誘惑との探究、及び本能の考察について
それは悪魔の囁きだった。
「ルア様は女性です。そしてユウタ様は男性です」
透き通った青色の唇が妖しく動く。
「女性ならば男性を虜にする術があるでしょう。」
柔らかそうな舌が厭らしく覗く。
「貴方様は大変魅力的な美貌を持っています。ただ、その使い方を知らないだけなのです」
艶やかな肌が部屋の明かりを反射する。
「もしよろしければ…私が手取り足取りご指導いたしますわ」
彼女は女性の私もぞくりとするほど妖艶な笑みを浮かべ、そう言った。
「…君は以前女王の矜持がなんだと言っていたね。女王がそのような品のないことをしていいのかね?」
「ええ、確かに私は女王です。ですが、その前に魔物です。もしこれを機に同胞が増えることとなれば喜ばしいことですわ」
「残念だが私は魔物になど身を落とすつもりはない。そうなったらここでの研究が続けられなくなってしまうからな」
「ですが魔物になれば殿方を籠絡することは容易きこと。貴方様はユウタ様の隣にいたいのなら、ユウタ様を籠絡したいのなら魔物になった方が効率的ですわ」
「効率的…」
その言葉に私は考え込んでしまう。
研究者にとって効率は重要なことだ。無駄を省き、より効率的な手段を用いるのは常識であり、順序を省けるのなら喜んでその方法を選ぶ。誰だって面倒な手順を踏んで結果を得るよりも楽な道を選ぶのと同じ事だ。
故に、迷ってしまう。
「ふむ…」
確かに私は人間であり、今でも男性に対してどのような対応をすべきかはわからない。魅惑の言葉も知らないし、誘惑の仕草なんてまったくわからない。
だが、魔物ならば…。
誰もが美女である魔物にとって男性を誘惑することなど容易いことだろう。それが生まれながらにして備わった本能であり、生きる術だ。目の前にいるスライムの女王ですらこんな体であっても男を誘惑する手練手管を知り尽くしている。
そんな魔物ならば…。
「ユウタ様はお堅い方です。誘惑したところで簡単に転ぶようなお方ではありません。だからこそ、その堅さを利用すべきなのです」
彼女はは笑う。とても淫靡に、悪魔のように。
「ユウタ様はお堅くて、それで優しい方ですわ。ルア様を一人で放っておくようなことをする人ではありません」
「ああ、そうだろうな」
頼み込めばなんだかんだでしてくれるあの男だ。人付き合いの経験は浅くとも優しい部類にはいることは私でもわかる。
「そんなお方がルア様を手込めにし、傷物にしたのなら…どうでしょう?」
甘くとろけるような声色は私の頭の中へと染み込んでくる。研究者としての思考は染め上げられ、論理的な判断が鈍ってく。
あるのは欲と色。
生物的に純粋な本能のみだ。
「男性というのは女性の求めにめっぽう弱いもの。それはユウタさまとて例外ではありません。ですが簡単に籠絡するほど柔な精神をしているとも思えません。ですからユウタ様が自分から襲いかかったとしたら、どうでしょうか」
あの男が。普段私にはあきれ顔を浮かべなんだかんだで世話を焼いてくれるあの男が私に襲いかかってくる。
何をされるかなんて知らないわけではない。これでも研究者、人間の体の構造を知るためにそこらへんのことも調べたことがある。男性というのは生物敵本脳が強く、自分の種を存続させるためそういった行為を強く望むということはわかってる。それはきっとあの男も同じ事だろう。
だからこそ、それを利用する。
余計な言葉はいらない。
無駄な知識もいらない。
必要なのはユウタの本能を刺激するもの、ユウタの理性を焼き切るものだけだ。
「結構嫌なことを考えるスライムだ」
「あら、これでもクイーンですもの。時にはえげつない判断も必要なのですわ」
くすくすと品のある、だが意味深な笑みを浮かべる女王。その笑みの下に張り巡らせた策謀は研究者であっても計り知れないものだろう。
「それで、どうするのですか?」
女王は問う。
「行動へと移るのか、はたまた今のままで満足するのか」
一度踏み外せば二度と戻れぬ堕落の底へと誘うように。
「その先にある甘美な蜜を…啜りたいとは思いませんか?」
その言葉に私は傾いた。
―そして今。
「なぁ、ユウタ。ちょっとお茶を入れてみたのだがどうかね?」
私はユウタをお茶に誘っていた。もっとも誘えるほど私の腕はいいわけがない。今まで研究一筋で生きてきた身である以上研究以外のことなど素人以下だ。
いつものことながら体には現れない勇者の証を探し終えた後、ユウタは真っ白な服に腕を通しボタンを閉めながら少し不思議そうな表情を浮かべた。
「…またずいぶんといきなりというか…急ですね」
そう反応されるのも無理はない。今まで彼の前での私は研究のためと称して服を脱がせたり寝込みを襲ったり膝の上に頭を乗せたりといろいろなことをしてきたのだ。怪訝に思われても疑われても仕方がない。
「何、たまには私も女性らしいことをしければと思っただけだ」
だが私のところにお茶を入れるポットやカップなんて洒落たものはない。無骨な皿や罅の入ったガラスのコップやほこりをかぶったソーサーぐらいだ。
故にお茶を入れるポットの代わりに女性らしさなどかけらも見られないビーカーを用いるのは…仕方ないとあきらめるしかないだろう。
「…」
「…」
「…あの、泡立ってるんですけど変な薬品入ってませんか?」
「私がそのようなものをいれるとおもうのかね?」
頷かれた。
「私の研究は毒物も劇薬も扱わないから安心してくれ」
とは言うがもしかしたら昨日用いた薬品がうっかり残っていたのかもしれない。だが死にはしないだろうから心配は不要だろう。
「…青酸カリでした、なんて言いませんよね?」
「それがなんなのかは知らないが、残っていたとしても人体に害があるものではないことは確かだ。気にしないでくれ」
「結構気になるんですけど」
そう言ってユウタは静かにビーカーに鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。そこまでして私のことが信じられないのかこの男性は。いや、そこまでされるほどのことを私がしてきただけか。
「それじゃあ頂きます」
そう言ってユウタはビーカーに唇をつけた。私たちとは違う顔立ちで紅茶を味わう仕草にはどことなく気品のようなものが漂っている。あのレジーナ王女の護衛をするのだからそこらの最低限のマナーや嗜み方は嫌でもついてしまうのだろう。
一口、二口含んで喉仏が上下する。
―飲んだ。
その事実に内心ほくそ笑む。
ユウタに出したビーカーの中に入っているのはただの紅茶ではない。縁に赤い印を刻み込んだビーカーに私はある薬をいれていた。
それは媚薬。
それもあの商売狸からもらった魔物の用いる強烈な媚薬だ。効果は簡単には収まらず性欲と感度を高ぶらせる典型的なもの。わずかな魔力を混ぜ込んだそれは一滴でも十分な効果を発揮してくれることだろう。
それをユウタに飲ませる。
それがヴェロニカの提案した策である。
いくらお堅く頑固なユウタとは言え一人の男性であることに変わりない。男性というのがどれほど性欲盛んなのかは知らないがきっと彼も根本は変わらないことだろう。
