ちびっ子リリム レミィナ
一人の少女が、街の中を歩いていた。背は低く、あどけない顔立ちながらも露出の多い衣装に身を包み、白磁のような肌が黒い衣装によく映えていた。深紅の瞳と、やはり真っ白の髪を日傘の下に隠し、腰からのびる蝙蝠のような翼を揺らしながら、微笑みを浮かべている。
道行く人の全てが、彼女に挨拶をする。砂糖菓子を差し出すホルスタウロス、飲み物を勧める飲食店の店主もいる。それらの一つ一つに柔らかな笑顔で答えながら、彼女は歩みを勧めた。
辿り着いた先は、美味しいお菓子の店でも、楽しい玩具の店でもない。古びた、小さな時計屋だった。
看板には《ヘンシェル時計工房》と書かれており、レンガの劣化具合などから老舗であることが分かる。
少女は白い手で、年季の入ったドアを開ける。蝶番が微かに軋む音を聞きながら、店の中に入って行った。
店内の壁にはありとあらゆる時計がかけられ、懐中時計が置かれたテーブルもある。シンプルな物から貴金属を使った装飾の施された物、多数の機能を搭載した物と、マニアでなくても見ていて飽きない光景だ。秒針が時を刻む微かな音だけが響く空間を、少女は軽い足取りで歩いていく。
「おはよう、おじいさん」
「……ああ、レミィナ姫か」
彼女が朗らかに声をかけたのは、店の奥で作業机に向かっている、一人の老人だった。懐中時計を組み立てているようで、老眼鏡の向こうに見える瞳は真剣そのものだった。
少女……レミィナは軽く背伸びして、その仕事の様子を覗き見る。細かい歯車が組み合わさり、小さな容器に収まっていく。
「お手入れ？」
「ああ、騎士長の時計だ」
手を止めずに、老人は答えた。
機械式時計は使っているうちに、部品に塗られたオイルが揮発する他、歯車などの摩耗や汚れの蓄積が起きる。そのため三、四年に一度はプロの時計職人の元へメンテナンスに出す必要があるのだ。費用はかかるが、一流の職人が作った時計なら、故障する前にオーバーホールすることにより、半永久的に時を刻み続けることができるという。
そしてこのヘンシェル老人こそ、この国で一番と呼ばれる時計職人だった。彼の作る時計は「血が通っている」と評されるほどで、この国出身の勇者は必ずヘンシェル工房の懐中時計を持って魔王討伐に向かったという。この国が魔王の領土となった今では、ヴァンパイアやバフォメットのような高位の魔物からも注文が殺到している。
しかし同時に、彼は偏屈で知られる男でもあった。気に入らない仕事は相手が誰であっても断り、特に魔物の客に対しては少々厳しく当たる。そのせいで若者たちの間では「時代遅れ」だの「教団のデマから抜け出せていないのでは」などと、陰口を叩かれているらしい。
魔王の幼き娘・レミィナは、そんなヘンシェル老人の元へよく遊びに来ていた。
「王女の一人ともあろう者が護衛もつけずに、一人で遊びに来ていいのかね？」
「わたし、強いもの」
「今頃、騎士長が心配しておるぞ？」
時計の組み立てを終え、ゼンマイを巻きながら老人は言った。キリキリという小気味良い音が鳴る。
「へいき。騎士長はおじいさんのことをいつもほめてるから、お爺さんのところへ遊びにいくなら大丈夫。お爺さんも、騎士長のことはきらいじゃないんでしょ？」
「まあ、あれだけの騎士道の持ち主はそうはいまい」
ヘンシェル老人とて、全ての魔物が嫌いなわけではない。例えばこの町の魔王軍騎士長を務めるデュラハンに対しては、彼女の騎士道精神を知って以来親しくしている。他にも真に貴族の誇りを持つヴァンパイアや、自分と同じく技術に生きるサイクロプスなど、仲の良い魔物も多い。ただ『性交のことしか考えないような奴に時計の価値は分かるまい』という、強すぎる職人魂があるのだ。彼の弟子たちが魔物に魅了され、時計師を辞めてしまったことも原因だろう。だがかえってその偏屈なところを好む魔物もおり、それらがこの店の常連となっている。孫のように遊びに来るレミィナもある意味、その一人と言えるかもしれない。
ヘンシェル老人は時計を眺め、満足げに頷いた。
「……騎士長に、オーバーホールは終わったと伝えてもらいたい」
「ええ、わかったわ」
そのとき、店のドアが開かれる。レミィナが振り向くと、そこにいたのは眼鏡をかけた温厚そうな青年と、小さなドワーフ。彼らは店に入り、レミィナを見て一礼する。
