昼の顔と覗く寂しさ
昼食としてとある食事所でうどんを啜っているとベルトにくくりつけた棒が震えだした。
「んむ?」
うどんをかみきりまるで携帯電話のバイブレーションみたいに震えるそれを引き抜いた。
それは十手。同心の証であり、罪人を捕らえる際に用いる武器だ。その取っ手の部分にはカラス天狗の先輩のものだという証か三つ足の八咫烏の紋章が刻まれている。
それを二度、机の上で叩くと今度は音叉のように甲高い音を響かせて十手が震えた。
「…聞こえるかゆうた」
「はい?何でしょうか先輩」
聞こえるのはここにはいない先輩の声。聞こえる度に十手の先が震えて音を響かせる。この十手、先輩の神通力を用いて作られた遠距離情報伝達器だ。早い話が携帯電話やトランシーバーのような機能付き十手である。
「やっかいごとが起きたぞ。向かってくれ」
「…今昼飯中なんですが」
「そんなこと関係あるか」
十手に向かって話しかける。それは奇妙な光景であり、また応じる十手もさぞ奇怪に映ることだろう。携帯電話を知っている身としてはそこまで驚きはしなかったが。
「どうやら男と妖怪がもめているらしい」
「へぇ?妖怪が?そりゃまた珍しいですね」
基本人に対して友好的な彼女たちが突っかかるような真似はしないはずだ。呉服屋のジョロウグモのしのさんも、九尾の稲荷であるいづなさんも街を行き交う妖怪達も自分から争いごとを起こすような人はいない…はずだ。
「その場に赴き現状の報告、その後は私の指示を待て。用意ができたらすぐに迎え」
「じゃもう少しで食べ終わるので待ってくださいよ」
「待てるか馬鹿者。さっさと食べて行け」
「早食いは太る原因になりますよ」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
「あれ?先輩?」
ごくんと、喉をならす音が伝わってきた。どうやら彼女も昼食中だったらしい。
しかし今の一言を気にするとはやっぱり先輩も女性だななんて考えていると低い声が響いた。
「いけ」
「ああ、もうわかりましたよまったく仕方ありませんね」
残ったうどんを無理矢理かきこみ、ベルトにくくりつけた財布用の袋から銭を取り出し机にたたきつける。お店の人にそのことを伝えるとすぐさまその場から飛び出し指示された場所へと直行するのだった。
指示された場所へ赴くと一目で理解できた。周りと違って人だかりのできたそこは中央だけ皆離れている。騒ぎの中心にいるのは腰に刀を下げた男が三人と見覚えのある妖怪の姿。つい先日みた緑色の肌に艶やかな黒髪。それから体を覆う体毛にタランチュラのような下半身。
―ウシオニ?
間違いなくあの夜出会ったきなささんと同じ特徴だ。だが、どうしたのだろう。この街でウシオニを見かけることなど今までなかった。少なくとも真っ昼間にこのように活気あふれる場所では。
「あの、何かあったんですか?」
野次馬の人たちから事情を聞くと隣で背伸びをしていた中年女性が答えてくれた。
「あの三人が足が当たったとかでウシオニ相手に因縁つけてるみたいなのよ」
「あんなのに喧嘩ふっかけるなんざ命知らずなこった」
今度は中年男性がそう言っているのだが誰も入っていこうとしないのは男三人が刀を持っているからか。はたまた相手がウシオニだからか。
皆割って入ることもせず奇異の視線を向けている。大方見慣れぬウシオニが珍しいということだろう。ただ怖いもの見たさにここにきているのかもしれない。
「…」
ただ。
誰かが助けに入らないのはウシオニという存在を知っているからだろうか。この現状で危険なのは彼女ではなく、男達の方だとわかっているからだろうか。
だが、このまま黙って見ているのは気持ちのいいものではない。ウシオニといえ女性であり、その女性に男三人が刀を持って喧嘩をふっかけているのだから。
「…先輩」
人混みからわずかに離れた場所で先輩へ報告する。
「どうもウシオニが刀持った男三人に因縁ふっかけられてるみたいです。なんでも足が当たったとかで」
「下らんことだな」
先輩は吐き捨てるように言った。
「どこぞのチンピラがまだうろついていたのか。刀を下げただけで強いもの気取りの阿呆共だ」
「どうしましょうか」
「実際そのまま放っておけば静まるだろう。たかだか刀を持っただけでウシオニに勝てるはずがないだろうしな」
そこで一度彼女は言葉を区切った。
「だが、街の治安を乱す輩を取り締まるのが私たち同心だ。その場合ゆうた、お前はなにをすべきだ?」
同心として誰をも平等に扱うべきだとよく言うが、それでも彼女はやはり同じ妖怪は見捨てられないらしい。反面悪人であれば誰だろうと取り締まる。助けのいらぬウシオニだろうが助けるし、必要以上に暴力を振るうのなら人間だろうと容赦しない。
そして、オレもまた同じ。例え手を加えずとも収まる事態だったとしても女性が男性に襲われるのを見捨てられるほど白状ではない。
「行ってきていいんですね」
「近くに川があるだろう?頭を冷やすにはもってこいだ」
「了解」
十手を握りしめると人混みの中をかき分けて進んでいく。そして怒鳴り声でわめき散らす男の前に、ウシオニの彼女の前に出たオレはぱんと手を叩いた。
「お兄さん、職務質問いいですか?」