一線引いた態度に節度をわきまえた対応。何が何でも守ろうとする貞操の堅さを打ち破るためには魔物のような手練手管が必要だ。だが私にはそんなもの欠片も持っていない。女として男を惑わせるものなど一つもない。
だからこその媚薬。
その理性を引き剥がし、奥底に隠した本能を引きずり出す。どれだけ強固な理性であっても引きずり出せればこっちにもの。そして私はこれでも女であってユウタは男だ。邪魔するものなど一人もいないこの空間で本能むき出しになれば延びてくる手は私以外に向けられはしまい。
正直言うと少し怖い。
だが同時に興味深くある。
発情したユウタというのはどうなってしまうのか。普段と違う一面はどのようなものなのか。
そして、体を交えるというのはどういうことか。
「…ふふ」
「…?どうかしました?」
「いや、なんでもない」
未知に対する期待に思わず笑みが浮かび不振がられてしまったが誤魔化す。ここでうっかりばれてしまえば私の元へ訪れることもなくなってしまう。お堅い以上に女みたいに繊細な男だ、それだけは阻止しなければ。
もう一口飲み込み喉が動くのを確認して私も紅茶に口を付けた。
「…むっ」
口内に広がってくる茶葉の香りと壮絶な渋み。それなりに香りの強く、それでいて飲みやすいものを用意したのだがそれすら塗り替える強烈な茶葉の苦み。旨みがなにかわからない。いや、美味と感じる要素すらない。
正直に言うとまずかった。思わず吐き出したくなるほどに。
うっかり茶葉を浸しすぎていたのが原因だろうか。いや、そもそも女性らしいことなどしたことのない私がいきなり紅茶なんて入れるべきではなかったのだ。これならもっと簡単に出来るココアパウダーでも買ってくるべきだったか。
だがしかし、顔をしかめる私の前でユウタは涼しい顔をして紅茶を味わっていた。
「よくこんな紅茶が飲めるな…まずくないのかね?」
「自分で淹れて言っちゃいますか」
「事実なのだから仕方ないだろう。正直ここまで酷いとは思っていなかったのだがね」
「まぁ大方初めて淹れたとかうっかり研究の片手間に淹れて失敗したのどっちかですか」
「…両方だ」
そうですかと小さく呟きそれでもユウタは紅茶に口を付ける。眉一つも歪めずにどうしてそう涼しい顔で飲めるのか私には不思議だ。もしかしたらうっかり自分の紅茶だけまずく淹れてしまったのだろうかと思ってしまう。
「もう一度聞くが…まずくないのかね?」
「まぁ味はあれですが…味の問題じゃないんです。出してくれたのなら喜んで頂くべきですよ」
「…ユウタは律儀だな」
「それが礼儀ってもんですから。まぁルアさんの初めてになれたって言うのなら光栄ですけどね」
闇色の瞳がこちらを見据えてからから笑う。邪気のない、子供のように朗らかな笑み。
「…っ」
どうしてだろうか。その笑みを見ているだけで胸が切なくなる。
まるで全力疾走した後のような息苦しさを覚える。
今までに感じたことのないむず痒いような、体の内側が粟立つような感覚だ。
「…?……っ?」
「…ルアさん?」
なぜ私の脈は早くなっていくのだろうか。
なぜ私の体は熱くなっているのだろうか。
なぜ私の息は荒くなっているのだろうか。
なぜ、私はこれほど興奮しているのだろうか。
「…?……っ?」
わからない。手を当てた胸からうるさいくらいに大きな鼓動が伝わってくる。わずかに開いた唇の隙間から漏れる呼吸音は普段よりもずっと早く、体温も異常なほど熱い。
「…ルアさん?」
そんな私を見てユウタも不振に思ったのか手にしていたビーカーを置いてこちらによってくる。
―そのときに見えてしまった。
「…あ」
―ユウタの手で隠されていたビーカーの口の部分。そこにあるはずの赤い印がなかった。
「…っ!」
私が媚薬を淹れたビーカーは口の部分に赤い印があるはずだ。指先で擦ったところで消えないように刻み込んだはずだ。だというのに印がないというのはユウタが魔法で消し去ったのだろうか。
いや、ユウタは魔法が使えない。それに体はまだまだ勇者の印は現れていない。不可解な現象を起こせる要因はユウタにはない。
なら…そう思って私は自分の口を付けたビーカーを見た。
「…あぁ、これは」
―口の部分に赤い印があるビーカーを、見た。
「…うっかりしていた」
媚薬の入ったビーカーで紅茶を飲んでいたのは私だったということだ。
「…っ」
自覚したとたんに下腹部から湧き上がる熱が身を焦がす。むず痒いような、それでも掻いただけでは沈まないだろう疼きを感じて私は膝から崩れ落ちた。
「ルアさん!?」
心配そうにユウタが駆け寄り私の体を抱き起こす。細くも堅い、逞しい二本の腕が体にまわり彼の顔が近づいた。
「ふ…っ」
ただ触れただけ。それでも肌はくすぐったくてぞわりとする。まるで神経を直接刺激されるような感覚であった。
「ちょ、ルアさん何飲んだんですか!?研究ようの薬品でも混ぜたんですか!?」
「失敬な。私とてそのようなうっかりをするはずがないだろう…?」
「…その根拠のない自信はどこから」
まぁユウタの言うとおりだ。彼に投与するはずの媚薬を自分で飲んでしまうのだから私のうっかりにはほとほと困ったものだ。
そんなことを考えても下腹部疼きは止まない。体は熱を帯びて息が荒くなっていく。頭の中までぼやけているのにどうしてかユウタの姿だけははっきりと映る。
流石は魔物の作った媚薬だ。異性を求めて止まなくなると言うのはこういう感覚なのだろう。
そんな状態の私の耳元で声がした。
「もう、何をしているのですかルア様」
呆れたように言葉を紡ぐのは私の首筋に隠れていたヴェロニカだ。さすがの女王も私のうっかりには困り果てているらしい。
「せっかくの機会だというのにうっかりしすぎですわ」
ユウタに聞こえないように小さな声で、私の髪の毛に身を隠しながら彼女は言った。
「ですが………これもまた好機」
ねっとりと絡みつくような独特な甘さを持つ声色で。
「今のルア様を鏡でご覧になってください。潤んだ目も上気した頬も、とても魅力的ですわ」
「…そうかね?」
動悸息切れ体温上昇。そんな状態で何が魅力的なのかはわからないが魔物のヴェロニカが言うのならそうなのだろう。
「ルア様の思いの丈をユウタ様に直接伝えればいいのですわ。真っ直ぐに、体を遣ってでも貴方様の抱いた感情をそのままに、真っ直ぐ見つめながら伝えるのです」
そんなことをやって上手くいくとは思えない。普段から肌を見せろと言っても渋るユウタ相手なのだから。だが助言する相手は魔物。男性を虜にするすべを生まれながらに知っている存在だ。
このまま疼きに苦しむのか、魔物の声に耳を貸して先へ進むのか、どちらが私の求める結果を出せるのか。正常ではない頭でもすぐに答えは出せた。
「ルアさん?」
怪訝そうに私の顔をのぞき込んでくるユウタ。闇色の瞳が近づき思わず吸い込まれそうな感覚に陥る。いつも感じていた不思議な感覚だが今ではどうしてこうも胸を高鳴らせてくれるのだろう。
体が疼く。胸が高鳴る。心臓が早鐘のように脈打ち、荒い呼吸を繰りかえす。そんな私の首筋で女王はささやいた。