「やあレミィナ姫、いらっしゃいませ」
「こんにちは。クラウゼさん、カトレさん」
レミィナが青年に挨拶を返す。彼はヘンシェル老人の一番弟子であり、名をクラウゼという。その仕事熱心さは町でも評判であり、最近はヘンシェル老人だけでなく、彼の作る時計も高く評価されている。
伴っているドワーフのカトレは金属加工の名人で、よくヘンシェル老人から部品の注文を受けている。その縁でクラウゼと仲良くなったらしい。
「親方、ヴィスコンティオさんに時計届けてきました。評価は上々です」
「御苦労。お前も上客から注文を取れるようになったな」
ヘンシェル老人は満足げに言った。
この町が魔王の領地となったとき、彼に弟子入りした者の多くは魔物たちに魅了され、修行の厳しさもあって途中で逃げ出してしまった。しかしクラウゼだけはカトレと恋仲になりながらも、職人の誇りを持って修行を続けたのである。そんな彼だけは一人前に育てるべく、ヘンシェル老人は積極的に彼に仕事を回してきた。その甲斐あって、工房の上客からも高い評価を得るに至ったのである。
「今回はミニッツ・リピーター付きの時計だったけどさ」
カトレが話に加わる。幼い外見のドワーフだが、これで中身はしっかり大人で、口調にも全く気遅れが無かった。
「ヴィスコンティオ様はヴァンパイアだから、暗闇でも物が見えるだろ？ 無くてもいいんじゃない？」
「カトレ君、時計の機能は単なる実用ツールではない」
眼鏡を布で拭きながら、ヘンシェル老人は言う。
「リピーターは超複雑機構の一つで、作れる職人は限られている。時計好きで財産に余裕があるお客なら、そんな職人芸を手元に置いて楽しみたいと思うものだ」
「今回は文字盤がクリスタルで、中の機構が楽しめる作りでしたからね。まさしく職人芸を楽しむための注文ですよ」
「なるほどね。あたしも初めてここでトゥールビヨンを見たときは胸がドキドキしたなぁ。その後クラウゼにドキドキしたけど」
「あはは、実は僕もあの時からカトレのことが……」
「惚気は大概にせんか、年寄りの前で。ともかくクラウゼも、リピーター、トゥールビヨン、永久カレンダーの三大複雑機構もこなせるようになった。いつでも一流の時計師として独立できるだろう」
「あ、ありがとうございます！ しかし僕としては、もっと親方から教わりたいことが……」
職人達のマニアックな会話に、レミィナはほとんどついて行けなかった。
しかし彼女には、ヘンシェル老人達が不思議と輝いて見えた。魔王の娘……リリムの一人であるレミィナは、まだ幼いながらも『性』を知り、男の味は知らなくとも自分の役目を理解している。即ち、魔王の理想とする愛欲に溢れた平和な未来を築くため、人と魔物を結ぶことである。そしていずれは彼女も夫を見つけ、魔王と共に交わり続けることで力をつけて、この世界を維持する役目もある。長きに渡る人と魔物との戦争を終わらせ、互いが求め合い交わり合う世界を、勿論レミィナも望んでいる。だがヘンシェル老人はそれとは別の世界に生きながらも、しっかりと輝いていた。
「さて……茶でも淹れろ」
「あ、はい！ レミィナ姫、お茶菓子もありますからどうぞ」
「うん、ありがとう」
………こうしていつも、雑談をして帰る。愛を求めることもなく、ただひたすら時計作りに執念を燃やすだけ……それなのに何故、あの老人は幸せそうに見えるのだろうか。幼いせいか魔物であるせいか、レミィナには理解できなかった。ただ確かなのは、ヘンシェル老人の生き様に興味が尽きないことだけだった。
……夜、蝋燭を数本灯した寝室に、喘ぎ声が響いていた。その発生源は、全裸で中央のベッドに寝かされた、人間の少女。歳は十八前後で、ベッドの側には彼女の物と思われるローブが落ちている。主神教団の聖歌隊が身につける物であり、教団の兵士達と共に行動している中で捕虜となったのだろう。
そして彼女の股間に顔を埋めている白い髪の少女……レミィナだった。彼女もまた一糸纏わぬ姿で、幼いながらも全ての男を魅了する魔性の肢体を惜しげ無くさらしている。
「ふふ……おねえさんのお汁、おいしいっ♪」
無邪気に笑うレミィナの声を、少女は聞いているのかいないのか、ただひたすら快楽に悶えている。
