降雨
風が森の木々を踊らせた。がさがさと触れ合う枝の上をリスが走り、木から木へと飛び移っていく。腰に帯びた弓で仕留められる距離だが射る気はない。伝統的に弓矢の技を重んずる一族の生まれではあるけど、僕はもう当分弓は引きたくなかった。
後ろを振り向けば、木々の向こうに人間たちの町が見える。いや、人間と魔物たちの町か。どちらにしろ僕にとっては敵地であって、ここに追っ手が来る危険はある。それでも森の中に潜んでいればしばらくはやり過ごせるはずだ。元々森の奥に住んでいた僕たちにとって、森は何よりも強い盾になる。例えここが故郷の森でなくても。
この森にも魔物が住んでいて、人間も出入りしているようだ。地面に残った足跡などを見ればその歩き方から、どれだけ森に慣れた奴かが分かる。いつまでも誰にも気づかれずに暮らすのは難しいだろうけど、何処へ逃げても結局同じだ。潜んで逃げ、潜んで逃げ……それを繰り返すしかない。
できるだけ町から離れた森の奥へ、それでいて魔物に出会わないような隠れ場所を見つけたい。人間どもはともかく魔物の目を誤摩化し続けるのは無理かもしれないが、僕を追う連中と関わりのない魔物ならやり過ごせるだろう。
「……いい森だ」
木々を眺めながら、一人でふと呟いた。この森もルージュ・シティとかいう町の領内で、人の手も入っている。だけどこの森の木々は活き活きとしているし、獣も多くすんでいるようだ。実際にシカやイノシシの足跡をいくつも見た。伐採も多少行われているようだけど、森との付き合い方をちゃんと分かった人間が行っている。
この森ならそれなりに居心地よく暮らせたかもしれない。追われてさえいなければ。
「……!」
ずっと後ろの方で草を踏む音がした瞬間、僕は脚を止めた。
――狙われている!
肌が痺れるような感覚に襲われる。本能的に察知した危機感だった。それも今まで逃亡生活を続けてきた中で一番大きなものだ。
弓に手をかけつつ振り向くと、離れた所から研ぎすまされた武器が僕を睨んでいた。ククリナイフと呼ばれる湾曲した短剣で、元々鉈として使われるものだ。手にしているのは修道士のような格好をした男……と言っても本物の修道士とは思えない。暗く赤い瞳が僕を見据えていた。
「間に合ってよかった。森の奥でトラップでも張られたら厄介だもんな」
冷めた表情で、気だるそうに男はぼやく。気品さえ感じられる整った顔立ちだが、日常的に刺客を務めている者の目だ。奴を中心に殺気が波紋のように広がって、その中に立たされた僕は身動きが取れなかった。僕とあいつの距離はまだ弓の間合いであり、僕の方が有利だというのに。
「……僕を追ってきたの?」
「オレはお前を追っている連中じゃなくて、ここの領主の依頼で動いている。気は進まないけど、この町に他所のトラブルを持ち込んでほしくないんでね」
傭兵。金で人を殺す、人間の中でも特に汚い連中。
そんな奴に捕まるわけにはいかない。手の震えを抑えて弓を取り、背の矢筒から矢を一本引き抜く。矢羽根を黒く染めたこの矢は一族伝統のもので、鏃には毒草を調合した薬を塗ってある。当たれば猛獣でも動けなくなる麻痺毒だ。
「領主なら悪いようにはしないと思うけど、どうしても抵抗するのか」
「僕は森の戦士だ!」
精一杯気高く叫び、弓を構える。そうだ、僕らが弓を取れば人間に負けるわけがない。距離を詰められる前に仕留めればいい。
矢をつがえ、弦を一気に引き絞り……射る!
僕が撃つのと同時に傭兵は横へ走り、矢は空を切った。
このくらいは想定内。奴は的にならないよう蛇行して近づいてくるだろうとは思っていた。こっちも矢を連続で射る練習くらいはしている。どんな武芸の達人でも二発連続の飛矢を避けるのは至難の業だ。
奴の避けた先目がけて二の矢を射る。しかし。
「な……!」
僕は思わず目を見開いた。奴の体が地面に張り付いたのだ。まるでヘビのように。
矢は空しくその上を通り過ぎ、次の瞬間には奴が地を這うようにして迫ってくる。人間らしからぬ異様な動きで。
「ば、化け物!」
恐怖に駆られて放った三本目の矢も呆気なく外れる。さらに必死の連射を行っても、奴は地面を転がったり、急に立ち上がって再び這ったり、異様な動きで射点を定めさせない。射るときの呼吸も完全に読まれている。奴は蛇行しながら、やがて間近へ……!
