ふたご
あのときの僕は、家にも小学校にも居場所がなかった。浮気する母親、それを知りながら見て見ぬ振りをする父親に嫌気がさしたまま、ただ生きていた。大人になったら何になりたいとか、そういうことを本気で考えることもなく。たまに何かに不満をぶつけ、後は虫か何かのように、生きるべくして生きていた。
それが変わる日は、唐突にやってきた。何の前触れもなく、知らない列車の中で目を覚ましたのだ。
「……あ、おきた?」
「……うん、おきたね」
ガタゴトと揺れる、木でできた車内。向かいの席から、女の子二人がこっちを見ていた。僕と同い年くらいの、知らない小学校の制服を着た子たちだ。とても可愛い女の子たちだったけど、その頃は母親のせいで女性不信気味だったから、じっと見られて良い気はしなかった。
電車なんか乗ったっけ、と思って辺りを見回しても、窓の外には何も見えなかった。真っ白な霧が立ち込めていたのだ。客車の内装も妙に古臭いというか、床や天井も木でできていたし、微かに「シュッ、シュッ」と蒸気の音がした。
夢なのか、と思った。けど体に伝わる振動も、微かに香る木の匂いも、全てリアルだった。手を抓ったりしてみても、痛いだけで何も変わらない。
「やっぱり、神隠しにあったのかな……?」
「きっとそうだね……」
女の子たちは二人で何かを話しながら、ランドセルから出したノートを見ている。
「えっと……『神隠しされた人に会ったら、まずはお話できるよう、おちついてもらいましょう』」
「おちついてもらうのって、どうするのがいいかな……」
「うーん……『ゆーわくごっこ』、とか……?」
「あっ、そっか。されるとふにゃ〜ってなるもんね……」
今いるのがどこなのか、この列車は何なのか、二人に尋ねればよかっただろう。でも繰り返すように女性不信気味だった僕は、別の車両へ移ろうと席を立った。誰か大人の人を探そう、列車なんだから車掌さんもいるだろう……そう思って。
「あっ、待って」
両側から手を掴まれた。僕より小さくて、すべすべとした白い手。振り払おうとしたのに、何故か胸がドキンと鳴って、体が動かなかった。
すると今度は、ふいに耳元へ顔が近づいてきた。
「ふー」
「ふーっ」
両方の耳へ、息を吹きかけられる。思わず「ふぁっ」と情けない声が漏れた。二人の吐息は優しく、くすぐったくて、温かくて……甘い匂いがした。
「ちゅっ」
「ちゅっ」
そのまま耳に唇が触れた。途端に体から力が抜けてしまう。
「わっ!?」
崩れ落ちそうになった僕の体を、二人はびっくりしながらも支えてくれた。
「ゆーわく成功したから、わたしたちの勝ち……だね」
「ふふっ、へにゃへにゃになっちゃった……」
ぺたぺたと足音を立てながら、二人が僕をゆっくりと座席に戻す。いや、自分たちが座っていた席の方へ座らせて、二人で僕を挟んで座った。子供だったとはいえ、三人で座ると肩が触れ合うくらいで、胸の高鳴りが止まらなかった。
両側から、彼女たちが顔を覗き込んできた。二人の顔はそっくりで、一目で双子なんだろうと分かる。どちらもおかっぱ頭の黒髪に、透き通るような白い肌。くりくりとした目。瞳は……赤かった。父親が飲んでいたワインみたいな、深みのある赤色だ。
とても可愛くて、綺麗な双子の姉妹……現実ではないと思ってしまうくらいに。
「えっと。名前、よめる?」
彼女たちは黒い制服についた名札……それぞれ『知音』『朱音』と書かれたそれを指差した
「トモネ、っていうの。よろしくね」
「アカネ、っていいます」
小さな、でもしっかり聞こえる声で、双子は名乗る。顔は息がかかりそうな距離。小さな白い手は、僕の手を握ったままだ。
「あなたの、お名前は?」
「お名前、おしえてください」
「……コウキ」
口からすっと言葉が出た。女なんて嫌いだ、といつも思っていたのに、何故か素直になれてしまった。不思議な赤い瞳のせいか、それとも鈴が鳴るような声のせいか。それとも、耳にされたキスのせいか。
僕が名乗ったことに二人は喜んで、再びノートをめくる。
「コウキくん、ですね……えっと、お名前がわかったら……『食べ物をあげましょう。この世界のものを食べないと、まわりが見えません』」
「アカネちゃん、何かもってる?」
「アメ、食べちゃったから……トモネちゃんは?」