「ルア様、今ですわ」
ヴェロニカの言葉に私はユウタを押し倒した。
「…え?」
突然体勢を変えられ動きを止めるユウタ。そこをここぞとばかりに私は倒れ込んだ。
ユウタの体と私の体が重なり合う。服越しでも感じられる堅い感触は筋肉によるものだろう。引き絞られた筋肉は年下ながらも逞しい。
下腹部をさらに疼かせるのは男性の香り。甘いものではないもののもっと嗅ぎたくなる、癖になるような匂いに力がこもる。
「なぁ、ユウタ」
私は顔を近づける。闇をはめ込んだ瞳はまっすぐにこちらを見つめながらも困惑の色を隠せない。
「な、んですか?」
「体が熱い…息が苦しい…頭が、おかしくなりそうだ…」
「待っててくださいよ。今医者でも呼んできますから」
「いや、医者などいらない。それよりも…ユウタ、君に沈めて欲しいんだ」
「えっ」
ユウタの体が強張るのがわかった。興奮か、はたまた照れているのか頬は赤く染まっている。中々どうして色っぽく見えるのは別世界の人間だからか、はたまたユウタだからか。
「君がこの疼きを沈めてさえくれれば私は…」
自分の紡ぐ言葉にぞくりと背筋が震える。
にやりと首筋でヴェロニカが微笑むのがわかる。
びくりとユウタの体が跳ねる。
「私は、何をされてもかまわない」
その一言にユウタは逃げるように身を捩った。だがそんなことは許さない。こんな状態で魔法を使えなくとも手足を絡めれば十分だろう。
胸がつぶれて顔が寄り、熱い吐息を吹きかける。すると、ユウタの力が弱まった。
「もう一押しですわ♪もっと唇を近づけて、もっと体を重ねて」
言われたとおりに私はユウタの体にもたれ掛かるように体を寄せた。唇を耳元へ近づけ、服越しでも隠せない逞しい肉体に指先を這わせる。擦りつけるように顔を擦りつければ髪の毛が肌に触れた。
「そして」
スライムの女王はきっと淫らな笑みを浮かべていたことだろう。とても魔物らしく、そして残酷な悪魔のような表情だったに違いない。
「堕として…♪」
心臓は早鐘のように鼓動を刻み、肌にはうっすらと汗が滲む。体の疼きは止まらない。下腹部から燃え上がるような熱が生まれ体に広がっていく。爪で引っかこうが消えず疼きは切なさとなりもどかしさへと変わる。
「ユウタ…っ」
早くこの疼きを止めて欲しい。
早くこの高鳴りを止めて欲しい。
一人ではどうにもできない感覚をユウタにどうにかしてほしい。
「あの…ルア、さん」
「何かね…早く君にこの疼きを止めて欲しいのだが」
「か、確認させてほしいんですが…なんでこんなことを?」
「こんな、こと…?」
指先が、声が震えながらもユウタはこちらを見つめ返す。そんなユウタに私は手早く論理的な回答をした。
「簡単だ…発情した女がいる。傍には男が、ユウタがいる。私はこの疼きを止めてほしくユウタはまぁ協力的だ。それに行為には互いに快楽が伴う。それなら君にも悪い話じゃないだろう」
「………そんな善し悪しだけでやるっていうんですか?」
「いや、それだけじゃ、ないぞ。それだけじゃない…」
若干落ち着きを取り戻しつつあるユウタに焦りが生じる。
やはり慣れぬことはするべきではない。そもそも男性を誘惑すること自体初めてなのだし、頭も媚薬でまともに回らない。だが腐っても研究者、冷静な判断はできそうにないが明確な論理を立てることはできる。
「この方が、私にとっても君にとっても効率的だからだ」
疼きの止まない私。
少しは協力的なユウタ。
ここで一線踏み越えればユウタはもっと協力的になることだろう。疼きを止めることができ、関係を持つことができれば最高の成果だと言える。これが最も効率的な手段のはずだ。当初予定したこととは大きく逸れてしまったが同じ成果が出せるのならその過程などどうでもいい。研究者らしからぬ考えだがそう考えてしまうほど焦りと興奮が私を惑わしてくる。
しかしその一言はユウタの動きを止めた。
「…ああ、そうですか」
その言葉は金属のように無機質で、氷のように冷たくて、刃の如く鋭かった。
「そりゃ効率は大切ですよね」
先ほどとは打って変わって柔らかな笑みを浮かべている。だがどうしてか、その笑みは仮面の如く張り付けたような笑みに見える。発情した体でもわかる、無機質すぎて恐ろしい笑みだ。
「ですが、ルアさん。互いに労力をかけずに事をすます方が効率いいと思いませんか?」
その言葉に応える前にユウタの手が私の顎に添えられた。手のひらを押しつけて指を顎に添えて、そしてにこりと微笑まれる。
ぞっとした。
普段の笑みとは違う笑み。暖かさも穏やかさも全くない冷たい笑み。先ほど身を捩って顔を赤くしていた者と同一人物とは思えない。
どこか自由気ままで気まぐれで、それでも頑固で真っ直ぐなユウタ。動物で言えばどこか犬や猫のような仕草があるのだが今の彼はそのどちらでもない。
まるで狼や獅子のような気迫。それでいて冷ややかな声色。それは本当にユウタなのだろうか。
「効率は、大事ですもんねぇ」
吐き捨てるような声が届いた次の瞬間。
ごずん、形容するならばそのような音だろう。顎から頭へ向かって衝撃が打ち出された。痛みはない。ただ頭をがむしゃらに振ったかのような目眩がする。しかし、徐々に手足の感覚は消え去りやがて視界が暗転する。
何が?疑問に思う暇すらなく私の意識は闇の中へと消えていった。
瞼を開いた先に見えたのは見慣れた天井だった。薄汚れ具合は相変わらずでそろそろ掃除をすべきかと考えてしまう。
「…いや」
気にするべきところはそこではない。そもそも私は何をしていたかだ。
またうっかり倒れてしまったのだろうか。ここ最近はちゃんと休息をとっていたというのにか。いや、うっかり開発した魔法で気絶してしまったということもありうる。だがそれならどうして私の下には柔らかなソファの感触があるのだろうか。
あたりを見回す。するとすぐ傍に見覚えのある黒い色が見えた。
「…あぁ、ユウタかね」
「ええ、そうですよ」
隣にはユウタが座っていた。その目は呆れに呆れ、疲れたようにため息をついている。
ああ、そうか。
彼の顔を見て徐々に意識がはっきりとしてくる。そして何が起きたのかも理解する。体の疼きは消え失せていることからして既に媚薬の効果は消えたのだろう。
「…ユウタ。酷いのではないのかね?」
私はどうやらユウタの手にかかって気絶していたらしい。顎に手を添えたのは殴りつけるためのものであり、見事私の意識は一撃で刈り取られわけだ。
研究者相手にあのような一撃を打たれては抵抗なんてできるわけがない。元々肉弾戦は苦手だし、今まで運動すらろくにしていないのだ、さらには発情中というあの状況でよけられるはずがない。
だがユウタは呆れたように行った。
「酷いのはどっちですか?まったく…」
「何?私の方が酷いのかね?」
「ええ、酷いですよ。もういろんな意味で。何が効率的ですか。」
これでも私だって考えに考えた結果なのだがそれをユウタはわかっていない。だが、言ったところで理解してくれるとも思えない。
―無機質な冷たい笑み。
きっと私は触れてはならないものに触れた。ユウタの奥に隠れた闇の部分。その奥で彼が隠している一つの感情。欠片だったのかもしれないが、できれば二度と見たくない。
