夜明け前の暗い海を、我々の偽装商船は静かに進んでいた。波は低く風も弱いため、問題なく作戦を行えるだろう。
　甲板に集まっている戦闘要員は総勢八人。フィベリオは相変わらずグレーのスーツに帽子を被り、一見すると武器らしき物は所持していない。「俺は殺しの時もネクタイは緩めない」と陽気に語っていたが、その笑顔の裏に血生臭さが染みついているように思えた。やはり彼が首領の次に危険な男という評判は正しいようだ。彼の背後に付き従うのは骨と皮だけのような痩せた男と、鉄梃を持った小柄な少女。フィベリオ配下の構成員で、殺しや略奪を担当する者たちだ。
　そして黒い羽毛の鳥人……ブラックハーピーが三人。彼女たちはフランチェスカの配下であり、偵察や伝令などの仕事を行う構成員だ。フィベリオが無断で動員したらしいが、緊急事態のためフランチェスカは何も言わなかった。このような時に面子がどうのと諍いを起こすような愚か者ではない。
　だが、そのフランチェスカ本人はというと……


　私の耳にしゃぶりついて離れないのだ。


「……んちゅ……はむ……んみゅ……」

　甲板の作業員やブラックハーピー三姉妹は我々の方を見てニヤニヤ笑ったり、ひそひそ話をしていた。だが当人は艶やかな声を出しながら、周囲の目も気にせず一心不乱に耳に唾液をまぶしてくる。柔らかい唇と、時折当たる歯の感触がむず痒い。ダークスーツを着込んで短剣を携えながらも、まだ昨夜の余韻が残っているようだ。

「……イバ、昨日こいつと何をやってたんだ？」

　フィベリオが呆れたような表情で訊いてきた。どう答えようか少しは思案したが、この男相手に下手な言い訳など無駄だろう。

「……ナニをヤっておりました」
「んなこたァ分かってんよ」

　魔術による防音処理などされていない船室では、情事に耽る我々の声も筒抜けだったのだろう。今更恥じる気は無いが、戦を前にしてこの状態は困る。私もインキュバス化したこの身では発情しかねない。
　フィベリオはため息を一つ吐くと、さっと右手を閃かせた。灰色の袖口に銀色の刃が光る。

「ぐほっ！」

　フランチェスカが私の耳から離れ、頭頂部を押さえよろめいた。ナイフの柄で殴られたのだ。素早く鋭い一撃。だが本気は出していないだろう。

「効いたか？」
「痛たたたた……超効いた」

　涙目になりながらも、彼女の瞳には理性の光が戻っている。マフィア幹部としてのフランチェスカに切り替えられたようだ。
　これでどうにか戦に集中できる……唾液の付いた耳にひんやりと当たる海風を味わいながら、私は胸をなで下ろした。月は西に傾き、海原には陸が見えていた。暗い海の中にぼんやりと見える稜線は、私が故郷を出るときに見た風景と似ている。あの土地ではどのような人々が暮らし、何を想って生きているのだろうか。しかし我々の目的はあの土地ではなく。そこに近づいてくる奴らだ。

「二時方向に船影！」

　帆柱の上から、物見役の船員が叫んだ。船を時計の文字盤に見立て、私もその方角を睨む。しかしあまり視力の良くない私には、微かに影のような物が見えるだけだった。

「……軍船だ、でかいな。火砲も積んでるし、甲板に兵隊っぽいのが沢山いる」

　私の隣で望遠鏡を覗くフランチェスカが、正確な情報をもたらしてくれた。人間だった頃から夜目の利く方らしい。
　船影はじわじわと接近し、次第に大きくなってくる。相手が我々に気づいているかは定かでないが、攻撃してくる様子はなかった。まだ火砲の射程外なのだろうが、こちらにはこの距離から敵船に移乗する手段がある。フィベリオは全員を見渡し、号令を下した。

