白糸物語
誰しも仕事の合間には休憩をとる。それが肉体仕事なら尚更だ。
特に今は夏。梅雨も明けたばかりとはいえ、暑いことには変わりない。
頭上を覆う木々の葉が日差しを遮ってくれているが、連日の雨のせいか土は普段よりも湿っており蒸し暑い状況だ。
そんな山の道なき道を行く男。名を「啓吉(けいきち)」という。
樵を生業としており、梅雨の間は仕事が出来ずにいたのだ。
道中キノコが良くとれたため、今日は鍋でもするかと頭の片隅で思いながら、川の方へと向かっていた。
昔、木を伐った後に山菜やキノコを取っていて倒れたことがある。医者には暑い中仕事をしたというのに水を飲まないから倒れるのだ、と言われた。それからは特に喉が渇いておらずとも、出来るだけ暇を見つけて水を飲むようにしてきた。
男が木を伐る付近には一本の川が流れており、途中には美しい滝があると聞く。水を飲むのにわざわざ滝壺を選ぶ意味もないと、機会なく今まで見なかったが、今回はそもそも位置が滝壺に近い。どうせなら滝を見てみるかと滝壺へ足を運んでいる次第である。
件の滝は、噂に違わず美しかった。飛沫は白く宙を舞い、響く轟音は壮大さと威厳を醸す。滝壺の水面に顔を覗かせると、水はとても澄んでおり光の具合で鏡のように顔を映し、波紋に消える。この川は水が綺麗なので、普段は底が容易に透けて見えるくらいだ。
川の水は井戸の地下水よりも美味しいこともあって、啓吉の村は川の下流にある。大雨が降っても不思議と氾濫しないその川は、村にとって重要なものだった。
そのため村には「川の上流にある滝には水神が住んでいる」と言って、地域特有の信仰のようなものまである。
現に滝の傍には一軒の家が建てられている。
昔、村の人間が建てたものだ。居心地の良い家を作り、水神が離れないようにと願いが込められていることは、村で育った者なら誰でも知っている話だった。
無論、啓吉も村の出身である。
家には用がない限り入るなと、子供の頃は祖父母に、樵の仕事をし出してからは父に、幾度となく言われている。
一度、旅の者が雨宿りにと家に入ったが二度と戻って来なかったという噂もある。
そんな、逸話には事欠かないような家から、一人の女性が戸を開けて出てきた。
腰の辺りまで伸びた美しい黒髪は雫に濡れてかとても艶やかで、流れるような肢体を淡い紫の着物で包んでいる。
啓吉は両の手で水を掬い今正に口を付けようとしている、なんとも間の抜け
た格好のまま、これを見ていた。
今気付いたのか、それとも気付いていたのか、女は啓吉を見て、柔和に微笑んだ。
手に掬っていた水はいつの間にか零れ落ち、啓吉は両手を下げた形で、しばらく女を眺め続けていた。
「朱知(しゅち)と申します」
女は自らを朱知と名乗った。
啓吉は自らも名を言い、川の下流にある村の者であることを伝えた。
二人は件の家にいた。
女、朱知はこの家に住んでいるのだという。
確かに人の入らない家にしては埃もなく、人の住んでいる証として台所に野菜や米などを入れておく壺や水瓶などもあった上、窯には炭が多少残っている。
「祟りなどはないのか?」
啓吉が湯呑の茶を傾ける前に、一言聞いた。
茶を啜る音に、「ありません」という声が重なる。
女の声は、耳などという簡単なものではなく、まるでその奥を撫でるかのように響いた。
朱知は、不思議な魅力のある女だった。
聞き上手といえばよいのだろうか、話していると気分が良く、質問には答え、そして笑ってくれる。
余りに楽しいせいか、話し過ぎて日が傾き始めた。
夜の山は昼のそれとは全く異なる。足元も進む先も見えず、獣が現れ、そして…妖が現れる。
