前編
狐色の大きなそれは一本でも人間一人を軽々と拘束できるほど長いもの。それが九本もあれば包み込むことすら容易だろう。表面には滑らかに生え揃った毛並みが太陽光を柔らかく反射する。右に、左に揺れ動く様はまるで誘っているようにも見えた。
そんなものを間近で見せられて普通の人間なら耐えることはできないだろう。そして、健全な男子高校生であるオレ事黒崎ゆうたも当然耐えられるはずもなく、それへと向かって顔を押しつけた。
「んんん〜っ!」
なんともふもふしていることだろう。高級な羽毛布団だってここまで心地よくはないだろうに。さわったことないけど。
顔を擦り付ければ絶妙な柔らかさで沈み込み、生え揃う一本一本がふわりと受け止めてくれる。滑らかに肌を撫で、くすぐったくも心地よい感触を与えてくれる。ふわりと香る匂いは甘味や花にはない甘さがあった。
「ふふふ♪そんなにいいものですか?」
尻尾に抱きつかれながらも彼女は笑う。おかしそうに、それでいてどこか嬉しそうに。
「最高ですよ。病みつきになりそうなぐらいに」
「ふふっ♪本当におかしな方」
そう言って口元に手をあて笑う女性はいづなという女性だ。
オレがこの街を一望できる場所を探しているとき偶然に出会った女性。しかし、ただの女性ではなく稲荷という妖怪らしい。その証拠に臀部からは尻尾が伸び、頭からは三角形の耳が生えている。
町中でも見かける肌の真っ赤なアカオニや同心の先輩であるカラス天狗同様に人間ではない存在。だが、彼女の場合は存在どころか格すら違う。
―何よりも目立つ臀部から生え揃った九つの尻尾。
九つの尻尾が生えた狐は神と同等に扱われる。その妖力は人智を越え、尻尾の一振りは天災をもたらすなどと言われる存在だ。父の実家に同じ九尾を奉った社があるのだから十分理解している。だがそんなことただの言い伝えや伝承であって事実ではない。目の前にいる九尾は凶暴さのかけらもないし、むしろ親しげに接してくれる。まるで優しい年上のお姉さんのように。
「九尾なんて崇められても親しげに接してくれる人なんていませんよ」
「?そりゃまた何で?」
「皆私のことを神様と扱うからでしょう。信仰深いことは悪いことではないのですが一線を引かれている気がしてあまりいいものではありませんね」
いくら親しげに話せる相手でも人間の理解を超える存在ではそうそう気安くはできないのだろう。自分よりも格上の存在を怒らせたとなると何をされるかわかったもんじゃない。しかも彼女は九尾である。対峙しただけでもわかるがあの街にいる妖怪と比べると格が違いすぎる。
だからこそ。
「…役得ですね」
「ふふ」
オレの言葉にいづなさんはおかしそうに笑った。
「普段神様として崇められてことはありましたがそんな風に言う人は初めてです」
「嫌ですか?」
「嫌ではないですよ。少しくすぐったいですけどね」
口元に手を当てて上品にくすくす笑う。頭から生えた狐の耳がわずかに動く。揺らぐ尻尾が少し膨らむ。
その姿はきっと誰もが見とれる事だろう。異形であっても九尾であっても彼女が美女と言うことに変わりない。
ちらりと視線を鳥居へと移す。この敷地の入り口であり神域を示す門には誰も訪れる様子はない。
「…本当に誰も来ませんね」
「いつも通りですよ」
微笑みを向けながら、それでも寂しげな笑みでいづなさんは言った。
初めて出会ったときから既に三度通っているこの場所にオレと彼女以外に人はいない。数百を超える石段や町はずれという立地条件が悪いというのもあるが、神様の住まう土地に訪れること事態を無礼と考えての事だろう。
そんなこと余所者であるオレにとっては関係のない。オレはいづなさんに呼ばれたから来るだけであって、彼女との会話やこの感触を堪能したくてただ来るだけだ。
顔を擦り付け尻尾の感触を存分に堪能する。人の尻尾だとわかっていてもやめられるものじゃない。この感触の前では理性も意地も意味がない。暖かくて、心地よくて、それでいていい匂いがするそれにあらがうことなど出来やしないのだから。
「んん…」
どれほど柔らかなぬいぐるみでもどれほど高価な布団でもきっとこの毛並みや手触りを再現することはできないだろう。人間の手では絶対に作れない魔性の心地よさ。それは一度味わえば二度と手放すことなどできないだろう。
指先に絡めて、手のひらで味わって、頬をこすりつけて顔を埋める。
最高。
きっと幸せというのはこういうことを言うのかもしれない。そんなことを思いながらオレは瞼を閉じるのだった。
日の傾き始めた頃縁側でのんびりといづなさんの尻尾に顔を埋め会話していたオレはゆっくり体を起こした。
「そろそろ帰りますね」
このままずっとこうしていたいのだが流石に明日のことがある。買い物をして、明日の仕事に備えて休養をとる。同心は体を張る仕事である以上休養は必須だ。
それにこれ以上彼女に迷惑かけるべきではない。
いづなさんが淹れてくれたお茶を飲み干し湯飲みの乗った盆を運ぶ。終えたら靴を履いてこの社の入り口である鳥居へと歩く。するとその背中にいづなさんが声をかけてきた。
「あの、ゆうたさん」
「はい?」
「その…次もまた、来てくれますか?」
一陣の風が吹き、狐色の長髪がなびく。共に揺れるは九本の尻尾。同じ色をした瞳の奥にあるのは寂しさと期待を混ぜ込んだ光。かまいたくなるような、それでいて甘えて、甘やかしたくなるような不思議なものだった。
「いいんですか?あ、いや、でもいづなさんのご予定は?街に行ったりして留守にするかもしれないでしょ」
「私が街に赴いたところで皆に気を使わせてしまいます。ここへ戻る頃には両手一杯に供物をもらってしまうんですよ」
「なら、他の人とかは来ませんか?人気がないと行ってもまったくというわけではないでしょう?」
「去年はお正月くらいにしか人は来ませんでした。皆にとって神様というのは崇めるべき存在であって頼み込む相手ではないのかもしれませんね」
これだけ美人で優しいいづなさんに頼みごとをすると言うのは確かに気が引ける。それ以前にあの活気や人情あふれる街では神様よりも気軽に頼れる相手が傍にいるんだ、わざわざこんな山中へ赴く物好きはいないのだろう。
「ですから、またここを訪れてくれませんか?」
そっと掴まれる学ランの裾。それから首筋へと延びてくる九本の尻尾。それらはくすぐるように撫で動き、オレの頬へと擦り付けられる。その感触にオレは思わず頬を擦り付け目を細めた。
まるで誘惑するような行動なのだが目に映る表情はやはり寂しげなもの。不安で、崩れ落ちそうな儚いもの。瞳の光と相まってどうしてこうも寂しげに映るのだろうか。
オレは尻尾へと手を伸ばし毛並みをそろえるように撫でた。
「それじゃあ甘味でももっておじゃまさせていただきますね」
「…はいっ」
ぱぁっと明るくなるいづなさんの表情。ともに喜びをたたえるように尻尾がじゃれついてくる。あ、すごい溶けそう。
名残惜しい感触から離れ、いづなさんへ手を振って石段を下りていく。ちらりと後ろを向くと彼女はずっとオレの背中を眺めていた。
