連載小説
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 黒垣藩は日の国の中でも、人と妖怪の境目が薄い。家老は稲荷やカラステング、藩主の妻は黒鱗の龍。町で魚を売り歩くのは河童やネコマタの簿手振り、呉服屋の女房はジョロウグモ。どいつもこいつも自由気ままに暮らているが、当然他人に迷惑をかけりゃ罰せられる。何かあれば羽織りに『御用』と書いた提灯お化けどもが刺又片手に駆けつけて、あっという間に罪人をとっつかまえちまう。
 そんな所に住んでいるわけだから、俺みてぇな極道者でも普段は長閑に暮らしていられる。ま、海向こうの主神教団とかいう連中が攻めてきた日にゃ、侠客としてやることをやらにゃならないが。

「鎌次郎よォ、今日は薬食いに行かねェか?」
「おっ、いいねェ。寒い日にゃ薬食いか鮟鱇鍋に限る」
「温まりやすねぇ」

 組の仲間とそんな話をしながら、今日も町を歩く。薬食いってのは要するにイノシシの肉のことで、山鯨とも言う。この国には獣を食う習慣はあまり無かったが、何せ体が温まる。寒い日には月一、二回は食いたいくらいだ。

 他愛もない会話をしつつ飯屋に向かっている、その時。近くのボロ家から怒鳴り声が聞こえてきた。

「ふざけんじゃないよ! 昨日には返すって約束だったじゃないかい!?」

 耳に刺さるような、甲高い女の声だ。迷惑なことにしょっちゅう聞く声で、仲間達はまたあの女かと呆れた声を出してやがる。
 そしてボロ屋の中から、吊り目の女が漆塗りの箱を引っ掴んで飛び出してきた。後から飛び出してきた爺さんがその箱に縋り付いて、必死に取り返そうとしてやがる。女のなりはかなりの美人と言っていいし、緑の着物の裾から見える脚は雪みてぇに真っ白だ。だが漆器とそれにしがみつくヨボヨボのジジイを引きずって歩く姿は見れるもんじゃない。

「お、お願いです、これだけは、この箱だけはっ!」
「じゃかぁしい、このクソジジイ!」

 哀れな爺さんを容赦なく蹴り倒し、女は箱をしっかり抱え込んだ。黒い鏡のような漆塗り、しかも金箔で桜の絵が描かれた箱はかなりの値打ちものだろう。借金のカタに分捕ったんだと嫌でも分かる。

「この箱がそんなに大事なら金を返しな! そういう約束だったろ!」

 なす術も無く涙を流す爺さんに背を向け、女は大股でずかずかと歩き去っていく。辺りにいたカタギの衆が「鬼畜女!」と石を投げつけるが、あの女にとっては日常茶飯事だ、ひょいひょいとかわして全く気にもしない。爺さんはただ嗚咽するばかり……恐らく他所から流れてきた人間だろう、苦しい生活の中で、あの漆器だけは手放さなかったってわけだ。

「あのアマ、本当に血も涙もねぇのか!?」

 新入りのヤスが吐き捨てた。仕事のできる奴だが、まだ十五歳のこいつは正義感ってのが強い。

「ヤス、あの女は最初に決めた期限で取り立てをしてんだ。それまでに返さねぇ方が悪いって言われりゃ、道理にはなる」
「けど鎌次郎兄貴……!」
「この黒垣だって何もかも完璧じゃねぇ。ああいう風に生きてる奴だっているさ」

 ……あの女、金貸しのセンは悪い意味で名の知れた女だ。金のニオイに敏感で、金貸し以外にもいろいろやって儲けているくせに、借金を取り立てるときには貧乏人相手でも全く容赦しねぇ。金の代わりに差し押さえる物さえ無かった奴らが、山に連れて行かれ行方知れずになったって噂もある。だが奴の金貸しは相手を騙してるわけじゃないし、噂の方も本当か分からん以上、奉行所も俺らも奴をどうこうすることはできないってわけだ。俺ら侠客もあの女の力を借りて武器を調達することもあるし、害にしかならんわけじゃないんだが。