「言ったでしょう?オレは人間です。ルアさんも人間です。人間ならもっと別のことを大切にしてください」
「別のこと?」
「合理性だけを求める実験や検証じゃないんですよ。そんなことでしたらただ後悔するだけです」
こんな行き遅れの女だ。合理性で行っても後悔するようなことなどない。あのまま襲われたとしても純潔を散らすこととなっても同じことを言えただろう。
だがそう言おうにもまっすぐに向けられた闇色の瞳に言葉がでなかった。
全てを飲み込みそうな黒い色。混じりけなしの純粋な瞳に宿すのは強い意志。それから迷いのないまっすぐな言葉に私は静かに頷いた。
「…そうだな、君が言うのならそうしようか」
「是非そうしてください」
だが言いくるめられてはいそうですかと言うほど私は物わかりはよくない。研究者が他人の言葉で止まれる生物ではない。転んでもただで起きるようなほど抜けてはいない。
結局のところ媚薬を用いたことは失敗だったがそれでも終わりではない。一度の失敗で躓くほど脆くはないのだ。
「なら、これぐらいならいいだろう?」
「あ」
私はユウタの膝上に頭を乗せた。以前と変わらぬやや堅めの、それでいて優しい暖かさのある枕だ。
「……全く仕方ないですね」
困ったようにため息をつきながら、それでも柔らかく微笑みながらユウタは私の頭の上に手を乗せた。髪の毛を解かすように上から下へと手のひらが撫でていく。
「…この歳で頭を撫でられるとはな……」
「あぁ、すいません。つい…嫌でしたか?」
「…」
目を閉じてその感触を教授する。柔らかく撫でゆく彼の手のひらは暖かい。膝枕とはまた違った心地よさを感じるものだ。
「…嫌、ではないな。続けてくれ」
「わかりました」
そのまま瞼を閉じる。先ほどまで気絶していたというのに穏やかな感覚に体は今にも眠りそうになる。
そのまま身を委ねるように意識を手放しかけて、ふとある疑問が浮かんだ。
「そうだ、一つ聞きたいことがあったのだがいいかね?」
「はい?」
疑問を解消することは研究者として当然の生き方だ。わずかな疑問から新たな発見が生まれることもあるのだし、そこからまた新しい道が生まれ別の研究へとつながるかもしれない。疑問を抱くことは研究者の癖のようなものなら発見を見いだすことが生き方だろう。
私は抱いた疑問を彼に投げかける。
「私の体に興奮したかね?」
きっとユウタには答えづらいことだったかもしれない。過度な接触を拒みこんな私相手でも女性扱いするユウタのことだ、そういうことはあまり答えたくない人間だろう。
だが抱いた疑問を解消するにはこれしかない。私が悩んで解けるものではないし、ヴェロニカに聞いたところで答えが変わってしまう。やはりこういうものは異性の言葉を聞いてみたい。
「どうかね、ユウタ」
催促するように彼の名を呼びその顔を見上げるとユウタは―
「―…………ノーコメント」
短く答えてそっぽを向いていた。
「…そうかね」
そう言われては仕方ない。今回はここで聞くのを諦めよう。諦めなど研究者としてやってはいけないことだがこれ以上ユウタが拒否することをすべきではない。また先ほどのようなものを見せつけられては今度こそ彼に見放されてしまう。
だが。
「それは上々だ」
どうやら私も女として捨てたものではないらしい。別世界の男性を興奮させられる程度にはまだまだ魅力があるということだ。
言葉にしなくともわかってしまうその答えに私は瞼を閉じる。対してユウタはこちらを見ずにそっぽを向いたままでいた。恥ずかしげに耳まで真っ赤に染めながら。
「…あぁ、それとヴェロニカはどうした?」
「小麦粉の中にいますよ」
「…は?」
「お仕置きです」
「ひどい目にあいましたわ」
「まさか本当に小麦粉塗れにされるとは大変だったな」
「まったくですわ」
ユウタの帰ってしまった後私は終わった実験の片付けをしていた。そんな私の肩の上ではヴェロニカが両足をそろえて座っている。先ほどまでユウタにお仕置きと称され小麦粉内に叩き込まれていたからか少し白い。
どうやら気絶した後私がヴェロニカに惑わされたということに気付いたらしい。魔物相手に差別はしないがその分容赦もないということだろう。
「あれで中々勘のいいところがあるのかね?」
「まぁ、普段のルア様を知っているからこそというのもありますわ」
確かに普段の私ならユウタを拘束魔法で捕まえて好き放題やるだろう。そちらの方が効率はいいし、何より手間も少ない。まぁ、その後の事を考えたら簡単にはできないが。媚薬などヴェロニカの提案を聞くまでずっと忘れていた。
「そういうことには敏感なのにルア様には気づいてくれないのですわね」
「ん?何がかね?」
「………鈍いのはお互い様、ですわ」
呆れたようにため息をつくと彼女は座り直し私の首に手を当てた。
「それにしても、もったいないことをしましたね」
「そうかね?」
「あのまま口づけてしまえばユウタ様といえどもう少し進展はあったと思いますわ」
「どうだかね。私はあれ以上したところで同じ結末になりそうにしか思えないのだがね」
「それも否定し切れませんが…本当に不思議なお人ですわ」
「全くだ。ああ、全くだ」
あれを言葉で表せばなんといえるのだろうか。
律儀と言うよりもあれでは頑固といえるのではないだろうか。はたまた堅物?わからずや?とにかく我を曲げないと言うか、真面目というか真っ直ぐというか…わからない。当てはまる言葉が見つからず、表現できるような人間ではないだろう。まだまだ何かを隠しているようで、私の予想をはるかに超える。
「だからこそ、知りたくなってしまうというのが研究者の性なのだがね」
それ故に探求心はくすぐられる。堅いからこそ内側に秘めた何かを見たくてたまらなくなってしまう。
闇の底には何を潜めているのか。
影の中には何を隠しているのか。
夜の奥には何を抱いているのか。
ただそれは、興味と言うには執着にも似ていた気がする。
探求心と言うよりはまるで乙女が抱く―
「ふふっ…」
自分の胸の内にわき出した、言葉に出来ない感情に私は小さく笑った。
「悪いものではないな」
言葉に出来ないもやもやした感情は不思議と心地いいものがある。胸の内を締め上げるようでどこか快い、そんな矛盾した感情に浸っていると不意にドアがノックされた。
「おや?」
「…?」
乾いた音が四度続く。今度はやや強めに。
「…ユウタかね?」
はて、帰宅した彼が私のところを訪ねてくる理由がわからない。忘れ物でもしたというのなら別だがユウタが持ってきたものなど料理用の小麦粉ぐらいだ。財布や貴重品はきちんと管理しているのだし、うっかり置いていくはずがない。
ゆっくりとソファから立ち上がってドアの方へと歩いていく。肩に乗せたヴェロニカを見るが彼女は不振そうな表情を浮かべていた。
「ユウタ様には鍵をお渡しになったのでは?」
「おっとそうだった。これはうっかりしていたよ」
鍵を渡しているのだからノックの後返事を待って鍵を開けることだろう。常にユウタはそうしていた。
なら、誰だ?
