休憩との悪夢、及び膝枕の考察について
轟轟と燃えさかる炎。
じりじりと焼き尽くす熱。
赤々と飛び散る火花。
それから響きわたる男とも女とも子供とも老人とも聞き分けられない誰かの悲鳴。
それらを前に私はただ立っていた。
頬を熱風が撫で、揺れる炎が影を作る。悲鳴が業火に飲み込まれ幾多もの命が燃え尽きる。
その惨劇を私はただ立って見ていることしかできなかった。
「…ち、が…う」
こんなことをしたかったわけじゃない。
「…違、う」
こんな魔法を使いたかったわけじゃない。
「違うんだ…っ」
こんな光景を生み出すために魔法を研究していたわけじゃない。
だがどう言い訳しようとも私はその光景を見続けるしかできない。
止め方はわからない。
助け方はわからない。
何も私はわからない。
「素晴らしいですわね」
そんな私に一人声をかけてくる者がいた。ガラスの鈴を転がしたような気品溢れた、人を引きつける柔らかな女の声色。目の前の光景を誉め称えるように私へ向けられた視線と声に私は何も返せない。
それでも彼女は気にせず言葉を続けた。
「貴方様の研究成果は前々から報告されていましたが実際に目にすると素晴らしいの一言に尽きますわ」
業火の燃えさかる音と比べればずっと小さく飲み込まれてしまいそうなものなのに彼女の声ははっきりと耳に届く。
ねっとりとからみつくように。
ざっくりと切り裂かれるように。
ぴったりとまとわりつかれるように。
「ねぇ、ルア・ヴェルミオン殿」
業火に照らし出された女性の顔は不気味なほどに美しかった。
「……は」
瞼を開くと見慣れた薄汚れている天井が目に入り、私は眠っていたということを理解する。
「……」
久しぶりに嫌なものを見た。ここ最近は忙しくて夢よりも寝る暇すらなかったというのに久しぶりに眠ったらこれか。ああ、まったく嫌になる。
「…うん?」
眠った?
おかしいな。私が自分からベッドへと入った記憶はない。先ほどまでずっと魔法の研究成果をまとめ上げていたはずだ。机の上で目を覚まし、涎にまみれた資料を始末するのが普段の私のはずだ。ベッドに入った記憶なんてここ数週間ないはず。
なら、どうしたというのだろう。
ゆっくりと体を起こそうと手をつくと下にあるのがソファであることに気づいた。年季の入ったソファは柔らかくも心地良いとは言えない感触を私に与えてくる。家具なんてあればいいだけで買い換えることもしていなかったんだ、これは仕方ない。
だが、ソファ?
横になった記憶すらないというのにどうしてこんなところで私は眠っているのだろう。うっかり横になって眠ってしまったのだろうか?
そんな風に考えていると上から声が振ってきた。
「あまり無理をなさらない方がいいと思いますわ」
気品あるお淑やかな声色。夢の中で聞いたものとは種類の違う透き通った声に私は小さく息を吐き出した。
「ヴェロニカか。それはまた、どうしてかね?」
「貴方様は先ほど倒れられたのですから」
「…倒れた?」
「ええ。きっと過労が原因ですわね。ここ数日ユウタ様にちょっかい出すことと研究のことしかやっていなかったのですから体が悲鳴を上げていたのでしょう」
「…ふむ」
確かに眠った記憶はここ数日ない。ようやく手には入ったスライムの体液を用いた魔法実験が思いの外順調に進むし、何より初めて触れる男性がいたのだ、眠ることなどに時間を割いてはいられない。
だがとうとう限界が訪れたらしい。元々体力もあまりなかったのだ、これは仕方ない。栄養が十分取れていても休息がないのでは体が参ってしまう。
私は体から力を抜き声のする方を探る。
「どこにいるのかね?」
「貴方様の額ですわ」
そう言われてはたと気づく。額に何かが張り付いた感覚があることに。
ひんやりとしたその感触は直に触れたことのあるスライム特有のもの。大きさは額を覆える程度だが火照った私の体から熱を奪ってくれる感覚が心地良い。
「私はどれくらい眠っていたのかね」
「まだ三時間程度ですわ」
「…三時間もか」
それはもったいないことをした。三時間もあれば研究は存分に進められるしユウタの体を存分に調べることができるというのに。
「随分とうっかりしていたことだ…」
「そのままでいてくださいまし」
体を起こそうとしたところをヴェロニカに止められた。
「倒れたのですから体が休養を欲しがっているのですよ?そんな状態で研究を進めようなど無茶ですわ」
「別に体の一つや二つどうなろうと関係ないのだよ。私が欲しいのは休養ではなく真理で、事実だ」
額の上からヴェロニカに退くように視線を送ると彼女は渋々ソファの背もたれに移動した。見下ろしてくる青いスライムは小さな顔に心配そうな表情を浮かべている。
「それでも貴方様は人間です。私たち魔物と比べればあまりにも…脆い」
「ああ、そうだ。私は人間だ。脆く、儚く、そして何より愚かな生き物なのだよ」
「…?」
私の発言に彼女は怪訝そうに首をかしげるが私は構わず続ける。
「そして研究者という者は探究心さえあればなんだってできる。腕がなくなろうが、足が消えようが研究を重ね真理を解き明かさねばらならない。それが私にとっての生きがいであり、義務だろう?」
「そんなこと言ってもさせませんからね」
ヴェロニカとは違う声色に私たちは会話を止める。ソファに横たわったまま首だけ動かして声のする方を見るとエプロンを着込んだユウタが側に立っていた。
「おはようございます」
「…ぁあ、ユウタかね」
手袋に包まれた手には湯気の立つ鍋を持ち、そこから空腹を刺激する香りが漂ってくる。テーブルまでは距離がある故、傍に転がっていた椅子を引っ張ってくると手袋を敷きその上に乗せる。
「スープ作りましたよ。ぶっ倒れるなら休息もちゃんと取ってくださいよ」
鍋の中からよそったスープは部屋の明かりで琥珀色に輝く。野菜をふんだんに使ったそれは程良く煮詰められたジャガイモや人参、キャベツと色とりどりで見ているだけでも食欲をそそる。
「もし寝るっていうのなら別のもの用意しますよ。寝る前に重いもの食べたら体にはよくありませんからね」
「いや、せっかく用意してくれたんだ、ありがたくいただこ…う?」
ソファから体を起こそうとしてようやく私は体の異変に気付いた。
手が伸びない。いや、この場合は伸縮するという意味ではなく、手がスープへと向けられない。ユウタからスープを受け取ることができない。
というか、体が動かない。
「ユウタ、手が伸びないのだが?」
「疲れてるってだけでしょう?少し休めば体を起こせるようにもなりますよ」
「だがせっかく作ってもらった料理なんだ、うっかり冷ます前に食べるべきだろう」
「それは嬉しい心遣いですが体の方も気遣ってくださいよ」
「そこで一つ提案なのだが」
ソファに横たえた体を捩り何とかユウタと視線を合わせる。闇色の、吸い込まれるような瞳と料理に視線を移して私は言った。
「ユウタ、食べさせてくれ」
「…もう介護の領域ですよ」
「なら介護してくれ」
「…」
はぁっと疲れたように吐き出されるため息。そして浮かべた表情は呆れ顔。それでもしばらくするとわずかに口元が緩みユウタはどこからか取り出したスプーンを握った。
「まったく、仕方ないですね」
そう言って皿からスープを掬う。揺らぎ立ち上る湯気をそっと吹くと私に向かって差し出した。
「ほら、口を開けてください」
「んあ」
口内に広がるやや熱いスープ。コンソメと野菜の風味が口内に広がり喉の奥へと流れていく。人参やジャガイモは食べやすくカットされ噛み切りやすい柔らかさまで煮込まれていた。薄味ながらも食べやすく美味なものだ。
