前編
「……よし、良い出来だ」
完成した見本品の香りを確かめる。ラベンダーをメインとした香水で、無気力やストレスを癒す香りだ。優しく爽やかな女性を演出できることだろう。
この研究室を見た奴は、大半が俺様を錬金術師だと勘違いするだろう。蒸留器だのフラスコだの、そんな物ばっかり並んでいるし。
「さてさて、何と名付けるかねぇ、この新作」
明るい紫色の液体を瓶に移しながら、俺様はこの香水の似合う女性を想像する。いや妄想と言うべきか。外観、性格、そして何よりも重要なのが体臭。
俺様はニオイフェチである。文句のある奴は前に出ろ。
幼い頃から常人の何倍かの嗅覚を持ち、香りに関わる仕事をしていればこうなるのは無理ないはずだ。そのはずだ。だが俺様はただの変態ではない、調香師(パフューマー)としての腕はあらゆる客層から『一流』との評価を得ている。このルージュ・シティに来てから、技術は更に向上した。人間より嗅覚の鋭い魔物を相手に商売するのだから、余計な臭いがつかないよう一層注意が必要というわけ。まあ相手が人間でも魔物でも、俺様は瓶にほんの少しの洗剤の臭いだって残さないけどな。それがプロってもんだ。
話がちょっと逸れたが、お客の体のニオイというのは香水作りでは大事な要素。服や靴を職人にオーダーメイドで作らせるような人なら、次はオーダーメイドの香水も欲しくなるものだ。当然お客様自身のニオイに合わせて作らないと、粋な紳士淑女を演出することはできない。特に魔物の場合、種族によって体臭も似合う香りも大きく異なってくるわけで、それを考えて香水を作っていくのがなんとも楽しい。粘土遊びをする子供のように、ただただ夢中になれる。
そうしているうちにお客様のニオイに夢中になることだってあるのさ。いるんだよ、人間にも魔物にも……男を惹きつける『女のニオイ』を振りまく女性が。まああくまでもお客様として注文を承っているけどな。当然お客様が男でもちゃんと仕事するし。
とまあ、長々と語ったが……。
そういうわけで俺様はこの町で一番の調香師である。
「お、雨のニオイだ。もうすぐ降るな」
神経を研ぎ澄ませていると、こういうニオイも察知できる。洗濯物を取り込まなくては。
しかし裏口へ向かおうとしたとき、来客を知らせるベルが鳴った。直ぐさま進路を百八十度反転し、店の方へ向かう。一応軍隊経験があるから回れ右は芸術的なまでに得意だ。だがきりっとした足取りで表へ向かい……俺様は言葉を失った。
「いらっしゃい……ませ……」
華やかなニオイが、鼻をくすぐった。簡単に言えば汗のニオイ……しかしその中から何とも言えない甘いニオイが感じられる。花とも果実とも違う、ただ甘ったるいだけでなく、清々しささえ感じさせる香りだ。脳の奥まで溶かし、胸を高鳴らせる。甘く、切ない、女のニオイ。
その発生源は、今し方玄関のドアをくぐった女だ。爬虫類を思わせる尾と掌、凛とした目つきに締まった口元。肢体は優雅で、特に胸の膨らみは大きい。たゆんたゆんだ。
リザードマンという別に珍しくはない魔物だが、あまりにも香しいニオイを放っている。これは香水では絶対に出せない、女の子本人のニオイなのだ。ついでにたゆんたゆんだ。
「……お前がヒューイー・クルペンスか?」
その体臭、いや、体香と言うべきだろう。それに相応しい、女らしくも凛々しい声で、お客様は尋ねてきた。恍惚状態になっていた俺はハッと我に返る。
「はい、俺が調香師ヒューイーです。何をお求めでしょうか?」
私の問いかけに、彼女はフンと鼻を鳴らした。心なしか何処か不機嫌そうだ。
「香水の注文に来た……オーダーメイドだ」
「左様でございますか。どのような物がよろしいでしょう? こちらにサンプルもございます、樹木系、柑橘系、ハーブ系その他諸々ございますよ」
胸の高鳴りを隠すこともできず、早口でまくし立てるように喋ってしまう。こんな体香を持つ女性なんて滅多にお目にかかれないのだ。先ほど言ったように人間でも魔物でも『女のニオイ』を振りまく女性はいるものだが、ここまで俺様を虜にする体香の持ち主は数えるほどもいない。しかも、たゆんたゆんだ。
「……私はこういうのに疎くてな」
「そうですか。お仕事は何を? お名前は?」
普段何をしているかも、オーダーメイドの香水作りには重要な事柄だ。職業というのはその人のイメージを決定づける要素の一つである。
「私設軍領主邸警備隊の、カナン・ギュナンだ」
「ああ、思い出した! 前の闘技会に出場なさってましたよね!」
すると彼女はムッとしたような顔になる。何か気に障ったのだろうか。以前催された闘技会に、彼女は間違いなく出場して……。
……やべ。この人、一回戦で敗退したんだった。
彼女が弱かったわけではない。相手が百戦錬磨の強者で、決勝まで勝ち進んだ実力者だったのだ。負けても決して恥ではないだろうが、本人としてはそりゃ納得いかないだろう。
