オレと君と抑えた気持ち
オレこと黒崎ゆうたがフィオナを前にして思ったこと。
失礼ながら…第一印象はあやかと同じものだった。
…痛々しかった。
美人なのに。
そうそう目にすることのできない、おそらく一生の中で見れるか見れないかというくらいに美人なのに。
…いや、とんでもない美人だからこそ、だろうな。
頭から角を、背中からは蝙蝠のような翼を、お尻からは尻尾を生やしている。
髪の毛は見たこともない、穢れのない真新しい雪のような白さだ。
そして瞳が赤い。
人が体に流している血のような、宝石であるルビーのような。
濁らず澱まない、透き通った綺麗な赤。
で、あの前面を大きく肌蹴ている服を着ている姿はどうみても…その…。
痴女じゃね…?だった。
でも、どうしてだろうか。
オレはその姿を初めて見たとは思えなかった。
そんな人物に会うことはなかったはずなのに。
リリムという存在を目にしたのも初めてなのに。
でも。
―フィオナという存在は知っていた、とでもいうかのように。
「へぇ〜…これはいったいどういうことなのゆうた。」
帰って早々我が麗しの暴君、絶対服従の存在である双子の姉。
黒崎あやかになぜだか顔面を鷲掴みにされていた。
細い指がこめかみに食い込んでいて…地味に痛い。
ちょっと何でこんなにピンポイントに痛いところを攻めてくるのだろう…あちょっとまった爪を立てるな爪は痛い!
あやかが怒っている原因。
それはオレがフィオナを連れてきたことだった。
今フィオナはオレの後ろで困ったようにおどおどしている。
そりゃそうだろう。
フィオナの目の前、帰って早々玄関でオレは実の双子の姉にアイアンクローを食らっているのだから。
しかもあやかの姿。
真ん中にウサギの絵が描かれているTシャツを着ている。
ちなみに下にははいていない。
そのまま、下着だ。
いくら夏だからってその格好はないと思う。
でもそれを咎めたところでこいつはやめないだろう。
いつものことなんだから。
それでよくお母さんと喧嘩するんだから。
それなのにこいつもてるんだよなぁ。
男女問わずクラスで、いやクラス外でも人気だし。
まるで皆を引き寄せる魅力でもあるみたいに。
世の中ってのはわからないもんだ。
なんて考えてる状況じゃなかった。
あまりにもラフな姿で弟の顔を鷲掴みにしている光景。
これがフィオナの今目にしている光景。
これを見て困らずにいられるのはうちの家族くらいだろうな。
「あのね、ゆうた。あたしがわざわざ自転車から降りて一人で帰ってきた意味、わかるの?」
「…それは。」
わかっている。
勿論、予想はできるしそれが正解だと思う。
だってオレはあやかの双子の弟。
今まで18年間共に生きてきた自身の片割れのような存在なのだから。
それこそ唯一無二というほどの。
…二卵性の双子だけど。
こいつのことだ。
自分から自転車を降りるなんて事は本当ならしたくはなかった。
それでもした理由。
楽な移動手段を失ってまでしたかったこと。
それはおそらく―フィオナのこと。
どうせ「そんな変な女はどっか遠くに捨ててきなさい!」と言いたかったのだろう。
そして関わりを持たずに終わらせたかったのだろう。
あの出会いを。
ただの他人として終わらせたかったのだろう。
昔からそうだ。
あやかはそういったものを嫌っている。
そういう変わったものを。
…たまには気に入ったり、特に関心を持たないようなものもあったが。
これは明らかに嫌っているときの態度。
―まるで、人には見えなかったあの女性を相手にしたときのような。
―まるで、血をすすらなければ生きていけない彼女を前にしたような。
―まるで、師匠と対峙しているかのような。
「何でよりによって連れて来てんの?」
「…仕方なかっただろ?フィオナ、行くあてがないんだからさ。」
「行くあてがないならそのままにしておけばいいでしょ?どうせどっかそこらへんにいる男を頼ってホテルにでも泊まったでしょうに!」
「馬鹿、あいつがホテルに泊まるとなるとオレも泊まることになるんだよ。」
「何で!?」
長くオレの顔を掴んでいた手を引っぺがしあやかは仕方ないとため息をついた。
本当に嫌そうな顔で。
明らかにフィオナを嫌っている様子で。
「今更追い出すわけにもいかないか。わかったよ。家に上げれば?」
「助かる。」
っていうか、なんでオレはコイツに許可を取ってるんだろう。
「フィオナ、上がっていいってよ。」
「それじゃあ…お邪魔します…。」
そう言ってフィオナは遠慮がちに家に上がる。
そのままオレのとなりに並んだ。
それを見たあやかは…。
「…。」
片眉がひくついた。
一瞬だけだったが。
あれは…そうとう来てるときの顔だったな。
ああ、そうですか、ああはいそうですか、ああ、あ〜あああそうなんですかぁ、な顔だったな。
そこまでしてフィオナのことが気に入らないんだろうか。
「さっさと夕飯つくってよね。こっちはあんたを待ってたんだから。」
「待つくらいなら自分で作ればいいのに。」
フィオナが小さくオレに耳打ちしたがその声が聞こえたのだろう。
一瞬とんでもない目つきでオレ…ではなくフィオナを睨んだ。
射殺すような視線で。
体に穴をあけられるんじゃないかというくらいの鋭い目つきで。
「…ふんっ!」
はき捨てるようにそう言ってあやかはリビングへと進んでいった。
「嫌われちゃったの…かな…?」
しゅんとしたようにオレの隣にいるフィオナはそういった。
…そんな風に思うなら最初から言わなければいいのに。
触らぬ神に祟りなし。
口は災いの元、なんだから。
「嫌われた…っていうよりもあれは最初からそういうやつなんだよ。人に対してはそれなりの対応をするくせに、そういうものに対してはそっけないというか…酷い対応するんだよ、あやかは。」
「そういうもの?」
「なんていうか…不思議な人とか?」
言ってて自分でわからなくなってきた。
前からそうなんだ、あやかというのは。
オレの周りにいる人じゃないものに対して扱いが酷い。
たとえば…お父さんの実家にいる猫とか。
オレによく身を摺り寄せてくるのにそれを見つけたとたんにティッシュの箱を投げつけてきたからなぁ…。
あと、おばあちゃんが大切にしていた提灯。
気味が悪いといってやたら捨てたがってた…。
他にも中学時代の修学旅行。
旅行先で京都弁でしゃべる和服のお姉さんと話していたらあやかがやってきてオレの手を引いて連れてくし…。
家族旅行で海に行ったときは髪の毛ピンク色の変わったお姉さんと楽しく話してたら蹴りをもらったし…。
…そういやあのお姉さん、珍しい髪の色だったな。
海に浸かってたからか下半身は良く見えなかったけど…。
人らしく見えるのだが…もしかしたら彼女達も人じゃなかったと言うのだろうか?
その中でも一番酷かったのが…師匠。
まるで親の敵のような嫌いようだった。
会うたびに一方的につっかかって。
事あるごとに敵対して。
オレが師匠を止めて、ボロボロになって帰ったときなんて怒鳴られたし。
心配してくれるのはわかってるんだけど…それでも。
あまりにも師匠を嫌いすぎじゃないだろうか。
「ゆうた!飯!!」
「!ああ!」
おっといけない、さっさとご飯を作らないとまたどやされる。
そんなことを思いながらオレはフィオナの手を引いてリビングへ進んだ。
今夜は異世界からの客人のフィオナがいるということで少しばかり豪華にしてみましょう!
なんて思っているが一般家庭でそんな豪華な料理なんてできるわけもない。
ステーキとか、ワインとか。
思いつく豪華なものはもちろんない。
というわけで。
冷蔵庫にあった野菜と昨日買ってきた海老、それから小麦粉、卵に油。
それから塩、もしくは大根。
これらのものを使って安くても豪華に見える料理を作ってみましょう。
で、できたのは。
「天ぷら、だぜ。」
「あ、これ向こうでジパング料理としてあったわ。」
「…あ、そうなんだ。」
あったんだ。
ジパングって…そんなものがあったんだ。
ジパングって確か昔の日本の呼び名じゃなかっただろうか。
それじゃあ…日本に似た国であってもおかしくないか。
…驚かせようとしたのに残念だ。
「ユウタって料理できるのね。」
「まぁね。よく作らされてるからさ。」
「作らされてる?」
「そう。」
オレは顎でそっちを示した。
フィオナもそちらを向いて、目に入るのはあやかの姿。
先ほどから携帯をいじってばかりだ。
「…大変なのね。」
「男は苦労するもんだよ。」
とにかくだ。
今はできた料理を食べようじゃないか。
「あやか、飯出来たぞ。」
「ん〜。」
唸るような返事をしてあやかはテーブルの椅子に座る。
いまだに先ほどと変わらない姿でだ。
女の子なんだからもう少ししっかりして欲しい。
ついでに言うとフィオナがいるのだからどうにかして欲しい。
「そんじゃ、いただきます。」
「いただきます。」
「ん〜。」
ん〜で済ませやがった。
フィオナはちゃんとオレにあわせてやったのにあやかときたら。
いただきますの挨拶を一言で終わらせやがった。
いつものことだから気にしないけど。
「あむ、ん。…もう少し油から早く上げるべきじゃないの?」
「そういうなら自分でやれよ。」
そんなことを言いながらオレもあやかも天ぷらを食する。
かじるたびにさくりと音を立てる。
…中々の出来だとは思ってるんだけどなぁ。
「…ん?」
オレとあやかは食べ始める最中、フィオナの手が止まっているのに気づいた。
箸を持っているんだけど…その手が動かない。
箸を持つ手も少し危うい。
どうしたのだろう。
天ぷらは苦手だったのか?
