中編
パン屋の朝は早い。
いや、今日は別に早起きしなくてもいいのだが、まだ周囲が寝静まっている頃に起きてしまうのは職業病と言うべきか。新たな職場に来たことへの緊張もあるだろう。普通なら開店時間に焼きたてを店頭へ並べるため、早朝から大急ぎで仕込みに入るものだが、今日作るパンは午後にやって来る商工会の面々に出すものだ。腕利きの職人が集うというこの町に俺の腕を見せる狙いもある。最近はいろいろ慌ただしかったし、今朝はゆっくり寝ているつもりだった。
だがせっかく早く起きたのだし、散歩にでも行ってこよう。天気を確かめるべく窓から外を見ると、教会の玄関先に馬車が停まっていた。こんな時間に誰だろうか。
御者はこの町の軍装をしており、馬車の前に二人の人影があった。ヅギさんとシュリーさんだ。二人は何か言葉を交わすと、ヅギさんの方が馬車に乗り込む。ステップに足をかけた際、昨日のように咳をしていた。
彼を乗せて馬車が走り出し、シュリーさんはその後ろ姿を寂しげな表情で見送っている。昨日は常に微笑みを浮かべていた彼女があんな顔をするのだ、何かあったのだろう。
「戦、か……?」
ルージュ・シティは人間と魔物が平和的に共存しているが、当然ながら教団がこの町の存在を許すはずがなく、自衛のための軍隊を持っていた。そしてヅギさんの明らかにカタギではなさそうな雰囲気からして、不穏な空気を感じざるをえない。
それでも何があろうと、この町から去る気はない。今まで様々な町を渡り歩いてきたが、修行この町でなら腕が思い切りふるえるだろうし、何よりポリーヌとも出会った。この町でもし戦に巻き込まれても、俺はここに踏みとどまる。今までのようにはいかない。
そう思った瞬間。
「うわっ!?」
突然窓の外から、青い瞳がのぞき込んできた。ポリーヌだ。俺の反応を見て微笑みながら、ガラス越しに手帳を見せてくる。
――『おはようございます。入ってもいいですか?』
文章で挨拶をする彼女に、俺はとりあえず窓を開けた。朝の肌寒い空気の中、彼女を外に居させるのは気が引ける。
「どうしたんだ? こんな朝から」
昨夜の不思議な遊びを思い出し、少し胸が高鳴る。暗示をかけられながらの、恐ろしくも気持ちいい強制オナニー。こうして対面しているだけでも、彼女の唇からあの魔法の声が出てくるのを期待してしまう。
そんな俺の心を知ってか知らずか、ポリーヌは窓の桟を乗り越え、蛇体でずるずると這って寝室に入ってきた。小さな部屋なので、下半身が蛇の彼女が入ってくると途端に狭くなる。ポリーヌはしっかりと窓を閉め、手帳に文章を書き込んだ。
――『早くからごめんなさい。よろしければ』
書きながら、彼女はちらりと俺を見た。頬を染め、恥ずかしがっているような表情をしていたが、すぐに文の続きを書き込む。
――『ほんの少しだけ“おしゃべり”しませんか?』
おしゃべり。ポリーヌが声を出して思い切り喋れるのはどんなときか、昨晩学んだ。この場合のおしゃべりというのも筆談ではなさそうである。ポリーヌの顔を見ると、彼女は細長い舌をぺろりと出した。先端が二股に分かれているのが妙に艶かしい。
あの舌で、唇で、またささやいて欲しい。蛇体で抱きしめて欲しい。俺の心が傾くまで、時間はかからなかった。
「……じゃあ、お願いしようかな」
そう答えた瞬間、ポリーヌは俺に抱きついてきた。一瞬心臓が跳ねるも、俺も彼女の上半身を抱きしめ、巻き付いてくる蛇体を受け入れる。全身を縛り付けられ体がこわばるが、それは昨日のように恐怖心からではなく、彼女と見つめ合いながら抱き合っている興奮からだった。
「フィルマンさん、温かい……」
彼女がそう呟いた瞬間、脳がじんわりと痺れてきた。こんな些細な言葉にも魔力を帯びており、昨夜の強制オナニーを思い出させる。
互いの息がかかる距離に、ポリーヌの顔がある。可愛い唇、すべすべした頬、泣きぼくろ。全てが間近にあった。人間と同じ上半身はとても柔らかく、蛇体も優しく締め付けてくる。
「朝はこうやって……体を温めたいんです」
俺に巻き付いたまま、ポリーヌはベッドに倒れ込む。柔らかな毛布が俺たちを受け止め、二人揃って寝転がった。
「さあ……目を閉じて、一緒に深呼吸しましょう……」
魔性の声に操られ、言われるままに目を閉じる。彼女の呼吸音に合わせて息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出した。彼女の息も吹きかけられて、体から力が抜けていく。
「フィルマンさんの腕……私を抱きしめたまま、離れなくなっちゃいますよ……」
深呼吸の合間にポリーヌはささやいた。
「ほら、ぴったりとくっついて……もう離れなくなりました……」
離れない……離れなく……。
俺の手はポリーヌの背中に吸い付くようになり、全く動かせなかった。彼女のやや小ぶりながら柔らかい胸が、俺の胸に押し付けられている。抱き合ったまま体が融合してしまったような一体感があった。
息を吸う。吐く。
