連載小説
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おかえりなさいませ、御主人様
装飾の少ない、それでもかなり上等な木々を用いて作られたドアを開けて私の御主人様は帰ってきた。この王国の王女様の護衛という仕事を終えて。
今回の仕事も大変だったのか服は土で汚れ、汗が額に滲んでいる。さらには癖のある黒髪は汚れた上にぼさぼさだ。この王国内で王女に敵対し、襲い掛かってくる相手はいないはずなのに。
その姿を見て内心ため息をついた。
王族の護衛が仕事とはいえただの護衛ならばこのようにぼろぼろになることはないはず。
またこの王国の頂点を一人で護衛する以上かなりの実力を持つユウタ様をぼろぼろにできる相手など数えるほどしかいないだろう。

ならば誰が彼をここまでしているのか。それは一人しかいない。



―ディユシエロ王国第一王女『レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロ』様



ユウタ様の護衛対象であり、彼を騎士団から引き抜いた張本人。この王国の頂点を張る王族の一人。その彼女に他ならない。

「…お疲れ様です、ユウタ様」
「ん。ありがと」

疲れた様子などおくびに出さないユウタ様だが疲れで体はボロボロだろう。
上質な生地でできた上着を脱ぐとそれを受け取る。刹那に香る汗と雄の強烈な匂い。それが染み込んだ上着を顔に押し付けたい衝動を抑え込む。
抑え込む。
抑え―

「…はっ」

垂れかけた涎を拭い邪な考えを抑え込みながら私は自身の変化に驚愕していた。
先ほどからユウタ様の疲れている感情がよく伝わってくるのだ。外見では取り繕っていてもその奥の、気怠くて甘いものが欲しいという願望すら理解できる。
呼吸、視線、仕草といったものと言葉で動くメイドとしてこの能力は目を見張るべきものだ。流石はメイドとして生きる魔物ということか。

―それと同時に痛感する自身の未熟さ。

これだけの感情をユウタ様は抱えていたというのに今まで私は何を見ていたのだろう。
好みがわかる。
感情がわかる。
疲れがわかる。
気持ちがわかる。
今まで以上に理解できる―だが今までの私では知る由もなかったものばかり。これでメイドと豪語していた自分自身が恥ずかしく思えるほどだった。

「―んっ?」

着替えの服を渡そうと手が触れたその時、ユウタ様の感情に小さな変化が現れた。すると闇色の瞳がこちらを見据え私の姿を映しだす。
頭の上から首を、肩を、胸を、腹を、腰を―全身を探るように映すと怪訝そうに首をかしげた。

「何かあった?」



―鋭い。



外見に違いはないし、魔法を使われたわけでもない。鏡に映せば普段通りの姿だというのにこうも直ぐに見抜かれるとは思わなかった。
流石は私が仕える御主人様。メイドとして鼻が高い。

「…はい。ユウタ様が留守の最中に魔物になりました」

メイドが御主人様に隠し立てをするなど烏滸がましいこと。故に私は聞かれたことを偽ることなく簡潔に伝えた。

「へぇ?」

しかし当然ながらいきなりの発言にユウタ様は目を点にした。
朝は人間だったものが突然魔物になりました、とは流石にいきなりすぎただろう。それにここは反魔物領。この王国内で魔物化などありえない事実。現にユウタ様も何を言おうか迷い、結局何も言葉にできないでいた。

「えっと……えっと?」
「…こういうことです」

対して私はくるりと回ってユウタ様に見せつける。
翻るスカートと共に揺れ出たのは大きな尻尾。靡く髪の毛に混じっているのは人ではない耳。手首からは羽毛が生えたその姿は紛れもない魔物のもの。



―『キキーモラ』というメイドの魔物の姿だ。



「…『キキーモラ』にございます。どうでしょうか?」
「え?あ、あぁ…うん。可愛いよ」

にっこりと微笑むユウタ様。そこからは戸惑いや驚愕を読みとれるのだがその中には純粋な賞賛の気持ちも籠ってる。優しく暖かな感情だ。
メイドという立場常平然としなければならないが思わず口元が緩んでしまう。このような言葉を贈られること自体まずない。貶しはされても誉める御主人様などいないからだ。