「君の作る料理は本当に美味だな」
「それはどうも」
「ふふっ♪お熱いことですわ♪」
額の上から移動したヴェロニカは微笑み背もたれの上から羨ましそうな視線を送ってくるのだが関係なく私は食事を続ける。時折乗せられる野菜を咀嚼し、飲み込んではまた口をあけ、ユウタに食べさせてもらうの繰り返しだ。
申し訳ないとは思う。
だが動けない以上は仕方ないことだ。動けないのでは魔法すら使えないのだから。
「んぁ…」
「あ、すいません」
私の口の端からスープが滴る。横になって食べさせてもらっているのだから仕方ないだろう。すぐさまユウタは謝り唇へ指を添えて拭う。
「…」
指を舐めた。
「っ…」
頬を抓られた。
「へふひふへははふへほひひほへははひはへ?」
「いきなり舐められりゃ抓られても仕方ないでしょうが」
「そういうものかね?ヴェロニカの場合は何もしていないだろう」
「だからヴェロニカはそれが食事だって言うんですから」
「食事として舐められるのとただ舐められるのとでは何が違うのかね」
「…………………自尊心の減り、ですかね」
「なら継注ぎ足せばいいのではないのかんむぅっ」
「水じゃないんですから。さっさと食べてくださいよ」
人間の欲求とは生きるために必要なものだと私は思う。故にあるものが満たされればまた別の欲求が生まれ、また満たしては欲するの繰り返しだ。
それは研究者である私とて例外ではない。腹が膨れれば別の欲求が生じてくる。本来ならば知識欲のままに研究を進めていくのだが体は動かない。それどころか瞼は重くなり体がだるくなってくる。
早い話が眠い。非常に眠い。先ほど三時間も眠ったというのにだ。
「んん…」
研究を続けたいのだが体は動かないのだしこのまま寝てしまおうか。本当ならベッドの方がいいのだがこの際眠れればどこでもいい。そう思ってしまうほど今は眠い。それに眠ってもユウタなら私を運んで―
―ユウタなら…?
ああ、そうだ、そうじゃないか。折角ユウタがここにいるというのに何私はうっかりしているのだ。
「……あぁ、ユウタ。少し頼みごとをしたいのだが言いかね?」
「何ですか?一応聞いときますけど」
「とりあえずこっちへ来てくれ」
その言葉に食事の片づけを終えたユウタはソファの空いてる部分、ちょうど私の頭の横に座った。
「なんですか?」
「ソファに深く座ってくれ」
「はい?」
「足をそろえて置いてくれ」
「何で?」
「手はどけてくれ」
「いやあの」
「よっと」
座り込んだユウタの上に私は頭を乗せた。より正確に言うのならユウタの太股の上にだ。
「あらあら…♪」
その様子をユウタの肩の上から見下ろしくすくす笑うスライムの女王。魔物ならばこういったことに関心は強く便乗してくるかと思ったが彼女は何も言わずにただ微笑むだけだった。
だがユウタは違う。
「…何やってんすか」
「膝枕だ」
「いや、だから何でやってるんですか」
「そこに膝があったからだ」
「登山家みたいなこと言わないでくださいよ」
「以前に言っただろう?研究者は皆独自の探求心を持ち日々謎を解明するために全てを捧げ、そこにどんな障壁があろうと、どんな障害があろうと挫けることなく進むものだと」
「進むどころが人の上陣取ってるだけじゃないですか」
「それすらも一つの研究成果という奴だ。例えば食い違いが存在するならどこで違えたのかを発見することができるし、対処する術を模索することもできる。そこから新たな発展が見いだせるかもしれないしな」
「じゃ、対処する術としてここでオレがルアさんの頭落としたら新しい発展が見いだせるんですかね」
「それはやめてくれ」
頭の両側に添えられた手をどけてユウタを見上げた。私たちとは似つかない異国風の顔立ちであり特徴的な闇色の瞳がこちらを見つめてくる。
とても呆れ顔で。
「…そんなに呆れなくてもいいのではないかね?」
「なら呆れさせないようにもう少し礼儀と節度を持ってくださいよ」
「研究者に礼儀と節度などあると思ったのかね?」
「…胸張っていえることじゃないんですけど」
ユウタに大きくため息をつかれるが私はかまうことなく彼を見据えながら言葉を続ける。
「なら、知ってるかねユウタ。人間は一生の内三分の一を椅子の上で過ごすという」
「…はぁ」
「それに私は研究者だ。椅子の上で過ごす時間など普通の人間よりも多いと言えよう」
「そうですか…」
「それならば君の足の上で過ごす時間がすこしあっても良いと思うのだがね」
「その理屈はおかしい」
そうはいっても私を退けようとしないのは許容してくれたということだろう。なんだかんだで頼み込めばしてくれる、そういう甘い所が彼にはある。私はそれをいいことにユウタの上を堪能することにした。
「はぁ…っ」
こうしていると気分が落ち着く。先ほどみた嫌な夢が嘘のように心が安らいでいく。足の感触は枕に適しているとは言い難い固さだが私にとってはちょうどいい。優しい体温と固めの感触はとても心地いいものだった。
「いいものだな、膝枕というのは」
「男の膝の何がいいかわかりませんよ」
「うふふ♪」
呆れ顔のまま疲れたようにため息をつくユウタ。そしてその肩に座って嬉しそうに眺めてくるヴェロニカ。
そんな二人を眺めながら気怠い体をゆっくり横へと向きを変える。腕を伸ばすにもまだまだ重いこの状態ではしばらく研究を再開することはできないだろう。ならば、その間に何をするか。
「…ふむ」
そんなことを考えて横を向くと視線の先にユウタの腹があった。堅めの生地で作られた服越しとは言え、腹部を直視する機会などそうそうない。以前は心音を確かめるためと銘打って見せてもらったがあれ以来なかった。
…良い機会だ。ユウタがこうして無防備に体をさらすことなどそうそうない。寝込みを尋ねたときは平手を貰ったが流石に倒れた人間にそこまでひどいことはできないだろう。
「…よし」
私はユウタの服の下に手を突っ込んだ。
「…」
すぐさま手首を捕まれてひねりあげられた。
「…や、やめてくれないか……研究者にとって腕というのは命と同じ価値をもつものだぞ?」
「やめてくれませんか?普通の人にとって無許可でべたべた触られることは痴漢と同等なんですよ」
「痴漢とはなんだ、痴漢とは。私はこれでも一応女なのだよ」
「じゃ、痴女ですか」
鈍い痛みがする手首をなんとか元の位置に頭を戻す。そうしているとユウタは小さくため息を尽きながらもなにもすることなく私をそのままにしてくれる。どうやら過度な接触さえしなければ特に止めるつもりもないらしい。
ならしばらくこの状態を維持していよう。このままでも得られるものは十分あるのだから。
「そう言えば…研究者って言ってますけどいったい何の研究しているんですか?」
「魔法だよ。主に炎を用いたね」
「炎?」
「ああ。かつて私と妹の、遠い遠い昔の祖先に精霊イグニスと契約を交わした者がいたらしい。そのせいなのか私たちの家系は膨大かつ火に適した魔力を扱う術を生まれながらに持っているのだよ」
今は動かない指先だが込めようとすれば魔力を帯びる。そこから魔方陣を組み立てたり呪文を唱えれば簡単に火を出すことができる。
生まれ持った体質と才能と、備わっているのは知的好奇心。
「だからかね、魔法の真理を知りたいと、世の理を見てみたいと研究に没頭しているのだよ。祖父や母や、妹も」
すると私の言葉にユウタは小さく首をかしげた。
「…イグニス?」
「炎の精霊のことですわ」
「へぇ、やっぱりこっちにはそういうのいるんだ」
