驕らぬ強さ
冷たく肌を突き刺すような冬場の風に枯葉が揺らめく。既に冬も中盤となるころだというのに木の葉が残っているのは珍しい。その一枚を見つめ、私は静かに呼吸を繰り返す。姿勢を崩さず、背筋を曲げず、ただゆっくりと息を吐き、そして吸う。するとはらりと木の葉が落ちた。ただ重力に引かれ右へ左へ揺れる木の葉。それが目の前に来た瞬間。
「…ふっ!」
空を切り裂く拳を突き出す。すると鋭い一撃は木の葉を真っ二つに切り裂いた。二つに裂けた木の葉は別々の地点へと音もなく落ちる。
「すごい…!」
自分でもわかるほど充実している。普段以上に万全な体調なのは先日購入した髪飾りのおかげだろうか。体は軽いし、疲れもない、さらにはなんでもできるような気分になれる。
琥珀で作られたような黄褐色、そこへ加えた雷のような黒い筋。まるで虎みたいな模様の髪飾りは私の左頬に垂らした三つ編みをとめている。
達人の使っていた髪留め。そんなものをしただけで同じ領域へと至ることはできないが、せめてその人と同じ目線になればなにか進展があるかと思ったが予想以上の成果だ。その反面禍々しい魔力が体を蝕んでくるが稽古終わりには外しているのでこれならまず魔物にはならないだろう。
これで強くなる可能性が見えてきた。
ようやく自覚できるほどの力の実感がわいてきた。
―これならユウタさんに勝てるかもしれない。
でも。
「…お腹すいたぁ〜」
体を動かせばお腹が空くのは道理。それは達人と同じ目線に立とうと同じこと。もしかしたら達人は空腹すらコントロールできたのかもしれないが私には到底無理なようだ。
空腹を満たすために何を食べようか。食べるためにはまず食堂に行くのが手っ取り早い。だがこの時間、王宮内では夜間見回りの騎士や護衛部隊の人しかいない。食堂に行ったところで誰も作ってくれる人はいないだろう。料理長のグストさんも既に休んでいるはずだ。
だからといって自分の部屋に行ったところで食材なんてものはない。
…仕方ない。
「食堂行こっと!」
作ってくれる人はいないのなら私が作るしかない。勝手に使っては怒られるがバレないようにすればいい。せいぜいパンの一斤…いや、二斤程もらえば空腹も紛れるだろう。そう考えて鍛錬場から出て廊下を歩いていたそのとき、曲がり角から誰かが出てきた。
夜の闇にとけ込みそうな黒髪と同じ色をした服と、それでもより一層暗く濃い色をした二つの瞳。見慣れているその姿を間違えるはずもない。
「あれ、ユウタさん!?」
「んん?リチェーチ?どうしたのさ、こんな時間帯に」
普段とはまた違った薄い服は動き易さを考慮してだろう。香ってくるつんとした汗の匂いや額に滲んだ玉の汗を見るについ先ほどまで運動をしていたように見える。もしかしてこんな時間までレジーナ様の護衛をしていたのだろうか。
「こっちの台詞ですよ!そんなに汗だくで何してたんですか!」
「鍛錬してた。一日でもさぼると体力って落ちちゃうからね」
「ユウタさん結構熱心ですね!」
「鍛錬って一日でもサボると取り戻すのに三日も掛かるって言うからさ」
「み、三日もですか…!」
「実際のところ休息取らなきゃ体壊すけどね」
からから笑いながら張り付いた髪の毛を弄るユウタさん。額に張り付いた黒髪や汗の滲んだ肌が月光の下でやたらと艶っぽく映るのは彼が見慣れぬ顔立ちだからか。よく目を凝らすと体から湯気が立ち上っている。冬場の空気のせいもあるがどれだけ激しい鍛錬をしていたのだろう。
やはり強いのならば相応の努力と鍛錬を積み重ねているということか。レジーナ様が目を付けるというのだから血反吐を吐いた回数も私より多いのかもしれない。
だが、話し込んでいても紛れない空腹。早く何かをいれろと言わんばかりにお腹の虫が喚き散らしそう。流石の私もそんな情けない喚き声を聞かれて平然としていられるほど神経は図太くない。
そんな私の感情を読み取ったのか顔を覗き込んできたユウタさんは言った。
「どうかしたのリチェーチ?あ、もしかしてご飯、食べたかったり?」
「あぅぅ…そんなことありま」
せん、と言い切るよりも先にお腹が返事をする。その声に口に手を当てくすくす笑うユウタさん。なんて正直なのだろう、私の体。自覚できる程顔は赤くなっているというのにお腹の方は作ってくれといわんばかりに喚きだす。
「それならうち来る?この時間帯じゃ王宮の食堂なんて誰もいないだろうし、食材減ってたら向こうも困るだろうし」
「へぇ!?ユウタさんの部屋にお邪魔していいんですか!?」
「この前買っておいた食材もまだまだあるからさ」
そう言えば以前ユウタさんと訪れたお店の事を思い出す。一体何のお店なのかはわからないが今私の三つ編みをとめている髪飾りもそこで売っていた。
だが私も一人の人間だ。それなりの恥もあるし、常識だってあるつもり、勿論遠慮もある。普段からずっとユウタさんにお世話になっているというのにこんな夜中まで世話になっては申し訳ない。
「で、ですがつまむ程度ですから」
「つまむ程度で足りるの?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべるユウタさんにお腹の声が否定した。
あぁ、なんて正直なんだろう、私の体。
ユウタさんの住まう部屋は王宮の中ではそれなりにいい部屋だ。元々別世界の人間であり、勇者候補という立ち位置にいるためか王族もそれ相応の待遇を用意しているらしい。また、今では立派なレジーナ姫様専属護衛部隊隊長(ユウタさん一人だけだが)ということで給料もいい。それでも部屋の中に無駄に豪華なものが置かれていないのは彼の趣味にそぐわないからだろうか。