それから数日後。オレは縁側に座るいづなさんの尻尾を抱きしめ寝ころんでいた。
彼女の手にあるのは街の中で有名な甘味どころの羊羹である。少し並べば買えるし値段も手頃なもの。それでいて値段以上の味を誇るこの街の名物。その味はいづなさんも満足したらしく彼女の口元が綻んでいる。
「美味しいですね」
「そう言ってもらえると並んだかいがありましたよ」
尻尾を抱きしめいづなさんを見上げた。
桜色の唇が開き、小さく着られた羊羹が中へと消える。竹串を引き抜くとぷるんと瑞々しく揺れた。数度咀嚼し頬が動くと細い喉が上下する。
「…」
そんな仕草が色っぽい。気品があるのにどこか花魁を彷彿とさせる妖艶さがある。九尾の稲荷。人間とは格の違う女性なのだから男一人仕草だけで虜にするのは容易いのかもしれない。
最もオレは既にこの感触の虜なのだけど。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ…」
誤魔化すように九本の尻尾に顔を埋める。相変わらずな魔性の尻尾は埋めた分だけ柔らかな感触をオレへと返してくれる。人間の手で再現することなどできないだろう。そう思えるほど常軌を逸した心地よさにオレはただ溺れていく。
そんな姿を彼女はじっと見つめてくる。美人相手に見つめられるのは気恥ずかしいがきっとオレの身なりが珍しいのだろう。皆着物姿のこの街に学生服姿は浮いている。
「あの…ゆうたさん」
「はい?」
抱き枕のように尻尾を抱きしめていたオレは彼女へと視線を向ける。すると羊羹を食べ終えたいづなさんは恥ずかしそうにもじもじとしていた。
「あのですね、その」
「はい」
「…手を、握ってもいいですか?」
感情に反応してか尻尾がそわそわ動き出す。オレの腕の中にある尻尾までがせわしなく動き頬をこすりあげた。
「えっと…」
突然のお願いと尻尾の感触に戸惑う。だが一方的に尻尾の感触を堪能しているんだ、オレだけというのも悪いだろう。男の手を握って何が楽しいのかはわからないが。
「どうぞ」
にっこり笑みを浮かべていづなさんへと手を差し出した。
「ありがとうございます」
差し出した手を握りしめるいづなさん。細い指先が絡み合い、感触を確かめるように何度も力を込める。オレと同じぐらいの大きさなのに長めの指とさらさらな手のひら、やや高めの体温や柔らかな感触は尻尾とは全く違うがこれもまた心地いい。
「…♪」
手を握っているだけでも満足なのかいづなさんはとても嬉しそうにしている。ここには誰も訪れないと言っていたがその分寂しいと言うことだろうか。故に、人肌恋しくなるのかもしれない。
だが異性に手を握られるというのは気恥ずかしい。それが美女というのだからなおさらだ。
そっと逃げるように指を引くと追いかけるように重なり合う。わずかに動かすとさらに強く絡んでくる。なら、こちらからも力を込めると―
「ぁ♪」
わずかに漏れた声とともに照れたように彼女は笑う。それをオレは尻尾に顔を埋めたまま見上げていた。
何度見ても美人だと思う顔立ち。それから人間とは一線を画した存在感。街にいる妖怪とは違うどことない厳粛な雰囲気。それでも柔らかな物腰でこちらも変に気を使わずにすむ。
たとえ九尾であろうが稲荷であろうが魅力的な女性であることにかわりない。
しかしここを訪れる人は皆無。だからか彼女はどこか甘えたがりで、構ってほしいとオレの手を握る。喋りたいのではなくただここにいることを確かめたいと言わんばかりに。
「ゆうたさんは不思議な人ですね」
「…不思議ですか?」
ぎゅっぎゅと手を握り込みながらふといづなさんはそんなことを言った。
「普通こんな偏狭な場所に来る人なんていませんよ。石段も数百を越えるほどありますしね」
「…もしかして邪魔ですかね」
「いえ!違うんです!」
いづなさんはオレの言葉を大慌てで否定した。
「本当なら私が出向けばいいはずなのですが…わざわざこんなところに呼んでしまって迷惑ではありませんか?」
「まさか」
両手をついて彼女の隣に座り込む。下にあった尻尾を踏まないように注意して両手で抱きかかえた。
「オレの住んでる場所って街の北側にある山中ですよ。街に行くだけでも結構な距離だっていうのにわざわざ来てもらうのは気が引けます」
「ですがゆうたさんにとっても同じでしょう?街からここまで来るのにもかなりの距離になるはずですよ」
「それくらいの距離がある方が体力作りにもなりますからね。同心にとっちゃ体力あってなんぼですから。それに」
にぃっとこちらも笑みを浮かべて言った。
「いづなさんが呼んでくれればいつでもお邪魔させてもらいますよ。まぁ、邪魔にならない程度に」
とはいいつつも彼女の尻尾を好き勝手抱きしめているのだから正直邪魔だと思う。他人に自分の体を好き勝手いじくり回されてるんだ、不快と思われても仕方ない。
だが逆に男であれば相手が美女なら何をされても許してしまう。それだけ男は単純で、オレもまた単純なんだ。今もこうして手を握られてても不快に思うことはない。むしろもっとこうしたいとすら思ってしまう。
それだけ彼女の温もりは離れがたく、この感触は離しがたい。
「ふふっ♪」
オレの言葉にいづなさんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そんなことを言われると毎日呼んじゃいますよ」
「…流石に毎日だと来られる時間が限られますけどね」
気恥ずかしそうに笑いながらオレもいづなさんも互いの手を握りあっていた。
太陽が傾き、赤い光に影が伸びる時間帯。流石にまずいと思ってオレはいづなさんの尻尾から体を離した。名残惜しくはあるが帰らないと明日の仕事に支障がでる。
「すいません。そろそろ帰らせてもらいますね」
湯飲み茶碗を片づけ、靴を履き学ランについた皺をのばす。そうしていづなさんに一礼しようと振り返ったそのとき。
「あのっ」
ついっといづなさんの手がオレの手を握った。
「え?」
「もう少し、ゆっくりしていきませんか?」
にっこりと微笑むいづなさん。だが九本の尻尾がオレの体を捕らえるように絡みつく。首に、足に、腕に、体にふわふわと柔らかなそれは引きはがすことは容易いだろうがなぜだか引きはがせない。
「いや、でもさすがにこの時間帯だと家につく頃には真っ暗になっちゃいますよ」
「それなら…泊まっていきますか?」
突然腕を取られる。それどころか尻尾とは違う柔らかさが腕に押しつけられているのは気のせいではないだろう。
その感触に思わず声がうわずった。
「い、いや、それは悪いですよ」
「遠慮しないでくださいな。どうせ私以外にだれもいないのですから」
「なおさらまずいと思いますが…」
誰も来ない人気のない家で二人きり。相手は人でなかろうと傾国の美女と言っても過言じゃない九尾の稲荷。そんな女性と一夜をともにするというのは色々と危ない。
「それなら送っていきましょうか?明かりならありますし」
