連載小説
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満悦、および憤怒
それはまるで上質なワインのようなものだった。
無機質なガラスのコップに入れられたそれから漂う香り。
この世界独自の明かりの下で照る色。
口当たりはどろどろしているのではなくまるでさらさらと流れる小川のようだ。
飲んで広がるその味。
濃くもなく薄くもなく、絶妙なところである。
それでいてなぜだろう、かすかな甘みを感じるような気がする。
風味もまた抜群。
それでいて安酒のように引っかかることもなく喉を通っていく。
飲み終わってもまだ続く。
まるでアルコールに酔ったかのように胸が熱くなる。
それでも嫌な熱じゃない。
ほろ酔いや陶酔にも似た、うっとりとしたいい気分になる。
それでいて―満たされる。
あれほど空腹だった私の体が。
あれほど枯渇していた私の魔力が。
荒地に雨が降るように、満ち満ちていく。
それでいて、体に広がっていく甘い快楽。
甘美な感覚で、思わず体の奥が疼きそうな。
それでも、激しく誘うものではない。
徐々に指先から、足先から暖められるように。
体を包みこんでいくように。
とても落ち着き、安心できる快感だった。
こんな感覚今までに味わったことはない。
「ふぁ…っ」
思わずため息が漏れてしまうのも仕方ない。
感嘆の息を吐いてしまうのもしょうがない。
今まで何度も味わってきたものだがこれは格段に違いすぎる。
これはあまりにも、良過ぎる。
「満足してくれたかよ?」
そう言って笑ったのはユウタ。
この家に私を招いてくれた青年だ。
私が初めてみたときと同じ服装でそのまま黒いエプロンを着用している。
…家庭的な姿がよく似合うのだね。
「ああ、とても満足したよ。これほどの血を頂けるなんて感無量だ」
「そっか。そりゃよかった」
そう言ってユウタは笑みを浮かべながら食器を拭いていく。
先ほどまでユウタとそのお姉さんが食べていたものだ。
ユウタの双子のお姉さん。
名前は本人から聞いていないが今はリビングのソファでくつろいでいる。
人が映る不思議な板(これもまたこの世界独特のものだろう)を見つめたままである。
ユウタと同じ黒髪黒目。
そしてどことなく似ている風貌。
双子というのも目にしたことは何度かあるが…どちらかといえばあまりにていない方の双子だ。
そしてどちらもジパング人に似ているようだがやはり違う。
初めて見たときに感じたものもまた、違った。
彼女において感じたのはユウタとはまったく逆の―
「…影、本当にないんだ」
「ん?」
ユウタの声に考えるのをやめ、彼の方を見る。
食器を拭き終わったのだろう、エプロンで手を拭いて私の正面の椅子に座った。
「いや、ヴァンパイアって言ってたから。影ができないのって本当なんだなと思って」
「ああ」
そういえば、そうだ。
この家のリビングにいる私はユウタと同じように椅子に座っている。
一つのテーブルに五脚あるうちの一つ。
ユウタとお姉さん以外は今家にいないらしい。
そのリビングで天井に取り付けられた明かりに照らされている私。
勿論影はない。
椅子に座る影も、コップを手にとってテーブルに映るはずの影も、ない。
あるのはコップの影のみだ。
「ヴァンパイア、だからね」
「ふぅん…それじゃあ日の光に弱いんだ?」
「ああ」
「ニンニク、十字架、水に銀武器が弱点っていうのは?」
「苦手というだけだがね。」
私の親友が魔の王へとなってから私も随分変化してしまったからね。
日の光で焼かれるようなことはなくなったし。
十字架で体が蒸発することもまずない。
ただ単に力が弱くなる、体が敏感になる程度だ。
ヴァンパイアとしての能力も大体残っている。
老いることがないのは元からだし、麗しい女性の姿になったというのは…。
…まぁ、元々私はこの姿だったから大して変化はないな。
変わったところといえば処女の血よりも男性の血を好むようになったということくらいか。
「へぇ。それじゃあ…影に潜ったり、闇になったりもできる?」
「ああ、やろうと思えばできるよ。というかユウタ、君はよくそんなことを知っているね」
いくらか有名なものもあるが銀武器や影に潜るなんてものは知っている者しか知らないはずだ。
私と対峙した勇者達でさえヴァンパイアの特性をよく知るものはいない。
せいぜいニンニクと十字架ぐらいだ。
「まぁね。ヴァンパイアって言ったら有名なもんだし」
「…この世界でも有名なのか」
「かなりに。不死で変身できて飛べて怪力。催眠、魅了することができる。影がないし鏡に映らない。それで心臓に木の杭を打たれると死ぬ、だったっけか…」
「…良く知っているのだね」
杭なんてもう誰も知らないものだと思っていたよ。
最近でも私に挑もうとしてくる勇者がいたのだがどれも皆手に剣と魔法少々というぐらいだ。
「この世界にもヴァンパイアがいるのかい?」
「いないけど?」
…いないのか。
いないというのによくもまぁそこまで詳しく知っているものだよ。
「ヴァンパイアって言うと本や映画、アニメに漫画でもよく取り上げられてるからさ。そう考えると…もしかしたらいたのかもよ」
「…えいが?」
「そ、映画」
…よくわからない言葉だが…用は本や物語にでもなっているということだろう。
まったく、私は変わった世界に来てしまったものだ。
だが、血を飲ませてもらったからだろう。
もう帰るには十分な魔力も回復した。
それどころか体調がすごくいい。
先ほどの空腹や眩暈が嘘のように消えている。
その上で体が軽い。
まるでこれは全盛期のようだ。
私達ヴァンパイアにとって老いなどというものはない。
それに肉体は日の下でなければ常最高の状態で保たれるのだが…しかし。
これはまるで親友と共に肩を並べていたときのようだ。
力は漲り、魔力が滾る。
飲んだ血は特別なものだったのだろうか?
…また、飲みたくなってきてしまうね。
「ねぇ、ユウタ」
「ん?」
「その…もう一杯いただけるかい?」
今更再び血を頂くのはおこがましいとは思うが、それでも求めてしまう。
あまりにも美味。
あまりにも甘美。
ゆえに、止められそうにない。
「仕方ないな」
そういいつつもユウタは私に手を出してきた。
持っているコップを渡せというのだろう。
その手に私は持っているコップを―
「…」