「こっちと言われると…ユウタ様のいたジパングでは彼女たちは見られなかったのですか?」
「あぁ、まぁ…ね」
ヴェロニカの言葉にユウタは短く言葉を返した。
彼が別世界の人間であることを彼女は知らない。そして、この反応だとそれをユウタはあまり他人に知られたくないのかもしれない。
「それで、研究っていったいどんなことしてるんですか?炎っていうなら…爆発とかですかね?」
「何、そんなこと、ただのつまらぬことさ」
彼の言葉に私はそっけなく返事をする。
「…?」
すると怪訝そうに方眉をつり上げたがそれ以上特に聞くことなく口を閉じた。
それでいい。今は何も喋りたくない。私もユウタと同じ、知られたくないことがあるのだから。
「はぁ……」
それよりもこの感触はなんとも心地良いものだ。他人の温もりなど感じる機会はなかったがこうしてじっくり感じるとよくわかる。自分にはない体温を感じるだけで私の心は穏やかになっていく。
たまにはこのような時間もいいかもしれない。がむしゃらに研究を繰り返すのも好きだが、時には休息というのも悪くない。
ちらりと上へと視線を移す。気づいたのかユウタはこちらを見て何か用かと言いたげに首をかしげてきた。
その闇色の瞳を見据えてふと考える。
「……」
あることをきっかけに研究というのは思わぬ進展をみせてくれることはある。ただの興味だったり、ほんの些細な疑問だったり、そんなものが新しい道をつくる第一歩になる。人の抱く興味や疑問というのはそれだけ無限の可能性を秘めているということだ。
私が今抱いたこともまた、そうかもしれない。この膝の感触だけではなく、これ以上のものとはないのだろうかと抱いた疑問は新たな解明への一歩となりえるかもしれない。
そう、なので―
「ふっ…」
―今度は彼の膝の上でうつ伏せになってみたり。
「せいっ」
「うぐっ!」
首を捕まれ百八十度回転させられた。
「ひ、ひどいのではないかね…?たかが寝返りをうっただけだというのに…」
「人の膝の上で何うつ伏せになってんですか。あんたはうちの師匠ですか」
「君の師匠というのがどういう者かは知らないが私はただ君を感じていたいだけなのだよ」
「……そういう変態発言やめてもらえますか?」
「いいや、できないね。なぜなら私は研究者だ。研究に取り組み謎を追求する姿は凡人からしてみれば常軌を逸していると思われても仕方ない。むしろ、それが研究者としてのあるべき姿だ、私はいくら蔑まれようとこの行為をやめることはしないのだよ」
そう言って私はユウタの膝に再びうつ伏せになった。
今度は逆の方向に首を回転させられた。
「…く、首から変な音がしそうなのだがどうしてくれるのだね?」
「オレの自尊心が傷つきそうなのですがどうしてくれるんですか?」
「ルア様、殿方の嫌がることはあまりすべきではありませんよ」
「嫌よ嫌よも好きのうちというのではないかね?嫌がっているからと言って本当に拒否しているとうっかり思うべきではないだろう」
「すっごく嫌です。やめてください」
「そうは言ってもユウタ、君の本心は―あぁ、やめよう。これ以上首その手に力を込められてはうっかりどころか本当に死んでしまうからね。だからとりあえず添えた手を退けてくれないかね?」
「…んぁ」
次に目が覚めた時は私はベッドの上だった。普段椅子の上で寝る私には久しぶりの感触に小さく息を吐き出す。
随分と久しい感触だ。研究の途中でうっかり寝ることはあっても自ら睡眠をとることなどここ最近はなかった。
だが、どうも違う。
先ほどまで感じていた感触がここにはない。後頭部の下から得ていた充足感が今は全くない。
膝はどこだ。ユウタはどこだ。そう思って顔を横に向けると視線の先で闇色の瞳とぶつかった。
「起こしちゃいましたか」
どこかばつが悪そうな表情を浮かべるユウタは寝起きの私を考慮してか小声でそう言った。
「…あぁ、ユウタか。そんなところでどうかしたのかね?いや、ああ、そうか。共に眠りたいのかね?」
「いや、違いますけど」
「少し待ってくれないか。今片側に寄ろう」
「話聞いてください」
「違うのかね。これはうっかりしていたよ」
「何をうっかりしてるんですか…まったく」
そう言いながら彼は腕にかけていた黒い上着を羽織った。
「そろそろ帰らせてもらおうかと思いまして」
「帰る?」
「ええ。明日はレジーナの護衛に戻らなきゃいけませんから」
その言葉に思い出す。彼に会う前に手にした資料に書かれていたことだ。
この王国の最高戦力と並ぶ実力者の王女。その女性をたった一人で護衛するのがユウタの仕事だったか。
「護衛なら別にここで休んで行ってもいいのではないかね」
「制服が部屋にありますし防具とかいろいろと準備しなきゃいけないものがあるんですよ」
一国の王女の護衛ならば仕方ないと納得するしかないだろう。私もこの国にいる以上は王族の命令に逆らうことはできないのと同様に彼女たちの用事に口出しすることもできない。
そう、仕方のないことだ。
「それに最近エミ…メイドさんが部屋に来てますし」
「メイド?いるのならば用意させて持ってこさせればいいのではないかね?」
「自分でできることぐらい自分でやるべきでしょう」
「…むぅ。変に君は律儀というか、真面目だな」
「日本人はそういうものです」
「なら次来れるのはいつぐらいになるのかね?」
「そうですねぇ。二週間ぐらい先かと思います」
「それは…長いな」
「まぁいろいろありましてね。ちょっとヴィエラ…あるシスターに孤児院の手伝いを頼まれたりレジーナに引っ張りまわされたり、アイルと遠征に行かなきゃいけなかったりしますんで」
「…君も多忙だな」
ユウタにもユウタの予定というものがあるのだ。彼は別世界から来た人間、それならば珍しがる者は沢山いるし、友好関係にある者もまたいるだろう。約束だってするし親しいのなら連れまわすことぐらい普通だ。なら、これもまた仕方ないと納得するしかない。
「まぁ、仕方ないってことですよ」
ユウタは苦笑しながらそう言った。
「なのでその間に餓死とかしないでくださいよ。ルアさんの場合洒落にならないんですから」
「そう思うなら住み込めばいいのではないかね?」
「いろいろと発想がぶっ飛びすぎです。ヴェロニカ、その間頼むよ」
「勿論ですわ、ユウタ様」
ユウタの肩の上に乗れるような魔物に私のことを頼まれるのは癪だが本当に死にかねないので何もいえない。依然として居座り続けるクイーンスライムは上品な笑みを浮かべて頷いた。
「ヴェロニカ、どこに下ろせばいい?」
「ではルア様のベッドの上にお願いしますわ」
ユウタの手を借りベッドの上へと降り立つヴェロニカ。女性というよりかまるで猫や犬に近いものを感じる扱いなのだがそれでも彼女は満足そうに笑みを浮かべ私の枕元に降り立った。
「それじゃあルアさん、ヴェロニカ。また今度」
そう言って手を振ってユウタは部屋から出て行った。
途端に静かになる部屋の中。人間一人と魔物一人の空間は思った以上に音がない。人一人減るだけで随分と寂しくなるものだ。
ヴェロニカを見るが彼女は片頬に手を添え微笑みを浮かべているだけだ。私の睡眠を邪魔しないようにか喋らない。
なら、このまま眠ってしまおうか。本当ならば研究をしたいのだがどうやら体がまだまだ休息を求めているらしくだるい。これでは満足な結果すら出せずうっかり失敗の連発をしそうだ。
はぁっとため息をつきながら後頭部の感触に瞼を閉じる。頭の下にある枕は柔らかく頭の重みで沈むほど。それでいてやや暖かいのは私の体温のせいだろう。
だが、違うのだ。
