ころもがえ
「……ああー、クソッタレ」
何の意味もなく、悪態を吐いちまう。婆ちゃんが生きてたら注意されただろう。汚い言葉を使うほど、幸せが逃げるって。
だがまあ、今吐き出した言葉のお陰で、不思議と心が落ち着いた。
落ち着いてみると、なんか周りが真っ白なことに気づいた。見えるのは、俺が座っている長椅子と、近くにある柱っぽい影。他は霧が酷くて見えやしない。そもそもここはどこだ?
まあ、どうせ夢でも見てるんだろう。でなきゃ俺の周りがこんなに静かなわけがない。
と言っても、あたりの温度やら、なんか気分の良いニオイやら、座ってる椅子の冷たさやら……夢にしちゃ妙に感覚が鮮明だ。明晰夢ってやつなのか。何にせよ悪い気分じゃないし、目が覚めるまでのんびりしているか。むしろ普段が騒がしすぎるんだ、家といい、学校といい。
今は静かだ。夢でもいいから、たまにはこういう時間が欲しい。今聞こえるのは……カツン、カツンって足音だけだ。
「……おはようございます」
可愛い声がした。
俺より大分年下の女の子だ。それだけなら別にどうってことはない、俺みたいな奴にも挨拶してくれる小学生はいる。だが今霧の中からやってきたその子は、ランドセルを背負ったその辺の小学生とは違って、着物姿だった。七五三……って歳でもないだろうに、緑色の綺麗な着物を着ている。帯は白いモミジの柄が入っていて、足袋と下駄を履いている。いや、下駄じゃなくて雪駄ってやつか?
「……おう」
軽く会釈を返すと、女の子はにっこり笑った。くりっとした目の可愛い子だ。後頭部に編んだ髪で二つ輪を作った髪型で、前髪は揃っていて、着物もよく似合ってる。俺に美的感覚なんてもんは無いが、この子はちゃんと身なりを考えているんだと分かる。
と、同時にだ。俺は改めて、これは夢だと思った。女の子の耳はつんと尖っている。まるでマンガに出てくるエルフみたいに。
その子は手に籠を持っていた。藤か何かを編んだ昔ながらの入れ物だ。それをすっと、俺の前に差し出してくる。
「おひとつ、どうぞ」
小さな手からぶら下がった籠には、紙で包んだ飴らしき物がたっぷり入っていた。ちょうど喉が渇いていたし、気の利いた夢だ。
「ありがとよ」
一つもらって、包みを剥がす。透き通った金色の球を口に放り込むと、メープルシロップみたいな甘さが広がった。美味い飴だ……と思っていたとき。
急に、周りの霧が晴れた。目の前に見えるのは、線路。俺が座っているのは、駅のホームにあるベンチだった。
と言っても、夢だけに駅の光景も異様だ。まずホームの天井を支える柱が、木だ……単に木製ってことじゃなくて、生きた木が天井に枝と葉っぱを広げて支えている。まるで森の中に駅が取り込まれてるみたいだ。さっきから感じていたニオイは、森のニオイだったみたいだ。
駅の名前は、『唐紅郷』と書かれていた。『からくれないのさと』と読み仮名が振られている。
「……あの」
女の子が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「お兄様……もしかして、迷子ですか?」
「あー、似たようなもんかもな」
自分の夢で迷子ってのもおかしいが。
「まあ、たまには迷子になるのも悪くねぇよ」
夢とはいえ、子供に心配かけちゃいけないと思って答えた。けど本当にここ何年かは、いっそ迷子になりたい日々を過ごしているな。学校辞めて中卒で働く羽目になるわ、暴れる兄貴をなだめなきゃいけないわ、親はしょぼくれる一方だわ……もうずっと夢の中で迷子になっていたい。
「でも、お腹空いてませんか?」