「……あの……魔物とキスしたことってありますか……?」
「ない……」
ぼんやりした頭でそう答える。パン作りばかりしてきた俺は、人間の女の子とキスをしたこともなかった。
再び、息を吸う。吐く。
「魔物のキスって、とろけるように濃厚で、ねっとりしてて……すごく、えっちなんですよ」
耳元に唇を近づけ、小さな声でささやいてくるポリーヌ。まるで耳をくすぐられているような気分だ。濃厚で、ねっとりして、淫らなキス……。どんな感触なのだろう。どんな味がするのだろう。
息を吸う。吐く……
「それだけじゃありません……愛情がたっぷりなんです。一度したら、癖になっちゃうくらいに……」
愛情……癖になる……。してみたい。ポリーヌと。
「試してみたいですか……? したいですよね……?」
「したい……」
「ふふ……私とキスしたら、フィルマンさんはきっと……すごく気持ちよくて……射精したくて、たまらなくなりますね……」
ポリーヌの手が、俺の頭をそっと抱きしめた。優しいてのひらが後頭部をそっと撫でていき、期待に胸が高鳴る。
「そう……すごく気持ちいいですよ。手で握られて、しこしこされてるみたいに。おっぱいで挟まれて、むにむにされてるみたいに。お口で咥えられて、ちゅぱちゅぱされてるみたいに……!」
興奮したような、いやらしく艶かしい声を耳に注ぎ込まれる。それらの行為を想像してしまい、実際にされているような気分になってくる。
ポリーヌとキスすれば、そうなるのだ。
「キス、しちゃいましょうか……私のファーストキス……しっかり味わってくださいね……」
彼女の腕に包まれて、俺は夢心地でその瞬間を待った。ゆっくり、ゆっくりと……柔らかい物が唇に触れる。
「ちゅっ……♥」
微かな音と共にそれが密着すると、多幸感が胸一杯に広がってきた。
繋がり合った唇から、細長い舌が侵入してくる。先ほど見た先の分かれた舌は俺の口の中をじっくりと這い回り、味わっていく。柔らかくぬめりを帯びたそれが俺の舌と触れ合い、興奮がさらに高まった。俺たちの舌は握手をするかのように絡み合い、互いの味を確かめる。優しく撫で合うように、俺の舌も彼女の口の中を探索しはじめた。
「ん……んちゅっ……♥」
ポリーヌの可愛い喘ぎ声と、それに混じるいやらしい唾液の音が快楽を増す。彼女の口の中を舌でなめ回し、歯のつるつるした感触を楽しむ。少し息苦しくなってきても、夢中で舌を絡ませ合った。
全身を疼くような快楽が支配し、朝なのでどうしても勃起しているペニスは彼女の下腹部に密着している。蛇体に縛られ密着する俺たちの体は、唇の繋がりだけで高められていた。
突然、ポリーヌの舌の動きが激しくなった。
「んんっ!」
俺の口の中をくすぐり、蹂躙し、犯すかのように、細長い舌で激しく掻き回してくる。ねっとりした唾液もどんどん流し込まれて来た。俺も激しく彼女の舌を絡めとる。彼女の口の中を犯す。
「ん…っ……む……!」
「んみゅっ……じゅるっ……んん……♥」
時折僅かに口を離して息継ぎしながら、俺たちは貪るようなキスを続けた。混じり合った唾液が息継ぎの際にこぼれ、口周りはもうベトベトだ。そしてその興奮と快感が、ポリーヌの下腹部に密着したペニスに流れ込んでいく。彼女の体を抱きしめたまま、キスの快楽で昇天しそうになっていた。もし彼女の体で拘束されていなければ、気持ちよさのあまり暴れだしていたかもしれない。それほどまでに全身が疼いているのだ。
キスでこんな風になるなんて、本当ならあり得ない。だが彼女の喘ぎ声と舌はそんな常識を尽く壊し、俺を犯し尽くす。
「はむ……んんん! じゅるるっ……♥」
ポリーヌも体をもぞもぞと動かし、快楽に悶えている。彼女も気持ちいいのだ。
「んちゅぱっ……じゃあ……ん……イカせて……あげ……んちゅっ♥」
口を貪りながら発せられた声に、俺はトドメをさされるのだと知った。直後に彼女の蛇体にぎゅっと締め付けられ、同時に……
「じゅるるるるるるっ♥」
部屋一杯に、卑猥な音が響いたように思えた。ポリーヌが俺の口を激しく吸ったのだ。
それが引き金となり、ついに俺は……
「――――!」
痺れるような快感とともに、盛大に射精した。
キスが気持ちいい。唇が気持ちいい。舌が気持ちいい。唾液が気持ちいい。それが全て股間に集まって、ペニスが気持ちいい。
射精が始まってもポリーヌはしつこく吸引を続け……ちゅぽんと音を立て、ようやく唇を離した。
「ぷはっ……はぁ……はぁ……♥」
俺もポリーヌも、ゆっくりと息を整えた。彼女の温かい口を味わっていた舌が新鮮な空気を感じる。キスで出し尽くした悦びと、キス責めの終わった開放感で自然と目が開く。
ポリーヌは混ざり合った唾液を口元にたっぷりと垂らしながら、うっとりした微笑を浮かべていた。その熱い息は心地よく、不思議といいニオイがする。
互いに見つめ合いながら肩で荒く息をする俺たち。するとポリーヌは唾液まみれの口を開いた。
「……世界で一番、いやらしいファーストキスかもしれませんね……♥」
