襲撃、そして邂逅
…確かに私は寝る前に魔法をこのベッドにかけた覚えがある。
防音の魔法、ただそれだけだった。
あの色ボケ王…我が親友である魔王の代わりに大量の仕事を押し付けられて疲労困憊だった私は誰にも邪魔されたくないために魔法を使って食事も取らずに長く眠ろうとしていた。
―ただそれだけだったはずだ。
それなのに…。
…ここはどこなのだろうね。
見渡す限り木。
上には視界を覆い尽くすほどの葉の天井。
その隙間から見えるのは夜空である。
どうやらここは森の中だろうか?
私は室内で寝たはずなのに。
それが、見知らぬ土地である。
…もしかして使う魔法を誤ってしまったかな?
防音ではなくて転移のほうを使ってしまったかな?
これはとんだ失態だ。
この馬鹿でかいベッドにしかかけていなかったからだろう、この場にあるのはベッドのみ。
…戻るにしてもどうやら長く眠りすぎていたらしく空腹が酷い。
仕事を終えて食事もせずに眠りに付いたからだろう、魔力も戻れるだけ十分にない。
ということは…とりあえず…。
「血を、探そうか」
魔力の源となるものを。
生きるために必要な食料を求めよう。
「…ふぅ」
あの森の中を抜けてようやく町らしいところに出て、私は一息ついた。
空を飛び、何か石のような硬いものでできている柱の上に着地して周りを見渡す。
何なのだろうね、ここは。
どこを見ても見たことのない建物ばかりじゃないか。
灰色の壁の家があれば向こうにはカラフルにオレンジ色の建物まである。
それに向こうにいたっては…長方形の形だ。
窓らしきものが規則的に並んだ建物。
周りの家に比べて明らかに大きい。
それに夜だというのにどの建物も明かりがついたままのものがある。
まだ起きているというのだろうか?
おかげで月や星の明かりがなくても十分に明るい。
もっとも私はヴァンパイア、どうせ暗闇だろうと見えるものには困りはしないのだけれど。
今足場にしているこの柱だってそうだ。
黒い綱のようなものがそう遠くない同じ形の柱に繋がっている。
これは何のためにあるのだろうね。
皆目見当も付かないよ。
色々と興味深いものはあるもののまずは人を探そうか。
なるべく健康体、それから血を分けてくれそうな者。
人間から血を請うなんて真似は普通のヴァンパイアならしないだろう。
しかし、人間は下等であるなんて古びた考えは私にはない。
というか随分前に捨ててしまった。
そんなものがあっても良い人間にはめぐり合えそうにもないと悟っているから。
私自身無理やり血を吸うなんて真似はしない。
しようと思えばできなくはないだろうが…どうも体が拒絶してしまう。
それでも。
今はそのようなことを言っていられる余裕がない。
あまりにも空腹が酷いのだ。
もしかしたらあまりの空腹に襲ってしまう…というのもありえないかもしれない。
これは困った。早く事を済まさないといけない。
そう思いながらも夜道に視線を移す。
これもまた見たことのない地面だ。
私の治める街はこんな色の地面はしてない。
石畳とは随分違っている。
場所によっては何か白いもので字が描かれているのだが…なんと書いてあるのだろう?
不思議な字だ、見たことがない。
長く生きてきた私でも見たことのない風景。
記憶にない町並みからして…。
…どうやら私は別の世界にでも来てしまったのかな?
それでも人間がいるのは幸いだ。
見渡せばこんな時間でも一人くらいいてもいい―
「―おや」
いた。
一人、闇夜に溶け込みそうな色を纏う人間がいた。
見たところ歳も若い。
その上どこも怪我や病気を患っているようには見えない。
さらに、嬉しいことに男性。
これは思いのほか運が良いい。
彼に血を分けてもらうことにしよう。
できる限り穏便に。それで、平和的に…。
そう思い立った私はすぐさま柱の上から彼の元へと飛び立った。
本来なら距離をおいて着地すべきだった。
空から降ってくる人間を、誰が人間と思うだろうか。
空を飛ぶことのできるものなどいはしない。
それはどこの世界だろうと同じこと。
例外としてあげるのならば…それなりの魔術師というところだろうが今はそんなことは関係ない。
私は今彼の前に着地してしまった。
空から、まるで降ってくるように。
そんな私を目の前にして彼は目を見開いている。
ああ、しまった。
これは驚かせてしまった。
人間のように振舞ってできるだけ彼に不信感なんて抱かせないようにするはずだったのに。
それでも、仕方ないとしかいえない。
なぜなら今の私はそれどころではないのだ。
空腹が、飢えが、どうしようもないくらいなのだから。
ここまで血に餓えたことなんてそうはなかったというぐらいに。
だから、仕方ない。
私は着地した態勢から立ち上がり彼を見た。
彼。
まごうことなき人間である。
だが、先ほどよりも近づいてみると―
「―ほぅ」
思わず感嘆の声が出てしまう。
別に彼が美しいとか格好がいいとかそういうわけではない。
それでも、出てしまった。
全体的に黒色を纏った彼。
深く先の見えない、光なき夜のような服。
触れればそのまま沈んでいきそうな影のような髪。
そして、見ていると吸い込まれそうになる闇のような瞳。
それでいて手に提げているのは袋だろうか?
買い物でもしていたのかもしれないね。
黒髪黒目に一瞬ジパング人かと思った。
彼のような者なら何度か見たことがある。
長く生きれば何度も目にするものだ。
別段珍しいとは思わないが―違う。
彼が、今まで見てきたジパング人とはまた違う。
何がとはいえないが…何か違うんだ。
口では言い表すことができそうにない。
何か…こう、とんでもないものが。
興味をそそられるような得体の知れないものが。
彼には、ある。
「ちょっと、いいかい?」
私は彼にそっと呟くように言った。
実際弱弱しい声だっただろう。
現に私はとても弱弱しい姿を晒しているのだから。
「え?あ…はい」
迷いながらも彼は応えてくれた。
よかった。
まさか逃げ出すのではないかとも思っていたが…これは助かった。
それからこちらの話を聞いてくれそうだ。
それでも不審に思っているのだろう、怪訝な表情を浮かべている。
まぁ、度当然だろう。
私は彼の目の前で空から降ってきたのだから。
「ふふ、悪いね。少しばかり頼みごとがあるのだが―」
そう言って止まってしまう。
一歩踏み出して、止まってしまった。
一歩近づいたところで―感じ取った。
長く生きてくれば相手がどのようなものなのか大体はわかってしまう。
それが今まで生きてきて付いた経験である。
そして彼の場合は、彼についてわかったことは…。
ああ、これは。
これは―とてつもないな。
口では言い表すことのできないもの。
それを私の肌は敏感に感じ取った。
これは、すごい。
上手く説明できないが、すごい。
例えば目の前に最高級の食事があったとしよう。
何でもいい。
ワインでも、ステーキでも、スープでもフルーツでも。
それを前にしたときに感じるような、抱くような、そんな感覚に似ている。
といっても私はヴァンパイア、そしてあの魔王の親友。
ヴァンパイアの中でもかなり上の存在であり大貴族なのでそれくらいの食事はよくするのだが。
他に例えるなら―そう、風景。
見たこともない美しい風景、透き通った空、月明かりの煌く美しい夜を目にしたような。
思わず感嘆の声が出てしまったのはそのせいかもしれない。
なぜだか、そのように感じられるのだ。
それでいてずっと見ていたくなるような。
彼のそばにいてみたいと思うような。
興味を引かれる。
だが、それ以上に―語りかけてくる。
私の体に。
本能に。
これは。
ああ、これは―
―とても、美味しそうだ…!
