連載小説
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おにぎり

「アカネちゃん、スカート! スカート!」

 霧の中からトモネちゃんの声が聞こえた。アカネちゃんはハッとスカートを押さえ、天蓋から飛び降りた。空中で百八十度逆転し、ストンと着地する。
 顔を真っ赤にして俯いていた。

「もう、アカネちゃんたら……トモネがついてなきゃダメなんだから」

 いつの間にか、トモネちゃんが戻っていた。手に三人分のおにぎりを抱え、クスクスと笑っている。
 アカネちゃんはそっぽを向いてしまった。

「アカネの方が、お勉強はできるもん……」

 恥ずかしがって拗ねる姿を見て、思わず笑ってしまった。だが頭の中では、見えた光景が繰り返されていた。その頃は性的な知識が無かったから、「女の子って本当にちんちん無いんだ」なんてことも思った。だけどそれより、それまで生きてきて感じたことのない感情が芽生えていた。心拍数が上がって、今見えたものが頭から離れないという感覚が。

 そんな僕に、トモネちゃんがおにぎりを差し出した。笹の葉に3つほど包まれた、小ぶりなおにぎりだ。

「ほら、食べよ?」

 再び、双子に挟まれる形で座った。二人が包みを解いて、海苔が巻かれたおにぎりを取り出すと、僕まで無性に空腹感が湧いてきた。
 二人は美味しそうにおにぎりを頬張る。白い米粒がツヤツヤと輝いていた。まあ、毒じゃないだろう……そんな根拠のないことを思いながら、海苔の香りのするそれを一口食べた。

「……!」

 その途端、異変が起きた。味が変だったわけでも、腹痛を催したわけでもない。
 視界を覆っていた霧が、一気に晴れたのだ。

 目の前にあったのは、今しがた乗ってきた電車……いや、乗っているときから薄々気づいてはいたけれど、黒鉄色の蒸気機関車だった。映画や模型でしか見たことのない、古い時代の鉄道がそこにあった。
 笛の音が鳴り、汽車はゆっくりと動き出す。煙突から蒸気を吐き、紺色の客車を連ねて、ホームから出て行く。

 汽車がいなくなった後、真正面に広がっていたのは海だった。どこまでも続く海の上に駅が浮かび、その周りに半分沈んだような和風の建築物が点在していた。家の他には赤い鳥居が、テレビで見た広島の神社のように水面から突き出して、その向こうに社があった。海鳥が空を渡り、波がしぶきを上げる。
 線路はその海の上にかかる、長い橋を通っていた。遠くにも同じような橋と、煙を上げる蒸気機関車が見えた。

 ふいに、頬を涙が伝った。何だかよく分からない感情が、波のように押し寄せてきたのだ。

「どうしたんですか?」
「シャケ、きらいだった?」

 双子に心配され、僕は涙を拭いて「なんでもない」と答えた。本当になんでもないかは自分でも分からなかったけど、女の子にこれ以上情けないところを見せたくなかった。父親のような男になってしまいそうな気がして。

 本当に、ここは違う世界なんだ。そう思いながらおにぎりを飲み下して、食べ続けた。とにかく空腹だったし、女の子二人に挟まれている気恥ずかしさを誤魔化したかった。
 双子はそんな僕をじっと見つめながら、自分たちのおにぎりを食べていた。赤い瞳の視線は何だかゾクゾクした。

「……アカネちゃん。二人でコウキくんをお世話しよっか」
「そうだね、トモネちゃん……」

 食べ終わった後、二人はふいにそんなことを言った。

「え……お世話、って……?」
「えっと。コウキくんが現世へ帰るには、もっと大きな町へ行かなきゃいけないんです」

 アカネちゃんが、近くにかけられた路線図を指差した。小学生には難しい漢字も多かったが、駅の名前らしきものが沢山書かれていた。元の世界へ帰る方法はあるんだ、と思うと少し気が楽になった。まさか漫画やアニメみたいに、いきなり違う世界へ来てしまうなんてことが本当に起きるなんて。
 でも何故か、帰るのが惜しいような気もした。今思えば、もう人間社会での暮らしに見切りをつけたいとどこかで願っていたのかもしれない。我が子が行方不明になれば、両親もそれぞれ自分たちの行いを悔いるのではないか……なんて考えもあったかもしれない。

「けど、コウキくんのいた所とはまったくちがう世界ですから、迷子になっちゃいますし」
「だから二人で、お世話してあげるの」
「そ、そんなのいいから!」

 ニコニコと笑顔で言う二人に、僕は慌てた。
 オバケだというこの双子は、良い奴らなのかもしれない。もしかすると人間の女……例えば僕の母親より、オバケの女の子の方が良い奴なのかもしれないとも思った。けれどやっぱり、恐怖もあった。彼女らが人間ではないからか、単に女だからか、または……美しすぎたからか。