「奴らの胸にツェリーニの名を刻め。行くぜ、兄弟ども！」

　刹那、ブラックハーピー達が甲板を蹴って飛び立つ。フィベリオ達がその足に掴まり、夜空へと身を投じていく。私もフランチェスカに後ろから抱きすくめられ、次の瞬間には甲板から足が離れていた。
　空からの奇襲……魔物を味方につけているからこそできる戦術だ。冷えた空気を切り裂き、我々は敵船へと肉迫する。やがて視力の良くない私でも、甲板の兵士が動き回っているのが見えるようになった。弓による迎撃を避けるため、フランチェスカは私を抱えて海面間近を飛ぶ。恐怖と爽快感が同居する感覚。猛禽さながらに、放たれた一矢のように敵の喉元を狙う。
　フランチェスカが上昇。敵海兵が弓に矢を番えている。だがもう遅い。

「行くよ！」

　私の体が、甲板の上に放り出された。膝を曲げ、着地の衝撃を受け流しつつ……抜刀。

「伊庭志郎、推して参る！」

　叫びざま、慌てふためく敵兵を切り伏せる。血の匂いが広がった。
　フランチェスカにフィベリオ、その部下二人も続々と甲板に降り立つ。敵は水夫や海兵、そして勇者らしき身なりの者もいる。大慌てで船内に逃げ込もうとする神父の姿も見受けられた。しかし日の国人らしき者はいない。

「暁がいない！」

　私は叫んだ。

「フランチーとイバは船内を制圧しろ！　甲板は俺たちで片付ける！」

　フィベリオのナイフが閃き、海兵が喉を真一文字に裂かれ息絶える。さすがの腕前だ、まるで魚でも捌くかのように人を殺す。
　船内へ降りる階段は逃げようとする者と、我々を迎え撃つべく上がってきた者とがせめぎ合っている。今雪崩れ込めば入り口を塞がれる前に突入できるだろう。

「は、早くこいつらを倒せ！」
「アカツキはまだ寝ているのか!?　叩き起こせ！」

　敵は混乱している。奇襲を受けた際はその場を即座に放棄し、撤退してから反撃に転ずるのが定石だ。しかし海上では逃げ場などない。
　階段付近で揉めている連中に突貫すると、剣士が立ち塞がった。中へ逃げ込む神父を守ろうとしている。武器は船上戦に向かぬ両手持ちの長剣……恐らく上陸部隊の一人だったのだろう。手練れのようだが表情に焦りが見える。
　奇襲は速さが命、一気に蹴散らす！

「伊庭流・陣風！」

　前傾姿勢で跳躍しつつ、刀を繰り出す。この技は近間の飛び道具だ。
　相手は咄嗟に間合いの外へ身を引こうとする。やはり手練れ……だが甘い。
　私は遠心力を利用し、刀の柄を手中で滑らせた。柄の先端を指二本で保持し、その状態で喉元を……突く！

　尾を引く鮮血の中に、剣士の驚愕の表情が見えた。手中で柄を滑らせて間合いを伸ばす、霧の大陸に伝わる技だ。

「シロー、突っ込みすぎるなよ！」

　フランチェスカが私の横で敵兵を蹴り倒す。彼女の武器はチンクエディア。幅広で大振りの短剣だ。
　それを構えつつ、彼女は階段を上がってきた敵兵に跳び蹴りを食らわせた。今上ったばかりの道を逆戻りした挙げ句床に叩きつけられ、敵兵は苦悶の声を挙げる。
　私も彼女に続いて階段を駆け下りた。甲板から兵士が追ってくるのが見えたが、次の瞬間には後ろからフィベリオに捕まって喉を切り裂かれる。

「合理的に片付けるんだ！」

　フランチェスカは船内へ逃げ込んだ神父に視線を定める。私は即座に彼女の意志を理解した。何せその神父は必死で暁の名を呼びながら逃げていくのだ。
　敵が立ち塞がるも、フランチェスカが魔術で次々と昏倒させる。片付け残した敵は私の剣の錆となる。太った体格の神父は見かけからは想像できない速度で逃走し、我々を暁の元へと案内していった。