何と言うべきか迷っていると、カナンさんは懐から一通の封筒を取り出し、不機嫌そうに差し出してきた。紙についた彼女のニオイと温もりをこっそり楽しみつつ、ペーパーナイフで開封する。封蝋に押されているのは樹木と三日月を象ったこの町のエンブレム。つまり差出人は領主ということだ。中の手紙からはカナンさんのニオイに混じって、微かに領主のニオイがした。
『親愛なる調香師ヒューイー・クルペンスへ。
町が賑わい、そなたの仕事も捗っているようで何よりだ。
さて、カナン・ギュナン分隊長が私の身辺警護を務めてくれるようになり、丁度一年になる。記念に是非彼女に贈り物をしたいと思い、そなたの香水がいいと考えた。彼女によく似合う、彼女だけの一品を作って欲しい。
無論、代金は当方で負担する。よろしく頼む。
ルージュ・シティ領主 リライア・クロン・ルージュ』
「なるほど、領主様のご紹介で」
領主リライアはヴァンパイアで、人魔共栄を掲げてこのルージュ・シティを作った。彼女の人柄を慕って多くの人材が集まり、かくいう俺も領主に誘いに応じてこの町に店を構えたのだ。人と魔物が手を取り合うことで、短期間のうちに目覚ましい発展を遂げている。それにしても身辺警護ということは、この得も言われぬ体香の持ち主が常に側に……領主が羨ましい。
「是非にと仰るから、断るのも忍びなくてな。だが香水を買ったところで、使うかどうかは分からないぞ」
職人のプライドを傷つける言葉を、カナンさんは口にした。
「我が私設軍は教団と臨戦態勢にある。領主邸警備隊という身分を良いことに、香水などという贅沢品にうつつを抜かすわけにはいかないのだ」
ふとした仕草の度に香るニオイとは裏腹に、彼女は仏頂面を続けていた。美人でその上たゆんたゆんだというのに勿体ない。少なくとも残念ながら、彼女は俺様に好意を持ってはいないようだ。
「確かに、この町の私設軍ではゲリラ戦を重要視していますからねー。待ち伏せや奇襲のとき、香水をつけるなんて自殺行為だっていうのは分かります。ですが良い香りというのは消耗戦で疲れた兵隊さん達を癒し、新兵さんが不眠症になるのを防ぐのにも有効です。私は味方に自分の居場所を教えるのに使ったりしましたね」
俺様が再びまくしたてると、カナンさんは微かに眼を細めた。
「お前、兵士だったのか?」
「故郷の軍隊で斥候をやってたことがありまして」
剣も弓も下手くそだったが、斥候としては優秀な方だった。敵の仕掛けた罠や待ち伏せを金属臭で察知し、味方を救ったこともあったっけ。
カナンさんの表情が少し柔らかくなり、心なしか体香も優しいニオイになった気がする。俺が軍隊経験者と知って少し見直したのだろう。リザードマンという魔物の性質上、そのようなポイントで人となりを判断するのは仕方ない。
「そうか。……だがお前にギュネの戦士の誇りは分かるまい」
「ギュネの戦士?」
聞き慣れない単語だった。俺の反応に、カナンさんは再び鼻を鳴らす。
「田舎者は知らないか」
軽蔑したように言われてしまった。しかしそんな視線もなかなか悪くない。
俺の出身地は田舎には分類できないが、反魔物側の国だった。魔物についての知識が足りないのは認めざるを得ない。共存する上で必要な一般知識くらいは身につけているが。
「とにかく、だ。私は香水を買っても使わないかもしれない。それでも作るのか?」
「当然、お作りしますよ」
キッと俺を見つめるカナンさん。しばらく見つめ合っていたいという衝動に駆られたが、職人としては即答せねばならないところだ。
「使いたくなるような品を作ってご覧にいれます。どのような香りがお好みで?」
俺の言葉に、彼女はふと息を吐いた。あ、この人ここへ来る前にチョコレート食ってるな。良いニオイが口から漏れてる。
「……森の香り、かな。爽やかなやつがいい。詳しくは任せる」
大雑把な注文だ。森の香りと言っても、森自体が香りの宝庫。花、果実、樹木、草、土……そこから生まれる香水も無数のパターンがあるのだ。
とりあえず俺の裁量で、彼女に最も似合う香りを選んで組み合わせるしかない。注文メモを手に取り、『カナン・ギュナン様 爽やかな森の香り』と書き込んだ。この素晴らしい体香の持ち主に、是が非でも俺の作る香水を使ってもらいたい。調香師魂が燃えてくる。
「言っておくが、催淫効果付きの香水などは受け取らないからな」
「そのような品をお求めのお客様には、サバトのお店へ行くことをお勧めしております」
俺様の香水はあくまでも『粋な紳士・淑女を演出する香水』。当然健全な男であるからしてエロいことは大好きだが、それでも媚薬作りなどは俺様の出る幕じゃない。エッチな小道具はサバト局の仕事だろうし、そもそも魔物達の間では『虜の果実』だの『アルラウネの蜜』だの、そのようなアイテムはいくらでも出回っているのだ。
「分かった。では、これで……」
俺から目をそらし、踵を返すカナンさん。俺はふと、思ったことを口にした。
「カナンさん、何か悩んでいることとかありませんか?」
ぴたりと、彼女の歩みが止まる。
「俺、ニオイで分かるんです。悩んでいるとか、誰かを憎んでいるとか、恋をしているとかいう感情が」
「……」