「わたしもキャラメル、食べちゃった……」
二人で僕を挟んで話し合っているせいで、ささやき声が耳にくすぐったかった。
そうしている間に、座席に押し付けられるような力が体に加わった。外が霧でよく分からなかったけど、列車がスピードを落としたのだと気づいた。
「あっ……もう駅についちゃう」
「じゃ、いっしょにお昼食べればいいよね……?」
「うん、そうしよう」
やがて列車はゆっくりと減速して、体にぐっと力がかかる。相変わらず外は霧で覆われていたけど、微かにホームの柱のようなものが見えた。
完全に静止すると、双子たちは僕の手を引いて立ち上がった。赤いランドセルを背負い、ぺたぺたと足音を立てながら出口へと向かう。二人が裸足だということにそのとき気づいた。座っているときに脱いで忘れた、というわけでもないようで、白い素足で躊躇いなく歩いていく。僕の手を引いたまま。
「さ、おりましょ」
「ごはん食べましょうね」
手でがらっとドアを開け、降りるように促される。足元くらいは何とか見えたし、二人が手を握っていてくれたから、客車とホームの間に落ちるようなことはなかった。
ホームも霧で満ちていて、どこが出口なのかすら分からない。ただ波のような音が聞こえて、海が近いことだけは分かった。少し肌寒い空気のおかげか、頭がだんだんスッキリしてきたけれど、周りが何も見えないのでは手を振りほどいて逃げ出すこともできなかった。
「ほら、ここにすわって」
僕をベンチへ座らせ、トモネちゃんが微笑んだ。
「トモネがご飯買ってくるから、アカネちゃんはいっしょにいてあげて」
「トモネちゃん、三人分持てる……?」
「へーきだよ。トモネ、お姉ちゃんだから」
胸を張るトモネちゃんを見て、アカネちゃんがくすっと笑う。
「じゃあ、おねがいします。お姉さま」
「うんっ、まかせて」
固い石でできたホームの上を、裸足のままぺたぺたと走っていった。すぐにその姿は霧に消え、僕の近くにいるのはアカネちゃん一人になる。右手はまた彼女に握られていて、空いた左手が妙に寂しかった。
「だいじょうぶですよ。アカネがいっしょですからね」
宥めるようにそう言われ、心の中を見られたのかと思った。空いた左手を露骨に凝視していたから、今思えば当然か。
少しの間、沈黙が流れる。今自分たちはどこにいるのか、彼女たちが何なのか、訊こうかと思った。
「……コウキくんは、『神隠し』って、知ってますか?」
アカネちゃんはゆっくりとした声で尋ねてきた。濃霧の中でも、すぐ近くにいる彼女の顔ははっきり見える。その中でも赤い瞳が、不思議と際立つ光沢を放っていた。
僕は首を横に振った。どこかで聞いたことはある単語だったけれど。
「えっと……コウキくんは人間さんですよね。人間さんたちが住んでいるのは、『現世』っていうところです」
ゆっくりと、優しく話してくれるアカネちゃん。
「ここは現世じゃなくて……アカネたちみたいなオバケとか、あとは神様とかが住んでいるところです。人間さんが迷子になって、ここへ来ちゃうことを『神隠し』っていうんです」
くりくりとした目が、じっと見つめてくる。「わかってくれたかな……?」という不安を少し感じる眼差しだった。
その頃はオバケとか神様とか、普段はあまり信じていなかった。だけど彼女たちの奇妙な雰囲気と、状況の異常さ……嘘だとも思えなかった。
僕が黙っていると、アカネちゃんは僕の手を離して立ち上がった。にっこり笑っている。
「じゃあ、オバケじゃないとできないこと、してみますね」
そう言って、彼女は近くにあった柱に向けて、ぴょんと飛んだ。まるで柱を蹴るように。
けれど彼女は蹴ったのではなく、『立った』。柱に両足をつけ、真横に向けて立っていたのだ。目を疑う僕の前で、そのまま柱の上に向かって、二本足で歩いていく。重力に逆らい、そのままホームの天蓋から逆さまに立ってみせた。
「えへへ……すごいですか?」
逆さに僕を見下ろし、微笑むアカネちゃん。けれど僕はその非現実的な光景よりも、別の所に目を惹きつけられていた。
彼女は重力に逆らって、天蓋から上下逆に立っていた。それでもおかっぱ頭の髪は重力に従い、下へ垂れている。
