ミカド
気がつくと、レールの上に立っていた。
親の決めた人生を歩んでいたとか、そういう比喩表現じゃない。本当に電車の線路の上にポツンと立っていた。
深い霧の中、足元に見える線路だけがずっと続いている。線路以外は白一色。どうやってここに来たのか全く分からない。
夢なのかと思った。けれどレールや枕木を踏む足に伝わる感触が、妙に現実味がある。
何故、僕はこんなところに?
ふいに、甲高い音が聞こえた。激しく擦れ合う金属の音が。
「……うわっ!?」
振り向いて、思わず叫んだ。黒鉄色の塊が間近まで迫っていたのだ。
円筒の下についた鉄輪が、レールと擦れて火花を飛ばして、ゆっくりと停止する。僕のほんの数メートル先で。
蒸気機関車だ。父さんが持っていたNゲージとかじゃない。本物の、動いているSLだ。
やっぱり夢なのか?
そう思ったとき、運転台から降りてくる誰かが見えた。霧が深くて顔はよく見えないが、ただ一箇所……ピカピカに磨かれた、赤い靴だけが輝いていた。
「ねえ、こんな所でどうしたの? 危ないよ」
女の子の綺麗な声だ。お下げにした髪らしきものが見える。
「あなた、人間だよね? どこから来たの?」
「ええと……」
人間であることを確認された理由が分からなかったが、多分霧のせいでよく見えないからだろうと思った。これが夢にせよ現実にせよ、とりあえずこの人に訊いてみるしかない。
「あの、ここは何処なんでしょうか? いつここへ来たのか、自分でも分からないんです」
数秒間、彼女は沈黙した。機関車の立てる音が微かに響き、やがて「そっか」という呟きが聞こえた。
「とりあえず、乗って! 線路にいたら危ないから!」
僕に手招きしながら、女の子は運転台へ戻っていく。今の状況どころか、彼女が何者なのかは分からない。けれど線路上にいては危険だというのはどう考えても正論だ。
意を決して機関車へ駆け寄る。運転台の後ろには炭水車。そのさらに後ろに連結されているのは、客車ではなく貨車のようだった。女の子は運転台から「ほら、こっち」と声をかけてきた。
ステップを登り、乗り込む。予想以上に暑い。石炭を投入する釜や、加減弁などのレバー、汽笛を鳴らす紐などが目に入る。古い時代の無骨なメカだ。
だがそれ以上に目を引いたのは、招き入れてくれた運転士の女の子だった。僕と近い歳であろう、お下げ髪の可愛い女の子……だけど何か、現実離れした綺麗さがあるように見えた。日本人らしい顔立ちなのに、真っ白な肌と青い瞳。肌は磁器みたいに滑らかだし、瞳の青はまるでガラス細工のように透き通っている。煤けた作業着と手袋が、むしろその得体の知れない綺麗さを引き立てていた。
そして履いている靴は場違いなほどに綺麗で、赤く輝いていた。
彼女は僕を尻目にブレーキを解除し、蒸気量を調整する加減弁を開いた。
「とりあえず、駅まで送ってあげる。さあ行くよ、ミカド」
蒸気の音と共に、汽車はゆっくりと動き出す。慣性で体が少し後ろへ引っ張られた。ガタゴトと音を立て、霧の中を黒鉄色の車両が進む。駅というのが何処かは分からないけど、少なくとも線路のど真ん中にいるよりはいいだろう。
汽車は徐々に速度を上げていく。霧の中だけど、ライトのようなものは点けていなかった。よく僕に気づいたものだ。
「視界悪いけど、大丈夫なんですか……?」
「視界? ……ああ、そっか」
彼女はメーター類をちらっと確認して、腰に着けたポーチへ手をやった。取り出したのは四角い缶。
「手、出して」
言われるがままに出した手に、缶から赤い物がこぼれ落ちた。甘い匂いのドロップだ。彼女の靴と同じ色だ、と何となく思う。
「食べてよ」
どうして今、飴なんかくれるのだろう。そう思いながら、まさか毒でもないだろうと口に放り込んだ。
甘い味が広がった、その瞬間だった。霧に遮られた視界が一瞬で晴れ渡った。遥か先まで続く線路が見える。けれどそれはどうでもいい。
線路が通っていたのは、長く伸びる橋の上。しかも目の眩むような高さで、遥か下に広がっているのは……海だ。陽の光を受けて波が輝き、どこまでも広がる海。そこからいくつもの長い橋が聳えたち、水平線の向こうまで続いている。
僕は言葉を失った。なんていう現実離れした景色。だけど、凄く……美しい。
いつの間にか、頬に涙が伝っていた。どうしてかは分からない。怖いとか悲しいとかじゃない、よく分からない感情が込み上げて来た。
「んっ」