カナンさんは無言で立ちつくしている。よく見ると手が小刻みに震えており、汗の臭いが若干強くなった。図星を突かれた反応だ。
「もし俺で宜しければ、お話を……」
「職人は仕事の心配だけしていろ!」
吐き捨てるように叫び、彼女は大股で歩き去っていく。荒々しくドアを開け、雨の降る往来へと踏みだし……バタンと、ドアが閉められた。
余計なことを言ってしまったかもしれない。昔から一言多い方ではあった。だが香水とはお客様のメンタル面に影響を与える品物であり、お客様の悩み事も調香師にとっては重要な事なのだ。何度も言うように彼女の体香は素晴らしかったが、悩んでいる人が発するニオイも少しだけ感じられた。
もしかしたら領主は、俺の香水が彼女の気分転換になることを望んでいるのかもしれない。あの部下思いなヴァンパイアなら、彼女が悩みを抱えていることに気づいていてもおかしくない。
領主様には日頃ご愛顧頂いているし、期待に応えたい。そして何よりも、あんなに香しいニオイを放ち、しかもおっぱいたゆんたゆんの女性を幸せにできなくて何が一流の調香師だ。
「……っしゃ! テンション上がってきたぜ!」
家の外は雨が降っていたが、俺様の職人魂は太陽の如く燃えていた。彼女のあの甘く清々しいニオイに合う素材を、頭の中で調合し始める。この試行錯誤の時間もなかなかに楽しい。彼女の仏頂面を脳内に思い浮かべ、それが笑顔になる所を想像しながら、俺は作業に取りかかった。
「って洗濯物取り込んでないじゃんよ!」
…………
………
……
その日の夜。俺は昔からの友人と一緒に飯を食いに行った。場所はこの町で人気の飯屋で、ホルスタウロスのミルクを使ったシチューが滅茶苦茶美味い。まろやかな香りに何種類ものハーブや薬草の匂いが合わさり、鴨肉も臭みが消えて良い味を出す。調香師の俺でさえ、このシチューは感動モノだ。
「……なるほど。また面倒な客だ」
シチューを飲み下し、俺の友人・オーギュは呟いた。こいつは仕立屋を営んでおり、整った顔立ちだが顔面の右側を痣が覆い、目元の骨がややひしゃげている。それでいて眼鏡のしたの眼光が妙に鋭いので、かなり強面に見えてしまうが、実際は寡黙で真っ直ぐな良い職人だ。専門は違えど同じファッション関係の職人として、時々互いの仕事の話をするのである。
「いやあ、彼女本当に良いニオイなんだよ。まるで天上界から舞い降りてきた女神の如く……」
「……それは魔物に対して適切な例えだろうか」
俺のニオイフェチを知るオーギュが冷めた反応をする一方、店のウェイターは興味深げに話を聞いていた。
「いるんですよねぇ、良いニオイの汗を出す女の子って」
「そうそう。お前さんにもそんなニオイがついてるな。昨日カノジョと相当激しくしたんじゃないか?」
「えっ、俺ヤった後風呂入ったのに!?」
叫んでしまってから、慌てて咳払いするウェイター。彼は十六、七歳だが、俺の同じニオイフェチだ。まあ嗅覚は俺程じゃないけど、なかなか素質のある奴だ。何の素質かはお察しください。
「えー、それはそうと……さっきお話に出た『ギュネの戦士』って何でしょうね?」
ウェイターは話題を変えたいらしい。
カナンさんが言った『ギュネの戦士』。リザードマンの部族か何からしいが、詳しいことは明日図書館にでも行って調べるつもりだ。オーギュも俺と同郷のため、魔物について深い知識は持っていない。それでも先日魔物の奥さんを得たから、魔物の習性は俺よりよく分かっているだろうけど。
「おい、お前ら」
不意に、近くのテーブルから声をかけられた。先ほどまでシチューやオムレツをがっついていた巨乳のオーガで、テーブルには皿が積み重ねられている。
「ギュネ族のことなら知ってるぜ」
「え、本当ですか!?」
「オーガは冗談言っても嘘は言わねーよ。喧嘩好きな魔物の間じゃ、ギュネ族は有名だぜ」
攻撃的な角としなやかな筋肉を持った見た目の割に、彼女は人が良い(いや、鬼が良い?)らしい。俺の求めていた知識を、滑らかな姉御口調で語ってくれた。
ギュネ族とは旧魔王の時代に生まれた、リザードマンの傭兵部族。勇猛果敢な戦士であったリザードマンの中でも、特に好戦的で命知らずな連中だったらしい。戦があると聞けば何処へでもかけつけ、傭兵として敵を倒す。相手が人だろうと魔物だろうと、時には同じリザードマンが相手でも(その時代では同族同士の殺し合いも珍しくなかったらしいが)戦い、武名を馳せてきたという。強い敵と戦って勝ち、ひたすら前に進み続け、最期は華々しく散ることが最高の名誉と考える部族だったようだ。だが当時の魔物には珍しく、強者であれば人間にも敬意を払ったという。
姉御肌のオーガは彼らの逸話をいくつか語った。
あるとき人間の戦士がギュネ族の若者を殺した。殺された若者の父親は恨み言を一つも述べず、息子を倒した人間を強者として讃えた上で仇討ちを挑んだ。勝利を収めたギュネ族は人間の戦士の遺体を丁重に扱い、森に葬ったという。
またあるギュネの戦士は人間の勇者に味方し、ドラゴンを倒した。だがそれは人間を助けるためではなく、最強生物であるドラゴンと戦いたいがためであった。その後、共闘した勇者との一騎打ちに望み、相打ちとなって果てた。