―渡せなかった。

渡さなかったのではなく、だ。
渡そうとは思っているのだが…どうも…。
空腹がなくなった途端にまた戻るか。
先ほどはユウタを押し倒しても、その上に跨っても平気だったというのに。
まったく、困った体だ。
「…?」
「…すまない」
不思議そうに首をかしげたユウタの前に私はコップを置くことしかできなかった。




「そんじゃ、オレはもうそろそろ休ませてもらうわ」
そう言ってユウタは椅子から立ち上がる。
微妙に体が揺れてた。
顔を見ると白く、そしてどことなく眠そうな表情だ。
もう寝るような時間だろうか?
確かに長い間しゃべっていた気がするし、それに今はもう真夜中だ。
本来ならもう寝ていてもおかしくはないのかもしれない。
「悪い、最後まで相手できなくて」
「あ、ああ。別に大丈夫だよ。ユウタと話せて楽しかったし、血をご馳走になっているんだ。とても感謝しているよ」
「そりゃよかった」
だるそうでも笑みを浮かべ私に返事を返すと軽く手を振ってソファに寝転んでいるお姉さんの傍に行く。
歩いて数歩、その間にもユウタの体は危なっかしく揺れる。
しゃがみこみ、彼女に視線を合わせた彼は何か話しているようだ。
「後、頼むわ」
「は?何で?」
「ちょっと体が…」
「拾ってきたのはあんたでしょうが。後始末まであんたがやってよ」
「頼む…」
「…」
小声で話しているようだったが…筒抜けである。
というか、お姉さん。
拾ってきたって…。
まぁ、確かに彼に拾われたようなものなのだけどね。
「…ったく」
「悪い」
仕方なさそうに呟いたお姉さんの声を聞いてユウタはゆっくり立ち上がる。
立ち上がる一瞬、またふらつく。
…どうしたのだろうか。
体調が悪そうじゃないか。
ゆっくりと、それでいて危なっかしく揺れながらもユウタはリビングを後にした。
これでリビングにいるのは私とお姉さんの二人だけだ。
「…」
「…」
互いに何も言わない。
彼女は先ほどから小さい板のようなものを弄っている。
あれもまたこの世界独特のものなのだろうね。
「…さて、私もお暇させていただこうか」
そう言って私は椅子から立ち上がる。
彼女は何も言わない。
私に興味がないというよりも…なんというか。
意図的に無視しているというような…。
関わるのを避けているような…。
そんな、感じで。
「お姉さん、もしよかったらユウタによろしく言っておいてもらえないかい?」
「…」
「それでは、また来るよ」
その一言。
たったそれだけの言葉。
それを聞いてお姉さんは初めて私に反応した。
ただし、明らかに―