レミィナは白い指をピンと立てると、その先に小さな黒い球体を造り出した。リリムの魔力を収束させた物だ。そしてそれを少女の秘部にあてがい、花園の中へ押し込む。
「ひああああああああっ♪」
長い嬌声と共に、少女は絶頂する。同時に、彼女の体に異変が起き始めた。
滑らかな脚に青い体毛が生え始めたかと思うと、次の瞬間にはそれが膝から下を多い、つま先には鋭い爪が生え、鳥のそれへと変貌する。同じく両手は無数の羽毛が生え始め、肉や骨格までがぎりぎりと音を立てて変形していく。それでも少女の顔は、快楽に満ちていた。
やがて彼女の両手は青い翼に変わり、変化が止まる。彼女は荒く息を吐きながら、確かに喜びの表情を浮かべていた。
「おねえさん、これからどうしたい？」
レミィナは楽しそうに尋ねる。
「うた……歌をうたいたいれすぅ……とびっきりエッチな歌でぇ……彼をメロメロにしちゃいたいれすぅ」
それを聞いて満足げに頷くと、レミィナは部屋の窓を開けた。人が一人出入りできるほど大きな窓からは、夜の町が一望できる。レミィナは魔物化した少女を立たせ、窓の外の一点を指さした。
「おねえさんの好きなひとは、あそこの牢屋につかまってるわ。ひどいことはしてないから、大丈夫だよ」
「はい……ありがとうございます、お姫様ぁ。……リオン……ああん、リオン……」
愛しい男性の名を呟きながら、セイレーンの少女は窓から飛び立った。
レミィナはそれを見送ると、ふと目を伏せる。夜風が裸体を撫でる感覚を味わいながら、物思いにふけった。
魔王の娘たるリリムは、人間の女性を魔物へと変えることができる。魔物の数を増やせば、全ての魔物とリンクしている魔王の魔力も増える。そうすればやがて、魔王の魔力は世界全てを多い、人間と魔物という種族の統一が果たされるのだ。魔物から男が生まれないという今の世界の欠陥も解消できる。快楽に満ちた、彼女たちの理想の世界が作られるのだ。
……でも……
レミィナは考えていた。その新世界に、あの頑迷な老人の居場所はあるのだろうか。ただ愛だけを求め、自分たちは他の大事なものを無くしてしまうのではないだろうか。
そして、自分の未来はただ、その理想の世界を創るだけなのだろうか。自分の望みは、他に無いのか。
自問自答しても、答えは出ない。
膨大な時を生きるリリムにあって、彼女はまだ幼すぎるのだった。
… … …
「こんにちは、おじいさん」
「……ああ、レミィナ姫」
ある日レミィナが訪れたとき、ヘンシェル老人は珍しく、時計を弄っていなかった。自分の懐中時計を眺めながら、紅茶を飲んでいる。
「クラウゼさんはお出かけ？」
「ああ、カトレと遊びに行っている」
「おこらないの？」
「仕事が一段落したからな。儂でも女と遊びに行くなとは言わんよ」
紅茶を一口のみ、老人は息を一つ吐いた。そのときレミィナは、彼の手にした懐中時計の秒針が動いていないことに気づいた。ゼンマイが切れているのだろうか。しかしヘンシェル老人は何もせず、ただ時計を眺めている。
「……嫁を見つけて工房を止めていった奴らのことも、別に悪く思ってはおらん」
レミィナは驚いた。ヘンシェル老人が自分の心情を他者に語ることなど、滅多に無いのだ。
「養う家族ができれば、天秤にかけて重い方を選ぶのも無理はない。いつ芽が出て一流になれるか分からない職人の道よりも、確実に稼ぎを得られる仕事を選ぶ方が得策だろう」
「……おじいさんは、そうしなかったのね？」
レミィナの言葉に、老人は皺の多い顔に微笑を浮かべた。
「儂の天秤は、職人の道を選択した。そのせいで女房に逃げられても、時計作りのことだけを考えてきた」
「どうしてそこまでしたの？ 奥さんより大事だったの？」
「儂の家は代々騎士の家系だったが、儂は幼い頃見た見事なアンティーク時計に感動し、親の反対を押し切って時計師となった。そのとき私は父上と、家名を捨ててまでやるからには世界一の時計師になると約束した……それを、嘘にしたくなかったのだ」
ヘンシェル老人は紅茶を一口飲む。
「だが、技術を身につければ、それほどにその技術を失うことへの恐怖が沸いてきた。積み重ねてきた時間を失いたくない……儂は例えるなら、凄まじい速さで動く時計の針に、必死でしがみついてきたような物だ。別の時計に乗り換えることもできずに、な」