「生きるために戦う」という者は大勢いるが、ギュネ族は「戦うために生きる」ような連中だったようだ。だがそれ故、人魔双方から多くの恨みを買っており、絶え間ない報復攻撃に晒された。それにも果敢に立ち向かっていたギュネ族だが、やがて少しずつ弱体化させられていったのである。
「今の魔王サマが即位したとき、生き残ってたギュネ族はすでにカナン・ギュナンの家系だけだったらしい」
「そうだったのか……」
凄まじく、壮絶な部族の物語。カナンさんはその狂戦士の生き残りという誇りを、そして重荷を背負っていたのだ。
語り終わり、オーガは酒を一気に飲み干した。
「ぷはーっ。この店は食い物も酒も最高だぜ!」
「……あの、教官。支払いは大丈夫なんですか?」
オーガの向かい側に座る若い兵士が、心配そうに尋ねた。何か存在感が希薄な奴である。
「大丈夫だって、ソラ。ここにちゃんと……」
笑いながら腰巻きに手を突っ込み、そこで笑顔が消える。少し間を開けて、彼女はいきなり腰巻きを外し始めた。毛皮製のそれを自分の目の前に掲げ、裏側などを念入りに調べる。……ちなみに腰巻きの下はノーパンです。
下半身丸出しのまましばらく腰巻きを調べ、彼女は突如連れの兵士を抱きかかえた。そして満遍なく鍛えられた、美しい筋肉が躍動する。
「脱出だ、ソラ!」
「え、ちょっ、教官ー!?」
叫ぶ兵士と腰巻きを手に、オーガ教官は猛烈な勢いで店から飛び出していった。おマンコとお尻丸出しの状態で。
俺たちはしばらく呆然としていたが、ひんやりした夜風が吹き込むとウェイターがハッと我に返った。
「店長、食い逃げです! 犯人は筋肉モリモリ・マッチョウーマンの変態ですッ!」
「ヤロォ、ブッコロシテヤラァ!」
ウェイターが言い終わるか終わらないかという内に、キッチンからフライパンを持った店長が飛び出してきた。鬼の形相のまま、鬼の食い逃げ犯を追って駆けだしていく。
「……陽気なルージュ・シティの一コマだな」
「……そろそろ帰るか」
……店を出て、俺たちは職人通りに向かって歩き出した。俺やオーギュの工房がある辺りだ。オーギュは家に嫁さんを待たせているせいか、若干早足に見える。こいつは服を作ることでしか自分を表現できない不器用者だが、それでもちゃんと恋をしている男のニオイを出していた。
「嫁さんの様子はどうだ?」
「……可愛い」
オーギュは短く答える。顔は無表情のままだが、これでも惚気ている方なのだ。
「……ヒューイー、今回のお前の仕事だが」
眼鏡のずれを直しつつ、オーギュは俺の目を見た。相変わらず眼光が鋭い。
「どんな香水を作るつもりだ?」
「注文通り、爽やかな森の香りで作るさ。ただし……」
先ほど聞いたギュネ族の話を聞いているうちに、その血を継ぐカナンさんに必要な物が閃いたのだ。
俺は胸ポケットから小さな瓶を取り出し、オーギュに見せた。香水瓶に見えるが、中には透き通った結晶が詰め込まれている。オーギュが微かに目を見開いた。
「こいつをオマケとして付ける」
「……なるほど。元々脆弱な貴婦人のための物だが……そういう発想も確かにある……」
感心したようにオーギュは呟く。そして珍しく笑顔を見せた。と言ってもほんの少し口の端が上がっただけなので、こいつとの付き合いが長くないと気づかないかもしれない。
「さすが、俺のライバルだ」
「ありがとよ」
そうしている内に、オーギュの工房が見えてきた。今頃奥さんは玄関で出迎えの準備をしているだろう。夫のニオイに敏感な女性だから。
「……自分が幸せになるよりも」
オーギュはぽつりと呟いた。
「自分が幸せになることよりも、誰かを幸せにすることを考えた方が楽しい。それが職人の喜びではないかと、最近思うようになった」
「奥さんのお陰で、か?」
オーギュは頷いた。今までがむしゃらに技術の向上だけを求めてきた男だが、理解してくれる伴侶を得てこいつなりに変わったこともあるのだろう。
俺もこいつも、祖国に帰ればいつでも無条件で幸せになれた。それをしなかったのは、俺たちのつまらない意地だったのかもしれない。結局幸せまで合理的には考えられないのが人間なのだろうが、俺はそれで満足だ。その結果、オーギュが言った職人の喜びを感じているし、何よりも今日カナンさんと出会えた。
「俺たちは俺たちらしく……それでいいんだよな」
「……ああ」
工房の前で立ち止まり、オーギュは俺を見た。
「良い夜を」
「ああ、おやすみ」
オーギュは工房の中へ消えた。奥さんとの話し声、そして直後に嬌声が聞こえてくる。男同士の語らいのために、家で待たせてたことへのお詫びなのだろう。あいつなりの優しさだろうが、聞いているとだんだん「爆発しろ」とかいう台詞を言いたくなるので立ち去ることにした。
「さて……構想を練らないとな」
カナンさんに笑顔を。俺の香水で笑顔を。
目的を真っ直ぐに見据え、俺は帰路についた。