「はぁ?」

―私を嫌うように。

嫌悪するように。
敵意を抱いているように。
「…?」
「また来るって…はっ!」
鼻で笑う彼女。
まるで私を小馬鹿にするように、それでいて蔑むように。
お姉さんはソファからその身を起こして私を見る。
否、睨みつける。
その黒いユウタと同じ闇のような瞳で。
不機嫌そうに眉を吊り上げて。
目を細めて、射抜くように。
「図々しいんじゃないの、吸血鬼」
「…」
手に持っていたものを投げ捨て、私に対峙する。
こうして見るとよくわかるが…彼女。
かなり外見がいいほうだ。
誰がどう見ても悪い受け取りをしないだろう。
可愛らしい顔立ち。
細く優美な体。
それでいて艶やかな黒髪を一つにまとめている。
黒い長ズボンに黒いシャツ。
そのシャツに描かれたファンシーなウサギの絵がちぐはぐだがそれでも。
彼女の容姿は素晴らしい。
ただ今はその可愛らしい顔が剣呑な表情に歪んでいるが。
「…何が言いたいのかわからないね」
私は彼女に聞き返した。
言っている言葉は聞こえた。
しかし彼女の言った図々しいという言葉。
その意味も大体は予想がつくが…それ以上に気になることがある。
「全部言わないとわからないわけ?あんた、馬鹿なの?」
刺々しい言葉。
初対面の相手に使うようなものではない、ののしりの言葉。
彼女の瞳。
射抜くような、貫くような、親の敵を見るような目。
それから雰囲気。
なぜだかとても嫌な気分になる。
まるで棘のような刷毛で肌を撫でられるような感覚になる。
ユウタといた時には感じなかった。
ユウタの前では感じなかった。
ユウタを前にしたときは不思議と惹かれるような感覚になった。
我慢しようと決めていたことができず、彼を押し倒すなどという蛮行へと及んでしまった。
それほどまでにしてユウタの血を味わってみたくなったからだ。
だが、話しているとそれ以上に惹かれる。
興味をそそられる。
先ほどの会話を経て、さらに深く掻きたてられる。
しかし彼女はどうだろうか?
感じるものはまったく逆。
離れたい、突き飛ばしてまでも距離をおきたい。
心の中でそんなことを思わせられる。
こちらが掻き立てるのは興味や好奇心などじゃない。
なんというか…嫌悪感、とでもいうのだろうかね。
それは彼女自身普段から振舞っているわけではないだろう。
おそらく彼女が今私に対して不快な感情を抱いているから、だろう。
「それじゃあ、言ってあげるよ。あんたさ―

―いったい自分が何しでかしたかわかってない顔してる。

見ててすっごく不愉快。っていうか腹立たしい」
不愉快も腹立たしいもどちらも同じ意味だろうに。
そう言おうかと思ったがやめた。
彼女の次の言葉を待つことにする。
「あんたさ、今何してたかわかるの?」
「…?わかるに決まっているよ」
「じゃあ何してた?」
「ユウタと話をしていた」
「…はっ!」
再び鼻で笑う彼女。
基本的にヴァンパイアはプライドは高く、矜持を持ち、人間に対して高圧的である。
それはそこらのヴァンパイアだ。
かくいう私もかつてはそんな高圧的であったのだが今は違う。
違うが…だ。
友好的ならそれでいい。
多少無粋でもまぁ許そう。
それでも、このような高圧的な態度を取られるのは…我慢ならないものがある。
「ただゆうたと話をしてた?それだけだっていうの?まったく笑っちゃうよ」
「…」
「ゆうたを襲ったらしいね。それなのにあの馬鹿は何で家にこんなのをあげちゃうかな…」
それは先ほどの会話からだろう。
話している途中にユウタが頭を抑えていたからやはり打っていたのかと心配して聞いたときだ。
聞けば打ったのではなく撫でまわされ、挙句の果てキスされそうになったらしいが。
…誰にだろう?
「こんなの…か」
私は彼女の言葉を反芻する。
目の前に人間ではない存在がいるというのに怯えた様子を見せない彼女。
彼女こそわかっているのだろうか?
私がヴァンパイアだということを。
私がその気になれば人間一人の存在なんて楽に消し去ることができるということを。
まぁ、しようとは思わないけどね。
しかし、人間というのは自分と違う存在を前にしたとき少なからず恐怖を抱くものだ。
それなのに彼女はどうだろう?
そんな私を目の前にしていながらも平然と私をののしる。
そんな言葉を悠然と使う。
「そうだよ、こんなのだよ。この吸血鬼」
「さっきから聞いていれば吸血鬼吸血鬼と…それで、結局は何なんだい?」
「結局?結局って言うなら―