レミィナは黙って、老人の話を聞いていた。彼にとっては時計作りの技術こそが恋人だったのだと、レミィナは感じた。自分たち魔物には真似できない生き方だが、それでもやはり、この老人の生き方は美しいと、確かにレミィナは思った。ひたすら一途に恋人を愛する姿と、この老人の姿に、どのような違いがあるのか。
「だが……クラウゼが腕を上げた頃から、儂も時計を作る理由が少しずつ変わってきた」
「それは、どんなふうに？」
「今ある技術は、いずれ古くなって消えていくかもしれん。しかし古い技術が無ければ新しい技術は生まれんのだ。だからこそ、儂は未来のため……古き技術をクラウゼに托した。そしてあやつは一人前となり……その仕事も終わった」
ふいにヘンシェル老人は引き出しを開け、中から黒い懐中時計を取りだした。カウルから蓋まで美しい黒で塗られたその時計を、ゆっくりとレミィナに差し出す。今日来てくれてよかった、と告げて。
確かにその手は近くにあるのに、レミィナは老人の手の存在感が妙に薄く感じた。いつも見ていた、老いていながらもどこか力強い手とは違う。その手の中で、黒の時計が泰然と存在している。
レミィナは時計を受け取り、蓋を開く。中身はシンプルな時計だったが、どういうことか文字盤の左右が逆になっていた。独立している秒針に目をやると、やはり逆時計回りに動いている。
「……姫のために作った」
「わたしの……ために？」
職人仕事は安売りしない、どんな客でも特別扱いはしない……それが、ヘンシェル老人の流儀だった。そんな彼が、レミィナのために時計を作ったのだという。最近はほぼ全ての仕事をクラウゼに任せているという話をレミィナも聞いていたが、このためだったのだろうか。
「……自分だけの時を生きろ。魔王の娘としてではなく、魔物としてでもなく……レミィナとして……」
かすれる声で言うと、ヘンシェル老人はゆっくりと紅茶を飲み干す。震える手で、カップを静かに机に置き……
老人は目を閉ざした。
「……おじいさん？」
老人は応えない。レミィナには、目の前にあったはずの『何か』が、ふいに姿を消したように思えた。
「おじいさん！」
レミィナは老人の手を取った。痩せた手には温かみはあっても、命の脈動がなかった。まるで、時が止まってしまったかのように。
「……おじいさん……いなくなったの？」
レミィナの目から、雫がこぼれ落ちた。やがてそれは数を増やしていき、次々と床にしたたり落ちる。
それを見ていたのは動かなくなった時計と、逆回りに廻り続ける、新しい時計だけだった。
………ヘンシェル老人の葬儀には、町の重役が人魔問わず大勢詰めかけた。魔物と結婚して去っていったかつての弟子達も、かけつけては一様に涙を流していた。クラウゼはカトレに励まされ、涙を堪えながら弔辞を読み上げ、師匠から受け継いだ技術を、今度は自分が未来へ伝えていくと語った。
「……偏屈物だったが、惜しい人を亡くした」
「八十四歳……確かに逝ってもおかしくはない歳だが……こんな急に」
「お弟子さんが工房を引き継ぐそうですわ。私たちも支えてあげましょう」
「ああ。……弟子を一人前にできたんだから、職人としては本望だったかもな」
そんな会話をする貴族たちを余所に、レミィナは逆回りの時計を眺めていた。
耳に近づければ、チクタクという針の音が聞こえてくる。「血が通っている」と評された通り、レミィナにもその音が命の鼓動にさえ聞こえた。
そして、逆回りに動く針に込められた意味……自分だけの【時】を生きろ、というヘンシェル老人の言葉を、心の中で反芻する。
「……おじいさんも、おじいさんの【時】を生きたんだね。生ききったんだよね」
その結果は、暖かい最期ではなかったかもしれない。少なくとも、愛に生きる魔物達の目で見れば哀しい結末だっただろう。しかしヘンシェル老人は自分の時を生き抜き、次の世代へ托したのだ。
そしてレミィナもまた、その新しい時代を担っていく。目指す先にあるのは愛の世界か、また別の未来か、レミィナには分からない。
「わたしはまだ、知らなきゃいけないことが多すぎるもの……」
時計を懐に収め、レミィナは呟いた。
大丈夫、時間はたっぷりある。世界の様々な物を見て、聞いて、自分の生き方を、自分の【時】を見つけよう。それがやがて、この世界がどう動いていくかを決めるかもしれない。辛いこと、哀しいこともあるだろう。悩むこともあるはずだ。しかしそれを受け止めて、時を刻んでいこう。