スカートもまた、同じだった。アカネちゃんの下半身……靴だけでなく、下着すら履いていない白い下半身が、丸出しになっていたのだ。
それが変わる日は、唐突にやってきた。何の前触れもなく、知らない列車の中で目を覚ましたのだ。
「……あ、おきた?」
「……うん、おきたね」
ガタゴトと揺れる、木でできた車内。向かいの席から、女の子二人がこっちを見ていた。僕と同い年くらいの、知らない小学校の制服を着た子たちだ。とても可愛い女の子たちだったけど、その頃は母親のせいで女性不信気味だったから、じっと見られて良い気はしなかった。
電車なんか乗ったっけ、と思って辺りを見回しても、窓の外には何も見えなかった。真っ白な霧が立ち込めていたのだ。客車の内装も妙に古臭いというか、床や天井も木でできていたし、微かに「シュッ、シュッ」と蒸気の音がした。
夢なのか、と思った。けど体に伝わる振動も、微かに香る木の匂いも、全てリアルだった。手を抓ったりしてみても、痛いだけで何も変わらない。
「やっぱり、神隠しにあったのかな……?」
「きっとそうだね……」
女の子たちは二人で何かを話しながら、ランドセルから出したノートを見ている。
「えっと……『神隠しされた人に会ったら、まずはお話できるよう、おちついてもらいましょう』」
「おちついてもらうのって、どうするのがいいかな……」
「うーん……『ゆーわくごっこ』、とか……?」
「あっ、そっか。されるとふにゃ〜ってなるもんね……」
今いるのがどこなのか、この列車は何なのか、二人に尋ねればよかっただろう。でも繰り返すように女性不信気味だった僕は、別の車両へ移ろうと席を立った。誰か大人の人を探そう、列車なんだから車掌さんもいるだろう……そう思って。
「あっ、待って」
両側から手を掴まれた。僕より小さくて、すべすべとした白い手。振り払おうとしたのに、何故か胸がドキンと鳴って、体が動かなかった。
すると今度は、ふいに耳元へ顔が近づいてきた。
「ふー」
「ふーっ」
両方の耳へ、息を吹きかけられる。思わず「ふぁっ」と情けない声が漏れた。二人の吐息は優しく、くすぐったくて、温かくて……甘い匂いがした。
「ちゅっ」
「ちゅっ」
そのまま耳に唇が触れた。途端に体から力が抜けてしまう。
「わっ!?」
崩れ落ちそうになった僕の体を、二人はびっくりしながらも支えてくれた。
「ゆーわく成功したから、わたしたちの勝ち……だね」
「ふふっ、へにゃへにゃになっちゃった……」
ぺたぺたと足音を立てながら、二人が僕をゆっくりと座席に戻す。いや、自分たちが座っていた席の方へ座らせて、二人で僕を挟んで座った。子供だったとはいえ、三人で座ると肩が触れ合うくらいで、胸の高鳴りが止まらなかった。
両側から、彼女たちが顔を覗き込んできた。二人の顔はそっくりで、一目で双子なんだろうと分かる。どちらもおかっぱ頭の黒髪に、透き通るような白い肌。くりくりとした目。瞳は……赤かった。父親が飲んでいたワインみたいな、深みのある赤色だ。
とても可愛くて、綺麗な双子の姉妹……現実ではないと思ってしまうくらいに。
「えっと。名前、よめる?」
彼女たちは黒い制服についた名札……それぞれ『知音』『朱音』と書かれたそれを指差した
「トモネ、っていうの。よろしくね」
「アカネ、っていいます」
小さな、でもしっかり聞こえる声で、双子は名乗る。顔は息がかかりそうな距離。小さな白い手は、僕の手を握ったままだ。
「あなたの、お名前は?」
「お名前、おしえてください」
「……コウキ」
口からすっと言葉が出た。女なんて嫌いだ、といつも思っていたのに、何故か素直になれてしまった。不思議な赤い瞳のせいか、それとも鈴が鳴るような声のせいか。それとも、耳にされたキスのせいか。
僕が名乗ったことに二人は喜んで、再びノートをめくる。
「コウキくん、ですね……えっと、お名前がわかったら……『食べ物をあげましょう。この世界のものを食べないと、まわりが見えません』」
「アカネちゃん、何かもってる?」
「アメ、食べちゃったから……トモネちゃんは?」
「わたしもキャラメル、食べちゃった……」
二人で僕を挟んで話し合っているせいで、ささやき声が耳にくすぐったかった。
そうしている間に、座席に押し付けられるような力が体に加わった。外が霧でよく分からなかったけど、列車がスピードを落としたのだと気づいた。