「…ヴェロニカ」
「はい」
その一言だけで察した彼女は私の肩からするりと服の中へと身を隠す。
ここが反魔物領域である以上彼女の存在を見つけられたらただでは済まない。それに、こんな廃れた研究所を訪ねてくるものは大抵面倒な輩だ。
催促するようにノックは続く。苛立っているのか先ほどよりもさらに強めに。
「今あける」
ドアの鍵を開け、ゆっくりと開いていくとその先にいたのは―
「…どうも」
「あぁ、これは久方ぶりだ。こんなところに何をしに来たのかね?」
重苦しそうな甲冑に全身を包んだ、ユウタよりも頭二つ分は大きな背丈。肩幅も広く腕や足に至っては丸太の如き太さを持つ。そして十字架を象った剣を腰に備えた男性は―
「騎士団長殿」
ディユシエロ王国の全ての騎士団を統率する騎士の頂点だった。
「ルア様は女性です。そしてユウタ様は男性です」
透き通った青色の唇が妖しく動く。
「女性ならば男性を虜にする術があるでしょう。」
柔らかそうな舌が厭らしく覗く。
「貴方様は大変魅力的な美貌を持っています。ただ、その使い方を知らないだけなのです」
艶やかな肌が部屋の明かりを反射する。
「もしよろしければ…私が手取り足取りご指導いたしますわ」
彼女は女性の私もぞくりとするほど妖艶な笑みを浮かべ、そう言った。
「…君は以前女王の矜持がなんだと言っていたね。女王がそのような品のないことをしていいのかね?」
「ええ、確かに私は女王です。ですが、その前に魔物です。もしこれを機に同胞が増えることとなれば喜ばしいことですわ」
「残念だが私は魔物になど身を落とすつもりはない。そうなったらここでの研究が続けられなくなってしまうからな」
「ですが魔物になれば殿方を籠絡することは容易きこと。貴方様はユウタ様の隣にいたいのなら、ユウタ様を籠絡したいのなら魔物になった方が効率的ですわ」
「効率的…」
その言葉に私は考え込んでしまう。
研究者にとって効率は重要なことだ。無駄を省き、より効率的な手段を用いるのは常識であり、順序を省けるのなら喜んでその方法を選ぶ。誰だって面倒な手順を踏んで結果を得るよりも楽な道を選ぶのと同じ事だ。
故に、迷ってしまう。
「ふむ…」
確かに私は人間であり、今でも男性に対してどのような対応をすべきかはわからない。魅惑の言葉も知らないし、誘惑の仕草なんてまったくわからない。
だが、魔物ならば…。
誰もが美女である魔物にとって男性を誘惑することなど容易いことだろう。それが生まれながらにして備わった本能であり、生きる術だ。目の前にいるスライムの女王ですらこんな体であっても男を誘惑する手練手管を知り尽くしている。
そんな魔物ならば…。
「ユウタ様はお堅い方です。誘惑したところで簡単に転ぶようなお方ではありません。だからこそ、その堅さを利用すべきなのです」
彼女はは笑う。とても淫靡に、悪魔のように。
「ユウタ様はお堅くて、それで優しい方ですわ。ルア様を一人で放っておくようなことをする人ではありません」
「ああ、そうだろうな」
頼み込めばなんだかんだでしてくれるあの男だ。人付き合いの経験は浅くとも優しい部類にはいることは私でもわかる。
「そんなお方がルア様を手込めにし、傷物にしたのなら…どうでしょう?」
甘くとろけるような声色は私の頭の中へと染み込んでくる。研究者としての思考は染め上げられ、論理的な判断が鈍ってく。
あるのは欲と色。
生物的に純粋な本能のみだ。
「男性というのは女性の求めにめっぽう弱いもの。それはユウタさまとて例外ではありません。ですが簡単に籠絡するほど柔な精神をしているとも思えません。ですからユウタ様が自分から襲いかかったとしたら、どうでしょうか」
あの男が。普段私にはあきれ顔を浮かべなんだかんだで世話を焼いてくれるあの男が私に襲いかかってくる。
何をされるかなんて知らないわけではない。これでも研究者、人間の体の構造を知るためにそこらへんのことも調べたことがある。男性というのは生物敵本脳が強く、自分の種を存続させるためそういった行為を強く望むということはわかってる。それはきっとあの男も同じ事だろう。
だからこそ、それを利用する。
余計な言葉はいらない。
無駄な知識もいらない。
必要なのはユウタの本能を刺激するもの、ユウタの理性を焼き切るものだけだ。
「結構嫌なことを考えるスライムだ」
「あら、これでもクイーンですもの。時にはえげつない判断も必要なのですわ」
くすくすと品のある、だが意味深な笑みを浮かべる女王。その笑みの下に張り巡らせた策謀は研究者であっても計り知れないものだろう。
「それで、どうするのですか?」
女王は問う。
「行動へと移るのか、はたまた今のままで満足するのか」
一度踏み外せば二度と戻れぬ堕落の底へと誘うように。
「その先にある甘美な蜜を…啜りたいとは思いませんか?」
その言葉に私は傾いた。
―そして今。
「なぁ、ユウタ。ちょっとお茶を入れてみたのだがどうかね?」
私はユウタをお茶に誘っていた。もっとも誘えるほど私の腕はいいわけがない。今まで研究一筋で生きてきた身である以上研究以外のことなど素人以下だ。
いつものことながら体には現れない勇者の証を探し終えた後、ユウタは真っ白な服に腕を通しボタンを閉めながら少し不思議そうな表情を浮かべた。
「…またずいぶんといきなりというか…急ですね」
そう反応されるのも無理はない。今まで彼の前での私は研究のためと称して服を脱がせたり寝込みを襲ったり膝の上に頭を乗せたりといろいろなことをしてきたのだ。怪訝に思われても疑われても仕方がない。
「何、たまには私も女性らしいことをしければと思っただけだ」
だが私のところにお茶を入れるポットやカップなんて洒落たものはない。無骨な皿や罅の入ったガラスのコップやほこりをかぶったソーサーぐらいだ。
故にお茶を入れるポットの代わりに女性らしさなどかけらも見られないビーカーを用いるのは…仕方ないとあきらめるしかないだろう。
「…」
「…」
「…あの、泡立ってるんですけど変な薬品入ってませんか?」
「私がそのようなものをいれるとおもうのかね?」
頷かれた。
「私の研究は毒物も劇薬も扱わないから安心してくれ」
とは言うがもしかしたら昨日用いた薬品がうっかり残っていたのかもしれない。だが死にはしないだろうから心配は不要だろう。
「…青酸カリでした、なんて言いませんよね?」
「それがなんなのかは知らないが、残っていたとしても人体に害があるものではないことは確かだ。気にしないでくれ」
「結構気になるんですけど」
そう言ってユウタは静かにビーカーに鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。そこまでして私のことが信じられないのかこの男性は。いや、そこまでされるほどのことを私がしてきただけか。
「それじゃあ頂きます」
そう言ってユウタはビーカーに唇をつけた。私たちとは違う顔立ちで紅茶を味わう仕草にはどことなく気品のようなものが漂っている。あのレジーナ王女の護衛をするのだからそこらの最低限のマナーや嗜み方は嫌でもついてしまうのだろう。
一口、二口含んで喉仏が上下する。
―飲んだ。
その事実に内心ほくそ笑む。
ユウタに出したビーカーの中に入っているのはただの紅茶ではない。縁に赤い印を刻み込んだビーカーに私はある薬をいれていた。
それは媚薬。
それもあの商売狸からもらった魔物の用いる強烈な媚薬だ。効果は簡単には収まらず性欲と感度を高ぶらせる典型的なもの。わずかな魔力を混ぜ込んだそれは一滴でも十分な効果を発揮してくれることだろう。