幸せそうな顔で、ねっとりした舌を見せるポリーヌ。その通りだ。キスでイかされるなんて。
彼女が拘束を少し緩める。俺のズボンはいつの間にか脱がされていたらしく、ペニスは丸出しとなって彼女の下腹部に白濁をぶちまけていた。ポリーヌはそれを指ですくい、美味しそうに舐める。
彼女の存在は明らかに、俺の中で大きくなり始めていた。パン作り以外、何もしてこなかった俺の中で。
だがどういうわけか、俺は彼女のその笑顔に不思議な既視感を覚えていた……。
… … …
… …
…
昼過ぎ。
小麦粉の舞う小さな調理室で、俺は生地を丸めていた。よく捏ねた生地は弾力に富んでおり、これを表面に隙間ができないよう、しっかりと丸める。このまま一次発酵を行うので、発酵ガスが漏れないようにするのだ。パン生地は生き物なので丁寧に扱う必要があり、捏ねるときの水も発酵に最適な温度に調整してある。
「これでよし、と」
生地をいじっている間、どうにもポリーヌの肌を連想してしまった。あの頬のようにすべすべした、滑らかな肌触りのパンを作りたくなってしまう。別にそれでも構わないのだが、今まで女の子のことを考えながらパンを作ったことはなかった。これはもう彼女との関係について真剣に考えた方がいいかもしれない。魔物は異形の体さえも武器に人間を虜にするというが、まさか自分が本当にそうなるとは。
それにしても彼女の笑顔は、どうにもどこかで見たことがあるように思える。
ともあれパンの発酵準備に入ったとき、工房のドアが開いた。
「よう、見学してもいいか?」
「ああ、どうぞ」
返事をして振り向くと、入って来たのは体格のいい男だった。腕にも筋肉がついており、傭兵だとしてもおかしくないほどだが、手にある火傷の跡からして何らかの職人だと分かる。
「あんたが昨日来たパン屋か。俺はコルバ・ラグネッティ、この町で小さい食堂をやってる料理人だ」
「フィルマン・ルーヘンです。商工会の方ですか?」
「ああ、俺が一応会長だから早めに来たんだ」
コルバさんは照れくさそうに頭を掻いた。気さくそうな笑顔である。
「仕立屋のオーギュや調香師のヒューイーの方が、この町でのキャリアは長いんだけどな。商工会を作ろうって言い出したのが俺だったもんで、そのまま会長に推されたんだ」
「ここは腕利きの職人が大勢集まっているそうですね」
「環境がいいんだよ。思う存分に腕を振るえる」
彼もまたヅギさんと同じ事を言った。それほどまでにこの町は職人を大事にするのだろう。または教団の権威が強い町と違い、物作りへの制限が少ないということだ。反魔物領では教団の方針に反する創作活動は禁止されることが多いし、それが原因で魔物側につく者も多いという。俺も似たような境遇だ。
「今度俺の店にも来てくれ。三番通りにある、ビストロ・ミンスって店だ。ちなみにミンスってのは俺の女房でな……」
「ほうほう」
……同じ調理に携わる身だけに、話が弾んだ。料理とパンの組み合わせについて熱く語りあったり、シチューの具についてあれこれ話したり、何故か女の子の胸の話になったり。彼はこの町の、明るく陽気な雰囲気を象徴しているかのようだった。魔物である今の奥さんと出会ったことをきっかけにこの町へ夜逃げしてきたらしく、彼もそれなりのワケ有りのようだ。
そうやって談笑し、発酵時間が終わりに近づいてきた頃。ふいに外から鐘の音が聞こえて来た。遠くで鳴っている音が次第に大きくなり、こころなしか辺りが厳かな雰囲気に包まれていく。
コルバさんも真剣そうな表情をしていた。
「……領主邸の鐘だ。緊急連絡だぞ、こりゃ」
彼が言うには、この町の領主邸には魔法のかけられた鐘が備えられており、その魔力で街全体に音声を響かせることができるのだという。魔法のことはよく知らないが、大した技術だ。数秒間は鐘の音だけが響いていたが、やがて人の声も聞こえてきた。
《領主邸より緊急連絡。教団の軍勢がわが町への侵攻を開始し、東の砦で私設軍と戦闘に入りました。市内東地区に戒厳令を発令します。市民は直ちに自宅および公共施設等へ退避してください。繰り返します――》
「……戦争か」
朝の胸騒ぎが当たってしまった。教団が近くの町に陣取り、戦いの準備を進めているという話は聞いていたが、本格的に交戦が始まったらしい。
「今まで小競り合いはあったが、戒厳令まで出るってことは……」
「大丈夫でしょうか」
「平気だ」
コルバさんは力強く答えた。
「ここの軍隊は一見アホだが強い。ヅギの旦那もいるし……」
と、その時。廊下をバタバタと走る音が聞こえる。子供だろうかと思った次の瞬間、足音の主がドアを開けて飛び込んできた。十六、七歳くらいの若い男だ。
「店長ーーーッ!」
「どうした、シャルル?」
息を切らす彼にコルバさんが尋ねた。
「て、店長……奥さんが産気づきました!」