彼の血が。
彼に流れている血液が。
とても欲しくなった。
心の底から餓えてしまったように。
今の空腹をさらに追い討ちかけるように。
襲わないと決めていたのに。
理性よりも本能へと語りかけてくる。
襲って、その首筋に噛み付いたら―どんな味がするのだろう。
どんな血をしているのだろう。
この牙を、彼の首に突き立てたらーどうなるのだろう?
ごくりと、喉が鳴る。
「…えっと、お姉さん?」
不審に思いながらも彼は一歩踏み出した。
それがいけなかった。
その一歩が私の我慢を弾けさせた。
―気づけば私は彼を組み敷いていた。
肩を引っつかんで押し倒し、力任せに地面に叩きつけるようにして。
「っ…ぁ」
苦しそうに、つらそうに顔を歪めている彼。
どうやら押し倒したときにどこか打ってしまったらしい。
いけないことをしてしまった。
だが、今の私にはそこまで考える余裕がない。
せいぜいできて―
「―すまないね…っ」
そう言うことしかできない。
すまないと思っていても止まらない。
原始の欲望に語りかけてくるこの感覚に抗えない。
生きるために必要なこの本能に抗えない。
「少し、少しばかり…」
高鳴る鼓動は鳴り止まない。
抱いた期待は止まらない。
餓えて、乾いたこの欲望は。
滾り、留まらないこの本能は。
「―君の血を頂かせてもらおうか…っ!」
止まらない。
私は押さえつけ未だにどこか痛そうに顔を歪めている彼の首に手を置いた。
口を開き、鋭く尖った八重歯を見せる。
ああ、そういえばこんなことをしたことはなかった。
今まで散々血を飲んできたが―男性の首から直接吸うのは彼が初めてだったね。
それは私の面倒で厄介な『体質』のせい。
そのせいで今までこのようなことはしたことがなかったが…。
それでも、仕方ない。
それは、仕方ない。
こうやって触れるのもまた初めてだが―仕方ない。
もう抑えなんてきかないのだから。
だから私は八重歯を彼の首筋に刺して血を吸おうと―
「―…人の愛弟子に何してるのかな?」
一瞬。
頭の横にとてつもない衝撃が走った。
まるで殴られたように―いや。
殴られたというよりも、吹っ飛ばされるように。
殴る蹴るなんてものじゃない、まるでハンマーや棍棒で殴られたかのように。
そんな尋常じゃない衝撃が私の頭を貫き、体を飛ばしていた。
「がっ!?」
飛ばされながらも体を捻り、地面を叩いてその反動で体勢を立て直す。
立て直し、彼のほうを見た。
先ほどまで私がいた位置を。
そこには―女性がいた。
長身であり私と同じくらいの高さだろう。
全体的にほっそりしていてそれでも出ているところは出ている。
女性らしいスタイルというよりも、女性として望ましいスタイルだろうね。
見たことのない服を着ているのだがその服越しにでもわかるよ。
それでいて、特徴的でとても目に付く灰色の長髪。
顔には貼り付けたような笑み。
どう見たところで美人にしか見えない彼女。
冷ややかな笑みを浮かべたところで不思議なことにそれでも美しく見える。
人間…という感じではないね、これは。
この破滅的な美しさ。
この破壊的な秀麗さ。
それを私は…知っている。
彼女は髪と同じ色をした瞳を一瞬こちらに向けて―
「大丈夫?頭どこも打ってない?」
おもむろに彼の心配をしだした。
しゃがみこんで彼の顔を覗き込むようにして。
顔は見えない。
だが、聞こえる声色が違う。
先ほど衝撃を受ける前に聞いたときとはだいぶ違う声色だった。
「あたた…あれ?師匠?」
師匠?
どうやら彼女は彼の師であるらしい。
「師匠がどうしてこんなところに?稽古ならさっき終えたでしょ…あ、オレ忘れ物でもしてましたか?」
「うん、忘れて行ったね、自分の愛を忘れて行ったんだよ♪」
「そんなものは忘れる以前に置いてきますね」
「うわ、酷いよ!もしかして頭を打って自分のことがわからなくなっちゃったの!?」
「いや、全然わかってますから。いつも通りですから」
「いや、大丈夫な人ほど大丈夫って言うんだよ。これは確認が必要だね♪」
「確認?」
「問題だよ。そうだね…自分はいったい誰でしょう?」
「師匠ですね」
「うん、大丈夫だね。それじゃあ次は…君に空手を教えてくれているのは誰でしょう?」
「それも師匠ですね」
「うん正解だよ♪それじゃあ、結婚の約束をした女性は誰かな♪」
「いませんね」
「うわーん!酷いよ!そこはそのまま『師匠ですね』って答えるべきだよ!空気読んでよ!」
「読んだところで師匠がとんでもないことになりそうなんですよ!」
「うわあああん!!もう怒っちゃったよ!自分、とっても怒っちゃったんだからね!」
…。
何だ、あの女性は。
声色が違うというか…性格が違うというか…。
先ほど向けられた冷たい笑みからは想像できない口調。
冷ややかな笑みからは考えられない調子。
なんと言うか…拍子抜けしてしまう。
こんな女性も今までには見たことがないな。
ここまで…なんと言うか…デレデレな女性はいなかったな。
「さて、と…それで―」
そんな短い言葉と共に彼女が立ち上がった。
立ち上がり、灰色の髪を揺らして振り返る。
「―君は…いったい自分の愛弟子に何の用なのかな?」
そう言って見せた笑み。
冷ややかで冷たくて―まるで鋭い刃を感じさせる笑みだった。
先ほど彼に向けていたものとは絶対に違う。
そう言い切れるほど差が激しい。
「んん〜…自分の愛弟子に手を出すなんて…いい度胸だね」
静かな声で。
私と彼と彼女以外誰もいない
騒音も、話し声も、喧騒も、何もない中で彼女の声がやたら響く。
低く―恐ろしく。
冷たく―暗く。
「公で押し倒して挙句の果て首に噛み付こうとするなんて…ちょっと度が過ぎるね」
「…」
冷たい瞳で、灰色の瞳に私を映し出して。
「これは少しオイタが過ぎるんじゃないかな?」
「っ!」
その一言に反応したのは―彼だった。
「師匠っ!!」
打ち所が悪かったのだろう、体を動かすのもつらそうな彼が反応した。
その冷たい言葉に。
彼女の行動を止めるように。
「師匠!待っ―」
一瞬、師と呼んだ女性の足を掴み―損ねた。
彼女は後ろにいる彼に一言。
「大丈夫―」
そう言って私のほうへと歩いてくる。
一歩一歩、確実に。
「ちょっとばっかり―」
そっと。
ゆっくり。
そして、彼女は止まって。
「―オシオキ、するだけだよ♪」
弾けたように飛び出した。
「!」
私と彼女の距離はそれなりに開いていたはずだ。
せいぜい歩きで十歩。
それぐらいの距離はあった。
だが、彼女は一歩飛び出すだけでその距離を縮めてきた。
思わず反応が遅れる。
そんな行動予想もしていなかったから、反応が一瞬遅れる。
彼女はその一瞬を見逃さなかった。
「ふっ!」
右手を引いて―放つ。
一瞬。
文字通り一瞬。
私にとってそれは目で追えるほど。
これくらいの相手、何度も相手にしてきた。
教団の連中。
ヴァンパイアハンター。
腕の立つ勇者。
名を上げたい猛者共。
何度も相手にしてきたんだ。
してきた、だからこれくらい避けるのは容易く朝飯前―のはずだった。
その手を頭を下げて避ける。
それは問題なく避けることができるのだが問題は―
「―こっちだよ」
「っ!」
その後に来た攻撃。
いつの間にか蹴りだしていた長い左足を私のわき腹目掛けて放ってきた。
右からの攻撃を避けようとして―左からの攻撃。
なんともいやらしい攻撃だ。
だが、まだ後ろがあるっ!
