交渉と商談について
船から降りると、港の喧噪が一段と騒々しく感じられた。エスクーレほど大きな港ではないが商船は多く、私の祖国の船も見受けられる。沖には軍艦が遊弋しており、港を守れるだけの水軍も保有しているようだ。荷の積み卸しに人と魔物が忙しなく走り回り、陽気な声が響いている。賑わう港町とは何処も似たようなものだ。
フランチェスカは予め何らかの方法で連絡していたらしく、港にはすでに迎えの馬車が着いていた。フランチェスカと御者が割り符を合わせ、荷物を持って乗り込む。
馬車に揺られている間、町の様子をある程度伺うことができた。領主からして吸血鬼なだけに、人と魔物が入り混じって生活しているようだ。空には郵便物を抱えた鳥人が飛び、路傍で遊ぶ子供も様々な種族であり、人魔の境目が極めて薄く見えた。まるで……
「……ジパングが懐かしい?」
唐突に切り出された言葉に、心臓がはねた。フランチェスカの紫色の瞳は真っ直ぐに私を見つめている。肌を重ねる仲とはいえ、こうも簡単に心を見透かされては滑稽だ。
「ええ、少し」
「帰りたい?」
そう問われ、ふと故郷の町を思い浮かべる。私の生まれ育った黒垣藩は日の国の仲でも、かなり人と魔物が入り交じって暮らす町だった。売り物の魚を自分で食べてしまうネコマタの棒手振り、軽快な語りで評判だった河童の瓦版屋。強大な力を持っているくせに、時々自分の尻尾に足をとられて転ぶ九尾の稲荷もいた。人も妖怪も何処か愛嬌のある連中ばかりで、笑い合って暮らしていたのだ。
私の家もそうだった。親魔物の土地で退魔剣を相伝し、私も幼い頃から門弟たちと稽古に明け暮れていた気がする。そして気がつけば、二刀流の少年剣士として藩でも名の知れた存在になっていた。当時の私は侍として模範的な生き方をしていたと思う。あの男に全てを奪われるまでは、だが……
「……帰れませぬ」
「何故?」
「拙者は武士の心を捨て、復讐に奔りもうした。武士として祖国の土を踏む資格はないでござるよ」
私は今でも祖国を、故郷を愛している。だからこそ、自分があの場所へ戻ることを許せないのだ。例え今回の件で仇敵を殺し、自分の憎しみに区切りをつけたとしても、私の手は血で穢れすぎた。家の退魔剣術の理念にすら沿わぬ形で、ただ私怨と虚無感を埋めるために剣を振ってきたのだ。そうしている内に、血を見るのが快感にさえ思えてきている。
今の私が美しい故郷に帰ることを、心の片隅にいる昔の私が許さないのだ。
「そっか。僕はむしろ、エスクーレが故郷で幸せだったのかもね。あの悪徳の港が故郷で……」
角の付け根辺りをぽりぽりと掻きながら、フランチェスカは呟いた。この町では人間のふりをしていなくても驚かれないため、彼女も堂々と角や翼を晒している。エスクーレでは日頃目立たないように隠す必要があるのだが、それでも彼女にとって理想的な故郷だと言う。清濁全てを受け入れてくれる、あの悪徳の港が。
−−私も、事が終われば……
見えぬ未来を見つめ、私は目を閉ざした。フランチェスカも何も言わない。
馬車は静かに揺れながら、領主邸へと近づいていった。
… … …
領主邸到着後、我々は侍女に案内されて応接間に通された。床には黒い絨毯が敷かれており、部屋はあまり飾り気のない「質素な美しさ」を醸し出している。そこらの金持ちのようなけばけばしい豪華さもなければ、魔界の魔物が好むような禍々しい雰囲気もない。落ち着ける部屋だ。
そして木目の美しい円卓を挟んだ反対側に、この町の領主は座していた。赤く美しい髪の吸血鬼である。見た目は麗しいことこの上ないが、何処か静かな威圧感さえ持っているように思えた。我らの首領アレッシオ・ツェリーニに初めて出会ったときも、このような妙な感覚を覚えた気がする。傍らに立つ執事も直立不動の体勢に全く隙がない。
「お初にお目にかかります、領主様」
挨拶をしつつ、フランチェスカはいきなり自分のズボンを下ろし始めた。領主が僅かに目を見開く。内股にある時計の紋章を見せているのだと気づくまで、私はほんの少しだけ困惑してしまった。
「ツェリーニ・ファミリー幹部、親魔物勢力との交渉を担当するフランチェスカ・リッピと申します。後ろにいるのは護衛のイバという者です」