……電光石火の勢いで飛び出して行ったコルバさんを追い、俺も礼拝堂に駆け込んだ。中ではポリーヌやシュリーさんたち修道女や、戒厳令が出て駆け込んで来たと思われる人たちが輪を作っており、その中心に魔物の女性が寝かされている。牛の角と尾を生やした彼女の腹部は大きく膨らみ、顔は痛みに歪んでいた。
コルバさんが彼女に寄り添い、肩を抱く。
「ミンス、大丈夫か!? 予定日はまだ先だったのに……!」
「あ、赤ちゃんが……ううっ……で、出たいって……!」
こんな時に、と誰かが呟いた。この地区に戒厳令が出ている上、陣痛に苦しむ彼女をここから病院へ連れて行くのは難しい。
そんな中、シュリーさんが前に進み出た。意を決した表情で、ポリーヌたち修道女に向けて呼びかける。
「ここで産むしかないわ! お湯とタオルを用意して! 毛布もよ!」
修道女たちが慌ただしく働きはじめた。コルバさんは奥さんの手をしっかりと握り、大丈夫だと声をかけている。奥さんも頷きながら、頑張りますと応えていた。
「……しっかりしなきゃ……ヅギだって今、戦っているんだもの……!」
シュリーさんが小さく呟くのが聞こえた。彼女もやはり緊張している。当然だ、新しい命が産まれるかどうか、それが自分たちの働きにかかっているのだから。
かと思うと、彼女は普段優しげな瞳で俺たちをキッと睨みつける。
「コルバさん以外の男は出ていって! 見せ物じゃないのよ!」
触手で荒々しくつつかれ、俺の他数名いた男は慌てて宿舎の方へ向かう。先ほどのシャルルとかいう少年はまごついていたせいで、哀れにも触手に巻かれて渡り廊下の方へ放り投げられた。彼が痛みをこらえ、転がるようにして渡り廊下へ入った後、俺が最後に出て行くこととなった。
渡り廊下のドアを閉める直前、シュリーさんの指示で毛布を持ってきたポリーヌと目が合う。彼女は何も言わず、ただ一つ頷いた。大丈夫……そう言っているかのように。
俺も何も言わなかった。ただ一つ頷くと……再び調理室へ向かった。
……田舎のパン屋の長男だった俺の人生から『平穏』というものがなくなったのは、いつからだろうか。いや、恐らくは修行に出た都会のパン屋で、司祭のドラ息子から店の品にケチをつけられ、思わずぶん殴ってしまったのが始まりだろう。町の司祭はカンカンに怒り、店長たちも容赦なく俺を教団に突き出した。下っ端の修道士や兵士たちは庶民の味方だったので、俺に同情して逃がしてくれたはいいものの、故郷に帰っても居場所はなかった。
まあ、考えてみれば当然だろう。教団を怒らせて逃げ帰ってきたのだから、村のみんなが俺を煙たがったのも無理はない。家業を継いでいた弟は表向きは優しかったが、俺に一切パンを作らせようとしなかった。あいつは内心、都会で技術を身につけてきた俺を邪魔に感じていたのかもしれない。
俺は仕方ないと割り切って旅に出た。様々な町のパン屋に弟子入りし、手伝いをしながら技術を学んだ。そしてその店のオーナーの紹介で、また別の町のパン屋へ移る。そんな生活が始まった。
それはもう、楽しかった。様々な技術を習得できたし、各地のパンの特色も分かった。それに、自分が生粋のパン職人なのだと自覚できた。
「さて、やるか……」
一次発酵を終え、ふっくらと膨らんだ生地を押しつぶし、一端ガスを抜く。柔らかな生地から空気が抜けていき、ギュッと固く締まる。これを成形してから二次発酵させるのだが、ガスを抜いたばかりの生地は固くて扱いにくいため、成形前に少しだけ休ませるのだ。そうすることで僅かに発酵し、生地内に気泡ができて柔らかくなる。
俺にできることはパン作り。あちこち旅をしてきても、いつもそうだった。
一ヶ月ほど前のこと。俺は教団が支配する、とある町のパン屋で働いていた。
そこのオーナーはいつも俺を息子同然に扱ってくれており、技術も一流。しかしその町の伝統的なパンが専門だったため、他のパンの作り方についてはむしろ俺が教えており、歳は違っても互いに尊敬し合う仲でもあった。
ある夜、オーナー夫妻は俺を呼び出し、こう言った。逃げろ、もうすぐこの町は戦場になる……と。あの町は元々異教徒の町であり、布教のために自分たちの伝統を破壊してきた主神教団に業を煮やす住人が多かった。オーナーと奥さんは町の反教パルチザン、つまり教団への抵抗組織のメンバーだったのだ。
パルチザンの活動開始が近いと知り、俺は自分もその一員として戦わせてくれと頼んだが、オーナーは首を縦に振らなかった。あの人は俺の腕と未来を惜しみ、戦いに巻き込まないようにしたのである。
オーナーはパルチザンを支援する裏組織を通じ、俺をエスクーレという港町へ逃がした。そしてその組織の保護を受けて数日暮らした後、同盟都市のルージュ・シティでパン屋の募集があることを、彼らに聞かされたのだ。
結局俺はパン屋。今できることは、目の前にある生地を立派なパンとして完成させてやることだけだ。
事が終わった後で、みんなにふかふかのパンを差し出してやるのだ。ポリーヌへ、シュリーさんたちへ、そして今教団と戦っているであろうヅギさんへ。
「お疲れさま」の一言と共に!