私は後ろへ飛び出す。
彼女の攻撃から身を退くために。
―だが。
「っ!?」
背中に当たったこの感覚。
硬く冷たく、まるで石のように…レンガのように硬いこの感触は…。
壁…っ!
―しまった!
それを見越していたのだろう、彼女は。
先ほど同様距離を縮められ、一気に近づいた。
それも引いていた右手を打ち出して。
私の体に打ち放ちって。
「ぐ、ぁっ!!」
めり込んだ拳の感触。
同時に聞こえた嫌な音。
めきり、ぴきりと響いたそれは壁かそれとも私の体から響いた音か。
彼女はそれでも止まらずに私の顔の横にもう片方の拳を叩きつけた。
それでも止まらずに片足を壁に打ち込む。
どちらも私の体には触れていない。
それでも、それは私の体を逃がさないようにするようで。
壁に追い詰められた私を捕らえるような形だった。
そのまま彼女は顔を私の顔の横に移動させる。
まるで耳元で囁くように。
しゃべったところで彼には届かなくても私には届く。
そんなところに。
そして、口を開いた。
「まったくこんな世界にいったいなんのようなのかな?ねぇ―
―ヴァンパイアさん」
「っ!!」
ヴァンパイア。
彼女ははっきりとそう言った。
疑問じゃなくて、私のことをヴァンパイアだと認識して。
出会って間もない私を。
初めて見る私を。
私の正体を、見抜いて言った。
「まったく、いくら血に餓えてるからって道端で襲うのはいただけないよ?」
「…」
動けない。
しゃべれない。
いまだに体にめり込んでいる彼女の拳がそれを制している。
きりきりと徐々に込める力を強くして。
私が話すのを禁じて、私に言い聞かせている。
「さっきの蹴りと突きで彼を襲ったことはチャラにしてあげる。でもね、これ以上彼に手を出すのならただじゃおかないよ?」
彼というのは彼女の後ろにいる青年だろう。
私が先ほど押し倒した彼のことだろう。
「これは君自身のためにも言っているんだからね?」
「…?」
私、自身?
それはいったいどういう意味だろう?
「『似たもの同士』のよしみで警告しておいてあげる。彼にはとんでもなく恐ろしいお姉さんがいるんだよ」
…恐ろしい、お姉さん?
彼の家族ということか。
「彼を傷つけようものならただじゃ済まないよ。もし君が彼の首筋に歯型のひとつでもつけようなら―わかるよね」
その後に続く言葉が平和的なものじゃないとはすぐにわかった。
だが、それは。
彼のお姉さんのことだろう?
それは―たがだか人間だろう?
そんな警告までされて恐れるような存在じゃないだろうに。
「無論、自分も同じだよ。彼を傷つけるのならこれ以上のこと、してあげる。例えば―」
彼女はそう言って私の体から手をどけた。
しかし、拳はそのままで。
足を引いて、拳を私の後ろにある壁に突き立てた。
左右の拳を壁に突き立てる様はまるで戦士のような姿…いや、戦士なんて無骨なものじゃない。
もっと可憐でもっと秀麗な、まるで舞の一部のような姿。
真正面からではなく傍目から見てみればそれがどれほど美しいのかわかるだろう。
しかし、そんな生易しいものではなかった。
彼女が放つ、その一撃は。
「―砕―」
静かな声。
しかし反対に続いたのは轟音だった。
轟音というよりもそれは爆発音というほうが合ってるかもしれない。
それも私の後ろ、退路を絶った硬い壁から。
まるで巨大な鉄球で打ち抜いたかのように。
まるで強力な衝撃魔法で打ち砕いたかのように。
爆発音と共に背に感じる感触が消えた。
わずかに首を動かして私の背後を見れば―
「っ!?」
―壁がなかった。
おそらくレンガのような類だったのだろうそれは文字通り打ち抜かれたような様になっていた。
大きな穴が開く、というのではなくて。
ぶち抜く、という表現も合わないそれ。
魔力は感じられなかった。
ヴァンパイアのように怪力という風にも見えなかった。
何をしたのか―わからなかった。
単純な暴力。
それは何をどうしたのかわからない未知の一撃。
「今度はこれを君の体越しに放ってあげる」
驚く私の耳元に囁く彼女の声は冷たかった。
どう聞いても脅していとしか思えない声だ。
本気だ、この女性は。
このまま本気で戦ったところで勝てないのは火を見るよりも明らかなこと。
今の私は十全ではないのだ。
あまりにも空腹が酷くて目眩さえもする。
そんな状態で戦ったところで…まぁ、教団の者達には遅れを取らないだろうが彼女には。
彼女には確実に勝てない。
負けることもないだろうが…負けなかったところで無事では済まないだろう。
「さぁ、逃げてよ。まだ逃げないで彼を襲うって言うんなら彼には見せたくないけど―
―本気で殺しちゃうぞ♪」
その言葉がただの脅しとは違う、本気の発言だということは容易にわかる。
彼のためなら誰を殺そうと躊躇わないその意志も。
相手が何だろうと立ち向かうことを恐れないその姿勢も。
私がヴァンパイアとわかっていながら向かってきた彼女。
どうも今の状態で相手するにはあまりにも分が悪すぎる。
ここは彼女の言うように引いたほうが身のためだ。
ただ。
彼の血を味わうことができないのは大きな心残りだ。
いったいどんな味がするのか、賞味してみたかったのだけどね。
仕方ない、か。
心の中で結論を出した私は彼女の前から飛び去った。
一度だけ、彼の姿を目に焼き付けて。
「うわぁあん!怖かったよー!」
「よくもまぁ言いますね。あそこまでしておいて」
「本当に怖かったんだよ?だから慰めてよ、体で♪」
「それ以前にすることがあるでしょ、師匠」
「それ以前にすること?あ、わかった♪やっぱりするなら最初はキスから―」
「違います。壁ですよ、壁。まさか自宅じゃなくて人の家の壁をぶち壊すなんて…」
「平気だよ、あそこは空き地だから」
「ぶち壊してる時点で平気じゃないんですよ」
「あれくらいの修繕費はなんでもないんだからね。前にも言ったように自分と君の曾孫までなら余裕で養えるくらいのお金があるんだからね。さぁ♪」
「さぁ!じゃないでしょうが!それにこれからオレは家に帰って飯にしないといけないんですから」
「んもう、ご飯だったら自分が作ってあげるのに♪勿論裸エプロンで♪」
「遠慮します」
「それに自分が料理の腕前それなりにあるのも知ってるでしょ?」
「そりゃ合宿のときに一緒に作りましたからね」
「んふふ〜♪もし来てくれるなら自分が腕によりをかけて作っちゃうんだからね♪」
「何をですか?」
「それはもちろん、女体盛り♪」
「…」
「それにわかめ酒なんていうのもしてあげちゃうよ♪あ、でもお酒はまだ飲めないから元気になっちゃうジュースを代わりに―」
「―帰らせていただきます」
「あ!待ってよ!ねぇ、ちょっとした茶目っ気なんだよ!?待ってってば!!」
…とんでもない目にあってしまったよ。
今度からは寝るときにはちゃんとかけた魔法の確認をすべきだね。
今度、があったら…だが。
まったく。
私はそこに座って自嘲気味に小さく笑う。
そこ。誰かの家の門の前。
灰色の壁で二階建ての家に黒く小さいその門の前にある二段だけの階段。
そこに私は座っていた。
もう、動けない。
体が言うことをきかないんだ。
力が入らないし、だるくなってきた。
まるで寝起きの倦怠感のように。
魔力が切れる予兆だろうか?