―あたしはあんたのこと、嫌い」

はっきりとした言葉だった。
飾り気もない、冗談などというわけでもない。
真っ直ぐな感情の言葉。
「ほぅ」
初対面の相手にここまで言えるとはある意味すごいな。
嫌い、か。
世の中には一目惚れしてそのまま気持ちを伝えるものもいると聞くが―自ら好意と逆の
感情を伝えるのはどれほど難しいのだろうね。
嫌いなんて言葉、そうそう口にできないだろうに。
「ふふ、嫌いか」
「嫌いだよ。だってあんたはへらへらしてる。自分のしたことも気づかないでね」
「…」
自分のしたこと。
彼女はさっきからそればかりだ。
私のしたこと。
それは―

「―あんたは何を飲んでたの?」

彼女の言葉が続く。
「あんたは何を飲んでたわけ?」
「何、を?」
飲んでいたもの。
さきほど、飲んでいたもの。
そんなものがわからないわけじゃない。
「血だよ」
人間にとっては鉄の味のする液体だろうが私達にとっては生きるために必要なものである。
しかし彼女は止まらない。
言葉を紡ぐ。
荒々しく、突き詰めるように。
そしてその一言を私に突き刺すように。

「―それじゃあ…あんたは、誰の血を飲んでたわけなの…!?」

「…っ!」
誰の血を。
それは私の胸に深く突き刺さった。
私はそれを知らない。
ユウタから渡された血を飲んでいた。
飲んで、話をしていた。
ユウタに勧められるままに、甘えたままにその血を頂いていた。
それでも、知らない。
その血をいったいどこから採ってきたのか、それがいったい誰の血なのか。
「見えてなかったの?ゆうたの手首をさ…」
手首、それは―見えていた。
ユウタの手首。
硬くきつく、まるで縛り上げるように巻かれた布。
黒い布でおそらく用意したのではなく手元にあったから用いたものだろう。
それを巻いていた。
その巻き方はどう見ても、誰が見ても。
止血するための巻き方じゃなかっただろうか…っ!
「人間っていうのはね、傷つかないと血が流れないんだよ」
お姉さんは続ける。
私に向かってその言葉を紡ぎ続ける。
「わからなかった?ゆうたが台所で包丁使って自分の手首を切ってたの」
「っ!」
「知らなかった?あんたが飲んでたのはユウタの血だってこと」
瞳に宿るものが変わった。
綺麗でまるで闇のような瞳。
覗き込めばそのまま吸い込まれそうな彼女の目つきが、変わった。
憎悪。
憎み、嫌った者の目を私に向ける。
「あんたのために手首切ってコップに注いで、それであんたは知らぬ顔して飲んでるんだ。笑っちゃう。それであんたは何をしたっけ?」
それは、あまりにも高ぶりすぎていたからわからなかったこと。
あまりにも甘美な味で。
あまりにも美味な血だったから、気づかなかったこと。
普段の私なら確実にわかったはずなのに、あまりの感動と欲望にそれは押しのけられていた。

「―いったい何杯飲んだんだっけ?」

人の体に流れる血は無限ではない。
生きていれば生み出されるものだが流した血が一瞬で戻るわけがない。
それどころか大量の血を流せば人間は死に至ることもある。
それを―わかっているはずだったのに。
私は…。
「美味い美味いで3杯だもんね。そのコップ、かなりの量が入るから…いったいあんたはユウタにどれくらいの血を流させたんだろうね」
「…」
コップ3杯、量にすればかなりの量だ。
確かに彼女の言うとおり。
私は何もわかっていなかった。
そんな量の血を流した人間が平然としていられるわけがない。
それなら、ユウタが不自然に危なっかしく揺れていた理由もわかるというものだ。

