前編
入学初日の授業が終わり、僕は憂鬱な気分で下校の準備を始めていた。部活の見学に行く気にもなれず、とにかくさっさと校舎から立ち去りたい。
人間関係は出だしが肝心だというが、僕は高校に入学早々、その点で大きなしくじりをしてしまった。この高校は人魔共学であり、人間がほとんどだった僕の中学と比べ、遥かに魔物が多い。応援団長はセイレーン、剣道部にはリザードマンやデュラハンという具合に。こういう学校はもう珍しくないが、地方によっては未だに魔物への偏見があったりもする。僕は将来、そういう差別をなくしていく仕事をしたいと思っていた。
思っていたのに。
「はぁ……」
ポケットに突っ込んだままの左腕を眺め、僕は思わずため息を吐いた。小さい頃に使い物にならなくなった、この手が無性に憎い。
今日の昼休み、学食へ行くため廊下の角を曲がったときだった。反対側から歩いてきた……いや、這いずってきた女子と、至近距離でばったり目が合ったのだ。普通なら、だからどうした、という程度の話。だが僕は彼女を見た瞬間体が強張って、腰を抜かしてへたり込んでしまったのだ。
凛とした顔立ちの、サイドテールの女の子。だが側頭部で束ねられた髪の先端が、多数の蛇の頭になっていること、そしてスカートの裾から下の半身も蛇の体だったことに、反射的に恐怖感を抱いてしまった。彼女は驚いて僕に手を差し伸べたが、最低なことに僕はその手さえ振り払った。髪の蛇がこちらをじっと見つめているのが、とても怖くて。
そのメドゥーサは眉間に皺を寄せて僕を睨んだ。ただそれだけで、石にされたりはしなかった。しかし怒りの中に悲しみが滲んだような表情で、顔を背けて去っていく姿を思い出す度、心が痛む。僕は蛇だけは駄目だけど、女の子相手にあんな失礼なことをしてしまうなんて。
心無しか、他の魔物たちからの視線も痛い。そりゃそうだ、傍から見れば差別にしか見えないだろうし、噂も広まっているかもしれない。
これからどんなハイスクールライフを送る事になるのやら、先行き不安にも程がある。とりあえず今日はもう帰って宿題でもやるしかないが、家を離れて今は寮生活。学校と切り離されることがない。それでも校舎にいるよりいくらか気が楽だと思い、憂鬱さを鞄と一緒に抱えたまま玄関へ出た。
だが下駄箱を開けた瞬間、見慣れないものが目に入った。本当ならそこにあるのは僕のスニーカーだけのはずだが、小さなピンク色の紙切れが入っていたのだ。
「……なんだこれ？」
怪文書か何かかと思って手に取ると、そこには丁寧な字で一文が書かれているだけだった。
――『旧校舎の作法室に来てください。 成海』
誰だろうと僕は首を傾げた。確かクラスの女子に成海という人はいなかった気がする。誰かのイタズラかもしれないが、そういうのを仕掛けてくる人にも心当たりはない。
「……あの子か」
もしかして、と思うのはあのメドゥーサか、でなければその友達だ。昼間のことで何か言おうとしているのかもしれない。
そうだったとしたら、行って謝るしかないだろう。謝って許してもらえなくても少しは気が晴れる。向こうから会う機会を作ってくれたならむしろラッキーと思うべきだ。もちろん別人の可能性もあるが、そのときはそのとき。
僕は靴を履き、駆け足で玄関を出た。
この学校の旧校舎は一部が立ち入り禁止になっているだけで、概ね生徒が自由に出入りできるようになっているらしい。入ってみると古いコンクリートの建物ではあるが意外と奇麗で、窓から差し込む日がどこか懐かしい雰囲気を出していた。フリースペースとしても使われているようで、何人かで集会をしている先輩たちや、デートしている男女をちらほらと見かけた。そういう人たちに場所を尋ねながら歩いて行くと、掠れた文字の『作法室』の表札が目に入った。
ここで彼女が待っているなら、僕はまたあの『蛇』と対面することになる。蛇の姿を連想するだけで脚が震え、動かない左腕が痛む。だけどここでまた彼女から逃げれば一生後悔するだろう。
深呼吸を一回、二回と繰り返す。落ち着け、蛇がなんだ。左手を噛まれたのは何年も前のことじゃないか。それにメドゥーサは蛇じゃなくて、女の子なんだ……自分に言い聞かせた。
「よし」
意を決してドアを開けた。
作法室の内装がどうなっているかは知らなかったが、中を見た瞬間「学校にこんな部屋があるのか」と思った。旧校舎なので備品などは片付けられているようだが、色あせた畳みがちゃんとあり、入り口の反対側はボロくなった襖で仕切られている。完全な和室だった。やはりここで集会をやる人たちでもいるのか、畳みは隅の方を除きあまり埃をかぶっていない。
そしてその畳みの上には、誰もいなかった。
「沢渡くん？」
襖の向こうから声がして、心臓がドキリと脈打った。直感的に、彼女だと分かったのだ。
「そこに座って」
「……はい」
言われるままに、畳みの上に正座した。まるで叱られているかのように。いや、叱られなければならないことをしたのだから、当然だ。