いや、今日は別に早起きしなくてもいいのだが、まだ周囲が寝静まっている頃に起きてしまうのは職業病と言うべきか。新たな職場に来たことへの緊張もあるだろう。普通なら開店時間に焼きたてを店頭へ並べるため、早朝から大急ぎで仕込みに入るものだが、今日作るパンは午後にやって来る商工会の面々に出すものだ。腕利きの職人が集うというこの町に俺の腕を見せる狙いもある。最近はいろいろ慌ただしかったし、今朝はゆっくり寝ているつもりだった。
だがせっかく早く起きたのだし、散歩にでも行ってこよう。天気を確かめるべく窓から外を見ると、教会の玄関先に馬車が停まっていた。こんな時間に誰だろうか。
御者はこの町の軍装をしており、馬車の前に二人の人影があった。ヅギさんとシュリーさんだ。二人は何か言葉を交わすと、ヅギさんの方が馬車に乗り込む。ステップに足をかけた際、昨日のように咳をしていた。
彼を乗せて馬車が走り出し、シュリーさんはその後ろ姿を寂しげな表情で見送っている。昨日は常に微笑みを浮かべていた彼女があんな顔をするのだ、何かあったのだろう。
「戦、か……?」
ルージュ・シティは人間と魔物が平和的に共存しているが、当然ながら教団がこの町の存在を許すはずがなく、自衛のための軍隊を持っていた。そしてヅギさんの明らかにカタギではなさそうな雰囲気からして、不穏な空気を感じざるをえない。
それでも何があろうと、この町から去る気はない。今まで様々な町を渡り歩いてきたが、修行この町でなら腕が思い切りふるえるだろうし、何よりポリーヌとも出会った。この町でもし戦に巻き込まれても、俺はここに踏みとどまる。今までのようにはいかない。
そう思った瞬間。
「うわっ!?」
突然窓の外から、青い瞳がのぞき込んできた。ポリーヌだ。俺の反応を見て微笑みながら、ガラス越しに手帳を見せてくる。
――『おはようございます。入ってもいいですか?』
文章で挨拶をする彼女に、俺はとりあえず窓を開けた。朝の肌寒い空気の中、彼女を外に居させるのは気が引ける。
「どうしたんだ? こんな朝から」
昨夜の不思議な遊びを思い出し、少し胸が高鳴る。暗示をかけられながらの、恐ろしくも気持ちいい強制オナニー。こうして対面しているだけでも、彼女の唇からあの魔法の声が出てくるのを期待してしまう。
そんな俺の心を知ってか知らずか、ポリーヌは窓の桟を乗り越え、蛇体でずるずると這って寝室に入ってきた。小さな部屋なので、下半身が蛇の彼女が入ってくると途端に狭くなる。ポリーヌはしっかりと窓を閉め、手帳に文章を書き込んだ。
――『早くからごめんなさい。よろしければ』
書きながら、彼女はちらりと俺を見た。頬を染め、恥ずかしがっているような表情をしていたが、すぐに文の続きを書き込む。
――『ほんの少しだけ“おしゃべり”しませんか?』
おしゃべり。ポリーヌが声を出して思い切り喋れるのはどんなときか、昨晩学んだ。この場合のおしゃべりというのも筆談ではなさそうである。ポリーヌの顔を見ると、彼女は細長い舌をぺろりと出した。先端が二股に分かれているのが妙に艶かしい。
あの舌で、唇で、またささやいて欲しい。蛇体で抱きしめて欲しい。俺の心が傾くまで、時間はかからなかった。
「……じゃあ、お願いしようかな」
そう答えた瞬間、ポリーヌは俺に抱きついてきた。一瞬心臓が跳ねるも、俺も彼女の上半身を抱きしめ、巻き付いてくる蛇体を受け入れる。全身を縛り付けられ体がこわばるが、それは昨日のように恐怖心からではなく、彼女と見つめ合いながら抱き合っている興奮からだった。
「フィルマンさん、温かい……」
彼女がそう呟いた瞬間、脳がじんわりと痺れてきた。こんな些細な言葉にも魔力を帯びており、昨夜の強制オナニーを思い出させる。
互いの息がかかる距離に、ポリーヌの顔がある。可愛い唇、すべすべした頬、泣きぼくろ。全てが間近にあった。人間と同じ上半身はとても柔らかく、蛇体も優しく締め付けてくる。
「朝はこうやって……体を温めたいんです」
俺に巻き付いたまま、ポリーヌはベッドに倒れ込む。柔らかな毛布が俺たちを受け止め、二人揃って寝転がった。
「さあ……目を閉じて、一緒に深呼吸しましょう……」
魔性の声に操られ、言われるままに目を閉じる。彼女の呼吸音に合わせて息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出した。彼女の息も吹きかけられて、体から力が抜けていく。
「フィルマンさんの腕……私を抱きしめたまま、離れなくなっちゃいますよ……」
深呼吸の合間にポリーヌはささやいた。
「ほら、ぴったりとくっついて……もう離れなくなりました……」
離れない……離れなく……。
俺の手はポリーヌの背中に吸い付くようになり、全く動かせなかった。彼女のやや小ぶりながら柔らかい胸が、俺の胸に押し付けられている。抱き合ったまま体が融合してしまったような一体感があった。
息を吸う。吐く。
「……あの……魔物とキスしたことってありますか……?」