「―あんたが飲んだのは鉄の味がする色水だと思ってた?」

お姉さんは続ける。
瞳に憎悪の炎を宿したままに。
射抜くような鋭さを漂わせたままで。
「傷つかずに人が血を流せると思った?」
「…」
「ゆうたがあんたみたいな化物で、それくらいの傷どうでもないと思った?」
「…」
「無限に湧き出る血があると思った?」
「…」
「だからあんたはわかってないんだよ」
何も言えない。
言い返せるわけがない。
それは私が悪いから。
彼女の言うことが正しいから。
そうだ。
それが当然だ。
彼女の判断は正しい。
この状況で間違っているのは私。
他人に血を求めた私のほうだ。
だが、それ以上に間違っているのは誰でもない―
「だからあいつは馬鹿なんだよ。どうして自分を傷つけるのにためらわないのさ、まったく」
―誰でもない、ユウタ自身。
本当なら私を捨て置くこともできたはずだ。
見捨てることもできたはずだ。
それでもユウタはしなかった。
血を分けるのに人間は普通ためらうはずだ。
自分を傷つけるのを躊躇するはずだ。
それでもユウタはしなかった。
私のために、してくれた。
私のために、分けてくれた。
自分を傷つけることを厭わずに。
それでいて、それを私に責めることもなく。
笑って、話してくれた。
普通の人間としては随分外れた行動だ。
むしろ、お姉さんの行動のほうが当然というべきだろう。
私を助けてくれたユウタをこういうのもどうかと思うがそれでも―

―ユウタの行動は常軌を逸している。

どこに好き好んで血を分け与える者がいるだろうか。
どこに嫌な顔せず傷つくことを厭わぬ者がいるだろうか。
どこにこんなヴァンパイアを助ける者がいるだろうか。
もはや異常と言っても過言じゃない。
過言じゃないほど―優しい。
私は今まで人間に蔑まれ事は多々あった。
争いになることも、殺されかけることも。
ある街の領主をやっているが、やっているところで私に優しくしてくれるものなんていなかった。
元がヴァンパイア、安全だとわかっていても人間が自ら近づきたいとは思わないだろう。
領主として慕われていても、温かく迎えられるわけではない。
それなのにユウタはそうしなかった。
今までされたことのまったく逆の行動をしてくれた。
私に、優しくしてくれた。

それが―どれほど温かいことだったか。

思わず甘えてしまい、慕ってしまい。
そのままねだってしまう。
そんな優しさを味わったことはなかった。
友人や親友、メイド達からはあっても人間から、男性からはそんなことをされなかった。
甘美だったのは血であっても、温かかったのはユウタの気遣い。
美味であったのが血だったところで、満たしてくれたのはユウタの心。
そして私はそんなユウタに甘えていた。
甘えていたからこそ、気づくことができなかった。
「同じ化物でもあたしの『先生』みたいならまだよかったよ。それならあたしも何も言わなかった。むしろ祝ってあげたいくらいだよ。だけど、あんたはそうじゃない」
お姉さんの言葉が何度も突き刺さる。
正しく、現実的な言葉が。
目を背けようと、耳を塞ごうと、気づかぬフリをしていたかった事実を突きつけられる。
「あの桃色人魚よりも、京都弁女狐よりも」
するりと彼女は手を下げた。
「化け提灯よりも、化け猫よりも」
一歩、私に踏み込んできた。
「化け蜘蛛よりも、化け狐よりも」
私に向ける視線を変えることなく。
「あんたは、あの龍と、ゆうたの師匠と同じで最悪だ」
そして、言った。

「出てってくれる?」

お姉さんは冷たく言い放った。
私に向かって、刃のように鋭い冷たさを纏った視線を向けて。
その視線に晒されているのが、まるで全身の肌を刃に晒されているように感じる。
歳相応の目じゃない。
冷たく、純粋な黒い瞳。
相手が誰だろうと容赦しない。
自分よりも格上だとしても、実力差があっても。
ユウタを傷つけた者は許さない。
そう覚悟している瞳だ。
「もう二度とここに来ないで。もうゆうたに関わらないで。もうこれ以上ゆうたに甘えて、ゆうたを傷つけないでよ、吸血鬼」
人間は誰かを傷つけるときの目は大概濁ってたり、揺れていたりするものだ。
一時の感情から、積もり積もった感情から。
その行動へと移ってしまい、取り返しの付かないことになる。
勇者しかり、教団の者しかり、皆そういった目をしていた。
しかし、彼女の瞳は今まで見てきた中でどれも当てはまらない。
透き通っていて、ただ一色。
濁らず、揺れず、真っ直ぐ私を見据えたその目。
見ているのは私であって、私の命。
抱いているのは私への殺意。
宿しているのは―ユウタへの、優しさだろう。
彼を傷つけられないために相手を傷つける。
それはある意味一番厄介だ。
感情的な部分が多く、それがやがて人間を突き動かすものだが彼女は違う。
彼女のそれは使命感に似ている。
むしろ条件反射といってもいい。
彼女の瞳を見て。
彼女の言葉を聞いて。
彼女の纏った雰囲気を感じて―わかる。
ユウタが師と呼んでいたあの女性の言葉が。