それとも女性らしく脂っこい物自体が好きじゃないとか?
「フィオナ、どうした?」
「うん…ちょっと。その…ね。」
「?」
「その…私、箸を使ったことなくて。」
「…ああ。」
なるほど、箸の使い方を知らないということか。
もしかしたらフィオナのいた世界はオレらのいる日本というよりも中世のような世界だったのかもしれない。
ナイフ、フォーク、スプーンで西洋なのかもしれない。
日本に近い国はあってもそういうところに住んでいたなら箸を使えなくても納得だ。
「仕方ないな。」
それなら取ってくるか。
スプーンもフォークもナイフも勿論うちにある。
あと予備で割り箸も。
…どこかの師匠とは違うのだ。
だから絶対に食べさせあいっこなんかには…ならない。
オレが椅子から立ち上がろうとしたところでフィオナに手を掴まれた。
「うん?どした?」
「えっとね…その…できれば…。」
できれば…何なのだろう。
何をできればいいのだろう。
っていうか、どうしたのだろうか。
そんなに顔を赤くして。
恥ずかしそうに、困ったように目を伏せて。
先ほどオレをラブホに誘ったときとは大違いだ。
「その、ね…。」
遠慮がちに彼女は顔を上げて、その赤い瞳にオレを映し出して言った。
小さく、それでもしっかり届くように。
女性というよりも幼い女の子のようなお願いを。
「ユウタが…食べさせてくれないかなって…。」
…え?…マジで?
何でそんなことをねだられなきゃいけないんだ。
別にスプーンもフォークもナイフもあるのに。
割り箸だってあるのに。
何で師匠と同じようなことをしなければいけないのだろうか。
さらに言うと、オレとフィオナは今日初めて出会った仲だというのに。
そりゃどことなく初めて会ったという感じはしなかった。
むしろオレはコイツを知っていたのかもしれない、という感じだった。
…以前もそう感じる奴が何人かはいたけど。
でもさ、でもだよ。
何でそんなことを頼まれなきゃいけないんだ…。
初めて会ってから一日はおろか半日もたってないというのに。
…経ったらするというわけでもないけど。
「…。」
あやかが睨んでた。
フィオナに穴を開けるつもりで。
目からビームが出そうな勢いで。
思っていることといえばどうせ
「はっ!図々しいったらありゃしないよね!まだ会ったばかりで何食べさせてくれるなんて甘えてるの?子供なのあんたは?」
だろうな。
図々しいのはお前もなんだけどさ。
「えっと…だめ?」
「…。」
…ったく、仕方ないな。
心の中でため息をつきながらオレはフィオナの前に置かれている箸を取った。
普段誰も使っていない、予備のための箸。
それなりの長さがあり、使いやすさも抜群である。
それを手に取り、フィオナの前に同じように置かれている茶碗もとった。
勿論中には白米。
まったく、やってやろうじゃないか。
呆れつつも困りつつも、それでもなんだか応えちゃうんだよな。
まったく、オレ自身困ったもんだ。
「わかったよ、ほら。」
椅子をずらしてフィオナと向かい合うようにして座る。
手には箸と湯気のたつ白米の入った茶碗。
箸でそれを掬い上げ、フィオナの前に差し出す。
そして一言。
「はい、あーん。」
「あ〜ん♪」
ぱくり、とでもいうかのよういフィオナはそれを食する。
それで、もきゅもきゅと可愛らしい音がしそうな風にそれを咀嚼する。
…なんだろう。
小動物みたい。
そんな風に思えた。
「うん、白米って普段食べてないけど意外とおいしいのね♪」
「そうか?普段は何食べてるんだよ?」
「パンとか、パスタとか…かしら。」
お洒落で西洋だなぁ。
やはり箸を使う習慣はないようだ。
…だからやっぱりフォークなりナイフなり持ってきたほうが良かったと思うんだけどな。
そんなことを思いながらオレは天ぷらを箸で挟んだ。
そのままフィオナの前に移動させる。
「はい、あーん。」
「あ〜ん♪」
さくり、と箸からその音が伝わってきた。
そのまま数回租借して、飲み込む。
白く細い喉が上下した。
「…これ、おいしいのね。」
「あれ?食べたことあったんじゃないの?」
「知ってるだけで食べたのは今日が初めて。」
「そっか。」
「野菜なのにこんなにおいしいなんて、びっくり。」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。」
「それから。」
「ん?」
それに?
何だろう。
塩加減が良かったのかな?
それとも天ぷらを盛り付けた皿の端にある大根をおろしたものが気になるのだろうか。
しかしフィオナは違うことを言った。
よくわからないけど、でも。
嬉しくなるような言葉を。
「とても、温かいのね…。」
温かい。
それはどういう意味なのだろう。
一番考えられるのは…料理がというところじゃないのだろうか。
そりゃ出来たてなのだから温かいのは当然。
冷めたものを食べさせたいとは思わない。
でも、そんな風にいった感じじゃない。
なんていうのだろうか。
まるでそれは料理ではなくて、オレに向けられたようなもの…。
そう思うと…嬉しくなる。
でも…そんなわけないか。
そう思ったそのとき、体中を嫌な感覚が駆け巡った。
まるで体に針でも突き立てられてるような。
釘や画鋲、棘にナイフなどあらゆる尖ったものが全身の肌に食い込むような、そんな感覚。
悪寒にも似ているそれは…。
「ふ〜ん。」
あやかの視線だった。
今度はオレにまで向けてきやがったか…。
そりゃ目の前でこうもベタベタされれば鬱陶しいのはわかるけど。
流石に食事中まで口に出さないのはいいのだが…やはりわかってしまう。
あやかの考えることが嫌でも感じられる。
こう思っていることだろう。
そして、オレに伝えたがってることだろう。
「仲がいいね〜二人とも。そんなにベタベタされたら食べてる天ぷらが甘ったるく感じちゃうんだけど?別にあたしも甘いものは好きだけどさ、甘い天ぷらって何?そんなもんないでしょ?甘ったるい天ぷらなんて天ぷらじゃないでしょ?それに塩で味付けしてあるのに砂糖じゃないのこれ?」
…ありうる。というか、これしかありえない。
そんなものを感じ、あやかの穴を開けるような視線を感じながらもオレはフィオナにご飯を食べさせ続けるのだった。
暑苦しいこの時期。
やたら室温も高くなり、家だというのに部屋の温度は30度を越す。
というかオレの住んでる地域はかなり暑いほうらしい。
夜になってもその高さはあまり変わらない。
過ごしやすくなるはなるのだが…あまり変わらないようにも感じられる。
そんな中では勿論汗もかく。
先ほどフィオナと共に自転車で駆けていたときだって既に汗だくだったんだし。
…臭ってなかったかな?