ざばんとたいそうな音を立てて水柱があがる。両手についた埃を払うと側に置いた刀三本を抱える。先ほどチンピラから奪いもとい没収したものだ。刃で人を脅すような輩には刀を持つにはふさわしくない。故にこの刀はこちらで処理しておこう。
「大丈夫ですか、ウシオニのお姉さん」
そうしてようやく振り返ったその姿に体の動きが止まった。
切れ長で獰猛な色を宿した瞳。すっと通った鼻筋に唇の間からわずかに覗く鋭い八重歯。凶暴さがありながらもどこか美しく、それで儚さを持ち合わせた不思議な色香を漂わせる顔つき。
それは見覚えのあるもの。
見覚えどころかその姿は―
―つい先日オレの傍で酒を飲んでいたきなささんの姿。
「っ」
あ、まずい。
自然視線は逸れ、顔も背けてしまった。
もしかしたらとは思っていがた本当にそうだとは思いたくなかった。こんな街中であんな夜を過ごした女性と鉢合わせなんてタイミングが悪すぎる。
いや、だが顔はばれてないはず。あのときは面をしていたからオレの顔なんて知らないはずだ。
「………かわった奴だな、お前。わざわざあたしの助けに入るなんてよ」
あの夜とにたようなことを口にするきなささん。やはりオレの行動は彼女の目から見ても異常であることに変わりないらしい。
「周りの連中だって見てるだけだってのに」
「そ、そうですか…」
「ん…?」
思わず出てしまった声に口を押さえるが彼女はオレの肩を掴んだ。わりと強めの力で。
「…なぁ、あんた。あたしとどっかで会ったか?」
「えっ!」
「どっかで聞いた気がすんだよな、その声…」
「っ!!」
声。
あのときは面をしていただけで変声器など遣ってはいない。というかこの世界にそんなものあるわけがない。
まずい。声は誤魔化しようがない。
「…イエ、キノセイカト」
とすれば、裏声になるのは仕方のないことだった。喉に負担がかかるがばれるよりかはましだろう。きなささんは怪訝そうな表情を浮かべているが。
「…そうか?そういや前にもそんな奴が居たな。襲おうとしても平然と拒否して、それなのに酒を注ぎにくるような奴がよ」
「ヘェ、カワッタヒトガイマスネ」
喉が痛い。それでもがんばっているときなささんは首筋に顔を寄せまるで耳をなめるようにささやいた。
「ちょうど、こんな匂いがしたなぁ」
「っ!」
―匂い
忘れていた。妖怪というのは人間以上に嗅覚が鋭いことを。そして彼女はあの一晩に確認していたことを。
思わず固まった体に手を置くときなささんはオレに噛みつかんばかりに顔を寄せてきた。
その瞳に宿っているのはあの夜にみた獣の、捕食者と知らしめんばかりの光だ。
「声で誤魔化せると思ってんのかよ」
「いぇ…」
みしりと音を立てそうな腕の力にオレはため息をついた。流石にこの力からは逃げられない。抵抗したところで意味もない。それなら素直に従った方が身のためだ。
それを察したのかきなささんは笑みを浮かべると片手でオレを抱き上げた。健全な高校男児、かなりの重さがあるというのに片手で軽々とだ。流石はオニというところか。
ただ、何で抱き上げられているのだろう。
「あの、何してんですか」
「ちょいととあたしにつきあっとくれよ」
「つきあうっていってもオレ仕事中なんですが」
「なんだよ。どうせ夜酒を注ぐだけだろ?」
「こっちが本職なんですよ。あれは助っ人として一晩だけやっただけです」
「なら昼間は酒じゃないならいいだろ?」
「だから仕事中なんですって」
そうはいっても彼女は聞く耳持たずに進んでいく。オレを抱え上げたまま。町ゆく者は皆道をあけ、中には悲鳴に似た声を漏らす人もいる。それでもきなささんは特に気にした様子はない。
がしゃがしゃと音を立てて蜘蛛の足で大通りをいくらか進んだ後、彼女は立ち止まってあたりを見渡していた。何かを探すように…いや、何かを確かめるように。
「んん?ここらに団子屋があったはずなのに…なぁ、あんた。ここらにいい甘味所はないのか?」
「…?河原に団子屋がありますが」
「じゃその場所教えとくれよ」
「だから仕事中なんですって…」
そうはいってもやはり聞く耳を持たない彼女にオレは諦め渋々団子屋の場所を教える。そうして気づけば河原の団子屋に二人並んで腰をおろしていた。流石に逃げることもできず、また失礼きわまりないので諦めておばちゃんに団子を二人分注文する。数分後には震えるおばちゃんが二人分の団子をオレに手渡してすぐさま店の中に引っ込んでいった。
「…」
ちらりときなささんを見るが彼女は団子をおいしそうに食べている。先ほどのおばちゃんの行動は別に気にもしていないらしい。
―ウシオニ故、だろうか。
「ここの団子はうまいな」
団子を頬張って笑みを浮かべるきなささんの姿を横目で確認する。緑色の肌にタランチュラのような下半身。頭に生えた角に人間以上の大きな手。鋭くぎらつく八重歯に獰猛な獣の様な瞳。
紛れもない人間ではない姿。
疑いようのないウシオニの姿。
「…」
だがその姿を見て疑問に思う。
ウシオニというのは問答無用で襲いかかって来るものではなかったか。あの夜は襲いかかってはこなかったが無理矢理迫っては来た。あと一歩、抵抗しなければ無理やりにでもされていた。だというのに今の彼女はそんな素振り欠片もない。
ウシオニ、なんだよな…?