そう言って尻尾の先端から火の玉が生まれた。淡い光を放つそれはきっと狐火とかいうものだろう。流石九尾。オレの頭じゃ理解の及ばないことをやってくれる。
だが。
「その後どうするんですか。送ってもらった後一人で帰るつもりですか?女性一人で夜道を歩かせられませんよ」
「ふふふ」
オレの言葉にいづなさんは頬に手を当ておかしそうに笑った。
「ゆうたさんは私のこと女性扱いしてくれるのですね」
「…おかしいですかね?」
「稲荷で九尾ですよ。一応神様扱いされるぐらいの事はできますし夜道で襲われる事なんてまずありませんよ」
「だからといって女性に送らせるほどふぬけじゃないんですよ」
理解が及ばずとも彼女は一人の女性。魅力的で、蠱惑的で、それで儚いそんな女性だ。九尾であろうが稲荷であろうが神様だろうがオレにとっては女性として敬うべき存在である。
「なら、こんな夜遅くに女性一人にするのはいただけないことではないでしょうか?」
「…あ」
確かにそうだ。そう言われてしまえば言葉に詰まるしかない。
親しき仲にも礼儀あり。男女である以上あまりべたべたせずわきまえるべきだろう。尻尾を抱き抱えてる時点でそんなこと言えないのだけど。
だが逆に、こんな人気のない場所で一人暮らしの女性の身を案じるのが男ではないのか。人気がないからこそ頼りになる存在として傍にいるべきではないか。
「…」
どうしよう。この場合はどちらをたてるべきなのだろうか。
実のところここではオレも一人暮らしの身であるので帰らなかったところで誰かが困る訳じゃない。
だからといって彼女の厚意にこれ以上甘えるのはいただけない。迷惑をかけ続けられるほど図太い神経をオレは持ってない。ついでに言うと明日も同心としてカラス天狗の先輩に引っ張り回される予定だ。早いところ眠っておかないと体がもたないことだろう。
「ゆうたさん…」
迷っているところに寂しげに締め付ける九つの尻尾。何度味わっても飽きのこない魔性の感触。きつくないが振りほどけないそれを頬にこすりつけられオレは身を捩った。
「帰ってしまうのですか?」
とどめと言わんばかりに囁かれる切なげな声色。潤んだ瞳を向けられるその姿は年上の女性と言うよりも儚げな少女そのものだった。
「…すいません」
だけど、オレにも譲れないものがあるし、押さえなければいけないものがある。相手が人間じゃなかろうが女性であるのならなおさら尊重しなければならないものがある。
だからといって寂しそうに表情を変えるいづなさんを放っておくわけではない。
「それなら…また明日も寄らせてもらっていいですか?」
せめてもの妥協案。
夜がだめでも昼間なら。今日がだめなら明日なら。
「はいっ!」
その一言にいづなさんは嬉しそうに微笑みを浮かべる。九本の尻尾は名残惜しそうに引き、掴まれた手も離れていった。
「それではまた明日。待ってますからね」
「ええ、また明日」
離した手を振りオレもまた振り返す。そうしてオレは一人暗くなってきた石段を下りていくのだった。
気づけば週に何度いづなさんの元へと通っているのだろうか。時間にすると何日ほど彼女の傍に居るのだろうか。今日も今日とてオレは街で買った甘味を片手に彼女のところへと足を運んでいた。
今いづなさんが食べているのは桜の花の形をした和菓子。オレのいたところでもありそうな細かな装飾をされたお菓子だ。竹串で切り分けて口へと運び、美味しそうに顔を綻ばせる。
その隣でオレは尻尾を数本抱きしめて彼女と同じように縁側に座っていた。
「…くぁ」
気づかれないように欠伸をかみ殺す。そのまま日の下でする事もなく尻尾に顔を埋めるのだがそれが逆に眠気を催す。こんな微睡みの中では危険な感触だ。しかし手放すことはできない。
「…ぅあ…」
意識が遠のいた一瞬ことんっと隣のいづなさんに寄りかかってしまった。
「……あっ」
慌てて体を起こして元の位置に戻す。すると彼女は心配そうに顔をのぞき込んできた。
「眠いのですか?」
「え、ええ…昨夜同心の仕事で夜の見回りして帰ってきたのが遅かったので」
おかげで満足に睡眠時間がとれていない。起きれなくはないがじっとしているとそのまま眠ってしまいそうだ。いづなさんの隣で眠るのは失礼だと思いつつも尻尾の感触に眠気を誘われる。
この尻尾に顔を埋めたまま眠れたらどれほど心地良いことか。
再びあくびをかみ殺しながらそんなことを考えて頭を振る。それでも眠気は払えない。
「それなら、眠りますか?」
「え?」
いづなさんの提案に寝ぼけ眼をこすると彼女はオレの手を引いて家の中へと連れて行く。縁側から移動して畳の部屋の中央。布団を敷いてくれるのかと思ったが彼女はそのまま横になる。すると臀部から生えた尻尾五本が彼女の隣に横たわった。
「どうぞ」
「…おぉ」
五本の尻尾は隙間なく並びふわふわした極上の柔らかさを持つ布団の出来上がり。さらにはその上に覆い被さるように残りの四本がかけられる。
神とも崇められる九尾の稲荷。その尻尾でできた敷き布団と掛け布団。そして極めつけは美女の添い寝。なんと豪華で贅沢なことだろうか。
「でもオレ結構重いですよ?尻尾が痛いんじゃないんですか?」
「ぜんぜん大丈夫ですよ。これでも九尾の稲荷ですから」
動物にとって尻尾は体のバランスを取るために必要だという。それ故に他より敏感だったはずだ。それなら痛みも当然感じるのではないか。昔に父の実家で飼っている猫の尻尾を踏みつけたときは引っかかれたし。
だが彼女は稲荷。猫とは違うし、人とも違う。オレの常識じゃ計れないし、理解が及ばぬ部分もあるのかもしれない。
「…それじゃあ失礼して」
おそるおそるいづなさんの尻尾の上へと進み、尻尾の間に手足をつく。そうしてオレはゆっくりと体を横たえていった。
「あ…っ!」
肌に触れる柔らかい感触。布や綿とは全く違う暖かな尻尾はオレの体を優しく受け止め、残りの尻尾が体を覆った。頬をこすりつけるとふわふわな毛並みに撫でられ包まれるように尻尾が絡みついてくる。
こんな贅沢をしていいのだろうか。神様と崇められる彼女の尻尾を布団代わりにするなんて失礼なこときわまりない。だがそんなことどうでもよくなるほど心地よい。まさしく神懸かってると言っていいだろう。
これはまずい。抜け出せなくなる。
あまりにも心地よくて、気持ちよくて、抜け出すことなど考えられない。離れることすら思い浮かばない。
「これ、最高です…」
「ふふふっ♪九尾という事で皆に気を遣わせていた尻尾ですがそんなに喜んでもらえると嬉しくなりますね」
目の前で微笑むいづなさんは手を伸ばしてオレの頭へと添えた。癖のある髪の毛を整えるように撫でていく。
「んん…」
この歳で人に頭を撫でられるとは思わなかったが、これもまた心地いい。彼女の白魚のような指先が跳ねた毛先を擽り流れる感触に瞼が重くなり、徐々に視界がせばまっていく。そして我慢することもなくオレの意識は闇の中へと沈んでいった。
「…ぇあ?」