「ほぁ〜…」
初めて見る男性の部屋。元々装飾が豪華な部屋であるがそれ以外に目立つものはない。無駄に豪勢に飾られた壺や絵画なんてものは一つもなく、せいぜいレジーナ様の護衛役としての制服や寝巻用の服が取りやすい位置に引っ掛けられている程度だ。彼は高級品は好まない性格なのだろう。
「何か食べたいものある?」
「ユウタさんが作ってくれるものなら何でも!」
「そういうのは結構困るんだよね…」
軽くシャワーを浴び、休日に着込んでいた黒服に身を包んだユウタさんは苦笑しながら頭を掻いた。湿り気を帯びた髪の毛は部屋の明かりを艶やかに反射し、普段とは違った雰囲気を漂わせる。
「んじゃ、普段食べてるパンやらパスタとオレが持ってってる米、どっちがいい?」
「コメで!」
「了解。すぐできるから待ってて」
私の言葉に頷くとキッチンへと足を進めていくユウタさん。いつの間にか身に纏っていた黒いエプロンがやたらと似合う。料理ができるというのだから元々家庭的な人なのだろう。そんなユウタさんの後ろ姿を私は静かに見つめる。
重心、足運び、呼吸、振る舞い。料理を作るという些細なことだがそれでもわかる人ならわかる。彼が普通の人間よりもずっと鍛えているということに。
何気ないしぐさでも重心はぶれておらず、背筋は常にまっすぐでまるで鉄柱でも突き刺さっているかのようだ。足跡は一直線上並ぶようにつけられており、物音は少しもしない。呼吸音は小さく、聞き取ろうと思っても難しい。全てが全て、常人には不可能な行為だ。
どうやって私に勝ったのだろう。
実力があるのはよくわかる。その実力が私と並ぶかそれ以上なのも理解できる。でもどうやって私が負けたのかはわからない。
それだけ実力差があったのか、それとも差を感じさせないほどの隠し玉でもあったのか、そのどちらともなのか。確かめようにもユウタさんはもう一度勝負を受けてくれはしないだろう。元々私と試合をしてくれたのはレジーナ様に言われたからであり、やったのも渋々だったのだし。
そんなことを考えていたら料理ができたのかユウタさんがこちらを振り返った。
「はい、できたよ。この前買った自然薯をすりおろして天つゆで味付けしただけのとろろがけご飯」
「ジ=ネンジョ?人名ですか?」
「さっき人の体をすりおろしてるように見えた?」
呆れたような声色で苦笑を浮かべながらユウタさんが持ってきたのはお皿とは違う大きめの食器だった。中には湯気を立ち上らせるコメがいっぱい敷き詰められその上に白く粘つくもので覆われ、そこへテンツユという液体がかけられている。見たところ派手さはなくシンプルな料理だが空腹状態の私にはこれ以上ない御馳走だった。
「頂きます!」
「どうぞ、召し上がれ」
差し出されたスプーンを取ると大口開けてかきこんだ。口内に広がるテンツユのちょうどいいしょっぱさでご飯が進み、かきこむと喉越し抜群なとろろで流れ込んでいく。単調な味と食感だが決して飽きるようなものではない。程よく舌を刺激し、もっと欲しいと思わせる食感にお腹を満たしていく充足感。それらをまとめて一言で表すなら。
「とってもおいしいですっ!!」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
私の言葉にユウタさんは向かいで嬉しそうに微笑んだ。
半分ほど食べ終わるとユウタさんが私の傍にカップを置いた。湯気の立ち上るそれは紅茶というよりももっと緑っぽい香りを漂わせる。スプーンを握った手を止めて私は覗き込んだ。
「…これは?」
「緑茶。紅茶よりもちょっと苦い飲み物だよ。食べ終わったら飲んでみな」
すぐさま残り半分をかきこむとリョクチャというお茶に息を吹きかけ冷まし、流し込む。程よい熱と口内から突き抜けていく緑の苦み。紅茶とはまた違った香りや味だけど嫌ではない。先ほど食べたご飯の味を洗い流しながらも深い味わいを残していく。苦いが嫌ではない、ほっとするような飲み物だった。
「はふぅ…♪」
空腹は満たされ、気分も落ち着いた。刺すような冬場の空気とは打って変わって温かな部屋の空気に心が安らぐ。
うん、満足。後はシャワーで汗を流して眠れれば上出来だ。その際この髪飾りも外さなければ。
だがすぐ戻る様なせっかちさは私にはない。食休みをしつつ微睡むぐらいがちょうどいい。何事もゆっくりのんびりだらけてる方が私の性にあっている。髪飾りもまぁ、後でいいだろう。
「…」
ふと視線を向けると目の前ではユウタさんが緑茶を静かに飲んでいる。鍛錬を終えたというのにそんなことを微塵も感じさせないほどゆったりとした雰囲気で。
…そう言えばどうしてこの時間帯まで鍛錬をしていたのだろうか。レジーナ様に付き合っていたのならまだしも彼は一人だけだった。なら、今日は既にレジーナ様の護衛を終えたのか、休日だったのかのどちらかだろう。
でも一人だったのはどうしてだろう。鍛錬なら騎士の人と共にしたほうが効率的にもいいと思うのに。
思いついたことは放っておくともやもやして返って気になってしまうもの。それなら直接聞いた方が早いだろう。この程度なら嫌がられることもないだろうし。
「ユウタさん、どうしてあんな時間帯にいたんですか?ほかの騎士とともに鍛錬すればいいのに」
「…」
私の言葉に小さく息を吐き出したユウタさんは制服の掛けられたクローゼットから一つの剣を持ち出してきた。ここでは見習いの騎士たちに渡される鍛錬用の刀剣。私もかつては持っていたものだ。
「これ見て何か感じる?」
「…」
ユウタさんの言葉に剣をじっと見つめる。するとわずかだが確かに魔力を感じた。主に剣の柄の部分から。
魔法がかかっている?