相変わらず心配そうだった。優しい子なんだな、と思いながら、夢の中でも腹が減っていることに気づいた。飴は美味いが、これ一つでどうなるもんでもない。
「まあ確かに。駅なら立ち食い蕎麦とかないか?」
「……それでしたら」
すとん、と俺の隣に座る女の子。にっこりと笑顔を浮かべているのが、何つーか、眩しい。
「わたしが、何か朝ごはんをお作りいたします」
「え……いいの?」
「はい。迷子の方のお世話をするのも、わたしたちの役目です」
そう言って笑うその子から、ふわっと良いニオイがした。もらった飴と似ていたが、もっと爽やかな感じの甘いニオイだ。笑顔にニオイがあるならこんな感じか、なんて思った。
こんなちっちゃい女の子に飯を奢ってもらうなんて、と思わなくもないが、どうせ夢だしな。
「大事なお使いがあるので、それが終わってからですけど。すぐに済んじゃいますから」
「ありがとう、助かるよ。じゃあその、お使いとやらの手伝いでもできたら……」
「いえ。ほんの小さな物を受け取るだけですから。……あっ」
ふと、何か思い出したような声を出す。
「わたし、シノといいます」
「ああ、俺は啓二な。よろしく」
頭をポンポン撫でてやると、シノちゃんは嬉しそうに笑った。もし妹がいたら、こんな感じだったんだろうか。いや、あの家に生まれたら可哀想か。
「シノちゃん、お使いってのはどこまで行くんだ?」
「ここです。朝一の汽車で、大切なものが運ばれて来るのです」
「へえ。電車じゃなくて汽車なんだな」
シノちゃんの格好といい、レトロな雰囲気が漂っている。実際にそんな時代から生きているわけでもないのに、無性に懐かしさを感じるのはどうしてなのか。
「わたしがこのお使いをしっかりやらないと、お姉さま方やみんなの衣替えができないのです」
衣替え、ってことは服を受け取るのか。こんな小さい子が持ち運べる量なのか?
そう思ったとき、列車の音が聞こえた。線路をガタゴト走る音は聞き慣れているが、それだけじゃなく蒸気の音もした。
「あ、来た」
シノちゃんが立ち上がって手を振った。黒鉄色のSLが煙を上げながら、ホームへ近づいてくる。運転席(汽車の場合は運転台だったか?)から、作業着姿の女が手を振り返して、すぐに引っ込んだ。列車は甲高いブレーキ音を立てながら減速して、俺たちの前を通り過ぎていく。
シノちゃんが後を追いかけたから、俺も続いた。下駄がカラコロと足音を立てる。
汽車に連結されているのは客車じゃなく貨車で、白ペンキで『米穀』の文字が書かれていた。先頭車両は俺たちの座っていたベンチから、二十メートルばかり離れた場所で停まった。近くに立つと、鉄とか煤とか、色々な物が混ざったようなニオイが鼻をついた。
「機関士さん、おはようございます」
「おはよう、樹霊さん」
運転手は綺麗な女の子、多分俺と同年代くらいだ。作業着に似合わない、ピカピカの赤い靴を履いている。中にはもう一人、男の機関士もいるみたいだ。
彼女は俺の方をチラッと見た後、シノちゃんに小さい箱を手渡した。マッチ箱くらいの紙の箱だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
笑顔で受け取って大事に袂へ入れると、シノちゃんは飴の入った籠を差し出した。
「飴、どうぞ!」
「ありがとう、二つもらうね」
運転手が飴玉を掴み取ると、シノちゃんは俺に向き直った。
「それじゃ、私のお家へ行きましょう」
「もういいのか?」
「はい。これで衣替えができます」
シノちゃんはホッとした様子だ。ただ小さな箱を受け取って、飴を渡して、それだけで大事なお使いとやらは終わってしまったらしい。まあ、妙に鮮明だけど、夢だしな。