私が軽く会釈し、領主と執事が頷き返した。領主はフランチェスカに目をやり、ふいに微笑を浮かべる。
「ルージュ・シティ領主、リライア・クロン・ルージュ。これは秘書のベンだ。……レミィナ姫から聞いたことがある。彼女の時計を貶した、勇者フランチェスコとはそなたか」
恭しく礼をする執事を余所に、領主は楽しげに笑っている。フランチェスカもまた、苦笑に近い笑顔を浮かべながらズボンを上げていた。
フランチェスカを魔物にした魔王の娘・レミィナ。領主が彼女と知り合いだということを知っていて、フランチェスカはこのような行為をしたのだ。
「正確には成れの果て、ですね。あれから早六年、今では身も心も……アルプのフランチェスカです」
「ふふ、なるほど。その上マフィアとは、姫が聞いたら面白がることだろう。……掛けたまえ」
掌で椅子を勧められ、フランチェスカは一礼して座った。私はその右後ろに立ち、彼女を守る体勢を取る。領主はちらりと私の方を見たが、すぐにフランチェスカに視線を戻した。
「そなたらの首領から送られてきた書状、確かに読んだ。私やこの町の状況を調べ、その上で利害の一致を解いている。見事な情報収集力だ」
「お褒めにあずかり恐縮です」
にこやかに、フランチェスカは答えた。
「このルージュ・シティを攻略しようとしているのは教団のランクヴェスター派が中心。僕らの町に焼き討ちをかけたのも、この町を攻略する足がかりとするためでした」
「エスクーレ港の件は聞き及んでいる。被害はどれほどだ?」
「堅気の衆に怪我は無く、市場にもさほど影響はありません。首領の手紙にもあったとは思いますが、この都市同盟は単なる防衛協定ではなく、ビジネスの意味合いも含みます」
軽快な口調で彼女は続ける。領主の方も興味深げに話を聞いているが、この雰囲気は交渉という寄りむしろ『商談』に近いような気がした。だが私は口を挟む必要はない。フランチェスカの傍らに立ち、常に周囲に気を配るのが仕事なのだ。
その後のフランチェスカの話の内容は、都市同盟結成による双方の利益についてと、ファミリーの方針であった。六年前の宗教国家レスカティエ陥落以降、教団は予想よりも当てにならないという意見が幹部会で大勢を占め、首領も親魔物寄りの組織運営に切り替えていくことにしたらしい。そのためにもフランチェスカを初めとした魔物構成員を迎え入れたとのことで、魔物との結びつきを強化するつもりのようだ。
やがて領主とフランチェスカは『商談』で盛り上がっていたが、領主の傍らに控える執事はどことなく退屈そうに見えた。私と同様、じっとしているのが苦手な人間なのだろう。
「独立独歩という気風が、エスクーレとルージュの共通点であり――」
「長期的な防衛戦略を考えるのなら、魔界系の大国の影響力も――」
二人ともほとんど瞬きをせず、会話に熱中している。フランチェスカは時折冗談を交えて領主を笑わせ、さらに軽妙な口調で引き込んでいった。
……そしてしばらく話し込んだ後、『商談』はまとまったようだ。今後両都市はツェリーニ・ファミリーを通じて相互支援を行うことになるらしい。ついでにこの町で名前を売るため、近々開催される闘技大会に我々も出場することとなった。見せ物にするための戦いは性に合わないが、これも仕事である。
「……ところで、領主様」
席から立ち、フランチェスカはふと思ったかのように口を開いた。
「レミィナ姫は今、何処にいらっしゃるのでしょうか?」
「さて、砂漠にいるやら雪国にいるやら。あの風来姫の奔放ぶりは誰にも把握できん」
領主は苦笑する。そのレミィナ姫というリリムには私も興味があった。風来姫という号の通り世界中を渡り歩いているというが、今ひとつ何が目的なのか分からない節がある。それだけ外に出ている割には名を聞かないし、魔王の娘として魔界化を進めようとしているわけでもないようだ。フランチェスカを魔物に変えた際も、元々何が目的だったのか分からない。退魔剣を学んできた身として、どうにもそのような魔物が気になってしまう。
「私も親衛隊長をしていた頃は随分と振り回された。……案外、近くにいるかもしれんな」
「確かに……」
そのリリムの話をする二人は何処か楽しげだ。フランチェスカにとっては自分の人生を変えてしまった相手であるし、領主にとっても大切な存在なのだろう。口調や表情から、なんとなくだがそれが読み取れるのだ。
