面影と君とオレと郷愁 前編
彼女はいつもそこにいた。
オレこと黒崎ゆうたが住み込みで働いているこの住宅兼職場である『お食事処ハンカチーフ』の店内、入ってからカウンターを右に曲がり、そのままずっと進んだところにある二人用の席。
そこはこの空間内の隅であり他のお客さんたちからもそう目に付かない場所である。
店内を見回すことはできないだろうがカウンターからは目に付く、そんなところ。
そこに彼女はいつもいた。
彼女に目が留まったのは偶然ではない。
その姿は、その風貌は、この街では珍しいものだから。
この街の中でオレもまた珍しいらしい。
というのもここには黒髪黒目なんて人間はそういない…いや、まったくいない。
それはジパング人と呼ばれる者の特徴であり、この大陸ではないはるか東の大陸に住まう人間だと聞く。
人と魔物が共に住まう土地であると聞いたがそれがいったいどういったものなのか、オレと同じ特徴を持った人がいるという国はどんなものなのか興味は尽きないがつまるところ、この大陸にジパング人はそういない。
だからこそオレの姿は周りから嫌でも注目を集めてしまう。
だが、彼女はどうだろうか。
オレと同じ黒髪なのに彼女はそれほどまで人に見られているというわけではなかった。
オレよりも年下に見えるその背丈。
身に纏うは闇を切り抜いて作ったかのようなワンピース。
全身黒、正反対に輝くような白い肌。
小顔であってちょうど目が髪に隠れているがそれが逆に愛らしい。
とにかく可愛い。
何でオレがここまで的確にその少女の特徴を言えるかというと…。
―…実はその少女が目の前で寝ているからだ。
店内の一番奥のいつもの席。
そこに椅子に腰掛けて眠っている。
テーブルには既に食した後である綺麗な皿が一枚と水の入ったコップが一つ。
フレンチトースト食べていたんだっけか。
それでお腹が満たされたからだろう、それに今日は温かい日だった。
それならまどろみ、眠りこけてしまうのも頷けるというものだ。
高校生であるオレにとっても昼休みの後は睡魔との闘いだからなぁ。
とにかく寝ている少女を起こすというのはなんだか気が進まない。
そんな風に思って店内の片づけをしていたら先ほど終えたので今は彼女の目の前の椅子に腰掛けていた。
ここには今オレと彼女しかいない。
ここのオーナー兼オレの親となってくれたレグルさん、キャンディさんはオレに彼女を任せて既に自宅である二階にいる。
それにお客はもう来ない。
だって、今夜だから。
「…」
やべーよ、オレ馬鹿だよ。
何でこの娘を夜になるまで寝かせておいちゃったのかなぁ。
昼真っから寝っぱなしという彼女も彼女なんだけどそれを起こさないオレもオレだ。
どうしよう…。
いや、一番いいのは彼女を起こすことだろう。
でも…こんな可愛らしい寝顔を起こしてしまうのは気が進まない。
いや、だからといってこのままにしておくのはいけないし…。
…とりあえず、食器片付けようか。
食器を音を立てずに片付け終え、店内に戻ってくると彼女はまだ寝ていた。
…最近寝ていないのだろうか?
普段この子は普通に食事して普通に帰っていく。
その中で会話らしい会話はない。
彼女は表立って目立つ、話を積極的にするようなタイプではないのだろう。
だから普段の彼女からしてみればこんなことになるのは珍しい。
こんな年下の子が徹夜でもしているというのだろうか?
アンだってちゃんと寝てるって言ってたし、なんて近所に住んでいるセイレーンの少女のことを考えた。
とりあえずここまで来たら仕方ないだろう。
起こすか。
音を立てずに隣まで歩いて立った。
そうして顔を近づけてその表情を伺う。
安らかな寝顔で小さく呼吸をしている。
店内に置かれている小さな明かりに桜色の唇が艶っぽく光る。
…本当に可愛いな。
この子は人間なのだろうか。
それとも真正面に住むホルスタウロスのラティさんや隣に住むデュラハンのセスタ、また京都弁を話す稲荷のかぐやさんのように魔物なのだろうか。
皆目移りするような美人美女ばかり。
目の前の少女もどうみたところで美少女という姿だ。
―…魔物、か。
同じ黒髪であるからどこか親近感が沸いたのだけどやはり違う。
そりゃそうだ、ここの世界に現代世界の住人はいない。
仮にいたとしてもオレの身近にはいない。
あの頃の生活を思い出させてくれるものも、あの時の出来事を思い返させてくれるものも。
何も、ないのだから。
「…起こすか」
考えていたことを吹っ切るように呟いてオレは彼女を起こしに掛かる。
でも、ここで悪戯心が鎌首をもたげた。
普通に起こすんじゃ面白くない。
だがすぐに起こすのもまたいただけない。
とすれば…まずは。
「てい」
悪戯心の赴くままに彼女の白い頬をそっと指で触れた。
ふにっとした柔らかな感触が指に伝わってくる。
あ、柔らかい…。
そのまま二度三度、起こすような強い刺激にならないように注意して感触を確かめる。
…。
……。
…………。
やばい、何だこれ。
いけないことだとわかっていてもやってしまうこの感情は。
やめなければいけない、でもこの感覚を楽しみたい。
そんな気持ち。
この高揚感とかはあれだ、きっと好きな女の子に悪戯するようなものだ、たぶん。
今まで恋なんてしたことなかったのでよくわからないのだけど。
とりあえず指を離し、彼女の様子を見た。
「ん…みゅ」
…可愛い。
まるで小動物が寝ているような、見ているだけで癒される彼女。
そんな反応がもっと見たくなってしまう。
それならもう少し大胆なことをしてみようかな…?