運転手さんと手を振って別れて、シノちゃんは俺をホームの端へ連れて行った。生きた木が天井を支える不思議な駅で、一際大きな木が立っている。
「えっと……お兄様」
少し気恥ずかしそうに、小さな手が俺に差し出された。
「お手を、つないでください」
「ああ……」
言われるままにそっと握ってみると、白い手は柔らかくて、何というか……儚げだ。すべすべとした綺麗な女の子の手に対して、俺の手はボロボロだ。もしスポーツにでも打ち込んで豆だらけになった手なら、それを誇りにも思えるんだろうが、俺は自分の手がひたすら情けない。
だがその手を、シノちゃんはにっこり笑って握り返してくれた。意外と力は強い。
「それじゃ、行きますね」
シノちゃんが空いた方の手で木に触れた瞬間、妙な感覚が体を包んだ。冷たさと暖かさが入り混じったような、矛盾した感触だった。
そして次の瞬間、木の枝の揺れる音が聞こえた。
「はい、到着です」
軽やかなシノちゃんの声。さっきまでいた駅とはガラッと風景が変わっていた。
足元は土の……いや、一面を苔が覆う緑の地面に、曲がりくねった細い道が伸びている。森、というより樹海の中だ。生い茂った枝葉が風に揺れるたび、木漏れ日がキラキラと苔の上に煌めいた。
木から出ているのか、苔のものなのか、良い香りがした。頭上を見上げると、小鳥が木々の間を縫うように飛んでいく。久しぶりだ、こんな所に来たのは。ほとんど休みなく働かなきゃいけなかったから。
「こっちです」
シノちゃんに手を引かれ、細道を歩き始める。一歩ごとに足取りが軽くなるような気がして、シノちゃんの方も少しはしゃいでいるような足取りになっていく。青々とした葉が風に揺れて、地面に映る影も揺れた。
道の脇には小さなキノコも生えていて、見た目は食べられそうな物だったり、赤いのや真っ白なのもあった。円形に生えているキノコもあって、これがフェアリーサークルってヤツかと納得したりする。
「お兄様は、森は好きですか?」
「ああ、今好きになったよ」
「ふふっ。嬉しいです」
にっこり笑うシノちゃんは、何だか森の緑の中にいるのが自然な存在に見えた。野鳥、例えばフクロウやカワセミみたいなのが都会のど真ん中にいたら不自然だろう。シノちゃんもそんな感じで、さっきみたいに木がニョキニョキ生えた変な駅ならともかく、都心のデカい駅やメトロにでもいたら場違いに見える……古い言葉を使うなら「浮世離れ」した女の子だ。
手のひらは小さく儚げに見えるのに、俺の手を握る力はしっかりしている。まだ子供なのにどこか気品があるというか、見ていたくなる魅力もあった。
「……あった」
シノちゃんが小さく呟いた。森の中にぽつんと、小さな石灯籠が建っていた。人工物ではあってもすっかり苔むして、青々とした森の中で自然に佇んでいる。
「これに、火を点けるんです」
先ほど受け取った小箱を取り出して開けると、中身は本当にマッチだった。小さな手で一本だし、箱の側面へ擦る。
が、なかなか点かない。やり方が下手なせいだ。しっかり者に見えて、こういう一面もあるのか。
「ぶきっちょだなぁ。貸してみ」
小さな手からマッチを受け取って、鋭角に箱へ擦り付ける。前にやったのはいつ以来だか分からないが、ポッと火が灯った。
「ほら、気をつけてな」
「ありがとうございます!」
ホッとした様子で、燃えるマッチを受け取るシノちゃん。小さな火は石灯籠に近づくと、速やかに燃え移った。すると、オレンジ色だった火が次第に変色して、真っ赤になった。小学校の頃に自由研究で炎色反応を調べたが、灯籠に何か変わった燃料でも入っていたのか。