「ない……」
ぼんやりした頭でそう答える。パン作りばかりしてきた俺は、人間の女の子とキスをしたこともなかった。
再び、息を吸う。吐く。
「魔物のキスって、とろけるように濃厚で、ねっとりしてて……すごく、えっちなんですよ」
耳元に唇を近づけ、小さな声でささやいてくるポリーヌ。まるで耳をくすぐられているような気分だ。濃厚で、ねっとりして、淫らなキス……。どんな感触なのだろう。どんな味がするのだろう。
息を吸う。吐く……
「それだけじゃありません……愛情がたっぷりなんです。一度したら、癖になっちゃうくらいに……」
愛情……癖になる……。してみたい。ポリーヌと。
「試してみたいですか……? したいですよね……?」
「したい……」
「ふふ……私とキスしたら、フィルマンさんはきっと……すごく気持ちよくて……射精したくて、たまらなくなりますね……」
ポリーヌの手が、俺の頭をそっと抱きしめた。優しいてのひらが後頭部をそっと撫でていき、期待に胸が高鳴る。
「そう……すごく気持ちいいですよ。手で握られて、しこしこされてるみたいに。おっぱいで挟まれて、むにむにされてるみたいに。お口で咥えられて、ちゅぱちゅぱされてるみたいに……!」
興奮したような、いやらしく艶かしい声を耳に注ぎ込まれる。それらの行為を想像してしまい、実際にされているような気分になってくる。
ポリーヌとキスすれば、そうなるのだ。
「キス、しちゃいましょうか……私のファーストキス……しっかり味わってくださいね……」
彼女の腕に包まれて、俺は夢心地でその瞬間を待った。ゆっくり、ゆっくりと……柔らかい物が唇に触れる。
「ちゅっ……♥」
微かな音と共にそれが密着すると、多幸感が胸一杯に広がってきた。
繋がり合った唇から、細長い舌が侵入してくる。先ほど見た先の分かれた舌は俺の口の中をじっくりと這い回り、味わっていく。柔らかくぬめりを帯びたそれが俺の舌と触れ合い、興奮がさらに高まった。俺たちの舌は握手をするかのように絡み合い、互いの味を確かめる。優しく撫で合うように、俺の舌も彼女の口の中を探索しはじめた。
「ん……んちゅっ……♥」
ポリーヌの可愛い喘ぎ声と、それに混じるいやらしい唾液の音が快楽を増す。彼女の口の中を舌でなめ回し、歯のつるつるした感触を楽しむ。少し息苦しくなってきても、夢中で舌を絡ませ合った。
全身を疼くような快楽が支配し、朝なのでどうしても勃起しているペニスは彼女の下腹部に密着している。蛇体に縛られ密着する俺たちの体は、唇の繋がりだけで高められていた。
突然、ポリーヌの舌の動きが激しくなった。
「んんっ!」
俺の口の中をくすぐり、蹂躙し、犯すかのように、細長い舌で激しく掻き回してくる。ねっとりした唾液もどんどん流し込まれて来た。俺も激しく彼女の舌を絡めとる。彼女の口の中を犯す。
「ん…っ……む……!」
「んみゅっ……じゅるっ……んん……♥」
時折僅かに口を離して息継ぎしながら、俺たちは貪るようなキスを続けた。混じり合った唾液が息継ぎの際にこぼれ、口周りはもうベトベトだ。そしてその興奮と快感が、ポリーヌの下腹部に密着したペニスに流れ込んでいく。彼女の体を抱きしめたまま、キスの快楽で昇天しそうになっていた。もし彼女の体で拘束されていなければ、気持ちよさのあまり暴れだしていたかもしれない。それほどまでに全身が疼いているのだ。
キスでこんな風になるなんて、本当ならあり得ない。だが彼女の喘ぎ声と舌はそんな常識を尽く壊し、俺を犯し尽くす。
「はむ……んんん! じゅるるっ……♥」
ポリーヌも体をもぞもぞと動かし、快楽に悶えている。彼女も気持ちいいのだ。
「んちゅぱっ……じゃあ……ん……イカせて……あげ……んちゅっ♥」
口を貪りながら発せられた声に、俺はトドメをさされるのだと知った。直後に彼女の蛇体にぎゅっと締め付けられ、同時に……
「じゅるるるるるるっ♥」
部屋一杯に、卑猥な音が響いたように思えた。ポリーヌが俺の口を激しく吸ったのだ。
それが引き金となり、ついに俺は……
「――――!」
痺れるような快感とともに、盛大に射精した。
キスが気持ちいい。唇が気持ちいい。舌が気持ちいい。唾液が気持ちいい。それが全て股間に集まって、ペニスが気持ちいい。
射精が始まってもポリーヌはしつこく吸引を続け……ちゅぽんと音を立て、ようやく唇を離した。
「ぷはっ……はぁ……はぁ……♥」
俺もポリーヌも、ゆっくりと息を整えた。彼女の温かい口を味わっていた舌が新鮮な空気を感じる。キスで出し尽くした悦びと、キス責めの終わった開放感で自然と目が開く。
ポリーヌは混ざり合った唾液を口元にたっぷりと垂らしながら、うっとりした微笑を浮かべていた。その熱い息は心地よく、不思議といいニオイがする。
互いに見つめ合いながら肩で荒く息をする俺たち。するとポリーヌは唾液まみれの口を開いた。
「……世界で一番、いやらしいファーストキスかもしれませんね……♥」
幸せそうな顔で、ねっとりした舌を見せるポリーヌ。その通りだ。キスでイかされるなんて。