しかし、礼を言って立ち去ろうとした時、
「私は毎夜、この小屋で一人寂しく朝を待つ身。どうか、私をお慰め頂けないでしょうか」
振り返ると、朱知が啓吉の袖を摘んでいた。
腰を上げている啓吉を見上げ、乞うように見つめる。
啓吉には妻がいない。
朱知の言わんとしていることは分かっている。
それでも、初めて顔を合わせたばかりの女と一つ屋根の下で夜を明かすのは、些か良識に欠ける行いではないかと躊躇った。
「申し訳ない。私はやはり村へ帰ることにする」
それを聞いて、女は目元を曇らせ俯き、袖から指を離した。
これを見て居た堪れなくなった啓吉は、
「明日もまた来る故。どうか、顔を上げて欲しい」
と言った。
数泊置いて、女はゆるゆると顔を上げ、姿勢を正し、笑みを戻した。
「待っております」
家路を行く中、後ろ髪を引くような思いで一度滝の方を見る。
木々に隠れ、既に見えるはずもない。にも関わらず、男はその後幾度も足を止めては後ろを見た。
約束の通り、次の日も啓吉は朱知の家を訪れた。
昨日の帰り際を思い出すと気まずくなりかねないと考え、敢えて全く気にせず会話を始める。
朱知も同じ思いだったのか、掘り返すようなことなく、昨日のように語らう。
それからというもの、啓吉は毎日滝壺へ行き、朱知の家の戸を叩いた。
日に日に二人の仲は縮まり、ある日からは、仕事の後だから問題はないだろうと酒を勧められ、さらに後からは夕食まで共に摂るようになった。
啓吉はその日も朱知の家を訪れた。
いつも通り朱知の酌で酒を飲みつつ語らい、日の傾き始めた頃に夕餉を共にする。
鮎の塩焼きを食べながら、啓吉はふと思った。
最近は夜になってから家路に着くことが多いというのに、妖どころか獣にすら会ったことがない。何度も通った場所故に道自体は身体が覚えているとしても、一度くらいは獣に襲われていてもおかしくはない。
もしや、この女こそが水神なのでは? と。
有り得ない。
そう自らに言い聞かせ、啓吉は味噌汁の椀に手を伸ばした。
宵に入りかけた頃、燃える水はこの身を火照らせ、彼を微睡みへと誘う。
しかして床に就くには些か早く、瞬き始めた星々を空高くに眺めながら、冷たく撫でる風に身を任せ、耳に心地良い葉鳴りの中を行く。
朱知に出会う前は面倒に感じた道程も、こんな時は良いものだと、男は思う。
ただ木を伐り、山菜やキノコを採り、たまに酒を飲む。その程度の、何もない生活が一転したのは何時だったか。彼は最早覚えてはいない。
否、思い出す必要はない。
今この時が幸福に満ち、そして彼女が微笑む。
それが全てだった。
それ以外には何も要らなかった。
朱知の居ない生活など、考えられなかった。
そうして啓吉は何時しか、朱知を娶ることを考え始めた。
明くる日、啓吉は胸の内を明かすにあたり思う所があった。
それが何時だったかは覚えておらずとも、そう有ったことは覚えている。
彼女は、朱知は一度、自分を求めている。ならば、幾許か過ぎた今、私の求めに朱知は応じてくれるだろう、と。
朱知は目を丸くして驚き、数瞬後には微笑み、しかし何故か機嫌を悪くした。
「あの日、恥を忍んで御頼み申し上げたというのに、貴方様は私の元を離れました」
そういい、急に拗ねるのだ。これにはぐうの音も出ない。
恐らく朱知もそれを分かっていて、こんなことを言っているのだろう。
啓吉はどう機嫌を取っていいものやらと慌てた。
そんな啓吉をくすりと笑い、
「では、今宵は共に夜を明かして貰えるのですね?」
と、助け舟を出した。