俯いて待つ僕だが、彼女は襖を開けず、姿を見せなかった。
「私は成海 藍。あんたと同じ一年」
短い自己紹介があった。そういえば制服の校章が僕のと同じ色だった気がする。気が動転していて細かく観察はできなかったが。
そうだ、僕も名乗らなくてはと思ったとき、成海さんは言葉を続けた。
「あの、さ。あんたと同じ中学の人から、その、聞いたんだけど……」
先ほどまできりっとした声だったのに、少しおずおずとした口調になった。何を聞いたのか、僕は少し見当がついた。
「あんた、小さい頃……毒蛇に噛まれて死にかけて、今でも左腕が麻痺してるって……」
「……うん」
少しの間、沈黙が流れた。使い物にならない左手をポケットに押し込み、器用に動く右手を何に使うでもなく、ただ正座して、言うべき言葉を口に出した。
「その、僕が悪かったから……ごめ……」
「謝らないで」
早口で言われたその言葉に、出かけた謝罪が引っ込んでしまった。また少し、沈黙。僕は彼女の言葉を待った。
「言っておくけど、私も謝らないわよ」
少し引き締まった声で成海さんは言う。
「気の毒なトラウマだとは思うけどさ、私も悪いことをした覚えないし？」
「……うん、その通りだと思う」
彼女が僕に謝る筋はないはずだ。僕がメドゥーサの容姿に勝手に怯えたのであり、成海さんは何もしていないどころか、僕に手を差し伸べてくれた。成海さんに罪があるのだとすれば、メドゥーサであること自体が罪、という理屈になってしまう。
「でもあんたが私のことを怖がるのも、仕方ないし、怒ってないし。だからあんたも謝らないでね。これでおあいこ」
「……ありがとう」
謝罪ではなく、感謝の言葉が口から出た。何か救われたような気がした。怒ってないと言ってもらえただけで、話をしてもらえただけで嬉しい。許してもらえたんだ。
それでも再びその姿を見たら、またあの恐怖心がわき起こってしまうかもしれない。蛇が牙を剥いたあの記憶が頭の中に蘇ってくるだろう。血清がギリギリ間に合って命は取り留めたが、その後もしばらく苦しむ羽目になり、その苦しみから解放されたとき、左腕は動かなくなっていた。多分これからずっと、消えないトラウマだ。
「その、気をつけなさいね。私だからよかったけど、ナイーブな子もいるんだから」
「うん」
そう、他にもラミア種の子はいるのだ。その子たちを近くで見たとき、また僕は相手を傷つけてしまうかもしれない。こんなことで高校生活を送っていけるのだろうか。
そのとき僕は襖の端が少しだけ空いているのに気づいた。そこから見える向こう側の風景は非常に限られた、狭い範囲でしかないが、その中に目を引きつけるものがある。成海さんの手が見えたのだ。昼間に僕が振り払ってしまった、奇麗な白い手が。
せっかく差し伸べた手を払いのけられたときの、悲しそうな表情を思い出す。蛇が怖いからと言っても、何故あんなことをしてしまったのか。何故女の子の手を握ることもできなかったのか。
衝動的に、だがゆっくりと体が動いた。前のめりになって、右手をそっとその隙間へ伸ばす。手以外に成海さんの体は見えない。『蛇』はいない、そこにあるのは女の子の手だけだ。
あと三十センチ。
二十センチ。
十センチ。
五センチ……
「どうしたの？」
声をかけられ、体がぴくりと震えた。間近まで接近した右手の動きも止まってしまう。石化とはこういう状態に近いのだろうが、などとずれたことを考えた。
「その……手を……」
「手？」
はっきりと言えない。反射的に手に触れたくなった、などと言えるわけがない。だが成海さんは僕が何をしようとしていたのか、気づいてしまったようだ。僕の手がもう触れる寸前まで来ていたのだから。
だがその直後、右手に温かい感触を覚えた。すらりとした奇麗な指が、僕の手を握ってくれていたのだ。
「なんだ、触れるじゃない」
心無しか、彼女の声が少し弾んでいた。僕はその手を握り返す。握手するかのように、しっかり手を繋ぐ。成海さんもしっかりと握ってくれた。
「……ふふ」
「……はは」
襖越しに、僕らは笑い合った。互いの姿を見ずに、手だけを繋いだままで。
それだけなのに、とても楽しかった。
次の日も、その次の日も、旧校舎の作法室で成海さんと会った。特に約束をしたわけでもなく、学校で彼女を見ても近づかないし、向こうも無視している。だけど授業が終わると自然と旧校舎へ脚が向き、そこにはいつも成海さんが待っていてくれた。
彼女は僕への配慮で姿を見せないが、襖から手だけを出し、手を繋いであれこれ話をする。中学の話や勉強のこと、家族のこと、いろいろ話した。
成海さんは人間が魔物を怖がってしまうのは仕方ないと言った。人間と違う体をしているのは事実なのだから、と。むしろそれを認めないで、何でもかんでも人間と同様・平等に扱おうとする人の方が嫌いだとも言った。
「幼稚園の頃ね、人間の子たちと一緒に遊んだの。私は怪獣の役をやってって言われたから、いいよって言ったの」