例えば首筋を撫でたり、髪の毛触ったり、唇に触れてみたり。
そこまで考えてはたと気づく。
…何でオレは師匠と同じようなことをしてるんだ。
寝ている人にこれ以上の悪戯は本当に危ない。
っていうか、師匠だ。
寝ていたオレにちょっかいを出している師匠の姿と被ってしまう。
あれは以前にオレが入院していたときのこと。
師匠が訪問してきたことに気づかずに寝入っていたところだったっけ。
浅い眠りの中で感じたのは、唇を撫でられ、頬を触り、首筋に手が這ってはそのまま下がって…。
起きたときなんて師匠があと数センチ前にいたからな…。
それでオレはなぜか半裸、師匠自分の服に手を掛けてる。
そのあとすぐにきた我が双子の姉によって追い出されていたけど…危うかったな、あれは。
流石にあんなことを同じようにすべきじゃない。
小さく自嘲気味に息を吐いて彼女の肩を掴んで揺すった。
「お客さん、閉店なんですけど?」
その声に反応してか、その揺れに応じてか、彼女は薄っすら目を開けた。
黒い艶やかな髪の間から血のように赤い瞳が覗く。
それは見つめられるだけでぞくりと背筋を撫でられるような感覚に陥る。
まるで見るだけで相手を魅了するような、誘い、惑わすような光が弱弱しいがハッキリ宿っていた。
「ん、あれ…ここは?」
「お食事処、ハンカチーフでございます」
そう言ってみると彼女は眠たそうに目を擦ってオレを見た。
赤い瞳と黒い瞳が互いの姿を映しあう。
「…はひっ!」
「!」
いきなり彼女が立ち上がった。
それどころか先ほど指で感触を確かめさせてもらった真っ白な頬が急に赤くなっていく。
というか頬だけではなく、顔全体。それも耳までが真っ赤。
「ちちちちち違うんでひゅ!」
いきなり口を開いたと思えば言葉になっていない発言。
自分の寝ている姿を晒したことによるものか、こんな店内で寝てしまったことによるものか、その羞恥によるものだろう。
大慌てで弁解しようとしている様は…やはり可愛らしい。
「あの、そうじゃなくて、そうじゃなくて!」
「はい?」
「ここにいれ、ば、ユウタさんが、見えると、か、言うんじゃなくて、ずっと、ユウタさんを見て、いたわけじゃなくて!」
「はぁ」
「その、まま、寝ちゃったとかじゃ、ないんです!」
「はい」
「信じて、くだひゃいっ!」
「…」
信じるも何も別にそんなことまで聞いていないのだが。
っていうか、また噛んでる。
そうとう醜態を晒してしまったと思っているのだろう。
見ていて思わず笑みが零れる。
だが。
この子何て言っていた?
ここにいればユウタさんが見える?
確かにこの席からはカウンターが丸見え、その代わり店内からもそう目立たない場所にある。
そんなところで彼女はオレを見ていたのか。
そういえば彼女はいつもここの席にいる。
ということは…普段からなのだろうか?
…何でだろう?
それはやはりオレが珍しいからだろうか?
「えっと、オレを見てたって?」
思わずそう言ってしまったオレの言葉に彼女はさらに反応を示した。
既に真っ赤だった顔がさらに赤くなる。
「あ…あ、あ……」
言ってはいけない内容だったか、知られてはいけないものだったのか。
彼女は慌てて両手で口を塞いだが既に遅い。
聞こえるものは聞こえたし、その言葉の意味だって理解している。
それでもどんな理由があってかは知らないが。
「…ご」
「ご?」
あまりにも小さく出された声にオレはかろうじて聞き取れた言葉を返す。
「ご……ご、ご…」
「…ご?」
聞き取りにくいので彼女の口に耳を寄せたそのときだった。
「ごめんなさぁああああああああああああああああいっ!!!!」
店内に響き渡る謝罪の声と共に彼女は駆け出していた。
あまりにも急な出来事、反応が追いつかない。
彼女は真っ赤な顔でこちらを一瞥もせずにドアまで駆けていきぶち破らんとする勢いで出て行ってしまった。
あとに残されたのはただ呆然とした顔で立ち尽くすオレのみ。
彼女の後姿を見送ってしばらくしてオレは重要なことに気づいた。
―お金、貰ってない。
「お客さん!お代は!?ちょっと、食い逃げになりますよ!?お客さーん!!」
慌てて追いかけるも既に彼女も姿は視界から消えていた。
あれくらいの少女ならいくら駆け出そうとも追いつく自信はある。
大人と子供、男性と女性では体のつくりが違うのだから。
…あの女の子が人間だったらの話だけど。
周りを見渡すも先ほどの彼女の姿は見当たらない。
完全に見失った。
これでは追いつくこともできないし、無闇に走ったところで反対方向へといってしまう可能性もある。
そして今は夜。
オレ同様に黒い服を纏った黒髪の彼女は夜の闇に溶け込みやすい。
ここが現代の町のように明るいならまだしも、今照らすのは月の明かりのみ。
…こりゃ無理か。
かなりの大きさを誇るこの街中、人気のない夜中とはいえたった一人の少女を探すのは骨が折れる。
はぁ、とあきらめのため息をつき来た道を歩き出す。
今度来たときに請求すればいいか。
どうせ彼女はよくあの店に来ているんだし、食い逃げをしたままにする悪い子じゃなさそうだ。
数日もしないうちに払いに来るだろう。
そのときでいいか。
来なかったら…まぁそのときはそのときだ。
払われなかった代金は自分の財布から引けばいいだけだ。
どうせ稼いだところでここではあまり使い道がないんだし。
そんなことを考えながらオレは歩き出した、そのときだった。
「あの」
どこか不安げにかけられる声。
そのまま肩をとんとんと叩かれた。
さっきの女の子が戻ってきたのだろうか?