まぁとにかくだ。
そんな汗を流すためにもオレはただいま風呂にいた。
本来なら一番風呂は客人であるフィオナに譲ったほうが良かったのかもしれない。
でもそれは悪いと思ったのかフィオナが遠慮したのだ。
ということで先に入らせてもらうことにした。
あやかもいるのだが…あれはどうせ夜遅くに入るだろうからいい。
どーせ見たいテレビ番組を見るまでリビングのソファで寝そべって携帯弄ってるんだから。
そんなこんなでオレは今、湯銭に浸かっていた。
髪の毛を洗って、体を洗って。
頭を湯船の縁に預けて寝そべるようにして。
そして、一息つく。
「はぁ。」
ため息にも似たものを。
そんなものをついて―そして考える。
それはフィオナのこと。
初めて会ったというのにそう感じられない彼女のことだ。
―フィオナ・ネイサン・ローランド。
リリムであって、そして魔王の娘であるらしい。
流石のオレもそれは知らなかった。
リリムがサキュバスの上位種、最高位だというのは知っていたけど。
他にも以前調べたエキドナやらバフォメット、ヴァンパイアといろいろ調べたことがある。
ちょっと面白そうだから。
それから…なぜだか気になるから。
不思議と、それらを知ってる気がしたから。
…フィオナのことも。
リリム。
男を魅了する存在。
男の精を糧に生きる存在。
サキュバスの最高位というのだからその魅了は半端なものじゃないだろう。
それは一度目にした。
初めて彼女を見たときに。
あれは流石におかしいとは思った。
周りの人たちが皆熱に浮かされたかのような顔をしてフィオナを見つめていたのだから。
惑わされたように、魅了されたように。
視線を固定し、外さない。
それはあまりにもフィオナが美しいからだろう。
フィオナがこの世に存在するようなものじゃない美しさを持っているからだろう。
完璧なんてまだ不完全と思える姿。
綺麗なんて言葉もちんけに思える顔。
美しいなんてまだ足りないと思える髪。
だけど。
確かにあれは見とれて当然というくらいに美しい存在だけど。
それこそ男が惑うのもわかるくらいに綺麗だけど。
オレはその美しさを知っている。
そのように綺麗な女性を知っている。
壊滅的なくらいに完璧。
破滅的なくらいに綺麗。
常識なんて覆すくらいに美人。
基本的にニコニコしている彼女。
髪の毛も特徴的。
そして何より甘えん坊。
オレよりもずっと年上なのに、だ。
それでいて、寂しがり屋。
誰も傷つけたくないといっているのに、誰かと共にいたいと思ってる。
いや、願ってるんだ。
あの女性は…。
ぽちゃんと、天井から水滴が湯に落ちた。
雫は弾け、波紋を作る。
「…。」
…フィオナのことを考えてみる。
あれはあまりにも綺麗過ぎだ。
そう思った。
単純にも、そう思えた。
オレも普通の人間と同じ価値観を持ってる。
それならあのような女性を前にして同じように美しいと感じるのは当然だ。
でも。
あれは、美しすぎるんだ。
オレが手を触れていいとは思えないくらいに。
例えばの話。
目の前に宝石があったらそれに触れたいと思う人はどれくらいいるだろうか。
その宝石が一つで何億、何兆なんていうくらいに馬鹿げた金額のするものだったら…。
それに自ら進んで触れたいと思う人はいいるだろうか。
わざわざ自らの手を擦り付けて、価値を下げてしまうような行為をしたがるものはいるのだろうか。
さらに、話。
今度は目の前に花があったとしよう。
儚く散りそうで、でもそれがまた美しい花。
手を触れればそれだけで命尽きてしまうような花があったら。
それに手を触れたいと思う人はいるだろうか。
自分から手を触れて、散らそうと考えるものはいるだろうか。
いるとしたらそれは異常な人間。
でも、だ。
それが普通なら…。
あまりにも美しすぎて、触れたくなると思うのなら…。
「…それなんだろうなぁ。」
オレが感じているものは。
フィオナの魅了なんてものが効かない理由は。
これなんじゃないのかな…。
フィオナはあまりにも美しすぎる。
それこそ触れることも躊躇うくらいに。
まるで宝石のように輝かしいのにどこか花のように儚い。
それはまるであの寂しがり屋の彼女のように。
そんなふうに感じた。
だから…。
触れるのは…やめよう。
オレなんかが触れていいわけじゃないから。
関わるのは今回限り。
オレがその手をとるに値するとは思えないから。
明日が過ぎれば他人同士。
でも…何でだろうか。
―どうしてここまで親しさを感じるのだろう。
親しいだけじゃない。
どことなく、好意にちかいものも感じる。
初めて出会ったとは思えないくらいに。
不思議なくらいに…。
「…なんでなんだろーなぁ。」
そう呟いたところで答えは返ってこない。
ただの独り言なのだから。
オレの思い過ごしかも知れないのだから。
そんな風に思って瞼を下ろす。
もう少しリラックスするため。
頭の中に思い描いたものを振り払うため。
フィオナに余計な感情を抱かないためにも。
「…?」
そんなことをしていたら、聞こえた。
耳にそれは届いた。
布と布がこすりあう音。
それだけではなく軽いものが床に落ちる音。
軽い…といってもそれもまた布のような…。
…何だ?
その音は脱衣所から聞こえてくる。
脱衣所…?
普段オレが風呂に入ってもお構いなく侵入して漁るもん漁って帰ってくあやか…ではないだろう。
先ほどみたいテレビがどうのこうのと言っていたから。
普段より少し早い入浴なのであやかも普段のようにはしてこないと思う。
それなら…まさか?
…まさか?
いや、そんなわけあるか?
初対面でいきなり風呂場まで侵入してくる奴がいるか?
それこそ、師匠じゃないんだから。
あれは…きつかったな。
いくらなんでもタオル一枚巻いただけで入って来るんだもんな。
師匠の体のライン、くっきり見えるんだし。
流石のオレの理性も砕けるかと思った…。
って、今はそうじゃない。
湯銭から上がり、タオルを腰に巻いて曇り戸を見た。
向こうに見えるのはオレよりも背の高い、出るとこ出て引っ込むところは引っ込んだ女性らしい姿。
そこに見える白い、明らかに人についていないもの。
翼と、尻尾。
それから頭に生える黒いもの。
…角だなあれは。
ということは、だ。
この向こうにいるのは…。
「…フィオナ?」
「!な、何かしら!?」
あせっていたのかそれともオレの声に驚いたのか。
慌てたようにフィオナの返事が聞こえた。
「…何してる?」
「な、何って…ユウタのお背中流そうかなぁ…って。その、食べさせてくれたり、泊めてくれたりするお礼として…。」
それを聞いて頭を抱えたくなった。
悪い奴じゃないのはわかる。
ちゃんと礼儀正しいということもわかる。
でもさ。
なんだかズレてるんだよなぁ。
価値観が?距離感が?感覚が?
別世界ということでか、それともフィオナがリリムということでか。
オレの持ってる常識が、通じない。
甘えるのはまぁいいだろう。
頼られるのも、悪い気はしない。
でも、これは無理だ。
お礼と称してされるのは、なんだかむず痒くも感じるし。
それに…先ほど決めたばかりなのだから。
オレは、フィオナに深くまで関わるのはやめようと、決めたのだから。
ということで。
オレがすべきことは二つ。
ここで逃げる。
それは…無理だろう。
今出て行けばフィオナと正面からぶつかる。
それも裸で。
こちらだって隠すためのタオルが一枚しかないのだ。
そして相手は人ではないリリム。
自転車に二人乗りしていたときに知ったのだが…人よりも力が強い。
オレを抱きしめたあの力、その気にならなければ引き剥がせそうもなかった。
あんな力で正面からぶつかれば確実に抑えられる。
抵抗できなくもないのだが…相手は女性。
そんな乱暴な真似をしたくはない。
ということで。
もう一つのほうをしよう。
目には目を、歯には歯を。
女性の対処には女性を、ということだ。
オレは風呂場にいながらその名を叫んだ。
「あやかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うっさい!!」
すぐに返事が返ってきた。
それから、脱衣所のドアを無理やり開けたのだろう、横引きのドアと壁がぶつかり合う轟音も聞こえた。
…相変わらずの騒がしさだな。
だけど、すぐに来てくれて助かった。
ドアを開けて目にした光景。
それはおそらくフィオナが脱いでいるところだろう。
それを目にしてあやかは…。
「ア、アヤカ…っ!!」
「…あれ?」
「…。」
「…。」
「…。」
「…で、何?」
…あれ?
今の沈黙何?
何でフィオナがいるのに何も言わないの?
見えてるよね?フィオナの姿、見えてるよね?