私が求めているのとは違う。私が欲しいものとは違う。私が感じたものとはあまりにも違いすぎる。
「残念そうなお顔ですね」
そんな私を見てか彼女は静かにそう言った。
「…そうかね?」
「ええ、本当はもう少し一緒に居たいのではありませんか?」
「…どうだろうかね」
実際のところユウタと共にいることは良し悪しで言えば当然良いのほうだ。男性という私にはわからないものばかり備えた彼を調べるのは楽しく、その反応もまた興味深い。さらには美味な料理だって作ってくれるし何より温かい。
そして枕。比べればあまりにも固いものだったが今頭の下にあるものよりも私はずっとあっちの方がよかった。温かくて、落ち着いて、とても心地のいいものだった。
ヴェロニカに言われるようにもう少し共に居たかったのかと聞かれれば…きっとそうなのだろう。
「ふふっ♪」
ヴェロニカは笑う。気品にあふれた仕草でとても楽しそうに。
「乙女ですわね♪」
「…そういえる歳ではないのだがね」
「殿方と共に居たいと思うだけでも十分乙女ですわ」
「そういうものかね」
何分この年まで恋など知らずに育った身だ。それどころか異性に接したことすらないというのに何が乙女かわかるわけがない。妹ならば恋愛真っ盛りの歳だろうが私は既にいき遅れだ。
「年齢なんて関係ありません。貴方様は女性であり、恋心を抱くのならば何歳でも乙女ですわ」
「…恋心、なのかね」
自分の抱いた気持ちすら理解できない。
私は彼に何を想っているのだろうか。
彼といる時間は楽しいとは想う。研究も進むし、私の知識欲を満たしてくれる唯一の存在だ。それに料理も美味い。性格は少々あれであっても決して悪いものではない。
「恋心、か…」
自分で呟き思わず笑ってしまう。
研究者である私にそんな未曾有であやふやなものは似合わない。
研究者に必要なのは真理を追い求める探求心となにものも覆せない真実だ。数値で表せず確立してないものなど論外である。
だが…ここに一人住み込んで、人との関わりから遠ざかって我武者羅に研究に没頭していると―
「―…人肌恋しくは…あるな…」
「うふふ♪それなら迫られればよろしいのでは?」
「迫る?」
その言葉に私はため息をついた。
流石魔物だ。頭の中は色恋塗れ。体質や外見はかなり違ってもあの狸と同じように中身は似ているらしい。
「そんな無茶を言う…。迫れるような魅力など私は持ち合わせていないのだよ」
「なら、私がユウタ様を誘惑してもよろしいのでしょうか?」
「…君が?そんな姿で何ができるというのだ」
「あら、こんな姿でも魔物ですわ」
その声に私は言葉を止めてしまう。
魔物。男性を虜にする術を本能的に持つ存在。さらにはクイーンと言うのだからその手練手管は半端なものではないだろう。
「優しくて、それでも時には厳しく、ただ親しくするだけではない態度。きっと決断も素晴らしいことでしょうね。素敵な殿方で是非私の王となって欲しいのですわ」
小さな顔でもはっきりわかるほどうっとりとした表情で頬に手を当ててヴェロニカはそういった。
「私だって理想の殿方は欲しいのです。私の王となる、唯一の伴侶となってくれる殿方が欲しいのですわ」
「そんな体で求めたところで応じるとは思えないがね」
そうは言うが彼女は魔物。そして私は人間。
ヴェロニカの体は今は小さく、私は普通の人間だ。
男性のユウタの気を引くのならどちらが有利かなど火を見るよりも明らかである。
実際にヴェロニカが言い寄ったらそのときにはユウタは私のように拒否するだろうか。いや、拒否したとしてもヴェロニカの手練手管の前には流石に彼も―
「…それは困るな」
そうなればこの国が乗っ取られることすらあり得る。いや、そうなる前に対処はするが可能性はゼロではない。
「あらあら♪ルア様もユウタ様のことがお好きなのですか?」
「どう、だろうな。いまいち好きという感情はわからないのだよ」
「好きという感情はそういうものですわ。最初は自覚がなくて否定すらしても、後々そうだと気づくものなのです」
「…果たして、そうなのだろうかね」
「きっとそうだと思いますわ」
だから、そう続けてねっとりと絡みつくようにヴェロニカの声が届く。
「先に行動するのはどうでしょうか?」
上げられた一つの提案に私は体を起こした。先ほど眠ったからか大分動くようになりながらもまだまだ気怠い体で彼女に向き直る。
「女性として素晴らしいお体と美貌をしているルア様」
枕元に佇む小さな女王は透き通った指先を私に向ける。
「魔物であり男性の心を虜にする手練手管を知っている私」
次に指先は彼女自身の唇に添えられた。
「なら」
肉体的な弾力よりもずっと柔らかそうに震える唇は言葉を紡ぐ。
「二人で協力すればユウタ様のお心を手にすることは容易きことでしょう」
私の傍で優しく、それでも深く染み込むように彼女は言葉を紡いでいく。
「そうすればユウタ様もルア様に何もかも許してくれるはずですわ」
「何も、かも?」
「ええ、体を晒すことも躊躇わず、肌に触れられることも拒まれず、ルア様の頼みとあらば何でも応えてくれることでしょう」
探求心をくすぐる甘美な罠。
知識的欲求を刺激する心地よい台詞。
あらがうことは難しい。
拒否することは容易でない。
本来なら彼女はきっと私を操り自分の体を戻すため、この王国を侵略するためにユウタの精液を求めるに違いない。そうとなれば被害は甚大であり、私もおそらく無事では済まないだろう。
だがそんなこと彼女の言葉の前にうっかり私の頭の中から消えていた。
「それとも、ルア様」
スライム質の柔らかな唇がぷるんと揺れて言葉を紡ぐ。私を惑わす甘い誘いを。
「貴方様が魔物になってみませんか?」
悪魔の如く、淫魔のようにスライムの王女は囁いた。
じりじりと焼き尽くす熱。
赤々と飛び散る火花。
それから響きわたる男とも女とも子供とも老人とも聞き分けられない誰かの悲鳴。
それらを前に私はただ立っていた。
頬を熱風が撫で、揺れる炎が影を作る。悲鳴が業火に飲み込まれ幾多もの命が燃え尽きる。
その惨劇を私はただ立って見ていることしかできなかった。
「…ち、が…う」
こんなことをしたかったわけじゃない。
「…違、う」
こんな魔法を使いたかったわけじゃない。
「違うんだ…っ」
こんな光景を生み出すために魔法を研究していたわけじゃない。
だがどう言い訳しようとも私はその光景を見続けるしかできない。
止め方はわからない。
助け方はわからない。
何も私はわからない。
「素晴らしいですわね」
そんな私に一人声をかけてくる者がいた。ガラスの鈴を転がしたような気品溢れた、人を引きつける柔らかな女の声色。目の前の光景を誉め称えるように私へ向けられた視線と声に私は何も返せない。
それでも彼女は気にせず言葉を続けた。
「貴方様の研究成果は前々から報告されていましたが実際に目にすると素晴らしいの一言に尽きますわ」
業火の燃えさかる音と比べればずっと小さく飲み込まれてしまいそうなものなのに彼女の声ははっきりと耳に届く。
ねっとりとからみつくように。
ざっくりと切り裂かれるように。
ぴったりとまとわりつかれるように。
「ねぇ、ルア・ヴェルミオン殿」
業火に照らし出された女性の顔は不気味なほどに美しかった。
「……は」
瞼を開くと見慣れた薄汚れている天井が目に入り、私は眠っていたということを理解する。
「……」
久しぶりに嫌なものを見た。ここ最近は忙しくて夢よりも寝る暇すらなかったというのに久しぶりに眠ったらこれか。ああ、まったく嫌になる。
「…うん?」
眠った?