完成した見本品の香りを確かめる。ラベンダーをメインとした香水で、無気力やストレスを癒す香りだ。優しく爽やかな女性を演出できることだろう。
この研究室を見た奴は、大半が俺様を錬金術師だと勘違いするだろう。蒸留器だのフラスコだの、そんな物ばっかり並んでいるし。
「さてさて、何と名付けるかねぇ、この新作」
明るい紫色の液体を瓶に移しながら、俺様はこの香水の似合う女性を想像する。いや妄想と言うべきか。外観、性格、そして何よりも重要なのが体臭。
俺様はニオイフェチである。文句のある奴は前に出ろ。
幼い頃から常人の何倍かの嗅覚を持ち、香りに関わる仕事をしていればこうなるのは無理ないはずだ。そのはずだ。だが俺様はただの変態ではない、調香師(パフューマー)としての腕はあらゆる客層から『一流』との評価を得ている。このルージュ・シティに来てから、技術は更に向上した。人間より嗅覚の鋭い魔物を相手に商売するのだから、余計な臭いがつかないよう一層注意が必要というわけ。まあ相手が人間でも魔物でも、俺様は瓶にほんの少しの洗剤の臭いだって残さないけどな。それがプロってもんだ。
話がちょっと逸れたが、お客の体のニオイというのは香水作りでは大事な要素。服や靴を職人にオーダーメイドで作らせるような人なら、次はオーダーメイドの香水も欲しくなるものだ。当然お客様自身のニオイに合わせて作らないと、粋な紳士淑女を演出することはできない。特に魔物の場合、種族によって体臭も似合う香りも大きく異なってくるわけで、それを考えて香水を作っていくのがなんとも楽しい。粘土遊びをする子供のように、ただただ夢中になれる。
そうしているうちにお客様のニオイに夢中になることだってあるのさ。いるんだよ、人間にも魔物にも……男を惹きつける『女のニオイ』を振りまく女性が。まああくまでもお客様として注文を承っているけどな。当然お客様が男でもちゃんと仕事するし。
とまあ、長々と語ったが……。
そういうわけで俺様はこの町で一番の調香師である。
「お、雨のニオイだ。もうすぐ降るな」
神経を研ぎ澄ませていると、こういうニオイも察知できる。洗濯物を取り込まなくては。
しかし裏口へ向かおうとしたとき、来客を知らせるベルが鳴った。直ぐさま進路を百八十度反転し、店の方へ向かう。一応軍隊経験があるから回れ右は芸術的なまでに得意だ。だがきりっとした足取りで表へ向かい……俺様は言葉を失った。
「いらっしゃい……ませ……」
華やかなニオイが、鼻をくすぐった。簡単に言えば汗のニオイ……しかしその中から何とも言えない甘いニオイが感じられる。花とも果実とも違う、ただ甘ったるいだけでなく、清々しささえ感じさせる香りだ。脳の奥まで溶かし、胸を高鳴らせる。甘く、切ない、女のニオイ。
その発生源は、今し方玄関のドアをくぐった女だ。爬虫類を思わせる尾と掌、凛とした目つきに締まった口元。肢体は優雅で、特に胸の膨らみは大きい。たゆんたゆんだ。
リザードマンという別に珍しくはない魔物だが、あまりにも香しいニオイを放っている。これは香水では絶対に出せない、女の子本人のニオイなのだ。ついでにたゆんたゆんだ。
「……お前がヒューイー・クルペンスか?」
その体臭、いや、体香と言うべきだろう。それに相応しい、女らしくも凛々しい声で、お客様は尋ねてきた。恍惚状態になっていた俺はハッと我に返る。
「はい、俺が調香師ヒューイーです。何をお求めでしょうか?」
私の問いかけに、彼女はフンと鼻を鳴らした。心なしか何処か不機嫌そうだ。
「香水の注文に来た……オーダーメイドだ」
「左様でございますか。どのような物がよろしいでしょう? こちらにサンプルもございます、樹木系、柑橘系、ハーブ系その他諸々ございますよ」
胸の高鳴りを隠すこともできず、早口でまくし立てるように喋ってしまう。こんな体香を持つ女性なんて滅多にお目にかかれないのだ。先ほど言ったように人間でも魔物でも『女のニオイ』を振りまく女性はいるものだが、ここまで俺様を虜にする体香の持ち主は数えるほどもいない。しかも、たゆんたゆんだ。
「……私はこういうのに疎くてな」
「そうですか。お仕事は何を? お名前は?」
普段何をしているかも、オーダーメイドの香水作りには重要な事柄だ。職業というのはその人のイメージを決定づける要素の一つである。
「私設軍領主邸警備隊の、カナン・ギュナンだ」
「ああ、思い出した! 前の闘技会に出場なさってましたよね!」
すると彼女はムッとしたような顔になる。何か気に障ったのだろうか。以前催された闘技会に、彼女は間違いなく出場して……。
……やべ。この人、一回戦で敗退したんだった。
彼女が弱かったわけではない。相手が百戦錬磨の強者で、決勝まで勝ち進んだ実力者だったのだ。負けても決して恥ではないだろうが、本人としてはそりゃ納得いかないだろう。
何と言うべきか迷っていると、カナンさんは懐から一通の封筒を取り出し、不機嫌そうに差し出してきた。紙についた彼女のニオイと温もりをこっそり楽しみつつ、ペーパーナイフで開封する。封蝋に押されているのは樹木と三日月を象ったこの町のエンブレム。つまり差出人は領主ということだ。中の手紙からはカナンさんのニオイに混じって、微かに領主のニオイがした。
