連載小説
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中編

 地底の生活は予想していたよりずっと快適だった。光る結晶が各所に配置されているため、太陽がなくとも視界に困ることはない。ここにいる人間の男は皆、僕と同じようにジャイアントアントたちに連れてこられた身分だが、意外と自由はある。武器庫や工事用の火薬庫などを除けば好きに地底街を出歩けるし、買い物もできる。手に入らない品は出入りしているゴブリンたちに注文し、調達することができた。

 労働の義務はある。毎朝ジャイアントアントたちは外へ狩猟や偵察、他の魔物から受けた大工仕事などに出かけていくか、地底街の増改築を行う。男たちはその間に彼女らの衣類を洗ったり、住まいの掃除をしたりといった家事を行う。大工や鍛冶屋、仕立て屋といった技能の持ち主はそれらの仕事につき、料理が得意な者は食料配給所で働く。
 狩人や兵士といった職歴を持つ者はジャイアントアントと共に地上へ出て、彼女たちの護衛や狩猟を行う。他の男が地上へ出られる時間は限られているが、僕を含めて不満に思う者はいないようだ。大体は僕と同様、昼間に働いて、夜は帰ってきた蟻娘と交わり暮らす日々を大いに気に入っているから。

 ジャイアントアントたちは皆親戚同士だ。多くは同じ女王蟻の娘で、子供の内から役割を分担されている。建築家、子供の養育係、会計……ネリーは斥候だ。彼女たちは夫との営みを除けば、ほぼ群全体の意思に従って生きている。個性が無いわけではないが、個人と全体の境界線が薄いのだ。

 そうしたルールで秩序が保たれ、出歩けばすぐに誰かと肩がぶつかる地底街。しかし不思議と息苦しさはない。その中で、僕は自由という言葉の意味を考えさせられた。僕が……いや、僕たちが命がけで手に入れようとした自由とは何だったのか。
 祖国の、あの革命は何だったのか。


「おーい、ニコル!」

 アパート状の住居の前を歩いていたとき、頭上からふいに大声で呼び止められた。壁沿いに組まれた足場の上に立つ、木工職人のロンベスが声の主だ。地底街の人口は徐々に増えていくため、常に増改築が行われている。今も彼は足場の上に据えられたクレーンの修繕を行っていたようだ。

「ちょっとカルメンを呼んでくれ! ロープが擦り切れそうなんだ!」
「分かった!」

 大声で返事をし、近くの戸をノックする。何度も繰り返す。彼女はちょっとやそっとじゃ出てこない。

「カルメンさん! 起きてますか!?」

 非音楽的に叫びつつ、さらに戸を叩く。

「カルメンさん!」
「うっさいなぁ! 朝早くから何なん!?」

 手が疲れてきた頃、ようやく怒鳴り声と共にドアが開いた。出てきたこの部屋の主は、寝癖でボサボサな頭を除けば美女と呼んで差し支えない。一見するとネリー同様、可愛い普通のジャイアントアントだ。
 ちなみに今の時間は18時、調理場では夕食配布の準備が始まっている。今が『朝早く』ということは、彼女にはきっと『昼』『夕方』という概念が無いのだろう。

「クレーンのロープが必要だそうです」
「またかいな!」

 舌打ちしつつ、彼女はズカズカと部屋を出て足場を登っていく。8本の脚で。
 彼女はジャイアントアントの住処に居候するため、似た姿に進化した蜘蛛の魔物らしい。普段は寝ているか、食事をしているか、男と交わっているかのどれかだが、正体がバレている場合時折こうして仕事をさせられる。アラクネの糸は非常に丈夫な素材なのだ。

「ようカルメン、一発頼むわ!」
「何が一発やねん! その太さの糸出すのキツイんやで!」

 文句を言いながらも作業に取り掛かる彼女は、なんだかんだでこのコミュニティの一員だ。

 そして僕の仕事は相変わらずバイオリンを弾くことだ。ネリーが回収してくれたケースに、僕の相棒はしっかりと収まっている。以前のように何らかの主義主張を訴えるためではなく、ただ人を楽しませるために弾く。音楽家のあるべき姿だ。
 ふと、頭上が賑やかになってきた。外で働いていた皆が帰ってきたのだ。

 バイオリンを取り出して胸にあてがい、演奏を始める。ここへ来てから自分で作った曲だ。ジャイアントアントたちの振るうツルハシやスコップのリズムをイメージした軽快な曲で、皆が作業中に鼻歌を口ずさめるシンプルなメロディーだ。自慢ではないが、今では地底街の住民皆が知っている。
 曲を聞いて、皆がリフトの方を見た。野外組が続々と乗り込み、ゆっくりと街へ降りてくる。