左向きに廻る、自分だけの時計と共に。
ＥＮＤ
道行く人の全てが、彼女に挨拶をする。砂糖菓子を差し出すホルスタウロス、飲み物を勧める飲食店の店主もいる。それらの一つ一つに柔らかな笑顔で答えながら、彼女は歩みを勧めた。
辿り着いた先は、美味しいお菓子の店でも、楽しい玩具の店でもない。古びた、小さな時計屋だった。
看板には《ヘンシェル時計工房》と書かれており、レンガの劣化具合などから老舗であることが分かる。
少女は白い手で、年季の入ったドアを開ける。蝶番が微かに軋む音を聞きながら、店の中に入って行った。
店内の壁にはありとあらゆる時計がかけられ、懐中時計が置かれたテーブルもある。シンプルな物から貴金属を使った装飾の施された物、多数の機能を搭載した物と、マニアでなくても見ていて飽きない光景だ。秒針が時を刻む微かな音だけが響く空間を、少女は軽い足取りで歩いていく。
「おはよう、おじいさん」
「……ああ、レミィナ姫か」
彼女が朗らかに声をかけたのは、店の奥で作業机に向かっている、一人の老人だった。懐中時計を組み立てているようで、老眼鏡の向こうに見える瞳は真剣そのものだった。
少女……レミィナは軽く背伸びして、その仕事の様子を覗き見る。細かい歯車が組み合わさり、小さな容器に収まっていく。
「お手入れ？」
「ああ、騎士長の時計だ」
手を止めずに、老人は答えた。
機械式時計は使っているうちに、部品に塗られたオイルが揮発する他、歯車などの摩耗や汚れの蓄積が起きる。そのため三、四年に一度はプロの時計職人の元へメンテナンスに出す必要があるのだ。費用はかかるが、一流の職人が作った時計なら、故障する前にオーバーホールすることにより、半永久的に時を刻み続けることができるという。
そしてこのヘンシェル老人こそ、この国で一番と呼ばれる時計職人だった。彼の作る時計は「血が通っている」と評されるほどで、この国出身の勇者は必ずヘンシェル工房の懐中時計を持って魔王討伐に向かったという。この国が魔王の領土となった今では、ヴァンパイアやバフォメットのような高位の魔物からも注文が殺到している。
しかし同時に、彼は偏屈で知られる男でもあった。気に入らない仕事は相手が誰であっても断り、特に魔物の客に対しては少々厳しく当たる。そのせいで若者たちの間では「時代遅れ」だの「教団のデマから抜け出せていないのでは」などと、陰口を叩かれているらしい。
魔王の幼き娘・レミィナは、そんなヘンシェル老人の元へよく遊びに来ていた。
「王女の一人ともあろう者が護衛もつけずに、一人で遊びに来ていいのかね？」
「わたし、強いもの」
「今頃、騎士長が心配しておるぞ？」
時計の組み立てを終え、ゼンマイを巻きながら老人は言った。キリキリという小気味良い音が鳴る。
「へいき。騎士長はおじいさんのことをいつもほめてるから、お爺さんのところへ遊びにいくなら大丈夫。お爺さんも、騎士長のことはきらいじゃないんでしょ？」
「まあ、あれだけの騎士道の持ち主はそうはいまい」
ヘンシェル老人とて、全ての魔物が嫌いなわけではない。例えばこの町の魔王軍騎士長を務めるデュラハンに対しては、彼女の騎士道精神を知って以来親しくしている。他にも真に貴族の誇りを持つヴァンパイアや、自分と同じく技術に生きるサイクロプスなど、仲の良い魔物も多い。ただ『性交のことしか考えないような奴に時計の価値は分かるまい』という、強すぎる職人魂があるのだ。彼の弟子たちが魔物に魅了され、時計師を辞めてしまったことも原因だろう。だがかえってその偏屈なところを好む魔物もおり、それらがこの店の常連となっている。孫のように遊びに来るレミィナもある意味、その一人と言えるかもしれない。
ヘンシェル老人は時計を眺め、満足げに頷いた。
「……騎士長に、オーバーホールは終わったと伝えてもらいたい」
「ええ、わかったわ」
そのとき、店のドアが開かれる。レミィナが振り向くと、そこにいたのは眼鏡をかけた温厚そうな青年と、小さなドワーフ。彼らは店に入り、レミィナを見て一礼する。
「やあレミィナ姫、いらっしゃいませ」
「こんにちは。クラウゼさん、カトレさん」