「…ありがとうございます」
「あ、うん。んで、聞きたいんだけどさ」

笑みを浮かべたままユウタ様が私に問う。その言葉は変わらぬ声色なのだが笑みと結びつかない冷たさを感じさせた。

「まさかオレの留守中にフィオ…いや、髪の毛の白い女性ここに来た?」
「…はい。ユウタ様とお約束なされた方ではないのですか?」
「いや、してないけど…そっか」

困ったように頭を掻くのだが言葉に込められた感情は決して困惑ではなかった。察することが出来たのは灯火の如く仄かなもの。だがその感情は混じりけのないただ一色のもの。
そしてユウタ様は言った。



「なら…フィオナがやったんだ…」



ぽつりと零した一言を聞いてぞっとした。
私が魔物になっていなかったら一言に込められた感情は悟れなかった。それほどまでにユウタ様の感情はわずかなものだった。
だけども感じてしまった感情はユウタ様が抱くものとは思えなかった。あまりにも強く、深く、重いそれは―


―それは怒りだった。


闇色の瞳の奥に燃え上がるのは紛れもない怒りの感情。それも尋常じゃないほどぎらつく憤怒そのもの。人間であったころの私ならば怪訝に思う程度だったが一度感じてしまえば恐怖せずにはいられない、狂気とも思えるほどに深くて濃いものだった。

「…ユ、ユウタ様」

私は極力平静を保ちながら進言する。

「…僭越ながら、私は自らフィオナ様に頼んで魔物にしていただいたのです」
「え?マジで?」

私の言葉に彼はきょとんとした表情を浮かべる。先ほどまでの憤りが冗談であったかのような突然の変化に戸惑ってしまうが何とか取り繕う。


それでも、先ほどの恐怖は偽りではなかった。


普段の雰囲気からは絶対に予想できないほどの恐怖。心臓に氷の刃を突き立てられるかの如く体温が急に冷えた。全身に針が刺さり、命を奪われるかのような気迫は幻ではなく現実だった。


―だけど、嬉しい。


裏を返せばそれだけの怒りを私のために抱いてくれるということ。
それだけ私に対して想ってくれるということに他ならない。
その事実がただ純粋に嬉しい。メイドとして舞い上がる様な姿は見せられないので我慢だが。

「涎垂れてるけど大丈夫?」
「…はい。申し訳ございません」
「いや別にいいけど。でも、なんでまたそんなことを?」

その言葉に全てを答えようとして―止めた。
ここでユウタ様のためですというのは厚かましいことこの上ない。何よりも彼は私の事を考えてくれる。そんな方が『貴方のためです』と言われれば責任を感じずにはいられないだろう。
メイドたる者御主人様の都合、心情を踏まえた上での発言も時には必要だ。隠し事をするのはいい気がしないが迷惑をかけぬように気配りもまた必要だ。

「…身勝手な行動をお許し下さい。メイドであっても御主人様には話せぬ事情があるのです。どうしてもと仰るならばお話ししますが?」
「そっか。いや、言いたくないなら何も言わないけどそれって大丈夫なの?一応ここって魔物を敵視する国なんだし」

フィオナ様と同様のことをユウタ様は言った。
この国に住まう者ならば誰もがそう思うことだろう。それが常識であり、普通であるのだから。魔物は殺すべき存在、そのような場所で魔物になるなど異常としかいえない自殺行為。


だが、それでも行う価値は確かにあった。


「…そのことにつきましてはご心配なく。御主人様であるユウタ様にご迷惑をおかけするようなことは致しませんので」
「しないって言われてもどうやってさ。一応レジーナとかアイルとか勇者の皆は魔物には敏感だろうし。中には本気で殺しにかかる奴もいるんだけど」
「…ご安心下さい。私はメイドです。万能である、ユウタ様のメイドです」

私は自分の胸に手を当てた。心なしか少し大きくなったような気がする。魔物になったのだから自分の体に変化がでるのは当然だが、どうやら女性らしい部分への変化は顕著なものらしい。
私は魔力を練り上げ体に纏わせ、その場でくるりと回る。すると緑の光が体を包み、収まる頃には私の姿は魔物になる前のものへと変わっていた。