気の抜けた声とともに瞼が開く。ゆっくりと体を起こしてあたりを見回す。眠気を払うように頭をふるうが意識はまだまだはっきりしそうにない。
「…んん?」
あたりは暗闇。淡い光が射し込んで部屋の中を照らしている。どうやらもう夜らしい。
「…明かり明かり」
天井から下げられている電灯のひもを求めて手を伸ばす。振り回すが指先には何もあたらない。
「?」
徐々にはっきりしていく意識と視界に改めて周りを見渡す。大きな畳の部屋と障子や襖。父親の実家と似ているのだが鼻孔をくすぐるこの甘い香りはなんだろうか。手のひらに感じるぬいぐるみのようなふわふわな感触は、それから耳に届く小さな寝息は誰だろうか。
「ん…ん?……ぁあ」
ああ、そうだ。電灯なんかないはずだ。ここはいづなさんの家でオレは彼女の尻尾の上で眠ったんだから。だが彼女は今瞼を閉じて規則正しい寝息をたてている。ぴくぴくと頭の上の耳が動くが起きてはいない。おそらくオレが眠った後にともに眠ってしまったのだろう。
「…」
ならオレもまた眠ってしまおうか。どうせ明日は特に用もないのだから寝坊しても困ることはない。そう考えていづなさんの隣に再び横になり尻尾を抱きしめ瞼を閉じようとして―
「―…夜っ!?」
異常な暗さと淡い月明かりに完全に意識が覚醒した。
開かれたふすまの向こう側から吹き込んでくるやや肌寒い風と広がる暗闇は間違いなく夜である証拠。外にでれば月が夜空にあがっていることだろう。
「…しまった」
この暗闇でこの場所から自宅へと帰るのは難しい。というのもこの街には夜道を照らす電灯などまったくないからだ。その分月や星の光があるのだがそんな淡い光で長い石段を下りるのは危ない。それに、オレがここで住んでいる自宅は山中にある。夜の山がどれほど危ないかは嫌と言うほど知っている。
帰れない。
だが、帰らないといけない。
このような人気のない場所で隣にいるのは九尾の稲荷。その容姿は誰もが見とれるだろう美女の姿。そんな女性と一晩同じ屋根の下というのはいただけない。尻尾の感触は名残惜しいが健全な高校生男子にはあまりにも辛すぎる。
「あら、私も眠ってしまったのですね」
すると物音で目を覚ましたのか寝ぼけ眼を擦りながらいづなさんはゆっくりと体を起こす。長い金髪が畳に垂れ、九本の尻尾がぱたりと揺れ、少しはだけた着物から胸の谷間が覗く。
…色っぽい。じゃなくて。
「いづな、さん」
「はい、どうかしましたか?」
「あの…そろそろ帰らせてもらおうかと思いまして」
暗がりとはいえ明かりさえあれば帰れなくもない。明かりなら街で調達できるだろうし、そうすれば何とかいける。危ないのはここから街への道のりだけだ。
いづなさんの前で頭をさげてそそくさと玄関へ進もうとしたそのとき、ついっと手を引かれた。見ずともわかる、いづなさんの手に。
「こんな真夜中に独りで出歩くのは危険です」
「いえ…」
「泊まっていってもいいんですよ?」
「いや…」
年頃の男子高校生であるオレにとって美女であるいづなさんと一夜をともにする方が危険だ。たぶんいたずらとかしたくなる。胸とか揉みたくなるし、情事へと転びたくなる。そんな度胸なくて悶々とするのだろうけど。
そうならないためにもあの手この手の理由を挙げる。
「オレも一応年頃の男ですよ?未婚の男女が同じ屋根の下は危ないですって」
「こんな暗闇を明かりもなく帰るほうが危ないと思いますが」
「いや、いづなさんに危険が及ばないならそれでいいかと」
逃げ帰ろうと玄関へ足を延ばす。だがその場から動くことはできなかった。
「…行ってしまうのですか?」
いづなさんの手はオレを離さない。細い指先に込められた力は決して強くはないが振り払わない限り離れないだろう。
儚くて、脆くて、崩れてしまいそうな細い腕。払っただけでもガラスのように砕けてしまいそうで手が動かない。
「…いづな、さん?」
「あの…もう少し居ませんか?」
「い、いや…もう夜ですからね、流石にこれ以上は―」
ぐっと、指先に込められた力が強くなった。
「以前にも言いましたね。ここには人は滅多にこないと」
「え、ええ…それがどうかしましたか?」
振り返れない。今彼女を見たら決めたことが崩れてしまいそうで。
「一人で人気のない山奥にいるのはゆうたさんが思っている以上に寂しいものですよ。誰とも話ができないのも、誰とも触れ合えないのも、誰も笑いかけてくれないのも」
「っ…」
人間のオレではとうてい理解できない事だろう。神様として崇められるいづなさんだからこそわかる寂しさなのだから。
「寂しいです、ゆうたさん」
心情を述べた彼女はオレの名を切なげに呼んだ。その言葉に思わず振り返ってしまう。
彼女へと視線を向けると瞳に映るぺたりと下がった狐に耳。しょげたように垂れ下がった九本の尻尾。甘えるように見つめてくる金色の瞳に掴んで離さない彼女の手。
「帰らないでいただけませんか…?」
そして寂しげな表情ととどめと言わんばかりのすがりつくような声色。そんな声を出されては普通の男だったら堪らない。
この女性はずるいと思う。人間にはない部分が心情を表して黙っていてもわかってしまう。それでいて追い打ちをかけるようにかけられたこの言葉だ。誰もが認める美女である彼女がそう言うだけでどれほどこちらの心をかき乱されることか。
思わず抱きしめたくなる。
だけど、踏み込むべきではない。
それは相手が神様と崇められているからではなく一人の女性だから。一人の男性として節度を持つべきだから。
据え膳食わぬは武士の恥よりも武士は食わねど高楊枝。
度胸はなくとも、節度はある。
「…ですが、ね」
オレの言葉に反応してか絡みついてくる九本の尻尾。包み込むように背中に回り、手足を拘束してくる。きつくはなくとも抜け出すことができないぐらいに。
離れない手はするりと滑りオレの手を握り込む。細い指先が絡まり、重なった肌から互いの体温が溶け合っていく。
「ゆうた、さん…」
再び届く切なげな声。じっと見つめてくる金色の瞳。
さすがのオレも二度も同じ事をされて反応せずに帰れるほど図太い神経はしていない。
「…まったく」
こんなのずるいじゃないか。帰る気なんて、失せてしまった。振り払う気なんておきやしない。この尻尾の感触が名残惜しいからじゃなく、彼女に泣き出しそうな顔をされてるからだ。
オレよりもずっと年上で、神様とあがめれる女性が今は少女のように泣きそうになっている。
「…仕方ないですね」
立ち上がりかけた足を戻し、腰を畳におろす。それをみていづなさんは笑みを浮かべ、じゃれつくように尻尾がまとわりついてきた。
「今夜だけですよ?」
「ありがとうございます、ゆうたさん♪それじゃあ、ご飯の用意をしましょうか。腕によりをかけて作りますからね」
どこからか取り出した割烹着に腕を通していづなさんは小走りに奥へと行ってしまう。きっと夕飯の用意に行ったのだろう。足音が遠のきやがて静かになる。
さて。
「どうしよう…」
嬉しいような、恥ずかしいような一晩にオレは頭を抱えるのだった。
