エピローグ
……バイオリンを弾くと、昔の記憶が極めて鮮明に蘇ることがある。今もそうだった。手が弓を操る間、脳裏には雪を踏むジャイアントアントの足音、労働歌、船の櫂の音が鮮明に蘇っていた。
特にこのホールではそれが起きやすい。音の響きが徹底的に調整されたホールは、愛器の音色をますます素晴らしいものにしてくれている。煌びやかなステンドグラス越しに差し込む陽光、ジャイアントアントの地下街にもある結晶の照明。ネリーのアイディアがふんだんに盛り込まれた傑作だ。
過去の記憶から今に意識が戻ると、耳に聞こえるのは万雷の拍手。人間、サキュバス、稲荷、ホルスタウロス、バイコーン……多種多様な種族の観客たちが手を打ち鳴らしている。
高い位置にある、光が当たらないよう設計された特等席からもそれは聞こえた。舞台から微かに見える赤髪のヴァンパイア。僕と出会った時はまだ少女と言っていい歳だったが、今やこの街の領主だ。ネリーたちは廃墟だったこの地に新たな建物を築き、彼女はそこに命を吹き込んだ。
そうして出来上がった街は、彼女が掲げる人魔共栄を体現した。住民誰もが身分・種族を問わず、自由と愛を謳歌する街だ。芸術は貴族だけでなく庶民に対しても開かれ、ネリーの設計したこのホールにも様々な人が訪れる。演奏者も、観客も。
「今日も素晴らしかったですよ、ニコルさん」
拍手を背に舞台を降りた僕を、エーリッヒが労ってくれた。次に舞台に立つ『顔の無いギター弾き』だ。火傷を負った顔を包帯で隠しているためそう呼ばれている。傍にいる彼の妻……『声の無い舞子鳥』ことリウレナは、声を出せないセイレーン。
この2人の腕は一流だが、普段は路上で演奏と踊りを披露している。庶民に対して開かれた芸術を体現する存在だ。
「ありがとう。君達も頑張って」
舞台へ上がる2人を見送ったとき、顔に布が当てられた。丁寧に汗を拭きながら、ネリーが僕に笑いかける。彼女の母親同様、ずっしりと大きくなった下半身。少し窮屈な思いをすることはあっても、彼女はいつも僕と一緒にいてくれる。
そして、娘たちもいる。
「お疲れ様、ニコル!」
「お疲れ様、お父ちゃん!」
「おつかれさまー!」
「ありがとう、みんな」
お礼を言いながら、娘の1人にバイオリンを預け、別の娘が持ってきてくれた水を飲む。今ここにいるのは10人ほどだが、今やルージュ・シティ建築局は大勢の娘、義妹、姪、およびその夫たちによって成り立っている。様々なものを求めてこの街へ辿り着いた人々のため、住む家を作り、豊かさを提供する施設を建て、教団の攻撃に備えて城壁を補強する。大勢のジャイアントアントたちが協力し、そうした偉業を成し遂げているのだ。
「やっぱりこのホールは素晴らしいよ、ネリー」
「あははっ。ニコルったら、それいっつも言ってんべぇ」
「何度褒めても足りないからさ」
ネリーの柔らかな頬に手を添え、キスを交わす。触覚が頭をつついてくる。
「ぷはっ……照れるだよ」
唇を離し、頬を赤らめるネリー。娘たちは楽しそうに笑っている。
「さ、明日は久しぶりに船旅だべ。はぁく帰って休まざぁ」
「船こさ漕ぐの楽しみだぁ〜」
「良い人見つかるかな〜♥」
希望に目を輝かせる娘たち。
シガール号は今も街の港に係留され、先日改修を終えたところだ。苦役を強いるガレー船やジーベックは、人力以外にも動力が確保できる魔物領ではあまり人気がない。それでも僕らはあのジーベックを使い、時々短い航海に出ている。年若い若い娘や姪たちのチームワークを養うため、そして彼女らの婿探しのためだ。領主から私掠免許を得ているため、時々他の私掠船や軍艦と共に教団の船を攻撃するのである。
捕虜にした男たちは船内の漕ぎ手座に、娘・姪たちと共に座らせる。大勢のジャイアントアントが一生懸命に櫂を操り、汗を流し、その匂いと含まれる誘惑成分が狭い船内に充満する。その中に若い男、それも女性との触れ合いが少ない船員たちが放り込まれれば……どうなるかは容易に想像できるはずだ。
エーリッヒたちの舞台を見られないのは残念だが、準備に時間をかけねばならない。もちろんその後の『夫婦の時間』を考慮して、余裕を持ったスケジュールで行動しなくてはならない。
「な、ニコル」
いつものように僕の手を引きながら、ネリーはにこやかに語りかける。
「おら、やることいっぺぇあって忙しいけんど……ニコルの言った通り、すっげぇ自由だよ」
「うん。僕もだよ」
自然と笑顔が浮かび、彼女の手を強く握り返す。舞台から聞こえるギターの音に背を向け、僕たちは帰路へついた。
ーーfin
20/08/02 22:33更新 / 空き缶号
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