会ったことがなく、何処にいるかさえ分からない。それなのに私は、レミィナという魔物の存在感を非常に大きく感じていた。
… … …
ルージュ・シティに滞在して5日目。予定通り町の闘技会には参加したが、私は一回戦敗退という結果に終わった。相手はかなり場数を踏んだ男だったが、それよりも「相手を殺せば失格」というルールが厄介だった。思えば殺す気がない相手と戦うなど久しぶりだった気がする。どうやら私は殺人人形にはなれても闘士には向かないようだ。
「怒ってはいないけど、エスクーレに帰ったらお仕置きね」とフランチェスカに言われたが、それはひとまず置いておくとしよう。今私は闘技会の観客席にいるわけだが、中央の武舞台には誰もいない。休憩時間というわけではなく、参加者……フランチェスカの対戦相手にして一回戦で私を破った男が姿を消したのだ。連れらしい火蜥蜴によって外へ連れ出されたそうだが、そのまま戻ってこないらしい。観客たちもざわめいており、運営側の席でも何やら話し合っている様子が見える。
選手席にいるフランチェスカは退屈そうだった。視力が低めの私でも、彼女の顔色はよく分かる。試合前には張り切っていたが、それだけに出鼻を挫かれたようなものだろう。彼女の使う技の正体を暴いてやろうと思っていた私も同様だ。
ふと、私は持参していた書物に目をやった。表題は『貧乏旅行のススメ』……この町の本屋で購入したものだ。野宿の方法や下町での宿の探し方、およびそこでの思い出などを面白おかしく紹介した内容である。普段このような本はあまり読まないのだが、著者名を見て思わず手にとってしまった。
……【風来姫】レミィナ。
あの謎多きリリムの記した書物。フランチェスカと関係を持った以上、いつか私も彼女に出会う気がするのだ。どのような人物か知っておこうと思ったのだが、著書を読んでみて分かったことは彼女がひたすらに奔放で、なおかつ物好きということくらいだった。序文に『私はリリムの中では弱い方だが、貧乏旅行に関しては姉妹の誰にも負けない』と書いているが、そもそも貧乏旅行をするリリムが他に存在するか疑問である。あらゆる事柄に興味を示し、体験しないと気が済まない性分らしい。
そして珍事を嗅ぎつけては首を突っ込み、引っかき回す。ある意味魔物らしいが、傍迷惑な女とも言えるだろう。私の父なら、彼女をどう評しただろうか。数百年間退魔剣を伝承してきた我が家の目に、この風来姫はどう映っただろうか。復讐に目がくらみ外道に堕ちた私には、もう同じ目線で見ることはできない。
その時、背後に近づいてくる気配を感じた。明らかに私に視線を据えて接近してくるが、殺気は感じられない。ちらりと目をやると、若い男が一人歩み寄ってきた。整った顔立ちだが、顔の右側反面に大きな目立つ痣がある。身のこなしは隙だらけで、明らかに荒事と縁の無い堅気の人間だったが、目つきは異様に鋭い。
「……青いクジラを見なかったか?」
低い声で、男は問いかけてくる。
「奴なら南へ泳いでいった」
私はゆっくりと答えた。この町にもツェリーニ・ファミリーの協力者がいるという話、そしてそれと会う際の合い言葉は予め聞いていたのだ。
すると痣の男は懐から紙切れを取り出し、無言で私に突き出してくる。恐らくファミリーからの伝言だろう。私が手を伸ばして受け取った瞬間、もう用はないとばかりに踵を返し、足早に立ち去っていった。寡黙で無表情、連絡係には適した男のようだ。
眼鏡のずれを直し、私は折りたたまれた紙を開いた。
……予定繰り上げ、作戦行う。早急に町を出よ。港に迎えの用意有り。 フィベリオ・ルジャーノ……
「……もう始まるのか……!?」
私の心臓が大きく跳ねた。恐怖か、それともついに仇敵に会えることへの歓喜か、体が微かに震える。この町の港まで迎えを寄越したということは、出立後そのままあの男の暗殺に向かうこととなるだろう。フィベリオも自ら来ている可能性が高い。
目を凝らして選手席を見ると、フランチェスカも小さな紙切れを見ているようだった。他の連絡係が彼女にも伝言を渡したのだろう。事態は急を要するらしい。
「上等……」
この故郷を思わせる平和な町を去り、元の悪徳渦巻く世界へ還っていく。そこが私の居場所と決めたし、何よりそこでやることがあるのだ。