他の子供が積み木で作った町を、成海さんは怪獣として壊していった。するとそこへ保育士が駆けつけてきて、周りの子供たちを叱ったという。差別だ、と。
「それっきり、その子たちとは遊んでもらえなくなっちゃった。私は怪獣の役、結構好きだったのに」
「大人って余計なことしか言わないね……」
彼女と手を繋ぎながら、僕は呟いた。
叱られた友達はきっと、成海さんが怖くなったわけではないだろう。ただ子供にはどのようなことが差別になってしまうのか理解するのは難しいし、また叱られるかもしれないと思えば自然と魔物に近づきにくくなる。良識人気取りが逆に人と魔物の隔たりを作ってしまったのだ。
「僕も同じようなことがあったよ。左腕が動かないハンデがあると、さ……」
世間一般からすれば身体障害者である僕に、大抵の人は優しくしてくれた。
沢渡君は休んでていいよ。
私がやるから沢渡君は無理しないで。
沢渡君は左腕が動かないから、誰か代わりにやってあげて。
ある程度は仕方ないと分かっていた。だがいつもみんなの輪の中から弾き出されているような、そんな疎外感は消えなかった。教師がそんな空気を作っているのがまた耐えられない。逆らうことができないのだから。
「むしろ左腕のことをバカにして、ケンカを売ってくる奴の方が相手しやすかったな」
「相手しやすかったって、どうしたのよ？」
「右ストレート一発喰らわせれば解決したよ」
「……あんた、そういう一面もあるのね」
ケンカは嫌いだけど、やれば強い方だ。というより、たまに行き場のない怒りを右腕に込めて振り回せば大抵勝てた。高校に入ってからはそういうことは止めて、新しい人間関係を作っていこうと思った。実際に人魔共学の学校だけに差別は少ないし、みんな互いの違いを認めながらちゃんと馴染んでいる。
「他の魔物の子たちとは上手くやってる？」
「うん。大抵仲良くできてるよ。みんな親切にしてくれるし」
「……あっそ」
何故か不機嫌そうに返され、少し戸惑った。よかったね、と言ってくれると思っていたのに、何か気に入らないことでもあったのだろうか。
クラスにしてもその外にしても、魔物とはそれなりに仲良くやっていた。人間にも魔物にもいろいろなのがいるけど、少なくともこの学校にいるのはみんな親切な奴らだ。『メドゥーサを見て腰を抜かした失礼な奴』というレッテルも次第に剥がれてきた。ラミア種の女子にはあまり近づけないが、成海さんに会ったときのようなことは起きていない。
「あ、でも二年生の……ガスマスク着けたマンティスは怖かった」
「ああ、アレは仕方ないわ。私も怖かった」
不機嫌な口調から一点、共感で一杯の言葉だった。襖の隙間で繋いでいる手をゆっくり上下に振る。何か心が繋がったような気がした。
「私のことは今でも怖い？」
「成海さんは怖くないけど、やっぱり蛇を見ると、ね……」
メドゥーサはラミアや白蛇と違い、髪に蛇の頭がついている。その目や牙を見る度にトラウマが呼び起こされてしまう。死ぬ寸前の状態を味わった記憶は簡単に消えてくれないだろう。
「でも成海さんには本当に感謝してる。あんなことをしたのに、こうやって話もしてくれて……」
「だからあのことはいいって。私と沢渡君はもう、その……友達、だから」
少しだけ、手を握る彼女の力が強まった気がした。
本当は手を繋ぐだけじゃなくて、もっと隔たりなく話をしたい。だが恐怖心はこの襖よりもずっと分厚い壁だ。また成海さんの姿を見て怯えてしまったら、また彼女を傷つけてしまったら。そう思うと、こうやって互いの手の温もりを感じるだけでいいのかもしれない。
成海さんはどう思っているのだろうか。
「あ……そろそろ、帰らなきゃ」
「あ、うん。じゃあ先に行くよ」
成海さんは実家暮らしで帰宅部だから、寮生活の僕ほど学校でのんびりとはしていられない。僕が先に作法室から出て、その後で彼女が部屋を後にするのがいつものパターンだ。姿を見なくて済むように。
でもやっぱり本当は、手を繋いだまま一緒に帰りたい。手と手が離れた瞬間に刹那さを覚えつつ、僕は部屋を出た。
………
……
…
「さーわたーりくーん」
翌日の放課後。悶々とした気分を抱えながらも、いつものように旧校舎へ向かおうとしたとき、後ろから声をかけられた。振り向くと、刑部狸の里原さんがニコニコ笑いながら尻尾を振っていた。同じクラスの友達だ。
「何？」
「沢渡くん、今日も成海はんに会いに行くんやろ」
下手くそな関西弁でそう言われ、僕の心臓は大きく脈打った。旧校舎の作法室で何をしているのか、誰にも言ったことはない。とはいえ鍵がかかる部屋ではないし、他にも旧校舎に集まる人たちがいるので、バレてもおかしくはないことだ。ましてやタヌキというのは油断ならない魔物だから、どこから情報を仕入れてくるか分からない。
「いや、その……」
「別にええやん。悪いことしとらへんやろ」