 それにしても何でまたあんな美人が、あんなに情のない性格になっちまったのか。気にするだけ無駄だとは分かっちゃいるが、気になるのが人の性ってもんだ。
 と言っても、俺が今考えることは自分の腹を満たすことだった。

「そら、山鯨が売り切れちまうぞ」



















 …………







「日こそ昇れど 眠気は取れぬ曙よォ〜」

 イノシシのおかげで温まり、酒で上機嫌になった俺は仲間たちと別れ、長屋への帰路についた。火照った体にゃ冷たい夜風が丁度いい。

「五月蝿い小鳥にゃ 口を噤ませ〜 お前とゆっくり 朝寝坊ォ〜」

 流行りの歌を口ずさみながら、提灯片手にボロ寺の前を歩く。不気味な場所だがここが長屋への近道だ。
 ヤスの野郎は店でもしばらく金貸しセンの悪口を言っていたが、酒をちょいと引っ掛けただけでそんなことは忘れたらしい。顔なじみの女給の妖狐の尻を撫でるわ、じゃれ合うわ、挙げ句の果て店に残ることになっちまった。あの二人が近いうちにくっつくことは確実だろう。嫌なことも飯と酒で吹き飛ばす、それが黒垣っ子の心意気ってもんだ。そこに女が加われば怖いものなしってところだろう。特に妖怪の女なら、他のことを考えなくてもいいくらいにしてくれる。

 寺の門に差し掛かったところで、ふと中から気配を感じた。これでも組の中じゃ腕が立つ方だ、人や妖怪の気配はすぐに分かる。ましてここは俺が生まれる前に誰もいなくなった古寺だし、そんな気配がすりゃ嫌でも気づく。
 耳をそばだててみると、微かに女の声が聞こえてきた。置き去りにされた提灯でも化けたのかもしれない。俺は懐の匕首を握って腐りかけた門をくぐり、生い茂る草をかき分けてお堂の方へと歩を進めた。もしめんこい妖怪だったら連れて帰ってしまうか、なんて下心もちょっとはある。

 だがそのボロい、床が何カ所か抜けたお堂の中から聞こえてきたのは意外な声だった。

「……ったくよぉ、貸した金を取り立てるのが鬼畜の所業かい……」

 センの奴だ。お堂の入り口からそっと覗いてみると、奴は床にあぐらをかき、傍らに徳利が置かれている。だがその姿はいつもとは違う。脚からはふわふわとした毛が生えており、尻の辺りには尻尾が見える。脚と同じ毛の生えた、太い尻尾だ。そして頭の上には、これまたふわふわの丸い耳。
 この黒垣藩じゃ大して珍しくもないが、まさかセンが狸だったとは。それなら金のニオイをすぐ嗅ぎ付けるのにも納得がいく。センは徳利を引っ掴み、中身をゴクゴクと飲み干した。空になった容器は床に捨てられ、酔っ払った狸が顔を真っ赤にしている。

「あたしゃ……約束守ってほしいだけなのに……」

 センがそう呟いたとき、俺はハッとした。あいつ涙声になってやがる。

「期限決めたろ! 返すって約束してくれたろ! 何で守らないんだよ! 返してくれりゃ怒らなくて済むのにさ!」

 たった一人でまくしたてるように叫び、センは床を殴りつけた。古びた床がミシッと音を立てる。

「なんで……なんで人間は約束破るんだよ……!」

 昼間のジジイと同じように、センは泣き始めた。あの金の亡者がこんなボロ寺で、夜中に一人で泣いているなんざ誰が想像できたか。今これを見ているのは俺と、お堂に残された壊れかけた仏像だけだ。あの仏様はセンのことを何か知っているのかもしれんが、俗人の俺にゃ仏の声なんざ届かない。聞こえるのはセンの声だけだ。

「この寺でいい子にしてれば……迎えにきてくれるって言ったじゃないか……! 母ちゃん……ッ!」

 ああ、そうか……。
 センはどうやら、俺と同じ身の上だったみたいだ。

「……誰だい!?」

 センが顔を上げた。提灯の明かりに気づいたらしく、自分の袖から何かを出そうとしている。こりゃいかん、そういえばこいつ、手裏剣を使うとかいう話を聞いた。ぶちのめそうとして返り討ちにあった奴がいたとかいないとか。