酔いが回り始めていることもあり、この一言に啓吉は短絡的な行動をとった。が、朱知に諌められる。
「今夜一晩、何があっても私の傍を離れないで下さいまし。これを守れるのなら、私は貴方様の傍を離れることはないでしょう」
そう口にする朱知の表情には、些かの陰りがあったように見える。
その陰は、啓吉により一層強い想いと覚悟を抱かせるに十分なものだった。
やはりというか、家に布団は一組しかなかった。しかし何故かというべきだろう、枕は二つあった。
大量の水が流れ落ちる音と、それに比べると微々たる水音。それらに負けじと夜闇に囁く虫たちの声。
朱知が風呂に入っている間、ただ待つことに耐えきれず、啓吉は手酌で酒を呑んでいた。
その美味しさ故か、はたまた別に理由があるのか、特別酒に強いわけでもないのに、啓吉はそれなりの量を乾している。
不安、なのだろう。
何に対してかは、恐らく本人にすら分かるまい。
そうして少しずつ夜は更け、星が空一面に瞬き出した頃、小さい水音が止むと同時に、啓吉は体をふらふらと傾け目蓋を閉じた。
目を覚ました時、そこは眠りに落ちた場所と違っていた。
否。
場所そのものは同じだったが、内装は全く様変わりしていた。
部屋の様子そのものには何の変化もないが、部屋中に白い網か糸のようなものが縦横無尽に飾りつけられている。しかし、そもそも飾りなのかすら怪しい。何せそこら中に張り巡らされているため、動き回ることはおろか真っ直ぐ立つことすら困難だ。これでは生活そのものに支障が出る。これを飾りと言い切るのは難しいだろう。
啓吉は好奇心からか、何となくなのか、白いそれに手を伸ばす。
それは強い粘着性を持っており、手を離そうと動かす度に絡み付いた。もう片方の手で支えながら引っ張れば白い何かから手が外れるかと試した結果、両の手が白いそれに絡め取られてしまう。
はたと、啓吉は思い当たる。
これは蜘蛛の糸に近いものではないか、と。
ならば、今の惨状が表す意味は一つ。
蜘蛛の妖怪が出た。
啓吉は混乱する頭で考え、そう答えを出す。同時に焦りが生まれるが、だからこそ気付くこともある。
(…彼女がいない)
その場から辺りを見回すが、朱知の姿は何所にもない。
この家にまつわる噂を思い出さずにはいられない。しかし、件の旅人は男性だったはず。啓吉が村で聞く妖怪に関する噂話のほとんどは、美しい女性を喰らうと言われていた。それとも現に啓吉も捕えられていることから鑑みるに、性別に制限はないが、美味しそうな彼女から連れ去ったか。
しかし、何故、今。
朱知はそれなりの間、ここで暮らしていたという。当たり前だが、その間には襲われなかった。旅人が消えた話すらあるのだから、朱知も、そして啓吉本人もここに出入りしていたのは気付かれていたはず。
必死に頭を巡らせる中、啓吉は物音を聞いた。
滝の水音でも、虫の声でもない、木が軋む音。
それも床が軋む音ではなく、明らかに壁が軋んだ音だった。もし蜘蛛の妖怪が床ではなく糸の上を歩いているのだとするなら、無理からぬことである。
啓吉が目覚めたことに気付いたのだろう。
蜘蛛に喰われる覚悟をしながら、啓吉は奥の部屋への戸を見る。
そこから現れたのは、
「朱、知?」
彼女と見紛う容姿の女だった。
しかし、女と呼ぶべきなのか、腰から下は巨大な蜘蛛の姿をしている。左右に三本、前方に二本、計八本の足は、そしてその足が生えている体は、間違いなく蜘蛛のそれだった。
が、上半身は美しい女性のそれ、しかも服飾や一部を除き朱知そのものであった。