先輩から聞いたものとはだいぶ違う。少なくとも今この状況ではウシオニらしい振る舞いではない。それは人間のような個性がウシオニにもあるからだろうか。彼女はウシオニの中では慎ましい方なのか。詳しく知らないオレにはどう考えても結論なんてでやしない。
特に会話もなく団子を食べ続ける。食べ終えるまでには時間はそうかからなかった。皿に串を置くときなささんは河原を見据えたまま話しかけてくる。
「あんた、名前はなんていうんだ?」
「え?」
「名前だ名前。あたしだけしか言ってなかったろ?」
団子と共に置かれていた湯飲み茶碗に手を伸ばすと大きな手で器用に持ち上げる。
「人様の名前を聞くだけ聞いとくっていうのは失礼だろ…つってもあたしは人じゃないけどさ」
「…まぁ、そうですが」
「それとも何だ?あんなところで働いてたって知られたくないのか?まぁそんな身なりしてるんじゃ有名な武家の出なんだろ、あんた。ばれたら手打ちにでもされるのか?」
「いえ、一般市民ですが」
でもあんなところで働いてたとは知られたくない。知られたところで問題にはならないと先輩はいうがこちとら現代で培った価値観というものがあるのだから。
「ふぅん。なら、名前教えとくれよ」
「…ゆうた、ですよ。黒崎ゆうた」
「ゆうたか」
きなささんは何度か唇でオレの名を紡ぐ。馴染ませるようにというよりもどこか遠くを眺めながら思い出に浸るように。
「そっか、ゆうたか。なぁ、ゆうた。あんた同心なんだろ?」
「ええ、まぁ一応は」
「ならこの町のことは詳しいわけだ」
「別にすべてに詳しいわけじゃないですよ?ただここらを担当してるってだけで他の場所はそこまでじゃありません」
「…なら」
ずいっと身を乗り出して彼女はオレの瞳をのぞき込む。何かを期待するように目を光らせる様はこの前見せたぎらつくものとはまた違っていた。
「ちょっと探して欲しい家があるんだ。あんたがわかる限りで構わないから一緒に探してくれないか?」
「…家?」
「ああ、大通り沿いから外れた、大きな家だ。春になると梅の花が咲いてきれいなんだよ」
「そりゃまた…」
あまりにも条件が少なすぎる。オレが知っているだけでも梅の咲く場所は数十カ所はある。そのどこかを探し出すとなれば日が暮れる程度じゃ済まないだろう。
だがどうして彼女はそんなものを探しているのだろうか。観光目的なら家よりも梅の咲き誇る名所に行くはずなのに。
ここは素直に聞いてみようか。そう思い立ったが真っ直ぐこちらを見つめる視線に言葉が出ない。
真っ直ぐ向けられた瞳。それは獣のような獰猛さはない、強い意志を宿したもの。それが何かはわからないが聞くのは気が引ける。それはとても大切なもので、他人のオレが踏み込んではいけないように思えてしまって憚られる。
「頼むよ。あんた以外に頼めるなんて居ないんだよ」
「…」
ウシオニ故に、誰も頼れないということだろう。その言葉がいやに響いてきた。
「…オレ一人じゃ無理があります。けど」
きなささんを見ながら腰に指した十手に触れる。
この町を取り締まる人なら…どこが治安が悪いのか、どこが栄えているのか、どこでスリが置きやすく、どこに辻斬りが出やすいのか。そういったことに詳しい人なら些細な情報でもわかるのではないか。
「少し待っててくださいよ」
これも一つの人助け。目の前で困る女性を放っておくことなど同心にはあってはいけないこと。ならきっと先輩も協力してくれることだろう。
それに、袖振りあうのも多生の縁だ。それならもう少しだけ関わるのも悪いものじゃない。
そう思ってベルトにさした十手を握り込むと先端を指先で弾くのだった。
先輩から聞いた話に寄れば梅の花が咲く場所など数え切れないほどあるという。だが、そこから家の位置を割り出すのならそこまで大変じゃないらしい。大通りから離れている、その情報だけでも絞り込むには十分だったらしく彼女は思い当たる場所を教えてくれた。
考えられる場所は五カ所。
たった五カ所ならば回るのはたやすい。後は虱潰しに当たっていけばいいだけだ。
「えっと…この角を曲がってだから…」
先輩から教わった通りに街を歩いていく。いや、歩いていくというのは間違いかもしれない。なぜなら今もオレはきなささんに抱き上げられているのだから。
「んで、次はどっちに進むんだ?」
「右ですね」
腰に手を回し体の感触を確かめるかのように腕で抱き寄せる。担ぎ上げるようなものではないが女性に抱かれているというのは男として恥ずかしい。相手がウシオニで抵抗できないとわかっていてもだ。
「あの、離してくれませんか?オレなら逃げないってわかってますよね」
「何でだよ。別にこっちの方が楽だろ」
「楽以前の問題なんですよ」
そう言っても彼女は腕を緩めない。それどころかオレの言葉により一層力を込めた気がする。身を捩って何とか抜け出そうにもこれでは無理そうだ。
だがこの姿勢だと背中に大きな胸が当たる。牛という名に恥じない大きな胸はオレの背中で柔らかく潰れ学ラン越しだというのにその感触をはっきり伝えてくる。
男だったら誰もが揉んでみたいと思うほどの大きさ。それを惜しげもなく背中に押し付けられるのだからたまったもんじゃない。身を捩ったところでその感触が脳髄に突き刺さるだけだ。
だが。
「…あの人、たすからねぇだろうな」
「たいそう身分の高そうな格好して目立ってるせいだな」
「おぉ、くわばらくわばら」
この地区は担当外なので顔ぶれも知らぬ人ばかり。そんな人たちはきなささんを見て恐れの声をあげ、集まっては何かを話してる。小さくもはっきりと耳に届くその声はきなささんにはどう聞こえるのだろうか。