刀剣に魔法を付与して威力を増加させるのはこの王国でもよくされているが鍛錬用の刀剣にする意味はない。威力が強くなりすぎては鍛錬する際大怪我を負うことになるからだ。
だが、これはどういうことだろう。本来魔法は刀剣の刃部分に付与するというのにこの剣は柄にかけられている。離れないように吸着魔法でもかけたのだろうか。
私は確かめるように手を伸ばすとすぐさまユウタさんに掴まれた。
「わっ!」
「触らないで…ほら」
近くに置かれていた紙を押しつけ、離す。すると押しつけた部分が黒く焦げ、白い煙を上げていた。
「っ!」
物体に熱を持たせる基本的な魔法。この王国なら台所のコンロ代わりに用いられるほど普及しているし、魔法を知っている人間なら誰もが使えるようなものだ。
それを剣の柄にかける。その意味は嫌がらせに他ならない。魔法が使える人間なら解くのも容易いが、魔法を使えないユウタさんへするということはあまりにも陰湿すぎる―
「いじめ、ですか…!?」
「そ」
心底つまらなそうにため息をつきながらユウタさんは手元の剣をたたいた。
「オレ騎士団の連中から嫌われてるからねぇ。今はレジーナの護衛やってるけどここに来た当初はこんなこと当たり前だったよ」
「そう、ですか…」
別世界の人間はあまり好かれない。というのも勇者候補になるためには並大抵ではない努力を、血反吐を何度も吐くような鍛錬を必要とするからだ。
勇者となるためには一軍と渡り合える戦力を有すること。それがこの王国の絶対的な四つの栄光となり、希望の光となるための最低条件。
水を操る軽薄な女たらし。
炎を司る最年少の魔導士
土を支配する生粋の魔物嫌い。
風を用いる不死身の女嫌い。
今君臨する四人の勇者は誰も彼もが一軍以上の戦力を有している。大型殲滅魔法すら一人で発動するほどでもはや化け物と呼ばれるほどの実力者達だ。
だが別世界から来た人間は特別な能力を神から授けられると聞いている。それは不老不死の再生能力だとか、未来を見通す力だとかさまざまなものらしい。その能力のおかげで並大抵の努力をせずに、血反吐を吐くような鍛錬もすることなく勇者候補へと至ることができる。
だから皆好まない。
騎士団としてがんばりながら誰もが目指す四つの希望。遠く届かないその光へと近づくためには並ならない苦痛を伴う。そうまでして勇者となろうとしているのに別世界から来た人間は何もしてないのに光に届く位置にいる。それが皆我慢ならないのだろう。
「…っ」
でも私は知っている。ユウタさんがどれだけの血反吐を吐いてきたのかを。どれだけ骨を砕き、どれだけの苦痛を味わったのかを。それが私には計り知れないものだということを。
レジーナ様の専属護衛をたった一人でつとめるのがどれだけの実力がないと無理なのか。私ですら護衛部隊の隊長という位置で止まっているのにその先に至るにどれだけの力が必要なのか、私にはよくわかってる。
だが、その実力をなんで彼は誇示しないのだろうか。
一度完膚なきまでに叩きのめせば騎士団とてもう手は出さないことだろう。レジーナ様の護衛を一人で勤め上げている実力はそれこそ勇者候補と呼ぶのに相応しい。それなら騎士団とて相手にするにはたやすいこと。
「騎士団相手に一度試合でも申し込んだらどうですか?ユウタさんなら簡単に勝てると思いますが」
「いいよそんなこと。むやみやたらに力を誇示したところであんまりいい結果にならないからね。それで一度、痛い目みちゃってるからさ」
自嘲気味にユウタさんは笑った。
その言葉から、その笑みから、一度経験があるのだろう。それは思い出したくもない苦々しい事だったのか誤魔化すようにカップをつかんでリョクチャを飲み干した。
「だから嫌われたところで今更だし、今はレジーナの傍で護衛やってるから騎士団の連中とはもう関わりもないからどうでもいいよ」
「…っ」
「嫌われることにはもう慣れてるからさ」
悲しいことを言っているのに表情は相変わらずの笑みだ。まるで仮面のようにはりついた無機質な笑みで、見ている側としては痛ましく思えてしまう。
嫌われることに慣れている―だから彼は強いのだろうか。
嫌われたところで何も感じない―それでも彼はつらくないのか。
果たしてそれで―いいのだろうか。
「……………私は好きです」
「ん?何?」
「私はユウタさんのこと大好きです!!」
私はテーブルを強く叩いて立ち上がった。隣のカップが転がり中身が零れ、椅子が後ろに倒れるのも気にしない。
両手でユウタさんの両腕を掴んで引っ張った。突然のことで目を見開く彼を一気に引き寄せ顔を寄せる。
真っ直ぐ見つめる闇色の瞳。吸い込まれそうな不思議な雰囲気を感じながらも私は宣言する様に言った。
「騎士団の人達が嫌いだとしても私は!私は、ユウタさんの事大好きですからっ!!」
「…ぷっ」
私の言葉に目を丸くすると口元に手を当て、そして吹き出した。
「わ、笑わなくても良いじゃないですかっ!!」
「いやぁまるで親戚の子供たち相手にしてるみたいでさ」
「私は子供じゃありませんっ!少なくともユウタさんよりは年上です!!」
「知ってるよ。知ってるけど…」
大きく笑うことはしなかったがおかしそうにクスクス笑う。だけどその頬は赤く染まり、どことなく照れているようにも見えた。
そっとユウタさんの手が延びてくる。私と同じぐらいの大きさで、だけどもずっと堅くて暖かい手が。
「…ありがと、リチェーチ」
「あぅ…っ♪」
ぽんぽんと幼子を相手にするような手つきでユウタさんの手が私の頭を撫でていく。