普段とは違う濃い紫の、蜘蛛や蜘蛛の巣をあしらった着物を、胸元がはだけ肩が見えるように纏い、美しい髪を後ろで束ねるように豪奢な簪(かんざし)を挿している。頬には顎から目へ向けて赤い牙のような、おそらく刺青が。
そして、耳。真横に伸びた、先の尖った耳は、人間のものでは絶対にない。いや、下半身が蜘蛛の姿をしている時点で人間とは言い難いのだが、朱知と似ているだけに、その上半身を人間のものとは言いたくなかった。
蜘蛛の女は糸を伝い、啓吉の所へ向かう。
ところが、些か妙だった。女の顔は赤らみ、目はうっとりと蕩ける。馳走を前にした顔に見えなくもないが、それならば荒い息使いにはならないだろう。
啓吉は蜘蛛の女を見据える。
蜘蛛の女は啓吉を見つめ、ゆっくりと近寄りながら囁く。
「これでやっと、貴方様は私のもの」
啓吉は眉をひそめた。その声が、口調が、朱知のそれに同じといっても過言ではないほど似ていたからである。
この蜘蛛は喰らった人間の姿に化けることが出来るのか、と啓吉は思った。
「蜘蛛の女よ、俺は誰のものでもない。強いて俺が誰かのものだとするならば、それはこの家に住んでいた女性のものであろう」
啓吉は蜘蛛の女を睨みつけながら言う。
これを聞いた蜘蛛の女は、刹那の後口元を袖で隠しながらくすくすと笑った。それは蠱惑的で、しかし嘲るようなところもなく、とても楽しそうな笑みだった。
何が可笑しい、啓吉の思いを読んだかのように、蜘蛛の女は笑いながら応える。
「ええ、ええ。存じておりますとも。貴方様は私を求めて下さった」
楽しそうに笑う女の顔を睨む。この妖怪は喰らったものの記憶さえも読み取るのかと、恨みを込めて。
「蜘蛛の妖よ、彼女を返せ。そのために必要というのなら、この身を捧げよう」
そういう啓吉の頬に、蜘蛛の女は両の手を添えて語る。
「何を異なことを。私はずっとここで、貴方様をお待ちしていました。朝目覚めては時が過ぎるのを待ち、夜は時が止まることを望み、幾晩も、幾日も」
愛おしそうに目を細め、語りつつ顔を寄せ、
「貴方様を、欲しておりました」
その淡く色付く唇を、重ね合わせた。
喰われる。そう思っていた啓吉の頭は真っ白になっていた。
最早何も分からない。朱知が蜘蛛に化けているのか、蜘蛛が朱知に化けているのか、そもそも朱知が蜘蛛だったのか、蜘蛛が朱知を喰らったのか。
ただ、甘く香る白く柔らかい肌と心を奪い去られるような瞳、細い指と豊満な乳房の色香に溺れた。
気付けば、自分から女の唇を求めている。
否。唇どころか、懸命に舌を伸ばし女を貪っていた。
しかし女は身を離し、糸に絡め取られた啓吉は成す術もなく女を見る。
「啓吉様、どうぞ私の名を呼んで下さいまし。その時こそ、私は貴方様のものとなりましょう」
言うが早いか、女は部屋中に張り巡らせていた糸に触れ、啓吉の手から糸を外すと共にいくらか開けた場所を作った。それは丁度、啓吉が横になっていた布団の上。
啓吉はいくらも回らぬ頭で考えるまでもなく、望むままに手を伸ばし求めた。
「朱知」
翌、朝。
小鳥の声が聞こえ始める頃、二人は眠りに落ちた。
部屋には既に蜘蛛の糸はなく、代わりに愛欲の香りが満ちている。
啓吉に寄り添うように眠る朱知の表情は、啓吉のそれと異なり満ち足りたものだった。
その後、二人は村の者にいくらかの疑惑の眼差しと共に祝福を受け、結ばれた。
それからは滝壺の傍ではなく、村に居を構え幸せに暮らした。
村の者とも次第に打ち解け、いつしか朱知は皆に受け入れられていった。
が、日が沈んでからの二人を、村の者が目にすることはない。
今までも、そしてこれからも。
それは被虐の幸福か、快楽の愉悦か。
日に日にやつれる男は、口元を幸せそうに歪める。