彼女はふわふわの尻尾で僕の脇腹をぽふぽふと叩く。確かに悪いことはしていない。ただ何となく秘密にしていただけだ。女の子の顔を水に手だけ繋いで話をしているなんて、知られたら恥ずかしすぎるじゃないか。
里原さんの尻尾攻撃は「まあまあ」とか「いいからいいから」というサインらしいが、ぽふぽふ叩かれる度に気恥ずかしさは増した。
「で、どうなんや？ 成海さんとの仲は進展しとるんか？」
「し、進展って言っても……」
「しとらへんやろな。出会い方は最悪やったし、沢渡くんは蛇嫌いやし。せやけどそれよりも、メドゥーサっちゅうのは素直になれない魔物や。放課後に二人きりでお喋りするなんて、その気があるに決まってるやろーになぁ」
マシンガントークで畳み掛けられ、言葉を咄嗟に返せなかった。だが「その気がある」という言葉のみが引っかかる。魔物の言う「その気」とはつまり……。
「本当はね、したくてたまらんと思うで。セ・ッ・ク・ス」
心臓の鼓動が早まった。地面から水が湧いてくるかのように、徐々に激しくなっていく。
成海さんが僕とセックス。あの優しい成海さんと、僕が。そのことだけがグルグルと脳内を回った。成海さんが僕とそんなことをしたがっているだなんて、信じられない思いもあった。だが信じたかった。あんな出会い方だったのに、成海さんは毎日旧校舎で僕を待ってくれている。魔物である彼女の望みがそれだったとしても何の不思議もない。
蛇へのトラウマもある。怖がらない自信も無い。それでもあの奇麗な手が、僕の体に触れるのを想像せずにはいられない。
「にしし。そんな沢渡くんにオススメの物があるねん」
ニヤニヤ笑いを浮かべながら、里原さんはポケットから小さな瓶を取り出した。栄養ドリンクのようなラベルが貼られており、ピンク色の可愛らしい字で『トリコミンH』と書かれている。効果は魅力増強、滋養強壮……。
何か、読めたような気がした。
「虜の果実のドリンク剤？」
「そういうこっちゃ。距離を縮めるにはこれやで」
虜の果実といえば有名な魔界の果物だ。魔物が食べると美容効果があり、男が食べると魔物を引きつけるフェロモンのようなものが発生するという。噂によるとその効き目というのは、
食べたくらいでそんなにモテるわけがないと言っていた奴が、食べて三秒後に童貞を失った。
魔物のいない密室で食べれば大丈夫と思っていたらドアの隙間からスライムが潜り込んできて襲われた。
虜の果実を食べると犯される可能性は百五十パーセント。犯されている最中に新たな魔物がやってくる可能性が五十パーセントの意。
……と、抜群の効果を発揮するらしい。
「こんなもの見た事ないけど」
「狸族の極秘ルートで入手しとるねん」
「え、じゃあ狸の子が校内でキャッチセールスしてるっていう噂は本当……」
「そんな迷惑なことしとらへん！ 商売の修行も兼ねて、確かな効き目の物を良心的なお値段で学友に提供しとるんや！」
胡散臭さMAXな反論をし、里原さんはコホンと咳払いをした。
「沢渡君みたいな草食系と、メドゥーサみたいな意地っ張りの取り合わせはなかなか進展せぇへん。膠着状態やろ。そういうときコレが役に立つんや」
面と向かって草食系呼ばわりされたが、事実なので反論できない。
「もっと近づきたいって思わへん？ ん？」
「そりゃ……でも主な原因は僕の方で……」
成海さんが僕を求めてくれても、僕の蛇へのトラウマが問題だ。髪の蛇を、蛇体の下半身を見た瞬間に拒絶反応を起こしてしまうのが怖い。また成海さんを傷つけてしまうのは嫌だ。
そんな僕の心配を、里原さんは鼻で笑った。
「あんたほど深刻なトラウマがなくてもね、蛇やら蜘蛛やらが好きな男なんて早々おらへんやろ。せやけどラミアやアラクネの子もちゃんと彼氏作って仲良くやっとるやん。その彼氏みんなが爬虫類好きとか虫好きとちゃうで」
そう言ってしまえば、確かにその通りだ。
「よく言うやん、魔物は獲物を逃さないって。いっぺん無理矢理にでも成海はんにギューってされてみ。荒療治やけど、それでトラウマなんて吹っ飛んでまうやろ。魔物の体っちゅうのはそういう風にできとるんや」
「そ、そうかもしれないけど」
口ではどもりつつも、僕は里原さんの言葉に惹かれていた。無理矢理であれ、成海さんともっと近しくなれるなら。手を繋いで帰れるようになるなら、何だってしたい。
「つまりね、蛇嫌いを克服する勇気なんていらへんねん。あんたに必要なのは成海はんに襲われる勇気やねん」
その言葉が後押しとなった。僕の手は自然にポケット……財布へと伸びる。
「いくら？」
「六百円でどうや？」
「買う」
即答で財布に一枚だけ残っていた千円札を突き出した。まいどあり、という楽しげな声と共に瓶を渡され、続いておつりの四百円も返される。里原さんはきっと将来腕利きの営業マンになるだろう。
そして僕はトリコミンHの瓶を握りしめ、駆け出した。背後から「お幸せにー」という野次を受けながら……