レミィナが青年に挨拶を返す。彼はヘンシェル老人の一番弟子であり、名をクラウゼという。その仕事熱心さは町でも評判であり、最近はヘンシェル老人だけでなく、彼の作る時計も高く評価されている。
伴っているドワーフのカトレは金属加工の名人で、よくヘンシェル老人から部品の注文を受けている。その縁でクラウゼと仲良くなったらしい。
「親方、ヴィスコンティオさんに時計届けてきました。評価は上々です」
「御苦労。お前も上客から注文を取れるようになったな」
ヘンシェル老人は満足げに言った。
この町が魔王の領地となったとき、彼に弟子入りした者の多くは魔物たちに魅了され、修行の厳しさもあって途中で逃げ出してしまった。しかしクラウゼだけはカトレと恋仲になりながらも、職人の誇りを持って修行を続けたのである。そんな彼だけは一人前に育てるべく、ヘンシェル老人は積極的に彼に仕事を回してきた。その甲斐あって、工房の上客からも高い評価を得るに至ったのである。
「今回はミニッツ・リピーター付きの時計だったけどさ」
カトレが話に加わる。幼い外見のドワーフだが、これで中身はしっかり大人で、口調にも全く気遅れが無かった。
「ヴィスコンティオ様はヴァンパイアだから、暗闇でも物が見えるだろ？ 無くてもいいんじゃない？」
「カトレ君、時計の機能は単なる実用ツールではない」
眼鏡を布で拭きながら、ヘンシェル老人は言う。
「リピーターは超複雑機構の一つで、作れる職人は限られている。時計好きで財産に余裕があるお客なら、そんな職人芸を手元に置いて楽しみたいと思うものだ」
「今回は文字盤がクリスタルで、中の機構が楽しめる作りでしたからね。まさしく職人芸を楽しむための注文ですよ」
「なるほどね。あたしも初めてここでトゥールビヨンを見たときは胸がドキドキしたなぁ。その後クラウゼにドキドキしたけど」
「あはは、実は僕もあの時からカトレのことが……」
「惚気は大概にせんか、年寄りの前で。ともかくクラウゼも、リピーター、トゥールビヨン、永久カレンダーの三大複雑機構もこなせるようになった。いつでも一流の時計師として独立できるだろう」
「あ、ありがとうございます！ しかし僕としては、もっと親方から教わりたいことが……」
職人達のマニアックな会話に、レミィナはほとんどついて行けなかった。
しかし彼女には、ヘンシェル老人達が不思議と輝いて見えた。魔王の娘……リリムの一人であるレミィナは、まだ幼いながらも『性』を知り、男の味は知らなくとも自分の役目を理解している。即ち、魔王の理想とする愛欲に溢れた平和な未来を築くため、人と魔物を結ぶことである。そしていずれは彼女も夫を見つけ、魔王と共に交わり続けることで力をつけて、この世界を維持する役目もある。長きに渡る人と魔物との戦争を終わらせ、互いが求め合い交わり合う世界を、勿論レミィナも望んでいる。だがヘンシェル老人はそれとは別の世界に生きながらも、しっかりと輝いていた。
「さて……茶でも淹れろ」
「あ、はい！ レミィナ姫、お茶菓子もありますからどうぞ」
「うん、ありがとう」
………こうしていつも、雑談をして帰る。愛を求めることもなく、ただひたすら時計作りに執念を燃やすだけ……それなのに何故、あの老人は幸せそうに見えるのだろうか。幼いせいか魔物であるせいか、レミィナには理解できなかった。ただ確かなのは、ヘンシェル老人の生き様に興味が尽きないことだけだった。
……夜、蝋燭を数本灯した寝室に、喘ぎ声が響いていた。その発生源は、全裸で中央のベッドに寝かされた、人間の少女。歳は十八前後で、ベッドの側には彼女の物と思われるローブが落ちている。主神教団の聖歌隊が身につける物であり、教団の兵士達と共に行動している中で捕虜となったのだろう。
そして彼女の股間に顔を埋めている白い髪の少女……レミィナだった。彼女もまた一糸纏わぬ姿で、幼いながらも全ての男を魅了する魔性の肢体を惜しげ無くさらしている。
「ふふ……おねえさんのお汁、おいしいっ♪」
無邪気に笑うレミィナの声を、少女は聞いているのかいないのか、ただひたすら快楽に悶えている。
レミィナは白い指をピンと立てると、その先に小さな黒い球体を造り出した。リリムの魔力を収束させた物だ。そしてそれを少女の秘部にあてがい、花園の中へ押し込む。
「ひああああああああっ♪」
長い嬌声と共に、少女は絶頂する。同時に、彼女の体に異変が起き始めた。