それをユウタに飲ませる。
それがヴェロニカの提案した策である。
いくらお堅く頑固なユウタとは言え一人の男性であることに変わりない。男性というのがどれほど性欲盛んなのかは知らないがきっと彼も根本は変わらないことだろう。
一線引いた態度に節度をわきまえた対応。何が何でも守ろうとする貞操の堅さを打ち破るためには魔物のような手練手管が必要だ。だが私にはそんなもの欠片も持っていない。女として男を惑わせるものなど一つもない。
だからこその媚薬。
その理性を引き剥がし、奥底に隠した本能を引きずり出す。どれだけ強固な理性であっても引きずり出せればこっちにもの。そして私はこれでも女であってユウタは男だ。邪魔するものなど一人もいないこの空間で本能むき出しになれば延びてくる手は私以外に向けられはしまい。
正直言うと少し怖い。
だが同時に興味深くある。
発情したユウタというのはどうなってしまうのか。普段と違う一面はどのようなものなのか。
そして、体を交えるというのはどういうことか。
「…ふふ」
「…?どうかしました?」
「いや、なんでもない」
未知に対する期待に思わず笑みが浮かび不振がられてしまったが誤魔化す。ここでうっかりばれてしまえば私の元へ訪れることもなくなってしまう。お堅い以上に女みたいに繊細な男だ、それだけは阻止しなければ。
もう一口飲み込み喉が動くのを確認して私も紅茶に口を付けた。
「…むっ」
口内に広がってくる茶葉の香りと壮絶な渋み。それなりに香りの強く、それでいて飲みやすいものを用意したのだがそれすら塗り替える強烈な茶葉の苦み。旨みがなにかわからない。いや、美味と感じる要素すらない。
正直に言うとまずかった。思わず吐き出したくなるほどに。
うっかり茶葉を浸しすぎていたのが原因だろうか。いや、そもそも女性らしいことなどしたことのない私がいきなり紅茶なんて入れるべきではなかったのだ。これならもっと簡単に出来るココアパウダーでも買ってくるべきだったか。
だがしかし、顔をしかめる私の前でユウタは涼しい顔をして紅茶を味わっていた。
「よくこんな紅茶が飲めるな…まずくないのかね?」
「自分で淹れて言っちゃいますか」
「事実なのだから仕方ないだろう。正直ここまで酷いとは思っていなかったのだがね」
「まぁ大方初めて淹れたとかうっかり研究の片手間に淹れて失敗したのどっちかですか」
「…両方だ」
そうですかと小さく呟きそれでもユウタは紅茶に口を付ける。眉一つも歪めずにどうしてそう涼しい顔で飲めるのか私には不思議だ。もしかしたらうっかり自分の紅茶だけまずく淹れてしまったのだろうかと思ってしまう。
「もう一度聞くが…まずくないのかね?」
「まぁ味はあれですが…味の問題じゃないんです。出してくれたのなら喜んで頂くべきですよ」
「…ユウタは律儀だな」
「それが礼儀ってもんですから。まぁルアさんの初めてになれたって言うのなら光栄ですけどね」
闇色の瞳がこちらを見据えてからから笑う。邪気のない、子供のように朗らかな笑み。
「…っ」
どうしてだろうか。その笑みを見ているだけで胸が切なくなる。
まるで全力疾走した後のような息苦しさを覚える。
今までに感じたことのないむず痒いような、体の内側が粟立つような感覚だ。
「…?……っ?」
「…ルアさん?」
なぜ私の脈は早くなっていくのだろうか。
なぜ私の体は熱くなっているのだろうか。
なぜ私の息は荒くなっているのだろうか。
なぜ、私はこれほど興奮しているのだろうか。
「…?……っ?」
わからない。手を当てた胸からうるさいくらいに大きな鼓動が伝わってくる。わずかに開いた唇の隙間から漏れる呼吸音は普段よりもずっと早く、体温も異常なほど熱い。
「…ルアさん?」
そんな私を見てユウタも不振に思ったのか手にしていたビーカーを置いてこちらによってくる。
―そのときに見えてしまった。
「…あ」
―ユウタの手で隠されていたビーカーの口の部分。そこにあるはずの赤い印がなかった。
「…っ!」
私が媚薬を淹れたビーカーは口の部分に赤い印があるはずだ。指先で擦ったところで消えないように刻み込んだはずだ。だというのに印がないというのはユウタが魔法で消し去ったのだろうか。
いや、ユウタは魔法が使えない。それに体はまだまだ勇者の印は現れていない。不可解な現象を起こせる要因はユウタにはない。
なら…そう思って私は自分の口を付けたビーカーを見た。
「…あぁ、これは」
―口の部分に赤い印があるビーカーを、見た。
「…うっかりしていた」
媚薬の入ったビーカーで紅茶を飲んでいたのは私だったということだ。
「…っ」
自覚したとたんに下腹部から湧き上がる熱が身を焦がす。むず痒いような、それでも掻いただけでは沈まないだろう疼きを感じて私は膝から崩れ落ちた。
「ルアさん!?」
心配そうにユウタが駆け寄り私の体を抱き起こす。細くも堅い、逞しい二本の腕が体にまわり彼の顔が近づいた。
「ふ…っ」
ただ触れただけ。それでも肌はくすぐったくてぞわりとする。まるで神経を直接刺激されるような感覚であった。
「ちょ、ルアさん何飲んだんですか!?研究ようの薬品でも混ぜたんですか!?」
「失敬な。私とてそのようなうっかりをするはずがないだろう…?」
「…その根拠のない自信はどこから」
まぁユウタの言うとおりだ。彼に投与するはずの媚薬を自分で飲んでしまうのだから私のうっかりにはほとほと困ったものだ。
そんなことを考えても下腹部疼きは止まない。体は熱を帯びて息が荒くなっていく。頭の中までぼやけているのにどうしてかユウタの姿だけははっきりと映る。
流石は魔物の作った媚薬だ。異性を求めて止まなくなると言うのはこういう感覚なのだろう。
そんな状態の私の耳元で声がした。
「もう、何をしているのですかルア様」
呆れたように言葉を紡ぐのは私の首筋に隠れていたヴェロニカだ。さすがの女王も私のうっかりには困り果てているらしい。
「せっかくの機会だというのにうっかりしすぎですわ」
ユウタに聞こえないように小さな声で、私の髪の毛に身を隠しながら彼女は言った。
「ですが………これもまた好機」
ねっとりと絡みつくような独特な甘さを持つ声色で。
「今のルア様を鏡でご覧になってください。潤んだ目も上気した頬も、とても魅力的ですわ」
「…そうかね?」
動悸息切れ体温上昇。そんな状態で何が魅力的なのかはわからないが魔物のヴェロニカが言うのならそうなのだろう。
「ルア様の思いの丈をユウタ様に直接伝えればいいのですわ。真っ直ぐに、体を遣ってでも貴方様の抱いた感情をそのままに、真っ直ぐ見つめながら伝えるのです」
そんなことをやって上手くいくとは思えない。普段から肌を見せろと言っても渋るユウタ相手なのだから。だが助言する相手は魔物。男性を虜にするすべを生まれながらに知っている存在だ。
このまま疼きに苦しむのか、魔物の声に耳を貸して先へ進むのか、どちらが私の求める結果を出せるのか。正常ではない頭でもすぐに答えは出せた。
「ルアさん?」
怪訝そうに私の顔をのぞき込んでくるユウタ。闇色の瞳が近づき思わず吸い込まれそうな感覚に陥る。いつも感じていた不思議な感覚だが今ではどうしてこうも胸を高鳴らせてくれるのだろう。
体が疼く。胸が高鳴る。心臓が早鐘のように脈打ち、荒い呼吸を繰りかえす。そんな私の首筋で女王はささやいた。
「ルア様、今ですわ」
ヴェロニカの言葉に私はユウタを押し倒した。
「…え?」
突然体勢を変えられ動きを止めるユウタ。そこをここぞとばかりに私は倒れ込んだ。