「うわあああっ!」
奴が転がるようにして僕の足下へ飛び込んで来たとき。僕は咄嗟に弓を振り上げ、傭兵の頭目がけて振り下ろした。
「ふっ!」
微かに聞こえた呼気音の直後、手に強い衝撃が伝わる。だがそれは打撃が命中した手応えではなかった。ナイフの一撃を受け、僕の弓は上半分がなくなっていたのだ。
ナイフの切り上げに引っ張られるように、傭兵は一瞬で立ち上がる。普通の人間の動きじゃない。手足があって骨もあるはずなのに、何か不定形のものと戦っているような感覚だった。
奴が手を返し、刃が下を向いた。ククリナイフは刃の重さが切っ先に集中する形状になっている。あれが振り下ろされれば、僕の頭は一撃で割れるだろう。奴の目には一切の躊躇いがなかった。
――死。
恐怖が頭をよぎった瞬間。
刃が風を切った。
「……!」
僕の背から矢筒が、腰から剣が落ちる。刃は僕の胸を擦っただけだったが、武具を体に括り付けていた紐を切断されたのだ。
「弓で殴りつけてきたのは良い反応だったな。ただオレとお前じゃ経験が違いすぎるんだよ」
あくまでも気だるそうに、傭兵は僕に語りかけてくる。奴の手にはナイフ、僕は丸腰、勝ち目なんてない。
逃げないと……しかし背中を見せたらやられる。奴と向かい合ったまま震える脚が後ずさりを始めた。すると奴も一歩近づいてくる。
「もう止めておけ。領主はお前を――」
そのとき。
後ずさった僕の足が地面に潜った。
踏みつけた土が崩れ、その場にぽっかりと穴が空く。真上にいた僕は逃げようもない。悲鳴を上げる間すらなく突然生まれた穴へと吸い込まれる。
傭兵が伸ばした手を反射的に振り払い、僕は落ちていった。
闇の中へと。
後ろを振り向けば、木々の向こうに人間たちの町が見える。いや、人間と魔物たちの町か。どちらにしろ僕にとっては敵地であって、ここに追っ手が来る危険はある。それでも森の中に潜んでいればしばらくはやり過ごせるはずだ。元々森の奥に住んでいた僕たちにとって、森は何よりも強い盾になる。例えここが故郷の森でなくても。
この森にも魔物が住んでいて、人間も出入りしているようだ。地面に残った足跡などを見ればその歩き方から、どれだけ森に慣れた奴かが分かる。いつまでも誰にも気づかれずに暮らすのは難しいだろうけど、何処へ逃げても結局同じだ。潜んで逃げ、潜んで逃げ……それを繰り返すしかない。
できるだけ町から離れた森の奥へ、それでいて魔物に出会わないような隠れ場所を見つけたい。人間どもはともかく魔物の目を誤摩化し続けるのは無理かもしれないが、僕を追う連中と関わりのない魔物ならやり過ごせるだろう。
「……いい森だ」
木々を眺めながら、一人でふと呟いた。この森もルージュ・シティとかいう町の領内で、人の手も入っている。だけどこの森の木々は活き活きとしているし、獣も多くすんでいるようだ。実際にシカやイノシシの足跡をいくつも見た。伐採も多少行われているようだけど、森との付き合い方をちゃんと分かった人間が行っている。
この森ならそれなりに居心地よく暮らせたかもしれない。追われてさえいなければ。
「……!」
ずっと後ろの方で草を踏む音がした瞬間、僕は脚を止めた。
――狙われている!