ふいに、ぬめりを帯びた温かい物が頬を這った。涙を拭き取るように。
「ふふっ、しょっぱいね」
女の子がいたずらっぽく笑っている。僕の涙を舐め取って。
「ここはヒトの世じゃない……あなたはきっと、神隠しに遭ったの」
……列車は力強く煙を吐き出しながら、勾配を登っていく。メーターに気を配りながら、彼女はゆっくりと、優しく説明をしてくれた。
といっても、それほど長い話でも、複雑な話でもない。ただ現実離れしているだけだ。人間じゃない、神様や妖怪がいる世界へ来てしまっただなんて。けれど目の前に広がる光景を見れば、そうだと納得するしかない。ただ、神様が意図的に僕をさらったわけではないし、帰ることもできると彼女は言った。
「理解が追いつかなかったら、夢だと思ってても大丈夫だよ。私が帰らせてあげる」
「ど……どうやって?」
「次の駅から、現世へ帰る汽車が出てるの。今日の最終便には間に合わないけど、泊まるところもちゃんとあるから」
僕を安心させるようにそう語りつつ、彼女は傍のスコップに手をかざした。独りでに釜の口が開いたかと思うと、触れられていないスコップが浮き上がる。石炭をすくい取って、燃え盛る釜の中へ投入する動きがリズミカルに繰り返された。
アドバイス通り、夢だと思った方がいいのかもしれない。
「ああ、そうだ。私はサヨっていうの。あなたは?」
「あ……大渓修一です」
「シューイチ……じゃあ、シューさんね。よろしく」
……女の子からあだ名で呼ばれるのは初めてかもしれない。唇の向こうにちらりと舌が見えた。あれが僕の頬を舐めていたんだ……そう思うと胸が高鳴り始めたから、すぐに考えるのを止めた。
「この汽車は9700形……でもミカドって呼んでるの。私の一番のお友達」
黒鉄色の機械を、軍手で楽しそうに叩くサヨさん。
機関車でミカド……父さんから聞いたことがある。
「それって、車輪配置のことでしたっけ?」
「わっ。よく知ってるね!」
サヨさんの目が輝き、急に声のトーンが上がった。
「そう、車輪配置2-8-2。アメリカの会社が日本からの注文で作ったのがきっかけで、日本語の「帝」って名前を付けたの」
ロボットの名前にナントカカイザーとか付けるのと同じようなノリだろうか。
「元々は日本製の石炭の質が悪いから、火室を大きくするためにこうしたみたいなんだけど、乗り心地も良いからアメリカでも評判になって……」
機関車のことを語るサヨさんはとても楽しそうだ。多分彼女は人間ではないのだろうけど、好きなものに夢中になるのは同じらしい。
多分、それを他人に踏みにじられたらどう思うかも、人間と同じだろう。
「シューさんは……鉄道、好き?」
返答に困った。好きというよりは、好きだった……好きだったはずだ。父さんの鉄道模型コレクションを、母が勝手に捨てて、そのせいで2人が離婚するまでは。
悪いのは母だし、父さんと一緒に僕も怒った。そもそもそれ以前から、父さんの趣味を馬鹿にする母が好きじゃなかった。鉄道が嫌いになる理由はない。
それなのに、未だに鉄道模型を見ると心が痛む。
と、そのときだった。汽車の出す音とはまた違う轟音が、車外から聞こえた。下から迫ってくる、何か大きなもの。サヨさんの視線を追って右手側を見ると、白や赤、黒の巨大な物が上へ上がっていくところだった。
それは汽車の真上を飛び越え、反対側へ落下していく。
確かに見た。この機関車よりずっと大きな……途方もなく巨大な錦鯉だった。
「わぁ、あんなに大きいのはなかなか見れないよ。縁起が良いね」
「こ、ここって海じゃなくて、湖なんですか……?」
「シューさん、敬語じゃなくて普通にお話ししていいよ。仲良くしよ?」
話している間に錦鯉は着水した。遥か下の水面なのに、大きな音が聞こえる。そのまますぐに深く潜ったのか、姿は見えなくなった。
サヨさんの手が加減弁を閉じた。十分に速度の乗った列車は惰性での走行に入る。
「これも何かの縁、って素敵な言葉でしょ」
そう言うサヨさんの顔はにこやかで……でも何か、奇妙な違和感があった。
強いて言うなら、美しすぎるような。
親の決めた人生を歩んでいたとか、そういう比喩表現じゃない。本当に電車の線路の上にポツンと立っていた。
深い霧の中、足元に見える線路だけがずっと続いている。線路以外は白一色。どうやってここに来たのか全く分からない。
夢なのかと思った。けれどレールや枕木を踏む足に伝わる感触が、妙に現実味がある。
何故、僕はこんなところに?