 その中にネリーの笑顔を見つけ、僕はいつものように今日の命に感謝した。





「たまげただよ。今まであんなこと無かった!」

 部屋で洗った体を拭きながら、ネリーは興奮気味に土産話を語る。その大きな胸がぷるんと揺れた。今僕は夕食を終え、汗まみれの彼女といつものように愛し合い、体を洗ったところだ。ジャイアントアントのフェロモンは彼女たち自身にも催淫効果があるらしく、帰宅後の彼女は食事と夫婦の営みで頭が一杯だ。だから仕事の土産話を聞くのはそれらが一通り終わった後になる。

 最近ネリーはスケッチブックを持ち歩くようになり、仕事の合間に様々な絵を描いてくる。絵画には音楽ほど詳しくないが、あまり芸術性を感じないスケッチではある。それでも彼女の絵を見るのは毎晩楽しみだ。その笑顔と揺れ動く乳房を見ることの次くらいに。
 食事の最中少しだけ聞いたが、今日は僕と出会った森とは逆方向にある、砂浜へ行ったそうだ。もう何回も哨戒した土地だったが、今回は様相が違っており、ネリーは大急ぎでその様子をスケッチした。

 紙に木炭で描かれているのは、浜に乗り上げた船だった。3本のマスト、側面から伸びる8本の櫂、細長い船体。船べりに並ぶ、いくつかの旋回砲。

「シガール号ってお船で、嵐で遭難したらしいだよ。人魚さたちが乗ってた人たちさ助けてただ」

 裸のまま僕の隣へ座るネリー。汗を洗い流した彼女も、汗まみれのときとはまた違った良い匂いがする。
 今夜ももう一度交わることになりそうだ。そう期待しながらも、今はネリーのスケッチをじっくりと見る。

「この船は……ジーベックか」
「ジーベック? シガール号だぁよ」
「ジーベックっていうのは船の種類だよ。マストは2本か3本、大抵は縦帆を張ってて……船体が細いからスピードが出る。風が無い時や出港するときは櫂を使う」
「へーぇ、詳しいだな」

 感心するネリーを見て、子供の頃の夢を思い出した。新天地を目指し、大海原へ漕ぎ出す夢だ。

「昔は船乗りになりたかったんだ」
「だども、楽器に潮風は良くねぇべ?」
「だからだよ」

 そう言うと、ネリーは理解した様子だった。彼女にはすでに話してある。
 父は祖国ガリエタニアの宮廷音楽家で、僕は幼い頃から専門教育を受けていた。いや、受けさせられた。少しでも音程を間違えると蹴り飛ばされた。そしてその度に、手は演奏者の命だから殴らずに蹴るのだと、あたかも自分が音楽家の鑑であるかのように父は嘯いた。だから僕は楽器の無い社会へ行きたかった。

 父による束縛は長く続いたが、彼の死で自由になれた。当てもなく国中を旅して、国の現実を知ったのである。その頃ガリエタニア王国は繁栄を謳歌していると信じていたが、それを享受できていたのは王侯貴族のみ。全て平民たちの飢餓の上に築かれた反映だったのだ。
 だがすでに、下級貴族や平民の指導者たちによって革命の炎が灯されていた。それに与した多くの者たちが断頭台へ送られたが、その炎は消えなかった。

 僕は抑圧される者の苦しみを知っていた。だから彼らのために曲を作り、その自由と平等という信念を広めるために演奏することにした。自分の才能が誰かの役に立てるなら、と。
 彼らは僕の作った曲に合わせて進軍し、ついに王都を陥落させたのだ。

 そして囚われた国王が、断頭台にかけられた最後の人物に……なると信じていたのに。

「やっぱり船乗りになるべきだったかもしれない。音楽を捨てていれば、あんなことには……」
「べきだった〜、ての、終わった後だから言えるこんでねーか?」

 身も蓋もないが、ネリーの言うことは正論だ。少なくとも僕はそう思う。結果を知っているから後悔が生まれるのだ。

「それにニコルが音楽やめてたら、おらと会うこともなかったべ」
「その通りだね」

 ネリーと会えなかった人生など、今となっては考えられない。過去のことより今のこと、またはこれからのことに目を向けるべきなのだろう。

 ふと、スケッチブックのページをめくってみる。甲板の板やマスト、ロープ、船内の漕ぎ手座と太鼓。オールの握り手の形状。
 上手とは言えないが、どれも精密に描かれている。今まで描いてきた建築物や遺跡のスケッチもそうだ。見た目の美しさよりも、構造を正確に書こうとしており、絵というよりむしろ図面に近い。

 彼女の役目は斥候、兵隊蟻だ。交易や建築の仕事をしに行く仲間たちのために安全を確認し、時には戦って危険を排除する……幼少期からその役割を与えられ、訓練に励んできた。毎晩裸を見ては抱きしめているから分かるが、彼女は左右の腕の長さと太さが若干違う。そのくらい弓の訓練をしているのだ。
 だがネリーは建築にも大きな関心を抱いていると、前から分かっていた。その関係の書籍をよく読んでいるし、スケッチの描き方からもそれは感じ取れる。