少し恥ずかしい。だけど、暖かい。
ちょっと照れてしまう。でも、落ち着く。
優しい手つきに自然と瞼が閉じてなすがまま撫でられる。子供として扱われているようなのだが不思議と嫌な気持ちにはならない。むしろもっと撫でてほしいと頭を自ら差し出した。
「んんん〜……♪」
体がだるい。きっと先ほどまでの鍛錬と食事でお腹が膨れてしまったからだろう。それにここは暖かい。突き刺すような冬の寒さなど微塵も感じられない。椅子に座り直すと眠気は私の意識を引っ張り暗闇へと落とそうとする。さらには頭を撫でてくれる優しい感触。ちょっと堅くても暖かなそれが追い打ちをかけ、閉じかけた瞼をさらに重くする。
普段からさぼって眠ることなど良くあること。何よりこれほど心地良い感触を味わいながら眠るなというのは無理なことだ。
「…ぐぅ」
ごんっと額に感じる堅いテーブルの感触など気にもならず私の意識は闇へと引きずり込まれていくのだった。
「…ぐう…ううん?」
瞼に突き刺さってくる日の光に眉を潜める。逃げるようにベッドの枕に突っ伏しながらぐしぐしと擦り付けると普段以上に柔らかい事に気づいた。さらには呼吸をする度に香る不思議な香り。私は、香水はつけないのにこれはいったいなんだろう。
「…ぐぅ」
その香りは嫌なものじゃない。どこか体をざわつかせるような不思議なものだが心地良い微睡みの中ではそんなことも気にならない。そのまま再び眠りにつこうと意識を手放しかけた時、聞こえてきた物音に気が付いた。
「…あぇ?」
単調で一定間隔に響いてくる音。とんとんとんと硬質な何かをぶつけているそれはなんだろう。
王宮に自室があるが私にメイドはいない。知り合いはいるが部屋の中に入れたことはない。早朝部屋にいるのは私だけのはずだ。
なら、泥棒だろうか。
顔をゆっくりとあげてごしごしと顔を擦る。心なしかもふもふとした感触がするのだが気のせいだろう。擦った目であたりを見渡し、窓の位置が私の部屋と違っていることに気づく。
ここって…私の部屋じゃない?
昨日の事を思い出す。私は一体何をやっていたっけ。夜中に鍛錬をして、ユウタさんと出会って、その後ご飯を貰ってそれで…それで?
記憶はそこで途切れている。思いだそうにも何もわからない。ならそこで意識が途切れたということだろう。
「…もしかして、寝ちゃってた…?」
あり得ない事じゃない。お腹は満腹、体は疲労のたまった状態。それなら体が休息を求めて眠くなることはいつものこと。お昼ごはんの後は木陰で休憩しつつ気づけば夕方なんてことは私には珍しいことじゃない。
そしてここは私の知らない部屋。普段寝起きしているベッドよりもちょっと上質なそれと近くにあるクローゼットにひっかけられた制服をみる。背中に刻まれた独特の十字架は王族に直接仕える身分の証。私よりも上の役職であり、今この王国内では数人しか背負うことを許されていないはずだ。
もしかして…ユウタさんの部屋で寝ていた?
寝起きのはっきりしない頭でも理解する。自室に戻った記憶がないということはそう言うことだろう。
なんてこった。ご飯を御馳走になってさらにはベッドにまで寝かせてもらって申し訳なさすぎる。普段からお世話になってる身だというのに。
とにかく寝起きで乱れた身なりを慌てて整える。寝癖を直し、服装を整え、ベッドから飛び降りると物音のした方へと進んでいく。寝室のドアを開けると向こう側に見えたキッチンに誰かが立っていた。
「あぁ、おはよう。リチェーチ」
ドアの開く音に気付いたユウタさんが振り返らずにそう言った。既に朝の支度を終えたのか制服のズボンと薄手のシャツを着込んだいつも通りの姿。そして漂ってくる良い香りか判断するに朝食を作っているらしい。
「おはようございます、ユウタさん。あの、勝手に眠ってすいませんでした!」
「別にいいよ。疲れてたんなら仕方ないし」
「でも」
「それより」
別段気にした様子もなくフライパンを揺らし、中身を皿へと移す。ためておいた水にフライパンを浸すと周りの片づけに取りかかる。てきぱきと無駄のない動きですぐさまキッチンは綺麗になった。
「ご飯にしよっか」
テーブルに料理を並べていく。湯気を出し空腹を刺激する香りを漂わせる朝食はスクランブルエッグにパン、レタスやトマト、さらには果物も使ったサラダにスープと言った簡単なものだ。手軽にできて胃にもたれず、そして栄養配分も考慮さている。
くぅっとお腹が切なく鳴いた。ごくりと喉に生唾が流れ込んだ。昨晩ごちそうになったというのにどうして私のお腹は欲張りなんだろうか。
頭ではいろいろと考えていても体はすぐさま椅子に座り運ばれてくる料理を待つ。そんな姿にユウタさんは苦笑しつつも私の向かいに座った。
「それじゃあ、いただき」
そこで今日初めてユウタさんと目があった。料理の準備で忙しかったユウタさんはすでに身なりを整えたらしく癖のある髪の毛もきちんとそろえられている。着ている服もまた皺もなく整えられていた。あとは上着を着込んでレジーナ様のところへいくだけだろう。
いつも通りの黒い瞳が私を捕らえる。見つめ続けると吸い込まれそうになる不思議な目は大きく開かれまるで何かに驚いているように見える。あわせた両手も固まったまま、ユウタさんは動かない。
どうしたのだろうか。そのままでいたら朝食がさめてもったいないのに。
「……リチェー…チ?」
「はい?」
「……その耳と手、どうしたの?」
ユウタさんの言葉に私は自分の体をみた。