「…このように魔法を用いて自分の姿を偽ることなど容易いことです。当然体臭や変化してしまった魔力も薬で誤魔化すことが可能です」
「…」
「…流石に勇者には劣りますが、並の魔法使いになら遅れを取ることもありません。対面するならともかく外出程度ならば何も問題はありません」
「メイドってそこまで出来るもんなの?」
「…御主人様の身を守るのもメイドの勤め。身命を賭して仕えるのがメイドの義務。そのためには魔法も戦闘技術も会得しておくのは当然です」
「それもうメイドの域を超えてるんじゃないかな」
「…これこそがメイドです。メイドとしてのあるべき姿です。言うなれば『メイド・理想』です」
「語呂悪いって。でも自分で決めたんならオレからは何も言わないよ。オレの前以外の時は気を付けてね」

納得したように小さく笑ってはいるが心配している感情は本物だ。それだけユウタ様は私の事を考えて下さっている。メイド冥利に尽きるとはこのことだろう。
メイドを道具のように扱う御主人様は珍しくない。性欲の捌け口や愛玩動物な待遇もしばしあるという。酷ければ腕を切り落とすことも、二度と立つことすらできないこともあるらしい。
無論私の前の御主人様はそのようなお方ではなかったが扱いはただのメイドに過ぎない。

ユウタ様が異常なだけである。だが、そんな異常さがとても心地よい。

「…ありがとうございます」

そんな御主人様に私は深く頭を下げるのだった。













だが、私が魔物になったのはユウタ様に気にかけてもらうことが目的ではない。そもそも御主人様に心配させること自体烏滸がましい。
元々私がキキーモラとなったのはユウタ様へ奉仕のためでありさらなるメイドへ向上のためである。


―そして奉仕の中には当然『そういうこと』も含まれている。


「…ユウタ、様」
「ん?何?」
「……」

従うことを使命とするキキーモラ。主人の意に沿うことを生き甲斐とし、御主人様が喜ぶことが自身の喜びとなる。それはまさしく私の求めたメイドそのもの。
だがその性格は魔物というには相応しくないものでありながらも―当然魔物らしき性質を持ち合わせている。
人間よりも各器官が発達した魔物の体はユウタ様という存在を全身で感じさせてくる。下腹部を疼かせる香りに瞳に映る鍛えられた肉体。私を気遣ってくれる感情や魔物になっても変わらない態度。



―だがその奥に燻る感情は確かに感じ取ることができた。



笑みという仮面の下に隠した黒くてどろどろしたそれ。男性女性共に持ち合わせているものであり生物が子孫を残すために不可欠な欲求。

すなわち―『性欲』

フィオナ様曰く、キキーモラとは御主人様の望むがままに淫らな奉仕を行う魔物。その仕草や雰囲気は男性を誘い、欲求を刺激する存在だという。
ならばキキーモラである私もユウタ様に押し倒されてうふんであはんであへあへなこともありうるということだふへぇへへ…。

「エミリー…?」
「…はい」

怪訝そうに首をかしげるが私にはわかる。その視線が胸へや腰へと向けられていることを。
見られている。他の誰でもなくユウタ様だけに。
その事実だけでも私の胸は高鳴り下腹部から疼きが広がる。

―私を欲しがっている。

疑いようのない黒い欲望だがまだまだ溢れるほどではない。年相応に興味を抱き気になる程度。
だが、それでも自然と頬が緩んでいく。触発されるように私の体も反応を示したのか下着が湿り気を帯びていった。
胸の高鳴りが抑えきれない。肌が熱を帯びていく。呼吸も乱れ興奮が滲みだしていく。湧き出した期待と応じるように火照った体。雌の本能が雄の体を受け入れようとしているのだ。


―…すごく、犯されたい。



―…いや、むしろ………犯したい。



何とも淫らな考えだが次から次へと溢れだす。流石魔物の体というべきか欲望に忠実で理性に無情だ。
メイドの私から襲い掛かるなど言語道断なはずなのに今すぐ飛び掛かってしまいたい。それは魔物の本能かはたまた私の潜めた情欲なのか。
どちらにせよユウタ様を欲していることに変わりない。