そんなものを間近で見せられて普通の人間なら耐えることはできないだろう。そして、健全な男子高校生であるオレ事黒崎ゆうたも当然耐えられるはずもなく、それへと向かって顔を押しつけた。
「んんん〜っ!」
なんともふもふしていることだろう。高級な羽毛布団だってここまで心地よくはないだろうに。さわったことないけど。
顔を擦り付ければ絶妙な柔らかさで沈み込み、生え揃う一本一本がふわりと受け止めてくれる。滑らかに肌を撫で、くすぐったくも心地よい感触を与えてくれる。ふわりと香る匂いは甘味や花にはない甘さがあった。
「ふふふ♪そんなにいいものですか?」
尻尾に抱きつかれながらも彼女は笑う。おかしそうに、それでいてどこか嬉しそうに。
「最高ですよ。病みつきになりそうなぐらいに」
「ふふっ♪本当におかしな方」
そう言って口元に手をあて笑う女性はいづなという女性だ。
オレがこの街を一望できる場所を探しているとき偶然に出会った女性。しかし、ただの女性ではなく稲荷という妖怪らしい。その証拠に臀部からは尻尾が伸び、頭からは三角形の耳が生えている。
町中でも見かける肌の真っ赤なアカオニや同心の先輩であるカラス天狗同様に人間ではない存在。だが、彼女の場合は存在どころか格すら違う。
―何よりも目立つ臀部から生え揃った九つの尻尾。
九つの尻尾が生えた狐は神と同等に扱われる。その妖力は人智を越え、尻尾の一振りは天災をもたらすなどと言われる存在だ。父の実家に同じ九尾を奉った社があるのだから十分理解している。だがそんなことただの言い伝えや伝承であって事実ではない。目の前にいる九尾は凶暴さのかけらもないし、むしろ親しげに接してくれる。まるで優しい年上のお姉さんのように。
「九尾なんて崇められても親しげに接してくれる人なんていませんよ」
「?そりゃまた何で?」
「皆私のことを神様と扱うからでしょう。信仰深いことは悪いことではないのですが一線を引かれている気がしてあまりいいものではありませんね」
いくら親しげに話せる相手でも人間の理解を超える存在ではそうそう気安くはできないのだろう。自分よりも格上の存在を怒らせたとなると何をされるかわかったもんじゃない。しかも彼女は九尾である。対峙しただけでもわかるがあの街にいる妖怪と比べると格が違いすぎる。
だからこそ。
「…役得ですね」
「ふふ」
オレの言葉にいづなさんはおかしそうに笑った。
「普段神様として崇められてことはありましたがそんな風に言う人は初めてです」
「嫌ですか?」
「嫌ではないですよ。少しくすぐったいですけどね」
口元に手を当てて上品にくすくす笑う。頭から生えた狐の耳がわずかに動く。揺らぐ尻尾が少し膨らむ。
その姿はきっと誰もが見とれる事だろう。異形であっても九尾であっても彼女が美女と言うことに変わりない。
ちらりと視線を鳥居へと移す。この敷地の入り口であり神域を示す門には誰も訪れる様子はない。
「…本当に誰も来ませんね」
「いつも通りですよ」
微笑みを向けながら、それでも寂しげな笑みでいづなさんは言った。
初めて出会ったときから既に三度通っているこの場所にオレと彼女以外に人はいない。数百を超える石段や町はずれという立地条件が悪いというのもあるが、神様の住まう土地に訪れること事態を無礼と考えての事だろう。
そんなこと余所者であるオレにとっては関係のない。オレはいづなさんに呼ばれたから来るだけであって、彼女との会話やこの感触を堪能したくてただ来るだけだ。
顔を擦り付け尻尾の感触を存分に堪能する。人の尻尾だとわかっていてもやめられるものじゃない。この感触の前では理性も意地も意味がない。暖かくて、心地よくて、それでいていい匂いがするそれにあらがうことなど出来やしないのだから。
「んん…」
どれほど柔らかなぬいぐるみでもどれほど高価な布団でもきっとこの毛並みや手触りを再現することはできないだろう。人間の手では絶対に作れない魔性の心地よさ。それは一度味わえば二度と手放すことなどできないだろう。
指先に絡めて、手のひらで味わって、頬をこすりつけて顔を埋める。
最高。
きっと幸せというのはこういうことを言うのかもしれない。そんなことを思いながらオレは瞼を閉じるのだった。
日の傾き始めた頃縁側でのんびりといづなさんの尻尾に顔を埋め会話していたオレはゆっくり体を起こした。
「そろそろ帰りますね」
このままずっとこうしていたいのだが流石に明日のことがある。買い物をして、明日の仕事に備えて休養をとる。同心は体を張る仕事である以上休養は必須だ。
それにこれ以上彼女に迷惑かけるべきではない。
いづなさんが淹れてくれたお茶を飲み干し湯飲みの乗った盆を運ぶ。終えたら靴を履いてこの社の入り口である鳥居へと歩く。するとその背中にいづなさんが声をかけてきた。
「あの、ゆうたさん」
「はい?」
「その…次もまた、来てくれますか?」
一陣の風が吹き、狐色の長髪がなびく。共に揺れるは九本の尻尾。同じ色をした瞳の奥にあるのは寂しさと期待を混ぜ込んだ光。かまいたくなるような、それでいて甘えて、甘やかしたくなるような不思議なものだった。
「いいんですか?あ、いや、でもいづなさんのご予定は?街に行ったりして留守にするかもしれないでしょ」
「私が街に赴いたところで皆に気を使わせてしまいます。ここへ戻る頃には両手一杯に供物をもらってしまうんですよ」
「なら、他の人とかは来ませんか?人気がないと行ってもまったくというわけではないでしょう?」
「去年はお正月くらいにしか人は来ませんでした。皆にとって神様というのは崇めるべき存在であって頼み込む相手ではないのかもしれませんね」
これだけ美人で優しいいづなさんに頼みごとをすると言うのは確かに気が引ける。それ以前にあの活気や人情あふれる街では神様よりも気軽に頼れる相手が傍にいるんだ、わざわざこんな山中へ赴く物好きはいないのだろう。
「ですから、またここを訪れてくれませんか?」
そっと掴まれる学ランの裾。それから首筋へと延びてくる九本の尻尾。それらはくすぐるように撫で動き、オレの頬へと擦り付けられる。その感触にオレは思わず頬を擦り付け目を細めた。
まるで誘惑するような行動なのだが目に映る表情はやはり寂しげなもの。不安で、崩れ落ちそうな儚いもの。瞳の光と相まってどうしてこうも寂しげに映るのだろうか。
オレは尻尾へと手を伸ばし毛並みをそろえるように撫でた。
「それじゃあ甘味でももっておじゃまさせていただきますね」
「…はいっ」
ぱぁっと明るくなるいづなさんの表情。ともに喜びをたたえるように尻尾がじゃれついてくる。あ、すごい溶けそう。
名残惜しい感触から離れ、いづなさんへ手を振って石段を下りていく。ちらりと後ろを向くと彼女はずっとオレの背中を眺めていた。
それから数日後。オレは縁側に座るいづなさんの尻尾を抱きしめ寝ころんでいた。
彼女の手にあるのは街の中で有名な甘味どころの羊羹である。少し並べば買えるし値段も手頃なもの。それでいて値段以上の味を誇るこの街の名物。その味はいづなさんも満足したらしく彼女の口元が綻んでいる。