黄色の体毛に包まれ鋭い爪をはやした両手を、見た。
「………え?」
人間ではなくなっていた自分の姿を、見た。
「…ふっ!」
空を切り裂く拳を突き出す。すると鋭い一撃は木の葉を真っ二つに切り裂いた。二つに裂けた木の葉は別々の地点へと音もなく落ちる。
「すごい…!」
自分でもわかるほど充実している。普段以上に万全な体調なのは先日購入した髪飾りのおかげだろうか。体は軽いし、疲れもない、さらにはなんでもできるような気分になれる。
琥珀で作られたような黄褐色、そこへ加えた雷のような黒い筋。まるで虎みたいな模様の髪飾りは私の左頬に垂らした三つ編みをとめている。
達人の使っていた髪留め。そんなものをしただけで同じ領域へと至ることはできないが、せめてその人と同じ目線になればなにか進展があるかと思ったが予想以上の成果だ。その反面禍々しい魔力が体を蝕んでくるが稽古終わりには外しているのでこれならまず魔物にはならないだろう。
これで強くなる可能性が見えてきた。
ようやく自覚できるほどの力の実感がわいてきた。
―これならユウタさんに勝てるかもしれない。
でも。
「…お腹すいたぁ〜」
体を動かせばお腹が空くのは道理。それは達人と同じ目線に立とうと同じこと。もしかしたら達人は空腹すらコントロールできたのかもしれないが私には到底無理なようだ。
空腹を満たすために何を食べようか。食べるためにはまず食堂に行くのが手っ取り早い。だがこの時間、王宮内では夜間見回りの騎士や護衛部隊の人しかいない。食堂に行ったところで誰も作ってくれる人はいないだろう。料理長のグストさんも既に休んでいるはずだ。
だからといって自分の部屋に行ったところで食材なんてものはない。
…仕方ない。
「食堂行こっと!」
作ってくれる人はいないのなら私が作るしかない。勝手に使っては怒られるがバレないようにすればいい。せいぜいパンの一斤…いや、二斤程もらえば空腹も紛れるだろう。そう考えて鍛錬場から出て廊下を歩いていたそのとき、曲がり角から誰かが出てきた。
夜の闇にとけ込みそうな黒髪と同じ色をした服と、それでもより一層暗く濃い色をした二つの瞳。見慣れているその姿を間違えるはずもない。
「あれ、ユウタさん!?」
「んん?リチェーチ?どうしたのさ、こんな時間帯に」
普段とはまた違った薄い服は動き易さを考慮してだろう。香ってくるつんとした汗の匂いや額に滲んだ玉の汗を見るについ先ほどまで運動をしていたように見える。もしかしてこんな時間までレジーナ様の護衛をしていたのだろうか。
「こっちの台詞ですよ!そんなに汗だくで何してたんですか!」
「鍛錬してた。一日でもさぼると体力って落ちちゃうからね」
「ユウタさん結構熱心ですね!」
「鍛錬って一日でもサボると取り戻すのに三日も掛かるって言うからさ」
「み、三日もですか…!」
「実際のところ休息取らなきゃ体壊すけどね」
からから笑いながら張り付いた髪の毛を弄るユウタさん。額に張り付いた黒髪や汗の滲んだ肌が月光の下でやたらと艶っぽく映るのは彼が見慣れぬ顔立ちだからか。よく目を凝らすと体から湯気が立ち上っている。冬場の空気のせいもあるがどれだけ激しい鍛錬をしていたのだろう。
やはり強いのならば相応の努力と鍛錬を積み重ねているということか。レジーナ様が目を付けるというのだから血反吐を吐いた回数も私より多いのかもしれない。
だが、話し込んでいても紛れない空腹。早く何かをいれろと言わんばかりにお腹の虫が喚き散らしそう。流石の私もそんな情けない喚き声を聞かれて平然としていられるほど神経は図太くない。
そんな私の感情を読み取ったのか顔を覗き込んできたユウタさんは言った。
「どうかしたのリチェーチ?あ、もしかしてご飯、食べたかったり?」
「あぅぅ…そんなことありま」
せん、と言い切るよりも先にお腹が返事をする。その声に口に手を当てくすくす笑うユウタさん。なんて正直なのだろう、私の体。自覚できる程顔は赤くなっているというのにお腹の方は作ってくれといわんばかりに喚きだす。
「それならうち来る?この時間帯じゃ王宮の食堂なんて誰もいないだろうし、食材減ってたら向こうも困るだろうし」
「へぇ!?ユウタさんの部屋にお邪魔していいんですか!?」
「この前買っておいた食材もまだまだあるからさ」
そう言えば以前ユウタさんと訪れたお店の事を思い出す。一体何のお店なのかはわからないが今私の三つ編みをとめている髪飾りもそこで売っていた。
だが私も一人の人間だ。それなりの恥もあるし、常識だってあるつもり、勿論遠慮もある。普段からずっとユウタさんにお世話になっているというのにこんな夜中まで世話になっては申し訳ない。
「で、ですがつまむ程度ですから」
「つまむ程度で足りるの?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべるユウタさんにお腹の声が否定した。
あぁ、なんて正直なんだろう、私の体。
ユウタさんの住まう部屋は王宮の中ではそれなりにいい部屋だ。元々別世界の人間であり、勇者候補という立ち位置にいるためか王族もそれ相応の待遇を用意しているらしい。また、今では立派なレジーナ姫様専属護衛部隊隊長(ユウタさん一人だけだが)ということで給料もいい。それでも部屋の中に無駄に豪華なものが置かれていないのは彼の趣味にそぐわないからだろうか。
「ほぁ〜…」