そう思ったとき。目の前に、真っ赤な木の葉がひらりと落ちた。二枚、三枚、赤く染まった葉が舞った。
ハッと周りを見て息を呑んだ。さっきまで青々としていた森が、まるで燃え上ったみたいに紅葉していた。風が吹いて、葉が舞い落ちて、地面がどんどん赤くなっていく。
「これが、森の衣替えです」
シノちゃんが嬉しそうに笑う。赤い森の中に、緑の着物を着た姿がよく映えていた。
「さあ、次のところへ行きましょ」
再びシノちゃんに手を引かれ、細い道を歩いて行く。すると、まだ青々とした葉が茂っている所へ出て、少し進むとまた石灯籠があった。
「お兄様、また火を点けてもらえますか?」
「ああ、分かったよ」
またマッチを擦って手渡し、シノちゃんが石灯籠に火を移す。今度は黄色い炎がゆらゆらと燃え上がって、辺りのイチョウの葉が黄色く染まった。
イチョウは太古に大繁栄した植物だ、という話をふと思い出す。恐竜もこんな景色を見たのかな、なんてことを考えた。
その後も、俺たちは森の中を歩いては火を灯し、紅葉を広げていった。マッチ一本で辺りの木々が赤や黄色に染まるのは壮観だった。その度にシノちゃんが嬉しそうにする様子も可愛かった。
やがて、マッチは最後の一本になった。同じように俺が着火して、シノちゃんがその火を石灯籠へ移す。最後に残った緑の一角が、綺麗に紅葉した。
「ありがとうございます、お兄様」
仕事をやり終えて、満足げに微笑むシノちゃんにも、変化が起きていた。森の紅葉と連動するように、緑の着物が赤に変わっていたのだ。
「赤も似合うな、シノちゃん」
「えへへ。嬉しいです」
照れ臭そうに笑いながら、「こっちです」と手招きする。機嫌良さそうにくるくる回ってはしゃぎ、ほっぺたもなんとなく赤くなっているように見えた。
あんまり可愛いから、近寄ってそのほっぺをプニッとつついてしまった。すべすべで柔らかい。
「えいっ」
シノちゃんもお返しとばかりに、手を伸ばして俺の頬をつついてくる。そんなことをしながら、一本のモミジの木の下に着いた。他の木より小ぶりな、可愛らしい木だ。不思議と、シノちゃんの姿がその下によく馴染む。
何の意味もなく、悪態を吐いちまう。婆ちゃんが生きてたら注意されただろう。汚い言葉を使うほど、幸せが逃げるって。
だがまあ、今吐き出した言葉のお陰で、不思議と心が落ち着いた。
落ち着いてみると、なんか周りが真っ白なことに気づいた。見えるのは、俺が座っている長椅子と、近くにある柱っぽい影。他は霧が酷くて見えやしない。そもそもここはどこだ?
まあ、どうせ夢でも見てるんだろう。でなきゃ俺の周りがこんなに静かなわけがない。
と言っても、あたりの温度やら、なんか気分の良いニオイやら、座ってる椅子の冷たさやら……夢にしちゃ妙に感覚が鮮明だ。明晰夢ってやつなのか。何にせよ悪い気分じゃないし、目が覚めるまでのんびりしているか。むしろ普段が騒がしすぎるんだ、家といい、学校といい。
今は静かだ。夢でもいいから、たまにはこういう時間が欲しい。今聞こえるのは……カツン、カツンって足音だけだ。
「……おはようございます」
可愛い声がした。
俺より大分年下の女の子だ。それだけなら別にどうってことはない、俺みたいな奴にも挨拶してくれる小学生はいる。だが今霧の中からやってきたその子は、ランドセルを背負ったその辺の小学生とは違って、着物姿だった。七五三……って歳でもないだろうに、緑色の綺麗な着物を着ている。帯は白いモミジの柄が入っていて、足袋と下駄を履いている。いや、下駄じゃなくて雪駄ってやつか?