「あっ……もう駅についちゃう」
「じゃ、いっしょにお昼食べればいいよね……?」
「うん、そうしよう」
やがて列車はゆっくりと減速して、体にぐっと力がかかる。相変わらず外は霧で覆われていたけど、微かにホームの柱のようなものが見えた。
完全に静止すると、双子たちは僕の手を引いて立ち上がった。赤いランドセルを背負い、ぺたぺたと足音を立てながら出口へと向かう。二人が裸足だということにそのとき気づいた。座っているときに脱いで忘れた、というわけでもないようで、白い素足で躊躇いなく歩いていく。僕の手を引いたまま。
「さ、おりましょ」
「ごはん食べましょうね」
手でがらっとドアを開け、降りるように促される。足元くらいは何とか見えたし、二人が手を握っていてくれたから、客車とホームの間に落ちるようなことはなかった。
ホームも霧で満ちていて、どこが出口なのかすら分からない。ただ波のような音が聞こえて、海が近いことだけは分かった。少し肌寒い空気のおかげか、頭がだんだんスッキリしてきたけれど、周りが何も見えないのでは手を振りほどいて逃げ出すこともできなかった。
「ほら、ここにすわって」
僕をベンチへ座らせ、トモネちゃんが微笑んだ。
「トモネがご飯買ってくるから、アカネちゃんはいっしょにいてあげて」
「トモネちゃん、三人分持てる……?」
「へーきだよ。トモネ、お姉ちゃんだから」
胸を張るトモネちゃんを見て、アカネちゃんがくすっと笑う。
「じゃあ、おねがいします。お姉さま」
「うんっ、まかせて」
固い石でできたホームの上を、裸足のままぺたぺたと走っていった。すぐにその姿は霧に消え、僕の近くにいるのはアカネちゃん一人になる。右手はまた彼女に握られていて、空いた左手が妙に寂しかった。
「だいじょうぶですよ。アカネがいっしょですからね」
宥めるようにそう言われ、心の中を見られたのかと思った。空いた左手を露骨に凝視していたから、今思えば当然か。
少しの間、沈黙が流れる。今自分たちはどこにいるのか、彼女たちが何なのか、訊こうかと思った。
「……コウキくんは、『神隠し』って、知ってますか?」
アカネちゃんはゆっくりとした声で尋ねてきた。濃霧の中でも、すぐ近くにいる彼女の顔ははっきり見える。その中でも赤い瞳が、不思議と際立つ光沢を放っていた。
僕は首を横に振った。どこかで聞いたことはある単語だったけれど。
「えっと……コウキくんは人間さんですよね。人間さんたちが住んでいるのは、『現世』っていうところです」
ゆっくりと、優しく話してくれるアカネちゃん。
「ここは現世じゃなくて……アカネたちみたいなオバケとか、あとは神様とかが住んでいるところです。人間さんが迷子になって、ここへ来ちゃうことを『神隠し』っていうんです」
くりくりとした目が、じっと見つめてくる。「わかってくれたかな……?」という不安を少し感じる眼差しだった。
その頃はオバケとか神様とか、普段はあまり信じていなかった。だけど彼女たちの奇妙な雰囲気と、状況の異常さ……嘘だとも思えなかった。
僕が黙っていると、アカネちゃんは僕の手を離して立ち上がった。にっこり笑っている。
「じゃあ、オバケじゃないとできないこと、してみますね」
そう言って、彼女は近くにあった柱に向けて、ぴょんと飛んだ。まるで柱を蹴るように。
けれど彼女は蹴ったのではなく、『立った』。柱に両足をつけ、真横に向けて立っていたのだ。目を疑う僕の前で、そのまま柱の上に向かって、二本足で歩いていく。重力に逆らい、そのままホームの天蓋から逆さまに立ってみせた。
「えへへ……すごいですか?」
逆さに僕を見下ろし、微笑むアカネちゃん。けれど僕はその非現実的な光景よりも、別の所に目を惹きつけられていた。
彼女は重力に逆らって、天蓋から上下逆に立っていた。それでもおかっぱ頭の髪は重力に従い、下へ垂れている。
スカートもまた、同じだった。アカネちゃんの下半身……靴だけでなく、下着すら履いていない白い下半身が、丸出しになっていたのだ。
23/02/22 21:38更新 / 空き缶号
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