それとも…やはり。
もう私も終わりということかな…。
こんな長く生きてきた大貴族、あの魔王と肩を並べて背を任せあった仲のヴァンパイアが。
まさかこんな異世界で飢えで終わりを迎えるか…情けないことこの上ないね。
空はまだ暗い。まだ長く夜も続くだろうが大して意味もない。
朝方になれば私も消えるだろう―いや、消えないんだった。
彼女が魔王になってから私もヴァンパイアとしての性質がいくらか変わったからね。
日の光に焼かれるようなことはないだろうからこの家のものには悪いことをしてしまう。
朝方知らない女が家の前で倒れてるんだ、迷惑なことこの上ないだろうね…。
「ふふふ、謝りたいくらいだよ…」
「…誰に?」
「っ!?」
声がした。
それも私のすぐ前で。
顔を上げてみてみればそこにいたのは―先ほど私が押し倒した彼だった。
怪訝そうにこちらを見て。
疑り深く見下ろして。
闇のような瞳に私を映していた。
彼の姿を認識した途端に、喉がなる。
だが、体が思うように動いてくれない。
「何で…君がここに…!?」
「いや、何でって…ここ家なんだけど…」
その言葉に振り返って背後の家を見る。
ある一室の窓に明かりが付いただけで人気を感じさせない家だ。
大きさで言えば普通の家。
特に言えることもない、この世界なら普通の家だろう。
…なんたる偶然。
まさか先ほど押し倒した彼の家の前にたどり着くとは…。
もうだめだったから適当に腰を下ろしただけだったのに。
なんという巡り合いなのだろう。
「ここに君が…住んでいるのか…。」
「オレ以外にも住んでるけどね」
そう言って手に持った袋を見せるように上げた。
透明な袋の中には人参、ジャガイモ、それから変わった包みに入っているが卵が入っている。
別世界といえ食材は同じようだね。
「お姉さんさぁ」
彼はしゃがみ込んで私と視線を合わせた。
黒い瞳が私の瞳に映る。
黒く、闇のような瞳。
夜だというのに月明かりしか照らすものがないというのにその中でも目立つ瞳だ。
「血、欲しいの?」
「…まぁ、欲しい」
そう聞かれては素直に答えるしかないだろう。
その言葉を聞いて彼はよし、と言って立ち上がった。
「仕方ない、か」
「?」
「来いよ」
来い?
それは…どこへ?
「家に入れよってことだけど?家の前で倒れられちゃこっちも困るし」
「ああ…済まない」
「だから、来いって」
そう言って彼は私の横を風のようにすり抜けて黒いドアの前に立った。
「まぁ、人間一人分とはいかなくてもコップ数杯ぐらいなら何とか用意できるだろうし」
「…。」
…何と、言うのだろうか。
彼は…どうしてこんな風に私に接してくれているのだろうか?
先ほど私は彼を押し倒した。
そのときにどこかぶつけてしまったというのに。
襲い掛かったというのに。
それなのに、どうして彼は普通の人に接するようにしているのだろう。
いや―それ以前にだ。
彼は何で―私に血をくれるのだろうか。
それは私としても嬉しいことだ。
ヴァンパイア、血を吸わないと生きてはいけない私にとってなんとも喜ばしいことだ。
しかし彼にとって得することなんてないだろうに。
「どうした?さっさと来いよ」
「…」
その言葉に私は―
「それじゃあ…お言葉に甘えさせて頂こうか」
素直に彼の後を付いていくことにした。
今はそちらのほうを優先すべきだ。
いくらか魔力も戻れば元の世界に戻れるかもしれない。
「はいよ」
そう言って彼は銀色に光る鍵のようなものをドアの鍵穴に差し込んだ。
がちゃりと子気味いい音が鳴り、手をかける。
かけたところで―気づいた。
「…まだ、名前を聞いてなかったね」
「うん?ああ…」
襲って、逃げて、ここでまた出会って。
それで厚意に甘えて。
随分と変わった刺激的な出会いをしたけど、まだ彼の名を知らない。
せっかくだ、知っておきたい。
「オレは
―黒崎ゆうた
とりあえずよろしく」
黒崎…ユウタ、か。
黒崎のほうが苗字なのだろうね。
ふむ…しかし、どうしてだろうね。
その名前…初めて聞いた気がしないよ。
まぁ、きっと気のせいだろうけど。
それでは、私の番だ。
「私はクレマンティーヌ・ベルベット・べランジュールだ。よろしく、ユウタ」
「クレマンティーヌ…ね、また随分と…長い」
「仕方ないのだよ。貴族だから」
「貴族?」
「ああ、ヴァンパイアのね」
そう言って、しまったと思った。
何自分から正体をばらしているんだ。
先ほどユウタが師匠と呼んでいた彼女も彼に聞こえないように近くで言ってくれたというのに。
「ああ、だからか」
…あれ?
「驚かないのかい?」
「いんや、別に。血を頂こう何て言ってたから変人かと思ってたけど…ヴァンパイアっていうなら納得かも」
「…」
納得、されてもね…。
というかもう少し驚いてもよかったと思うのだけど。
なんていうか…肝が座っているというか、度胸があるというか。
それともただ無頓着なだけなのだろうか?