「美味しいですね」
「そう言ってもらえると並んだかいがありましたよ」
尻尾を抱きしめいづなさんを見上げた。
桜色の唇が開き、小さく着られた羊羹が中へと消える。竹串を引き抜くとぷるんと瑞々しく揺れた。数度咀嚼し頬が動くと細い喉が上下する。
「…」
そんな仕草が色っぽい。気品があるのにどこか花魁を彷彿とさせる妖艶さがある。九尾の稲荷。人間とは格の違う女性なのだから男一人仕草だけで虜にするのは容易いのかもしれない。
最もオレは既にこの感触の虜なのだけど。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ…」
誤魔化すように九本の尻尾に顔を埋める。相変わらずな魔性の尻尾は埋めた分だけ柔らかな感触をオレへと返してくれる。人間の手で再現することなどできないだろう。そう思えるほど常軌を逸した心地よさにオレはただ溺れていく。
そんな姿を彼女はじっと見つめてくる。美人相手に見つめられるのは気恥ずかしいがきっとオレの身なりが珍しいのだろう。皆着物姿のこの街に学生服姿は浮いている。
「あの…ゆうたさん」
「はい?」
抱き枕のように尻尾を抱きしめていたオレは彼女へと視線を向ける。すると羊羹を食べ終えたいづなさんは恥ずかしそうにもじもじとしていた。
「あのですね、その」
「はい」
「…手を、握ってもいいですか?」
感情に反応してか尻尾がそわそわ動き出す。オレの腕の中にある尻尾までがせわしなく動き頬をこすりあげた。
「えっと…」
突然のお願いと尻尾の感触に戸惑う。だが一方的に尻尾の感触を堪能しているんだ、オレだけというのも悪いだろう。男の手を握って何が楽しいのかはわからないが。
「どうぞ」
にっこり笑みを浮かべていづなさんへと手を差し出した。
「ありがとうございます」
差し出した手を握りしめるいづなさん。細い指先が絡み合い、感触を確かめるように何度も力を込める。オレと同じぐらいの大きさなのに長めの指とさらさらな手のひら、やや高めの体温や柔らかな感触は尻尾とは全く違うがこれもまた心地いい。
「…♪」
手を握っているだけでも満足なのかいづなさんはとても嬉しそうにしている。ここには誰も訪れないと言っていたがその分寂しいと言うことだろうか。故に、人肌恋しくなるのかもしれない。
だが異性に手を握られるというのは気恥ずかしい。それが美女というのだからなおさらだ。
そっと逃げるように指を引くと追いかけるように重なり合う。わずかに動かすとさらに強く絡んでくる。なら、こちらからも力を込めると―
「ぁ♪」
わずかに漏れた声とともに照れたように彼女は笑う。それをオレは尻尾に顔を埋めたまま見上げていた。
何度見ても美人だと思う顔立ち。それから人間とは一線を画した存在感。街にいる妖怪とは違うどことない厳粛な雰囲気。それでも柔らかな物腰でこちらも変に気を使わずにすむ。
たとえ九尾であろうが稲荷であろうが魅力的な女性であることにかわりない。
しかしここを訪れる人は皆無。だからか彼女はどこか甘えたがりで、構ってほしいとオレの手を握る。喋りたいのではなくただここにいることを確かめたいと言わんばかりに。
「ゆうたさんは不思議な人ですね」
「…不思議ですか?」
ぎゅっぎゅと手を握り込みながらふといづなさんはそんなことを言った。
「普通こんな偏狭な場所に来る人なんていませんよ。石段も数百を越えるほどありますしね」
「…もしかして邪魔ですかね」
「いえ!違うんです!」
いづなさんはオレの言葉を大慌てで否定した。
「本当なら私が出向けばいいはずなのですが…わざわざこんなところに呼んでしまって迷惑ではありませんか?」
「まさか」
両手をついて彼女の隣に座り込む。下にあった尻尾を踏まないように注意して両手で抱きかかえた。
「オレの住んでる場所って街の北側にある山中ですよ。街に行くだけでも結構な距離だっていうのにわざわざ来てもらうのは気が引けます」
「ですがゆうたさんにとっても同じでしょう?街からここまで来るのにもかなりの距離になるはずですよ」
「それくらいの距離がある方が体力作りにもなりますからね。同心にとっちゃ体力あってなんぼですから。それに」
にぃっとこちらも笑みを浮かべて言った。
「いづなさんが呼んでくれればいつでもお邪魔させてもらいますよ。まぁ、邪魔にならない程度に」
とはいいつつも彼女の尻尾を好き勝手抱きしめているのだから正直邪魔だと思う。他人に自分の体を好き勝手いじくり回されてるんだ、不快と思われても仕方ない。
だが逆に男であれば相手が美女なら何をされても許してしまう。それだけ男は単純で、オレもまた単純なんだ。今もこうして手を握られてても不快に思うことはない。むしろもっとこうしたいとすら思ってしまう。
それだけ彼女の温もりは離れがたく、この感触は離しがたい。
「ふふっ♪」
オレの言葉にいづなさんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そんなことを言われると毎日呼んじゃいますよ」
「…流石に毎日だと来られる時間が限られますけどね」
気恥ずかしそうに笑いながらオレもいづなさんも互いの手を握りあっていた。
太陽が傾き、赤い光に影が伸びる時間帯。流石にまずいと思ってオレはいづなさんの尻尾から体を離した。名残惜しくはあるが帰らないと明日の仕事に支障がでる。
「すいません。そろそろ帰らせてもらいますね」
湯飲み茶碗を片づけ、靴を履き学ランについた皺をのばす。そうしていづなさんに一礼しようと振り返ったそのとき。
「あのっ」
ついっといづなさんの手がオレの手を握った。
「え?」
「もう少し、ゆっくりしていきませんか?」
にっこりと微笑むいづなさん。だが九本の尻尾がオレの体を捕らえるように絡みつく。首に、足に、腕に、体にふわふわと柔らかなそれは引きはがすことは容易いだろうがなぜだか引きはがせない。
「いや、でもさすがにこの時間帯だと家につく頃には真っ暗になっちゃいますよ」
「それなら…泊まっていきますか?」
突然腕を取られる。それどころか尻尾とは違う柔らかさが腕に押しつけられているのは気のせいではないだろう。
その感触に思わず声がうわずった。
「い、いや、それは悪いですよ」
「遠慮しないでくださいな。どうせ私以外にだれもいないのですから」
「なおさらまずいと思いますが…」
誰も来ない人気のない家で二人きり。相手は人でなかろうと傾国の美女と言っても過言じゃない九尾の稲荷。そんな女性と一夜をともにするというのは色々と危ない。
「それなら送っていきましょうか?明かりならありますし」
そう言って尻尾の先端から火の玉が生まれた。淡い光を放つそれはきっと狐火とかいうものだろう。流石九尾。オレの頭じゃ理解の及ばないことをやってくれる。
だが。
「その後どうするんですか。送ってもらった後一人で帰るつもりですか?女性一人で夜道を歩かせられませんよ」