　静かに呼吸しながら、心臓の鼓動を落ち着ける。ルージュ・シティを見たせいか、あの男に奪われた日々が今頃になって胸に蘇ってきた。
　私の故郷・黒垣藩は日の国でも人魔の境目が薄く、平和で豊かな地域だった。それにも関わらず我が伊庭家が退魔剣術を伝承してきたのは、魔物に好き勝手をさせないためだ。あらゆる能力で人間に勝る魔物が、その力故に人間を見下すことがないように、均衡を保つための抑止力として存在していたのである。故に理不尽に魔物を傷つける者には我らが制裁を下し、中には魔物の身で入門する者もいた。そうして我々が藩の平和を守っている……私はそれが誇らしかった。
　しかし。平穏な日々は突如崩れ去った。海向こうからやってきた集団が、我が家の道場を襲ったのだ。その大半は主神教団の勇者だったが、手引きをして先頭に立っていたのはあの男……天ノ宮暁。退魔師の名家の出身者だ。
　突然の侵略者に対し、私も、父も、門弟達も一丸となって立ち向かった。だが折しも道場には町の子供らが遊びに来ており、我々はそれを守りながら戦わねばならなかったのである。少なからぬ首級を挙げたものの、最期には暁によって蹂躙された。血の海になった道場と、倒れ伏す仲間達……撫で切りだった。

　私は片腕と家族を失い、同時に自分自身の『価値』さえも奪われた気がした。家の誇りも、仲間も、自分の身さえも、何一つ守れなかったのである。これで何が剣術だ、何が武士だ。私はただの無価値な人間となったのだ。
　そうなれば復讐の道を進むのみ。二刀流使いだった私は、片手で刀を振るうのも問題なかった。藩を出て、金で刺客を請け負いながら腕を磨いた。大勢の人間を殺め、血を浴びながら。
　その後暁が天ノ宮家の代継抗争に巻き込まれ、死を遂げたと聞いていたが……奴は生きている。そして今、目と鼻の先にいるのだ。奴が憎い。殺してやりたい。だがそれ以上に、討たねばならない理由がある……！


「あそこだ！」

　フランチェスカが叫んだ。神父が船室のドアを開け、中へ転がり込むのが見えた。続いて怒鳴り声が聞こえる。

「アカツキ、何をしている!?　は、早く敵を迎え撃て！」

　間違いない、奴はあそこにいる。
　意を決し、私はその部屋へと駆け込んだ。その瞬間に神父は情けない声を出してへたり込む。

　船内の寝室としては、比較的広い部屋……その中央に置かれた椅子に、奴は静かに座していた。狐を想わせる細面の顔つき。血の気を感じられない白い肌、口元に浮かべられた薄笑いはさながら幽鬼のような印象を受ける。傍らの床には呪文を刻んだ直刀……私の左腕を奪った武器が突き立てられている。
　間違いない。天ノ宮暁……探し求めていた仇。しかし。

「おやおや、やっぱり君やったんか。そんな気がしとったんやっけどねぇ……クックック」

　我々を見ても立ち上がることなく、ただ薄ら笑いを浮かべる暁。その姿からは覇気も殺気も感じられなかった。それどころか、その瞳は妙に哀しげに見えたのだ。まるで全てを失った直後の、私のように。

「伊庭の若さん。久しぶりやね」
「……拙者を覚えているのか？」

　私の問いに、暁は体を小刻みに揺らしながら笑った。間合いを計りながら、奴の挙動に神経を集中させる。

「仕留め損なったからねぇ、君は。それに……いつかまた会う気がしとったんや」

　言葉を句切り、暁はまた笑った。

「シロー……こいつが？」

　フランチェスカが怪訝そうに尋ねてきた。それほどまでに暁の姿には生気が感じられないのだ。関係ない者が見れば、この男が本当に数多くの命を奪ってきたのか疑ってしまうだろう。
　心臓の脈打ち、そして『早くこいつの血を』と逸る右腕を抑えながら、私は長年疑問だった言葉を口にした。