人間関係は出だしが肝心だというが、僕は高校に入学早々、その点で大きなしくじりをしてしまった。この高校は人魔共学であり、人間がほとんどだった僕の中学と比べ、遥かに魔物が多い。応援団長はセイレーン、剣道部にはリザードマンやデュラハンという具合に。こういう学校はもう珍しくないが、地方によっては未だに魔物への偏見があったりもする。僕は将来、そういう差別をなくしていく仕事をしたいと思っていた。
思っていたのに。
「はぁ……」
ポケットに突っ込んだままの左腕を眺め、僕は思わずため息を吐いた。小さい頃に使い物にならなくなった、この手が無性に憎い。
今日の昼休み、学食へ行くため廊下の角を曲がったときだった。反対側から歩いてきた……いや、這いずってきた女子と、至近距離でばったり目が合ったのだ。普通なら、だからどうした、という程度の話。だが僕は彼女を見た瞬間体が強張って、腰を抜かしてへたり込んでしまったのだ。
凛とした顔立ちの、サイドテールの女の子。だが側頭部で束ねられた髪の先端が、多数の蛇の頭になっていること、そしてスカートの裾から下の半身も蛇の体だったことに、反射的に恐怖感を抱いてしまった。彼女は驚いて僕に手を差し伸べたが、最低なことに僕はその手さえ振り払った。髪の蛇がこちらをじっと見つめているのが、とても怖くて。
そのメドゥーサは眉間に皺を寄せて僕を睨んだ。ただそれだけで、石にされたりはしなかった。しかし怒りの中に悲しみが滲んだような表情で、顔を背けて去っていく姿を思い出す度、心が痛む。僕は蛇だけは駄目だけど、女の子相手にあんな失礼なことをしてしまうなんて。
心無しか、他の魔物たちからの視線も痛い。そりゃそうだ、傍から見れば差別にしか見えないだろうし、噂も広まっているかもしれない。
これからどんなハイスクールライフを送る事になるのやら、先行き不安にも程がある。とりあえず今日はもう帰って宿題でもやるしかないが、家を離れて今は寮生活。学校と切り離されることがない。それでも校舎にいるよりいくらか気が楽だと思い、憂鬱さを鞄と一緒に抱えたまま玄関へ出た。
だが下駄箱を開けた瞬間、見慣れないものが目に入った。本当ならそこにあるのは僕のスニーカーだけのはずだが、小さなピンク色の紙切れが入っていたのだ。
「……なんだこれ？」
怪文書か何かかと思って手に取ると、そこには丁寧な字で一文が書かれているだけだった。
――『旧校舎の作法室に来てください。 成海』
誰だろうと僕は首を傾げた。確かクラスの女子に成海という人はいなかった気がする。誰かのイタズラかもしれないが、そういうのを仕掛けてくる人にも心当たりはない。
「……あの子か」
もしかして、と思うのはあのメドゥーサか、でなければその友達だ。昼間のことで何か言おうとしているのかもしれない。
そうだったとしたら、行って謝るしかないだろう。謝って許してもらえなくても少しは気が晴れる。向こうから会う機会を作ってくれたならむしろラッキーと思うべきだ。もちろん別人の可能性もあるが、そのときはそのとき。
僕は靴を履き、駆け足で玄関を出た。
この学校の旧校舎は一部が立ち入り禁止になっているだけで、概ね生徒が自由に出入りできるようになっているらしい。入ってみると古いコンクリートの建物ではあるが意外と奇麗で、窓から差し込む日がどこか懐かしい雰囲気を出していた。フリースペースとしても使われているようで、何人かで集会をしている先輩たちや、デートしている男女をちらほらと見かけた。そういう人たちに場所を尋ねながら歩いて行くと、掠れた文字の『作法室』の表札が目に入った。
ここで彼女が待っているなら、僕はまたあの『蛇』と対面することになる。蛇の姿を連想するだけで脚が震え、動かない左腕が痛む。だけどここでまた彼女から逃げれば一生後悔するだろう。
深呼吸を一回、二回と繰り返す。落ち着け、蛇がなんだ。左手を噛まれたのは何年も前のことじゃないか。それにメドゥーサは蛇じゃなくて、女の子なんだ……自分に言い聞かせた。
「よし」
意を決してドアを開けた。
作法室の内装がどうなっているかは知らなかったが、中を見た瞬間「学校にこんな部屋があるのか」と思った。旧校舎なので備品などは片付けられているようだが、色あせた畳みがちゃんとあり、入り口の反対側はボロくなった襖で仕切られている。完全な和室だった。やはりここで集会をやる人たちでもいるのか、畳みは隅の方を除きあまり埃をかぶっていない。
そしてその畳みの上には、誰もいなかった。
「沢渡くん？」
襖の向こうから声がして、心臓がドキリと脈打った。直感的に、彼女だと分かったのだ。
「そこに座って」
「……はい」
言われるままに、畳みの上に正座した。まるで叱られているかのように。いや、叱られなければならないことをしたのだから、当然だ。
俯いて待つ僕だが、彼女は襖を開けず、姿を見せなかった。
「私は成海 藍。あんたと同じ一年」