いや、でも声が違う。
どことなく大人びた声色。
大慌てでしゃべり、噛み噛みだったあの言葉ではなく落ち着いた雰囲気を感じさせた。
「はい?」
声に振り向いたその先にいたのは月明かりを浴びて幻想的な姿を見せる美女だった。
綺麗な黄緑色の長髪にその中から二匹蛇が生やし、尖った耳にどこか妖しくも麗しい光を宿す金色の目を持っていた。腰から下が蛇の体であり一枚一枚の鱗が月明かりに煌いている。肌の色にいたっては人間らしい肌色ではなく青。だが青くても不気味さなんて感じさせない、それどころか異端であるからこそ独特な美しさを纏っていた。
そんな姿を一目で人外の存在だと理解する。
頭から蛇…それを見て知り合いのメドゥーサを思い浮かべるが目の前の彼女はおそらく違うだろう。
肌から感じる言葉に出来ない感覚。
それはまるで師匠を前にしたときのようであり、この街の領主である彼女を見たときのようである。
それでも、目の前にいる女性はとんでもない美女だった。
思わず言葉に出てしまうくらいに。
「うわ、すごい美人」
「っ!」
彼女は一瞬驚きの表情を浮かべてすぐに視線を下げた。
心なしか頬に赤みが掛かって見えるが…今は置いておこう。
オレに声を掛けてきた彼女の用件のほうが大事だろうし。
「えっと、どうしたんですか?」
「あ、はい!」
オレの声に彼女は顔を上げてあせったように何かを取り出した。
その何か。
何かが描かれた紙である。
曲がった二本線にその間を赤い線がはしっている。
一見するとそれは地図のように思えた。
「実は…この場所へ行くにはここからどう行けばいいのかわからないのですか…」
そう言って遠慮がちに指で示した場所。
そこはこの街の北部にある豪邸が建っている場。
この街の領主、ヴァンパイアのクレマンティーヌ・ベルベット・ベランジュールの住まう館があるところだ。
「あ、ここならわかりますよ」
「本当ですか!実はそこまでの道を教えていただきたいのですが…」
教える…っていわれても自分自身物を教えることが上手いとは思っていない。
道を教えるというのは自分で理解してるからこそ難しい。
他人に理解できるように説明するのに苦しむんだ。
だったら教えるよりも共に行くほうがいいだろう。
「それなら一緒についていきますよ」
「!本当ですか?」
「ええ、どうせそう掛かりませんしね」
そう言うと彼女は安心したように胸をなでおろした。
髪から生える二匹の蛇もどこか安心したように頷いている。
その様子に美人だけどどこか可愛らしく思える。
あの黒髪の少女とはまた違った魅力というものだろう。
「それじゃあ、一緒に行きますか」
そう言ってオレは彼女の隣で歩き出した。
「実はここには何度も訪れているのですが…この地区は初めてで…」
「ああ、ここら辺って結構複雑な道してるとこ多いですからね」
ぼんやりとした月明かりの下オレは彼女、エキドナのエリヴィラさんと共にクレマンティーヌの豪邸に向かって歩いていた。
他愛のない世間話、といってもこの世界に生まれた頃からいるわけではないオレにとっては世間の話なんて限界があるが。
取りとめもないお話をしながら時折笑いつつも向かっていた。
時折髪の毛に混じった二匹の蛇がするすりと身を寄せてくる。
その二匹の頭をそっと撫でると身を捩って喜ぶのだからまた可愛らしい。
「蛇、怖くないのですか?」
そうしているとどこか不安げにエリヴィラさんが聞いてきた。
その問いにオレは笑って答える。
「まさか。これくらい可愛いもんですよ、蛇には昔から縁があるし」
お父さんの実家と同じように田舎なお母さんの実家。
あそこではよく蛇が出てきていたっけな。
それもあり、蛇に噛まれる危険があるからということでお父さんの実家で幼い頃は暮らすことになったし。
大きくなって新しい家に越してきてもいつの間にか庭先に蛇がいて…びっくりした。
とくに噛むような凶暴さは持ち合わせていなかった蛇でよかったけど。
…そういやあの蛇白かったな。
そんなことを考えているオレを他所にエリヴィラさんはどこか照れたように笑った。
それが月明かりに照らされ、青い肌が魅了するような雰囲気をかもし出す。
そしてこれは疑いようのない魔物の証。
エキドナ。
魔物の母。
やはりメドゥーサとは違う存在で、クレマンティーヌのように上位に位置する魔物らしい。
オレのいた世界でも神話などで怪物の母といわれていたっけ。
魔物の母、怪物の母。
…それなら。
「ねぇ、エリヴィラさん」
「はい?なんでしょう、ユウタ君」
魔物の母というのだから彼女のことも知っているかもしれない。
どこか気にかかるあの少女のことを。
「瞳の赤い魔物っていますかね?」
一瞬彼女の足(蛇身?)が動きを止めた。
…どうしたのだろう?