おかしいな。私が自分からベッドへと入った記憶はない。先ほどまでずっと魔法の研究成果をまとめ上げていたはずだ。机の上で目を覚まし、涎にまみれた資料を始末するのが普段の私のはずだ。ベッドに入った記憶なんてここ数週間ないはず。
なら、どうしたというのだろう。
ゆっくりと体を起こそうと手をつくと下にあるのがソファであることに気づいた。年季の入ったソファは柔らかくも心地良いとは言えない感触を私に与えてくる。家具なんてあればいいだけで買い換えることもしていなかったんだ、これは仕方ない。
だが、ソファ?
横になった記憶すらないというのにどうしてこんなところで私は眠っているのだろう。うっかり横になって眠ってしまったのだろうか?
そんな風に考えていると上から声が振ってきた。
「あまり無理をなさらない方がいいと思いますわ」
気品あるお淑やかな声色。夢の中で聞いたものとは種類の違う透き通った声に私は小さく息を吐き出した。
「ヴェロニカか。それはまた、どうしてかね?」
「貴方様は先ほど倒れられたのですから」
「…倒れた?」
「ええ。きっと過労が原因ですわね。ここ数日ユウタ様にちょっかい出すことと研究のことしかやっていなかったのですから体が悲鳴を上げていたのでしょう」
「…ふむ」
確かに眠った記憶はここ数日ない。ようやく手には入ったスライムの体液を用いた魔法実験が思いの外順調に進むし、何より初めて触れる男性がいたのだ、眠ることなどに時間を割いてはいられない。
だがとうとう限界が訪れたらしい。元々体力もあまりなかったのだ、これは仕方ない。栄養が十分取れていても休息がないのでは体が参ってしまう。
私は体から力を抜き声のする方を探る。
「どこにいるのかね?」
「貴方様の額ですわ」
そう言われてはたと気づく。額に何かが張り付いた感覚があることに。
ひんやりとしたその感触は直に触れたことのあるスライム特有のもの。大きさは額を覆える程度だが火照った私の体から熱を奪ってくれる感覚が心地良い。
「私はどれくらい眠っていたのかね」
「まだ三時間程度ですわ」
「…三時間もか」
それはもったいないことをした。三時間もあれば研究は存分に進められるしユウタの体を存分に調べることができるというのに。
「随分とうっかりしていたことだ…」
「そのままでいてくださいまし」
体を起こそうとしたところをヴェロニカに止められた。
「倒れたのですから体が休養を欲しがっているのですよ?そんな状態で研究を進めようなど無茶ですわ」
「別に体の一つや二つどうなろうと関係ないのだよ。私が欲しいのは休養ではなく真理で、事実だ」
額の上からヴェロニカに退くように視線を送ると彼女は渋々ソファの背もたれに移動した。見下ろしてくる青いスライムは小さな顔に心配そうな表情を浮かべている。
「それでも貴方様は人間です。私たち魔物と比べればあまりにも…脆い」
「ああ、そうだ。私は人間だ。脆く、儚く、そして何より愚かな生き物なのだよ」
「…?」
私の発言に彼女は怪訝そうに首をかしげるが私は構わず続ける。
「そして研究者という者は探究心さえあればなんだってできる。腕がなくなろうが、足が消えようが研究を重ね真理を解き明かさねばらならない。それが私にとっての生きがいであり、義務だろう?」
「そんなこと言ってもさせませんからね」
ヴェロニカとは違う声色に私たちは会話を止める。ソファに横たわったまま首だけ動かして声のする方を見るとエプロンを着込んだユウタが側に立っていた。
「おはようございます」
「…ぁあ、ユウタかね」
手袋に包まれた手には湯気の立つ鍋を持ち、そこから空腹を刺激する香りが漂ってくる。テーブルまでは距離がある故、傍に転がっていた椅子を引っ張ってくると手袋を敷きその上に乗せる。
「スープ作りましたよ。ぶっ倒れるなら休息もちゃんと取ってくださいよ」
鍋の中からよそったスープは部屋の明かりで琥珀色に輝く。野菜をふんだんに使ったそれは程良く煮詰められたジャガイモや人参、キャベツと色とりどりで見ているだけでも食欲をそそる。
「もし寝るっていうのなら別のもの用意しますよ。寝る前に重いもの食べたら体にはよくありませんからね」
「いや、せっかく用意してくれたんだ、ありがたくいただこ…う?」
ソファから体を起こそうとしてようやく私は体の異変に気付いた。
手が伸びない。いや、この場合は伸縮するという意味ではなく、手がスープへと向けられない。ユウタからスープを受け取ることができない。
というか、体が動かない。
「ユウタ、手が伸びないのだが?」
「疲れてるってだけでしょう?少し休めば体を起こせるようにもなりますよ」
「だがせっかく作ってもらった料理なんだ、うっかり冷ます前に食べるべきだろう」
「それは嬉しい心遣いですが体の方も気遣ってくださいよ」
「そこで一つ提案なのだが」
ソファに横たえた体を捩り何とかユウタと視線を合わせる。闇色の、吸い込まれるような瞳と料理に視線を移して私は言った。
「ユウタ、食べさせてくれ」
「…もう介護の領域ですよ」
「なら介護してくれ」
「…」
はぁっと疲れたように吐き出されるため息。そして浮かべた表情は呆れ顔。それでもしばらくするとわずかに口元が緩みユウタはどこからか取り出したスプーンを握った。
「まったく、仕方ないですね」
そう言って皿からスープを掬う。揺らぎ立ち上る湯気をそっと吹くと私に向かって差し出した。
「ほら、口を開けてください」
「んあ」
口内に広がるやや熱いスープ。コンソメと野菜の風味が口内に広がり喉の奥へと流れていく。人参やジャガイモは食べやすくカットされ噛み切りやすい柔らかさまで煮込まれていた。薄味ながらも食べやすく美味なものだ。
「君の作る料理は本当に美味だな」
「それはどうも」
「ふふっ♪お熱いことですわ♪」
額の上から移動したヴェロニカは微笑み背もたれの上から羨ましそうな視線を送ってくるのだが関係なく私は食事を続ける。時折乗せられる野菜を咀嚼し、飲み込んではまた口をあけ、ユウタに食べさせてもらうの繰り返しだ。
申し訳ないとは思う。
だが動けない以上は仕方ないことだ。動けないのでは魔法すら使えないのだから。
「んぁ…」
「あ、すいません」
私の口の端からスープが滴る。横になって食べさせてもらっているのだから仕方ないだろう。すぐさまユウタは謝り唇へ指を添えて拭う。
「…」
指を舐めた。
「っ…」
頬を抓られた。
「へふひふへははふへほひひほへははひはへ?」
「いきなり舐められりゃ抓られても仕方ないでしょうが」
「そういうものかね?ヴェロニカの場合は何もしていないだろう」
「だからヴェロニカはそれが食事だって言うんですから」