『親愛なる調香師ヒューイー・クルペンスへ。
町が賑わい、そなたの仕事も捗っているようで何よりだ。
さて、カナン・ギュナン分隊長が私の身辺警護を務めてくれるようになり、丁度一年になる。記念に是非彼女に贈り物をしたいと思い、そなたの香水がいいと考えた。彼女によく似合う、彼女だけの一品を作って欲しい。
無論、代金は当方で負担する。よろしく頼む。
ルージュ・シティ領主 リライア・クロン・ルージュ』
「なるほど、領主様のご紹介で」
領主リライアはヴァンパイアで、人魔共栄を掲げてこのルージュ・シティを作った。彼女の人柄を慕って多くの人材が集まり、かくいう俺も領主に誘いに応じてこの町に店を構えたのだ。人と魔物が手を取り合うことで、短期間のうちに目覚ましい発展を遂げている。それにしても身辺警護ということは、この得も言われぬ体香の持ち主が常に側に……領主が羨ましい。
「是非にと仰るから、断るのも忍びなくてな。だが香水を買ったところで、使うかどうかは分からないぞ」
職人のプライドを傷つける言葉を、カナンさんは口にした。
「我が私設軍は教団と臨戦態勢にある。領主邸警備隊という身分を良いことに、香水などという贅沢品にうつつを抜かすわけにはいかないのだ」
ふとした仕草の度に香るニオイとは裏腹に、彼女は仏頂面を続けていた。美人でその上たゆんたゆんだというのに勿体ない。少なくとも残念ながら、彼女は俺様に好意を持ってはいないようだ。
「確かに、この町の私設軍ではゲリラ戦を重要視していますからねー。待ち伏せや奇襲のとき、香水をつけるなんて自殺行為だっていうのは分かります。ですが良い香りというのは消耗戦で疲れた兵隊さん達を癒し、新兵さんが不眠症になるのを防ぐのにも有効です。私は味方に自分の居場所を教えるのに使ったりしましたね」
俺様が再びまくしたてると、カナンさんは微かに眼を細めた。
「お前、兵士だったのか?」
「故郷の軍隊で斥候をやってたことがありまして」
剣も弓も下手くそだったが、斥候としては優秀な方だった。敵の仕掛けた罠や待ち伏せを金属臭で察知し、味方を救ったこともあったっけ。
カナンさんの表情が少し柔らかくなり、心なしか体香も優しいニオイになった気がする。俺が軍隊経験者と知って少し見直したのだろう。リザードマンという魔物の性質上、そのようなポイントで人となりを判断するのは仕方ない。
「そうか。……だがお前にギュネの戦士の誇りは分かるまい」
「ギュネの戦士?」
聞き慣れない単語だった。俺の反応に、カナンさんは再び鼻を鳴らす。
「田舎者は知らないか」
軽蔑したように言われてしまった。しかしそんな視線もなかなか悪くない。
俺の出身地は田舎には分類できないが、反魔物側の国だった。魔物についての知識が足りないのは認めざるを得ない。共存する上で必要な一般知識くらいは身につけているが。
「とにかく、だ。私は香水を買っても使わないかもしれない。それでも作るのか?」
「当然、お作りしますよ」
キッと俺を見つめるカナンさん。しばらく見つめ合っていたいという衝動に駆られたが、職人としては即答せねばならないところだ。
「使いたくなるような品を作ってご覧にいれます。どのような香りがお好みで?」
俺の言葉に、彼女はふと息を吐いた。あ、この人ここへ来る前にチョコレート食ってるな。良いニオイが口から漏れてる。
「……森の香り、かな。爽やかなやつがいい。詳しくは任せる」
大雑把な注文だ。森の香りと言っても、森自体が香りの宝庫。花、果実、樹木、草、土……そこから生まれる香水も無数のパターンがあるのだ。
とりあえず俺の裁量で、彼女に最も似合う香りを選んで組み合わせるしかない。注文メモを手に取り、『カナン・ギュナン様 爽やかな森の香り』と書き込んだ。この素晴らしい体香の持ち主に、是が非でも俺の作る香水を使ってもらいたい。調香師魂が燃えてくる。
「言っておくが、催淫効果付きの香水などは受け取らないからな」
「そのような品をお求めのお客様には、サバトのお店へ行くことをお勧めしております」
俺様の香水はあくまでも『粋な紳士・淑女を演出する香水』。当然健全な男であるからしてエロいことは大好きだが、それでも媚薬作りなどは俺様の出る幕じゃない。エッチな小道具はサバト局の仕事だろうし、そもそも魔物達の間では『虜の果実』だの『アルラウネの蜜』だの、そのようなアイテムはいくらでも出回っているのだ。
「分かった。では、これで……」
俺から目をそらし、踵を返すカナンさん。俺はふと、思ったことを口にした。
「カナンさん、何か悩んでいることとかありませんか?」
ぴたりと、彼女の歩みが止まる。
「俺、ニオイで分かるんです。悩んでいるとか、誰かを憎んでいるとか、恋をしているとかいう感情が」
「……」
カナンさんは無言で立ちつくしている。よく見ると手が小刻みに震えており、汗の臭いが若干強くなった。図星を突かれた反応だ。