「どうしたんですか?」
「えっと、ユウタ君…その魔物ってもしかして髪の毛が真っ白ではありませんでしたか?」
「真っ白?いえ、その逆の真っ黒でしたけど」
「あ、よかった…」
…何が良かったのだろうか。
髪の毛が白くて赤い瞳?知り合いにでもいるのだろうか?
「髪が黒くて瞳が赤い魔物ですか」
「ええ、それでいて服も真っ黒で小さな女の子です」
「…」
オレの言葉にエリヴィラさんは考え込み、もしかして、と小さく声を漏らした。
思い当たる魔物がいたのだろうか。
「もしかして…それはドッペルゲンガーの本体では?」
「…え?ドッペルゲンガー?」
その言葉に聞き覚えがある。
というのもテレビでやっていたオカルト番組に出ていたというだけだけど。
ただ、ドッペルゲンガーというと…。
「ドッペルゲンガーって言うと…あれですかね、同じ人に成り代わってその人と出会うと二人とも死ぬことになるって…あれですか?」
「…え?」
首を傾げられた。
「あれ?違うんですか?」
「そこまで恐ろしいものではありませんよ。ドッペルゲンガーというのはですね―」
「どうもありがとうございました、ユウタ君」
「いえいえ」
クレマンティーヌの住んでいる豪邸の前、細かな彫刻の入ったこれまた豪華な門の前でエリヴィラさんはオレに頭を下げた。
「困ったときはお互い様ですよ」
「もしよければ…後ほどお礼なんて…」
そう言ってエリヴィラさんはオレの手を取った。
ついでに蛇たちもするすると腕に顔をこすり付けてくる。
まるで夜宵みたいだな、とお父さんの実家にいる猫のことを思い浮かべた。
エリヴィラさんは恥ずかしげに微笑みながらオレを見つめる。
その行動に、その笑みに一瞬戸惑いつつもオレからも笑みを返した。
「それじゃあ、またいつか会ったときにでも」
「はい♪」
名残惜しげに手を離し、手を振ってオレは彼女の元を歩き出す。
エリヴィラさんはオレが通りを曲がって見えなくなるまでこちらに手を振っていた。
一人、月明かりの照らし出す石畳の道を歩いていく。
通りには人一人も魔物もいない。
皆すでに寝入っているかそれとも愛の営みの最中ということだろう。
中世ヨーロッパのような建物が立ち並ぶ道をただ足を進めた。
既になれたこの街の光景。
やっとなれたこの世界。
そんなところで見つけた彼女。
『ドッペルゲンガー』
「…ふぅん」
オレの知っていたドッペルゲンガーとは違う存在。
先ほどエリヴィラさんから聞いたことを頭の中で反芻する。
闇のように黒い髪に赤い瞳、同じく黒いワンピース。
それが彼女の本当の姿。
ただ、何でオレの前に現れたのかはわからないが。
『男性の失恋による傷を埋めるために生まれる少女』
当然オレは恋をしていない。
恋愛に近い感情を抱いたことはあったとしても好きと自覚したことはない。
だから失恋したこともない。
…なら、オレは関係ないか。
たまたま、あそこにいたというだけ。
ただ彼女はあそこにいて、オレが黒髪黒目であることを珍しがってみていただけ。
魔物であるあの娘は。
「…」
同じ黒髪にどこか親近感を覚えたのだけど、やはり違う。
まったく違う。
オレの思い描いているものと。
オレの思い浮かべているものと。
オレの記憶にあるものと。
それが…当たり前なんだろう。
それで、当然なんだろう。
もうオレには関係ないのだから。
どうやってもオレには無駄になるのだから。
いくら泣こうが叫ぼうが、いくら手を伸ばしたところで届かない。
もう、届かないんだ。
「…はぁ」
大きくため息をついた。
先ほど考えていたことを振り払うように頭を振っているとそこへ予期せぬ事態が起きることになった。
「どーん」
「っ!」
いきなり体に走る衝撃。
強いものではないが人一人が体当たりをかましてきたかのようなもの。
予想外だったその衝撃に思わずつんのめるが何とか体勢を立て直した。
まったく危ないな。
というか誰だ、こんな時間に。
先ほど通りを歩いていても人一人いなかったというのに。
そう思いながらぶつかってきた人物を見た。
見て、固まった。
「まったく、何て顔してるのさ」
そう言ったのは女性。
オレよりも低い身長で月の明かりを吸い込むような一つにまとめた艶やかな髪が印象的。
肌は白く、逆に着ているものは黒い服。
その服をオレは知っていた。
それよりも、そのぶつかってきた人物をオレは知っていた。
呆れたような表情を浮かべる可愛らしい顔。
振りまくのは活気あり、誰にも好印象を抱かせる雰囲気。
そして、闇夜にも溶けることなく、むしろ輝く二つの瞳。
黒い瞳に、黒い髪に、黒い服。
その姿は紛れもない―
「そんな呆けた顔してどうしちゃったのさ、ユウタ」
―オレの双子の姉である黒崎あやかの姿だった。
オレこと黒崎ゆうたが住み込みで働いているこの住宅兼職場である『お食事処ハンカチーフ』の店内、入ってからカウンターを右に曲がり、そのままずっと進んだところにある二人用の席。
そこはこの空間内の隅であり他のお客さんたちからもそう目に付かない場所である。
店内を見回すことはできないだろうがカウンターからは目に付く、そんなところ。