「食事として舐められるのとただ舐められるのとでは何が違うのかね」
「…………………自尊心の減り、ですかね」
「なら継注ぎ足せばいいのではないのかんむぅっ」
「水じゃないんですから。さっさと食べてくださいよ」
人間の欲求とは生きるために必要なものだと私は思う。故にあるものが満たされればまた別の欲求が生まれ、また満たしては欲するの繰り返しだ。
それは研究者である私とて例外ではない。腹が膨れれば別の欲求が生じてくる。本来ならば知識欲のままに研究を進めていくのだが体は動かない。それどころか瞼は重くなり体がだるくなってくる。
早い話が眠い。非常に眠い。先ほど三時間も眠ったというのにだ。
「んん…」
研究を続けたいのだが体は動かないのだしこのまま寝てしまおうか。本当ならベッドの方がいいのだがこの際眠れればどこでもいい。そう思ってしまうほど今は眠い。それに眠ってもユウタなら私を運んで―
―ユウタなら…?
ああ、そうだ、そうじゃないか。折角ユウタがここにいるというのに何私はうっかりしているのだ。
「……あぁ、ユウタ。少し頼みごとをしたいのだが言いかね?」
「何ですか?一応聞いときますけど」
「とりあえずこっちへ来てくれ」
その言葉に食事の片づけを終えたユウタはソファの空いてる部分、ちょうど私の頭の横に座った。
「なんですか?」
「ソファに深く座ってくれ」
「はい?」
「足をそろえて置いてくれ」
「何で?」
「手はどけてくれ」
「いやあの」
「よっと」
座り込んだユウタの上に私は頭を乗せた。より正確に言うのならユウタの太股の上にだ。
「あらあら…♪」
その様子をユウタの肩の上から見下ろしくすくす笑うスライムの女王。魔物ならばこういったことに関心は強く便乗してくるかと思ったが彼女は何も言わずにただ微笑むだけだった。
だがユウタは違う。
「…何やってんすか」
「膝枕だ」
「いや、だから何でやってるんですか」
「そこに膝があったからだ」
「登山家みたいなこと言わないでくださいよ」
「以前に言っただろう?研究者は皆独自の探求心を持ち日々謎を解明するために全てを捧げ、そこにどんな障壁があろうと、どんな障害があろうと挫けることなく進むものだと」
「進むどころが人の上陣取ってるだけじゃないですか」
「それすらも一つの研究成果という奴だ。例えば食い違いが存在するならどこで違えたのかを発見することができるし、対処する術を模索することもできる。そこから新たな発展が見いだせるかもしれないしな」
「じゃ、対処する術としてここでオレがルアさんの頭落としたら新しい発展が見いだせるんですかね」
「それはやめてくれ」
頭の両側に添えられた手をどけてユウタを見上げた。私たちとは似つかない異国風の顔立ちであり特徴的な闇色の瞳がこちらを見つめてくる。
とても呆れ顔で。
「…そんなに呆れなくてもいいのではないかね?」
「なら呆れさせないようにもう少し礼儀と節度を持ってくださいよ」
「研究者に礼儀と節度などあると思ったのかね?」
「…胸張っていえることじゃないんですけど」
ユウタに大きくため息をつかれるが私はかまうことなく彼を見据えながら言葉を続ける。
「なら、知ってるかねユウタ。人間は一生の内三分の一を椅子の上で過ごすという」
「…はぁ」
「それに私は研究者だ。椅子の上で過ごす時間など普通の人間よりも多いと言えよう」
「そうですか…」
「それならば君の足の上で過ごす時間がすこしあっても良いと思うのだがね」
「その理屈はおかしい」
そうはいっても私を退けようとしないのは許容してくれたということだろう。なんだかんだで頼み込めばしてくれる、そういう甘い所が彼にはある。私はそれをいいことにユウタの上を堪能することにした。
「はぁ…っ」
こうしていると気分が落ち着く。先ほどみた嫌な夢が嘘のように心が安らいでいく。足の感触は枕に適しているとは言い難い固さだが私にとってはちょうどいい。優しい体温と固めの感触はとても心地いいものだった。
「いいものだな、膝枕というのは」
「男の膝の何がいいかわかりませんよ」
「うふふ♪」
呆れ顔のまま疲れたようにため息をつくユウタ。そしてその肩に座って嬉しそうに眺めてくるヴェロニカ。
そんな二人を眺めながら気怠い体をゆっくり横へと向きを変える。腕を伸ばすにもまだまだ重いこの状態ではしばらく研究を再開することはできないだろう。ならば、その間に何をするか。
「…ふむ」
そんなことを考えて横を向くと視線の先にユウタの腹があった。堅めの生地で作られた服越しとは言え、腹部を直視する機会などそうそうない。以前は心音を確かめるためと銘打って見せてもらったがあれ以来なかった。
…良い機会だ。ユウタがこうして無防備に体をさらすことなどそうそうない。寝込みを尋ねたときは平手を貰ったが流石に倒れた人間にそこまでひどいことはできないだろう。
「…よし」
私はユウタの服の下に手を突っ込んだ。
「…」
すぐさま手首を捕まれてひねりあげられた。
「…や、やめてくれないか……研究者にとって腕というのは命と同じ価値をもつものだぞ?」
「やめてくれませんか?普通の人にとって無許可でべたべた触られることは痴漢と同等なんですよ」
「痴漢とはなんだ、痴漢とは。私はこれでも一応女なのだよ」
「じゃ、痴女ですか」
鈍い痛みがする手首をなんとか元の位置に頭を戻す。そうしているとユウタは小さくため息を尽きながらもなにもすることなく私をそのままにしてくれる。どうやら過度な接触さえしなければ特に止めるつもりもないらしい。
ならしばらくこの状態を維持していよう。このままでも得られるものは十分あるのだから。
「そう言えば…研究者って言ってますけどいったい何の研究しているんですか?」
「魔法だよ。主に炎を用いたね」
「炎?」
「ああ。かつて私と妹の、遠い遠い昔の祖先に精霊イグニスと契約を交わした者がいたらしい。そのせいなのか私たちの家系は膨大かつ火に適した魔力を扱う術を生まれながらに持っているのだよ」
今は動かない指先だが込めようとすれば魔力を帯びる。そこから魔方陣を組み立てたり呪文を唱えれば簡単に火を出すことができる。
生まれ持った体質と才能と、備わっているのは知的好奇心。
「だからかね、魔法の真理を知りたいと、世の理を見てみたいと研究に没頭しているのだよ。祖父や母や、妹も」
すると私の言葉にユウタは小さく首をかしげた。
「…イグニス?」
「炎の精霊のことですわ」
「へぇ、やっぱりこっちにはそういうのいるんだ」
「こっちと言われると…ユウタ様のいたジパングでは彼女たちは見られなかったのですか?」
「あぁ、まぁ…ね」
ヴェロニカの言葉にユウタは短く言葉を返した。