町の人の反応は先輩から聞いたまんまだ。
ウシオニというのは本来山奥に住んでいる妖怪の一人である。そして時には人里に降りてきて男性を攫っていくという。
その獰猛な気質故のせいか、人間離れした怪力のせいか、人には酷く恐れられるという。場所によっては山神として奉られるがきっとそれは恐怖故のものであり、生け贄を捧げることもあるという。
それはこの町とて例外ではない。ウシオニという存在に恐怖することが当然であり。襲われないかびくびくすることが常識である。それだけ彼女の存在は脅威的と言うことだろうか。
「…」
恐れられて、さげすまれて、それでもそんなことを気にするほど繊細な性格ではないだろうと先輩は酒を片手に言っていたが…きなささんはどうもそうと思えない。
特に表情のない顔で何を思っているのだろうか。
町ゆく人の反応に何を考えているのだろうか。
それはわからない。
ただ、すれ違う度にオレの方を抱く手に力がこもる。そして気にする素振りを見せずにオレに聞く。
「んで、次はどっちだよ」
「今度は左の小道を行けばすぐらしいですが」
指示に従ってきなささんはただ歩いていく。がしゃがしゃと奇妙な音を響かせながら。
「あとは?」
「続いてそこの小道を行ってください。そこをしばらく進めばいいはずです」
「よし」
また右に曲がると今度はきなささんがぎりぎりに通れる小道に入った。住宅街である長屋や大きな店の間らしく人気がない殺風景な場所だ。端の方で猫が丸まり、道は申し訳程度の整備しかされてないところを見ると通行人もそういないらしい。
そんな道を彼女はオレを抱きしめながら進む。だが、路地の半分まで進んだその時。
「んむっ」
「ひぁっ!?」
突然首筋に生暖かいものを押し付けられ変な声が出た。
「な、なんですか!?何したんですか!?」
「あの夜味見してなかったなと思って舐めただけだぞ。取り乱すなよ」
「舐め!?い、いきなりそんなことされりゃ誰だって取り乱しますよ!!」
ざらりとした感触が首筋を這う。命を繋ぐ大切な器官のある部分を舐められるというのは言葉にできないものだ。恐怖心を刺激しながらも甘い感覚をもたらすのだから。
「え?」
突然目の前の光景が壁にすり替わる。いや、きなささんが体の向きを横に変えたらしい。
「きなささん?何、をっ?!」
次の瞬間体が壁に押し付けられた。
ウシオニの力で一方的に抑えこまれる。背中からされれば逃げるにも逃げられない。これでは抵抗すらままならない。背中越しに胸を押し付けられねっとりと唾液を塗りたくるように舌が頬を撫でていく。
「なぁ、いいだろ…」
聞いているようで答えは求めていない一方的な言動。人気がなくなったことをいいことに彼女は本質を露わにしたようだ。どうやら根本はウシオニであることに違いないらしい。
だがここは裏路地とはいえ人の行きかう道が傍にある。さらにはまだまだ人もいる午後の時間だ。人気がなかろうが誰かが通らないとは限らない。
…いや、通ったところできなささんを見れば逃げ出してしまうか。
「いいわけ、ないでしょうが…!なんですかいきなり…っ!」
「どうせ夜じゃさせやしねぇなら昼間ならいいだろ?」
「もっとダメに決まってるでしょうがっ!離してくださいよっ!!」
「そもそもウシオニ相手に逃げ出しやしねぇ時点で襲ってくれって言ってるようなもんだぞ?」
熱い吐息が耳をくすぐる。鋭い歯で首を甘く噛み、色っぽく指先が体をくすぐった。学ラン越しでもはっきり伝わってくる感触にオレはただ体を震わせることしかできない。
「男だったら腹切るぐらいの覚悟は常にしとけよ。まぁ、覚悟する前にあたしの方が我慢できねぇけど」
大きな手が脇腹を撫でズボンにかかる。ズボンの間に指を差し込むのだがここでは見られないベルトに手間取ったのかなかなか下がらない。
今のうちに…そう思って片腕を捩じり引き抜くと背後のきなささんの顔を掴んだ。
「むぐっ!」
「ほらそこ!すぐそこですからっ!先にそっち行きますよっ!」
小道を抜けた先にある光。その向こう側に見えたのは先輩から教えられた目的地だった。
「…ここはどうですか?」
そしてオレときなささんは気づけば三つ目の目的地の一軒家に来ていた。大きな軒に大きな屋根、広い敷地に立派に立つ門はここら一帯ではかなりの金持ちなのだろうか。もしかしたら武家か何かの家なのだろう。
「…」
その家を何もいわずにただじっと見つめるきなささん。覗き込んだ瞳の奥に見て取れるのは観光気分など楽しさの欠片もない感情だった。
その様子からしてみると…どうやらここが目的地らしい。
「…きなささん。どうかしました?」
「いや、なんでもねぇよ」
そうは言うが寂しそうな雰囲気を漂わせている。声をかけることもためらってしまうほどの寂しさが。
この家になにかしらの思い出でもあるのだろうか。
それともこの家の人が大切な人だったりするのかもしれない。
もしかしたら…意中の男性でもいたのかもしれない。
「…そっか。そう、だよな……」
ふと漏らした言葉は儚く、触れてしまえば砕けてしまいそうなきなささん。今ここで肩を叩くだけでも壊れてしまいそうな彼女に何をいってあげるべきなのだろう。
結局オレは何も声をかけてあげることができず、そのまま日が落ちるまできなささんと共に佇むのだった。
日が落ちて辺りは暗くなり、月も登り始めた頃。人気がなくなった大通りをオレときなささんは歩いていた。
「これからどうします?」
「さぁな。もう来たいところには来たんだ、あとはどうだっていい。宿を取ろうにもここじゃあたしは嫌われ者だ。ただ歩くだけでも悲鳴あげられちゃ長居できるわけねぇだろ。おとなしく自分のすみかに帰るさ」