「もし俺で宜しければ、お話を……」
「職人は仕事の心配だけしていろ!」
吐き捨てるように叫び、彼女は大股で歩き去っていく。荒々しくドアを開け、雨の降る往来へと踏みだし……バタンと、ドアが閉められた。
余計なことを言ってしまったかもしれない。昔から一言多い方ではあった。だが香水とはお客様のメンタル面に影響を与える品物であり、お客様の悩み事も調香師にとっては重要な事なのだ。何度も言うように彼女の体香は素晴らしかったが、悩んでいる人が発するニオイも少しだけ感じられた。
もしかしたら領主は、俺の香水が彼女の気分転換になることを望んでいるのかもしれない。あの部下思いなヴァンパイアなら、彼女が悩みを抱えていることに気づいていてもおかしくない。
領主様には日頃ご愛顧頂いているし、期待に応えたい。そして何よりも、あんなに香しいニオイを放ち、しかもおっぱいたゆんたゆんの女性を幸せにできなくて何が一流の調香師だ。
「……っしゃ! テンション上がってきたぜ!」
家の外は雨が降っていたが、俺様の職人魂は太陽の如く燃えていた。彼女のあの甘く清々しいニオイに合う素材を、頭の中で調合し始める。この試行錯誤の時間もなかなかに楽しい。彼女の仏頂面を脳内に思い浮かべ、それが笑顔になる所を想像しながら、俺は作業に取りかかった。
「って洗濯物取り込んでないじゃんよ!」
…………
………
……
その日の夜。俺は昔からの友人と一緒に飯を食いに行った。場所はこの町で人気の飯屋で、ホルスタウロスのミルクを使ったシチューが滅茶苦茶美味い。まろやかな香りに何種類ものハーブや薬草の匂いが合わさり、鴨肉も臭みが消えて良い味を出す。調香師の俺でさえ、このシチューは感動モノだ。
「……なるほど。また面倒な客だ」
シチューを飲み下し、俺の友人・オーギュは呟いた。こいつは仕立屋を営んでおり、整った顔立ちだが顔面の右側を痣が覆い、目元の骨がややひしゃげている。それでいて眼鏡のしたの眼光が妙に鋭いので、かなり強面に見えてしまうが、実際は寡黙で真っ直ぐな良い職人だ。専門は違えど同じファッション関係の職人として、時々互いの仕事の話をするのである。
「いやあ、彼女本当に良いニオイなんだよ。まるで天上界から舞い降りてきた女神の如く……」
「……それは魔物に対して適切な例えだろうか」
俺のニオイフェチを知るオーギュが冷めた反応をする一方、店のウェイターは興味深げに話を聞いていた。
「いるんですよねぇ、良いニオイの汗を出す女の子って」
「そうそう。お前さんにもそんなニオイがついてるな。昨日カノジョと相当激しくしたんじゃないか?」
「えっ、俺ヤった後風呂入ったのに!?」
叫んでしまってから、慌てて咳払いするウェイター。彼は十六、七歳だが、俺の同じニオイフェチだ。まあ嗅覚は俺程じゃないけど、なかなか素質のある奴だ。何の素質かはお察しください。
「えー、それはそうと……さっきお話に出た『ギュネの戦士』って何でしょうね?」
ウェイターは話題を変えたいらしい。
カナンさんが言った『ギュネの戦士』。リザードマンの部族か何からしいが、詳しいことは明日図書館にでも行って調べるつもりだ。オーギュも俺と同郷のため、魔物について深い知識は持っていない。それでも先日魔物の奥さんを得たから、魔物の習性は俺よりよく分かっているだろうけど。
「おい、お前ら」
不意に、近くのテーブルから声をかけられた。先ほどまでシチューやオムレツをがっついていた巨乳のオーガで、テーブルには皿が積み重ねられている。
「ギュネ族のことなら知ってるぜ」
「え、本当ですか!?」
「オーガは冗談言っても嘘は言わねーよ。喧嘩好きな魔物の間じゃ、ギュネ族は有名だぜ」
攻撃的な角としなやかな筋肉を持った見た目の割に、彼女は人が良い(いや、鬼が良い?)らしい。俺の求めていた知識を、滑らかな姉御口調で語ってくれた。
ギュネ族とは旧魔王の時代に生まれた、リザードマンの傭兵部族。勇猛果敢な戦士であったリザードマンの中でも、特に好戦的で命知らずな連中だったらしい。戦があると聞けば何処へでもかけつけ、傭兵として敵を倒す。相手が人だろうと魔物だろうと、時には同じリザードマンが相手でも(その時代では同族同士の殺し合いも珍しくなかったらしいが)戦い、武名を馳せてきたという。強い敵と戦って勝ち、ひたすら前に進み続け、最期は華々しく散ることが最高の名誉と考える部族だったようだ。だが当時の魔物には珍しく、強者であれば人間にも敬意を払ったという。
姉御肌のオーガは彼らの逸話をいくつか語った。
あるとき人間の戦士がギュネ族の若者を殺した。殺された若者の父親は恨み言を一つも述べず、息子を倒した人間を強者として讃えた上で仇討ちを挑んだ。勝利を収めたギュネ族は人間の戦士の遺体を丁重に扱い、森に葬ったという。
またあるギュネの戦士は人間の勇者に味方し、ドラゴンを倒した。だがそれは人間を助けるためではなく、最強生物であるドラゴンと戦いたいがためであった。その後、共闘した勇者との一騎打ちに望み、相打ちとなって果てた。