特に今は夏。梅雨も明けたばかりとはいえ、暑いことには変わりない。
頭上を覆う木々の葉が日差しを遮ってくれているが、連日の雨のせいか土は普段よりも湿っており蒸し暑い状況だ。
そんな山の道なき道を行く男。名を「啓吉(けいきち)」という。
樵を生業としており、梅雨の間は仕事が出来ずにいたのだ。
道中キノコが良くとれたため、今日は鍋でもするかと頭の片隅で思いながら、川の方へと向かっていた。
昔、木を伐った後に山菜やキノコを取っていて倒れたことがある。医者には暑い中仕事をしたというのに水を飲まないから倒れるのだ、と言われた。それからは特に喉が渇いておらずとも、出来るだけ暇を見つけて水を飲むようにしてきた。
男が木を伐る付近には一本の川が流れており、途中には美しい滝があると聞く。水を飲むのにわざわざ滝壺を選ぶ意味もないと、機会なく今まで見なかったが、今回はそもそも位置が滝壺に近い。どうせなら滝を見てみるかと滝壺へ足を運んでいる次第である。
件の滝は、噂に違わず美しかった。飛沫は白く宙を舞い、響く轟音は壮大さと威厳を醸す。滝壺の水面に顔を覗かせると、水はとても澄んでおり光の具合で鏡のように顔を映し、波紋に消える。この川は水が綺麗なので、普段は底が容易に透けて見えるくらいだ。
川の水は井戸の地下水よりも美味しいこともあって、啓吉の村は川の下流にある。大雨が降っても不思議と氾濫しないその川は、村にとって重要なものだった。
そのため村には「川の上流にある滝には水神が住んでいる」と言って、地域特有の信仰のようなものまである。
現に滝の傍には一軒の家が建てられている。
昔、村の人間が建てたものだ。居心地の良い家を作り、水神が離れないようにと願いが込められていることは、村で育った者なら誰でも知っている話だった。
無論、啓吉も村の出身である。
家には用がない限り入るなと、子供の頃は祖父母に、樵の仕事をし出してからは父に、幾度となく言われている。
一度、旅の者が雨宿りにと家に入ったが二度と戻って来なかったという噂もある。
そんな、逸話には事欠かないような家から、一人の女性が戸を開けて出てきた。
腰の辺りまで伸びた美しい黒髪は雫に濡れてかとても艶やかで、流れるような肢体を淡い紫の着物で包んでいる。
啓吉は両の手で水を掬い今正に口を付けようとしている、なんとも間の抜け
た格好のまま、これを見ていた。
今気付いたのか、それとも気付いていたのか、女は啓吉を見て、柔和に微笑んだ。
手に掬っていた水はいつの間にか零れ落ち、啓吉は両手を下げた形で、しばらく女を眺め続けていた。
「朱知(しゅち)と申します」
女は自らを朱知と名乗った。
啓吉は自らも名を言い、川の下流にある村の者であることを伝えた。
二人は件の家にいた。
女、朱知はこの家に住んでいるのだという。
確かに人の入らない家にしては埃もなく、人の住んでいる証として台所に野菜や米などを入れておく壺や水瓶などもあった上、窯には炭が多少残っている。
「祟りなどはないのか?」
啓吉が湯呑の茶を傾ける前に、一言聞いた。
茶を啜る音に、「ありません」という声が重なる。
女の声は、耳などという簡単なものではなく、まるでその奥を撫でるかのように響いた。
朱知は、不思議な魅力のある女だった。
聞き上手といえばよいのだろうか、話していると気分が良く、質問には答え、そして笑ってくれる。
余りに楽しいせいか、話し過ぎて日が傾き始めた。
夜の山は昼のそれとは全く異なる。足元も進む先も見えず、獣が現れ、そして…妖が現れる。
しかし、礼を言って立ち去ろうとした時、