「俺だよ、おセン。雨撒きの鎌次郎だ」

 渾名と一緒に名乗り、顔を見せる。センは知り合いと分かって少し安心したっぽいが、同時に慌てていた。そりゃそうだ、いつも高慢で人を小馬鹿にした態度の女が、目尻に涙を一杯に貯めていやがる。この噂が広まればこいつは町中の笑い者だ。袖で目元を拭い、センは俺をキッと睨んできた。

「な、なんだい雨撒きの旦那。こんな所に面白い物でもあったのかい?」

 暗がりだが提灯の明かりで、センの目が赤くなっていることが分かった。匂いからしてかなり強い酒をかっ食らっていたと見えるが、目の赤みは酒のせいだけじゃないだろう。
 さて、どうしたもんか。厄介事が嫌なら、悪かったと言って立ち去りゃこの場は収まる。そうしなきゃならない場もあるにはあるが、見なかったことにばかりしてちゃ侠客は務まらない。それに何より、あんなことを聞いちまった以上は放っておけない気がする。ここで俺が逃げちまったら、もうこいつの本音を聞く奴はいないかもしれん。

「……おセン、ちょいとカフェー行かねぇか?」

 とりあえず、場所は移すことにした。
















 …………



「あら、レンジローさん。いらっしゃい」

 店の戸を開けると、牛の角の生えた妖怪が俺たちを出迎えた。と言ってもウシオニじゃない、海向こうの国にいるホルスタウロスって妖怪だ。胸がでかい。
 その隣にいる女給はこの国の女だが、服は割烹着の上に『えぷろん』ってのを着ている。店は木の板で作られた床で、机も座布団ではなく椅子に座る物だ。窓は硝子だし、壁には浮世絵と一緒に外国の絵がかけられ、まるでこの場所だけ日の国じゃないように思える。

「ようマダム。まだカヒー飲ませてもらえるかい?」
「ええ、閉めるまではまだ間がありますからね」

 マダムは優しく微笑んだ。俺はカウンターとかいう番台の椅子に座り、センを手招きする。尻尾と耳を隠したセンは物珍しげに店の内装を眺めていた。

「黒垣には慣れたかい?」
「ええ、お陰さまで。みっちゃんがいろいろ手伝ってくれるし」
「いえ女将、私は別に……」

 女給のミツが微かに照れ笑いを浮かべる。こいつもセン同様に普段は人間に成り済ましている妖怪で、俺らの組が店の手伝いにと紹介したわけだ。まあ目的はそれだけじゃないがな。
 とりあえず二人分の珈琲を注文し、センも着席させた。

「こんな所に異人の店なんかできてたのかい」
「ああ、組の新しい『びじねす』って奴よ。藩が海向こうの国との繋がりを強くしようとしてるんでな、便乗してるのさ」

 この黒垣藩は十年前、主神教団とやらの襲撃を受けた。手引きしたのは日の国の退魔師だったらしいが、とにかく人にも魔物にも犠牲が出たことを今でも覚えている。藩主はそれ以来、藩を守るための備えに力を入れるようになった。そのために外国との交易にも力を入れているわけだが、その手伝いを俺ら侠客も請け負う。やってきた異人を守ったり仕事を斡旋したり、教団の間者を見つければ山(大百足がわんさか住んでいる)に捨ててきたり。こんな真面目なヤクザなんて他にいねぇと思う。

「海向こうの『るうじゅ』とか『えすくうれ』って町と手を組むことになってな、次はこっちから向こうに日の国料理の店を建てるんでぇ」
「ふうん」
「おめぇも一口乗らねぇか? 商売得意だろ?」
「面白そうだけど……ま、様子を見させてもらうよ」