「生きるために戦う」という者は大勢いるが、ギュネ族は「戦うために生きる」ような連中だったようだ。だがそれ故、人魔双方から多くの恨みを買っており、絶え間ない報復攻撃に晒された。それにも果敢に立ち向かっていたギュネ族だが、やがて少しずつ弱体化させられていったのである。
「今の魔王サマが即位したとき、生き残ってたギュネ族はすでにカナン・ギュナンの家系だけだったらしい」
「そうだったのか……」
凄まじく、壮絶な部族の物語。カナンさんはその狂戦士の生き残りという誇りを、そして重荷を背負っていたのだ。
語り終わり、オーガは酒を一気に飲み干した。
「ぷはーっ。この店は食い物も酒も最高だぜ!」
「……あの、教官。支払いは大丈夫なんですか?」
オーガの向かい側に座る若い兵士が、心配そうに尋ねた。何か存在感が希薄な奴である。
「大丈夫だって、ソラ。ここにちゃんと……」
笑いながら腰巻きに手を突っ込み、そこで笑顔が消える。少し間を開けて、彼女はいきなり腰巻きを外し始めた。毛皮製のそれを自分の目の前に掲げ、裏側などを念入りに調べる。……ちなみに腰巻きの下はノーパンです。
下半身丸出しのまましばらく腰巻きを調べ、彼女は突如連れの兵士を抱きかかえた。そして満遍なく鍛えられた、美しい筋肉が躍動する。
「脱出だ、ソラ!」
「え、ちょっ、教官ー!?」
叫ぶ兵士と腰巻きを手に、オーガ教官は猛烈な勢いで店から飛び出していった。おマンコとお尻丸出しの状態で。
俺たちはしばらく呆然としていたが、ひんやりした夜風が吹き込むとウェイターがハッと我に返った。
「店長、食い逃げです! 犯人は筋肉モリモリ・マッチョウーマンの変態ですッ!」
「ヤロォ、ブッコロシテヤラァ!」
ウェイターが言い終わるか終わらないかという内に、キッチンからフライパンを持った店長が飛び出してきた。鬼の形相のまま、鬼の食い逃げ犯を追って駆けだしていく。
「……陽気なルージュ・シティの一コマだな」
「……そろそろ帰るか」
……店を出て、俺たちは職人通りに向かって歩き出した。俺やオーギュの工房がある辺りだ。オーギュは家に嫁さんを待たせているせいか、若干早足に見える。こいつは服を作ることでしか自分を表現できない不器用者だが、それでもちゃんと恋をしている男のニオイを出していた。
「嫁さんの様子はどうだ?」
「……可愛い」
オーギュは短く答える。顔は無表情のままだが、これでも惚気ている方なのだ。
「……ヒューイー、今回のお前の仕事だが」
眼鏡のずれを直しつつ、オーギュは俺の目を見た。相変わらず眼光が鋭い。
「どんな香水を作るつもりだ?」
「注文通り、爽やかな森の香りで作るさ。ただし……」
先ほど聞いたギュネ族の話を聞いているうちに、その血を継ぐカナンさんに必要な物が閃いたのだ。
俺は胸ポケットから小さな瓶を取り出し、オーギュに見せた。香水瓶に見えるが、中には透き通った結晶が詰め込まれている。オーギュが微かに目を見開いた。
「こいつをオマケとして付ける」
「……なるほど。元々脆弱な貴婦人のための物だが……そういう発想も確かにある……」
感心したようにオーギュは呟く。そして珍しく笑顔を見せた。と言ってもほんの少し口の端が上がっただけなので、こいつとの付き合いが長くないと気づかないかもしれない。
「さすが、俺のライバルだ」
「ありがとよ」
そうしている内に、オーギュの工房が見えてきた。今頃奥さんは玄関で出迎えの準備をしているだろう。夫のニオイに敏感な女性だから。
「……自分が幸せになるよりも」
オーギュはぽつりと呟いた。
「自分が幸せになることよりも、誰かを幸せにすることを考えた方が楽しい。それが職人の喜びではないかと、最近思うようになった」
「奥さんのお陰で、か?」
オーギュは頷いた。今までがむしゃらに技術の向上だけを求めてきた男だが、理解してくれる伴侶を得てこいつなりに変わったこともあるのだろう。
俺もこいつも、祖国に帰ればいつでも無条件で幸せになれた。それをしなかったのは、俺たちのつまらない意地だったのかもしれない。結局幸せまで合理的には考えられないのが人間なのだろうが、俺はそれで満足だ。その結果、オーギュが言った職人の喜びを感じているし、何よりも今日カナンさんと出会えた。
「俺たちは俺たちらしく……それでいいんだよな」
「……ああ」
工房の前で立ち止まり、オーギュは俺を見た。
「良い夜を」
「ああ、おやすみ」
オーギュは工房の中へ消えた。奥さんとの話し声、そして直後に嬌声が聞こえてくる。男同士の語らいのために、家で待たせてたことへのお詫びなのだろう。あいつなりの優しさだろうが、聞いているとだんだん「爆発しろ」とかいう台詞を言いたくなるので立ち去ることにした。
「さて……構想を練らないとな」
カナンさんに笑顔を。俺の香水で笑顔を。
目的を真っ直ぐに見据え、俺は帰路についた。
19/08/04 20:01更新 / 空き缶号
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