「ふふふ」
オレの言葉にいづなさんは頬に手を当ておかしそうに笑った。
「ゆうたさんは私のこと女性扱いしてくれるのですね」
「…おかしいですかね?」
「稲荷で九尾ですよ。一応神様扱いされるぐらいの事はできますし夜道で襲われる事なんてまずありませんよ」
「だからといって女性に送らせるほどふぬけじゃないんですよ」
理解が及ばずとも彼女は一人の女性。魅力的で、蠱惑的で、それで儚いそんな女性だ。九尾であろうが稲荷であろうが神様だろうがオレにとっては女性として敬うべき存在である。
「なら、こんな夜遅くに女性一人にするのはいただけないことではないでしょうか?」
「…あ」
確かにそうだ。そう言われてしまえば言葉に詰まるしかない。
親しき仲にも礼儀あり。男女である以上あまりべたべたせずわきまえるべきだろう。尻尾を抱き抱えてる時点でそんなこと言えないのだけど。
だが逆に、こんな人気のない場所で一人暮らしの女性の身を案じるのが男ではないのか。人気がないからこそ頼りになる存在として傍にいるべきではないか。
「…」
どうしよう。この場合はどちらをたてるべきなのだろうか。
実のところここではオレも一人暮らしの身であるので帰らなかったところで誰かが困る訳じゃない。
だからといって彼女の厚意にこれ以上甘えるのはいただけない。迷惑をかけ続けられるほど図太い神経をオレは持ってない。ついでに言うと明日も同心としてカラス天狗の先輩に引っ張り回される予定だ。早いところ眠っておかないと体がもたないことだろう。
「ゆうたさん…」
迷っているところに寂しげに締め付ける九つの尻尾。何度味わっても飽きのこない魔性の感触。きつくないが振りほどけないそれを頬にこすりつけられオレは身を捩った。
「帰ってしまうのですか?」
とどめと言わんばかりに囁かれる切なげな声色。潤んだ瞳を向けられるその姿は年上の女性と言うよりも儚げな少女そのものだった。
「…すいません」
だけど、オレにも譲れないものがあるし、押さえなければいけないものがある。相手が人間じゃなかろうが女性であるのならなおさら尊重しなければならないものがある。
だからといって寂しそうに表情を変えるいづなさんを放っておくわけではない。
「それなら…また明日も寄らせてもらっていいですか?」
せめてもの妥協案。
夜がだめでも昼間なら。今日がだめなら明日なら。
「はいっ!」
その一言にいづなさんは嬉しそうに微笑みを浮かべる。九本の尻尾は名残惜しそうに引き、掴まれた手も離れていった。
「それではまた明日。待ってますからね」
「ええ、また明日」
離した手を振りオレもまた振り返す。そうしてオレは一人暗くなってきた石段を下りていくのだった。
気づけば週に何度いづなさんの元へと通っているのだろうか。時間にすると何日ほど彼女の傍に居るのだろうか。今日も今日とてオレは街で買った甘味を片手に彼女のところへと足を運んでいた。
今いづなさんが食べているのは桜の花の形をした和菓子。オレのいたところでもありそうな細かな装飾をされたお菓子だ。竹串で切り分けて口へと運び、美味しそうに顔を綻ばせる。
その隣でオレは尻尾を数本抱きしめて彼女と同じように縁側に座っていた。
「…くぁ」
気づかれないように欠伸をかみ殺す。そのまま日の下でする事もなく尻尾に顔を埋めるのだがそれが逆に眠気を催す。こんな微睡みの中では危険な感触だ。しかし手放すことはできない。
「…ぅあ…」
意識が遠のいた一瞬ことんっと隣のいづなさんに寄りかかってしまった。
「……あっ」
慌てて体を起こして元の位置に戻す。すると彼女は心配そうに顔をのぞき込んできた。
「眠いのですか?」
「え、ええ…昨夜同心の仕事で夜の見回りして帰ってきたのが遅かったので」
おかげで満足に睡眠時間がとれていない。起きれなくはないがじっとしているとそのまま眠ってしまいそうだ。いづなさんの隣で眠るのは失礼だと思いつつも尻尾の感触に眠気を誘われる。
この尻尾に顔を埋めたまま眠れたらどれほど心地良いことか。
再びあくびをかみ殺しながらそんなことを考えて頭を振る。それでも眠気は払えない。
「それなら、眠りますか?」
「え?」
いづなさんの提案に寝ぼけ眼をこすると彼女はオレの手を引いて家の中へと連れて行く。縁側から移動して畳の部屋の中央。布団を敷いてくれるのかと思ったが彼女はそのまま横になる。すると臀部から生えた尻尾五本が彼女の隣に横たわった。
「どうぞ」
「…おぉ」
五本の尻尾は隙間なく並びふわふわした極上の柔らかさを持つ布団の出来上がり。さらにはその上に覆い被さるように残りの四本がかけられる。
神とも崇められる九尾の稲荷。その尻尾でできた敷き布団と掛け布団。そして極めつけは美女の添い寝。なんと豪華で贅沢なことだろうか。
「でもオレ結構重いですよ?尻尾が痛いんじゃないんですか?」
「ぜんぜん大丈夫ですよ。これでも九尾の稲荷ですから」
動物にとって尻尾は体のバランスを取るために必要だという。それ故に他より敏感だったはずだ。それなら痛みも当然感じるのではないか。昔に父の実家で飼っている猫の尻尾を踏みつけたときは引っかかれたし。
だが彼女は稲荷。猫とは違うし、人とも違う。オレの常識じゃ計れないし、理解が及ばぬ部分もあるのかもしれない。
「…それじゃあ失礼して」
おそるおそるいづなさんの尻尾の上へと進み、尻尾の間に手足をつく。そうしてオレはゆっくりと体を横たえていった。
「あ…っ!」
肌に触れる柔らかい感触。布や綿とは全く違う暖かな尻尾はオレの体を優しく受け止め、残りの尻尾が体を覆った。頬をこすりつけるとふわふわな毛並みに撫でられ包まれるように尻尾が絡みついてくる。
こんな贅沢をしていいのだろうか。神様と崇められる彼女の尻尾を布団代わりにするなんて失礼なこときわまりない。だがそんなことどうでもよくなるほど心地よい。まさしく神懸かってると言っていいだろう。
これはまずい。抜け出せなくなる。
あまりにも心地よくて、気持ちよくて、抜け出すことなど考えられない。離れることすら思い浮かばない。
「これ、最高です…」
「ふふふっ♪九尾という事で皆に気を遣わせていた尻尾ですがそんなに喜んでもらえると嬉しくなりますね」
目の前で微笑むいづなさんは手を伸ばしてオレの頭へと添えた。癖のある髪の毛を整えるように撫でていく。
「んん…」
この歳で人に頭を撫でられるとは思わなかったが、これもまた心地いい。彼女の白魚のような指先が跳ねた毛先を擽り流れる感触に瞼が重くなり、徐々に視界がせばまっていく。そして我慢することもなくオレの意識は闇の中へと沈んでいった。
「…ぇあ?」
気の抜けた声とともに瞼が開く。ゆっくりと体を起こしてあたりを見回す。眠気を払うように頭をふるうが意識はまだまだはっきりしそうにない。
「…んん?」
あたりは暗闇。淡い光が射し込んで部屋の中を照らしている。どうやらもう夜らしい。
「…明かり明かり」