「あ、あやか?」
「何?用件があるなら早くしてよ。今CMなんだから。」
やはりテレビ見てたか。
それはいい。
それよりもだ。
「そこにフィオナいるだろ?」
「いるけど?」
「連れてってくれよ。あと、できればもう侵入してこないようにしてくれ。」
「…自分でやれば?」
できたら苦労してない。
というか、お前を呼んでないだろうが。
「頼む、連れてってくれ。」
「だから自分でやってよ。こっちは今テレビ見てるんだから。」
「アイス二個。」
「わかった。」
その返事をしてあやかはどうやら動き出した。
どうせ腕でも引っ張っているのだろう。
「ちょっと!アヤカ!?」
「ほら、こっち。ったく、初対面の相手のお風呂に何侵入しようとしてるのさ。頭どうなってるの?え?」
そんな声が遠ざかる。
…行ったか。
それを確認してもう一度湯に浸かった。
というか、あやかのやつ。
そんなことを思ってたなら最初からどうにかして欲しかったな。
そんなことを考えて、ため息をつく。
心の中ではなくて、ちゃんと口から。
盛大に、疲れたように。
っていうか、疲れた。
なんだこれは。
まるで師匠といるかのように感じられた。
…いや、まだ師匠のほうがマシかもしれない。
フィオナがあまりにも近寄りすぎる。
自ら身を寄せて、その距離を縮めて。
一線まで近づいてくる。
超えてはいけないその線を。
もう戻れないその境界を。
まったく、これじゃあ寝るときにも苦労しそうだ。
そう思ったらまた自然とため息が出た。
風呂から上がり、髪の毛を大雑把に乾かして。
夏用のパジャマを下はちゃんと履き、上は羽織っただけというそんな姿でオレは脱衣所から出た。
いくらかはしたないと思われるだろうこの姿。
しかし本来フィオナがいなければ腰にバスタオル巻いて出ていたはず。
それと比べるといくらかマシだろう。
夏は暑いんだし、仕方ない。
というわけでそんな姿でオレはリビングへと足を進める。
リビングの、キッチンにある冷蔵庫の中のものをとるために。
お風呂上りのお楽しみ。
本当ならアイスなんて良かったんだけど…さっきあやかにあげることになっちゃったし。
ということで冷蔵庫の奥。
卵を入れるスペースに手を突っ込んでそれを探り出した。
それ。
ペットボトルに入ったジュースである。
良かった、まだあけられてない。
油断すると半分以上があやかに飲まれるんだよなぁ。
あの暴君め。
そのためにもこうやって隠している。
双子であるあやかに隠し事なんて意味のないようなものなんだけど。
…女系家族の末っ子というのは何かと苦労するもんだ。
とにかくそれをとって後リビングのソファに座っているフィオナを見た。
どうやらあやかが上手くなだめてくれたらしい。
クッションを抱きしめたまま動かない。
…いや、どうやらテレビを見ているらしい。
興味深そうに。
そりゃそうだろうな。
魔法のある世界にテレビなんてものは存在しないだろう。
テレビといえば魔法ではない、科学の結晶なんだから。
それにしても…何を見てるのだろう?
この時間帯だと…ドラマでもやっているんじゃないか?
だがフィオナの顔はなんというか、ドラマを興味深く見ている顔…とは言いがたかった。
顔を赤くして。
赤い目を見開いて。
頬を朱に染めて。
どことなく息を荒くして。
クッションを抱きしめる力を強める。
あれは…なんていうか…。
まるで、興奮しているみたい…。
何に対してだろうか?
リリムである彼女が興奮するなんていうと…やはりそっちのことだろうか?
キスシーンとか、それとも…しているシーンとか…だろうか?
…あ、そういえば。
今日は映画の放送日だ。
日本のやつではなくて、洋画だったかもしれない。
洋画…ね。
洋画なら確かにそういうシーンは沢山あるからなぁ。
家族で見ていたときにそういうシーンに入ったときは…気まずかったな…。
フィオナが見ているのはきっとそういうシーンなのだろう。
…それじゃあ今近づくのは危険かもしれない。
ある意味脱衣所のときよりも危険かもしれない。
…でも、オレも男の子。
見たいものは…見たい。
ということで興味本位でオレはフィオナの座っている隣へと移動するのだが…。
移動して、フィオナの隣に来て、腰を下ろそうとして前を向いたそのときに固まった。
テレビを見て、その映っているものを見て。
音声が聞こえなかったのはおそらくあやかが気を利かせたのだろう。
…いや、気を利かせるというよりもこれは…ただ単に近所に聞こえたらまずいものだからだろう。
聞かれたらまずいもの。
この時間帯でも見る人はいるだろうけど…でもやはり。
他の人に見られてはまずいもの。
それ。
画面に映っていたのは洋画ではかった。
日本人が二人、映っていた。
男と、女の二人。
場所はどこかの部屋の中なのだろう、小さな明かりに照らされてる。
ドラマで出るような有名人ではない。
映画に出るような俳優でもない。
見知らぬ二人。
そして感じるのはどことないやらせ感。
プロではない、素人のような演技。
…っていうか、これ。
…非情に言いにくいもの。
…えっと。
…その…。
―…大人のビデオ、じゃね?
というかDVD。
まだ始まったばかりなのだろう、画面の中の女性と男性は激しく絡み合うようなことをしていない。
…その代わりに激しい口付けを交わしている。
するすると動き出す男性の手は女性の浴衣の下へともぐっていって…。
っていうか、何でこれを見てるんだよ!?
今日オレが学校で友人に借りてきたものだぞこれは!?
それを知っていて、なおかつこのテレビの操作ができるのは今この家にいる人物ではあやかとオレだけ。
そしてさっきまでオレは風呂に入っていたから…犯人はあやかしかいない。
あいつ、オレのことになるとことごとく見抜くからなぁ。
隠し事のほとんどは見抜かれているといってもいい。
さすが、双子というところか。
オレの考えてることは筒抜けか。
でもさ!よりによってこれはないだろが!!
何で招待客に大人なビデオを見せるんだよ!?
…どうせあやかのことだから
「リリムってサキュバスの最高位なんでしょ?で、サキュバスは淫魔なわけでしょ?それならニュースとかドラマとか見るよりもこっちのほうが好きなんじゃないの?ほら。これ見せてあげるからゆうたのところには二度と行かないでよね?」
…だろうなぁ。
どうせこう言ってこれを見せたんだろうなぁ…。
最悪だ。
唯一助かったのは映っているシーンがまだ本番じゃなかったこと。
もし本番をフィオナが見ていて、そこにオレが来たら。
興奮しているリリムの隣に男が来たら…。
…考えるのはやめよう。
とにかくオレは近くにあったリモコンを操作してテレビの電源を消した。
一瞬で暗くなる画面。
そして、静寂。
「…。」
「…。」
フィオナは何も言わない。
オレは何も言えない。
っていうか、何を言えばいいんだよ?
こんなとんでもない状況で何を言えばいいんだよ!?
これならまださっきの状況がマシだったと思えるぞ!
ちらりとフィオナを見ると真っ赤になった彼女が見えた。
唇に手を当て、何も言わない。
フィオナも同じようにオレをちらりと見る。
その目が合った。
黒い瞳と赤い瞳がともに映りあう。
「えっと、…その、テレビってすごいのねっ!」
気まずい雰囲気に耐え切れずにフィオナが口火を切ってくれた。
それに少しばかり感謝する。
この沈黙を打破してくれて。
「あ、ああ。まぁな。魔法がないからこうやって科学で補ってるんだよ。」
などとオレも適当に言う。
とにかく会話。
会話を続けなければ。
また沈黙に戻りたくはない。
あの沈黙になったらこんどこそどうにかなってしまいそうだ。
だからこそ、会話を続けなければ。
この状況から抜け出さなければ。
そこでオレは自分の手を見た。
手に持っているそれ。
ペットボトルに入ったジュース。
ああ、これがあるじゃん。
状況を打破するもの。
この空気を変えてくれるもの。
おそらくフィオナのいた世界じゃなかったであろうもの。
これなら…!
「そういえば、さ。」
あくまで冷静に、あくまで平坦に。
動じてないというように見せてオレは言う。
「こんなの、飲む?」
キャップをあけて、それを渡す。
「これは?」
「たぶんフィオナのいたとこじゃなかった飲み物。」
中世のような、西洋のような世界にいたフィオナ。
魔法のある世界で、科学が発展しなかったのなら。
こんなものはできなかったんじゃないかと思ってオレはそれを手渡した。
「そのままぐいっと。」
「ぐいっと?」
「そ。あ、でも刺激が強いからちょっとずつのほうがいいかも。」
フィオナはペットボトルのラベルを興味深そうに眺めて、オレの言葉通りそれを飲んだ。
ぐいっとは行かずに。
ちびちび、度数の強い酒を飲むかのように。
少量口に含んで彼女は目を見開いた。
「これ…シュワシュワする!」
「不思議だろ?」
炭酸飲料水。
シェイクすると勢いよく中身が噴出してくるあれだ。
反応からするにどうやらフィオナのいたところにはなかったらしい。
フィオナの反応を見てオレは嬉しくなる。
よかった。
驚いてもらえて。
ついでに、空気も変わって。
「ユウタは?」
そう言ってオレにペットボトルを渡そうとしてくるのだが…手で止める。
「いいよ、全部あげる。」
というか、もうフィオナが口つけちゃったからなぁ。
あやかとは大して気にしないけど…フィオナのように姉弟ではない女性と間接キスは気が引ける。
美人で魅力的な女性とじゃ…なんだかしてはいけないように感じられる。
内心嬉しかったりはするんだけどね。
「そう…。」
なぜだか残念がるフィオナ。
そのままペットボトル内の炭酸飲料水をちびちび飲みだした。
小さな喉が上下する。
白くて、美しいそれが。
ただ飲んでいるというだけでも絵になるような…。
…いけない、何を考えてるんだオレは。
そんな考えを振り払うかのようにオレは隣にあったクッション(フィオナが抱きしめているのとは違うもの)を抱きしめた。
―ここでオレは気づくべきだった。
フィオナに飲ませたそれが、フィオナのいた世界にないということに。
それがどれほど重要なのかに。
―オレら人間が嗜好品として飲むそれが、彼女にとって無害であるとは限らないことに。
―ルートチェンジ―
→リリムルート
失礼ながら…第一印象はあやかと同じものだった。
…痛々しかった。
美人なのに。
そうそう目にすることのできない、おそらく一生の中で見れるか見れないかというくらいに美人なのに。
…いや、とんでもない美人だからこそ、だろうな。
頭から角を、背中からは蝙蝠のような翼を、お尻からは尻尾を生やしている。
髪の毛は見たこともない、穢れのない真新しい雪のような白さだ。
そして瞳が赤い。
人が体に流している血のような、宝石であるルビーのような。
濁らず澱まない、透き通った綺麗な赤。
で、あの前面を大きく肌蹴ている服を着ている姿はどうみても…その…。
痴女じゃね…?だった。
でも、どうしてだろうか。
オレはその姿を初めて見たとは思えなかった。
そんな人物に会うことはなかったはずなのに。
リリムという存在を目にしたのも初めてなのに。
でも。
―フィオナという存在は知っていた、とでもいうかのように。
「へぇ〜…これはいったいどういうことなのゆうた。」
帰って早々我が麗しの暴君、絶対服従の存在である双子の姉。
黒崎あやかになぜだか顔面を鷲掴みにされていた。
細い指がこめかみに食い込んでいて…地味に痛い。
ちょっと何でこんなにピンポイントに痛いところを攻めてくるのだろう…あちょっとまった爪を立てるな爪は痛い!