そこに彼女はいつもいた。
彼女に目が留まったのは偶然ではない。
その姿は、その風貌は、この街では珍しいものだから。
この街の中でオレもまた珍しいらしい。
というのもここには黒髪黒目なんて人間はそういない…いや、まったくいない。
それはジパング人と呼ばれる者の特徴であり、この大陸ではないはるか東の大陸に住まう人間だと聞く。
人と魔物が共に住まう土地であると聞いたがそれがいったいどういったものなのか、オレと同じ特徴を持った人がいるという国はどんなものなのか興味は尽きないがつまるところ、この大陸にジパング人はそういない。
だからこそオレの姿は周りから嫌でも注目を集めてしまう。
だが、彼女はどうだろうか。
オレと同じ黒髪なのに彼女はそれほどまで人に見られているというわけではなかった。
オレよりも年下に見えるその背丈。
身に纏うは闇を切り抜いて作ったかのようなワンピース。
全身黒、正反対に輝くような白い肌。
小顔であってちょうど目が髪に隠れているがそれが逆に愛らしい。
とにかく可愛い。
何でオレがここまで的確にその少女の特徴を言えるかというと…。
―…実はその少女が目の前で寝ているからだ。
店内の一番奥のいつもの席。
そこに椅子に腰掛けて眠っている。
テーブルには既に食した後である綺麗な皿が一枚と水の入ったコップが一つ。
フレンチトースト食べていたんだっけか。
それでお腹が満たされたからだろう、それに今日は温かい日だった。
それならまどろみ、眠りこけてしまうのも頷けるというものだ。
高校生であるオレにとっても昼休みの後は睡魔との闘いだからなぁ。
とにかく寝ている少女を起こすというのはなんだか気が進まない。
そんな風に思って店内の片づけをしていたら先ほど終えたので今は彼女の目の前の椅子に腰掛けていた。
ここには今オレと彼女しかいない。
ここのオーナー兼オレの親となってくれたレグルさん、キャンディさんはオレに彼女を任せて既に自宅である二階にいる。
それにお客はもう来ない。
だって、今夜だから。
「…」
やべーよ、オレ馬鹿だよ。
何でこの娘を夜になるまで寝かせておいちゃったのかなぁ。
昼真っから寝っぱなしという彼女も彼女なんだけどそれを起こさないオレもオレだ。
どうしよう…。
いや、一番いいのは彼女を起こすことだろう。
でも…こんな可愛らしい寝顔を起こしてしまうのは気が進まない。
いや、だからといってこのままにしておくのはいけないし…。
…とりあえず、食器片付けようか。
食器を音を立てずに片付け終え、店内に戻ってくると彼女はまだ寝ていた。
…最近寝ていないのだろうか?
普段この子は普通に食事して普通に帰っていく。
その中で会話らしい会話はない。
彼女は表立って目立つ、話を積極的にするようなタイプではないのだろう。
だから普段の彼女からしてみればこんなことになるのは珍しい。
こんな年下の子が徹夜でもしているというのだろうか?
アンだってちゃんと寝てるって言ってたし、なんて近所に住んでいるセイレーンの少女のことを考えた。
とりあえずここまで来たら仕方ないだろう。
起こすか。
音を立てずに隣まで歩いて立った。
そうして顔を近づけてその表情を伺う。
安らかな寝顔で小さく呼吸をしている。
店内に置かれている小さな明かりに桜色の唇が艶っぽく光る。
…本当に可愛いな。
この子は人間なのだろうか。
それとも真正面に住むホルスタウロスのラティさんや隣に住むデュラハンのセスタ、また京都弁を話す稲荷のかぐやさんのように魔物なのだろうか。
皆目移りするような美人美女ばかり。
目の前の少女もどうみたところで美少女という姿だ。
―…魔物、か。
同じ黒髪であるからどこか親近感が沸いたのだけどやはり違う。
そりゃそうだ、ここの世界に現代世界の住人はいない。
仮にいたとしてもオレの身近にはいない。
あの頃の生活を思い出させてくれるものも、あの時の出来事を思い返させてくれるものも。
何も、ないのだから。
「…起こすか」
考えていたことを吹っ切るように呟いてオレは彼女を起こしに掛かる。
でも、ここで悪戯心が鎌首をもたげた。
普通に起こすんじゃ面白くない。
だがすぐに起こすのもまたいただけない。
とすれば…まずは。
「てい」
悪戯心の赴くままに彼女の白い頬をそっと指で触れた。
ふにっとした柔らかな感触が指に伝わってくる。
あ、柔らかい…。
そのまま二度三度、起こすような強い刺激にならないように注意して感触を確かめる。
…。
……。
…………。
やばい、何だこれ。
いけないことだとわかっていてもやってしまうこの感情は。
やめなければいけない、でもこの感覚を楽しみたい。
そんな気持ち。
この高揚感とかはあれだ、きっと好きな女の子に悪戯するようなものだ、たぶん。
今まで恋なんてしたことなかったのでよくわからないのだけど。
とりあえず指を離し、彼女の様子を見た。
「ん…みゅ」
…可愛い。
まるで小動物が寝ているような、見ているだけで癒される彼女。
そんな反応がもっと見たくなってしまう。
それならもう少し大胆なことをしてみようかな…?