私は立ち上がった。
フランチェスカは予め何らかの方法で連絡していたらしく、港にはすでに迎えの馬車が着いていた。フランチェスカと御者が割り符を合わせ、荷物を持って乗り込む。
馬車に揺られている間、町の様子をある程度伺うことができた。領主からして吸血鬼なだけに、人と魔物が入り混じって生活しているようだ。空には郵便物を抱えた鳥人が飛び、路傍で遊ぶ子供も様々な種族であり、人魔の境目が極めて薄く見えた。まるで……
「……ジパングが懐かしい?」
唐突に切り出された言葉に、心臓がはねた。フランチェスカの紫色の瞳は真っ直ぐに私を見つめている。肌を重ねる仲とはいえ、こうも簡単に心を見透かされては滑稽だ。
「ええ、少し」
「帰りたい?」
そう問われ、ふと故郷の町を思い浮かべる。私の生まれ育った黒垣藩は日の国の仲でも、かなり人と魔物が入り交じって暮らす町だった。売り物の魚を自分で食べてしまうネコマタの棒手振り、軽快な語りで評判だった河童の瓦版屋。強大な力を持っているくせに、時々自分の尻尾に足をとられて転ぶ九尾の稲荷もいた。人も妖怪も何処か愛嬌のある連中ばかりで、笑い合って暮らしていたのだ。
私の家もそうだった。親魔物の土地で退魔剣を相伝し、私も幼い頃から門弟たちと稽古に明け暮れていた気がする。そして気がつけば、二刀流の少年剣士として藩でも名の知れた存在になっていた。当時の私は侍として模範的な生き方をしていたと思う。あの男に全てを奪われるまでは、だが……
「……帰れませぬ」
「何故?」
「拙者は武士の心を捨て、復讐に奔りもうした。武士として祖国の土を踏む資格はないでござるよ」
私は今でも祖国を、故郷を愛している。だからこそ、自分があの場所へ戻ることを許せないのだ。例え今回の件で仇敵を殺し、自分の憎しみに区切りをつけたとしても、私の手は血で穢れすぎた。家の退魔剣術の理念にすら沿わぬ形で、ただ私怨と虚無感を埋めるために剣を振ってきたのだ。そうしている内に、血を見るのが快感にさえ思えてきている。
今の私が美しい故郷に帰ることを、心の片隅にいる昔の私が許さないのだ。
「そっか。僕はむしろ、エスクーレが故郷で幸せだったのかもね。あの悪徳の港が故郷で……」
角の付け根辺りをぽりぽりと掻きながら、フランチェスカは呟いた。この町では人間のふりをしていなくても驚かれないため、彼女も堂々と角や翼を晒している。エスクーレでは日頃目立たないように隠す必要があるのだが、それでも彼女にとって理想的な故郷だと言う。清濁全てを受け入れてくれる、あの悪徳の港が。
−−私も、事が終われば……
見えぬ未来を見つめ、私は目を閉ざした。フランチェスカも何も言わない。
馬車は静かに揺れながら、領主邸へと近づいていった。
… … …
領主邸到着後、我々は侍女に案内されて応接間に通された。床には黒い絨毯が敷かれており、部屋はあまり飾り気のない「質素な美しさ」を醸し出している。そこらの金持ちのようなけばけばしい豪華さもなければ、魔界の魔物が好むような禍々しい雰囲気もない。落ち着ける部屋だ。
そして木目の美しい円卓を挟んだ反対側に、この町の領主は座していた。赤く美しい髪の吸血鬼である。見た目は麗しいことこの上ないが、何処か静かな威圧感さえ持っているように思えた。我らの首領アレッシオ・ツェリーニに初めて出会ったときも、このような妙な感覚を覚えた気がする。傍らに立つ執事も直立不動の体勢に全く隙がない。
「お初にお目にかかります、領主様」
挨拶をしつつ、フランチェスカはいきなり自分のズボンを下ろし始めた。領主が僅かに目を見開く。内股にある時計の紋章を見せているのだと気づくまで、私はほんの少しだけ困惑してしまった。
「ツェリーニ・ファミリー幹部、親魔物勢力との交渉を担当するフランチェスカ・リッピと申します。後ろにいるのは護衛のイバという者です」
私が軽く会釈し、領主と執事が頷き返した。領主はフランチェスカに目をやり、ふいに微笑を浮かべる。
「ルージュ・シティ領主、リライア・クロン・ルージュ。これは秘書のベンだ。……レミィナ姫から聞いたことがある。彼女の時計を貶した、勇者フランチェスコとはそなたか」