短い自己紹介があった。そういえば制服の校章が僕のと同じ色だった気がする。気が動転していて細かく観察はできなかったが。
そうだ、僕も名乗らなくてはと思ったとき、成海さんは言葉を続けた。
「あの、さ。あんたと同じ中学の人から、その、聞いたんだけど……」
先ほどまできりっとした声だったのに、少しおずおずとした口調になった。何を聞いたのか、僕は少し見当がついた。
「あんた、小さい頃……毒蛇に噛まれて死にかけて、今でも左腕が麻痺してるって……」
「……うん」
少しの間、沈黙が流れた。使い物にならない左手をポケットに押し込み、器用に動く右手を何に使うでもなく、ただ正座して、言うべき言葉を口に出した。
「その、僕が悪かったから……ごめ……」
「謝らないで」
早口で言われたその言葉に、出かけた謝罪が引っ込んでしまった。また少し、沈黙。僕は彼女の言葉を待った。
「言っておくけど、私も謝らないわよ」
少し引き締まった声で成海さんは言う。
「気の毒なトラウマだとは思うけどさ、私も悪いことをした覚えないし？」
「……うん、その通りだと思う」
彼女が僕に謝る筋はないはずだ。僕がメドゥーサの容姿に勝手に怯えたのであり、成海さんは何もしていないどころか、僕に手を差し伸べてくれた。成海さんに罪があるのだとすれば、メドゥーサであること自体が罪、という理屈になってしまう。
「でもあんたが私のことを怖がるのも、仕方ないし、怒ってないし。だからあんたも謝らないでね。これでおあいこ」
「……ありがとう」
謝罪ではなく、感謝の言葉が口から出た。何か救われたような気がした。怒ってないと言ってもらえただけで、話をしてもらえただけで嬉しい。許してもらえたんだ。
それでも再びその姿を見たら、またあの恐怖心がわき起こってしまうかもしれない。蛇が牙を剥いたあの記憶が頭の中に蘇ってくるだろう。血清がギリギリ間に合って命は取り留めたが、その後もしばらく苦しむ羽目になり、その苦しみから解放されたとき、左腕は動かなくなっていた。多分これからずっと、消えないトラウマだ。
「その、気をつけなさいね。私だからよかったけど、ナイーブな子もいるんだから」
「うん」
そう、他にもラミア種の子はいるのだ。その子たちを近くで見たとき、また僕は相手を傷つけてしまうかもしれない。こんなことで高校生活を送っていけるのだろうか。
そのとき僕は襖の端が少しだけ空いているのに気づいた。そこから見える向こう側の風景は非常に限られた、狭い範囲でしかないが、その中に目を引きつけるものがある。成海さんの手が見えたのだ。昼間に僕が振り払ってしまった、奇麗な白い手が。
せっかく差し伸べた手を払いのけられたときの、悲しそうな表情を思い出す。蛇が怖いからと言っても、何故あんなことをしてしまったのか。何故女の子の手を握ることもできなかったのか。
衝動的に、だがゆっくりと体が動いた。前のめりになって、右手をそっとその隙間へ伸ばす。手以外に成海さんの体は見えない。『蛇』はいない、そこにあるのは女の子の手だけだ。
あと三十センチ。
二十センチ。
十センチ。
五センチ……
「どうしたの？」
声をかけられ、体がぴくりと震えた。間近まで接近した右手の動きも止まってしまう。石化とはこういう状態に近いのだろうが、などとずれたことを考えた。
「その……手を……」
「手？」
はっきりと言えない。反射的に手に触れたくなった、などと言えるわけがない。だが成海さんは僕が何をしようとしていたのか、気づいてしまったようだ。僕の手がもう触れる寸前まで来ていたのだから。
だがその直後、右手に温かい感触を覚えた。すらりとした奇麗な指が、僕の手を握ってくれていたのだ。
「なんだ、触れるじゃない」
心無しか、彼女の声が少し弾んでいた。僕はその手を握り返す。握手するかのように、しっかり手を繋ぐ。成海さんもしっかりと握ってくれた。
「……ふふ」
「……はは」
襖越しに、僕らは笑い合った。互いの姿を見ずに、手だけを繋いだままで。
それだけなのに、とても楽しかった。
次の日も、その次の日も、旧校舎の作法室で成海さんと会った。特に約束をしたわけでもなく、学校で彼女を見ても近づかないし、向こうも無視している。だけど授業が終わると自然と旧校舎へ脚が向き、そこにはいつも成海さんが待っていてくれた。
彼女は僕への配慮で姿を見せないが、襖から手だけを出し、手を繋いであれこれ話をする。中学の話や勉強のこと、家族のこと、いろいろ話した。
成海さんは人間が魔物を怖がってしまうのは仕方ないと言った。人間と違う体をしているのは事実なのだから、と。むしろそれを認めないで、何でもかんでも人間と同様・平等に扱おうとする人の方が嫌いだとも言った。
「幼稚園の頃ね、人間の子たちと一緒に遊んだの。私は怪獣の役をやってって言われたから、いいよって言ったの」
他の子供が積み木で作った町を、成海さんは怪獣として壊していった。するとそこへ保育士が駆けつけてきて、周りの子供たちを叱ったという。差別だ、と。