『彼にはとんでもなく恐ろしいお姉さんがいるんだよ』

確かにそうだ。
この娘は厄介だ。
今にも喉笛に食いついてきそうな彼女は、危険だ。
先ほど言っていた桃色人魚や女狐、それから龍。
もしかしたらそれは…メロウや、稲荷、もしくは妖狐。
そして…ドラゴン。
口ぶりからして彼女はそれらに私に向けているのと同じ敵対心を抱いている。
メロウや稲荷の類ならまだいいだろうが―やはり、ドラゴン。
人間と比べると明らかに上位の彼女にまで敵対していた。
それはあまりにも恐ろしい。
お姉さんがドラゴンに敵対できる自信があるのか…。
それなりの実力をもっているのか…。
だが、それ以上に。
その原因を作った私のほうが最悪だ。
ユウタを傷つけていた私のほうが厄介だ。
「今回は許してあげる。でもね―

―…二度目はないよ」

その声。
その瞳。
その気迫。
その全てが恐怖を感じさせた。
背筋が凍る、そんな表現生ぬるい。
身の毛もよだつ、凄惨な雰囲気。
本能に語りかけてくる絶対的な恐怖。
これが…人間か?
そうは思えない。
事実はそうでも、そう認められない。
「出てってよ。早くしないとぶっ刺すよ?」
そう言って彼女は手に持っているそれを見せた。
それ。
器用に回転させつつ弄ぶ金属。
手に握ったところで剣には遠く及ばないもの。
しかし先は鋭く、尖り合わさった二つの刃の先が輝く。

―鋏。

そんなものに恐怖なんてするわけがない。
ヴァンパイアがそんな道具に恐れおののくわけもない、はずだ。
しかしどうだろうか。
彼女が持っているだけでその鋏が凶器に見えてしまう。
勇者の持つ祝福を受けた剣よりも。
猛者の使い慣れた大斧よりも。
どんな戦士が持つ武器よりも。
ずっと、凶悪なものに見える。
「…そう、だね」
これ以上ここにいれば彼女は実力行使に出るだろう。
出たところで人間とヴァンパイア、どちらに分があるかなどわかりきったことだ。
しかし。
それは結果的に彼女を傷つけることになるだろう。
一筋縄では彼女を止めることなどできはしないだろう。
既にユウタを傷つけているんだ…。
だから、これ以上すべきじゃない。
まったく、私らしくもない。
普段どおりにすべきだったかな。
人間に、男性に頼ることなどすべきじゃなかったかな。
今までどおり、拒絶すべきだったかな…。
リビングを出て、玄関でドアを開け、外へ出る。
肌を刺すような冷たい風が撫でるがどうでもいい。
門を出て、一度だけ振り返った。
この家の二階。
おそらく、ユウタがいるだろう場所を見て。
…人間には受け入れられず、男性には拒絶をしてきたけど…それでも。

―ユウタのしてくれたことは…嬉しかったのだけどね…。

そんな風に思いながらも私はこの世界から去ることにした。
もう二度と来ることもない。
もう二度と会うことさえない。
もう、二度と…。



―そう決めていた…はずだった。
11/10/15 20:28更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということでヴァンパイアルートその二でした!
誰かを救うために自分を犠牲にするのと
その人を助けるために他を犠牲にするのではどちらが正しいのか…
お姉さんと主人公、どちらも正しいことをしてるのかもしれません


そして、とうとうお姉さんまで敵に回りましたw
現代編の二枚看板
お姉さんにとって彼を傷つけるものは最も嫌う相手
クレマンティーヌはお姉さんが最も嫌うタイプでした
これは大変です
おそらくこの現代編は今まで以上に難易度が高いかもw
今回の一件が後々とんでもないことへと展開していきます!
師匠とお姉さんを敵に回したクレマンティーヌはこれからどうするのか!?

そしてちょっぴり出てきちゃった『先生』!
お姉さんの武術の師であるのですが…それもまた…!
この話のどこかでお姉さんの武術、それから先生について少しだけ出ます!


それでは、次回もよろしくお願いします!!

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