例えば首筋を撫でたり、髪の毛触ったり、唇に触れてみたり。
そこまで考えてはたと気づく。
…何でオレは師匠と同じようなことをしてるんだ。
寝ている人にこれ以上の悪戯は本当に危ない。
っていうか、師匠だ。
寝ていたオレにちょっかいを出している師匠の姿と被ってしまう。
あれは以前にオレが入院していたときのこと。
師匠が訪問してきたことに気づかずに寝入っていたところだったっけ。
浅い眠りの中で感じたのは、唇を撫でられ、頬を触り、首筋に手が這ってはそのまま下がって…。
起きたときなんて師匠があと数センチ前にいたからな…。
それでオレはなぜか半裸、師匠自分の服に手を掛けてる。
そのあとすぐにきた我が双子の姉によって追い出されていたけど…危うかったな、あれは。
流石にあんなことを同じようにすべきじゃない。
小さく自嘲気味に息を吐いて彼女の肩を掴んで揺すった。
「お客さん、閉店なんですけど?」
その声に反応してか、その揺れに応じてか、彼女は薄っすら目を開けた。
黒い艶やかな髪の間から血のように赤い瞳が覗く。
それは見つめられるだけでぞくりと背筋を撫でられるような感覚に陥る。
まるで見るだけで相手を魅了するような、誘い、惑わすような光が弱弱しいがハッキリ宿っていた。
「ん、あれ…ここは?」
「お食事処、ハンカチーフでございます」
そう言ってみると彼女は眠たそうに目を擦ってオレを見た。
赤い瞳と黒い瞳が互いの姿を映しあう。
「…はひっ!」
「!」
いきなり彼女が立ち上がった。
それどころか先ほど指で感触を確かめさせてもらった真っ白な頬が急に赤くなっていく。
というか頬だけではなく、顔全体。それも耳までが真っ赤。
「ちちちちち違うんでひゅ!」
いきなり口を開いたと思えば言葉になっていない発言。
自分の寝ている姿を晒したことによるものか、こんな店内で寝てしまったことによるものか、その羞恥によるものだろう。
大慌てで弁解しようとしている様は…やはり可愛らしい。
「あの、そうじゃなくて、そうじゃなくて!」
「はい?」
「ここにいれ、ば、ユウタさんが、見えると、か、言うんじゃなくて、ずっと、ユウタさんを見て、いたわけじゃなくて!」
「はぁ」
「その、まま、寝ちゃったとかじゃ、ないんです!」
「はい」
「信じて、くだひゃいっ!」
「…」
信じるも何も別にそんなことまで聞いていないのだが。
っていうか、また噛んでる。
そうとう醜態を晒してしまったと思っているのだろう。
見ていて思わず笑みが零れる。
だが。
この子何て言っていた?
ここにいればユウタさんが見える?
確かにこの席からはカウンターが丸見え、その代わり店内からもそう目立たない場所にある。
そんなところで彼女はオレを見ていたのか。
そういえば彼女はいつもここの席にいる。
ということは…普段からなのだろうか?
…何でだろう?
それはやはりオレが珍しいからだろうか?
「えっと、オレを見てたって?」
思わずそう言ってしまったオレの言葉に彼女はさらに反応を示した。
既に真っ赤だった顔がさらに赤くなる。
「あ…あ、あ……」
言ってはいけない内容だったか、知られてはいけないものだったのか。
彼女は慌てて両手で口を塞いだが既に遅い。
聞こえるものは聞こえたし、その言葉の意味だって理解している。
それでもどんな理由があってかは知らないが。
「…ご」
「ご?」
あまりにも小さく出された声にオレはかろうじて聞き取れた言葉を返す。
「ご……ご、ご…」
「…ご?」
聞き取りにくいので彼女の口に耳を寄せたそのときだった。
「ごめんなさぁああああああああああああああああいっ!!!!」
店内に響き渡る謝罪の声と共に彼女は駆け出していた。
あまりにも急な出来事、反応が追いつかない。
彼女は真っ赤な顔でこちらを一瞥もせずにドアまで駆けていきぶち破らんとする勢いで出て行ってしまった。
あとに残されたのはただ呆然とした顔で立ち尽くすオレのみ。
彼女の後姿を見送ってしばらくしてオレは重要なことに気づいた。
―お金、貰ってない。
「お客さん!お代は!?ちょっと、食い逃げになりますよ!?お客さーん!!」
慌てて追いかけるも既に彼女も姿は視界から消えていた。
あれくらいの少女ならいくら駆け出そうとも追いつく自信はある。
大人と子供、男性と女性では体のつくりが違うのだから。
…あの女の子が人間だったらの話だけど。
周りを見渡すも先ほどの彼女の姿は見当たらない。
完全に見失った。
これでは追いつくこともできないし、無闇に走ったところで反対方向へといってしまう可能性もある。
そして今は夜。
オレ同様に黒い服を纏った黒髪の彼女は夜の闇に溶け込みやすい。
ここが現代の町のように明るいならまだしも、今照らすのは月の明かりのみ。
…こりゃ無理か。
かなりの大きさを誇るこの街中、人気のない夜中とはいえたった一人の少女を探すのは骨が折れる。
はぁ、とあきらめのため息をつき来た道を歩き出す。
今度来たときに請求すればいいか。
どうせ彼女はよくあの店に来ているんだし、食い逃げをしたままにする悪い子じゃなさそうだ。
数日もしないうちに払いに来るだろう。
そのときでいいか。
来なかったら…まぁそのときはそのときだ。
払われなかった代金は自分の財布から引けばいいだけだ。
どうせ稼いだところでここではあまり使い道がないんだし。
そんなことを考えながらオレは歩き出した、そのときだった。
「あの」
どこか不安げにかけられる声。
そのまま肩をとんとんと叩かれた。
さっきの女の子が戻ってきたのだろうか?