「エミリー…」
「…はい」

肩に置かれた手が頬へ伸び掌が触れる。固くて、だけども温かい男性らしい感触に目を細めると親指が唇へと伸びて―




「―涎、垂れてるよ」



いつの間にか垂れていた涎を拭ってさっさと離れて行ってしまった。

「……え?」

抱いたのはほんの一瞬だけ。
見えたのはただの一刹那のみ。
後は何事もなかったかのようにユウタ様は私の傍から離れていく。困った子供を相手する様に笑いながら、シャワーを浴びるらしく脱衣所へと向かって。

「…それ、だけ…ですか」

残された私はあまりのあっけなさに肩を落とす。
予想はしていた。今まで『そのような命令』をしてこなかったユウタ様がいきなり襲い掛かってくるわけがなかった。
だが、一度や二度で落ち込むほどメイドの心は柔ではない。
メイドとは御主人様に尽くす者。尽くし方など御主人様の傍ならいくらでも存在する。
例えば―





「―…お背中流させて頂きます」



「おわっ!?」

ユウタ様の後を追って入った脱衣所で私は頭を下げていた。

「え?何っ?」
「…心身ともに成長を遂げた『メイド・作法』をご覧いただきたく思いまして」
「いや、そういうの全然いいんだけど!」
「…良い、のですね。ではまずはお召し物を」
「遠慮するって言ってんの!」

既に上を脱ぎ終え部屋の明かりに肌が晒されているユウタ様。
筋骨隆々のそこら辺の騎士と違った細い身形。無駄な肉は全てそぎ落とし、しなやかな筋肉に包まれている。僅かに浮き出た肋骨や割れた腹筋が何とも―艶めかしい。
そう感じてしまうのも魔物故―いや、相手がユウタ様故だろう。
だからこそもっと先へと到達したいのが魔物の性。もっと奥へと進みたいのがメイドの向上心であってつまりはぁはぁ。

「…お召し物をこちらへ」
「いや、自分で脱げるから!ベルトに手を掛けなくても大丈夫だからっ!」
「…では下着の方は私が」
「やめて!」

じたばたと嫌がるユウタ様。加減された力だがそれなりに強く、私が容易く抑え込むには難しい。
仕方なく一端離れると私は恭しく頭を垂れた。

「…御安心下さい。ユウタ様が嫌がることなどするはずがありませんので」
「…………なら涎止めよっか」
「…あ。これはお見苦しい所を」

口元を拭って顔を上げる。すると先ほどまでいたユウタ様の姿は消え、代わりに音を立てて風呂場のドアが閉められた。後に続く軽い錠の音。それと曇りガラスに移りこむ大きな棚。

「…」

キキーモラでなくとも察せる程の拒絶の意思。少々自分の行いが行き過ぎていたことを知る。
流石に押し付けがましかったらしい。魔物になったことで舞いあがりすぎたことが原因だろう。自重せねば。
ユウタ様が出てきたときのためバスタオルと寝巻を用意しその場を後にする―はずがあるものに目が留まった。

「…!」

乱雑に脱ぎ捨てられた衣服を突っ込んだ洗濯籠。今日一日つけていたせいでたっぷりと雄の匂いを染み込ませた、ある布地。

「…ふぇへへ」

どうやら自重するのはもう少し先になりそうだ。












御主人様の健康管理はメイドの務め。時と場合、そして趣味嗜好を考慮した上での行動は当然のことだ。
ユウタ様は種類問わず甘いものが好き。
そして風呂上りで程よく体を冷やさぬもの。
なので今出すべきは―程よく冷ました甘い香りのするハーブティー。

「…ユウタ様。こちらをどうぞ」
「ありがと」


短い言葉を返しカップに口を付けて一気に飲み干す。
読み取った感情に嫌悪はなし。嘘も偽りもない言葉に安堵する。



―だが、それ以上に求めていることはない。



キキーモラになろうとそれは変わらない。当然だ、変わったのは私だけだから。
ユウタ様は依然としてメイドを必要としていない。なぜなら全て自分で済ませられるから。人の手を借りるくらいなら自分が苦労すればいいと考えるお方だからだ。



―それでは魔物になった意味がない。



「それじゃあエミリー。今日はもう十分だからあとは大丈夫だよ。また明日お願い」
「…ユウタ様」

これ以上の事は自分で済ませるつもりなのかユウタ様はにこやかにそう言った。当然ながら感情に一切の悪意はない。
詰まるところこれ以上私の役立つことはない。後は寝るだけなのだから帰って休んでくれというお達しだ。