天井から下げられている電灯のひもを求めて手を伸ばす。振り回すが指先には何もあたらない。
「?」
徐々にはっきりしていく意識と視界に改めて周りを見渡す。大きな畳の部屋と障子や襖。父親の実家と似ているのだが鼻孔をくすぐるこの甘い香りはなんだろうか。手のひらに感じるぬいぐるみのようなふわふわな感触は、それから耳に届く小さな寝息は誰だろうか。
「ん…ん?……ぁあ」
ああ、そうだ。電灯なんかないはずだ。ここはいづなさんの家でオレは彼女の尻尾の上で眠ったんだから。だが彼女は今瞼を閉じて規則正しい寝息をたてている。ぴくぴくと頭の上の耳が動くが起きてはいない。おそらくオレが眠った後にともに眠ってしまったのだろう。
「…」
ならオレもまた眠ってしまおうか。どうせ明日は特に用もないのだから寝坊しても困ることはない。そう考えていづなさんの隣に再び横になり尻尾を抱きしめ瞼を閉じようとして―
「―…夜っ!?」
異常な暗さと淡い月明かりに完全に意識が覚醒した。
開かれたふすまの向こう側から吹き込んでくるやや肌寒い風と広がる暗闇は間違いなく夜である証拠。外にでれば月が夜空にあがっていることだろう。
「…しまった」
この暗闇でこの場所から自宅へと帰るのは難しい。というのもこの街には夜道を照らす電灯などまったくないからだ。その分月や星の光があるのだがそんな淡い光で長い石段を下りるのは危ない。それに、オレがここで住んでいる自宅は山中にある。夜の山がどれほど危ないかは嫌と言うほど知っている。
帰れない。
だが、帰らないといけない。
このような人気のない場所で隣にいるのは九尾の稲荷。その容姿は誰もが見とれるだろう美女の姿。そんな女性と一晩同じ屋根の下というのはいただけない。尻尾の感触は名残惜しいが健全な高校生男子にはあまりにも辛すぎる。
「あら、私も眠ってしまったのですね」
すると物音で目を覚ましたのか寝ぼけ眼を擦りながらいづなさんはゆっくりと体を起こす。長い金髪が畳に垂れ、九本の尻尾がぱたりと揺れ、少しはだけた着物から胸の谷間が覗く。
…色っぽい。じゃなくて。
「いづな、さん」
「はい、どうかしましたか?」
「あの…そろそろ帰らせてもらおうかと思いまして」
暗がりとはいえ明かりさえあれば帰れなくもない。明かりなら街で調達できるだろうし、そうすれば何とかいける。危ないのはここから街への道のりだけだ。
いづなさんの前で頭をさげてそそくさと玄関へ進もうとしたそのとき、ついっと手を引かれた。見ずともわかる、いづなさんの手に。
「こんな真夜中に独りで出歩くのは危険です」
「いえ…」
「泊まっていってもいいんですよ?」
「いや…」
年頃の男子高校生であるオレにとって美女であるいづなさんと一夜をともにする方が危険だ。たぶんいたずらとかしたくなる。胸とか揉みたくなるし、情事へと転びたくなる。そんな度胸なくて悶々とするのだろうけど。
そうならないためにもあの手この手の理由を挙げる。
「オレも一応年頃の男ですよ?未婚の男女が同じ屋根の下は危ないですって」
「こんな暗闇を明かりもなく帰るほうが危ないと思いますが」
「いや、いづなさんに危険が及ばないならそれでいいかと」
逃げ帰ろうと玄関へ足を延ばす。だがその場から動くことはできなかった。
「…行ってしまうのですか?」
いづなさんの手はオレを離さない。細い指先に込められた力は決して強くはないが振り払わない限り離れないだろう。
儚くて、脆くて、崩れてしまいそうな細い腕。払っただけでもガラスのように砕けてしまいそうで手が動かない。
「…いづな、さん?」
「あの…もう少し居ませんか?」
「い、いや…もう夜ですからね、流石にこれ以上は―」
ぐっと、指先に込められた力が強くなった。
「以前にも言いましたね。ここには人は滅多にこないと」
「え、ええ…それがどうかしましたか?」
振り返れない。今彼女を見たら決めたことが崩れてしまいそうで。
「一人で人気のない山奥にいるのはゆうたさんが思っている以上に寂しいものですよ。誰とも話ができないのも、誰とも触れ合えないのも、誰も笑いかけてくれないのも」
「っ…」
人間のオレではとうてい理解できない事だろう。神様として崇められるいづなさんだからこそわかる寂しさなのだから。
「寂しいです、ゆうたさん」
心情を述べた彼女はオレの名を切なげに呼んだ。その言葉に思わず振り返ってしまう。
彼女へと視線を向けると瞳に映るぺたりと下がった狐に耳。しょげたように垂れ下がった九本の尻尾。甘えるように見つめてくる金色の瞳に掴んで離さない彼女の手。
「帰らないでいただけませんか…?」
そして寂しげな表情ととどめと言わんばかりのすがりつくような声色。そんな声を出されては普通の男だったら堪らない。
この女性はずるいと思う。人間にはない部分が心情を表して黙っていてもわかってしまう。それでいて追い打ちをかけるようにかけられたこの言葉だ。誰もが認める美女である彼女がそう言うだけでどれほどこちらの心をかき乱されることか。
思わず抱きしめたくなる。
だけど、踏み込むべきではない。
それは相手が神様と崇められているからではなく一人の女性だから。一人の男性として節度を持つべきだから。
据え膳食わぬは武士の恥よりも武士は食わねど高楊枝。
度胸はなくとも、節度はある。
「…ですが、ね」
オレの言葉に反応してか絡みついてくる九本の尻尾。包み込むように背中に回り、手足を拘束してくる。きつくはなくとも抜け出すことができないぐらいに。
離れない手はするりと滑りオレの手を握り込む。細い指先が絡まり、重なった肌から互いの体温が溶け合っていく。
「ゆうた、さん…」
再び届く切なげな声。じっと見つめてくる金色の瞳。
さすがのオレも二度も同じ事をされて反応せずに帰れるほど図太い神経はしていない。
「…まったく」
こんなのずるいじゃないか。帰る気なんて、失せてしまった。振り払う気なんておきやしない。この尻尾の感触が名残惜しいからじゃなく、彼女に泣き出しそうな顔をされてるからだ。
オレよりもずっと年上で、神様とあがめれる女性が今は少女のように泣きそうになっている。
「…仕方ないですね」
立ち上がりかけた足を戻し、腰を畳におろす。それをみていづなさんは笑みを浮かべ、じゃれつくように尻尾がまとわりついてきた。
「今夜だけですよ?」
「ありがとうございます、ゆうたさん♪それじゃあ、ご飯の用意をしましょうか。腕によりをかけて作りますからね」
どこからか取り出した割烹着に腕を通していづなさんは小走りに奥へと行ってしまう。きっと夕飯の用意に行ったのだろう。足音が遠のきやがて静かになる。
さて。
「どうしよう…」
嬉しいような、恥ずかしいような一晩にオレは頭を抱えるのだった。
14/05/26 00:21更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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