「私は毎夜、この小屋で一人寂しく朝を待つ身。どうか、私をお慰め頂けないでしょうか」
振り返ると、朱知が啓吉の袖を摘んでいた。
腰を上げている啓吉を見上げ、乞うように見つめる。
啓吉には妻がいない。
朱知の言わんとしていることは分かっている。
それでも、初めて顔を合わせたばかりの女と一つ屋根の下で夜を明かすのは、些か良識に欠ける行いではないかと躊躇った。
「申し訳ない。私はやはり村へ帰ることにする」
それを聞いて、女は目元を曇らせ俯き、袖から指を離した。
これを見て居た堪れなくなった啓吉は、
「明日もまた来る故。どうか、顔を上げて欲しい」
と言った。
数泊置いて、女はゆるゆると顔を上げ、姿勢を正し、笑みを戻した。
「待っております」
家路を行く中、後ろ髪を引くような思いで一度滝の方を見る。
木々に隠れ、既に見えるはずもない。にも関わらず、男はその後幾度も足を止めては後ろを見た。
約束の通り、次の日も啓吉は朱知の家を訪れた。
昨日の帰り際を思い出すと気まずくなりかねないと考え、敢えて全く気にせず会話を始める。
朱知も同じ思いだったのか、掘り返すようなことなく、昨日のように語らう。
それからというもの、啓吉は毎日滝壺へ行き、朱知の家の戸を叩いた。
日に日に二人の仲は縮まり、ある日からは、仕事の後だから問題はないだろうと酒を勧められ、さらに後からは夕食まで共に摂るようになった。
啓吉はその日も朱知の家を訪れた。
いつも通り朱知の酌で酒を飲みつつ語らい、日の傾き始めた頃に夕餉を共にする。
鮎の塩焼きを食べながら、啓吉はふと思った。
最近は夜になってから家路に着くことが多いというのに、妖どころか獣にすら会ったことがない。何度も通った場所故に道自体は身体が覚えているとしても、一度くらいは獣に襲われていてもおかしくはない。
もしや、この女こそが水神なのでは? と。
有り得ない。
そう自らに言い聞かせ、啓吉は味噌汁の椀に手を伸ばした。
宵に入りかけた頃、燃える水はこの身を火照らせ、彼を微睡みへと誘う。
しかして床に就くには些か早く、瞬き始めた星々を空高くに眺めながら、冷たく撫でる風に身を任せ、耳に心地良い葉鳴りの中を行く。
朱知に出会う前は面倒に感じた道程も、こんな時は良いものだと、男は思う。
ただ木を伐り、山菜やキノコを採り、たまに酒を飲む。その程度の、何もない生活が一転したのは何時だったか。彼は最早覚えてはいない。
否、思い出す必要はない。
今この時が幸福に満ち、そして彼女が微笑む。
それが全てだった。
それ以外には何も要らなかった。
朱知の居ない生活など、考えられなかった。
そうして啓吉は何時しか、朱知を娶ることを考え始めた。
明くる日、啓吉は胸の内を明かすにあたり思う所があった。
それが何時だったかは覚えておらずとも、そう有ったことは覚えている。
彼女は、朱知は一度、自分を求めている。ならば、幾許か過ぎた今、私の求めに朱知は応じてくれるだろう、と。
朱知は目を丸くして驚き、数瞬後には微笑み、しかし何故か機嫌を悪くした。
「あの日、恥を忍んで御頼み申し上げたというのに、貴方様は私の元を離れました」
そういい、急に拗ねるのだ。これにはぐうの音も出ない。
恐らく朱知もそれを分かっていて、こんなことを言っているのだろう。
啓吉はどう機嫌を取っていいものやらと慌てた。
そんな啓吉をくすりと笑い、
「では、今宵は共に夜を明かして貰えるのですね?」
と、助け舟を出した。
酔いが回り始めていることもあり、この一言に啓吉は短絡的な行動をとった。が、朱知に諌められる。