滑らかな脚に青い体毛が生え始めたかと思うと、次の瞬間にはそれが膝から下を多い、つま先には鋭い爪が生え、鳥のそれへと変貌する。同じく両手は無数の羽毛が生え始め、肉や骨格までがぎりぎりと音を立てて変形していく。それでも少女の顔は、快楽に満ちていた。
やがて彼女の両手は青い翼に変わり、変化が止まる。彼女は荒く息を吐きながら、確かに喜びの表情を浮かべていた。
「おねえさん、これからどうしたい？」
レミィナは楽しそうに尋ねる。
「うた……歌をうたいたいれすぅ……とびっきりエッチな歌でぇ……彼をメロメロにしちゃいたいれすぅ」
それを聞いて満足げに頷くと、レミィナは部屋の窓を開けた。人が一人出入りできるほど大きな窓からは、夜の町が一望できる。レミィナは魔物化した少女を立たせ、窓の外の一点を指さした。
「おねえさんの好きなひとは、あそこの牢屋につかまってるわ。ひどいことはしてないから、大丈夫だよ」
「はい……ありがとうございます、お姫様ぁ。……リオン……ああん、リオン……」
愛しい男性の名を呟きながら、セイレーンの少女は窓から飛び立った。
レミィナはそれを見送ると、ふと目を伏せる。夜風が裸体を撫でる感覚を味わいながら、物思いにふけった。
魔王の娘たるリリムは、人間の女性を魔物へと変えることができる。魔物の数を増やせば、全ての魔物とリンクしている魔王の魔力も増える。そうすればやがて、魔王の魔力は世界全てを多い、人間と魔物という種族の統一が果たされるのだ。魔物から男が生まれないという今の世界の欠陥も解消できる。快楽に満ちた、彼女たちの理想の世界が作られるのだ。
……でも……
レミィナは考えていた。その新世界に、あの頑迷な老人の居場所はあるのだろうか。ただ愛だけを求め、自分たちは他の大事なものを無くしてしまうのではないだろうか。
そして、自分の未来はただ、その理想の世界を創るだけなのだろうか。自分の望みは、他に無いのか。
自問自答しても、答えは出ない。
膨大な時を生きるリリムにあって、彼女はまだ幼すぎるのだった。
… … …
「こんにちは、おじいさん」
「……ああ、レミィナ姫」
ある日レミィナが訪れたとき、ヘンシェル老人は珍しく、時計を弄っていなかった。自分の懐中時計を眺めながら、紅茶を飲んでいる。
「クラウゼさんはお出かけ？」
「ああ、カトレと遊びに行っている」
「おこらないの？」
「仕事が一段落したからな。儂でも女と遊びに行くなとは言わんよ」
紅茶を一口のみ、老人は息を一つ吐いた。そのときレミィナは、彼の手にした懐中時計の秒針が動いていないことに気づいた。ゼンマイが切れているのだろうか。しかしヘンシェル老人は何もせず、ただ時計を眺めている。
「……嫁を見つけて工房を止めていった奴らのことも、別に悪く思ってはおらん」
レミィナは驚いた。ヘンシェル老人が自分の心情を他者に語ることなど、滅多に無いのだ。
「養う家族ができれば、天秤にかけて重い方を選ぶのも無理はない。いつ芽が出て一流になれるか分からない職人の道よりも、確実に稼ぎを得られる仕事を選ぶ方が得策だろう」
「……おじいさんは、そうしなかったのね？」
レミィナの言葉に、老人は皺の多い顔に微笑を浮かべた。
「儂の天秤は、職人の道を選択した。そのせいで女房に逃げられても、時計作りのことだけを考えてきた」
「どうしてそこまでしたの？ 奥さんより大事だったの？」
「儂の家は代々騎士の家系だったが、儂は幼い頃見た見事なアンティーク時計に感動し、親の反対を押し切って時計師となった。そのとき私は父上と、家名を捨ててまでやるからには世界一の時計師になると約束した……それを、嘘にしたくなかったのだ」
ヘンシェル老人は紅茶を一口飲む。
「だが、技術を身につければ、それほどにその技術を失うことへの恐怖が沸いてきた。積み重ねてきた時間を失いたくない……儂は例えるなら、凄まじい速さで動く時計の針に、必死でしがみついてきたような物だ。別の時計に乗り換えることもできずに、な」
レミィナは黙って、老人の話を聞いていた。彼にとっては時計作りの技術こそが恋人だったのだと、レミィナは感じた。自分たち魔物には真似できない生き方だが、それでもやはり、この老人の生き方は美しいと、確かにレミィナは思った。ひたすら一途に恋人を愛する姿と、この老人の姿に、どのような違いがあるのか。