あやかが怒っている原因。
それはオレがフィオナを連れてきたことだった。
今フィオナはオレの後ろで困ったようにおどおどしている。
そりゃそうだろう。
フィオナの目の前、帰って早々玄関でオレは実の双子の姉にアイアンクローを食らっているのだから。
しかもあやかの姿。
真ん中にウサギの絵が描かれているTシャツを着ている。
ちなみに下にははいていない。
そのまま、下着だ。
いくら夏だからってその格好はないと思う。
でもそれを咎めたところでこいつはやめないだろう。
いつものことなんだから。
それでよくお母さんと喧嘩するんだから。
それなのにこいつもてるんだよなぁ。
男女問わずクラスで、いやクラス外でも人気だし。
まるで皆を引き寄せる魅力でもあるみたいに。
世の中ってのはわからないもんだ。
なんて考えてる状況じゃなかった。
あまりにもラフな姿で弟の顔を鷲掴みにしている光景。
これがフィオナの今目にしている光景。
これを見て困らずにいられるのはうちの家族くらいだろうな。
「あのね、ゆうた。あたしがわざわざ自転車から降りて一人で帰ってきた意味、わかるの?」
「…それは。」
わかっている。
勿論、予想はできるしそれが正解だと思う。
だってオレはあやかの双子の弟。
今まで18年間共に生きてきた自身の片割れのような存在なのだから。
それこそ唯一無二というほどの。
…二卵性の双子だけど。
こいつのことだ。
自分から自転車を降りるなんて事は本当ならしたくはなかった。
それでもした理由。
楽な移動手段を失ってまでしたかったこと。
それはおそらく―フィオナのこと。
どうせ「そんな変な女はどっか遠くに捨ててきなさい!」と言いたかったのだろう。
そして関わりを持たずに終わらせたかったのだろう。
あの出会いを。
ただの他人として終わらせたかったのだろう。
昔からそうだ。
あやかはそういったものを嫌っている。
そういう変わったものを。
…たまには気に入ったり、特に関心を持たないようなものもあったが。
これは明らかに嫌っているときの態度。
―まるで、人には見えなかったあの女性を相手にしたときのような。
―まるで、血をすすらなければ生きていけない彼女を前にしたような。
―まるで、師匠と対峙しているかのような。
「何でよりによって連れて来てんの?」
「…仕方なかっただろ?フィオナ、行くあてがないんだからさ。」
「行くあてがないならそのままにしておけばいいでしょ?どうせどっかそこらへんにいる男を頼ってホテルにでも泊まったでしょうに!」
「馬鹿、あいつがホテルに泊まるとなるとオレも泊まることになるんだよ。」
「何で!?」
長くオレの顔を掴んでいた手を引っぺがしあやかは仕方ないとため息をついた。
本当に嫌そうな顔で。
明らかにフィオナを嫌っている様子で。
「今更追い出すわけにもいかないか。わかったよ。家に上げれば?」
「助かる。」
っていうか、なんでオレはコイツに許可を取ってるんだろう。
「フィオナ、上がっていいってよ。」
「それじゃあ…お邪魔します…。」
そう言ってフィオナは遠慮がちに家に上がる。
そのままオレのとなりに並んだ。
それを見たあやかは…。
「…。」
片眉がひくついた。
一瞬だけだったが。
あれは…そうとう来てるときの顔だったな。
ああ、そうですか、ああはいそうですか、ああ、あ〜あああそうなんですかぁ、な顔だったな。
そこまでしてフィオナのことが気に入らないんだろうか。
「さっさと夕飯つくってよね。こっちはあんたを待ってたんだから。」
「待つくらいなら自分で作ればいいのに。」
フィオナが小さくオレに耳打ちしたがその声が聞こえたのだろう。
一瞬とんでもない目つきでオレ…ではなくフィオナを睨んだ。
射殺すような視線で。
体に穴をあけられるんじゃないかというくらいの鋭い目つきで。
「…ふんっ!」
はき捨てるようにそう言ってあやかはリビングへと進んでいった。
「嫌われちゃったの…かな…?」
しゅんとしたようにオレの隣にいるフィオナはそういった。
…そんな風に思うなら最初から言わなければいいのに。
触らぬ神に祟りなし。
口は災いの元、なんだから。
「嫌われた…っていうよりもあれは最初からそういうやつなんだよ。人に対してはそれなりの対応をするくせに、そういうものに対してはそっけないというか…酷い対応するんだよ、あやかは。」
「そういうもの?」
「なんていうか…不思議な人とか?」
言ってて自分でわからなくなってきた。
前からそうなんだ、あやかというのは。
オレの周りにいる人じゃないものに対して扱いが酷い。
たとえば…お父さんの実家にいる猫とか。
オレによく身を摺り寄せてくるのにそれを見つけたとたんにティッシュの箱を投げつけてきたからなぁ…。
あと、おばあちゃんが大切にしていた提灯。
気味が悪いといってやたら捨てたがってた…。
他にも中学時代の修学旅行。
旅行先で京都弁でしゃべる和服のお姉さんと話していたらあやかがやってきてオレの手を引いて連れてくし…。
家族旅行で海に行ったときは髪の毛ピンク色の変わったお姉さんと楽しく話してたら蹴りをもらったし…。
…そういやあのお姉さん、珍しい髪の色だったな。
海に浸かってたからか下半身は良く見えなかったけど…。
人らしく見えるのだが…もしかしたら彼女達も人じゃなかったと言うのだろうか?
その中でも一番酷かったのが…師匠。
まるで親の敵のような嫌いようだった。
会うたびに一方的につっかかって。
事あるごとに敵対して。
オレが師匠を止めて、ボロボロになって帰ったときなんて怒鳴られたし。
心配してくれるのはわかってるんだけど…それでも。
あまりにも師匠を嫌いすぎじゃないだろうか。
「ゆうた!飯!!」
「!ああ!」
おっといけない、さっさとご飯を作らないとまたどやされる。
そんなことを思いながらオレはフィオナの手を引いてリビングへ進んだ。
今夜は異世界からの客人のフィオナがいるということで少しばかり豪華にしてみましょう!
なんて思っているが一般家庭でそんな豪華な料理なんてできるわけもない。
ステーキとか、ワインとか。
思いつく豪華なものはもちろんない。
というわけで。
冷蔵庫にあった野菜と昨日買ってきた海老、それから小麦粉、卵に油。
それから塩、もしくは大根。
これらのものを使って安くても豪華に見える料理を作ってみましょう。
で、できたのは。
「天ぷら、だぜ。」
「あ、これ向こうでジパング料理としてあったわ。」
「…あ、そうなんだ。」
あったんだ。
ジパングって…そんなものがあったんだ。
ジパングって確か昔の日本の呼び名じゃなかっただろうか。
それじゃあ…日本に似た国であってもおかしくないか。
…驚かせようとしたのに残念だ。
「ユウタって料理できるのね。」
「まぁね。よく作らされてるからさ。」
「作らされてる?」
「そう。」
オレは顎でそっちを示した。
フィオナもそちらを向いて、目に入るのはあやかの姿。
先ほどから携帯をいじってばかりだ。
「…大変なのね。」
「男は苦労するもんだよ。」
とにかくだ。
今はできた料理を食べようじゃないか。
「あやか、飯出来たぞ。」
「ん〜。」
唸るような返事をしてあやかはテーブルの椅子に座る。
いまだに先ほどと変わらない姿でだ。
女の子なんだからもう少ししっかりして欲しい。
ついでに言うとフィオナがいるのだからどうにかして欲しい。
「そんじゃ、いただきます。」
「いただきます。」
「ん〜。」
ん〜で済ませやがった。
フィオナはちゃんとオレにあわせてやったのにあやかときたら。
いただきますの挨拶を一言で終わらせやがった。
いつものことだから気にしないけど。
「あむ、ん。…もう少し油から早く上げるべきじゃないの?」
「そういうなら自分でやれよ。」
そんなことを言いながらオレもあやかも天ぷらを食する。
かじるたびにさくりと音を立てる。
…中々の出来だとは思ってるんだけどなぁ。
「…ん?」
オレとあやかは食べ始める最中、フィオナの手が止まっているのに気づいた。
箸を持っているんだけど…その手が動かない。
箸を持つ手も少し危うい。
どうしたのだろう。
天ぷらは苦手だったのか?