肌が痺れるような感覚に襲われる。本能的に察知した危機感だった。それも今まで逃亡生活を続けてきた中で一番大きなものだ。
弓に手をかけつつ振り向くと、離れた所から研ぎすまされた武器が僕を睨んでいた。ククリナイフと呼ばれる湾曲した短剣で、元々鉈として使われるものだ。手にしているのは修道士のような格好をした男……と言っても本物の修道士とは思えない。暗く赤い瞳が僕を見据えていた。
「間に合ってよかった。森の奥でトラップでも張られたら厄介だもんな」
冷めた表情で、気だるそうに男はぼやく。気品さえ感じられる整った顔立ちだが、日常的に刺客を務めている者の目だ。奴を中心に殺気が波紋のように広がって、その中に立たされた僕は身動きが取れなかった。僕とあいつの距離はまだ弓の間合いであり、僕の方が有利だというのに。
「……僕を追ってきたの?」
「オレはお前を追っている連中じゃなくて、ここの領主の依頼で動いている。気は進まないけど、この町に他所のトラブルを持ち込んでほしくないんでね」
傭兵。金で人を殺す、人間の中でも特に汚い連中。
そんな奴に捕まるわけにはいかない。手の震えを抑えて弓を取り、背の矢筒から矢を一本引き抜く。矢羽根を黒く染めたこの矢は一族伝統のもので、鏃には毒草を調合した薬を塗ってある。当たれば猛獣でも動けなくなる麻痺毒だ。
「領主なら悪いようにはしないと思うけど、どうしても抵抗するのか」
「僕は森の戦士だ!」
精一杯気高く叫び、弓を構える。そうだ、僕らが弓を取れば人間に負けるわけがない。距離を詰められる前に仕留めればいい。
矢をつがえ、弦を一気に引き絞り……射る!
僕が撃つのと同時に傭兵は横へ走り、矢は空を切った。
このくらいは想定内。奴は的にならないよう蛇行して近づいてくるだろうとは思っていた。こっちも矢を連続で射る練習くらいはしている。どんな武芸の達人でも二発連続の飛矢を避けるのは至難の業だ。
奴の避けた先目がけて二の矢を射る。しかし。
「な……!」
僕は思わず目を見開いた。奴の体が地面に張り付いたのだ。まるでヘビのように。
矢は空しくその上を通り過ぎ、次の瞬間には奴が地を這うようにして迫ってくる。人間らしからぬ異様な動きで。
「ば、化け物!」
恐怖に駆られて放った三本目の矢も呆気なく外れる。さらに必死の連射を行っても、奴は地面を転がったり、急に立ち上がって再び這ったり、異様な動きで射点を定めさせない。射るときの呼吸も完全に読まれている。奴は蛇行しながら、やがて間近へ……!
「うわあああっ!」
奴が転がるようにして僕の足下へ飛び込んで来たとき。僕は咄嗟に弓を振り上げ、傭兵の頭目がけて振り下ろした。
「ふっ!」
微かに聞こえた呼気音の直後、手に強い衝撃が伝わる。だがそれは打撃が命中した手応えではなかった。ナイフの一撃を受け、僕の弓は上半分がなくなっていたのだ。
ナイフの切り上げに引っ張られるように、傭兵は一瞬で立ち上がる。普通の人間の動きじゃない。手足があって骨もあるはずなのに、何か不定形のものと戦っているような感覚だった。
奴が手を返し、刃が下を向いた。ククリナイフは刃の重さが切っ先に集中する形状になっている。あれが振り下ろされれば、僕の頭は一撃で割れるだろう。奴の目には一切の躊躇いがなかった。
――死。
恐怖が頭をよぎった瞬間。
刃が風を切った。
「……!」
僕の背から矢筒が、腰から剣が落ちる。刃は僕の胸を擦っただけだったが、武具を体に括り付けていた紐を切断されたのだ。
「弓で殴りつけてきたのは良い反応だったな。ただオレとお前じゃ経験が違いすぎるんだよ」
あくまでも気だるそうに、傭兵は僕に語りかけてくる。奴の手にはナイフ、僕は丸腰、勝ち目なんてない。
逃げないと……しかし背中を見せたらやられる。奴と向かい合ったまま震える脚が後ずさりを始めた。すると奴も一歩近づいてくる。
「もう止めておけ。領主はお前を――」
そのとき。
後ずさった僕の足が地面に潜った。
踏みつけた土が崩れ、その場にぽっかりと穴が空く。真上にいた僕は逃げようもない。悲鳴を上げる間すらなく突然生まれた穴へと吸い込まれる。
傭兵が伸ばした手を反射的に振り払い、僕は落ちていった。
闇の中へと。
13/06/25 19:09更新 / 空き缶号
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