彼が別世界の人間であることを彼女は知らない。そして、この反応だとそれをユウタはあまり他人に知られたくないのかもしれない。
「それで、研究っていったいどんなことしてるんですか?炎っていうなら…爆発とかですかね?」
「何、そんなこと、ただのつまらぬことさ」
彼の言葉に私はそっけなく返事をする。
「…?」
すると怪訝そうに方眉をつり上げたがそれ以上特に聞くことなく口を閉じた。
それでいい。今は何も喋りたくない。私もユウタと同じ、知られたくないことがあるのだから。
「はぁ……」
それよりもこの感触はなんとも心地良いものだ。他人の温もりなど感じる機会はなかったがこうしてじっくり感じるとよくわかる。自分にはない体温を感じるだけで私の心は穏やかになっていく。
たまにはこのような時間もいいかもしれない。がむしゃらに研究を繰り返すのも好きだが、時には休息というのも悪くない。
ちらりと上へと視線を移す。気づいたのかユウタはこちらを見て何か用かと言いたげに首をかしげてきた。
その闇色の瞳を見据えてふと考える。
「……」
あることをきっかけに研究というのは思わぬ進展をみせてくれることはある。ただの興味だったり、ほんの些細な疑問だったり、そんなものが新しい道をつくる第一歩になる。人の抱く興味や疑問というのはそれだけ無限の可能性を秘めているということだ。
私が今抱いたこともまた、そうかもしれない。この膝の感触だけではなく、これ以上のものとはないのだろうかと抱いた疑問は新たな解明への一歩となりえるかもしれない。
そう、なので―
「ふっ…」
―今度は彼の膝の上でうつ伏せになってみたり。
「せいっ」
「うぐっ!」
首を捕まれ百八十度回転させられた。
「ひ、ひどいのではないかね…?たかが寝返りをうっただけだというのに…」
「人の膝の上で何うつ伏せになってんですか。あんたはうちの師匠ですか」
「君の師匠というのがどういう者かは知らないが私はただ君を感じていたいだけなのだよ」
「……そういう変態発言やめてもらえますか?」
「いいや、できないね。なぜなら私は研究者だ。研究に取り組み謎を追求する姿は凡人からしてみれば常軌を逸していると思われても仕方ない。むしろ、それが研究者としてのあるべき姿だ、私はいくら蔑まれようとこの行為をやめることはしないのだよ」
そう言って私はユウタの膝に再びうつ伏せになった。
今度は逆の方向に首を回転させられた。
「…く、首から変な音がしそうなのだがどうしてくれるのだね?」
「オレの自尊心が傷つきそうなのですがどうしてくれるんですか?」
「ルア様、殿方の嫌がることはあまりすべきではありませんよ」
「嫌よ嫌よも好きのうちというのではないかね?嫌がっているからと言って本当に拒否しているとうっかり思うべきではないだろう」
「すっごく嫌です。やめてください」
「そうは言ってもユウタ、君の本心は―あぁ、やめよう。これ以上首その手に力を込められてはうっかりどころか本当に死んでしまうからね。だからとりあえず添えた手を退けてくれないかね?」
「…んぁ」
次に目が覚めた時は私はベッドの上だった。普段椅子の上で寝る私には久しぶりの感触に小さく息を吐き出す。
随分と久しい感触だ。研究の途中でうっかり寝ることはあっても自ら睡眠をとることなどここ最近はなかった。
だが、どうも違う。
先ほどまで感じていた感触がここにはない。後頭部の下から得ていた充足感が今は全くない。
膝はどこだ。ユウタはどこだ。そう思って顔を横に向けると視線の先で闇色の瞳とぶつかった。
「起こしちゃいましたか」
どこかばつが悪そうな表情を浮かべるユウタは寝起きの私を考慮してか小声でそう言った。
「…あぁ、ユウタか。そんなところでどうかしたのかね?いや、ああ、そうか。共に眠りたいのかね?」
「いや、違いますけど」
「少し待ってくれないか。今片側に寄ろう」
「話聞いてください」
「違うのかね。これはうっかりしていたよ」
「何をうっかりしてるんですか…まったく」
そう言いながら彼は腕にかけていた黒い上着を羽織った。
「そろそろ帰らせてもらおうかと思いまして」
「帰る?」
「ええ。明日はレジーナの護衛に戻らなきゃいけませんから」
その言葉に思い出す。彼に会う前に手にした資料に書かれていたことだ。
この王国の最高戦力と並ぶ実力者の王女。その女性をたった一人で護衛するのがユウタの仕事だったか。
「護衛なら別にここで休んで行ってもいいのではないかね」
「制服が部屋にありますし防具とかいろいろと準備しなきゃいけないものがあるんですよ」
一国の王女の護衛ならば仕方ないと納得するしかないだろう。私もこの国にいる以上は王族の命令に逆らうことはできないのと同様に彼女たちの用事に口出しすることもできない。
そう、仕方のないことだ。
「それに最近エミ…メイドさんが部屋に来てますし」
「メイド?いるのならば用意させて持ってこさせればいいのではないかね?」
「自分でできることぐらい自分でやるべきでしょう」
「…むぅ。変に君は律儀というか、真面目だな」
「日本人はそういうものです」
「なら次来れるのはいつぐらいになるのかね?」
「そうですねぇ。二週間ぐらい先かと思います」
「それは…長いな」
「まぁいろいろありましてね。ちょっとヴィエラ…あるシスターに孤児院の手伝いを頼まれたりレジーナに引っ張りまわされたり、アイルと遠征に行かなきゃいけなかったりしますんで」
「…君も多忙だな」
ユウタにもユウタの予定というものがあるのだ。彼は別世界から来た人間、それならば珍しがる者は沢山いるし、友好関係にある者もまたいるだろう。約束だってするし親しいのなら連れまわすことぐらい普通だ。なら、これもまた仕方ないと納得するしかない。
「まぁ、仕方ないってことですよ」
ユウタは苦笑しながらそう言った。
「なのでその間に餓死とかしないでくださいよ。ルアさんの場合洒落にならないんですから」
「そう思うなら住み込めばいいのではないかね?」
「いろいろと発想がぶっ飛びすぎです。ヴェロニカ、その間頼むよ」
「勿論ですわ、ユウタ様」
ユウタの肩の上に乗れるような魔物に私のことを頼まれるのは癪だが本当に死にかねないので何もいえない。依然として居座り続けるクイーンスライムは上品な笑みを浮かべて頷いた。
「ヴェロニカ、どこに下ろせばいい?」
「ではルア様のベッドの上にお願いしますわ」
ユウタの手を借りベッドの上へと降り立つヴェロニカ。女性というよりかまるで猫や犬に近いものを感じる扱いなのだがそれでも彼女は満足そうに笑みを浮かべ私の枕元に降り立った。
「それじゃあルアさん、ヴェロニカ。また今度」
そう言って手を振ってユウタは部屋から出て行った。