「そうですか」
「あんたも、今日一日は苦労かけたな」
「いえ、そんな。襲われなければ全然平気でしたよ」
「くくっ、ウシオニ相手によくそんな口聞けるな」
どうやら本当に観光目的ではなかったらしい。あの家に何を想って見に行ったのかはわからないが何かが吹っ切れたのか彼女は先ほどよりもずっと明るい。
それでも放っておいてはいけないと思ってしまう。
まるで顔に笑みを張り付けたような、形だけの笑み。
その下にある表情は見えなくて、何を考えているのかわからない。
「……もし、宿が取れないのなら…どうです?」
だからかもしれない。
それは一時の気の迷いか。
寂しげな彼女を放っておけないからか。
はたまたただの同情か。
どうしてなのかはわからない。
だが、気づけばオレはきなささんに言っていた。
「うちに来ます?」
「んむ?」
うどんをかみきりまるで携帯電話のバイブレーションみたいに震えるそれを引き抜いた。
それは十手。同心の証であり、罪人を捕らえる際に用いる武器だ。その取っ手の部分にはカラス天狗の先輩のものだという証か三つ足の八咫烏の紋章が刻まれている。
それを二度、机の上で叩くと今度は音叉のように甲高い音を響かせて十手が震えた。
「…聞こえるかゆうた」
「はい?何でしょうか先輩」
聞こえるのはここにはいない先輩の声。聞こえる度に十手の先が震えて音を響かせる。この十手、先輩の神通力を用いて作られた遠距離情報伝達器だ。早い話が携帯電話やトランシーバーのような機能付き十手である。
「やっかいごとが起きたぞ。向かってくれ」
「…今昼飯中なんですが」
「そんなこと関係あるか」
十手に向かって話しかける。それは奇妙な光景であり、また応じる十手もさぞ奇怪に映ることだろう。携帯電話を知っている身としてはそこまで驚きはしなかったが。
「どうやら男と妖怪がもめているらしい」
「へぇ?妖怪が?そりゃまた珍しいですね」
基本人に対して友好的な彼女たちが突っかかるような真似はしないはずだ。呉服屋のジョロウグモのしのさんも、九尾の稲荷であるいづなさんも街を行き交う妖怪達も自分から争いごとを起こすような人はいない…はずだ。
「その場に赴き現状の報告、その後は私の指示を待て。用意ができたらすぐに迎え」
「じゃもう少しで食べ終わるので待ってくださいよ」
「待てるか馬鹿者。さっさと食べて行け」
「早食いは太る原因になりますよ」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
「あれ?先輩?」
ごくんと、喉をならす音が伝わってきた。どうやら彼女も昼食中だったらしい。
しかし今の一言を気にするとはやっぱり先輩も女性だななんて考えていると低い声が響いた。
「いけ」
「ああ、もうわかりましたよまったく仕方ありませんね」
残ったうどんを無理矢理かきこみ、ベルトにくくりつけた財布用の袋から銭を取り出し机にたたきつける。お店の人にそのことを伝えるとすぐさまその場から飛び出し指示された場所へと直行するのだった。
指示された場所へ赴くと一目で理解できた。周りと違って人だかりのできたそこは中央だけ皆離れている。騒ぎの中心にいるのは腰に刀を下げた男が三人と見覚えのある妖怪の姿。つい先日みた緑色の肌に艶やかな黒髪。それから体を覆う体毛にタランチュラのような下半身。
―ウシオニ?
間違いなくあの夜出会ったきなささんと同じ特徴だ。だが、どうしたのだろう。この街でウシオニを見かけることなど今までなかった。少なくとも真っ昼間にこのように活気あふれる場所では。
「あの、何かあったんですか?」
野次馬の人たちから事情を聞くと隣で背伸びをしていた中年女性が答えてくれた。
「あの三人が足が当たったとかでウシオニ相手に因縁つけてるみたいなのよ」
「あんなのに喧嘩ふっかけるなんざ命知らずなこった」
今度は中年男性がそう言っているのだが誰も入っていこうとしないのは男三人が刀を持っているからか。はたまた相手がウシオニだからか。
皆割って入ることもせず奇異の視線を向けている。大方見慣れぬウシオニが珍しいということだろう。ただ怖いもの見たさにここにきているのかもしれない。
「…」
ただ。
誰かが助けに入らないのはウシオニという存在を知っているからだろうか。この現状で危険なのは彼女ではなく、男達の方だとわかっているからだろうか。
だが、このまま黙って見ているのは気持ちのいいものではない。ウシオニといえ女性であり、その女性に男三人が刀を持って喧嘩をふっかけているのだから。
「…先輩」
人混みからわずかに離れた場所で先輩へ報告する。
「どうもウシオニが刀持った男三人に因縁ふっかけられてるみたいです。なんでも足が当たったとかで」
「下らんことだな」
先輩は吐き捨てるように言った。
「どこぞのチンピラがまだうろついていたのか。刀を下げただけで強いもの気取りの阿呆共だ」
「どうしましょうか」
「実際そのまま放っておけば静まるだろう。たかだか刀を持っただけでウシオニに勝てるはずがないだろうしな」
そこで一度彼女は言葉を区切った。
「だが、街の治安を乱す輩を取り締まるのが私たち同心だ。その場合ゆうた、お前はなにをすべきだ?」
同心として誰をも平等に扱うべきだとよく言うが、それでも彼女はやはり同じ妖怪は見捨てられないらしい。反面悪人であれば誰だろうと取り締まる。助けのいらぬウシオニだろうが助けるし、必要以上に暴力を振るうのなら人間だろうと容赦しない。
そして、オレもまた同じ。例え手を加えずとも収まる事態だったとしても女性が男性に襲われるのを見捨てられるほど白状ではない。