ならばその言葉に従う―のは『三流メイド』


例え御主人様の感情が理解できても時にメイドは進言しなければならない。
それはメイドのためだけではない。御主人様のため。
未だに私に隔てりを作るユウタ様のため。

私をメイドとして見てもらうため―『遠慮』という抱くべきでない壁を超えるために。

「…私はメイドです。御主人様があってのメイドです」
「え?あ、うん。そうだね。そうだけど…どうしたの?」
「…メイドというものは御主人様の命令に従ってこそ、御主人様の意向に沿ってこそですが、当然ながらそれだけではありません。御主人様の体調管理や鬱憤晴らしの相手になるのも当たり前のことなのです」

欲求があるのはわかる。
それでも理性が上回っている。
それ以上に常識が抑え込んでいる。
そして、私はただのメイドとしか思っていない。


決してその先へ踏み込むことがないようにと―最初の時から何も変わっていない。


「…だからこそ、なんでもお申し付けください。もっと、正直に。私にしたいことを仰ってください。私はユウタ様を嫌うことなど絶対にありません。むしろ喜んで尽くさせて頂きます」

そう言って頭を下げる。この行為が出過ぎた真似だと知りながら。

「…それとも、やはり私などではユウタ様のメイドは務まらないのでしょうか?」
「あー」

我ながら卑怯なことを言ったと思う。
ユウタ様の性格を理解してあえて身を引く言葉を紡ぐ。聞けば困ることを見越した上でだ。
胸中に渦巻く、深い困惑。
肌に感じる、隠せぬ焦り。
そこに混じった、優しい感情。
嫌っているわけではなく、苦手ということでもなく。だけどもやはり一線踏み止まった心を抱くユウタ様は頬を掻いた。

「それじゃあ折角だしマッサージでもしてもらおうかな」
「…承知いたしました」

それでもやはり優しく命令を下さるユウタ様に私は深々と頭を下げるのだった。










「…では失礼します」

ベッドに寝転んだユウタ様の背中へと私は跨った。見下ろせば寝巻である黒い『ユカタ』を肌蹴て背中を晒している。
この街どころかこの大陸では珍しい形式のそれは帯一本で容易く肌蹴る。まるでバスローブだが、黒髪黒目なユウタ様にはバスローブよりこちらの方がよく映える。

「………」
「?エミリー、どうかした?」
「…いえ、なんでもありません」

帯を引っぺがせば裸となる。なら、もう少し脱いでいただこうか……なんて考えを捨て去った私は改めてユウタ様の背中へと手を添えた。
体を傷付けないように優しく、しかし十分ほぐせるように体重を掛けながら。ついでに温めるように掌を押し付ける。

「―…っ」

伝わる筋肉の硬さは決して鍛えているだけではない。どうやら今日一日でもかなりの疲れを溜めたらしい。
だが、これはいつもの事。いくら護衛の仕事とはいえ毎日これほどの疲れを溜めてこられてはいずれ体を壊してしまう。注意して私が支えなければ。

「んっ」

零れ落ちる気の抜けた声に一瞬手が止まる。だが、すぐに再開させ背中の右あたりを指で揉み解す。

「あふ…」
「……お、お加減は、よろしいですか?」
「ん、すごくいいよ」
「………………」
「っ……く、ぁ…」
「………………………………」

普段聞けぬ声と絶対的な信頼を任された状況に頭の中が揺さぶられる。まるでいけないことをしているようだ。
これはいけないと別の事を考えようと努める。だが、この状況、よくよく考えてみれば好機でもある。
その気になれば魔物の力で抑え込める。魔法を使えば確実だろう。背中に跨られた相手から防御するのは難しく、さらにユウタ様はお疲れの様子。虚をつき、帯を取っ払い縛り上げてそのまま―


                  

「?何か垂れてきてるんだけど」
「…ローションです」

だらだらと零れていた唾液を慌てて拭う。
誘っているのかと思われる服に妖しくも切ない声。火照った肌に石鹸と交わる雄の匂い。惑わされても仕方ないが、メイドである私としたことがはしたない。先ほど痛感したばかりだというのに次から次へと黒い感情が溢れだして止まらなかった。
これも全て魔物故だろうか。それとも私が未熟だからか。
呼吸を極力抑えながら脇腹に手を伸ばし、疲れを揉み解すように力を込めてあわよくば―