「だが……クラウゼが腕を上げた頃から、儂も時計を作る理由が少しずつ変わってきた」
「それは、どんなふうに？」
「今ある技術は、いずれ古くなって消えていくかもしれん。しかし古い技術が無ければ新しい技術は生まれんのだ。だからこそ、儂は未来のため……古き技術をクラウゼに托した。そしてあやつは一人前となり……その仕事も終わった」
ふいにヘンシェル老人は引き出しを開け、中から黒い懐中時計を取りだした。カウルから蓋まで美しい黒で塗られたその時計を、ゆっくりとレミィナに差し出す。今日来てくれてよかった、と告げて。
確かにその手は近くにあるのに、レミィナは老人の手の存在感が妙に薄く感じた。いつも見ていた、老いていながらもどこか力強い手とは違う。その手の中で、黒の時計が泰然と存在している。
レミィナは時計を受け取り、蓋を開く。中身はシンプルな時計だったが、どういうことか文字盤の左右が逆になっていた。独立している秒針に目をやると、やはり逆時計回りに動いている。
「……姫のために作った」
「わたしの……ために？」
職人仕事は安売りしない、どんな客でも特別扱いはしない……それが、ヘンシェル老人の流儀だった。そんな彼が、レミィナのために時計を作ったのだという。最近はほぼ全ての仕事をクラウゼに任せているという話をレミィナも聞いていたが、このためだったのだろうか。
「……自分だけの時を生きろ。魔王の娘としてではなく、魔物としてでもなく……レミィナとして……」
かすれる声で言うと、ヘンシェル老人はゆっくりと紅茶を飲み干す。震える手で、カップを静かに机に置き……
老人は目を閉ざした。
「……おじいさん？」
老人は応えない。レミィナには、目の前にあったはずの『何か』が、ふいに姿を消したように思えた。
「おじいさん！」
レミィナは老人の手を取った。痩せた手には温かみはあっても、命の脈動がなかった。まるで、時が止まってしまったかのように。
「……おじいさん……いなくなったの？」
レミィナの目から、雫がこぼれ落ちた。やがてそれは数を増やしていき、次々と床にしたたり落ちる。
それを見ていたのは動かなくなった時計と、逆回りに廻り続ける、新しい時計だけだった。
………ヘンシェル老人の葬儀には、町の重役が人魔問わず大勢詰めかけた。魔物と結婚して去っていったかつての弟子達も、かけつけては一様に涙を流していた。クラウゼはカトレに励まされ、涙を堪えながら弔辞を読み上げ、師匠から受け継いだ技術を、今度は自分が未来へ伝えていくと語った。
「……偏屈物だったが、惜しい人を亡くした」
「八十四歳……確かに逝ってもおかしくはない歳だが……こんな急に」
「お弟子さんが工房を引き継ぐそうですわ。私たちも支えてあげましょう」
「ああ。……弟子を一人前にできたんだから、職人としては本望だったかもな」
そんな会話をする貴族たちを余所に、レミィナは逆回りの時計を眺めていた。
耳に近づければ、チクタクという針の音が聞こえてくる。「血が通っている」と評された通り、レミィナにもその音が命の鼓動にさえ聞こえた。
そして、逆回りに動く針に込められた意味……自分だけの【時】を生きろ、というヘンシェル老人の言葉を、心の中で反芻する。
「……おじいさんも、おじいさんの【時】を生きたんだね。生ききったんだよね」
その結果は、暖かい最期ではなかったかもしれない。少なくとも、愛に生きる魔物達の目で見れば哀しい結末だっただろう。しかしヘンシェル老人は自分の時を生き抜き、次の世代へ托したのだ。
そしてレミィナもまた、その新しい時代を担っていく。目指す先にあるのは愛の世界か、また別の未来か、レミィナには分からない。
「わたしはまだ、知らなきゃいけないことが多すぎるもの……」
時計を懐に収め、レミィナは呟いた。
大丈夫、時間はたっぷりある。世界の様々な物を見て、聞いて、自分の生き方を、自分の【時】を見つけよう。それがやがて、この世界がどう動いていくかを決めるかもしれない。辛いこと、哀しいこともあるだろう。悩むこともあるはずだ。しかしそれを受け止めて、時を刻んでいこう。
左向きに廻る、自分だけの時計と共に。
ＥＮＤ
13/04/03 22:24更新 / 空き缶号