彼女が拘束を少し緩める。俺のズボンはいつの間にか脱がされていたらしく、ペニスは丸出しとなって彼女の下腹部に白濁をぶちまけていた。ポリーヌはそれを指ですくい、美味しそうに舐める。
彼女の存在は明らかに、俺の中で大きくなり始めていた。パン作り以外、何もしてこなかった俺の中で。
だがどういうわけか、俺は彼女のその笑顔に不思議な既視感を覚えていた……。
… … …
… …
…
昼過ぎ。
小麦粉の舞う小さな調理室で、俺は生地を丸めていた。よく捏ねた生地は弾力に富んでおり、これを表面に隙間ができないよう、しっかりと丸める。このまま一次発酵を行うので、発酵ガスが漏れないようにするのだ。パン生地は生き物なので丁寧に扱う必要があり、捏ねるときの水も発酵に最適な温度に調整してある。
「これでよし、と」
生地をいじっている間、どうにもポリーヌの肌を連想してしまった。あの頬のようにすべすべした、滑らかな肌触りのパンを作りたくなってしまう。別にそれでも構わないのだが、今まで女の子のことを考えながらパンを作ったことはなかった。これはもう彼女との関係について真剣に考えた方がいいかもしれない。魔物は異形の体さえも武器に人間を虜にするというが、まさか自分が本当にそうなるとは。
それにしても彼女の笑顔は、どうにもどこかで見たことがあるように思える。
ともあれパンの発酵準備に入ったとき、工房のドアが開いた。
「よう、見学してもいいか?」
「ああ、どうぞ」
返事をして振り向くと、入って来たのは体格のいい男だった。腕にも筋肉がついており、傭兵だとしてもおかしくないほどだが、手にある火傷の跡からして何らかの職人だと分かる。
「あんたが昨日来たパン屋か。俺はコルバ・ラグネッティ、この町で小さい食堂をやってる料理人だ」
「フィルマン・ルーヘンです。商工会の方ですか?」
「ああ、俺が一応会長だから早めに来たんだ」
コルバさんは照れくさそうに頭を掻いた。気さくそうな笑顔である。
「仕立屋のオーギュや調香師のヒューイーの方が、この町でのキャリアは長いんだけどな。商工会を作ろうって言い出したのが俺だったもんで、そのまま会長に推されたんだ」
「ここは腕利きの職人が大勢集まっているそうですね」
「環境がいいんだよ。思う存分に腕を振るえる」
彼もまたヅギさんと同じ事を言った。それほどまでにこの町は職人を大事にするのだろう。または教団の権威が強い町と違い、物作りへの制限が少ないということだ。反魔物領では教団の方針に反する創作活動は禁止されることが多いし、それが原因で魔物側につく者も多いという。俺も似たような境遇だ。
「今度俺の店にも来てくれ。三番通りにある、ビストロ・ミンスって店だ。ちなみにミンスってのは俺の女房でな……」
「ほうほう」
……同じ調理に携わる身だけに、話が弾んだ。料理とパンの組み合わせについて熱く語りあったり、シチューの具についてあれこれ話したり、何故か女の子の胸の話になったり。彼はこの町の、明るく陽気な雰囲気を象徴しているかのようだった。魔物である今の奥さんと出会ったことをきっかけにこの町へ夜逃げしてきたらしく、彼もそれなりのワケ有りのようだ。
そうやって談笑し、発酵時間が終わりに近づいてきた頃。ふいに外から鐘の音が聞こえて来た。遠くで鳴っている音が次第に大きくなり、こころなしか辺りが厳かな雰囲気に包まれていく。
コルバさんも真剣そうな表情をしていた。
「……領主邸の鐘だ。緊急連絡だぞ、こりゃ」
彼が言うには、この町の領主邸には魔法のかけられた鐘が備えられており、その魔力で街全体に音声を響かせることができるのだという。魔法のことはよく知らないが、大した技術だ。数秒間は鐘の音だけが響いていたが、やがて人の声も聞こえてきた。
《領主邸より緊急連絡。教団の軍勢がわが町への侵攻を開始し、東の砦で私設軍と戦闘に入りました。市内東地区に戒厳令を発令します。市民は直ちに自宅および公共施設等へ退避してください。繰り返します――》
「……戦争か」
朝の胸騒ぎが当たってしまった。教団が近くの町に陣取り、戦いの準備を進めているという話は聞いていたが、本格的に交戦が始まったらしい。
「今まで小競り合いはあったが、戒厳令まで出るってことは……」
「大丈夫でしょうか」
「平気だ」
コルバさんは力強く答えた。
「ここの軍隊は一見アホだが強い。ヅギの旦那もいるし……」
と、その時。廊下をバタバタと走る音が聞こえる。子供だろうかと思った次の瞬間、足音の主がドアを開けて飛び込んできた。十六、七歳くらいの若い男だ。
「店長ーーーッ!」
「どうした、シャルル?」
息を切らす彼にコルバさんが尋ねた。
「て、店長……奥さんが産気づきました!」
……電光石火の勢いで飛び出して行ったコルバさんを追い、俺も礼拝堂に駆け込んだ。中ではポリーヌやシュリーさんたち修道女や、戒厳令が出て駆け込んで来たと思われる人たちが輪を作っており、その中心に魔物の女性が寝かされている。牛の角と尾を生やした彼女の腹部は大きく膨らみ、顔は痛みに歪んでいた。