ユウタの体と私の体が重なり合う。服越しでも感じられる堅い感触は筋肉によるものだろう。引き絞られた筋肉は年下ながらも逞しい。
下腹部をさらに疼かせるのは男性の香り。甘いものではないもののもっと嗅ぎたくなる、癖になるような匂いに力がこもる。
「なぁ、ユウタ」
私は顔を近づける。闇をはめ込んだ瞳はまっすぐにこちらを見つめながらも困惑の色を隠せない。
「な、んですか?」
「体が熱い…息が苦しい…頭が、おかしくなりそうだ…」
「待っててくださいよ。今医者でも呼んできますから」
「いや、医者などいらない。それよりも…ユウタ、君に沈めて欲しいんだ」
「えっ」
ユウタの体が強張るのがわかった。興奮か、はたまた照れているのか頬は赤く染まっている。中々どうして色っぽく見えるのは別世界の人間だからか、はたまたユウタだからか。
「君がこの疼きを沈めてさえくれれば私は…」
自分の紡ぐ言葉にぞくりと背筋が震える。
にやりと首筋でヴェロニカが微笑むのがわかる。
びくりとユウタの体が跳ねる。
「私は、何をされてもかまわない」
その一言にユウタは逃げるように身を捩った。だがそんなことは許さない。こんな状態で魔法を使えなくとも手足を絡めれば十分だろう。
胸がつぶれて顔が寄り、熱い吐息を吹きかける。すると、ユウタの力が弱まった。
「もう一押しですわ♪もっと唇を近づけて、もっと体を重ねて」
言われたとおりに私はユウタの体にもたれ掛かるように体を寄せた。唇を耳元へ近づけ、服越しでも隠せない逞しい肉体に指先を這わせる。擦りつけるように顔を擦りつければ髪の毛が肌に触れた。
「そして」
スライムの女王はきっと淫らな笑みを浮かべていたことだろう。とても魔物らしく、そして残酷な悪魔のような表情だったに違いない。
「堕として…♪」
心臓は早鐘のように鼓動を刻み、肌にはうっすらと汗が滲む。体の疼きは止まらない。下腹部から燃え上がるような熱が生まれ体に広がっていく。爪で引っかこうが消えず疼きは切なさとなりもどかしさへと変わる。
「ユウタ…っ」
早くこの疼きを止めて欲しい。
早くこの高鳴りを止めて欲しい。
一人ではどうにもできない感覚をユウタにどうにかしてほしい。
「あの…ルア、さん」
「何かね…早く君にこの疼きを止めて欲しいのだが」
「か、確認させてほしいんですが…なんでこんなことを?」
「こんな、こと…?」
指先が、声が震えながらもユウタはこちらを見つめ返す。そんなユウタに私は手早く論理的な回答をした。
「簡単だ…発情した女がいる。傍には男が、ユウタがいる。私はこの疼きを止めてほしくユウタはまぁ協力的だ。それに行為には互いに快楽が伴う。それなら君にも悪い話じゃないだろう」
「………そんな善し悪しだけでやるっていうんですか?」
「いや、それだけじゃ、ないぞ。それだけじゃない…」
若干落ち着きを取り戻しつつあるユウタに焦りが生じる。
やはり慣れぬことはするべきではない。そもそも男性を誘惑すること自体初めてなのだし、頭も媚薬でまともに回らない。だが腐っても研究者、冷静な判断はできそうにないが明確な論理を立てることはできる。
「この方が、私にとっても君にとっても効率的だからだ」
疼きの止まない私。
少しは協力的なユウタ。
ここで一線踏み越えればユウタはもっと協力的になることだろう。疼きを止めることができ、関係を持つことができれば最高の成果だと言える。これが最も効率的な手段のはずだ。当初予定したこととは大きく逸れてしまったが同じ成果が出せるのならその過程などどうでもいい。研究者らしからぬ考えだがそう考えてしまうほど焦りと興奮が私を惑わしてくる。
しかしその一言はユウタの動きを止めた。
「…ああ、そうですか」
その言葉は金属のように無機質で、氷のように冷たくて、刃の如く鋭かった。
「そりゃ効率は大切ですよね」
先ほどとは打って変わって柔らかな笑みを浮かべている。だがどうしてか、その笑みは仮面の如く張り付けたような笑みに見える。発情した体でもわかる、無機質すぎて恐ろしい笑みだ。
「ですが、ルアさん。互いに労力をかけずに事をすます方が効率いいと思いませんか?」
その言葉に応える前にユウタの手が私の顎に添えられた。手のひらを押しつけて指を顎に添えて、そしてにこりと微笑まれる。
ぞっとした。
普段の笑みとは違う笑み。暖かさも穏やかさも全くない冷たい笑み。先ほど身を捩って顔を赤くしていた者と同一人物とは思えない。
どこか自由気ままで気まぐれで、それでも頑固で真っ直ぐなユウタ。動物で言えばどこか犬や猫のような仕草があるのだが今の彼はそのどちらでもない。
まるで狼や獅子のような気迫。それでいて冷ややかな声色。それは本当にユウタなのだろうか。
「効率は、大事ですもんねぇ」
吐き捨てるような声が届いた次の瞬間。
ごずん、形容するならばそのような音だろう。顎から頭へ向かって衝撃が打ち出された。痛みはない。ただ頭をがむしゃらに振ったかのような目眩がする。しかし、徐々に手足の感覚は消え去りやがて視界が暗転する。
何が?疑問に思う暇すらなく私の意識は闇の中へと消えていった。
瞼を開いた先に見えたのは見慣れた天井だった。薄汚れ具合は相変わらずでそろそろ掃除をすべきかと考えてしまう。
「…いや」
気にするべきところはそこではない。そもそも私は何をしていたかだ。
またうっかり倒れてしまったのだろうか。ここ最近はちゃんと休息をとっていたというのにか。いや、うっかり開発した魔法で気絶してしまったということもありうる。だがそれならどうして私の下には柔らかなソファの感触があるのだろうか。
あたりを見回す。するとすぐ傍に見覚えのある黒い色が見えた。
「…あぁ、ユウタかね」
「ええ、そうですよ」
隣にはユウタが座っていた。その目は呆れに呆れ、疲れたようにため息をついている。
ああ、そうか。
彼の顔を見て徐々に意識がはっきりとしてくる。そして何が起きたのかも理解する。体の疼きは消え失せていることからして既に媚薬の効果は消えたのだろう。
「…ユウタ。酷いのではないのかね?」
私はどうやらユウタの手にかかって気絶していたらしい。顎に手を添えたのは殴りつけるためのものであり、見事私の意識は一撃で刈り取られわけだ。
研究者相手にあのような一撃を打たれては抵抗なんてできるわけがない。元々肉弾戦は苦手だし、今まで運動すらろくにしていないのだ、さらには発情中というあの状況でよけられるはずがない。
だがユウタは呆れたように行った。
「酷いのはどっちですか?まったく…」
「何?私の方が酷いのかね?」
「ええ、酷いですよ。もういろんな意味で。何が効率的ですか。」
これでも私だって考えに考えた結果なのだがそれをユウタはわかっていない。だが、言ったところで理解してくれるとも思えない。
―無機質な冷たい笑み。
きっと私は触れてはならないものに触れた。ユウタの奥に隠れた闇の部分。その奥で彼が隠している一つの感情。欠片だったのかもしれないが、できれば二度と見たくない。
「言ったでしょう?オレは人間です。ルアさんも人間です。人間ならもっと別のことを大切にしてください」
「別のこと?」
「合理性だけを求める実験や検証じゃないんですよ。そんなことでしたらただ後悔するだけです」
こんな行き遅れの女だ。合理性で行っても後悔するようなことなどない。あのまま襲われたとしても純潔を散らすこととなっても同じことを言えただろう。
だがそう言おうにもまっすぐに向けられた闇色の瞳に言葉がでなかった。
