あかいくつ
「この世界の水は、人の世とはいろいろ違ってるの。さっきみたいな鯉もいるし、人魚もいるし……」
熱気溢れる運転台の中で、サヨさんはいろいろな話をしてくれた。神隠しに遭った他の人間のことや、これから行く駅のこと。今日のご飯はどうするかとか、帰れるのは明日になるだろうから、今夜は一緒に宿舎へ泊まればいいとか。
僕のことを詳しく聞いてこなかったのは、正直ありがたかった。こちらの心情を察してくれたのかもしれない。
会話しながらも、汽車の運転はそつなく行っていた。カーブでブレーキをかけ、見えない力で釜に投炭し、すれ違いの際には汽笛を鳴らす。すれ違った汽車にも女の子の機関士が乗っていて、サヨさんと互いに手を振っていた。
駅が見えたのはしばらく走って、陽が傾いてきた頃だ。線路の先に大きな塔のようなものが見えて、空中を走る沢山の線路がそこに集まっていた。驚いたのはその大きさ。木や石でできたその塔は、まるで街を一つ塔の形にしたような、とてつもないスケールだった。
線路は途中で分岐して、僕らの乗る『ミカド』は塔の最上部へ向かっていった。荘厳な、というのはこういうことを言うんだなと思うような、立派な仏閣が見える。周囲に大きな観音像さえなければ、寺院というより城に見えただろう。遠くからでも分かる長い石段、その両側に建つ巨大な金剛力士像。周りに咲き乱れる桜。
本当に、神様が住む場所なんだと納得せざるを得ない。そんな神秘的な景色の中に、鉄道駅と操車場まであった。
「とうちゃーく」
ゆっくりとブレーキレバーが引かれ、車輪の金属音と共に減速する。ホームは貨物の荷下ろし専用の場所らしく、他にも貨車を牽引した蒸気機関車が多数見受けられた。ゆっくりと停車したミカドに、荷下ろしの人足が駆け寄ってくる。
その姿は明らかに人間ではなかった。まるで塗ったかのような赤い肌、青い肌。そして頭に生えた角。昔話にでてくるような鬼たちだ。絵本と違うのは、その姿がみんな綺麗な女性だということ。彼女たちはみんなで、貨車から多数の米俵を降ろしていく。サヨさんが言うには何か特別な餅米らしい。
やがて貨車は切り離され、汽車はターンテーブルへと進み、車庫へ収まる。その過程を、僕はサヨさんの隣でじっと見ていた。とても楽しそうに機関車を操る姿は可愛くて、綺麗で……やっぱり、どこか得体の知れないものがあった。何より、履いている赤い靴が気になった。作業着や白磁のような肌が煤で汚れても、靴だけはピカピカなのだ。
駅には鬼の他に、黒い制服を着た女性たちもいて、機関車の誘導などをしていた。姿はみんな綺麗で、かつ得体の知れない……多分サヨさんと同じ存在だ。それが何なのかは分からないけど、なんとなくサヨさんと同じものを感じる。ただ、真っ赤な靴を履いているのはサヨさんだけだ。
彼女たちはみんな、僕を歓迎してくれた。サヨさんに着いていけば大丈夫、せっかくだから色々見て行きなさい、と。
「結構、良いところでしょ?」
仕事を一通り終え、一息つくサヨさん。その間に別の機関車がターンテーブルへ載せられ、ゆっくりと回転している。
「うん。来れてよかったよ」
本心からそう答えた。とても美しく、神秘的な非日常。子どもの頃に憧れた、蒸気機関車のある景色。偶然迷い込んだとはいえ、この体験は幸運だと思う。得体の知れないものへの怖さはあるけど、それが逆に興味をそそった。
「シューさんは私のこと、知りたい?」
ふいにそう言われ、心を見透かされた気分になる。この世界以上に、サヨさんへの興味が尽きないのだ。
答えてあげるよ、と彼女の青い瞳が言っているような気がした。
「……サヨさんのその靴、すごく綺麗だね」
「ふふっ。やっぱり気になってたんだ」
サヨさんは何だか嬉しそうに、靴の踵を鳴らした。タップダンスのようにステップを踏んで。夕日を受けて、赤い靴はますます綺麗に輝いた。