いや、でも声が違う。
どことなく大人びた声色。
大慌てでしゃべり、噛み噛みだったあの言葉ではなく落ち着いた雰囲気を感じさせた。
「はい?」
声に振り向いたその先にいたのは月明かりを浴びて幻想的な姿を見せる美女だった。
綺麗な黄緑色の長髪にその中から二匹蛇が生やし、尖った耳にどこか妖しくも麗しい光を宿す金色の目を持っていた。腰から下が蛇の体であり一枚一枚の鱗が月明かりに煌いている。肌の色にいたっては人間らしい肌色ではなく青。だが青くても不気味さなんて感じさせない、それどころか異端であるからこそ独特な美しさを纏っていた。
そんな姿を一目で人外の存在だと理解する。
頭から蛇…それを見て知り合いのメドゥーサを思い浮かべるが目の前の彼女はおそらく違うだろう。
肌から感じる言葉に出来ない感覚。
それはまるで師匠を前にしたときのようであり、この街の領主である彼女を見たときのようである。
それでも、目の前にいる女性はとんでもない美女だった。
思わず言葉に出てしまうくらいに。
「うわ、すごい美人」
「っ!」
彼女は一瞬驚きの表情を浮かべてすぐに視線を下げた。
心なしか頬に赤みが掛かって見えるが…今は置いておこう。
オレに声を掛けてきた彼女の用件のほうが大事だろうし。
「えっと、どうしたんですか?」
「あ、はい!」
オレの声に彼女は顔を上げてあせったように何かを取り出した。
その何か。
何かが描かれた紙である。
曲がった二本線にその間を赤い線がはしっている。
一見するとそれは地図のように思えた。
「実は…この場所へ行くにはここからどう行けばいいのかわからないのですか…」
そう言って遠慮がちに指で示した場所。
そこはこの街の北部にある豪邸が建っている場。
この街の領主、ヴァンパイアのクレマンティーヌ・ベルベット・ベランジュールの住まう館があるところだ。
「あ、ここならわかりますよ」
「本当ですか!実はそこまでの道を教えていただきたいのですが…」
教える…っていわれても自分自身物を教えることが上手いとは思っていない。
道を教えるというのは自分で理解してるからこそ難しい。
他人に理解できるように説明するのに苦しむんだ。
だったら教えるよりも共に行くほうがいいだろう。
「それなら一緒についていきますよ」
「!本当ですか?」
「ええ、どうせそう掛かりませんしね」
そう言うと彼女は安心したように胸をなでおろした。
髪から生える二匹の蛇もどこか安心したように頷いている。
その様子に美人だけどどこか可愛らしく思える。
あの黒髪の少女とはまた違った魅力というものだろう。
「それじゃあ、一緒に行きますか」
そう言ってオレは彼女の隣で歩き出した。
「実はここには何度も訪れているのですが…この地区は初めてで…」
「ああ、ここら辺って結構複雑な道してるとこ多いですからね」
ぼんやりとした月明かりの下オレは彼女、エキドナのエリヴィラさんと共にクレマンティーヌの豪邸に向かって歩いていた。
他愛のない世間話、といってもこの世界に生まれた頃からいるわけではないオレにとっては世間の話なんて限界があるが。
取りとめもないお話をしながら時折笑いつつも向かっていた。
時折髪の毛に混じった二匹の蛇がするすりと身を寄せてくる。
その二匹の頭をそっと撫でると身を捩って喜ぶのだからまた可愛らしい。
「蛇、怖くないのですか?」
そうしているとどこか不安げにエリヴィラさんが聞いてきた。
その問いにオレは笑って答える。
「まさか。これくらい可愛いもんですよ、蛇には昔から縁があるし」
お父さんの実家と同じように田舎なお母さんの実家。
あそこではよく蛇が出てきていたっけな。
それもあり、蛇に噛まれる危険があるからということでお父さんの実家で幼い頃は暮らすことになったし。
大きくなって新しい家に越してきてもいつの間にか庭先に蛇がいて…びっくりした。
とくに噛むような凶暴さは持ち合わせていなかった蛇でよかったけど。
…そういやあの蛇白かったな。
そんなことを考えているオレを他所にエリヴィラさんはどこか照れたように笑った。
それが月明かりに照らされ、青い肌が魅了するような雰囲気をかもし出す。
そしてこれは疑いようのない魔物の証。
エキドナ。
魔物の母。
やはりメドゥーサとは違う存在で、クレマンティーヌのように上位に位置する魔物らしい。
オレのいた世界でも神話などで怪物の母といわれていたっけ。
魔物の母、怪物の母。
…それなら。
「ねぇ、エリヴィラさん」
「はい?なんでしょう、ユウタ君」
魔物の母というのだから彼女のことも知っているかもしれない。
どこか気にかかるあの少女のことを。
「瞳の赤い魔物っていますかね?」
一瞬彼女の足(蛇身?)が動きを止めた。
…どうしたのだろう?