それとも女性らしく脂っこい物自体が好きじゃないとか?
「フィオナ、どうした?」
「うん…ちょっと。その…ね。」
「?」
「その…私、箸を使ったことなくて。」
「…ああ。」
なるほど、箸の使い方を知らないということか。
もしかしたらフィオナのいた世界はオレらのいる日本というよりも中世のような世界だったのかもしれない。
ナイフ、フォーク、スプーンで西洋なのかもしれない。
日本に近い国はあってもそういうところに住んでいたなら箸を使えなくても納得だ。
「仕方ないな。」
それなら取ってくるか。
スプーンもフォークもナイフも勿論うちにある。
あと予備で割り箸も。
…どこかの師匠とは違うのだ。
だから絶対に食べさせあいっこなんかには…ならない。
オレが椅子から立ち上がろうとしたところでフィオナに手を掴まれた。
「うん?どした?」
「えっとね…その…できれば…。」
できれば…何なのだろう。
何をできればいいのだろう。
っていうか、どうしたのだろうか。
そんなに顔を赤くして。
恥ずかしそうに、困ったように目を伏せて。
先ほどオレをラブホに誘ったときとは大違いだ。
「その、ね…。」
遠慮がちに彼女は顔を上げて、その赤い瞳にオレを映し出して言った。
小さく、それでもしっかり届くように。
女性というよりも幼い女の子のようなお願いを。
「ユウタが…食べさせてくれないかなって…。」
…え?…マジで?
何でそんなことをねだられなきゃいけないんだ。
別にスプーンもフォークもナイフもあるのに。
割り箸だってあるのに。
何で師匠と同じようなことをしなければいけないのだろうか。
さらに言うと、オレとフィオナは今日初めて出会った仲だというのに。
そりゃどことなく初めて会ったという感じはしなかった。
むしろオレはコイツを知っていたのかもしれない、という感じだった。
…以前もそう感じる奴が何人かはいたけど。
でもさ、でもだよ。
何でそんなことを頼まれなきゃいけないんだ…。
初めて会ってから一日はおろか半日もたってないというのに。
…経ったらするというわけでもないけど。
「…。」
あやかが睨んでた。
フィオナに穴を開けるつもりで。
目からビームが出そうな勢いで。
思っていることといえばどうせ
「はっ!図々しいったらありゃしないよね!まだ会ったばかりで何食べさせてくれるなんて甘えてるの?子供なのあんたは?」
だろうな。
図々しいのはお前もなんだけどさ。
「えっと…だめ?」
「…。」
…ったく、仕方ないな。
心の中でため息をつきながらオレはフィオナの前に置かれている箸を取った。
普段誰も使っていない、予備のための箸。
それなりの長さがあり、使いやすさも抜群である。
それを手に取り、フィオナの前に同じように置かれている茶碗もとった。
勿論中には白米。
まったく、やってやろうじゃないか。
呆れつつも困りつつも、それでもなんだか応えちゃうんだよな。
まったく、オレ自身困ったもんだ。
「わかったよ、ほら。」
椅子をずらしてフィオナと向かい合うようにして座る。
手には箸と湯気のたつ白米の入った茶碗。
箸でそれを掬い上げ、フィオナの前に差し出す。
そして一言。
「はい、あーん。」
「あ〜ん♪」
ぱくり、とでもいうかのよういフィオナはそれを食する。
それで、もきゅもきゅと可愛らしい音がしそうな風にそれを咀嚼する。
…なんだろう。
小動物みたい。
そんな風に思えた。
「うん、白米って普段食べてないけど意外とおいしいのね♪」
「そうか?普段は何食べてるんだよ?」
「パンとか、パスタとか…かしら。」
お洒落で西洋だなぁ。
やはり箸を使う習慣はないようだ。
…だからやっぱりフォークなりナイフなり持ってきたほうが良かったと思うんだけどな。
そんなことを思いながらオレは天ぷらを箸で挟んだ。
そのままフィオナの前に移動させる。
「はい、あーん。」
「あ〜ん♪」
さくり、と箸からその音が伝わってきた。
そのまま数回租借して、飲み込む。
白く細い喉が上下した。
「…これ、おいしいのね。」
「あれ?食べたことあったんじゃないの?」
「知ってるだけで食べたのは今日が初めて。」
「そっか。」
「野菜なのにこんなにおいしいなんて、びっくり。」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。」
「それから。」
「ん?」
それに?
何だろう。
塩加減が良かったのかな?
それとも天ぷらを盛り付けた皿の端にある大根をおろしたものが気になるのだろうか。
しかしフィオナは違うことを言った。
よくわからないけど、でも。
嬉しくなるような言葉を。
「とても、温かいのね…。」
温かい。
それはどういう意味なのだろう。
一番考えられるのは…料理がというところじゃないのだろうか。
そりゃ出来たてなのだから温かいのは当然。
冷めたものを食べさせたいとは思わない。
でも、そんな風にいった感じじゃない。
なんていうのだろうか。
まるでそれは料理ではなくて、オレに向けられたようなもの…。
そう思うと…嬉しくなる。
でも…そんなわけないか。
そう思ったそのとき、体中を嫌な感覚が駆け巡った。
まるで体に針でも突き立てられてるような。
釘や画鋲、棘にナイフなどあらゆる尖ったものが全身の肌に食い込むような、そんな感覚。
悪寒にも似ているそれは…。
「ふ〜ん。」
あやかの視線だった。
今度はオレにまで向けてきやがったか…。
そりゃ目の前でこうもベタベタされれば鬱陶しいのはわかるけど。
流石に食事中まで口に出さないのはいいのだが…やはりわかってしまう。
あやかの考えることが嫌でも感じられる。
こう思っていることだろう。
そして、オレに伝えたがってることだろう。
「仲がいいね〜二人とも。そんなにベタベタされたら食べてる天ぷらが甘ったるく感じちゃうんだけど?別にあたしも甘いものは好きだけどさ、甘い天ぷらって何?そんなもんないでしょ?甘ったるい天ぷらなんて天ぷらじゃないでしょ?それに塩で味付けしてあるのに砂糖じゃないのこれ?」
…ありうる。というか、これしかありえない。
そんなものを感じ、あやかの穴を開けるような視線を感じながらもオレはフィオナにご飯を食べさせ続けるのだった。
暑苦しいこの時期。
やたら室温も高くなり、家だというのに部屋の温度は30度を越す。
というかオレの住んでる地域はかなり暑いほうらしい。
夜になってもその高さはあまり変わらない。
過ごしやすくなるはなるのだが…あまり変わらないようにも感じられる。
そんな中では勿論汗もかく。
先ほどフィオナと共に自転車で駆けていたときだって既に汗だくだったんだし。
…臭ってなかったかな?