「ね、ニコル」

 ぐっと背中に抱きついてくるネリー。汗を流してすべすべになった、良い匂いのする胸が押し当てられる。
 反射的に振り向いて唇を奪う。手の中からはみ出す大きさの乳房を揉む。指を押し返してくる弾力が気持ちいい。

 あれこれ考えるのを止めて、彼女を味わうことに没頭する。魔物は人間と交わって子を成すが、ジャイアントアントは女王以外に生殖能力はない。新たに生まれた子供を育てる働き蟻は母乳が出るそうだが、兵隊蟻であるネリーの乳房はただ存在しているだけだ。
 それでも彼女たちにとってセックスは重要なことだし、僕はその胸の虜になっている。もちろん胸以外の全てにも。

 一緒にベッドへ横たわると、ネリーは6本の脚全てをつかって抱きついてきた。つるつるとした外骨格の感触も心地よい。大抵は嫌悪感を抱くであろう巨大な虫の体も、歴とした女体の一部だ。
 下を絡ませ合いながら、胸を揉み続ける。次第に汗ばんでくる膨らみのボリュームを味わい、ツンと勃った乳首を指先でつまんだ。

「んっ!」

 ふいにネリーが大きな声を出し、手に温かいものがかかった。少しぬるついた液体が。

 ちゅぽんと唇が離れ、僕たちは同時に手と胸を見た。白くて若干とろみのある、良い香りを放つ温かな液体。僕の手にかかったそれは、ネリーの胸……ピンク色の乳首から垂れていた。


「……母乳?」
















「どどどどどどーすんだぁニコルぅぅぅぅ!?」

 ネリーのその叫びは診療所のみならず、地底街各所へ響き渡りそうだった。地底街の医者(ネリーの15上の姉)から「ご懐妊」という単語を聞いた瞬間のことである。どーすんだぁと言われても僕の方も呆然としてしまう。生殖能力があるのは女王と新女王になる個体のみと聞いていたのに、兵隊蟻であるネリーが妊娠するとは。

「ま、たまーにあることだぁな。毎晩えっちすっと、働き蟻でもぼこがでることがあるだよ」

 医者はのんびりとした声で説明する。なんだか魔物の生態というのは所々いい加減というか、愛や性交によって原則が覆されるケースが多いような気がする。

「この後ネリーはどういう扱いになるの? 子供産むのは女王だけなんじゃ……」

 まさか追い出されることは無いと思うが、心配なので尋ねておきたいことだ。

「んだなぁ、明日には大騒ぎになるたぁ思うけんど……まずかーちゃんに報告して、その後はここにいるか、外さ出て自分の群れさ作るか。好きにするがよかんべぇ」
「すすす、好きにったってぇ……」

 ネリーは再び僕を見た。

「に、ニコルどーしよ!? あ、そら産むだよ! ちゃんと産むだよ! だども……!」
「ネリー、落ち着いて」

 彼女を抱きしめて宥めながら、僕もまたこれからどうするべきなのか考える。目が渦巻きになっている彼女の中に、新しい命がいる。僕と彼女の娘が。僕が父親になるという証が。
 無事に生まれてきて、その後はどうなる? ネリーは良い母親になれるだろうし、僕もよき父親になれるよう努力するだろう。だが彼女が戸惑っているのは、自分がコロニーのルーティンから外れてしまったためだ。本来兵隊蟻の1人としてコロニーのために尽くし、その上で僕と愛し合いながら過ごすのが彼女の生き方だった。それが妊娠という想定外の出来事によって、いきなり変わった。ここに残るにしても今までと同じ暮らしというわけにはいかないだろう。

 だが、その変化は悪いものではないはずだ。何よりネリーにも僕にも、自由があるのだから。

「ネリー。結局のところは先生が言うように、好きにするしかない。君は元々自由だ」
「じ、自由って……」
「いつも皆のために働いているのは、やらなきゃいけないからじゃない」

 今は彼女の言葉を遮ることにした。

「どんな世の中には『やっていいこと』『やってはいけないこと』は有るべきだ。でも『やらなきゃいけないこと』は無い。あるのは他人から強制されるんじゃなくて、自分で選ぶ『やるべきこと』だ」

 ……そう、僕が本来求めていたのはそういう自由だ。この蟻の巣で暮らして分かった。ネリーも他のジャイアントアントも、連れてこられた人々さえも、皆強制されて働いているのではない。労働は義務だが、義務というのはそれをやるべきだと自分の意思で決めることだ。

「ネリーは現状に不満は無いよね。けど、子供が生まれれば変化は避けられない。だったらこれを機会に他の『やるべきこと』を選んでもいいと思う。どうするにせよ、僕は側にいるよ」

 僕が彼女のためにできることはそれぐらいだ。自分の人生は自分のものなのだから。
 ネリーは少し考え込んだが、やがておずおずと口を開いた。


「んだ……おらは……」





20/08/02 22:29更新 / 空き缶号
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