恭しく礼をする執事を余所に、領主は楽しげに笑っている。フランチェスカもまた、苦笑に近い笑顔を浮かべながらズボンを上げていた。
フランチェスカを魔物にした魔王の娘・レミィナ。領主が彼女と知り合いだということを知っていて、フランチェスカはこのような行為をしたのだ。
「正確には成れの果て、ですね。あれから早六年、今では身も心も……アルプのフランチェスカです」
「ふふ、なるほど。その上マフィアとは、姫が聞いたら面白がることだろう。……掛けたまえ」
掌で椅子を勧められ、フランチェスカは一礼して座った。私はその右後ろに立ち、彼女を守る体勢を取る。領主はちらりと私の方を見たが、すぐにフランチェスカに視線を戻した。
「そなたらの首領から送られてきた書状、確かに読んだ。私やこの町の状況を調べ、その上で利害の一致を解いている。見事な情報収集力だ」
「お褒めにあずかり恐縮です」
にこやかに、フランチェスカは答えた。
「このルージュ・シティを攻略しようとしているのは教団のランクヴェスター派が中心。僕らの町に焼き討ちをかけたのも、この町を攻略する足がかりとするためでした」
「エスクーレ港の件は聞き及んでいる。被害はどれほどだ?」
「堅気の衆に怪我は無く、市場にもさほど影響はありません。首領の手紙にもあったとは思いますが、この都市同盟は単なる防衛協定ではなく、ビジネスの意味合いも含みます」
軽快な口調で彼女は続ける。領主の方も興味深げに話を聞いているが、この雰囲気は交渉という寄りむしろ『商談』に近いような気がした。だが私は口を挟む必要はない。フランチェスカの傍らに立ち、常に周囲に気を配るのが仕事なのだ。
その後のフランチェスカの話の内容は、都市同盟結成による双方の利益についてと、ファミリーの方針であった。六年前の宗教国家レスカティエ陥落以降、教団は予想よりも当てにならないという意見が幹部会で大勢を占め、首領も親魔物寄りの組織運営に切り替えていくことにしたらしい。そのためにもフランチェスカを初めとした魔物構成員を迎え入れたとのことで、魔物との結びつきを強化するつもりのようだ。
やがて領主とフランチェスカは『商談』で盛り上がっていたが、領主の傍らに控える執事はどことなく退屈そうに見えた。私と同様、じっとしているのが苦手な人間なのだろう。
「独立独歩という気風が、エスクーレとルージュの共通点であり――」
「長期的な防衛戦略を考えるのなら、魔界系の大国の影響力も――」
二人ともほとんど瞬きをせず、会話に熱中している。フランチェスカは時折冗談を交えて領主を笑わせ、さらに軽妙な口調で引き込んでいった。
……そしてしばらく話し込んだ後、『商談』はまとまったようだ。今後両都市はツェリーニ・ファミリーを通じて相互支援を行うことになるらしい。ついでにこの町で名前を売るため、近々開催される闘技大会に我々も出場することとなった。見せ物にするための戦いは性に合わないが、これも仕事である。
「……ところで、領主様」
席から立ち、フランチェスカはふと思ったかのように口を開いた。
「レミィナ姫は今、何処にいらっしゃるのでしょうか?」
「さて、砂漠にいるやら雪国にいるやら。あの風来姫の奔放ぶりは誰にも把握できん」
領主は苦笑する。そのレミィナ姫というリリムには私も興味があった。風来姫という号の通り世界中を渡り歩いているというが、今ひとつ何が目的なのか分からない節がある。それだけ外に出ている割には名を聞かないし、魔王の娘として魔界化を進めようとしているわけでもないようだ。フランチェスカを魔物に変えた際も、元々何が目的だったのか分からない。退魔剣を学んできた身として、どうにもそのような魔物が気になってしまう。
「私も親衛隊長をしていた頃は随分と振り回された。……案外、近くにいるかもしれんな」
「確かに……」
そのリリムの話をする二人は何処か楽しげだ。フランチェスカにとっては自分の人生を変えてしまった相手であるし、領主にとっても大切な存在なのだろう。口調や表情から、なんとなくだがそれが読み取れるのだ。
会ったことがなく、何処にいるかさえ分からない。それなのに私は、レミィナという魔物の存在感を非常に大きく感じていた。
… … …
