エピローグ
……僕の家は代々理髪師として、あの子の家に専属で仕えていた。彼女はみんなの人気者で、僕ら使用人の子供達にも気さくに接してくれる優しい子だった。もっとも司祭であったあの子の父親は、それをあまりよく思っていなかったけど。
僕やあの子が十歳くらいの頃、僕は彼女の夢を聞いた。女の子としてはよくある夢なのだろう、「お嫁さん」というのは。相手は僕とも仲の良かった使用人の男の子だったから、僕もその夢を応援した。二人はどう考えてもお似合いだった。司祭に聞かれたらどうなるかは子供でも想像できたし、それは使用人見習いの間だけの秘密だったけど、僕は彼女に一つ約束した。立派な理髪師になって、二人が結婚するときには髪を整えてあげる、と。
その約束は果たせなかった。僕の母があの子を散髪しているとき、その額をハサミで傷付けてしまったのだ。母の腕は一流だったが、そのときは病気だったのに無理矢理仕事をさせられ、そんなことになった。だけどあの司祭が使用人の都合なんか気にするはずがない。教団の司祭なんていうのは、王侯貴族相手にだけ優しい面をしていれば務まる仕事だったのだろう。
結果、僕の家族は解雇され、財産まで没収された。名門ノースクリム家の令嬢に怪我をさせたという噂はすでに広まっていたし、国内では再就職どころか身の安全さえ怪しくなる。事実上の国外追放に等しかった。
母は病気が悪化し、流浪の中で死んだ。父は僕に技術を教えながら各地を回ったが、やがて心労が重なってか母の後を追うように死んだ。お前は幸せを掴め……それが最期の言葉だった。
僕は一人で安住の地を探すことになった。路上で暮らす靴磨きの少年たちと一緒に過ごしたり、冒険者の助手をしたり、時には犯罪まがいのこともしながら、ずっと生き抜いてきた。今から六年くらい前、祖国が魔界になったという噂も聞いたし、あの子の安否も気になったが、どうすることもできなかった。
そうやって僕は大人になり、理髪師として暮らしていけるようになり……このルージュ・シティの領主に拾われた。祖国では恐ろしい存在として聞かされていた、ヴァンパイアの領主に。
「……僕らのことを、はぐれ教国人って言うらしいね」
バーのカウンターで空になったグラスを眺め、僕は呟いた。いつも飲んでいるカクテルより強く、味も濃い。酔っているからここまで吐き出せる。
「魔物と共存する気があるのに、魔界になった祖国に帰れない……。つくづく僕は嫌な奴だよ。友達との約束より、あの司祭への憎しみが先に立つなんて」
教団の重要拠点でありながら、あっけなく魔界となった祖国。今そこでは誰もが幸せに、そして淫らに暮らしているという。僕を苦しめた人間も。
だから僕は魔物の本当の姿を知っても、祖国に帰るのを拒んだ。あの子たちとの約束さえも忘れて……
「マスター、人間ってどうすれば幸せになれるんだろうね」
グラスを磨くバーテンダーに、僕は問いかける。
「……この町の人たちはそれぞれ過去を抱えながらも、幸せに暮らしています」
マスターはグラスを置き、僕を見て応えた。
「しかし、無理に幸せになろうとしている人は少ないような気がします」
「……そうかもね」
「カルジェール様は今まで、川の流れに流されていたのでしょう。しかし流されていようと、沈むまい、溺れまいとしてきた」
マスターの視線を追うと、僕の隣でカクテルを飲むイリシャちゃんと目が合った。彼女の可愛い頬が赤く染まる。
「だからこそ、在るべき場所へ流れ着くことができたのではないでしょうか」
「……ありがとう、マスター」
僕は立ち上がり、財布から小銭を取り出した。いつもより強い酒を飲んだせいで足下がふらつき、イリシャちゃんがそっと肩を支えてくれる。彼女は無意識だと思うけど、胸が当たって気持ちいい。そんな可愛い彼女の頭を撫でて、カウンターに代金を置いた。
「じゃあ、また」
「あの……ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。またお越し下さいませ」
礼をして見送るマスターに背を向け、僕らは店を出た。
アルコールで火照った体に冷たい夜風が当たる。イリシャちゃんはあまり酔っていないようで、僕を支えながらしっかりと歩いている。
「……レヴォンさん、背中に乗りますか……?」
「うん、ありがとう」
手を借りながら彼女の馬体に跨がり、その髪を撫でた。イリシャちゃんはくすぐったそうに身をよじらせたが、やがて僕を乗せて歩き出す。本当にさらさらとしていて奇麗な髪だ。匂いを嗅いでいると幸せな気分になってくる。僕を支える馬体も、小さな肩も、大きくて柔らかい胸も、全てが魅力的だ。僕は身も心も彼女の虜となり、彼女も僕無しではいられない。それが無性にいい気分だ。
後ろからその肩を抱いていると、だんだん瞼が下がってくる。イリシャちゃんもそれに気づいたようで、僕の方を振り向いて優しく微笑んだ。
「寝ちゃってもいいですよ」
「……ありがとう。先に夢の世界で待ってるよ」
「はい。お家に着いたら私も行きますから……今夜も、うんとエッチな夢にしましょうね……」
照れくさそうに笑う彼女にキスをし、僕は目を閉ざした。まどろみの中、彼女の蹄の音だけが聞こえる。
弱虫な彼女は僕を乗せ、胸を張って夜の町を歩く。僕が流れ着いたのはこの町であり、ここが僕の居場所だ。
でもいつか、一度祖国へ行ってみようと思う。今更約束は果たせないだろうし、僕が憎んでいる輩と出会うこともあるかもしれない。
それでも、あの頃の仲間達にイリシャちゃんを紹介することはできるだろう。