「…?」

突然流れてくる感情が止まった。まるで小川の流れが堰き止められるように。
確認しようと体を寄せて顔を覗き込む。するとそこには瞼を閉じて穏やかに寝息を立てるユウタ様の顔があった。

「…眠ってしまわれたのですか」

いつもならば絶対に見せることはないだろう。私が来るころには起き、私が戻るまでずっと起きているユウタ様らしくない。
だが、らしくないからこそわかる。それだけ私を信頼してくださっているということが。
決して私の事が嫌いなわけではない。
私の命を救ったことに後悔しているわけでもない。
だが今の今までそんな素振りもなければ好意もあまりなかった。私が歩み寄ることでようやく垣間見える程度。キキーモラとなっている今ならさらによく理解できる。

「…ユウタ様」

眠ってしまったユウタ様へと顔を寄せる。名を呼ぶが起きる気配はない。それだけ疲れているのだろう。睡眠も少しずつ深くなっていく。
このままでは風邪をひかれてしまう。明日も仕事があるというのにそれでは大変だ。
ならばメイドとして何をすべきか。御主人様が体を冷やすかもしれない姿で眠ってしまわれた際にすべきこととは何か。



―…温めなければ。



「…失礼します」

届かない一言を呟いた私は跨った姿勢のまま上体を倒した。起こさぬように細心の注意を払いながら両腕を体へと回す。足もまた同様に。
そして肌に伝わってきたのは女性にはない固い肉の感触だった。私よりも高く、それでいて心を安らげ情欲を誘う異性の体温だった。

「…はふっ」

頬を押し付け瞼を閉じる。
年下とはいえ大きく逞しい男性の背中。引き絞られた肉体の上で私ははしたなく体を震わせる。
メイドが御主人様の上で好き勝手にするという背徳感。
御主人様の知らぬ間に全身で味わっている恍惚感。
普段なら絶対にしない行為であり、いつもなら確実に拒否される振る舞いだというのに…。

ああ、なんと素晴らしき免罪符!やましい気持ち一切なくユウタ様の体に触れることができるなんて!

この調子でどこまで行ってしまおうか。こんな好機はまたとないのだからもっとより深くまで―

「…っ」

そこまで考えて自分の頬を思い切り叩いた。
なんという体たらく。魔物となった自信からか、はたまた押し殺した本心が露わになったか。ユウタ様の心情が理解できるようになったからと舞い上がっていた。まるでおもちゃを与えられた子供のように。

それが、メイドか。

自分の感情を優先して御主人様に苦労を掛ける。無防備な姿を晒して下さっているのに信頼を踏みにじり無茶苦茶に蹂躙しようと手を伸ばす。

これで、メイドか。

まるで縛り上げた生娘を犯す下劣な輩と変わりない。
金品をちらつかせ貧困な者を顎で使う下種な者と大差ない。
自由を奪い、好き勝手蹂躙する。それがメイドであっていいはずがない。


―私の求めた『メイド』からは程遠い!



「…私も、まだまだですね」

頬に響く痛みにため息をつき、起こさぬように細心の注意を払いながらユカタを着せて毛布を掛ける。
眠ってしまったユウタ様。その寝顔はあまりにもあどけなく、あまりにも無防備すぎる。
だからこそ私が護らねばいけないというのに襲いかけるとは何事か。自分の未熟さに呆れてしまう。

「…お休みなさいませ、ユウタ様」

眠りへ落ちた御主人様へ深く頭を下げて部屋を出て行った。
16/01/17 21:06更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということで堕落ルートメイド編第二話でした
キキーモラになり順調に頭の中がそっちへ流れていくエミリーです
元々素質があったとはいえ度々暴走しかけてます
それでも何事も完璧にこなせる万能メイド。しかし、有能なほどどこかアレなのは皆同じですw

次回はお給料をもらったエミリーのお話です
初めて貰うお給料を前に彼女は一つの憂いを抱き、主人公を誘い出して…

ここまで読んでくださってありがとうございます!!
それでは次回もよろしくお願いします!!

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