「行き方だけ教えてくれれば大丈夫だよ!」
「でも……」
「本当に大丈夫だから! 一人で電車で遠くまで行ったこと、何度もあるし!」

 それは本当のことだった。両親と一緒にいるのが嫌で、また父親のような弱い男になりたくないという思いから、休みの日にはよく一人旅をしていたのだ。それでも違う世界で同じことができたかと言われると、不安の方が大きかった。
 しかしそれ以上に、目の前にいる可愛らしい双子へ、漠然とした恐怖を感じていたのである。

 二人は心配そうに僕を見た後、互いに目配せして、微笑んだ。

 そして。

「ふーっ」
「ふーっ」

 また、両耳に息を吹きかけられた。ゾクゾクッとしたが、おにぎりを食べたばかりで海苔と梅干しの臭いがしたせいか、さっきよりは正気を保っていられた。
 けれど。

「ちゅっ」
「ちゅっ」

 柔らかい唇が耳に触れた瞬間、また全身の力が抜けて脱力してしまった。ベンチへもたれかかる僕を見て、双子たちはクスクスと笑った。

「ほらぁ。こんなカンタンにへにゃへにゃになっちゃうんじゃ、一人だと危ないよ? 雷獣さんとか牛鬼さんとか、もっとこわいオバケのお姉さまに捕まっちゃうよ」
「コウキくんみたいなカワイイ男の子は……ワンちゃんみたいに、首輪つけられちゃうかもしれませんよ」

 二人は微笑みながら、僕の頭を撫でて、立つように促した。
 抵抗する気さえなくなってしまった僕は二人に手を引かれ……ぼんやりとしていて、その直後のことはよく覚えていない。確か、アカネちゃんが駅員さんにいろいろ聞いていた気がする。現世へ帰るための汽車の時間と、どこの駅から乗れるか。何時にこの駅を出れば間に合うか、とか。

 結局、僕は二人の家に連れて行かれることになった。今からだと汽車の時間に間に合わないから、明日の朝出発しよう、ということで。
 駅を出た後、冷たい風が吹く海の上、大きく曲線を描いた橋を渡る。他に人はまばらだったが、下半身が白い蛇の女性とすれ違ったのを覚えている。爬虫類はあまり好きではなかったけど、その人からは不思議と恐怖や気持ち悪さを感じなかった。
 双子たちは裸足でぺたぺたと歩いて、足の裏は痛くも冷たくもないようだった。

 いくつか橋を渡って、彼女らの家に着いた。お屋敷、と呼べるくらいには大きくて、小さな島の上にあった。

「ほらほら、上がって……」
「お茶とか用意しますね」

 玄関から上がると、木や畳の匂いがした。どこか懐かしく、落ち着く匂いだ。

 少し広い、囲炉裏のある部屋へ案内された。二人がパンパンと手を叩くと、たちまち炭に火がついた。外は寒かったから温かさが気持ち良い。
 二人は自分の一度自分たちの部屋へ消えると、学校の制服から着物に着替えてきた。オレンジ色の温かそうな着物……ただ足は相変わらず、裸足。普段見慣れない服だったせいか、また胸が高鳴った。

「さあさあ、どうぞー」
「熱いから気をつけてくださいね」

 湯気を立てるお茶が湯呑みへ注がれ、目の前に置かれる。香ばしい、良い香りだ。冷ましながら少し飲んでみて、生まれて初めてお茶を「美味しい」と思った。その頃はただ食卓に出てきたから飲むだけで、美味しいから飲むものだと思っていなかった。

「このお茶、おいしいでしょ? お父さまとお母さまが送ってくれたの」

 トモネちゃんもお茶を飲んで、ほっと息を吐く。そういえば大きな家なのに、他に人の気配がしなかった。

「……お父さんとお母さんは、家にいないの?」
「うん。いっしょにいろいろな所でお仕事してるの」
「すっごく仲良しで、いつもくっついてはなれないんですよ」

 それを聞いて、急に嫌な気分になった。二人のせいではなく、自分の両親のことが頭をよぎったからだ。浮気女と、見て見ぬ振りをする父親。

「……どうしたの?」

 顔に出ていたのか、双子は心配そうに僕を見ていた。なんでもない、と答えたけど、頭の中にモヤモヤは広がっていく。何故僕の両親はそうじゃないんだろう、と。もっと酷い親の元に生まれた子供もいただろうけど、それは関係無い。僕の苦しみは僕のものだ。

 双子たちはお茶を飲みながら、赤い瞳でじっと僕を見つめる。そしてふいに、トモネちゃんの方が立ち上がった。

「おもてなし思いついた! ちょっと待っててね」

 そう言うなり、彼女は襖を開けて他の部屋へ消えた。

 ふと、その近くの柱に目が止まる。わざと彫られたらしい傷がいくつかあった。隣に『知音』『朱音』と二人の名前も彫ってあり、彼女たちの身長に合わせてつけられたものだと分かった。
 祖父母の家に行ったとき、僕も同じように柱へ身長を彫られた。次に来たときどれくらい大きくなっているか楽しみだ、と祖父は言ってくれた。

 あの頃は、母さんもあんなんじゃなかったのに。

23/02/22 21:39更新 / 空き缶号
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