「今夜一晩、何があっても私の傍を離れないで下さいまし。これを守れるのなら、私は貴方様の傍を離れることはないでしょう」
そう口にする朱知の表情には、些かの陰りがあったように見える。
その陰は、啓吉により一層強い想いと覚悟を抱かせるに十分なものだった。
やはりというか、家に布団は一組しかなかった。しかし何故かというべきだろう、枕は二つあった。
大量の水が流れ落ちる音と、それに比べると微々たる水音。それらに負けじと夜闇に囁く虫たちの声。
朱知が風呂に入っている間、ただ待つことに耐えきれず、啓吉は手酌で酒を呑んでいた。
その美味しさ故か、はたまた別に理由があるのか、特別酒に強いわけでもないのに、啓吉はそれなりの量を乾している。
不安、なのだろう。
何に対してかは、恐らく本人にすら分かるまい。
そうして少しずつ夜は更け、星が空一面に瞬き出した頃、小さい水音が止むと同時に、啓吉は体をふらふらと傾け目蓋を閉じた。
目を覚ました時、そこは眠りに落ちた場所と違っていた。
否。
場所そのものは同じだったが、内装は全く様変わりしていた。
部屋の様子そのものには何の変化もないが、部屋中に白い網か糸のようなものが縦横無尽に飾りつけられている。しかし、そもそも飾りなのかすら怪しい。何せそこら中に張り巡らされているため、動き回ることはおろか真っ直ぐ立つことすら困難だ。これでは生活そのものに支障が出る。これを飾りと言い切るのは難しいだろう。
啓吉は好奇心からか、何となくなのか、白いそれに手を伸ばす。
それは強い粘着性を持っており、手を離そうと動かす度に絡み付いた。もう片方の手で支えながら引っ張れば白い何かから手が外れるかと試した結果、両の手が白いそれに絡め取られてしまう。
はたと、啓吉は思い当たる。
これは蜘蛛の糸に近いものではないか、と。
ならば、今の惨状が表す意味は一つ。
蜘蛛の妖怪が出た。
啓吉は混乱する頭で考え、そう答えを出す。同時に焦りが生まれるが、だからこそ気付くこともある。
(…彼女がいない)
その場から辺りを見回すが、朱知の姿は何所にもない。
この家にまつわる噂を思い出さずにはいられない。しかし、件の旅人は男性だったはず。啓吉が村で聞く妖怪に関する噂話のほとんどは、美しい女性を喰らうと言われていた。それとも現に啓吉も捕えられていることから鑑みるに、性別に制限はないが、美味しそうな彼女から連れ去ったか。
しかし、何故、今。
朱知はそれなりの間、ここで暮らしていたという。当たり前だが、その間には襲われなかった。旅人が消えた話すらあるのだから、朱知も、そして啓吉本人もここに出入りしていたのは気付かれていたはず。
必死に頭を巡らせる中、啓吉は物音を聞いた。
滝の水音でも、虫の声でもない、木が軋む音。
それも床が軋む音ではなく、明らかに壁が軋んだ音だった。もし蜘蛛の妖怪が床ではなく糸の上を歩いているのだとするなら、無理からぬことである。
啓吉が目覚めたことに気付いたのだろう。
蜘蛛に喰われる覚悟をしながら、啓吉は奥の部屋への戸を見る。
そこから現れたのは、
「朱、知?」
彼女と見紛う容姿の女だった。
しかし、女と呼ぶべきなのか、腰から下は巨大な蜘蛛の姿をしている。左右に三本、前方に二本、計八本の足は、そしてその足が生えている体は、間違いなく蜘蛛のそれだった。
が、上半身は美しい女性のそれ、しかも服飾や一部を除き朱知そのものであった。
普段とは違う濃い紫の、蜘蛛や蜘蛛の巣をあしらった着物を、胸元がはだけ肩が見えるように纏い、美しい髪を後ろで束ねるように豪奢な簪(かんざし)を挿している。頬には顎から目へ向けて赤い牙のような、おそらく刺青が。