「『赤い靴』っていう童謡、知ってる?」
「脚が勝手に踊りだす話?」
「そっちじゃなくて、歌の方」
赤い靴……歌……そう言えば、古い童謡であった。明治時代にアメリカへ行った女の子の歌だったか。
「異人さんに連れられて行っちゃった、ってやつ?」
「そうそう、それ」
よく知ってるね、と笑うサヨさん。彼女は歌に出てくる女の子なのだろうか。けれどあの歌のモデルになったとされている子は確か、アメリカへは行けなかったはずだ。結核に罹っていたと聞いた気がする。
「その歌の女の子が、アメリカで元気に、幸せに育った姿。それを想像して作られたのが、私なの」
「作られた……?」
意味がよく分からない。するとサヨさんは僕に見せるように、右手の手袋を外した。
思わず目を見開いてしまった。彼女の手は顔と同じく白い、美しい肌だ。だけど指の節々には『つなぎ目』……人形のような球体関節があったのだ。
「私、生き人形とか、リビングドールっていう妖怪なの。脚も見せよっか」
今度はズボンの裾をぐっと捲り上げた。足首と膝にあるのは、指のよりもっと大きな球体関節。サヨさんの得体の知れない美しさに、何となく納得がいった。どことなく、作り物のような綺麗さがあるんだ。
「だからこの靴は、私の象徴のようなもの。人形は顔が命だけど、顔に煤がついても心が元気なら、この靴はずっと綺麗なまま」
捲った裾を下ろすサヨさん。『今では青い目になっちゃって』という童謡の歌詞を思い出す。海のように澄んだ青い瞳はガラスなのか、それとも宝石なのか。けれどどこか、『生きている』ことを感じさせる、そんな力があった。
彼女のことをもっと知りたい。
「生まれたときから、今みたいに動いたり喋ったりできたの?」
「ううん。もっと小さい、普通の人形として作られたの。自分で何かを考えることもなかったし、体もこんなに細かく動かなかったし」
話しながら球体関節の手をグー、チョキ、パーの形に変えたかと思うと、急に片脚をぐいっと上げた。手で支えながら、脚が顔にぴったり着くまで持ち上げる。I字バランスとか呼ばれるポーズだ。
「今はこんなこともできるの。スゴイでしょ?」
「う、うん。すごく柔軟なんだね」
ズボンをちゃんと履いているとはいえ、女の子が大きく脚を開く姿にドキリとしてしまう。例え人形だと分かっていても、生きた人形だということも分かっているのだから。
「あんまりハッキリとは覚えてないけど、良いお家のお嬢様に可愛がってもらってた。多分京都のお家かな。何回か、お嬢様と一緒に金色のお寺を見た気がするから」
「じゃあ、現世で生まれた?」
「そう。けれど捨てられちゃったの」
サヨさんの表情が初めて曇った、そのとき。ふいに、カツカツという足音が近づいてきた。普通の靴とは違う、下駄の音が。
「こんにちわ。貴方が迷い人ですね」
声をかけて来たのは、小柄な女の子だった。くりくりとした目に眼鏡……今の耳にかける眼鏡ではなく、時代劇に出てくるような鼻に乗せるタイプのをかけた、長い黒髪の目立つ子。サヨさんたちと違って人形ではなく、鉄道関係者でもないことは分かった。作業着ではなく袈裟、さらに数珠を首にかけ、腰に法螺貝を下げ、何ていうのか知らないけど丸いアレのついた、山伏のような格好をしているのだ。
現世の山伏との違いは、何故か袴がミニスカート状になっていること。そこから出ている脚には球体関節がなく、人間と同じ滑らかな膝だった。
「香英寺のスズノと申します。お名前をお聞かせください」
「ええと、大渓修一です」
僕が名乗ると、スズノという彼女は袂から本を取り出した。パラパラとページをめくり、「ふーむ」と覗き込む。
「……お父様は立派な方ですが、お母様はあまり褒められた人間ではないようですね。特に人の物を勝手に捨てるのは言語道断です」