ルージュ・シティに滞在して5日目。予定通り町の闘技会には参加したが、私は一回戦敗退という結果に終わった。相手はかなり場数を踏んだ男だったが、それよりも「相手を殺せば失格」というルールが厄介だった。思えば殺す気がない相手と戦うなど久しぶりだった気がする。どうやら私は殺人人形にはなれても闘士には向かないようだ。
「怒ってはいないけど、エスクーレに帰ったらお仕置きね」とフランチェスカに言われたが、それはひとまず置いておくとしよう。今私は闘技会の観客席にいるわけだが、中央の武舞台には誰もいない。休憩時間というわけではなく、参加者……フランチェスカの対戦相手にして一回戦で私を破った男が姿を消したのだ。連れらしい火蜥蜴によって外へ連れ出されたそうだが、そのまま戻ってこないらしい。観客たちもざわめいており、運営側の席でも何やら話し合っている様子が見える。
選手席にいるフランチェスカは退屈そうだった。視力が低めの私でも、彼女の顔色はよく分かる。試合前には張り切っていたが、それだけに出鼻を挫かれたようなものだろう。彼女の使う技の正体を暴いてやろうと思っていた私も同様だ。
ふと、私は持参していた書物に目をやった。表題は『貧乏旅行のススメ』……この町の本屋で購入したものだ。野宿の方法や下町での宿の探し方、およびそこでの思い出などを面白おかしく紹介した内容である。普段このような本はあまり読まないのだが、著者名を見て思わず手にとってしまった。
……【風来姫】レミィナ。
あの謎多きリリムの記した書物。フランチェスカと関係を持った以上、いつか私も彼女に出会う気がするのだ。どのような人物か知っておこうと思ったのだが、著書を読んでみて分かったことは彼女がひたすらに奔放で、なおかつ物好きということくらいだった。序文に『私はリリムの中では弱い方だが、貧乏旅行に関しては姉妹の誰にも負けない』と書いているが、そもそも貧乏旅行をするリリムが他に存在するか疑問である。あらゆる事柄に興味を示し、体験しないと気が済まない性分らしい。
そして珍事を嗅ぎつけては首を突っ込み、引っかき回す。ある意味魔物らしいが、傍迷惑な女とも言えるだろう。私の父なら、彼女をどう評しただろうか。数百年間退魔剣を伝承してきた我が家の目に、この風来姫はどう映っただろうか。復讐に目がくらみ外道に堕ちた私には、もう同じ目線で見ることはできない。
その時、背後に近づいてくる気配を感じた。明らかに私に視線を据えて接近してくるが、殺気は感じられない。ちらりと目をやると、若い男が一人歩み寄ってきた。整った顔立ちだが、顔の右側反面に大きな目立つ痣がある。身のこなしは隙だらけで、明らかに荒事と縁の無い堅気の人間だったが、目つきは異様に鋭い。
「……青いクジラを見なかったか?」
低い声で、男は問いかけてくる。
「奴なら南へ泳いでいった」
私はゆっくりと答えた。この町にもツェリーニ・ファミリーの協力者がいるという話、そしてそれと会う際の合い言葉は予め聞いていたのだ。
すると痣の男は懐から紙切れを取り出し、無言で私に突き出してくる。恐らくファミリーからの伝言だろう。私が手を伸ばして受け取った瞬間、もう用はないとばかりに踵を返し、足早に立ち去っていった。寡黙で無表情、連絡係には適した男のようだ。
眼鏡のずれを直し、私は折りたたまれた紙を開いた。
……予定繰り上げ、作戦行う。早急に町を出よ。港に迎えの用意有り。 フィベリオ・ルジャーノ……
「……もう始まるのか……!?」
私の心臓が大きく跳ねた。恐怖か、それともついに仇敵に会えることへの歓喜か、体が微かに震える。この町の港まで迎えを寄越したということは、出立後そのままあの男の暗殺に向かうこととなるだろう。フィベリオも自ら来ている可能性が高い。
目を凝らして選手席を見ると、フランチェスカも小さな紙切れを見ているようだった。他の連絡係が彼女にも伝言を渡したのだろう。事態は急を要するらしい。
「上等……」
この故郷を思わせる平和な町を去り、元の悪徳渦巻く世界へ還っていく。そこが私の居場所と決めたし、何よりそこでやることがあるのだ。
私は立ち上がった。
12/01/18 22:54更新 / 空き缶号
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