだ。あちらの世界に飛ばされる前に居た場所には今更戻っても仕方がないと言っていた。行き場がないのならこちらの都合で領地から連れ出してきた以上はそれなりの待遇をせねばなるまい」
「私が屋敷を卒業したころからは拾ってきたアンデッドたちを屋敷に住まわせることもしなくなりましたね。領地から派遣された住み込みの使用人たちも別邸に住まわせるようになりました」
「ラリサがあれのことを好いていると気づいたのでな。あまり他の娘たちと接点ができないように配慮させてもらった。権力の濫用のようでもあるが、まあこれくらいは許されるだろう」
「なるほど。すべては武彦先生のお立場と境遇。ラリサ様の恋への援助のためであると申されるのですね」
「まあ、そうなるな」
どれもこれも明確に恋とは無縁の理由であると説明できることばかりだ。これがどう私の恋に繋がるというのだろう? ミレイめ、演劇に傾倒し過ぎて妄想力が強くなりすぎたのではないだろうか。
彼女次の言葉を待っていると、ミレイはでは、と問うてきた。
「武彦先生をルアナ様自身の所有物にしているのは何故なのですか? ラリサ様が武彦先生を好いているのならば、彼女直属の執事にでもしてあげればよかったのではありませんか?」
「武彦が私の所有物になっているのは、それが彼に対する罰だからだ。ラリサのものにしなかったのは、あの時はまだ武彦にあの子が恋心を抱いてはいなかったため、特にそのようなことをする理由がなかったのだ」
「罰……ですか?」
「あの男はこの私に説教を垂れたからな」
幼く驕っていた私に苦言をぶつけてきた彼の顔を思い出すだけで屈辱と笑みが浮かんでしまう。
「説教を垂れた後、あの男は私に厳しいことを言ったと随分気にしていた。あれは見ての通り、覇気が無いだろう? 放っておけば行くあても無いくせにふらりと何処かへ消えてしまいそうだったのでな。私の物だという首輪を付けておくことにしたのだ。説教をされておいてそのまま勝ち逃げまでされたとなれば私の沽券に関わろう」
「ルアナ様が武彦先生を貴女の所有物にした理由は分かりました。存外負けず嫌いなのですね」
「領主について私に説いたあの男が領主になった私を見てどのような評価をするのかが楽しみでな。その結果を得るまでは私は武彦を放さないだろう」
そしてこれは、
「無論。好いた惚れたの話ではない。ミレイ、君が言ったとおり、私は存外負けず嫌いなんだよ」
17/09/01 08:41更新 / コン
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