初めて見る男性の部屋。元々装飾が豪華な部屋であるがそれ以外に目立つものはない。無駄に豪勢に飾られた壺や絵画なんてものは一つもなく、せいぜいレジーナ様の護衛役としての制服や寝巻用の服が取りやすい位置に引っ掛けられている程度だ。彼は高級品は好まない性格なのだろう。
「何か食べたいものある?」
「ユウタさんが作ってくれるものなら何でも!」
「そういうのは結構困るんだよね…」
軽くシャワーを浴び、休日に着込んでいた黒服に身を包んだユウタさんは苦笑しながら頭を掻いた。湿り気を帯びた髪の毛は部屋の明かりを艶やかに反射し、普段とは違った雰囲気を漂わせる。
「んじゃ、普段食べてるパンやらパスタとオレが持ってってる米、どっちがいい?」
「コメで!」
「了解。すぐできるから待ってて」
私の言葉に頷くとキッチンへと足を進めていくユウタさん。いつの間にか身に纏っていた黒いエプロンがやたらと似合う。料理ができるというのだから元々家庭的な人なのだろう。そんなユウタさんの後ろ姿を私は静かに見つめる。
重心、足運び、呼吸、振る舞い。料理を作るという些細なことだがそれでもわかる人ならわかる。彼が普通の人間よりもずっと鍛えているということに。
何気ないしぐさでも重心はぶれておらず、背筋は常にまっすぐでまるで鉄柱でも突き刺さっているかのようだ。足跡は一直線上並ぶようにつけられており、物音は少しもしない。呼吸音は小さく、聞き取ろうと思っても難しい。全てが全て、常人には不可能な行為だ。
どうやって私に勝ったのだろう。
実力があるのはよくわかる。その実力が私と並ぶかそれ以上なのも理解できる。でもどうやって私が負けたのかはわからない。
それだけ実力差があったのか、それとも差を感じさせないほどの隠し玉でもあったのか、そのどちらともなのか。確かめようにもユウタさんはもう一度勝負を受けてくれはしないだろう。元々私と試合をしてくれたのはレジーナ様に言われたからであり、やったのも渋々だったのだし。
そんなことを考えていたら料理ができたのかユウタさんがこちらを振り返った。
「はい、できたよ。この前買った自然薯をすりおろして天つゆで味付けしただけのとろろがけご飯」
「ジ=ネンジョ?人名ですか?」
「さっき人の体をすりおろしてるように見えた?」
呆れたような声色で苦笑を浮かべながらユウタさんが持ってきたのはお皿とは違う大きめの食器だった。中には湯気を立ち上らせるコメがいっぱい敷き詰められその上に白く粘つくもので覆われ、そこへテンツユという液体がかけられている。見たところ派手さはなくシンプルな料理だが空腹状態の私にはこれ以上ない御馳走だった。
「頂きます!」
「どうぞ、召し上がれ」
差し出されたスプーンを取ると大口開けてかきこんだ。口内に広がるテンツユのちょうどいいしょっぱさでご飯が進み、かきこむと喉越し抜群なとろろで流れ込んでいく。単調な味と食感だが決して飽きるようなものではない。程よく舌を刺激し、もっと欲しいと思わせる食感にお腹を満たしていく充足感。それらをまとめて一言で表すなら。
「とってもおいしいですっ!!」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
私の言葉にユウタさんは向かいで嬉しそうに微笑んだ。
半分ほど食べ終わるとユウタさんが私の傍にカップを置いた。湯気の立ち上るそれは紅茶というよりももっと緑っぽい香りを漂わせる。スプーンを握った手を止めて私は覗き込んだ。
「…これは?」
「緑茶。紅茶よりもちょっと苦い飲み物だよ。食べ終わったら飲んでみな」
すぐさま残り半分をかきこむとリョクチャというお茶に息を吹きかけ冷まし、流し込む。程よい熱と口内から突き抜けていく緑の苦み。紅茶とはまた違った香りや味だけど嫌ではない。先ほど食べたご飯の味を洗い流しながらも深い味わいを残していく。苦いが嫌ではない、ほっとするような飲み物だった。
「はふぅ…♪」
空腹は満たされ、気分も落ち着いた。刺すような冬場の空気とは打って変わって温かな部屋の空気に心が安らぐ。
うん、満足。後はシャワーで汗を流して眠れれば上出来だ。その際この髪飾りも外さなければ。
だがすぐ戻る様なせっかちさは私にはない。食休みをしつつ微睡むぐらいがちょうどいい。何事もゆっくりのんびりだらけてる方が私の性にあっている。髪飾りもまぁ、後でいいだろう。
「…」
ふと視線を向けると目の前ではユウタさんが緑茶を静かに飲んでいる。鍛錬を終えたというのにそんなことを微塵も感じさせないほどゆったりとした雰囲気で。
…そう言えばどうしてこの時間帯まで鍛錬をしていたのだろうか。レジーナ様に付き合っていたのならまだしも彼は一人だけだった。なら、今日は既にレジーナ様の護衛を終えたのか、休日だったのかのどちらかだろう。
でも一人だったのはどうしてだろう。鍛錬なら騎士の人と共にしたほうが効率的にもいいと思うのに。
思いついたことは放っておくともやもやして返って気になってしまうもの。それなら直接聞いた方が早いだろう。この程度なら嫌がられることもないだろうし。
「ユウタさん、どうしてあんな時間帯にいたんですか?ほかの騎士とともに鍛錬すればいいのに」
「…」
私の言葉に小さく息を吐き出したユウタさんは制服の掛けられたクローゼットから一つの剣を持ち出してきた。ここでは見習いの騎士たちに渡される鍛錬用の刀剣。私もかつては持っていたものだ。
「これ見て何か感じる?」
「…」
ユウタさんの言葉に剣をじっと見つめる。するとわずかだが確かに魔力を感じた。主に剣の柄の部分から。
魔法がかかっている?