「何故貴様は教団に手を貸した？　水面下で思想の違いはあれど、天下泰平のあの国で……」

　方放浪の最中、暁と共に我が家を襲った勇者を見つけ、殺す前にあの時の目的を白状させることに成功した。あの襲撃は日の国を弱体化させる作戦の一環で、黒垣藩の士気を崩すことが目的だったらしい。しかし暁がそれに協力したのは天ノ宮本家の意向ではなく、個人の意志だったという。日の国にも魔物に敵対的な地域はあれど、表だって大規模な紛争が起きることは久しく無かったのだ。それなのにこいつは非道な計画に手を貸し、今でも続けている。

「天下泰平……？　クックック……」

　何がおかしいのか。暁は腹を押さえて不気味な笑い声を上げた。

「泰平……確かに！　せやけど、不幸せな奴はなんぼでもおったやろ。特に、僕の身近には……」
「答えろ！　何故我が家を襲った!?」

　自然と、私は叫んでいた。眼前の仇に向けてか、または自分に対してかは分からないが、苛立っていた。刀を握る手に力が籠もる。

「……自由にしてやりたい奴がおったんや。ろくに話もしたことないけど、あの子を国から連れ出したかった」

　懐かしそうな目で、暁は語り始めた。

「……せやけど日の国人が異国で暮らしておると、大抵教団に睨まれるやろ。だから、教団の庇護が受けられるよう、対価を払っただけや」
「そのような理由で、拙者の全てを奪ったのか……？」
「そう、今思えばアホな話や。僕も若かったし……。結局、あの子は自分で国を飛び出して……今では……」

　笑いながら、暁はふとため息を吐く。
　私は暁が言っているのが誰か、一応見当が付いた。天ノ宮家は退魔師の名家だが、代継争いによって内紛が起こったと聞く。仇討ちのために天ノ宮家の内情を調べた所、長女と次女……暁の従姉妹に当たる術師達の、どちらを当主に据えるかという争いが起きたとのことだった。そしてその中で、次女が家を捨てて国外へ出奔したと……。

「もう僕はあの子に何もしてやれへん。それに大勢の人を殺したからなぁ、このまま地獄へ堕ちるしかないやろ。生き地獄かも知れへんけど」

　力なく薄ら笑いを浮かべる暁。それを見て、私は憎き仇が自分と同じ状態なのだと気づいた。自分の『価値』を失い、ただ惰性に縛られ生きて、戦い、死を待っている。私は武士の道を、この男は退魔師の道を踏み外した果ての姿。そこに何の違いも無い、ただ二人の外道が出来上がっただけ。

　だが。

「……なるほど、今の貴様は哀れだ。しかし貴様の苦しみはそれとして、拙者は貴様を許すことはできぬ」

　ゆっくりと、刀を星眼の位置に構える。フランチェスカもチンクエディアを手に構えを取った。そう、今の私には彼女がいる。かけがえのない仲間……同胞が。

「立て、天ノ宮暁！　貴様を斬り、無価値な日々に終止符を打つ！　私の『価値』を取り戻すために！」

　私の怒号に、部屋の隅で縮こまった神父が床にひれ伏した。必死で神の名を呼ぶ雑魚になど目もくれず、暁はニヤリと笑う。

「クックックック……ええね。それ」

　ゆらりと蹌踉めくように、暁は立ち上がった。膝を伸ばす動作が何処かぎこちない。

「ああ、僕……足に傷があるんや。まあでも、どの道この狭い部屋やし……」

　床に突き刺した呪刀を抜き、水平に構えを取る。我が家を襲ったときと同じ構え。この姿を私は何度も悪夢に見ている。



「君の喉かっ切るくらい、何とでもなるやろ……！」

■作者メッセージ


ようやく最終決戦です。
多分次回＋余話くらいで終わると思います。
宜しければ最後までお付き合いください。