「ほらよ、入って」
そんなことを思いながらも私はユウタに招かれるままにその家に入っていくのだった。
防音の魔法、ただそれだけだった。
あの色ボケ王…我が親友である魔王の代わりに大量の仕事を押し付けられて疲労困憊だった私は誰にも邪魔されたくないために魔法を使って食事も取らずに長く眠ろうとしていた。
―ただそれだけだったはずだ。
それなのに…。
…ここはどこなのだろうね。
見渡す限り木。
上には視界を覆い尽くすほどの葉の天井。
その隙間から見えるのは夜空である。
どうやらここは森の中だろうか?
私は室内で寝たはずなのに。
それが、見知らぬ土地である。
…もしかして使う魔法を誤ってしまったかな?
防音ではなくて転移のほうを使ってしまったかな?
これはとんだ失態だ。
この馬鹿でかいベッドにしかかけていなかったからだろう、この場にあるのはベッドのみ。
…戻るにしてもどうやら長く眠りすぎていたらしく空腹が酷い。
仕事を終えて食事もせずに眠りに付いたからだろう、魔力も戻れるだけ十分にない。
ということは…とりあえず…。
「血を、探そうか」
魔力の源となるものを。
生きるために必要な食料を求めよう。
「…ふぅ」
あの森の中を抜けてようやく町らしいところに出て、私は一息ついた。
空を飛び、何か石のような硬いものでできている柱の上に着地して周りを見渡す。
何なのだろうね、ここは。
どこを見ても見たことのない建物ばかりじゃないか。
灰色の壁の家があれば向こうにはカラフルにオレンジ色の建物まである。
それに向こうにいたっては…長方形の形だ。
窓らしきものが規則的に並んだ建物。
周りの家に比べて明らかに大きい。
それに夜だというのにどの建物も明かりがついたままのものがある。
まだ起きているというのだろうか?
おかげで月や星の明かりがなくても十分に明るい。
もっとも私はヴァンパイア、どうせ暗闇だろうと見えるものには困りはしないのだけれど。
今足場にしているこの柱だってそうだ。
黒い綱のようなものがそう遠くない同じ形の柱に繋がっている。
これは何のためにあるのだろうね。
皆目見当も付かないよ。
色々と興味深いものはあるもののまずは人を探そうか。
なるべく健康体、それから血を分けてくれそうな者。
人間から血を請うなんて真似は普通のヴァンパイアならしないだろう。
しかし、人間は下等であるなんて古びた考えは私にはない。
というか随分前に捨ててしまった。
そんなものがあっても良い人間にはめぐり合えそうにもないと悟っているから。
私自身無理やり血を吸うなんて真似はしない。
しようと思えばできなくはないだろうが…どうも体が拒絶してしまう。
それでも。
今はそのようなことを言っていられる余裕がない。
あまりにも空腹が酷いのだ。
もしかしたらあまりの空腹に襲ってしまう…というのもありえないかもしれない。
これは困った。早く事を済まさないといけない。
そう思いながらも夜道に視線を移す。
これもまた見たことのない地面だ。
私の治める街はこんな色の地面はしてない。
石畳とは随分違っている。
場所によっては何か白いもので字が描かれているのだが…なんと書いてあるのだろう?
不思議な字だ、見たことがない。
長く生きてきた私でも見たことのない風景。
記憶にない町並みからして…。
…どうやら私は別の世界にでも来てしまったのかな?
それでも人間がいるのは幸いだ。
見渡せばこんな時間でも一人くらいいてもいい―
「―おや」
いた。
一人、闇夜に溶け込みそうな色を纏う人間がいた。
見たところ歳も若い。
その上どこも怪我や病気を患っているようには見えない。
さらに、嬉しいことに男性。
これは思いのほか運が良いい。
彼に血を分けてもらうことにしよう。
できる限り穏便に。それで、平和的に…。
そう思い立った私はすぐさま柱の上から彼の元へと飛び立った。
本来なら距離をおいて着地すべきだった。
空から降ってくる人間を、誰が人間と思うだろうか。
空を飛ぶことのできるものなどいはしない。
それはどこの世界だろうと同じこと。
例外としてあげるのならば…それなりの魔術師というところだろうが今はそんなことは関係ない。
私は今彼の前に着地してしまった。
空から、まるで降ってくるように。
そんな私を目の前にして彼は目を見開いている。
ああ、しまった。
これは驚かせてしまった。
人間のように振舞ってできるだけ彼に不信感なんて抱かせないようにするはずだったのに。
それでも、仕方ないとしかいえない。
なぜなら今の私はそれどころではないのだ。
空腹が、飢えが、どうしようもないくらいなのだから。
ここまで血に餓えたことなんてそうはなかったというぐらいに。
だから、仕方ない。
私は着地した態勢から立ち上がり彼を見た。
彼。
まごうことなき人間である。
だが、先ほどよりも近づいてみると―
「―ほぅ」
思わず感嘆の声が出てしまう。
別に彼が美しいとか格好がいいとかそういうわけではない。
それでも、出てしまった。
全体的に黒色を纏った彼。
深く先の見えない、光なき夜のような服。
触れればそのまま沈んでいきそうな影のような髪。
そして、見ていると吸い込まれそうになる闇のような瞳。
それでいて手に提げているのは袋だろうか?
買い物でもしていたのかもしれないね。
黒髪黒目に一瞬ジパング人かと思った。
彼のような者なら何度か見たことがある。
長く生きれば何度も目にするものだ。
別段珍しいとは思わないが―違う。
彼が、今まで見てきたジパング人とはまた違う。
何がとはいえないが…何か違うんだ。
口では言い表すことができそうにない。
何か…こう、とんでもないものが。
興味をそそられるような得体の知れないものが。
彼には、ある。
「ちょっと、いいかい?」
私は彼にそっと呟くように言った。
実際弱弱しい声だっただろう。
現に私はとても弱弱しい姿を晒しているのだから。
「え?あ…はい」
迷いながらも彼は応えてくれた。
よかった。
まさか逃げ出すのではないかとも思っていたが…これは助かった。
それからこちらの話を聞いてくれそうだ。
それでも不審に思っているのだろう、怪訝な表情を浮かべている。
まぁ、度当然だろう。
私は彼の目の前で空から降ってきたのだから。
「ふふ、悪いね。少しばかり頼みごとがあるのだが―」
そう言って止まってしまう。
一歩踏み出して、止まってしまった。
一歩近づいたところで―感じ取った。
長く生きてくれば相手がどのようなものなのか大体はわかってしまう。
それが今まで生きてきて付いた経験である。
そして彼の場合は、彼についてわかったことは…。
ああ、これは。
これは―とてつもないな。
口では言い表すことのできないもの。
それを私の肌は敏感に感じ取った。
これは、すごい。
上手く説明できないが、すごい。
例えば目の前に最高級の食事があったとしよう。
何でもいい。
ワインでも、ステーキでも、スープでもフルーツでも。
それを前にしたときに感じるような、抱くような、そんな感覚に似ている。
といっても私はヴァンパイア、そしてあの魔王の親友。
ヴァンパイアの中でもかなり上の存在であり大貴族なのでそれくらいの食事はよくするのだが。
他に例えるなら―そう、風景。
見たこともない美しい風景、透き通った空、月明かりの煌く美しい夜を目にしたような。
思わず感嘆の声が出てしまったのはそのせいかもしれない。
なぜだか、そのように感じられるのだ。
それでいてずっと見ていたくなるような。
彼のそばにいてみたいと思うような。
興味を引かれる。
だが、それ以上に―語りかけてくる。
私の体に。
本能に。
これは。
ああ、これは―
―とても、美味しそうだ…!