刀剣に魔法を付与して威力を増加させるのはこの王国でもよくされているが鍛錬用の刀剣にする意味はない。威力が強くなりすぎては鍛錬する際大怪我を負うことになるからだ。
だが、これはどういうことだろう。本来魔法は刀剣の刃部分に付与するというのにこの剣は柄にかけられている。離れないように吸着魔法でもかけたのだろうか。
私は確かめるように手を伸ばすとすぐさまユウタさんに掴まれた。
「わっ!」
「触らないで…ほら」
近くに置かれていた紙を押しつけ、離す。すると押しつけた部分が黒く焦げ、白い煙を上げていた。
「っ!」
物体に熱を持たせる基本的な魔法。この王国なら台所のコンロ代わりに用いられるほど普及しているし、魔法を知っている人間なら誰もが使えるようなものだ。
それを剣の柄にかける。その意味は嫌がらせに他ならない。魔法が使える人間なら解くのも容易いが、魔法を使えないユウタさんへするということはあまりにも陰湿すぎる―
「いじめ、ですか…!?」
「そ」
心底つまらなそうにため息をつきながらユウタさんは手元の剣をたたいた。
「オレ騎士団の連中から嫌われてるからねぇ。今はレジーナの護衛やってるけどここに来た当初はこんなこと当たり前だったよ」
「そう、ですか…」
別世界の人間はあまり好かれない。というのも勇者候補になるためには並大抵ではない努力を、血反吐を何度も吐くような鍛錬を必要とするからだ。
勇者となるためには一軍と渡り合える戦力を有すること。それがこの王国の絶対的な四つの栄光となり、希望の光となるための最低条件。
水を操る軽薄な女たらし。
炎を司る最年少の魔導士
土を支配する生粋の魔物嫌い。
風を用いる不死身の女嫌い。
今君臨する四人の勇者は誰も彼もが一軍以上の戦力を有している。大型殲滅魔法すら一人で発動するほどでもはや化け物と呼ばれるほどの実力者達だ。
だが別世界から来た人間は特別な能力を神から授けられると聞いている。それは不老不死の再生能力だとか、未来を見通す力だとかさまざまなものらしい。その能力のおかげで並大抵の努力をせずに、血反吐を吐くような鍛錬もすることなく勇者候補へと至ることができる。
だから皆好まない。
騎士団としてがんばりながら誰もが目指す四つの希望。遠く届かないその光へと近づくためには並ならない苦痛を伴う。そうまでして勇者となろうとしているのに別世界から来た人間は何もしてないのに光に届く位置にいる。それが皆我慢ならないのだろう。
「…っ」
でも私は知っている。ユウタさんがどれだけの血反吐を吐いてきたのかを。どれだけ骨を砕き、どれだけの苦痛を味わったのかを。それが私には計り知れないものだということを。
レジーナ様の専属護衛をたった一人でつとめるのがどれだけの実力がないと無理なのか。私ですら護衛部隊の隊長という位置で止まっているのにその先に至るにどれだけの力が必要なのか、私にはよくわかってる。
だが、その実力をなんで彼は誇示しないのだろうか。
一度完膚なきまでに叩きのめせば騎士団とてもう手は出さないことだろう。レジーナ様の護衛を一人で勤め上げている実力はそれこそ勇者候補と呼ぶのに相応しい。それなら騎士団とて相手にするにはたやすいこと。
「騎士団相手に一度試合でも申し込んだらどうですか?ユウタさんなら簡単に勝てると思いますが」
「いいよそんなこと。むやみやたらに力を誇示したところであんまりいい結果にならないからね。それで一度、痛い目みちゃってるからさ」
自嘲気味にユウタさんは笑った。
その言葉から、その笑みから、一度経験があるのだろう。それは思い出したくもない苦々しい事だったのか誤魔化すようにカップをつかんでリョクチャを飲み干した。
「だから嫌われたところで今更だし、今はレジーナの傍で護衛やってるから騎士団の連中とはもう関わりもないからどうでもいいよ」
「…っ」
「嫌われることにはもう慣れてるからさ」
悲しいことを言っているのに表情は相変わらずの笑みだ。まるで仮面のようにはりついた無機質な笑みで、見ている側としては痛ましく思えてしまう。
嫌われることに慣れている―だから彼は強いのだろうか。
嫌われたところで何も感じない―それでも彼はつらくないのか。
果たしてそれで―いいのだろうか。
「……………私は好きです」
「ん?何?」
「私はユウタさんのこと大好きです!!」
私はテーブルを強く叩いて立ち上がった。隣のカップが転がり中身が零れ、椅子が後ろに倒れるのも気にしない。
両手でユウタさんの両腕を掴んで引っ張った。突然のことで目を見開く彼を一気に引き寄せ顔を寄せる。
真っ直ぐ見つめる闇色の瞳。吸い込まれそうな不思議な雰囲気を感じながらも私は宣言する様に言った。
「騎士団の人達が嫌いだとしても私は!私は、ユウタさんの事大好きですからっ!!」
「…ぷっ」
私の言葉に目を丸くすると口元に手を当て、そして吹き出した。
「わ、笑わなくても良いじゃないですかっ!!」
「いやぁまるで親戚の子供たち相手にしてるみたいでさ」
「私は子供じゃありませんっ!少なくともユウタさんよりは年上です!!」
「知ってるよ。知ってるけど…」
大きく笑うことはしなかったがおかしそうにクスクス笑う。だけどその頬は赤く染まり、どことなく照れているようにも見えた。
そっとユウタさんの手が延びてくる。私と同じぐらいの大きさで、だけどもずっと堅くて暖かい手が。
「…ありがと、リチェーチ」
「あぅ…っ♪」
ぽんぽんと幼子を相手にするような手つきでユウタさんの手が私の頭を撫でていく。
少し恥ずかしい。だけど、暖かい。
ちょっと照れてしまう。でも、落ち着く。