まぁとにかくだ。
そんな汗を流すためにもオレはただいま風呂にいた。
本来なら一番風呂は客人であるフィオナに譲ったほうが良かったのかもしれない。
でもそれは悪いと思ったのかフィオナが遠慮したのだ。
ということで先に入らせてもらうことにした。
あやかもいるのだが…あれはどうせ夜遅くに入るだろうからいい。
どーせ見たいテレビ番組を見るまでリビングのソファで寝そべって携帯弄ってるんだから。
そんなこんなでオレは今、湯銭に浸かっていた。
髪の毛を洗って、体を洗って。
頭を湯船の縁に預けて寝そべるようにして。
そして、一息つく。
「はぁ。」
ため息にも似たものを。
そんなものをついて―そして考える。
それはフィオナのこと。
初めて会ったというのにそう感じられない彼女のことだ。
―フィオナ・ネイサン・ローランド。
リリムであって、そして魔王の娘であるらしい。
流石のオレもそれは知らなかった。
リリムがサキュバスの上位種、最高位だというのは知っていたけど。
他にも以前調べたエキドナやらバフォメット、ヴァンパイアといろいろ調べたことがある。
ちょっと面白そうだから。
それから…なぜだか気になるから。
不思議と、それらを知ってる気がしたから。
…フィオナのことも。
リリム。
男を魅了する存在。
男の精を糧に生きる存在。
サキュバスの最高位というのだからその魅了は半端なものじゃないだろう。
それは一度目にした。
初めて彼女を見たときに。
あれは流石におかしいとは思った。
周りの人たちが皆熱に浮かされたかのような顔をしてフィオナを見つめていたのだから。
惑わされたように、魅了されたように。
視線を固定し、外さない。
それはあまりにもフィオナが美しいからだろう。
フィオナがこの世に存在するようなものじゃない美しさを持っているからだろう。
完璧なんてまだ不完全と思える姿。
綺麗なんて言葉もちんけに思える顔。
美しいなんてまだ足りないと思える髪。
だけど。
確かにあれは見とれて当然というくらいに美しい存在だけど。
それこそ男が惑うのもわかるくらいに綺麗だけど。
オレはその美しさを知っている。
そのように綺麗な女性を知っている。
壊滅的なくらいに完璧。
破滅的なくらいに綺麗。
常識なんて覆すくらいに美人。
基本的にニコニコしている彼女。
髪の毛も特徴的。
そして何より甘えん坊。
オレよりもずっと年上なのに、だ。
それでいて、寂しがり屋。
誰も傷つけたくないといっているのに、誰かと共にいたいと思ってる。
いや、願ってるんだ。
あの女性は…。
ぽちゃんと、天井から水滴が湯に落ちた。
雫は弾け、波紋を作る。
「…。」
…フィオナのことを考えてみる。
あれはあまりにも綺麗過ぎだ。
そう思った。
単純にも、そう思えた。
オレも普通の人間と同じ価値観を持ってる。
それならあのような女性を前にして同じように美しいと感じるのは当然だ。
でも。
あれは、美しすぎるんだ。
オレが手を触れていいとは思えないくらいに。
例えばの話。
目の前に宝石があったらそれに触れたいと思う人はどれくらいいるだろうか。
その宝石が一つで何億、何兆なんていうくらいに馬鹿げた金額のするものだったら…。
それに自ら進んで触れたいと思う人はいいるだろうか。
わざわざ自らの手を擦り付けて、価値を下げてしまうような行為をしたがるものはいるのだろうか。
さらに、話。
今度は目の前に花があったとしよう。
儚く散りそうで、でもそれがまた美しい花。
手を触れればそれだけで命尽きてしまうような花があったら。
それに手を触れたいと思う人はいるだろうか。
自分から手を触れて、散らそうと考えるものはいるだろうか。
いるとしたらそれは異常な人間。
でも、だ。
それが普通なら…。
あまりにも美しすぎて、触れたくなると思うのなら…。
「…それなんだろうなぁ。」
オレが感じているものは。
フィオナの魅了なんてものが効かない理由は。
これなんじゃないのかな…。
フィオナはあまりにも美しすぎる。
それこそ触れることも躊躇うくらいに。
まるで宝石のように輝かしいのにどこか花のように儚い。
それはまるであの寂しがり屋の彼女のように。
そんなふうに感じた。
だから…。
触れるのは…やめよう。
オレなんかが触れていいわけじゃないから。
関わるのは今回限り。
オレがその手をとるに値するとは思えないから。
明日が過ぎれば他人同士。
でも…何でだろうか。
―どうしてここまで親しさを感じるのだろう。
親しいだけじゃない。
どことなく、好意にちかいものも感じる。
初めて出会ったとは思えないくらいに。
不思議なくらいに…。
「…なんでなんだろーなぁ。」
そう呟いたところで答えは返ってこない。
ただの独り言なのだから。
オレの思い過ごしかも知れないのだから。
そんな風に思って瞼を下ろす。
もう少しリラックスするため。
頭の中に思い描いたものを振り払うため。
フィオナに余計な感情を抱かないためにも。
「…?」
そんなことをしていたら、聞こえた。
耳にそれは届いた。
布と布がこすりあう音。
それだけではなく軽いものが床に落ちる音。
軽い…といってもそれもまた布のような…。
…何だ?
その音は脱衣所から聞こえてくる。
脱衣所…?
普段オレが風呂に入ってもお構いなく侵入して漁るもん漁って帰ってくあやか…ではないだろう。
先ほどみたいテレビがどうのこうのと言っていたから。
普段より少し早い入浴なのであやかも普段のようにはしてこないと思う。
それなら…まさか?
…まさか?
いや、そんなわけあるか?
初対面でいきなり風呂場まで侵入してくる奴がいるか?
それこそ、師匠じゃないんだから。
あれは…きつかったな。
いくらなんでもタオル一枚巻いただけで入って来るんだもんな。
師匠の体のライン、くっきり見えるんだし。
流石のオレの理性も砕けるかと思った…。
って、今はそうじゃない。
湯銭から上がり、タオルを腰に巻いて曇り戸を見た。
向こうに見えるのはオレよりも背の高い、出るとこ出て引っ込むところは引っ込んだ女性らしい姿。
そこに見える白い、明らかに人についていないもの。
翼と、尻尾。
それから頭に生える黒いもの。
…角だなあれは。
ということは、だ。
この向こうにいるのは…。
「…フィオナ?」
「!な、何かしら!?」
あせっていたのかそれともオレの声に驚いたのか。
慌てたようにフィオナの返事が聞こえた。
「…何してる?」
「な、何って…ユウタのお背中流そうかなぁ…って。その、食べさせてくれたり、泊めてくれたりするお礼として…。」
それを聞いて頭を抱えたくなった。
悪い奴じゃないのはわかる。
ちゃんと礼儀正しいということもわかる。
でもさ。
なんだかズレてるんだよなぁ。
価値観が?距離感が?感覚が?
別世界ということでか、それともフィオナがリリムということでか。
オレの持ってる常識が、通じない。
甘えるのはまぁいいだろう。
頼られるのも、悪い気はしない。
でも、これは無理だ。
お礼と称してされるのは、なんだかむず痒くも感じるし。
それに…先ほど決めたばかりなのだから。
オレは、フィオナに深くまで関わるのはやめようと、決めたのだから。
ということで。
オレがすべきことは二つ。
ここで逃げる。
それは…無理だろう。
今出て行けばフィオナと正面からぶつかる。
それも裸で。
こちらだって隠すためのタオルが一枚しかないのだ。
そして相手は人ではないリリム。
自転車に二人乗りしていたときに知ったのだが…人よりも力が強い。
オレを抱きしめたあの力、その気にならなければ引き剥がせそうもなかった。
あんな力で正面からぶつかれば確実に抑えられる。
抵抗できなくもないのだが…相手は女性。
そんな乱暴な真似をしたくはない。
ということで。
もう一つのほうをしよう。
目には目を、歯には歯を。
女性の対処には女性を、ということだ。
オレは風呂場にいながらその名を叫んだ。
「あやかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うっさい!!」
すぐに返事が返ってきた。
それから、脱衣所のドアを無理やり開けたのだろう、横引きのドアと壁がぶつかり合う轟音も聞こえた。
…相変わらずの騒がしさだな。
だけど、すぐに来てくれて助かった。
ドアを開けて目にした光景。
それはおそらくフィオナが脱いでいるところだろう。
それを目にしてあやかは…。
「ア、アヤカ…っ!!」
「…あれ?」
「…。」
「…。」
「…。」
「…で、何?」
…あれ?
今の沈黙何?
何でフィオナがいるのに何も言わないの?
見えてるよね?フィオナの姿、見えてるよね?