コルバさんが彼女に寄り添い、肩を抱く。
「ミンス、大丈夫か!? 予定日はまだ先だったのに……!」
「あ、赤ちゃんが……ううっ……で、出たいって……!」
こんな時に、と誰かが呟いた。この地区に戒厳令が出ている上、陣痛に苦しむ彼女をここから病院へ連れて行くのは難しい。
そんな中、シュリーさんが前に進み出た。意を決した表情で、ポリーヌたち修道女に向けて呼びかける。
「ここで産むしかないわ! お湯とタオルを用意して! 毛布もよ!」
修道女たちが慌ただしく働きはじめた。コルバさんは奥さんの手をしっかりと握り、大丈夫だと声をかけている。奥さんも頷きながら、頑張りますと応えていた。
「……しっかりしなきゃ……ヅギだって今、戦っているんだもの……!」
シュリーさんが小さく呟くのが聞こえた。彼女もやはり緊張している。当然だ、新しい命が産まれるかどうか、それが自分たちの働きにかかっているのだから。
かと思うと、彼女は普段優しげな瞳で俺たちをキッと睨みつける。
「コルバさん以外の男は出ていって! 見せ物じゃないのよ!」
触手で荒々しくつつかれ、俺の他数名いた男は慌てて宿舎の方へ向かう。先ほどのシャルルとかいう少年はまごついていたせいで、哀れにも触手に巻かれて渡り廊下の方へ放り投げられた。彼が痛みをこらえ、転がるようにして渡り廊下へ入った後、俺が最後に出て行くこととなった。
渡り廊下のドアを閉める直前、シュリーさんの指示で毛布を持ってきたポリーヌと目が合う。彼女は何も言わず、ただ一つ頷いた。大丈夫……そう言っているかのように。
俺も何も言わなかった。ただ一つ頷くと……再び調理室へ向かった。
……田舎のパン屋の長男だった俺の人生から『平穏』というものがなくなったのは、いつからだろうか。いや、恐らくは修行に出た都会のパン屋で、司祭のドラ息子から店の品にケチをつけられ、思わずぶん殴ってしまったのが始まりだろう。町の司祭はカンカンに怒り、店長たちも容赦なく俺を教団に突き出した。下っ端の修道士や兵士たちは庶民の味方だったので、俺に同情して逃がしてくれたはいいものの、故郷に帰っても居場所はなかった。
まあ、考えてみれば当然だろう。教団を怒らせて逃げ帰ってきたのだから、村のみんなが俺を煙たがったのも無理はない。家業を継いでいた弟は表向きは優しかったが、俺に一切パンを作らせようとしなかった。あいつは内心、都会で技術を身につけてきた俺を邪魔に感じていたのかもしれない。
俺は仕方ないと割り切って旅に出た。様々な町のパン屋に弟子入りし、手伝いをしながら技術を学んだ。そしてその店のオーナーの紹介で、また別の町のパン屋へ移る。そんな生活が始まった。
それはもう、楽しかった。様々な技術を習得できたし、各地のパンの特色も分かった。それに、自分が生粋のパン職人なのだと自覚できた。
「さて、やるか……」
一次発酵を終え、ふっくらと膨らんだ生地を押しつぶし、一端ガスを抜く。柔らかな生地から空気が抜けていき、ギュッと固く締まる。これを成形してから二次発酵させるのだが、ガスを抜いたばかりの生地は固くて扱いにくいため、成形前に少しだけ休ませるのだ。そうすることで僅かに発酵し、生地内に気泡ができて柔らかくなる。
俺にできることはパン作り。あちこち旅をしてきても、いつもそうだった。
一ヶ月ほど前のこと。俺は教団が支配する、とある町のパン屋で働いていた。
そこのオーナーはいつも俺を息子同然に扱ってくれており、技術も一流。しかしその町の伝統的なパンが専門だったため、他のパンの作り方についてはむしろ俺が教えており、歳は違っても互いに尊敬し合う仲でもあった。
ある夜、オーナー夫妻は俺を呼び出し、こう言った。逃げろ、もうすぐこの町は戦場になる……と。あの町は元々異教徒の町であり、布教のために自分たちの伝統を破壊してきた主神教団に業を煮やす住人が多かった。オーナーと奥さんは町の反教パルチザン、つまり教団への抵抗組織のメンバーだったのだ。
パルチザンの活動開始が近いと知り、俺は自分もその一員として戦わせてくれと頼んだが、オーナーは首を縦に振らなかった。あの人は俺の腕と未来を惜しみ、戦いに巻き込まないようにしたのである。
オーナーはパルチザンを支援する裏組織を通じ、俺をエスクーレという港町へ逃がした。そしてその組織の保護を受けて数日暮らした後、同盟都市のルージュ・シティでパン屋の募集があることを、彼らに聞かされたのだ。
結局俺はパン屋。今できることは、目の前にある生地を立派なパンとして完成させてやることだけだ。
事が終わった後で、みんなにふかふかのパンを差し出してやるのだ。ポリーヌへ、シュリーさんたちへ、そして今教団と戦っているであろうヅギさんへ。
「お疲れさま」の一言と共に!
12/09/30 06:35更新 / 空き缶号
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