「……おう」
軽く会釈を返すと、女の子はにっこり笑った。くりっとした目の可愛い子だ。後頭部に編んだ髪で二つ輪を作った髪型で、前髪は揃っていて、着物もよく似合ってる。俺に美的感覚なんてもんは無いが、この子はちゃんと身なりを考えているんだと分かる。
と、同時にだ。俺は改めて、これは夢だと思った。女の子の耳はつんと尖っている。まるでマンガに出てくるエルフみたいに。
その子は手に籠を持っていた。藤か何かを編んだ昔ながらの入れ物だ。それをすっと、俺の前に差し出してくる。
「おひとつ、どうぞ」
小さな手からぶら下がった籠には、紙で包んだ飴らしき物がたっぷり入っていた。ちょうど喉が渇いていたし、気の利いた夢だ。
「ありがとよ」
一つもらって、包みを剥がす。透き通った金色の球を口に放り込むと、メープルシロップみたいな甘さが広がった。美味い飴だ……と思っていたとき。
急に、周りの霧が晴れた。目の前に見えるのは、線路。俺が座っているのは、駅のホームにあるベンチだった。
と言っても、夢だけに駅の光景も異様だ。まずホームの天井を支える柱が、木だ……単に木製ってことじゃなくて、生きた木が天井に枝と葉っぱを広げて支えている。まるで森の中に駅が取り込まれてるみたいだ。さっきから感じていたニオイは、森のニオイだったみたいだ。
駅の名前は、『唐紅郷』と書かれていた。『からくれないのさと』と読み仮名が振られている。
「……あの」
女の子が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「お兄様……もしかして、迷子ですか?」
「あー、似たようなもんかもな」
自分の夢で迷子ってのもおかしいが。
「まあ、たまには迷子になるのも悪くねぇよ」
夢とはいえ、子供に心配かけちゃいけないと思って答えた。けど本当にここ何年かは、いっそ迷子になりたい日々を過ごしているな。学校辞めて中卒で働く羽目になるわ、暴れる兄貴をなだめなきゃいけないわ、親はしょぼくれる一方だわ……もうずっと夢の中で迷子になっていたい。
「でも、お腹空いてませんか?」
相変わらず心配そうだった。優しい子なんだな、と思いながら、夢の中でも腹が減っていることに気づいた。飴は美味いが、これ一つでどうなるもんでもない。
「まあ確かに。駅なら立ち食い蕎麦とかないか?」
「……それでしたら」
すとん、と俺の隣に座る女の子。にっこりと笑顔を浮かべているのが、何つーか、眩しい。
「わたしが、何か朝ごはんをお作りいたします」
「え……いいの?」
「はい。迷子の方のお世話をするのも、わたしたちの役目です」
そう言って笑うその子から、ふわっと良いニオイがした。もらった飴と似ていたが、もっと爽やかな感じの甘いニオイだ。笑顔にニオイがあるならこんな感じか、なんて思った。
こんなちっちゃい女の子に飯を奢ってもらうなんて、と思わなくもないが、どうせ夢だしな。
「大事なお使いがあるので、それが終わってからですけど。すぐに済んじゃいますから」
「ありがとう、助かるよ。じゃあその、お使いとやらの手伝いでもできたら……」
「いえ。ほんの小さな物を受け取るだけですから。……あっ」
ふと、何か思い出したような声を出す。
「わたし、シノといいます」
「ああ、俺は啓二な。よろしく」
頭をポンポン撫でてやると、シノちゃんは嬉しそうに笑った。もし妹がいたら、こんな感じだったんだろうか。いや、あの家に生まれたら可哀想か。
「シノちゃん、お使いってのはどこまで行くんだ?」
「ここです。朝一の汽車で、大切なものが運ばれて来るのです」
「へえ。電車じゃなくて汽車なんだな」
シノちゃんの格好といい、レトロな雰囲気が漂っている。実際にそんな時代から生きているわけでもないのに、無性に懐かしさを感じるのはどうしてなのか。
「わたしがこのお使いをしっかりやらないと、お姉さま方やみんなの衣替えができないのです」
衣替え、ってことは服を受け取るのか。こんな小さい子が持ち運べる量なのか?