彼の血が。
彼に流れている血液が。
とても欲しくなった。
心の底から餓えてしまったように。
今の空腹をさらに追い討ちかけるように。
襲わないと決めていたのに。
理性よりも本能へと語りかけてくる。
襲って、その首筋に噛み付いたら―どんな味がするのだろう。
どんな血をしているのだろう。
この牙を、彼の首に突き立てたらーどうなるのだろう?
ごくりと、喉が鳴る。
「…えっと、お姉さん?」
不審に思いながらも彼は一歩踏み出した。
それがいけなかった。
その一歩が私の我慢を弾けさせた。
―気づけば私は彼を組み敷いていた。
肩を引っつかんで押し倒し、力任せに地面に叩きつけるようにして。
「っ…ぁ」
苦しそうに、つらそうに顔を歪めている彼。
どうやら押し倒したときにどこか打ってしまったらしい。
いけないことをしてしまった。
だが、今の私にはそこまで考える余裕がない。
せいぜいできて―
「―すまないね…っ」
そう言うことしかできない。
すまないと思っていても止まらない。
原始の欲望に語りかけてくるこの感覚に抗えない。
生きるために必要なこの本能に抗えない。
「少し、少しばかり…」
高鳴る鼓動は鳴り止まない。
抱いた期待は止まらない。
餓えて、乾いたこの欲望は。
滾り、留まらないこの本能は。
「―君の血を頂かせてもらおうか…っ!」
止まらない。
私は押さえつけ未だにどこか痛そうに顔を歪めている彼の首に手を置いた。
口を開き、鋭く尖った八重歯を見せる。
ああ、そういえばこんなことをしたことはなかった。
今まで散々血を飲んできたが―男性の首から直接吸うのは彼が初めてだったね。
それは私の面倒で厄介な『体質』のせい。
そのせいで今までこのようなことはしたことがなかったが…。
それでも、仕方ない。
それは、仕方ない。
こうやって触れるのもまた初めてだが―仕方ない。
もう抑えなんてきかないのだから。
だから私は八重歯を彼の首筋に刺して血を吸おうと―
「―…人の愛弟子に何してるのかな?」
一瞬。
頭の横にとてつもない衝撃が走った。
まるで殴られたように―いや。
殴られたというよりも、吹っ飛ばされるように。
殴る蹴るなんてものじゃない、まるでハンマーや棍棒で殴られたかのように。
そんな尋常じゃない衝撃が私の頭を貫き、体を飛ばしていた。
「がっ!?」
飛ばされながらも体を捻り、地面を叩いてその反動で体勢を立て直す。
立て直し、彼のほうを見た。
先ほどまで私がいた位置を。
そこには―女性がいた。
長身であり私と同じくらいの高さだろう。
全体的にほっそりしていてそれでも出ているところは出ている。
女性らしいスタイルというよりも、女性として望ましいスタイルだろうね。
見たことのない服を着ているのだがその服越しにでもわかるよ。
それでいて、特徴的でとても目に付く灰色の長髪。
顔には貼り付けたような笑み。
どう見たところで美人にしか見えない彼女。
冷ややかな笑みを浮かべたところで不思議なことにそれでも美しく見える。
人間…という感じではないね、これは。
この破滅的な美しさ。
この破壊的な秀麗さ。
それを私は…知っている。
彼女は髪と同じ色をした瞳を一瞬こちらに向けて―
「大丈夫?頭どこも打ってない?」
おもむろに彼の心配をしだした。
しゃがみこんで彼の顔を覗き込むようにして。
顔は見えない。
だが、聞こえる声色が違う。
先ほど衝撃を受ける前に聞いたときとはだいぶ違う声色だった。
「あたた…あれ?師匠?」
師匠?
どうやら彼女は彼の師であるらしい。
「師匠がどうしてこんなところに?稽古ならさっき終えたでしょ…あ、オレ忘れ物でもしてましたか?」
「うん、忘れて行ったね、自分の愛を忘れて行ったんだよ♪」
「そんなものは忘れる以前に置いてきますね」
「うわ、酷いよ!もしかして頭を打って自分のことがわからなくなっちゃったの!?」
「いや、全然わかってますから。いつも通りですから」
「いや、大丈夫な人ほど大丈夫って言うんだよ。これは確認が必要だね♪」
「確認?」
「問題だよ。そうだね…自分はいったい誰でしょう?」
「師匠ですね」
「うん、大丈夫だね。それじゃあ次は…君に空手を教えてくれているのは誰でしょう?」
「それも師匠ですね」
「うん正解だよ♪それじゃあ、結婚の約束をした女性は誰かな♪」
「いませんね」
「うわーん!酷いよ!そこはそのまま『師匠ですね』って答えるべきだよ!空気読んでよ!」
「読んだところで師匠がとんでもないことになりそうなんですよ!」
「うわあああん!!もう怒っちゃったよ!自分、とっても怒っちゃったんだからね!」
…。
何だ、あの女性は。
声色が違うというか…性格が違うというか…。
先ほど向けられた冷たい笑みからは想像できない口調。
冷ややかな笑みからは考えられない調子。
なんと言うか…拍子抜けしてしまう。
こんな女性も今までには見たことがないな。
ここまで…なんと言うか…デレデレな女性はいなかったな。
「さて、と…それで―」
そんな短い言葉と共に彼女が立ち上がった。
立ち上がり、灰色の髪を揺らして振り返る。
「―君は…いったい自分の愛弟子に何の用なのかな?」
そう言って見せた笑み。
冷ややかで冷たくて―まるで鋭い刃を感じさせる笑みだった。
先ほど彼に向けていたものとは絶対に違う。
そう言い切れるほど差が激しい。
「んん〜…自分の愛弟子に手を出すなんて…いい度胸だね」
静かな声で。
私と彼と彼女以外誰もいない
騒音も、話し声も、喧騒も、何もない中で彼女の声がやたら響く。
低く―恐ろしく。
冷たく―暗く。
「公で押し倒して挙句の果て首に噛み付こうとするなんて…ちょっと度が過ぎるね」
「…」
冷たい瞳で、灰色の瞳に私を映し出して。
「これは少しオイタが過ぎるんじゃないかな?」
「っ!」
その一言に反応したのは―彼だった。
「師匠っ!!」
打ち所が悪かったのだろう、体を動かすのもつらそうな彼が反応した。
その冷たい言葉に。
彼女の行動を止めるように。
「師匠!待っ―」
一瞬、師と呼んだ女性の足を掴み―損ねた。
彼女は後ろにいる彼に一言。
「大丈夫―」
そう言って私のほうへと歩いてくる。
一歩一歩、確実に。
「ちょっとばっかり―」
そっと。
ゆっくり。
そして、彼女は止まって。
「―オシオキ、するだけだよ♪」
弾けたように飛び出した。
「!」
私と彼女の距離はそれなりに開いていたはずだ。
せいぜい歩きで十歩。
それぐらいの距離はあった。
だが、彼女は一歩飛び出すだけでその距離を縮めてきた。
思わず反応が遅れる。
そんな行動予想もしていなかったから、反応が一瞬遅れる。
彼女はその一瞬を見逃さなかった。
「ふっ!」
右手を引いて―放つ。
一瞬。
文字通り一瞬。
私にとってそれは目で追えるほど。
これくらいの相手、何度も相手にしてきた。
教団の連中。
ヴァンパイアハンター。
腕の立つ勇者。
名を上げたい猛者共。
何度も相手にしてきたんだ。
してきた、だからこれくらい避けるのは容易く朝飯前―のはずだった。
その手を頭を下げて避ける。
それは問題なく避けることができるのだが問題は―
「―こっちだよ」
「っ!」
その後に来た攻撃。
いつの間にか蹴りだしていた長い左足を私のわき腹目掛けて放ってきた。
右からの攻撃を避けようとして―左からの攻撃。
なんともいやらしい攻撃だ。
だが、まだ後ろがあるっ!