「あ、あやか?」
「何?用件があるなら早くしてよ。今CMなんだから。」
やはりテレビ見てたか。
それはいい。
それよりもだ。
「そこにフィオナいるだろ?」
「いるけど?」
「連れてってくれよ。あと、できればもう侵入してこないようにしてくれ。」
「…自分でやれば?」
できたら苦労してない。
というか、お前を呼んでないだろうが。
「頼む、連れてってくれ。」
「だから自分でやってよ。こっちは今テレビ見てるんだから。」
「アイス二個。」
「わかった。」
その返事をしてあやかはどうやら動き出した。
どうせ腕でも引っ張っているのだろう。
「ちょっと!アヤカ!?」
「ほら、こっち。ったく、初対面の相手のお風呂に何侵入しようとしてるのさ。頭どうなってるの?え?」
そんな声が遠ざかる。
…行ったか。
それを確認してもう一度湯に浸かった。
というか、あやかのやつ。
そんなことを思ってたなら最初からどうにかして欲しかったな。
そんなことを考えて、ため息をつく。
心の中ではなくて、ちゃんと口から。
盛大に、疲れたように。
っていうか、疲れた。
なんだこれは。
まるで師匠といるかのように感じられた。
…いや、まだ師匠のほうがマシかもしれない。
フィオナがあまりにも近寄りすぎる。
自ら身を寄せて、その距離を縮めて。
一線まで近づいてくる。
超えてはいけないその線を。
もう戻れないその境界を。
まったく、これじゃあ寝るときにも苦労しそうだ。
そう思ったらまた自然とため息が出た。
風呂から上がり、髪の毛を大雑把に乾かして。
夏用のパジャマを下はちゃんと履き、上は羽織っただけというそんな姿でオレは脱衣所から出た。
いくらかはしたないと思われるだろうこの姿。
しかし本来フィオナがいなければ腰にバスタオル巻いて出ていたはず。
それと比べるといくらかマシだろう。
夏は暑いんだし、仕方ない。
というわけでそんな姿でオレはリビングへと足を進める。
リビングの、キッチンにある冷蔵庫の中のものをとるために。
お風呂上りのお楽しみ。
本当ならアイスなんて良かったんだけど…さっきあやかにあげることになっちゃったし。
ということで冷蔵庫の奥。
卵を入れるスペースに手を突っ込んでそれを探り出した。
それ。
ペットボトルに入ったジュースである。
良かった、まだあけられてない。
油断すると半分以上があやかに飲まれるんだよなぁ。
あの暴君め。
そのためにもこうやって隠している。
双子であるあやかに隠し事なんて意味のないようなものなんだけど。
…女系家族の末っ子というのは何かと苦労するもんだ。
とにかくそれをとって後リビングのソファに座っているフィオナを見た。
どうやらあやかが上手くなだめてくれたらしい。
クッションを抱きしめたまま動かない。
…いや、どうやらテレビを見ているらしい。
興味深そうに。
そりゃそうだろうな。
魔法のある世界にテレビなんてものは存在しないだろう。
テレビといえば魔法ではない、科学の結晶なんだから。
それにしても…何を見てるのだろう?
この時間帯だと…ドラマでもやっているんじゃないか?
だがフィオナの顔はなんというか、ドラマを興味深く見ている顔…とは言いがたかった。
顔を赤くして。
赤い目を見開いて。
頬を朱に染めて。
どことなく息を荒くして。
クッションを抱きしめる力を強める。
あれは…なんていうか…。
まるで、興奮しているみたい…。
何に対してだろうか?
リリムである彼女が興奮するなんていうと…やはりそっちのことだろうか?
キスシーンとか、それとも…しているシーンとか…だろうか?
…あ、そういえば。
今日は映画の放送日だ。
日本のやつではなくて、洋画だったかもしれない。
洋画…ね。
洋画なら確かにそういうシーンは沢山あるからなぁ。
家族で見ていたときにそういうシーンに入ったときは…気まずかったな…。
フィオナが見ているのはきっとそういうシーンなのだろう。
…それじゃあ今近づくのは危険かもしれない。
ある意味脱衣所のときよりも危険かもしれない。
…でも、オレも男の子。
見たいものは…見たい。
ということで興味本位でオレはフィオナの座っている隣へと移動するのだが…。
移動して、フィオナの隣に来て、腰を下ろそうとして前を向いたそのときに固まった。
テレビを見て、その映っているものを見て。
音声が聞こえなかったのはおそらくあやかが気を利かせたのだろう。
…いや、気を利かせるというよりもこれは…ただ単に近所に聞こえたらまずいものだからだろう。
聞かれたらまずいもの。
この時間帯でも見る人はいるだろうけど…でもやはり。
他の人に見られてはまずいもの。
それ。
画面に映っていたのは洋画ではかった。
日本人が二人、映っていた。
男と、女の二人。
場所はどこかの部屋の中なのだろう、小さな明かりに照らされてる。
ドラマで出るような有名人ではない。
映画に出るような俳優でもない。
見知らぬ二人。
そして感じるのはどことないやらせ感。
プロではない、素人のような演技。
…っていうか、これ。
…非情に言いにくいもの。
…えっと。
…その…。
―…大人のビデオ、じゃね?
というかDVD。
まだ始まったばかりなのだろう、画面の中の女性と男性は激しく絡み合うようなことをしていない。
…その代わりに激しい口付けを交わしている。
するすると動き出す男性の手は女性の浴衣の下へともぐっていって…。
っていうか、何でこれを見てるんだよ!?
今日オレが学校で友人に借りてきたものだぞこれは!?
それを知っていて、なおかつこのテレビの操作ができるのは今この家にいる人物ではあやかとオレだけ。
そしてさっきまでオレは風呂に入っていたから…犯人はあやかしかいない。
あいつ、オレのことになるとことごとく見抜くからなぁ。
隠し事のほとんどは見抜かれているといってもいい。
さすが、双子というところか。
オレの考えてることは筒抜けか。
でもさ!よりによってこれはないだろが!!
何で招待客に大人なビデオを見せるんだよ!?
…どうせあやかのことだから
「リリムってサキュバスの最高位なんでしょ?で、サキュバスは淫魔なわけでしょ?それならニュースとかドラマとか見るよりもこっちのほうが好きなんじゃないの?ほら。これ見せてあげるからゆうたのところには二度と行かないでよね?」
…だろうなぁ。
どうせこう言ってこれを見せたんだろうなぁ…。
最悪だ。
唯一助かったのは映っているシーンがまだ本番じゃなかったこと。
もし本番をフィオナが見ていて、そこにオレが来たら。
興奮しているリリムの隣に男が来たら…。
…考えるのはやめよう。
とにかくオレは近くにあったリモコンを操作してテレビの電源を消した。
一瞬で暗くなる画面。
そして、静寂。
「…。」
「…。」
フィオナは何も言わない。
オレは何も言えない。
っていうか、何を言えばいいんだよ?
こんなとんでもない状況で何を言えばいいんだよ!?
これならまださっきの状況がマシだったと思えるぞ!
ちらりとフィオナを見ると真っ赤になった彼女が見えた。
唇に手を当て、何も言わない。
フィオナも同じようにオレをちらりと見る。
その目が合った。
黒い瞳と赤い瞳がともに映りあう。
「えっと、…その、テレビってすごいのねっ!」
気まずい雰囲気に耐え切れずにフィオナが口火を切ってくれた。
それに少しばかり感謝する。
この沈黙を打破してくれて。
「あ、ああ。まぁな。魔法がないからこうやって科学で補ってるんだよ。」
などとオレも適当に言う。
とにかく会話。
会話を続けなければ。
また沈黙に戻りたくはない。
あの沈黙になったらこんどこそどうにかなってしまいそうだ。
だからこそ、会話を続けなければ。
この状況から抜け出さなければ。
そこでオレは自分の手を見た。
手に持っているそれ。
ペットボトルに入ったジュース。
ああ、これがあるじゃん。
状況を打破するもの。
この空気を変えてくれるもの。
おそらくフィオナのいた世界じゃなかったであろうもの。
これなら…!
「そういえば、さ。」
あくまで冷静に、あくまで平坦に。
動じてないというように見せてオレは言う。
「こんなの、飲む?」
キャップをあけて、それを渡す。
「これは?」
「たぶんフィオナのいたとこじゃなかった飲み物。」
中世のような、西洋のような世界にいたフィオナ。
魔法のある世界で、科学が発展しなかったのなら。
こんなものはできなかったんじゃないかと思ってオレはそれを手渡した。
「そのままぐいっと。」
「ぐいっと?」
「そ。あ、でも刺激が強いからちょっとずつのほうがいいかも。」
フィオナはペットボトルのラベルを興味深そうに眺めて、オレの言葉通りそれを飲んだ。
ぐいっとは行かずに。
ちびちび、度数の強い酒を飲むかのように。
少量口に含んで彼女は目を見開いた。
「これ…シュワシュワする!」
「不思議だろ?」
炭酸飲料水。
シェイクすると勢いよく中身が噴出してくるあれだ。
反応からするにどうやらフィオナのいたところにはなかったらしい。
フィオナの反応を見てオレは嬉しくなる。
よかった。
驚いてもらえて。
ついでに、空気も変わって。
「ユウタは?」
そう言ってオレにペットボトルを渡そうとしてくるのだが…手で止める。
「いいよ、全部あげる。」
というか、もうフィオナが口つけちゃったからなぁ。
あやかとは大して気にしないけど…フィオナのように姉弟ではない女性と間接キスは気が引ける。
美人で魅力的な女性とじゃ…なんだかしてはいけないように感じられる。
内心嬉しかったりはするんだけどね。
「そう…。」
なぜだか残念がるフィオナ。
そのままペットボトル内の炭酸飲料水をちびちび飲みだした。
小さな喉が上下する。
白くて、美しいそれが。
ただ飲んでいるというだけでも絵になるような…。
…いけない、何を考えてるんだオレは。
そんな考えを振り払うかのようにオレは隣にあったクッション(フィオナが抱きしめているのとは違うもの)を抱きしめた。
―ここでオレは気づくべきだった。
フィオナに飲ませたそれが、フィオナのいた世界にないということに。
それがどれほど重要なのかに。
―オレら人間が嗜好品として飲むそれが、彼女にとって無害であるとは限らないことに。
―ルートチェンジ―
→リリムルート
11/08/14 20:47更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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