そう思ったとき、列車の音が聞こえた。線路をガタゴト走る音は聞き慣れているが、それだけじゃなく蒸気の音もした。
「あ、来た」
シノちゃんが立ち上がって手を振った。黒鉄色のSLが煙を上げながら、ホームへ近づいてくる。運転席(汽車の場合は運転台だったか?)から、作業着姿の女が手を振り返して、すぐに引っ込んだ。列車は甲高いブレーキ音を立てながら減速して、俺たちの前を通り過ぎていく。
シノちゃんが後を追いかけたから、俺も続いた。下駄がカラコロと足音を立てる。
汽車に連結されているのは客車じゃなく貨車で、白ペンキで『米穀』の文字が書かれていた。先頭車両は俺たちの座っていたベンチから、二十メートルばかり離れた場所で停まった。近くに立つと、鉄とか煤とか、色々な物が混ざったようなニオイが鼻をついた。
「機関士さん、おはようございます」
「おはよう、樹霊さん」
運転手は綺麗な女の子、多分俺と同年代くらいだ。作業着に似合わない、ピカピカの赤い靴を履いている。中にはもう一人、男の機関士もいるみたいだ。
彼女は俺の方をチラッと見た後、シノちゃんに小さい箱を手渡した。マッチ箱くらいの紙の箱だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
笑顔で受け取って大事に袂へ入れると、シノちゃんは飴の入った籠を差し出した。
「飴、どうぞ!」
「ありがとう、二つもらうね」
運転手が飴玉を掴み取ると、シノちゃんは俺に向き直った。
「それじゃ、私のお家へ行きましょう」
「もういいのか?」
「はい。これで衣替えができます」
シノちゃんはホッとした様子だ。ただ小さな箱を受け取って、飴を渡して、それだけで大事なお使いとやらは終わってしまったらしい。まあ、妙に鮮明だけど、夢だしな。
運転手さんと手を振って別れて、シノちゃんは俺をホームの端へ連れて行った。生きた木が天井を支える不思議な駅で、一際大きな木が立っている。
「えっと……お兄様」
少し気恥ずかしそうに、小さな手が俺に差し出された。
「お手を、つないでください」
「ああ……」
言われるままにそっと握ってみると、白い手は柔らかくて、何というか……儚げだ。すべすべとした綺麗な女の子の手に対して、俺の手はボロボロだ。もしスポーツにでも打ち込んで豆だらけになった手なら、それを誇りにも思えるんだろうが、俺は自分の手がひたすら情けない。
だがその手を、シノちゃんはにっこり笑って握り返してくれた。意外と力は強い。
「それじゃ、行きますね」
シノちゃんが空いた方の手で木に触れた瞬間、妙な感覚が体を包んだ。冷たさと暖かさが入り混じったような、矛盾した感触だった。
そして次の瞬間、木の枝の揺れる音が聞こえた。
「はい、到着です」
軽やかなシノちゃんの声。さっきまでいた駅とはガラッと風景が変わっていた。
足元は土の……いや、一面を苔が覆う緑の地面に、曲がりくねった細い道が伸びている。森、というより樹海の中だ。生い茂った枝葉が風に揺れるたび、木漏れ日がキラキラと苔の上に煌めいた。
木から出ているのか、苔のものなのか、良い香りがした。頭上を見上げると、小鳥が木々の間を縫うように飛んでいく。久しぶりだ、こんな所に来たのは。ほとんど休みなく働かなきゃいけなかったから。
「こっちです」
シノちゃんに手を引かれ、細道を歩き始める。一歩ごとに足取りが軽くなるような気がして、シノちゃんの方も少しはしゃいでいるような足取りになっていく。青々とした葉が風に揺れて、地面に映る影も揺れた。
道の脇には小さなキノコも生えていて、見た目は食べられそうな物だったり、赤いのや真っ白なのもあった。円形に生えているキノコもあって、これがフェアリーサークルってヤツかと納得したりする。
「お兄様は、森は好きですか?」
「ああ、今好きになったよ」
「ふふっ。嬉しいです」