「行ってきていいんですね」
「近くに川があるだろう?頭を冷やすにはもってこいだ」
「了解」
十手を握りしめると人混みの中をかき分けて進んでいく。そして怒鳴り声でわめき散らす男の前に、ウシオニの彼女の前に出たオレはぱんと手を叩いた。
「お兄さん、職務質問いいですか?」
ざばんとたいそうな音を立てて水柱があがる。両手についた埃を払うと側に置いた刀三本を抱える。先ほどチンピラから奪いもとい没収したものだ。刃で人を脅すような輩には刀を持つにはふさわしくない。故にこの刀はこちらで処理しておこう。
「大丈夫ですか、ウシオニのお姉さん」
そうしてようやく振り返ったその姿に体の動きが止まった。
切れ長で獰猛な色を宿した瞳。すっと通った鼻筋に唇の間からわずかに覗く鋭い八重歯。凶暴さがありながらもどこか美しく、それで儚さを持ち合わせた不思議な色香を漂わせる顔つき。
それは見覚えのあるもの。
見覚えどころかその姿は―
―つい先日オレの傍で酒を飲んでいたきなささんの姿。
「っ」
あ、まずい。
自然視線は逸れ、顔も背けてしまった。
もしかしたらとは思っていがた本当にそうだとは思いたくなかった。こんな街中であんな夜を過ごした女性と鉢合わせなんてタイミングが悪すぎる。
いや、だが顔はばれてないはず。あのときは面をしていたからオレの顔なんて知らないはずだ。
「………かわった奴だな、お前。わざわざあたしの助けに入るなんてよ」
あの夜とにたようなことを口にするきなささん。やはりオレの行動は彼女の目から見ても異常であることに変わりないらしい。
「周りの連中だって見てるだけだってのに」
「そ、そうですか…」
「ん…?」
思わず出てしまった声に口を押さえるが彼女はオレの肩を掴んだ。わりと強めの力で。
「…なぁ、あんた。あたしとどっかで会ったか?」
「えっ!」
「どっかで聞いた気がすんだよな、その声…」
「っ!!」
声。
あのときは面をしていただけで変声器など遣ってはいない。というかこの世界にそんなものあるわけがない。
まずい。声は誤魔化しようがない。
「…イエ、キノセイカト」
とすれば、裏声になるのは仕方のないことだった。喉に負担がかかるがばれるよりかはましだろう。きなささんは怪訝そうな表情を浮かべているが。
「…そうか?そういや前にもそんな奴が居たな。襲おうとしても平然と拒否して、それなのに酒を注ぎにくるような奴がよ」
「ヘェ、カワッタヒトガイマスネ」
喉が痛い。それでもがんばっているときなささんは首筋に顔を寄せまるで耳をなめるようにささやいた。
「ちょうど、こんな匂いがしたなぁ」
「っ!」
―匂い
忘れていた。妖怪というのは人間以上に嗅覚が鋭いことを。そして彼女はあの一晩に確認していたことを。
思わず固まった体に手を置くときなささんはオレに噛みつかんばかりに顔を寄せてきた。
その瞳に宿っているのはあの夜にみた獣の、捕食者と知らしめんばかりの光だ。
「声で誤魔化せると思ってんのかよ」
「いぇ…」
みしりと音を立てそうな腕の力にオレはため息をついた。流石にこの力からは逃げられない。抵抗したところで意味もない。それなら素直に従った方が身のためだ。
それを察したのかきなささんは笑みを浮かべると片手でオレを抱き上げた。健全な高校男児、かなりの重さがあるというのに片手で軽々とだ。流石はオニというところか。
ただ、何で抱き上げられているのだろう。
「あの、何してんですか」
「ちょいととあたしにつきあっとくれよ」
「つきあうっていってもオレ仕事中なんですが」
「なんだよ。どうせ夜酒を注ぐだけだろ?」
「こっちが本職なんですよ。あれは助っ人として一晩だけやっただけです」
「なら昼間は酒じゃないならいいだろ?」
「だから仕事中なんですって」
そうはいっても彼女は聞く耳持たずに進んでいく。オレを抱え上げたまま。町ゆく者は皆道をあけ、中には悲鳴に似た声を漏らす人もいる。それでもきなささんは特に気にした様子はない。
がしゃがしゃと音を立てて蜘蛛の足で大通りをいくらか進んだ後、彼女は立ち止まってあたりを見渡していた。何かを探すように…いや、何かを確かめるように。
「んん?ここらに団子屋があったはずなのに…なぁ、あんた。ここらにいい甘味所はないのか?」
「…?河原に団子屋がありますが」
「じゃその場所教えとくれよ」
「だから仕事中なんですって…」
そうはいってもやはり聞く耳を持たない彼女にオレは諦め渋々団子屋の場所を教える。そうして気づけば河原の団子屋に二人並んで腰をおろしていた。流石に逃げることもできず、また失礼きわまりないので諦めておばちゃんに団子を二人分注文する。数分後には震えるおばちゃんが二人分の団子をオレに手渡してすぐさま店の中に引っ込んでいった。
「…」
ちらりときなささんを見るが彼女は団子をおいしそうに食べている。先ほどのおばちゃんの行動は別に気にもしていないらしい。
―ウシオニ故、だろうか。
「ここの団子はうまいな」
団子を頬張って笑みを浮かべるきなささんの姿を横目で確認する。緑色の肌にタランチュラのような下半身。頭に生えた角に人間以上の大きな手。鋭くぎらつく八重歯に獰猛な獣の様な瞳。
紛れもない人間ではない姿。
疑いようのないウシオニの姿。
「…」
だがその姿を見て疑問に思う。
ウシオニというのは問答無用で襲いかかって来るものではなかったか。あの夜は襲いかかってはこなかったが無理矢理迫っては来た。あと一歩、抵抗しなければ無理やりにでもされていた。だというのに今の彼女はそんな素振り欠片もない。
ウシオニ、なんだよな…?