優しい手つきに自然と瞼が閉じてなすがまま撫でられる。子供として扱われているようなのだが不思議と嫌な気持ちにはならない。むしろもっと撫でてほしいと頭を自ら差し出した。
「んんん〜……♪」
体がだるい。きっと先ほどまでの鍛錬と食事でお腹が膨れてしまったからだろう。それにここは暖かい。突き刺すような冬の寒さなど微塵も感じられない。椅子に座り直すと眠気は私の意識を引っ張り暗闇へと落とそうとする。さらには頭を撫でてくれる優しい感触。ちょっと堅くても暖かなそれが追い打ちをかけ、閉じかけた瞼をさらに重くする。
普段からさぼって眠ることなど良くあること。何よりこれほど心地良い感触を味わいながら眠るなというのは無理なことだ。
「…ぐぅ」
ごんっと額に感じる堅いテーブルの感触など気にもならず私の意識は闇へと引きずり込まれていくのだった。
「…ぐう…ううん?」
瞼に突き刺さってくる日の光に眉を潜める。逃げるようにベッドの枕に突っ伏しながらぐしぐしと擦り付けると普段以上に柔らかい事に気づいた。さらには呼吸をする度に香る不思議な香り。私は、香水はつけないのにこれはいったいなんだろう。
「…ぐぅ」
その香りは嫌なものじゃない。どこか体をざわつかせるような不思議なものだが心地良い微睡みの中ではそんなことも気にならない。そのまま再び眠りにつこうと意識を手放しかけた時、聞こえてきた物音に気が付いた。
「…あぇ?」
単調で一定間隔に響いてくる音。とんとんとんと硬質な何かをぶつけているそれはなんだろう。
王宮に自室があるが私にメイドはいない。知り合いはいるが部屋の中に入れたことはない。早朝部屋にいるのは私だけのはずだ。
なら、泥棒だろうか。
顔をゆっくりとあげてごしごしと顔を擦る。心なしかもふもふとした感触がするのだが気のせいだろう。擦った目であたりを見渡し、窓の位置が私の部屋と違っていることに気づく。
ここって…私の部屋じゃない?
昨日の事を思い出す。私は一体何をやっていたっけ。夜中に鍛錬をして、ユウタさんと出会って、その後ご飯を貰ってそれで…それで?
記憶はそこで途切れている。思いだそうにも何もわからない。ならそこで意識が途切れたということだろう。
「…もしかして、寝ちゃってた…?」
あり得ない事じゃない。お腹は満腹、体は疲労のたまった状態。それなら体が休息を求めて眠くなることはいつものこと。お昼ごはんの後は木陰で休憩しつつ気づけば夕方なんてことは私には珍しいことじゃない。
そしてここは私の知らない部屋。普段寝起きしているベッドよりもちょっと上質なそれと近くにあるクローゼットにひっかけられた制服をみる。背中に刻まれた独特の十字架は王族に直接仕える身分の証。私よりも上の役職であり、今この王国内では数人しか背負うことを許されていないはずだ。
もしかして…ユウタさんの部屋で寝ていた?
寝起きのはっきりしない頭でも理解する。自室に戻った記憶がないということはそう言うことだろう。
なんてこった。ご飯を御馳走になってさらにはベッドにまで寝かせてもらって申し訳なさすぎる。普段からお世話になってる身だというのに。
とにかく寝起きで乱れた身なりを慌てて整える。寝癖を直し、服装を整え、ベッドから飛び降りると物音のした方へと進んでいく。寝室のドアを開けると向こう側に見えたキッチンに誰かが立っていた。
「あぁ、おはよう。リチェーチ」
ドアの開く音に気付いたユウタさんが振り返らずにそう言った。既に朝の支度を終えたのか制服のズボンと薄手のシャツを着込んだいつも通りの姿。そして漂ってくる良い香りか判断するに朝食を作っているらしい。
「おはようございます、ユウタさん。あの、勝手に眠ってすいませんでした!」
「別にいいよ。疲れてたんなら仕方ないし」
「でも」
「それより」
別段気にした様子もなくフライパンを揺らし、中身を皿へと移す。ためておいた水にフライパンを浸すと周りの片づけに取りかかる。てきぱきと無駄のない動きですぐさまキッチンは綺麗になった。
「ご飯にしよっか」
テーブルに料理を並べていく。湯気を出し空腹を刺激する香りを漂わせる朝食はスクランブルエッグにパン、レタスやトマト、さらには果物も使ったサラダにスープと言った簡単なものだ。手軽にできて胃にもたれず、そして栄養配分も考慮さている。
くぅっとお腹が切なく鳴いた。ごくりと喉に生唾が流れ込んだ。昨晩ごちそうになったというのにどうして私のお腹は欲張りなんだろうか。
頭ではいろいろと考えていても体はすぐさま椅子に座り運ばれてくる料理を待つ。そんな姿にユウタさんは苦笑しつつも私の向かいに座った。
「それじゃあ、いただき」
そこで今日初めてユウタさんと目があった。料理の準備で忙しかったユウタさんはすでに身なりを整えたらしく癖のある髪の毛もきちんとそろえられている。着ている服もまた皺もなく整えられていた。あとは上着を着込んでレジーナ様のところへいくだけだろう。
いつも通りの黒い瞳が私を捕らえる。見つめ続けると吸い込まれそうになる不思議な目は大きく開かれまるで何かに驚いているように見える。あわせた両手も固まったまま、ユウタさんは動かない。
どうしたのだろうか。そのままでいたら朝食がさめてもったいないのに。
「……リチェー…チ?」
「はい?」
「……その耳と手、どうしたの?」
ユウタさんの言葉に私は自分の体をみた。
黄色の体毛に包まれ鋭い爪をはやした両手を、見た。
「………え?」
人間ではなくなっていた自分の姿を、見た。
14/09/28 21:12更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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