私は後ろへ飛び出す。
彼女の攻撃から身を退くために。
―だが。
「っ!?」
背中に当たったこの感覚。
硬く冷たく、まるで石のように…レンガのように硬いこの感触は…。
壁…っ!
―しまった!
それを見越していたのだろう、彼女は。
先ほど同様距離を縮められ、一気に近づいた。
それも引いていた右手を打ち出して。
私の体に打ち放ちって。
「ぐ、ぁっ!!」
めり込んだ拳の感触。
同時に聞こえた嫌な音。
めきり、ぴきりと響いたそれは壁かそれとも私の体から響いた音か。
彼女はそれでも止まらずに私の顔の横にもう片方の拳を叩きつけた。
それでも止まらずに片足を壁に打ち込む。
どちらも私の体には触れていない。
それでも、それは私の体を逃がさないようにするようで。
壁に追い詰められた私を捕らえるような形だった。
そのまま彼女は顔を私の顔の横に移動させる。
まるで耳元で囁くように。
しゃべったところで彼には届かなくても私には届く。
そんなところに。
そして、口を開いた。
「まったくこんな世界にいったいなんのようなのかな?ねぇ―
―ヴァンパイアさん」
「っ!!」
ヴァンパイア。
彼女ははっきりとそう言った。
疑問じゃなくて、私のことをヴァンパイアだと認識して。
出会って間もない私を。
初めて見る私を。
私の正体を、見抜いて言った。
「まったく、いくら血に餓えてるからって道端で襲うのはいただけないよ?」
「…」
動けない。
しゃべれない。
いまだに体にめり込んでいる彼女の拳がそれを制している。
きりきりと徐々に込める力を強くして。
私が話すのを禁じて、私に言い聞かせている。
「さっきの蹴りと突きで彼を襲ったことはチャラにしてあげる。でもね、これ以上彼に手を出すのならただじゃおかないよ?」
彼というのは彼女の後ろにいる青年だろう。
私が先ほど押し倒した彼のことだろう。
「これは君自身のためにも言っているんだからね?」
「…?」
私、自身?
それはいったいどういう意味だろう?
「『似たもの同士』のよしみで警告しておいてあげる。彼にはとんでもなく恐ろしいお姉さんがいるんだよ」
…恐ろしい、お姉さん?
彼の家族ということか。
「彼を傷つけようものならただじゃ済まないよ。もし君が彼の首筋に歯型のひとつでもつけようなら―わかるよね」
その後に続く言葉が平和的なものじゃないとはすぐにわかった。
だが、それは。
彼のお姉さんのことだろう?
それは―たがだか人間だろう?
そんな警告までされて恐れるような存在じゃないだろうに。
「無論、自分も同じだよ。彼を傷つけるのならこれ以上のこと、してあげる。例えば―」
彼女はそう言って私の体から手をどけた。
しかし、拳はそのままで。
足を引いて、拳を私の後ろにある壁に突き立てた。
左右の拳を壁に突き立てる様はまるで戦士のような姿…いや、戦士なんて無骨なものじゃない。
もっと可憐でもっと秀麗な、まるで舞の一部のような姿。
真正面からではなく傍目から見てみればそれがどれほど美しいのかわかるだろう。
しかし、そんな生易しいものではなかった。
彼女が放つ、その一撃は。
「―砕―」
静かな声。
しかし反対に続いたのは轟音だった。
轟音というよりもそれは爆発音というほうが合ってるかもしれない。
それも私の後ろ、退路を絶った硬い壁から。
まるで巨大な鉄球で打ち抜いたかのように。
まるで強力な衝撃魔法で打ち砕いたかのように。
爆発音と共に背に感じる感触が消えた。
わずかに首を動かして私の背後を見れば―
「っ!?」
―壁がなかった。
おそらくレンガのような類だったのだろうそれは文字通り打ち抜かれたような様になっていた。
大きな穴が開く、というのではなくて。
ぶち抜く、という表現も合わないそれ。
魔力は感じられなかった。
ヴァンパイアのように怪力という風にも見えなかった。
何をしたのか―わからなかった。
単純な暴力。
それは何をどうしたのかわからない未知の一撃。
「今度はこれを君の体越しに放ってあげる」
驚く私の耳元に囁く彼女の声は冷たかった。
どう聞いても脅していとしか思えない声だ。
本気だ、この女性は。
このまま本気で戦ったところで勝てないのは火を見るよりも明らかなこと。
今の私は十全ではないのだ。
あまりにも空腹が酷くて目眩さえもする。
そんな状態で戦ったところで…まぁ、教団の者達には遅れを取らないだろうが彼女には。
彼女には確実に勝てない。
負けることもないだろうが…負けなかったところで無事では済まないだろう。
「さぁ、逃げてよ。まだ逃げないで彼を襲うって言うんなら彼には見せたくないけど―
―本気で殺しちゃうぞ♪」
その言葉がただの脅しとは違う、本気の発言だということは容易にわかる。
彼のためなら誰を殺そうと躊躇わないその意志も。
相手が何だろうと立ち向かうことを恐れないその姿勢も。
私がヴァンパイアとわかっていながら向かってきた彼女。
どうも今の状態で相手するにはあまりにも分が悪すぎる。
ここは彼女の言うように引いたほうが身のためだ。
ただ。
彼の血を味わうことができないのは大きな心残りだ。
いったいどんな味がするのか、賞味してみたかったのだけどね。
仕方ない、か。
心の中で結論を出した私は彼女の前から飛び去った。
一度だけ、彼の姿を目に焼き付けて。
「うわぁあん!怖かったよー!」
「よくもまぁ言いますね。あそこまでしておいて」
「本当に怖かったんだよ?だから慰めてよ、体で♪」
「それ以前にすることがあるでしょ、師匠」
「それ以前にすること?あ、わかった♪やっぱりするなら最初はキスから―」
「違います。壁ですよ、壁。まさか自宅じゃなくて人の家の壁をぶち壊すなんて…」
「平気だよ、あそこは空き地だから」
「ぶち壊してる時点で平気じゃないんですよ」
「あれくらいの修繕費はなんでもないんだからね。前にも言ったように自分と君の曾孫までなら余裕で養えるくらいのお金があるんだからね。さぁ♪」
「さぁ!じゃないでしょうが!それにこれからオレは家に帰って飯にしないといけないんですから」
「んもう、ご飯だったら自分が作ってあげるのに♪勿論裸エプロンで♪」
「遠慮します」
「それに自分が料理の腕前それなりにあるのも知ってるでしょ?」
「そりゃ合宿のときに一緒に作りましたからね」
「んふふ〜♪もし来てくれるなら自分が腕によりをかけて作っちゃうんだからね♪」
「何をですか?」
「それはもちろん、女体盛り♪」
「…」
「それにわかめ酒なんていうのもしてあげちゃうよ♪あ、でもお酒はまだ飲めないから元気になっちゃうジュースを代わりに―」
「―帰らせていただきます」
「あ!待ってよ!ねぇ、ちょっとした茶目っ気なんだよ!?待ってってば!!」
…とんでもない目にあってしまったよ。
今度からは寝るときにはちゃんとかけた魔法の確認をすべきだね。
今度、があったら…だが。
まったく。
私はそこに座って自嘲気味に小さく笑う。
そこ。誰かの家の門の前。
灰色の壁で二階建ての家に黒く小さいその門の前にある二段だけの階段。
そこに私は座っていた。
もう、動けない。
体が言うことをきかないんだ。
力が入らないし、だるくなってきた。
まるで寝起きの倦怠感のように。
魔力が切れる予兆だろうか?