にっこり笑うシノちゃんは、何だか森の緑の中にいるのが自然な存在に見えた。野鳥、例えばフクロウやカワセミみたいなのが都会のど真ん中にいたら不自然だろう。シノちゃんもそんな感じで、さっきみたいに木がニョキニョキ生えた変な駅ならともかく、都心のデカい駅やメトロにでもいたら場違いに見える……古い言葉を使うなら「浮世離れ」した女の子だ。
手のひらは小さく儚げに見えるのに、俺の手を握る力はしっかりしている。まだ子供なのにどこか気品があるというか、見ていたくなる魅力もあった。
「……あった」
シノちゃんが小さく呟いた。森の中にぽつんと、小さな石灯籠が建っていた。人工物ではあってもすっかり苔むして、青々とした森の中で自然に佇んでいる。
「これに、火を点けるんです」
先ほど受け取った小箱を取り出して開けると、中身は本当にマッチだった。小さな手で一本だし、箱の側面へ擦る。
が、なかなか点かない。やり方が下手なせいだ。しっかり者に見えて、こういう一面もあるのか。
「ぶきっちょだなぁ。貸してみ」
小さな手からマッチを受け取って、鋭角に箱へ擦り付ける。前にやったのはいつ以来だか分からないが、ポッと火が灯った。
「ほら、気をつけてな」
「ありがとうございます!」
ホッとした様子で、燃えるマッチを受け取るシノちゃん。小さな火は石灯籠に近づくと、速やかに燃え移った。すると、オレンジ色だった火が次第に変色して、真っ赤になった。小学校の頃に自由研究で炎色反応を調べたが、灯籠に何か変わった燃料でも入っていたのか。
そう思ったとき。目の前に、真っ赤な木の葉がひらりと落ちた。二枚、三枚、赤く染まった葉が舞った。
ハッと周りを見て息を呑んだ。さっきまで青々としていた森が、まるで燃え上ったみたいに紅葉していた。風が吹いて、葉が舞い落ちて、地面がどんどん赤くなっていく。
「これが、森の衣替えです」
シノちゃんが嬉しそうに笑う。赤い森の中に、緑の着物を着た姿がよく映えていた。
「さあ、次のところへ行きましょ」
再びシノちゃんに手を引かれ、細い道を歩いて行く。すると、まだ青々とした葉が茂っている所へ出て、少し進むとまた石灯籠があった。
「お兄様、また火を点けてもらえますか?」
「ああ、分かったよ」
またマッチを擦って手渡し、シノちゃんが石灯籠に火を移す。今度は黄色い炎がゆらゆらと燃え上がって、辺りのイチョウの葉が黄色く染まった。
イチョウは太古に大繁栄した植物だ、という話をふと思い出す。恐竜もこんな景色を見たのかな、なんてことを考えた。
その後も、俺たちは森の中を歩いては火を灯し、紅葉を広げていった。マッチ一本で辺りの木々が赤や黄色に染まるのは壮観だった。その度にシノちゃんが嬉しそうにする様子も可愛かった。
やがて、マッチは最後の一本になった。同じように俺が着火して、シノちゃんがその火を石灯籠へ移す。最後に残った緑の一角が、綺麗に紅葉した。
「ありがとうございます、お兄様」
仕事をやり終えて、満足げに微笑むシノちゃんにも、変化が起きていた。森の紅葉と連動するように、緑の着物が赤に変わっていたのだ。
「赤も似合うな、シノちゃん」
「えへへ。嬉しいです」
照れ臭そうに笑いながら、「こっちです」と手招きする。機嫌良さそうにくるくる回ってはしゃぎ、ほっぺたもなんとなく赤くなっているように見えた。
あんまり可愛いから、近寄ってそのほっぺをプニッとつついてしまった。すべすべで柔らかい。
「えいっ」
シノちゃんもお返しとばかりに、手を伸ばして俺の頬をつついてくる。そんなことをしながら、一本のモミジの木の下に着いた。他の木より小ぶりな、可愛らしい木だ。不思議と、シノちゃんの姿がその下によく馴染む。
25/09/22 22:00更新 / 空き缶号
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