そして、耳。真横に伸びた、先の尖った耳は、人間のものでは絶対にない。いや、下半身が蜘蛛の姿をしている時点で人間とは言い難いのだが、朱知と似ているだけに、その上半身を人間のものとは言いたくなかった。
蜘蛛の女は糸を伝い、啓吉の所へ向かう。
ところが、些か妙だった。女の顔は赤らみ、目はうっとりと蕩ける。馳走を前にした顔に見えなくもないが、それならば荒い息使いにはならないだろう。
啓吉は蜘蛛の女を見据える。
蜘蛛の女は啓吉を見つめ、ゆっくりと近寄りながら囁く。
「これでやっと、貴方様は私のもの」
啓吉は眉をひそめた。その声が、口調が、朱知のそれに同じといっても過言ではないほど似ていたからである。
この蜘蛛は喰らった人間の姿に化けることが出来るのか、と啓吉は思った。
「蜘蛛の女よ、俺は誰のものでもない。強いて俺が誰かのものだとするならば、それはこの家に住んでいた女性のものであろう」
啓吉は蜘蛛の女を睨みつけながら言う。
これを聞いた蜘蛛の女は、刹那の後口元を袖で隠しながらくすくすと笑った。それは蠱惑的で、しかし嘲るようなところもなく、とても楽しそうな笑みだった。
何が可笑しい、啓吉の思いを読んだかのように、蜘蛛の女は笑いながら応える。
「ええ、ええ。存じておりますとも。貴方様は私を求めて下さった」
楽しそうに笑う女の顔を睨む。この妖怪は喰らったものの記憶さえも読み取るのかと、恨みを込めて。
「蜘蛛の妖よ、彼女を返せ。そのために必要というのなら、この身を捧げよう」
そういう啓吉の頬に、蜘蛛の女は両の手を添えて語る。
「何を異なことを。私はずっとここで、貴方様をお待ちしていました。朝目覚めては時が過ぎるのを待ち、夜は時が止まることを望み、幾晩も、幾日も」
愛おしそうに目を細め、語りつつ顔を寄せ、
「貴方様を、欲しておりました」
その淡く色付く唇を、重ね合わせた。
喰われる。そう思っていた啓吉の頭は真っ白になっていた。
最早何も分からない。朱知が蜘蛛に化けているのか、蜘蛛が朱知に化けているのか、そもそも朱知が蜘蛛だったのか、蜘蛛が朱知を喰らったのか。
ただ、甘く香る白く柔らかい肌と心を奪い去られるような瞳、細い指と豊満な乳房の色香に溺れた。
気付けば、自分から女の唇を求めている。
否。唇どころか、懸命に舌を伸ばし女を貪っていた。
しかし女は身を離し、糸に絡め取られた啓吉は成す術もなく女を見る。
「啓吉様、どうぞ私の名を呼んで下さいまし。その時こそ、私は貴方様のものとなりましょう」
言うが早いか、女は部屋中に張り巡らせていた糸に触れ、啓吉の手から糸を外すと共にいくらか開けた場所を作った。それは丁度、啓吉が横になっていた布団の上。
啓吉はいくらも回らぬ頭で考えるまでもなく、望むままに手を伸ばし求めた。
「朱知」
翌、朝。
小鳥の声が聞こえ始める頃、二人は眠りに落ちた。
部屋には既に蜘蛛の糸はなく、代わりに愛欲の香りが満ちている。
啓吉に寄り添うように眠る朱知の表情は、啓吉のそれと異なり満ち足りたものだった。
その後、二人は村の者にいくらかの疑惑の眼差しと共に祝福を受け、結ばれた。
それからは滝壺の傍ではなく、村に居を構え幸せに暮らした。
村の者とも次第に打ち解け、いつしか朱知は皆に受け入れられていった。
が、日が沈んでからの二人を、村の者が目にすることはない。
今までも、そしてこれからも。
それは被虐の幸福か、快楽の愉悦か。
日に日にやつれる男は、口元を幸せそうに歪める。
11/03/25 03:02更新 / 魁斗