全てを飲み込みそうな黒い色。混じりけなしの純粋な瞳に宿すのは強い意志。それから迷いのないまっすぐな言葉に私は静かに頷いた。
「…そうだな、君が言うのならそうしようか」
「是非そうしてください」
だが言いくるめられてはいそうですかと言うほど私は物わかりはよくない。研究者が他人の言葉で止まれる生物ではない。転んでもただで起きるようなほど抜けてはいない。
結局のところ媚薬を用いたことは失敗だったがそれでも終わりではない。一度の失敗で躓くほど脆くはないのだ。
「なら、これぐらいならいいだろう?」
「あ」
私はユウタの膝上に頭を乗せた。以前と変わらぬやや堅めの、それでいて優しい暖かさのある枕だ。
「……全く仕方ないですね」
困ったようにため息をつきながら、それでも柔らかく微笑みながらユウタは私の頭の上に手を乗せた。髪の毛を解かすように上から下へと手のひらが撫でていく。
「…この歳で頭を撫でられるとはな……」
「あぁ、すいません。つい…嫌でしたか?」
「…」
目を閉じてその感触を教授する。柔らかく撫でゆく彼の手のひらは暖かい。膝枕とはまた違った心地よさを感じるものだ。
「…嫌、ではないな。続けてくれ」
「わかりました」
そのまま瞼を閉じる。先ほどまで気絶していたというのに穏やかな感覚に体は今にも眠りそうになる。
そのまま身を委ねるように意識を手放しかけて、ふとある疑問が浮かんだ。
「そうだ、一つ聞きたいことがあったのだがいいかね?」
「はい?」
疑問を解消することは研究者として当然の生き方だ。わずかな疑問から新たな発見が生まれることもあるのだし、そこからまた新しい道が生まれ別の研究へとつながるかもしれない。疑問を抱くことは研究者の癖のようなものなら発見を見いだすことが生き方だろう。
私は抱いた疑問を彼に投げかける。
「私の体に興奮したかね?」
きっとユウタには答えづらいことだったかもしれない。過度な接触を拒みこんな私相手でも女性扱いするユウタのことだ、そういうことはあまり答えたくない人間だろう。
だが抱いた疑問を解消するにはこれしかない。私が悩んで解けるものではないし、ヴェロニカに聞いたところで答えが変わってしまう。やはりこういうものは異性の言葉を聞いてみたい。
「どうかね、ユウタ」
催促するように彼の名を呼びその顔を見上げるとユウタは―
「―…………ノーコメント」
短く答えてそっぽを向いていた。
「…そうかね」
そう言われては仕方ない。今回はここで聞くのを諦めよう。諦めなど研究者としてやってはいけないことだがこれ以上ユウタが拒否することをすべきではない。また先ほどのようなものを見せつけられては今度こそ彼に見放されてしまう。
だが。
「それは上々だ」
どうやら私も女として捨てたものではないらしい。別世界の男性を興奮させられる程度にはまだまだ魅力があるということだ。
言葉にしなくともわかってしまうその答えに私は瞼を閉じる。対してユウタはこちらを見ずにそっぽを向いたままでいた。恥ずかしげに耳まで真っ赤に染めながら。
「…あぁ、それとヴェロニカはどうした?」
「小麦粉の中にいますよ」
「…は?」
「お仕置きです」
「ひどい目にあいましたわ」
「まさか本当に小麦粉塗れにされるとは大変だったな」
「まったくですわ」
ユウタの帰ってしまった後私は終わった実験の片付けをしていた。そんな私の肩の上ではヴェロニカが両足をそろえて座っている。先ほどまでユウタにお仕置きと称され小麦粉内に叩き込まれていたからか少し白い。
どうやら気絶した後私がヴェロニカに惑わされたということに気付いたらしい。魔物相手に差別はしないがその分容赦もないということだろう。
「あれで中々勘のいいところがあるのかね?」
「まぁ、普段のルア様を知っているからこそというのもありますわ」
確かに普段の私ならユウタを拘束魔法で捕まえて好き放題やるだろう。そちらの方が効率はいいし、何より手間も少ない。まぁ、その後の事を考えたら簡単にはできないが。媚薬などヴェロニカの提案を聞くまでずっと忘れていた。
「そういうことには敏感なのにルア様には気づいてくれないのですわね」
「ん?何がかね?」
「………鈍いのはお互い様、ですわ」
呆れたようにため息をつくと彼女は座り直し私の首に手を当てた。
「それにしても、もったいないことをしましたね」
「そうかね?」
「あのまま口づけてしまえばユウタ様といえどもう少し進展はあったと思いますわ」
「どうだかね。私はあれ以上したところで同じ結末になりそうにしか思えないのだがね」
「それも否定し切れませんが…本当に不思議なお人ですわ」
「全くだ。ああ、全くだ」
あれを言葉で表せばなんといえるのだろうか。
律儀と言うよりもあれでは頑固といえるのではないだろうか。はたまた堅物?わからずや?とにかく我を曲げないと言うか、真面目というか真っ直ぐというか…わからない。当てはまる言葉が見つからず、表現できるような人間ではないだろう。まだまだ何かを隠しているようで、私の予想をはるかに超える。
「だからこそ、知りたくなってしまうというのが研究者の性なのだがね」
それ故に探求心はくすぐられる。堅いからこそ内側に秘めた何かを見たくてたまらなくなってしまう。
闇の底には何を潜めているのか。
影の中には何を隠しているのか。
夜の奥には何を抱いているのか。
ただそれは、興味と言うには執着にも似ていた気がする。
探求心と言うよりはまるで乙女が抱く―
「ふふっ…」
自分の胸の内にわき出した、言葉に出来ない感情に私は小さく笑った。
「悪いものではないな」
言葉に出来ないもやもやした感情は不思議と心地いいものがある。胸の内を締め上げるようでどこか快い、そんな矛盾した感情に浸っていると不意にドアがノックされた。
「おや?」
「…?」
乾いた音が四度続く。今度はやや強めに。
「…ユウタかね?」
はて、帰宅した彼が私のところを訪ねてくる理由がわからない。忘れ物でもしたというのなら別だがユウタが持ってきたものなど料理用の小麦粉ぐらいだ。財布や貴重品はきちんと管理しているのだし、うっかり置いていくはずがない。
ゆっくりとソファから立ち上がってドアの方へと歩いていく。肩に乗せたヴェロニカを見るが彼女は不振そうな表情を浮かべていた。
「ユウタ様には鍵をお渡しになったのでは?」
「おっとそうだった。これはうっかりしていたよ」
鍵を渡しているのだからノックの後返事を待って鍵を開けることだろう。常にユウタはそうしていた。
なら、誰だ?
「…ヴェロニカ」
「はい」
その一言だけで察した彼女は私の肩からするりと服の中へと身を隠す。
ここが反魔物領域である以上彼女の存在を見つけられたらただでは済まない。それに、こんな廃れた研究所を訪ねてくるものは大抵面倒な輩だ。
催促するようにノックは続く。苛立っているのか先ほどよりもさらに強めに。
「今あける」
ドアの鍵を開け、ゆっくりと開いていくとその先にいたのは―
「…どうも」
「あぁ、これは久方ぶりだ。こんなところに何をしに来たのかね?」
重苦しそうな甲冑に全身を包んだ、ユウタよりも頭二つ分は大きな背丈。肩幅も広く腕や足に至っては丸太の如き太さを持つ。そして十字架を象った剣を腰に備えた男性は―
「騎士団長殿」
ディユシエロ王国の全ての騎士団を統率する騎士の頂点だった。
14/08/31 23:30更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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