男性との触診、及び追及の考察について
男性の体というのはどうしてこうも不思議なのだろうか。
女性であれば脂肪が付きどうしても丸みを帯びた体つきとなってしまう。それはこの王国のレジーナ姫や勇者がいい例だ。だが男性の体には女性のような胸はないし、脂肪の柔らかさというのもあまりない。ためしに抓ってもそれほど肉はない。いや、それは彼が鍛えているからか。
私の目の前で半裸になっているユウタ。その体は余計な肉はそぎ落とされ絞られたものとなっている。腹部は割れ、胸も堅く肩幅は私よりも広い。がっしりしているとは言えない細身だがこれはこれで逞しさを感じるものだ。
「…ふむ」
私は普段付けぬ聴診器を耳にユウタの鼓動を聞いていた。規則的に鼓動を刻む心臓はこれと言っておかしなものはない。別世界といえ同じ人間なのだから体の各器官にそこまで違いはないのだろう。
「…もういいですか?」
「静かに。もう少し聞かせてくれ」
「…」
その言葉に小さくため息をつくユウタだがお構いなしに聴診器に意識を集中する。先ほどから変わらない一定の鼓動を聞いているだけなのだが、なぜかとても落ち着く。ずっとこうしていたいとは言わないが少しばかり癖になりそうだ。
だが聴診器を押しつけただ鼓動を聞いているだけではわからないことがある。鼓動だけでは人の全てを推し量る事なんてできやしない。
私は聴診器をはずして彼を見据えた。
「少し良いかね?」
「はい?」
返答を聞く前に私は耳をユウタの胸に押しつけた。
「わっ!?何してるんで―」
「静かに」
「…」
その一言でユウタはおとなしく体から力を抜いた。どうやらこれも必要なことだと思っているらしく抵抗はしないようだ。いや、実際に必要なことだが。
先ほどよりもわずかに速まったような気がする鼓動。それから触れた肌を伝わる私以上の体温。鍛え上げた肉体は思った以上に堅いもので私は思わず息を吐いた。
これが男性というものか。
堅いのだがとても心地良い。高い体温がとても心安らぐ。瞼を閉じればそのままうっかり眠りに落ちれるほどに。
やはり男性というものは不思議だ。肉体的構造が異なることは知っていたが本で見るのと実際目にするのとでは大きく違う。しかも今頬が触れるほどの距離にいるのだ、これではもっと知りたくなってしまう。
「…なぁユウタ。舐めても良いかね?」
「ぶっとばしますよ?」
流石にこれはだめだったか。いやうっかりしていた。
だが肌が触れ、鼓動を聞き、指でなぞって、言葉を交わして、ようやくユウタの事がわかってきた。
体のどこにも現れない勇者の証。それはきっと彼がまだ目覚めていないからだろうと結論づける。他の者もこちらに喚ばれてすぐに目覚めるものはいなかった。つまるところユウタはまだまだ準備期間というわけだ。
ただ、もう一つわかったことがある。
「ユウタ、君は魔法が使えない体質だ」
「…はい?」
「魔法だよ、魔法」
この国でも盛んに用いられる、日常生活に欠かせないものから戦闘の手段となるもの。手のひらサイズの光の玉で闇夜を照らしたり、軍勢を滅ぼせる威力を備えたものと種類も用途も様々なものがある。
だが欠かせないのが魔力。全ての魔法に通じる必要不可欠なものだ。
「ユウタは魔力を作る器官が発達していないんだ」
「…はぁ。まぁ、魔法なんてオレのいたとこじゃありませんでしたからね」
「魔法とは無縁の世界にいた人間ならそうなるのも仕方ないだろう」
だが、一概にすべての別世界の人間がそうだとも言い切れない。逆にとてつもない潜在能力と魔力を備えた人間も呼び出されることがあるらしいのだから。
「それでも魔法が使えない体質でも魔法は扱えるさ。この王国の騎士たちが皆つけている防具には皆退魔の力を備えている。魔法を弾く魔法ということだ」
「別にそんなものがあったところで何か変わるんですか?」
「大分変わるぞ。肉体強化や治癒、一度発動すれば山一つ消し飛ぶほどのものだってあるのだからな」
それだけではない。空間圧縮や転位、はたまた兵器となる混合生物の創造や肉体へ刻み込む人体実験と数えればきりがないほど存在する。
「勇者の力が覚醒しないのならせめてそういう最低限の魔法知識や付与された防具を用意すべきだろう。相手するのは魔物であり魔法を用いた戦いを得意とするのだからな」
「…魔物ねぇ」
ユウタは何やら意味深に呟く。彼は魔物という存在をまだわかっていないのかもしれない。
別世界からきた人間なら彼女達は美女にしか見えないだろう。そんな相手を魔物と呼び殺すというのは納得できないかもしれない。
かくいう私も魔物を殺したいほど嫌ってはいない。研究には彼女たちの助けが必要なこともあるのだ、邪険にしては可能性を潰すこととなる。
だが、身に危険が及べば敵対はする。あのクイーンスライムのように殺しはしないが無力化はさせてもらう。
「もし魔法を使いたいのならば私を頼ってくれ。魔法を使えない人間がいったいどのように魔法を用いるのか是非とも見てみたいのだよ」
「期待するほどすごいことなんてできませんよ」
からから笑いながらユウタはいそいそと服を着始めた。雪のように真っ白で薄い服に腕を通しボタンを閉めようとする寸前で私は声をかける。
「ああ、ユウタ。まだ着ないでくれないか。調べることは山ほどあるんだ」