自慢の恋人だ、って……
〜fin〜
僕やあの子が十歳くらいの頃、僕は彼女の夢を聞いた。女の子としてはよくある夢なのだろう、「お嫁さん」というのは。相手は僕とも仲の良かった使用人の男の子だったから、僕もその夢を応援した。二人はどう考えてもお似合いだった。司祭に聞かれたらどうなるかは子供でも想像できたし、それは使用人見習いの間だけの秘密だったけど、僕は彼女に一つ約束した。立派な理髪師になって、二人が結婚するときには髪を整えてあげる、と。
その約束は果たせなかった。僕の母があの子を散髪しているとき、その額をハサミで傷付けてしまったのだ。母の腕は一流だったが、そのときは病気だったのに無理矢理仕事をさせられ、そんなことになった。だけどあの司祭が使用人の都合なんか気にするはずがない。教団の司祭なんていうのは、王侯貴族相手にだけ優しい面をしていれば務まる仕事だったのだろう。
結果、僕の家族は解雇され、財産まで没収された。名門ノースクリム家の令嬢に怪我をさせたという噂はすでに広まっていたし、国内では再就職どころか身の安全さえ怪しくなる。事実上の国外追放に等しかった。
母は病気が悪化し、流浪の中で死んだ。父は僕に技術を教えながら各地を回ったが、やがて心労が重なってか母の後を追うように死んだ。お前は幸せを掴め……それが最期の言葉だった。
僕は一人で安住の地を探すことになった。路上で暮らす靴磨きの少年たちと一緒に過ごしたり、冒険者の助手をしたり、時には犯罪まがいのこともしながら、ずっと生き抜いてきた。今から六年くらい前、祖国が魔界になったという噂も聞いたし、あの子の安否も気になったが、どうすることもできなかった。
そうやって僕は大人になり、理髪師として暮らしていけるようになり……このルージュ・シティの領主に拾われた。祖国では恐ろしい存在として聞かされていた、ヴァンパイアの領主に。
「……僕らのことを、はぐれ教国人って言うらしいね」
バーのカウンターで空になったグラスを眺め、僕は呟いた。いつも飲んでいるカクテルより強く、味も濃い。酔っているからここまで吐き出せる。
「魔物と共存する気があるのに、魔界になった祖国に帰れない……。つくづく僕は嫌な奴だよ。友達との約束より、あの司祭への憎しみが先に立つなんて」
教団の重要拠点でありながら、あっけなく魔界となった祖国。今そこでは誰もが幸せに、そして淫らに暮らしているという。僕を苦しめた人間も。
だから僕は魔物の本当の姿を知っても、祖国に帰るのを拒んだ。あの子たちとの約束さえも忘れて……
「マスター、人間ってどうすれば幸せになれるんだろうね」
グラスを磨くバーテンダーに、僕は問いかける。
「……この町の人たちはそれぞれ過去を抱えながらも、幸せに暮らしています」
マスターはグラスを置き、僕を見て応えた。
「しかし、無理に幸せになろうとしている人は少ないような気がします」
「……そうかもね」
「カルジェール様は今まで、川の流れに流されていたのでしょう。しかし流されていようと、沈むまい、溺れまいとしてきた」
マスターの視線を追うと、僕の隣でカクテルを飲むイリシャちゃんと目が合った。彼女の可愛い頬が赤く染まる。
「だからこそ、在るべき場所へ流れ着くことができたのではないでしょうか」
「……ありがとう、マスター」
僕は立ち上がり、財布から小銭を取り出した。いつもより強い酒を飲んだせいで足下がふらつき、イリシャちゃんがそっと肩を支えてくれる。彼女は無意識だと思うけど、胸が当たって気持ちいい。そんな可愛い彼女の頭を撫でて、カウンターに代金を置いた。
「じゃあ、また」
「あの……ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。またお越し下さいませ」
礼をして見送るマスターに背を向け、僕らは店を出た。
アルコールで火照った体に冷たい夜風が当たる。イリシャちゃんはあまり酔っていないようで、僕を支えながらしっかりと歩いている。
「……レヴォンさん、背中に乗りますか……?」
「うん、ありがとう」
手を借りながら彼女の馬体に跨がり、その髪を撫でた。イリシャちゃんはくすぐったそうに身をよじらせたが、やがて僕を乗せて歩き出す。本当にさらさらとしていて奇麗な髪だ。匂いを嗅いでいると幸せな気分になってくる。僕を支える馬体も、小さな肩も、大きくて柔らかい胸も、全てが魅力的だ。僕は身も心も彼女の虜となり、彼女も僕無しではいられない。それが無性にいい気分だ。
後ろからその肩を抱いていると、だんだん瞼が下がってくる。イリシャちゃんもそれに気づいたようで、僕の方を振り向いて優しく微笑んだ。
「寝ちゃってもいいですよ」
「……ありがとう。先に夢の世界で待ってるよ」
「はい。お家に着いたら私も行きますから……今夜も、うんとエッチな夢にしましょうね……」
照れくさそうに笑う彼女にキスをし、僕は目を閉ざした。まどろみの中、彼女の蹄の音だけが聞こえる。
弱虫な彼女は僕を乗せ、胸を張って夜の町を歩く。僕が流れ着いたのはこの町であり、ここが僕の居場所だ。
でもいつか、一度祖国へ行ってみようと思う。今更約束は果たせないだろうし、僕が憎んでいる輩と出会うこともあるかもしれない。
それでも、あの頃の仲間達にイリシャちゃんを紹介することはできるだろう。
自慢の恋人だ、って……
〜fin〜
13/01/26 23:27更新 / 空き缶号
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