 ミツの持ってきた珈琲を見つめつつ、センは鼻を鳴らした。夜風に当たって少し酔いも冷めたと見えるが、まだ目が赤い。だが珈琲の香りで気分は少し落ち着いたらしい。

「……みっともない所を見られちゃったね」

 苦笑混じりに、センはぽつりと呟く。

「誰にも言わねぇさ」
「ありがと」

 普段の高慢な態度はどこへ行ったのか、どことなく切なそうな、しおらしい姿をしてやがる。こうして見ると、こいつは美人だと改めて思う。肌は絹みたいだし、つり目もこういう表情なら案外可愛いもんだ。それに胸もそこそこ……まあマダムとは比べられないが。だが俺としては、さっきの狸の姿の方が気になる。
 マダムとミツは俺たちの様子を見て、用があれば呼ぶようにとだけ言って台所へ引っ込んじまった。まあミツは耳がいいから、俺たちの話は筒抜けだろう。

「しかしおめぇ、何で人間のふりしてるんでぇ? この黒垣にゃ、狸だからって石投げるような輩はいねぇぞ?」

 刑部狸が人を騙すのは昔からだが、今じゃ妖怪と仲のいい人間は滅多に騙さない。黒垣藩には狸の大商人もいるし、別に狸だからって嫌われることはないはずだ。
 すると珈琲を吹いて冷ましながら、センは再び鼻をならした。

「あたしが狸の姿で恨まれちゃ、同族らに迷惑がかかるだろ」
「なるほど、狸の評判が落ちるってか」
「人間共は狸なんて全部、同じ穴の狢だと思ってるからね。自分たちは約束も守らないくせに」

 その言葉に、俺はピンときた。寺でこいつがわめき散らしていたときから、ずっと引っかかっていたことだ。

「おセン、おめぇ昔は人間だったんじゃねぇか?」

 俺がふいに言った一言に、おセンは大して動じたようには見えなかった。だが、珈琲の器を手にしたまま、地蔵みたいに固まってやがる。よく見ると手が小刻みに震えているし、内心ギクリと来たんだろう。

「……なんで分かるんだい?」
「人を食ってた時代ならともかく、妖怪が子捨てをするって話は聞かねぇしよ」

 横目でちらりとセンの方を見ると、同じように横目で俺を睨んでいた。手に持った珈琲がゆらゆらと湯気を立てている。

「それにこいつァ、俺の経験上の話だがよ……元々人間だった妖怪ほど、人間見下してんだよ」

 言葉を切り、俺も珈琲を一口飲んだ。堪えられない香りと苦みが口に広がる。
 センは器を皿の上に置き、ふと息を吐いた。

「そうさ、あたしゃ人間だったよ。三つくらいのとき、あの寺に置き去りにされるまではね」

 開き直ったというか、ヤケになった口調で語り始めた。まだ残っている酒精が、全部吐き出そうとさせているのかもしれない。

「狸の刺繍がされたお守り渡されてさ……あの寺で待ってれば迎えにくるって言われてさ。馬鹿正直に待ったよ、物乞いで食いつないで、お守りを握りしめて……」
「気がつけば尻尾が生えてた、ってわけかい」

 力の込められた道具を持っていると妖怪になっちまう、って話は昔からよくある。妖怪共には人間を妖怪に変えたがる奴もいて、そいつらがそういう道具を作ってバラ撒いてやがるわけだ。センの親がどこからそれを手に入れたのかは分からんが、知ってて渡したとすれば、妖怪になりゃ一人で生きていけるとでも思ったんだろう。どの道ロクな親じゃない。

「人間はいつだって約束を守らない……見下して何が悪いってのさ」
「貧乏人は今日明日を生きるのに必死だからよ、返せるかも分からねぇ金を借りちまう奴もいる。しょうもねぇ馬鹿だが、そんな連中に約束守らせようったって無理だ。それで恨み買うなんて馬鹿馬鹿しいじゃねぇか。それよりも俺らと一緒に、異国で商いをしねぇか?」

 このままじゃこいつはずっと、石を投げられ陰でヤケ酒を飲む日々を繰り返すことになる。いくら金を返さない方が悪いからって、町人には恨まれる一方だ。今にこいつが後ろから刺されるようなことがありゃ、同じく親に捨てられた身として忍びない。
 だが俺の提案を、センは鼻で笑いやがった。