「それっきり、その子たちとは遊んでもらえなくなっちゃった。私は怪獣の役、結構好きだったのに」
「大人って余計なことしか言わないね……」
彼女と手を繋ぎながら、僕は呟いた。
叱られた友達はきっと、成海さんが怖くなったわけではないだろう。ただ子供にはどのようなことが差別になってしまうのか理解するのは難しいし、また叱られるかもしれないと思えば自然と魔物に近づきにくくなる。良識人気取りが逆に人と魔物の隔たりを作ってしまったのだ。
「僕も同じようなことがあったよ。左腕が動かないハンデがあると、さ……」
世間一般からすれば身体障害者である僕に、大抵の人は優しくしてくれた。
沢渡君は休んでていいよ。
私がやるから沢渡君は無理しないで。
沢渡君は左腕が動かないから、誰か代わりにやってあげて。
ある程度は仕方ないと分かっていた。だがいつもみんなの輪の中から弾き出されているような、そんな疎外感は消えなかった。教師がそんな空気を作っているのがまた耐えられない。逆らうことができないのだから。
「むしろ左腕のことをバカにして、ケンカを売ってくる奴の方が相手しやすかったな」
「相手しやすかったって、どうしたのよ？」
「右ストレート一発喰らわせれば解決したよ」
「……あんた、そういう一面もあるのね」
ケンカは嫌いだけど、やれば強い方だ。というより、たまに行き場のない怒りを右腕に込めて振り回せば大抵勝てた。高校に入ってからはそういうことは止めて、新しい人間関係を作っていこうと思った。実際に人魔共学の学校だけに差別は少ないし、みんな互いの違いを認めながらちゃんと馴染んでいる。
「他の魔物の子たちとは上手くやってる？」
「うん。大抵仲良くできてるよ。みんな親切にしてくれるし」
「……あっそ」
何故か不機嫌そうに返され、少し戸惑った。よかったね、と言ってくれると思っていたのに、何か気に入らないことでもあったのだろうか。
クラスにしてもその外にしても、魔物とはそれなりに仲良くやっていた。人間にも魔物にもいろいろなのがいるけど、少なくともこの学校にいるのはみんな親切な奴らだ。『メドゥーサを見て腰を抜かした失礼な奴』というレッテルも次第に剥がれてきた。ラミア種の女子にはあまり近づけないが、成海さんに会ったときのようなことは起きていない。
「あ、でも二年生の……ガスマスク着けたマンティスは怖かった」
「ああ、アレは仕方ないわ。私も怖かった」
不機嫌な口調から一点、共感で一杯の言葉だった。襖の隙間で繋いでいる手をゆっくり上下に振る。何か心が繋がったような気がした。
「私のことは今でも怖い？」
「成海さんは怖くないけど、やっぱり蛇を見ると、ね……」
メドゥーサはラミアや白蛇と違い、髪に蛇の頭がついている。その目や牙を見る度にトラウマが呼び起こされてしまう。死ぬ寸前の状態を味わった記憶は簡単に消えてくれないだろう。
「でも成海さんには本当に感謝してる。あんなことをしたのに、こうやって話もしてくれて……」
「だからあのことはいいって。私と沢渡君はもう、その……友達、だから」
少しだけ、手を握る彼女の力が強まった気がした。
本当は手を繋ぐだけじゃなくて、もっと隔たりなく話をしたい。だが恐怖心はこの襖よりもずっと分厚い壁だ。また成海さんの姿を見て怯えてしまったら、また彼女を傷つけてしまったら。そう思うと、こうやって互いの手の温もりを感じるだけでいいのかもしれない。
成海さんはどう思っているのだろうか。
「あ……そろそろ、帰らなきゃ」
「あ、うん。じゃあ先に行くよ」
成海さんは実家暮らしで帰宅部だから、寮生活の僕ほど学校でのんびりとはしていられない。僕が先に作法室から出て、その後で彼女が部屋を後にするのがいつものパターンだ。姿を見なくて済むように。
でもやっぱり本当は、手を繋いだまま一緒に帰りたい。手と手が離れた瞬間に刹那さを覚えつつ、僕は部屋を出た。
………
……
…
「さーわたーりくーん」
翌日の放課後。悶々とした気分を抱えながらも、いつものように旧校舎へ向かおうとしたとき、後ろから声をかけられた。振り向くと、刑部狸の里原さんがニコニコ笑いながら尻尾を振っていた。同じクラスの友達だ。
「何？」
「沢渡くん、今日も成海はんに会いに行くんやろ」
下手くそな関西弁でそう言われ、僕の心臓は大きく脈打った。旧校舎の作法室で何をしているのか、誰にも言ったことはない。とはいえ鍵がかかる部屋ではないし、他にも旧校舎に集まる人たちがいるので、バレてもおかしくはないことだ。ましてやタヌキというのは油断ならない魔物だから、どこから情報を仕入れてくるか分からない。
「いや、その……」
「別にええやん。悪いことしとらへんやろ」
彼女はふわふわの尻尾で僕の脇腹をぽふぽふと叩く。確かに悪いことはしていない。ただ何となく秘密にしていただけだ。女の子の顔を水に手だけ繋いで話をしているなんて、知られたら恥ずかしすぎるじゃないか。