先輩から聞いたものとはだいぶ違う。少なくとも今この状況ではウシオニらしい振る舞いではない。それは人間のような個性がウシオニにもあるからだろうか。彼女はウシオニの中では慎ましい方なのか。詳しく知らないオレにはどう考えても結論なんてでやしない。
特に会話もなく団子を食べ続ける。食べ終えるまでには時間はそうかからなかった。皿に串を置くときなささんは河原を見据えたまま話しかけてくる。
「あんた、名前はなんていうんだ?」
「え?」
「名前だ名前。あたしだけしか言ってなかったろ?」
団子と共に置かれていた湯飲み茶碗に手を伸ばすと大きな手で器用に持ち上げる。
「人様の名前を聞くだけ聞いとくっていうのは失礼だろ…つってもあたしは人じゃないけどさ」
「…まぁ、そうですが」
「それとも何だ?あんなところで働いてたって知られたくないのか?まぁそんな身なりしてるんじゃ有名な武家の出なんだろ、あんた。ばれたら手打ちにでもされるのか?」
「いえ、一般市民ですが」
でもあんなところで働いてたとは知られたくない。知られたところで問題にはならないと先輩はいうがこちとら現代で培った価値観というものがあるのだから。
「ふぅん。なら、名前教えとくれよ」
「…ゆうた、ですよ。黒崎ゆうた」
「ゆうたか」
きなささんは何度か唇でオレの名を紡ぐ。馴染ませるようにというよりもどこか遠くを眺めながら思い出に浸るように。
「そっか、ゆうたか。なぁ、ゆうた。あんた同心なんだろ?」
「ええ、まぁ一応は」
「ならこの町のことは詳しいわけだ」
「別にすべてに詳しいわけじゃないですよ?ただここらを担当してるってだけで他の場所はそこまでじゃありません」
「…なら」
ずいっと身を乗り出して彼女はオレの瞳をのぞき込む。何かを期待するように目を光らせる様はこの前見せたぎらつくものとはまた違っていた。
「ちょっと探して欲しい家があるんだ。あんたがわかる限りで構わないから一緒に探してくれないか?」
「…家?」
「ああ、大通り沿いから外れた、大きな家だ。春になると梅の花が咲いてきれいなんだよ」
「そりゃまた…」
あまりにも条件が少なすぎる。オレが知っているだけでも梅の咲く場所は数十カ所はある。そのどこかを探し出すとなれば日が暮れる程度じゃ済まないだろう。
だがどうして彼女はそんなものを探しているのだろうか。観光目的なら家よりも梅の咲き誇る名所に行くはずなのに。
ここは素直に聞いてみようか。そう思い立ったが真っ直ぐこちらを見つめる視線に言葉が出ない。
真っ直ぐ向けられた瞳。それは獣のような獰猛さはない、強い意志を宿したもの。それが何かはわからないが聞くのは気が引ける。それはとても大切なもので、他人のオレが踏み込んではいけないように思えてしまって憚られる。
「頼むよ。あんた以外に頼めるなんて居ないんだよ」
「…」
ウシオニ故に、誰も頼れないということだろう。その言葉がいやに響いてきた。
「…オレ一人じゃ無理があります。けど」
きなささんを見ながら腰に指した十手に触れる。
この町を取り締まる人なら…どこが治安が悪いのか、どこが栄えているのか、どこでスリが置きやすく、どこに辻斬りが出やすいのか。そういったことに詳しい人なら些細な情報でもわかるのではないか。
「少し待っててくださいよ」
これも一つの人助け。目の前で困る女性を放っておくことなど同心にはあってはいけないこと。ならきっと先輩も協力してくれることだろう。
それに、袖振りあうのも多生の縁だ。それならもう少しだけ関わるのも悪いものじゃない。
そう思ってベルトにさした十手を握り込むと先端を指先で弾くのだった。
先輩から聞いた話に寄れば梅の花が咲く場所など数え切れないほどあるという。だが、そこから家の位置を割り出すのならそこまで大変じゃないらしい。大通りから離れている、その情報だけでも絞り込むには十分だったらしく彼女は思い当たる場所を教えてくれた。
考えられる場所は五カ所。
たった五カ所ならば回るのはたやすい。後は虱潰しに当たっていけばいいだけだ。
「えっと…この角を曲がってだから…」
先輩から教わった通りに街を歩いていく。いや、歩いていくというのは間違いかもしれない。なぜなら今もオレはきなささんに抱き上げられているのだから。
「んで、次はどっちに進むんだ?」
「右ですね」
腰に手を回し体の感触を確かめるかのように腕で抱き寄せる。担ぎ上げるようなものではないが女性に抱かれているというのは男として恥ずかしい。相手がウシオニで抵抗できないとわかっていてもだ。
「あの、離してくれませんか?オレなら逃げないってわかってますよね」
「何でだよ。別にこっちの方が楽だろ」
「楽以前の問題なんですよ」
そう言っても彼女は腕を緩めない。それどころかオレの言葉により一層力を込めた気がする。身を捩って何とか抜け出そうにもこれでは無理そうだ。
だがこの姿勢だと背中に大きな胸が当たる。牛という名に恥じない大きな胸はオレの背中で柔らかく潰れ学ラン越しだというのにその感触をはっきり伝えてくる。
男だったら誰もが揉んでみたいと思うほどの大きさ。それを惜しげもなく背中に押し付けられるのだからたまったもんじゃない。身を捩ったところでその感触が脳髄に突き刺さるだけだ。
だが。
「…あの人、たすからねぇだろうな」
「たいそう身分の高そうな格好して目立ってるせいだな」
「おぉ、くわばらくわばら」
この地区は担当外なので顔ぶれも知らぬ人ばかり。そんな人たちはきなささんを見て恐れの声をあげ、集まっては何かを話してる。小さくもはっきりと耳に届くその声はきなささんにはどう聞こえるのだろうか。
町の人の反応は先輩から聞いたまんまだ。
ウシオニというのは本来山奥に住んでいる妖怪の一人である。そして時には人里に降りてきて男性を攫っていくという。
その獰猛な気質故のせいか、人間離れした怪力のせいか、人には酷く恐れられるという。場所によっては山神として奉られるがきっとそれは恐怖故のものであり、生け贄を捧げることもあるという。
それはこの町とて例外ではない。ウシオニという存在に恐怖することが当然であり。襲われないかびくびくすることが常識である。それだけ彼女の存在は脅威的と言うことだろうか。