ふいに、甲高い音が聞こえた。激しく擦れ合う金属の音が。
「……うわっ!?」
振り向いて、思わず叫んだ。黒鉄色の塊が間近まで迫っていたのだ。
円筒の下についた鉄輪が、レールと擦れて火花を飛ばして、ゆっくりと停止する。僕のほんの数メートル先で。
蒸気機関車だ。父さんが持っていたNゲージとかじゃない。本物の、動いているSLだ。
やっぱり夢なのか?
そう思ったとき、運転台から降りてくる誰かが見えた。霧が深くて顔はよく見えないが、ただ一箇所……ピカピカに磨かれた、赤い靴だけが輝いていた。
「ねえ、こんな所でどうしたの? 危ないよ」
女の子の綺麗な声だ。お下げにした髪らしきものが見える。
「あなた、人間だよね? どこから来たの?」
「ええと……」
人間であることを確認された理由が分からなかったが、多分霧のせいでよく見えないからだろうと思った。これが夢にせよ現実にせよ、とりあえずこの人に訊いてみるしかない。
「あの、ここは何処なんでしょうか? いつここへ来たのか、自分でも分からないんです」
数秒間、彼女は沈黙した。機関車の立てる音が微かに響き、やがて「そっか」という呟きが聞こえた。
「とりあえず、乗って! 線路にいたら危ないから!」
僕に手招きしながら、女の子は運転台へ戻っていく。今の状況どころか、彼女が何者なのかは分からない。けれど線路上にいては危険だというのはどう考えても正論だ。
意を決して機関車へ駆け寄る。運転台の後ろには炭水車。そのさらに後ろに連結されているのは、客車ではなく貨車のようだった。女の子は運転台から「ほら、こっち」と声をかけてきた。
ステップを登り、乗り込む。予想以上に暑い。石炭を投入する釜や、加減弁などのレバー、汽笛を鳴らす紐などが目に入る。古い時代の無骨なメカだ。
だがそれ以上に目を引いたのは、招き入れてくれた運転士の女の子だった。僕と近い歳であろう、お下げ髪の可愛い女の子……だけど何か、現実離れした綺麗さがあるように見えた。日本人らしい顔立ちなのに、真っ白な肌と青い瞳。肌は磁器みたいに滑らかだし、瞳の青はまるでガラス細工のように透き通っている。煤けた作業着と手袋が、むしろその得体の知れない綺麗さを引き立てていた。
そして履いている靴は場違いなほどに綺麗で、赤く輝いていた。
彼女は僕を尻目にブレーキを解除し、蒸気量を調整する加減弁を開いた。
「とりあえず、駅まで送ってあげる。さあ行くよ、ミカド」
蒸気の音と共に、汽車はゆっくりと動き出す。慣性で体が少し後ろへ引っ張られた。ガタゴトと音を立て、霧の中を黒鉄色の車両が進む。駅というのが何処かは分からないけど、少なくとも線路のど真ん中にいるよりはいいだろう。
汽車は徐々に速度を上げていく。霧の中だけど、ライトのようなものは点けていなかった。よく僕に気づいたものだ。
「視界悪いけど、大丈夫なんですか……?」
「視界? ……ああ、そっか」
彼女はメーター類をちらっと確認して、腰に着けたポーチへ手をやった。取り出したのは四角い缶。
「手、出して」
言われるがままに出した手に、缶から赤い物がこぼれ落ちた。甘い匂いのドロップだ。彼女の靴と同じ色だ、と何となく思う。
「食べてよ」
どうして今、飴なんかくれるのだろう。そう思いながら、まさか毒でもないだろうと口に放り込んだ。
甘い味が広がった、その瞬間だった。霧に遮られた視界が一瞬で晴れ渡った。遥か先まで続く線路が見える。けれどそれはどうでもいい。
線路が通っていたのは、長く伸びる橋の上。しかも目の眩むような高さで、遥か下に広がっているのは……海だ。陽の光を受けて波が輝き、どこまでも広がる海。そこからいくつもの長い橋が聳えたち、水平線の向こうまで続いている。
僕は言葉を失った。なんていう現実離れした景色。だけど、凄く……美しい。
いつの間にか、頬に涙が伝っていた。どうしてかは分からない。怖いとか悲しいとかじゃない、よく分からない感情が込み上げて来た。
「んっ」
ふいに、ぬめりを帯びた温かい物が頬を這った。涙を拭き取るように。
「ふふっ、しょっぱいね」
女の子がいたずらっぽく笑っている。僕の涙を舐め取って。