「どうしたんですか?」
「えっと、ユウタ君…その魔物ってもしかして髪の毛が真っ白ではありませんでしたか?」
「真っ白?いえ、その逆の真っ黒でしたけど」
「あ、よかった…」
…何が良かったのだろうか。
髪の毛が白くて赤い瞳?知り合いにでもいるのだろうか?
「髪が黒くて瞳が赤い魔物ですか」
「ええ、それでいて服も真っ黒で小さな女の子です」
「…」
オレの言葉にエリヴィラさんは考え込み、もしかして、と小さく声を漏らした。
思い当たる魔物がいたのだろうか。
「もしかして…それはドッペルゲンガーの本体では?」
「…え?ドッペルゲンガー?」
その言葉に聞き覚えがある。
というのもテレビでやっていたオカルト番組に出ていたというだけだけど。
ただ、ドッペルゲンガーというと…。
「ドッペルゲンガーって言うと…あれですかね、同じ人に成り代わってその人と出会うと二人とも死ぬことになるって…あれですか?」
「…え?」
首を傾げられた。
「あれ?違うんですか?」
「そこまで恐ろしいものではありませんよ。ドッペルゲンガーというのはですね―」
「どうもありがとうございました、ユウタ君」
「いえいえ」
クレマンティーヌの住んでいる豪邸の前、細かな彫刻の入ったこれまた豪華な門の前でエリヴィラさんはオレに頭を下げた。
「困ったときはお互い様ですよ」
「もしよければ…後ほどお礼なんて…」
そう言ってエリヴィラさんはオレの手を取った。
ついでに蛇たちもするすると腕に顔をこすり付けてくる。
まるで夜宵みたいだな、とお父さんの実家にいる猫のことを思い浮かべた。
エリヴィラさんは恥ずかしげに微笑みながらオレを見つめる。
その行動に、その笑みに一瞬戸惑いつつもオレからも笑みを返した。
「それじゃあ、またいつか会ったときにでも」
「はい♪」
名残惜しげに手を離し、手を振ってオレは彼女の元を歩き出す。
エリヴィラさんはオレが通りを曲がって見えなくなるまでこちらに手を振っていた。
一人、月明かりの照らし出す石畳の道を歩いていく。
通りには人一人も魔物もいない。
皆すでに寝入っているかそれとも愛の営みの最中ということだろう。
中世ヨーロッパのような建物が立ち並ぶ道をただ足を進めた。
既になれたこの街の光景。
やっとなれたこの世界。
そんなところで見つけた彼女。
『ドッペルゲンガー』
「…ふぅん」
オレの知っていたドッペルゲンガーとは違う存在。
先ほどエリヴィラさんから聞いたことを頭の中で反芻する。
闇のように黒い髪に赤い瞳、同じく黒いワンピース。
それが彼女の本当の姿。
ただ、何でオレの前に現れたのかはわからないが。
『男性の失恋による傷を埋めるために生まれる少女』
当然オレは恋をしていない。
恋愛に近い感情を抱いたことはあったとしても好きと自覚したことはない。
だから失恋したこともない。
…なら、オレは関係ないか。
たまたま、あそこにいたというだけ。
ただ彼女はあそこにいて、オレが黒髪黒目であることを珍しがってみていただけ。
魔物であるあの娘は。
「…」
同じ黒髪にどこか親近感を覚えたのだけど、やはり違う。
まったく違う。
オレの思い描いているものと。
オレの思い浮かべているものと。
オレの記憶にあるものと。
それが…当たり前なんだろう。
それで、当然なんだろう。
もうオレには関係ないのだから。
どうやってもオレには無駄になるのだから。
いくら泣こうが叫ぼうが、いくら手を伸ばしたところで届かない。
もう、届かないんだ。
「…はぁ」
大きくため息をついた。
先ほど考えていたことを振り払うように頭を振っているとそこへ予期せぬ事態が起きることになった。
「どーん」
「っ!」
いきなり体に走る衝撃。
強いものではないが人一人が体当たりをかましてきたかのようなもの。
予想外だったその衝撃に思わずつんのめるが何とか体勢を立て直した。
まったく危ないな。
というか誰だ、こんな時間に。
先ほど通りを歩いていても人一人いなかったというのに。
そう思いながらぶつかってきた人物を見た。
見て、固まった。
「まったく、何て顔してるのさ」
そう言ったのは女性。
オレよりも低い身長で月の明かりを吸い込むような一つにまとめた艶やかな髪が印象的。
肌は白く、逆に着ているものは黒い服。
その服をオレは知っていた。
それよりも、そのぶつかってきた人物をオレは知っていた。
呆れたような表情を浮かべる可愛らしい顔。
振りまくのは活気あり、誰にも好印象を抱かせる雰囲気。
そして、闇夜にも溶けることなく、むしろ輝く二つの瞳。
黒い瞳に、黒い髪に、黒い服。
その姿は紛れもない―
「そんな呆けた顔してどうしちゃったのさ、ユウタ」
―オレの双子の姉である黒崎あやかの姿だった。
12/03/21 20:18更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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