それとも…やはり。
もう私も終わりということかな…。
こんな長く生きてきた大貴族、あの魔王と肩を並べて背を任せあった仲のヴァンパイアが。
まさかこんな異世界で飢えで終わりを迎えるか…情けないことこの上ないね。
空はまだ暗い。まだ長く夜も続くだろうが大して意味もない。
朝方になれば私も消えるだろう―いや、消えないんだった。
彼女が魔王になってから私もヴァンパイアとしての性質がいくらか変わったからね。
日の光に焼かれるようなことはないだろうからこの家のものには悪いことをしてしまう。
朝方知らない女が家の前で倒れてるんだ、迷惑なことこの上ないだろうね…。
「ふふふ、謝りたいくらいだよ…」
「…誰に?」
「っ!?」
声がした。
それも私のすぐ前で。
顔を上げてみてみればそこにいたのは―先ほど私が押し倒した彼だった。
怪訝そうにこちらを見て。
疑り深く見下ろして。
闇のような瞳に私を映していた。
彼の姿を認識した途端に、喉がなる。
だが、体が思うように動いてくれない。
「何で…君がここに…!?」
「いや、何でって…ここ家なんだけど…」
その言葉に振り返って背後の家を見る。
ある一室の窓に明かりが付いただけで人気を感じさせない家だ。
大きさで言えば普通の家。
特に言えることもない、この世界なら普通の家だろう。
…なんたる偶然。
まさか先ほど押し倒した彼の家の前にたどり着くとは…。
もうだめだったから適当に腰を下ろしただけだったのに。
なんという巡り合いなのだろう。
「ここに君が…住んでいるのか…。」
「オレ以外にも住んでるけどね」
そう言って手に持った袋を見せるように上げた。
透明な袋の中には人参、ジャガイモ、それから変わった包みに入っているが卵が入っている。
別世界といえ食材は同じようだね。
「お姉さんさぁ」
彼はしゃがみ込んで私と視線を合わせた。
黒い瞳が私の瞳に映る。
黒く、闇のような瞳。
夜だというのに月明かりしか照らすものがないというのにその中でも目立つ瞳だ。
「血、欲しいの?」
「…まぁ、欲しい」
そう聞かれては素直に答えるしかないだろう。
その言葉を聞いて彼はよし、と言って立ち上がった。
「仕方ない、か」
「?」
「来いよ」
来い?
それは…どこへ?
「家に入れよってことだけど?家の前で倒れられちゃこっちも困るし」
「ああ…済まない」
「だから、来いって」
そう言って彼は私の横を風のようにすり抜けて黒いドアの前に立った。
「まぁ、人間一人分とはいかなくてもコップ数杯ぐらいなら何とか用意できるだろうし」
「…。」
…何と、言うのだろうか。
彼は…どうしてこんな風に私に接してくれているのだろうか?
先ほど私は彼を押し倒した。
そのときにどこかぶつけてしまったというのに。
襲い掛かったというのに。
それなのに、どうして彼は普通の人に接するようにしているのだろう。
いや―それ以前にだ。
彼は何で―私に血をくれるのだろうか。
それは私としても嬉しいことだ。
ヴァンパイア、血を吸わないと生きてはいけない私にとってなんとも喜ばしいことだ。
しかし彼にとって得することなんてないだろうに。
「どうした?さっさと来いよ」
「…」
その言葉に私は―
「それじゃあ…お言葉に甘えさせて頂こうか」
素直に彼の後を付いていくことにした。
今はそちらのほうを優先すべきだ。
いくらか魔力も戻れば元の世界に戻れるかもしれない。
「はいよ」
そう言って彼は銀色に光る鍵のようなものをドアの鍵穴に差し込んだ。
がちゃりと子気味いい音が鳴り、手をかける。
かけたところで―気づいた。
「…まだ、名前を聞いてなかったね」
「うん?ああ…」
襲って、逃げて、ここでまた出会って。
それで厚意に甘えて。
随分と変わった刺激的な出会いをしたけど、まだ彼の名を知らない。
せっかくだ、知っておきたい。
「オレは
―黒崎ゆうた
とりあえずよろしく」
黒崎…ユウタ、か。
黒崎のほうが苗字なのだろうね。
ふむ…しかし、どうしてだろうね。
その名前…初めて聞いた気がしないよ。
まぁ、きっと気のせいだろうけど。
それでは、私の番だ。
「私はクレマンティーヌ・ベルベット・べランジュールだ。よろしく、ユウタ」
「クレマンティーヌ…ね、また随分と…長い」
「仕方ないのだよ。貴族だから」
「貴族?」
「ああ、ヴァンパイアのね」
そう言って、しまったと思った。
何自分から正体をばらしているんだ。
先ほどユウタが師匠と呼んでいた彼女も彼に聞こえないように近くで言ってくれたというのに。
「ああ、だからか」
…あれ?
「驚かないのかい?」
「いんや、別に。血を頂こう何て言ってたから変人かと思ってたけど…ヴァンパイアっていうなら納得かも」
「…」
納得、されてもね…。
というかもう少し驚いてもよかったと思うのだけど。
なんていうか…肝が座っているというか、度胸があるというか。
それともただ無頓着なだけなのだろうか?
「ほらよ、入って」
そんなことを思いながらも私はユウタに招かれるままにその家に入っていくのだった。
11/10/15 20:24更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
戻る
次へ