「ここはヒトの世じゃない……あなたはきっと、神隠しに遭ったの」
……列車は力強く煙を吐き出しながら、勾配を登っていく。メーターに気を配りながら、彼女はゆっくりと、優しく説明をしてくれた。
といっても、それほど長い話でも、複雑な話でもない。ただ現実離れしているだけだ。人間じゃない、神様や妖怪がいる世界へ来てしまっただなんて。けれど目の前に広がる光景を見れば、そうだと納得するしかない。ただ、神様が意図的に僕をさらったわけではないし、帰ることもできると彼女は言った。
「理解が追いつかなかったら、夢だと思ってても大丈夫だよ。私が帰らせてあげる」
「ど……どうやって?」
「次の駅から、現世へ帰る汽車が出てるの。今日の最終便には間に合わないけど、泊まるところもちゃんとあるから」
僕を安心させるようにそう語りつつ、彼女は傍のスコップに手をかざした。独りでに釜の口が開いたかと思うと、触れられていないスコップが浮き上がる。石炭をすくい取って、燃え盛る釜の中へ投入する動きがリズミカルに繰り返された。
アドバイス通り、夢だと思った方がいいのかもしれない。
「ああ、そうだ。私はサヨっていうの。あなたは?」
「あ……大渓修一です」
「シューイチ……じゃあ、シューさんね。よろしく」
……女の子からあだ名で呼ばれるのは初めてかもしれない。唇の向こうにちらりと舌が見えた。あれが僕の頬を舐めていたんだ……そう思うと胸が高鳴り始めたから、すぐに考えるのを止めた。
「この汽車は9700形……でもミカドって呼んでるの。私の一番のお友達」
黒鉄色の機械を、軍手で楽しそうに叩くサヨさん。
機関車でミカド……父さんから聞いたことがある。
「それって、車輪配置のことでしたっけ?」
「わっ。よく知ってるね!」
サヨさんの目が輝き、急に声のトーンが上がった。
「そう、車輪配置2-8-2。アメリカの会社が日本からの注文で作ったのがきっかけで、日本語の「帝」って名前を付けたの」
ロボットの名前にナントカカイザーとか付けるのと同じようなノリだろうか。
「元々は日本製の石炭の質が悪いから、火室を大きくするためにこうしたみたいなんだけど、乗り心地も良いからアメリカでも評判になって……」
機関車のことを語るサヨさんはとても楽しそうだ。多分彼女は人間ではないのだろうけど、好きなものに夢中になるのは同じらしい。
多分、それを他人に踏みにじられたらどう思うかも、人間と同じだろう。
「シューさんは……鉄道、好き?」
返答に困った。好きというよりは、好きだった……好きだったはずだ。父さんの鉄道模型コレクションを、母が勝手に捨てて、そのせいで2人が離婚するまでは。
悪いのは母だし、父さんと一緒に僕も怒った。そもそもそれ以前から、父さんの趣味を馬鹿にする母が好きじゃなかった。鉄道が嫌いになる理由はない。
それなのに、未だに鉄道模型を見ると心が痛む。
と、そのときだった。汽車の出す音とはまた違う轟音が、車外から聞こえた。下から迫ってくる、何か大きなもの。サヨさんの視線を追って右手側を見ると、白や赤、黒の巨大な物が上へ上がっていくところだった。
それは汽車の真上を飛び越え、反対側へ落下していく。
確かに見た。この機関車よりずっと大きな……途方もなく巨大な錦鯉だった。
「わぁ、あんなに大きいのはなかなか見れないよ。縁起が良いね」
「こ、ここって海じゃなくて、湖なんですか……?」
「シューさん、敬語じゃなくて普通にお話ししていいよ。仲良くしよ?」
話している間に錦鯉は着水した。遥か下の水面なのに、大きな音が聞こえる。そのまますぐに深く潜ったのか、姿は見えなくなった。
サヨさんの手が加減弁を閉じた。十分に速度の乗った列車は惰性での走行に入る。
「これも何かの縁、って素敵な言葉でしょ」
そう言うサヨさんの顔はにこやかで……でも何か、奇妙な違和感があった。
強いて言うなら、美しすぎるような。
22/09/26 23:21更新 / 空き缶号
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