いきなり過去の出来事を言い当てられ、ドキリとする。あの本に僕とその周辺のことが全て書かれているというのか? 本当に神様や仏様の世界へ来たのならありえる。
「ですが貴方自身に大きな問題はありませんね。それなりの善行も積んでいます。滞在を許可しましょう」
「あ、ありがとうございます……?」
どうやらこれで正式に、神様の世界に滞在できるようになったらしい。ちゃんとそういう仕事をする役人もいるのか。見た目は役人っぽくはないが。
「今日はもう現世行きの列車には間に合いませんね。今夜泊まるところなどは……」
「あ、それは私がちゃんとお世話します」
「ならば良し」
サヨさんの言葉に頷いて、スズノさんは帳面を袂へしまった。
「もしここへ永住するのであれば、ちゃんと届出をしてくださいね。それでは」
僕らに背を向けたスズノさんは、両手を左右へ広げて……次の瞬間、その腕が黒い翼に変わった。羽毛が宙を舞い、彼女は地を蹴って飛び立つ。下駄を履いていた足も、鉤爪のついたそれに変わっている。ばさっと羽ばたいたかと思うと、一陣の風と共に上昇していく。
カラス天狗。本で読んだ妖怪だと確信した。ただ本の挿絵とは違って、手足が鳥でも顔は人間の女の子だけど。
寺院の方へ飛び去って行く姿を見送りながら、彼女の言ったことについて考える。永住するのであれば……確かにそう言った。人間なのに、ここにずっと住むことができるのか?
それができたら幸せかもな、と思った。離婚してからますますヒステリックになった母の機嫌を伺う日々には嫌気が差していたし。母方の親類から「お前が離れたら、母親が精神不安定になるかもしれないから」と頼まれて母と暮らしていたが、僕の精神はどうでもいいのかと最近思うようになった。こっちの世界にもこっちの苦労はあると思うけど、家から解放されればちょっとくらいの苦労は乗り越えられるんじゃないか。
それにもしここで働ければ、また鉄道が好きになれるかも……
「シューさんのお母さんって、人の物を勝手に捨てる人なの?」
「あ、うん」
ふいに尋ねられ、サヨさんの顔を見てドキリとした。悲しそうな顔だ。
「私もね。お嬢様のお父さんに、勝手に捨てられたの」
「……そう、なんだ」
サヨさんも踏みにじられていたのだ。彼女の持ち主だった、女の子も。
「シューさんはそんなこと、しないよね?」
「絶対しないよ。やっちゃいけないことくらい分かってる」
自信を持って答えた。というか、それが普通だ。
するとサヨさんの表情がまた明るくなった。こころなしか、靴も輝きが増したような気がする。
「よかった。シューさんとは仲良くなれそう」
喜びながら、彼女はまたドロップの缶を取り出し、一粒口へ放り込んだ。
「食べる?」と僕にも差し出してくれたので、頂いた。黄色い飴を口に入れ、人工的なパイン味を味わう。なんだかサヨさんの笑顔を見ていると胸をが高鳴るというか、ずっとこうして幸せでいてほしいという気分になってくる。ずっとこの笑顔を見ていたい……と。
「あ、そうだ。今夜はお祭りの日なの。一緒に遊びにいかない?」
「お祭り? 行く行く」
僕は即答した。どうせ今日はもう現世に帰れないのなら、サヨさんと一緒にいろいろ見て回る機会だ。そして彼女が言うように仲良くなれたら、こちらの世界に住みたいと相談してみよう。もし彼女と一緒に働けるようになれば、ここで暮らしていくことができるかもしれない。
「どこでやるの? あのお寺とか?」
「ううん。駅前の広場」
クスッと笑って、サヨさんは「楽しみだなぁ」と呟いた。
ふいに背筋がぞくりとした。彼女の青い瞳に、一瞬妖しい光というか、色気というか、何か底知れないものが見えた気がしたのだ。
「私ね、男の子と一緒に遊ぶの、初めてだから……!」
22/09/26 23:21更新 / 空き缶号
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