「…」
恐れられて、さげすまれて、それでもそんなことを気にするほど繊細な性格ではないだろうと先輩は酒を片手に言っていたが…きなささんはどうもそうと思えない。
特に表情のない顔で何を思っているのだろうか。
町ゆく人の反応に何を考えているのだろうか。
それはわからない。
ただ、すれ違う度にオレの方を抱く手に力がこもる。そして気にする素振りを見せずにオレに聞く。
「んで、次はどっちだよ」
「今度は左の小道を行けばすぐらしいですが」
指示に従ってきなささんはただ歩いていく。がしゃがしゃと奇妙な音を響かせながら。
「あとは?」
「続いてそこの小道を行ってください。そこをしばらく進めばいいはずです」
「よし」
また右に曲がると今度はきなささんがぎりぎりに通れる小道に入った。住宅街である長屋や大きな店の間らしく人気がない殺風景な場所だ。端の方で猫が丸まり、道は申し訳程度の整備しかされてないところを見ると通行人もそういないらしい。
そんな道を彼女はオレを抱きしめながら進む。だが、路地の半分まで進んだその時。
「んむっ」
「ひぁっ!?」
突然首筋に生暖かいものを押し付けられ変な声が出た。
「な、なんですか!?何したんですか!?」
「あの夜味見してなかったなと思って舐めただけだぞ。取り乱すなよ」
「舐め!?い、いきなりそんなことされりゃ誰だって取り乱しますよ!!」
ざらりとした感触が首筋を這う。命を繋ぐ大切な器官のある部分を舐められるというのは言葉にできないものだ。恐怖心を刺激しながらも甘い感覚をもたらすのだから。
「え?」
突然目の前の光景が壁にすり替わる。いや、きなささんが体の向きを横に変えたらしい。
「きなささん?何、をっ?!」
次の瞬間体が壁に押し付けられた。
ウシオニの力で一方的に抑えこまれる。背中からされれば逃げるにも逃げられない。これでは抵抗すらままならない。背中越しに胸を押し付けられねっとりと唾液を塗りたくるように舌が頬を撫でていく。
「なぁ、いいだろ…」
聞いているようで答えは求めていない一方的な言動。人気がなくなったことをいいことに彼女は本質を露わにしたようだ。どうやら根本はウシオニであることに違いないらしい。
だがここは裏路地とはいえ人の行きかう道が傍にある。さらにはまだまだ人もいる午後の時間だ。人気がなかろうが誰かが通らないとは限らない。
…いや、通ったところできなささんを見れば逃げ出してしまうか。
「いいわけ、ないでしょうが…!なんですかいきなり…っ!」
「どうせ夜じゃさせやしねぇなら昼間ならいいだろ?」
「もっとダメに決まってるでしょうがっ!離してくださいよっ!!」
「そもそもウシオニ相手に逃げ出しやしねぇ時点で襲ってくれって言ってるようなもんだぞ?」
熱い吐息が耳をくすぐる。鋭い歯で首を甘く噛み、色っぽく指先が体をくすぐった。学ラン越しでもはっきり伝わってくる感触にオレはただ体を震わせることしかできない。
「男だったら腹切るぐらいの覚悟は常にしとけよ。まぁ、覚悟する前にあたしの方が我慢できねぇけど」
大きな手が脇腹を撫でズボンにかかる。ズボンの間に指を差し込むのだがここでは見られないベルトに手間取ったのかなかなか下がらない。
今のうちに…そう思って片腕を捩じり引き抜くと背後のきなささんの顔を掴んだ。
「むぐっ!」
「ほらそこ!すぐそこですからっ!先にそっち行きますよっ!」
小道を抜けた先にある光。その向こう側に見えたのは先輩から教えられた目的地だった。
「…ここはどうですか?」
そしてオレときなささんは気づけば三つ目の目的地の一軒家に来ていた。大きな軒に大きな屋根、広い敷地に立派に立つ門はここら一帯ではかなりの金持ちなのだろうか。もしかしたら武家か何かの家なのだろう。
「…」
その家を何もいわずにただじっと見つめるきなささん。覗き込んだ瞳の奥に見て取れるのは観光気分など楽しさの欠片もない感情だった。
その様子からしてみると…どうやらここが目的地らしい。
「…きなささん。どうかしました?」
「いや、なんでもねぇよ」
そうは言うが寂しそうな雰囲気を漂わせている。声をかけることもためらってしまうほどの寂しさが。
この家になにかしらの思い出でもあるのだろうか。
それともこの家の人が大切な人だったりするのかもしれない。
もしかしたら…意中の男性でもいたのかもしれない。
「…そっか。そう、だよな……」
ふと漏らした言葉は儚く、触れてしまえば砕けてしまいそうなきなささん。今ここで肩を叩くだけでも壊れてしまいそうな彼女に何をいってあげるべきなのだろう。
結局オレは何も声をかけてあげることができず、そのまま日が落ちるまできなささんと共に佇むのだった。
日が落ちて辺りは暗くなり、月も登り始めた頃。人気がなくなった大通りをオレときなささんは歩いていた。
「これからどうします?」
「さぁな。もう来たいところには来たんだ、あとはどうだっていい。宿を取ろうにもここじゃあたしは嫌われ者だ。ただ歩くだけでも悲鳴あげられちゃ長居できるわけねぇだろ。おとなしく自分のすみかに帰るさ」
「そうですか」
「あんたも、今日一日は苦労かけたな」
「いえ、そんな。襲われなければ全然平気でしたよ」
「くくっ、ウシオニ相手によくそんな口聞けるな」
どうやら本当に観光目的ではなかったらしい。あの家に何を想って見に行ったのかはわからないが何かが吹っ切れたのか彼女は先ほどよりもずっと明るい。
それでも放っておいてはいけないと思ってしまう。
まるで顔に笑みを張り付けたような、形だけの笑み。
その下にある表情は見えなくて、何を考えているのかわからない。
「……もし、宿が取れないのなら…どうです?」
だからかもしれない。
それは一時の気の迷いか。
寂しげな彼女を放っておけないからか。
はたまたただの同情か。
どうしてなのかはわからない。
だが、気づけばオレはきなささんに言っていた。
「うちに来ます?」
14/07/06 21:12更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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