「人間に恨まれたから何だってんだい。この刑部狸のおセンにとっちゃ屁でもないよ」

 センは珈琲を一気に口に放り込み、飲み下した。情緒ってものが無いのかこいつには。もう用はないとばかりにさっさと席を立ち、台所に向かって「おあいそ!」と叫んだ。

「おいおい、もう帰るのか?」
「ああ。愚痴聞いてくれて少しはスッキリしたよ」

 台所からミツが現れ、少し心配そうに俺たちを見る。微かに寝息が聞こえてくるところを見ると、マダムは眠りこけちまったんだろう。
 センは懐をまさぐり……手を止めた。

「……財布置いてきちまった」
「俺の奢りでいいさ」

 元々そのつもりだったし、そもそも泥酔してるところを連れ出したんだ、金なんて持ってなくても仕方ない。金離れがいいのも粋な黒垣っ子の条件だ。だがセンは首を横に振った。

「明日返すよ」
「いいっての、誘ったのは俺なんだし」

 妙に義理堅い狸だと苦笑しちまうが、センは目を細めて俺を睨んでくる。

「人間に借りを作る気はないんだよ。あんたがなんと言おうと明日返す」
「……そうかい」

 さっきから人間はどうだのこうだのと、いい加減鬱陶しい。人間が嫌いなら好きになれとは言わないし、妖怪が嫌いな人間にも何も言う気はない。だが人でも妖怪でも、種族の違いについて能書き垂れる奴はこの町じゃ大抵嫌われる。それが悪口なら尚更だ。
 と、俺はふいにセンの耳を思い出す。狸の姿での、あのふわふわした耳が頭からひょっこりと出ている光景だ。同時にちょっとした意趣返しも思いついた。こういう女はいっぺん、「あひぃ」と言わせてやろう。

「……よし、じゃあ借用書を書くぞ」
「ああ、いいよ。あたしは人間と違ってちゃんと返すからね」

 俺の企みにも気づかず、センは了承した。早速ミツに紙と筆を用意してもらい、さらさらと書き始める。

「昼間はお互い仕事があるからな、期限は明日の戌の刻だ。場所は河原のアジトがいいな。もし返さなかった場合は……何を差し押さえるかな?」
「あんたの好きにしな」
「そうかい、それなら……」

 目論見通りの借用書を書き上げ、突きつける。センはそれをまじまじと見つめ、不思議そうな顔をした。

「……耳?」
「おうよ。明日の戌の刻までに返さなけりゃ、おめぇの耳をいただく。狸の耳をだ」

 声を低くし凄みを効かせて言ったが、センは小馬鹿にしたように笑った。

「いいよ、耳でも尻尾でも持っていきな。ま、返すけどね」

 期限までに返せばいいと思っているのか、それとも俺が本当に耳を取るわけがないと思ってやがるのか。後者だったら舐められたもんだが、そもそもこいつは人間自体舐めきってる。
 財布は忘れても判子は持っていたようで、センは借用書にぺたりと印を押した。

「これでいいだろ。じゃあまた明日」
「おう、気ぃつけて帰りな」

 俺が言い終わる前に、センは店の戸を開けて出て行っちまった。戸の閉まる音の後、聞こえてくる音は台所からの寝息だけになる。残った珈琲を飲み干し、夜の静寂というのを楽しんだ。と言っても、そろそろ店も閉まる時間か。

「……鎌次郎さん、本気で耳を切るつもりですか?」

 ミツが机を拭きながら尋ねてきた。こいつは俺の仕事にも関わることがあるから、俺がその気になれば本当に狸の耳を切り落とせるのは分かっているんだろう。

「なあに。ちょいと「あひぃ」と言わせてやるだけさ。さて、勘定だ」

 席を立ち、財布から金を数えてじゃらじゃらと取り出した。その数を見て、ミツが怪訝そうな顔をする。

「多すぎますよ、旦那」
「ああ。おめぇにちょいと頼みがある」

 俺は男を下げるような真似はしないから、恵みの雨なんて呼ばれて慕われちゃいるものの、ヤクザはヤクザ。たまには悪知恵を働かせてみたくもなる。人だろうと妖怪だろうと、俺ら侠客を甘く見た奴には後悔してもらわなきゃならんのだ。

「さて、明日が楽しみだぜ……」
12/05/05 00:14更新 / 空き缶号
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