里原さんの尻尾攻撃は「まあまあ」とか「いいからいいから」というサインらしいが、ぽふぽふ叩かれる度に気恥ずかしさは増した。
「で、どうなんや？ 成海さんとの仲は進展しとるんか？」
「し、進展って言っても……」
「しとらへんやろな。出会い方は最悪やったし、沢渡くんは蛇嫌いやし。せやけどそれよりも、メドゥーサっちゅうのは素直になれない魔物や。放課後に二人きりでお喋りするなんて、その気があるに決まってるやろーになぁ」
マシンガントークで畳み掛けられ、言葉を咄嗟に返せなかった。だが「その気がある」という言葉のみが引っかかる。魔物の言う「その気」とはつまり……。
「本当はね、したくてたまらんと思うで。セ・ッ・ク・ス」
心臓の鼓動が早まった。地面から水が湧いてくるかのように、徐々に激しくなっていく。
成海さんが僕とセックス。あの優しい成海さんと、僕が。そのことだけがグルグルと脳内を回った。成海さんが僕とそんなことをしたがっているだなんて、信じられない思いもあった。だが信じたかった。あんな出会い方だったのに、成海さんは毎日旧校舎で僕を待ってくれている。魔物である彼女の望みがそれだったとしても何の不思議もない。
蛇へのトラウマもある。怖がらない自信も無い。それでもあの奇麗な手が、僕の体に触れるのを想像せずにはいられない。
「にしし。そんな沢渡くんにオススメの物があるねん」
ニヤニヤ笑いを浮かべながら、里原さんはポケットから小さな瓶を取り出した。栄養ドリンクのようなラベルが貼られており、ピンク色の可愛らしい字で『トリコミンH』と書かれている。効果は魅力増強、滋養強壮……。
何か、読めたような気がした。
「虜の果実のドリンク剤？」
「そういうこっちゃ。距離を縮めるにはこれやで」
虜の果実といえば有名な魔界の果物だ。魔物が食べると美容効果があり、男が食べると魔物を引きつけるフェロモンのようなものが発生するという。噂によるとその効き目というのは、
食べたくらいでそんなにモテるわけがないと言っていた奴が、食べて三秒後に童貞を失った。
魔物のいない密室で食べれば大丈夫と思っていたらドアの隙間からスライムが潜り込んできて襲われた。
虜の果実を食べると犯される可能性は百五十パーセント。犯されている最中に新たな魔物がやってくる可能性が五十パーセントの意。
……と、抜群の効果を発揮するらしい。
「こんなもの見た事ないけど」
「狸族の極秘ルートで入手しとるねん」
「え、じゃあ狸の子が校内でキャッチセールスしてるっていう噂は本当……」
「そんな迷惑なことしとらへん！ 商売の修行も兼ねて、確かな効き目の物を良心的なお値段で学友に提供しとるんや！」
胡散臭さMAXな反論をし、里原さんはコホンと咳払いをした。
「沢渡君みたいな草食系と、メドゥーサみたいな意地っ張りの取り合わせはなかなか進展せぇへん。膠着状態やろ。そういうときコレが役に立つんや」
面と向かって草食系呼ばわりされたが、事実なので反論できない。
「もっと近づきたいって思わへん？ ん？」
「そりゃ……でも主な原因は僕の方で……」
成海さんが僕を求めてくれても、僕の蛇へのトラウマが問題だ。髪の蛇を、蛇体の下半身を見た瞬間に拒絶反応を起こしてしまうのが怖い。また成海さんを傷つけてしまうのは嫌だ。
そんな僕の心配を、里原さんは鼻で笑った。
「あんたほど深刻なトラウマがなくてもね、蛇やら蜘蛛やらが好きな男なんて早々おらへんやろ。せやけどラミアやアラクネの子もちゃんと彼氏作って仲良くやっとるやん。その彼氏みんなが爬虫類好きとか虫好きとちゃうで」
そう言ってしまえば、確かにその通りだ。
「よく言うやん、魔物は獲物を逃さないって。いっぺん無理矢理にでも成海はんにギューってされてみ。荒療治やけど、それでトラウマなんて吹っ飛んでまうやろ。魔物の体っちゅうのはそういう風にできとるんや」
「そ、そうかもしれないけど」
口ではどもりつつも、僕は里原さんの言葉に惹かれていた。無理矢理であれ、成海さんともっと近しくなれるなら。手を繋いで帰れるようになるなら、何だってしたい。
「つまりね、蛇嫌いを克服する勇気なんていらへんねん。あんたに必要なのは成海はんに襲われる勇気やねん」
その言葉が後押しとなった。僕の手は自然にポケット……財布へと伸びる。
「いくら？」
「六百円でどうや？」
「買う」
即答で財布に一枚だけ残っていた千円札を突き出した。まいどあり、という楽しげな声と共に瓶を渡され、続いておつりの四百円も返される。里原さんはきっと将来腕利きの営業マンになるだろう。
そして僕はトリコミンHの瓶を握りしめ、駆け出した。背後から「お幸せにー」という野次を受けながら……
14/12/06 19:06更新 / 空き缶号
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