途端に静かになる部屋の中。人間一人と魔物一人の空間は思った以上に音がない。人一人減るだけで随分と寂しくなるものだ。
ヴェロニカを見るが彼女は片頬に手を添え微笑みを浮かべているだけだ。私の睡眠を邪魔しないようにか喋らない。
なら、このまま眠ってしまおうか。本当ならば研究をしたいのだがどうやら体がまだまだ休息を求めているらしくだるい。これでは満足な結果すら出せずうっかり失敗の連発をしそうだ。
はぁっとため息をつきながら後頭部の感触に瞼を閉じる。頭の下にある枕は柔らかく頭の重みで沈むほど。それでいてやや暖かいのは私の体温のせいだろう。
だが、違うのだ。
私が求めているのとは違う。私が欲しいものとは違う。私が感じたものとはあまりにも違いすぎる。
「残念そうなお顔ですね」
そんな私を見てか彼女は静かにそう言った。
「…そうかね?」
「ええ、本当はもう少し一緒に居たいのではありませんか?」
「…どうだろうかね」
実際のところユウタと共にいることは良し悪しで言えば当然良いのほうだ。男性という私にはわからないものばかり備えた彼を調べるのは楽しく、その反応もまた興味深い。さらには美味な料理だって作ってくれるし何より温かい。
そして枕。比べればあまりにも固いものだったが今頭の下にあるものよりも私はずっとあっちの方がよかった。温かくて、落ち着いて、とても心地のいいものだった。
ヴェロニカに言われるようにもう少し共に居たかったのかと聞かれれば…きっとそうなのだろう。
「ふふっ♪」
ヴェロニカは笑う。気品にあふれた仕草でとても楽しそうに。
「乙女ですわね♪」
「…そういえる歳ではないのだがね」
「殿方と共に居たいと思うだけでも十分乙女ですわ」
「そういうものかね」
何分この年まで恋など知らずに育った身だ。それどころか異性に接したことすらないというのに何が乙女かわかるわけがない。妹ならば恋愛真っ盛りの歳だろうが私は既にいき遅れだ。
「年齢なんて関係ありません。貴方様は女性であり、恋心を抱くのならば何歳でも乙女ですわ」
「…恋心、なのかね」
自分の抱いた気持ちすら理解できない。
私は彼に何を想っているのだろうか。
彼といる時間は楽しいとは想う。研究も進むし、私の知識欲を満たしてくれる唯一の存在だ。それに料理も美味い。性格は少々あれであっても決して悪いものではない。
「恋心、か…」
自分で呟き思わず笑ってしまう。
研究者である私にそんな未曾有であやふやなものは似合わない。
研究者に必要なのは真理を追い求める探求心となにものも覆せない真実だ。数値で表せず確立してないものなど論外である。
だが…ここに一人住み込んで、人との関わりから遠ざかって我武者羅に研究に没頭していると―
「―…人肌恋しくは…あるな…」
「うふふ♪それなら迫られればよろしいのでは?」
「迫る?」
その言葉に私はため息をついた。
流石魔物だ。頭の中は色恋塗れ。体質や外見はかなり違ってもあの狸と同じように中身は似ているらしい。
「そんな無茶を言う…。迫れるような魅力など私は持ち合わせていないのだよ」
「なら、私がユウタ様を誘惑してもよろしいのでしょうか?」
「…君が?そんな姿で何ができるというのだ」
「あら、こんな姿でも魔物ですわ」
その声に私は言葉を止めてしまう。
魔物。男性を虜にする術を本能的に持つ存在。さらにはクイーンと言うのだからその手練手管は半端なものではないだろう。
「優しくて、それでも時には厳しく、ただ親しくするだけではない態度。きっと決断も素晴らしいことでしょうね。素敵な殿方で是非私の王となって欲しいのですわ」
小さな顔でもはっきりわかるほどうっとりとした表情で頬に手を当ててヴェロニカはそういった。
「私だって理想の殿方は欲しいのです。私の王となる、唯一の伴侶となってくれる殿方が欲しいのですわ」
「そんな体で求めたところで応じるとは思えないがね」
そうは言うが彼女は魔物。そして私は人間。
ヴェロニカの体は今は小さく、私は普通の人間だ。
男性のユウタの気を引くのならどちらが有利かなど火を見るよりも明らかである。
実際にヴェロニカが言い寄ったらそのときにはユウタは私のように拒否するだろうか。いや、拒否したとしてもヴェロニカの手練手管の前には流石に彼も―
「…それは困るな」
そうなればこの国が乗っ取られることすらあり得る。いや、そうなる前に対処はするが可能性はゼロではない。
「あらあら♪ルア様もユウタ様のことがお好きなのですか?」
「どう、だろうな。いまいち好きという感情はわからないのだよ」
「好きという感情はそういうものですわ。最初は自覚がなくて否定すらしても、後々そうだと気づくものなのです」
「…果たして、そうなのだろうかね」
「きっとそうだと思いますわ」
だから、そう続けてねっとりと絡みつくようにヴェロニカの声が届く。
「先に行動するのはどうでしょうか?」
上げられた一つの提案に私は体を起こした。先ほど眠ったからか大分動くようになりながらもまだまだ気怠い体で彼女に向き直る。
「女性として素晴らしいお体と美貌をしているルア様」
枕元に佇む小さな女王は透き通った指先を私に向ける。
「魔物であり男性の心を虜にする手練手管を知っている私」
次に指先は彼女自身の唇に添えられた。
「なら」
肉体的な弾力よりもずっと柔らかそうに震える唇は言葉を紡ぐ。
「二人で協力すればユウタ様のお心を手にすることは容易きことでしょう」
私の傍で優しく、それでも深く染み込むように彼女は言葉を紡いでいく。
「そうすればユウタ様もルア様に何もかも許してくれるはずですわ」
「何も、かも?」
「ええ、体を晒すことも躊躇わず、肌に触れられることも拒まれず、ルア様の頼みとあらば何でも応えてくれることでしょう」
探求心をくすぐる甘美な罠。
知識的欲求を刺激する心地よい台詞。
あらがうことは難しい。
拒否することは容易でない。
本来なら彼女はきっと私を操り自分の体を戻すため、この王国を侵略するためにユウタの精液を求めるに違いない。そうとなれば被害は甚大であり、私もおそらく無事では済まないだろう。
だがそんなこと彼女の言葉の前にうっかり私の頭の中から消えていた。
「それとも、ルア様」
スライム質の柔らかな唇がぷるんと揺れて言葉を紡ぐ。私を惑わす甘い誘いを。
「貴方様が魔物になってみませんか?」
悪魔の如く、淫魔のようにスライムの王女は囁いた。
14/04/06 21:28更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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