「え?」
「ここまで触れ、聞き、見て、嗅いで君というものを感じた。ならば五感というのだからもう一つの感覚で君を感じたいのだよ」
「…えっとつまり」
「舐めさせてくれ」
その言葉にユウタはにこりと笑って言った。
「ぶっ飛ばしますよ」
やはりこれはだめらしい。いや、本当に男性というのはわからないものだ。
「…うぁ?」
気の抜けた声を上げて気だるい体をゆっくり起こし伝っていた涎を拭う。あたりを見回すと普段見慣れている研究室の壁があり、いつも座っている椅子と机の上に倒れてたことに気付いた。
「…眠っていたのかね」
どうも最近研究の進みがいいからと調子に乗っていたのがまずかったか。ここにきて体の限界が来たらしい。
しかしいったいいつ寝たのだろう。寝たということはやるべきことは多少終わらせているはずだ。ならばユウタに対する調査は幾分か済み、既に帰らせたと考えるべきか。
ふと視線を落とすとそこにはまとめた資料に大きな染みを作る涎の跡ができていた。
「…これはうっかりしていた」
このまま拭えば文字が滲んで読めなくなる。しばらく時間はかかるが浄化魔法をかけて乾かしておこう。その間に食事でも済ませて研究を再開させるとしよう。
そんな風に考えてイスから立ち上がり台所へとあるいていく最中に気づいた。
「…何もなかったな」
私一人なのだから食事なんて最低限で良い。睡眠も、風呂も、研究者にとって研究こそが一番であり他のことなど二の次だ。
それ故食材なんてものはここには置いてない。最近は上から支給される栄養食だけで済ませていたのだがそれももう尽きていたはずだ。いや、これはうっかりしていた。
「なら買い物にいくしかないのかね」
これは仕方ない。食べ物がないなら買うしかない。なら財布と思い引き出しの中から金貨の入った袋を取り出す。
「…む」
手にした重さがあまりにも軽い。揺らしてみるも硬質な音がまったくしない。
ああ、そうだった。この前狸からスライムを買い取ったばかりだった。あのとき財布の中身の大半を使ってしまったんだか。研究費が落ちるのもまだ一週間はかかる。とすると今私の手持ちは限りなく零に近いと言うことだろう。
無一文、ではないものの買えるのはリンゴが一つぐらい。
「うっかりしていた」
これでは何もできないではないか。我ながら自分のうっかりさに腹が立つ。だがいくら立ったところで腹が膨らむわけではない。
「…とにかく外だ」
この時間帯ならまだやってる店もあるはずだ。そこで腹を満たすものを手に入れることにしよう。最悪付けにでもしてもらえばいい。うっかり払い忘れてしまいそうだがそのときは向こうから言ってくれるだろう。それでもダメなら妹を頼ることとしよう。
そう思って部屋を出ると鼻孔を擽る香りに気づいた。深みあるその香りは私の空腹神経を刺激し口内に涎が溢れる。
これは台所から香ってくるな。はて、私は料理をしたまま眠ってしまっただろうか?
疑問に思いながらも台所へと向かう。するとそこでは手慣れた手つきで鍋をかき混ぜる異国装束の男性が立っていた。
「…ユウタかね?」
「おはようござみます、って言っても夜ですけどね」
「ああ、おはよう。いや、今はこんばんわか。それよりもこの香りは?」
「ご飯ですよ」
既に帰ったと思っていた彼は鍋の火を弱めこちらを向いて言った。鍋の隣にはいくつもの皿が置かれ、上には既に出来上がった料理が乗っている。
「…君が作ったのかね」
「ええ、そうですよ」
ユウタは鍋の中のスープを皿に移すと火を止めエプロンを脱ぐ。小さく息を吐きながら彼は苦笑を浮かべていた。
「研究者っていうからもしかしたら研究一筋で他の事全然やらないんじゃないかと思ってたんですよ。そんなの漫画かゲームみたいなもんだと思ってましたけどまさかその通りだったとは驚きですね」
「よくわかったな。私が他の事を全くしないと」
「ええ、まぁ。食器が埃被ってますし、冷蔵庫の中何もありませんでしたからね」
「それで料理を作ってくれたのか………ああ、君という奴は」
なんと助かることだろう。窮地の私を救ってくれるとはこの男性は神か。主神を私は信仰する人間ではないのだがこの施しには思わず崇め称えてしまいそうだ。
私は最大の敬意を表して彼の体を抱きしめた。
「…え!?何してるんですか!?」
「ありがとう。助かったよ」
「あ、はい…」
私の行動に驚きながらも感謝の言葉に頷く。だがすぐさまユウタは私の手の中から抜け出していった。
…残念だ。もう少し堪能させてくれてもいいだろうに。
「いや、本当に助かった。のたれ死ぬかと思ったぐらいだ」
「んな大げさな」
「大げさではないさ。しかしこう言った場合はどうやって恩を返せばいいのかね?何分人と接すること自体あまりなかったのでわからないのだよ」
「そんなことのためにやったんじゃないので別にいいですよ」
「なんなら私を舐めて良いぞ」
「遠慮します」
「なら私が舐めていいのかね?」
「ぶっ飛ばしますよ?」
「嫌かね。これはうっかりしていたよ」
「そんな舐めたいなら足でも舐めさせてやりましょうか?」
「そうか、足はいいのかね」
「冗談で―ちょっと!なんで靴を脱がしにかかるんですか!?冗談だって言ってるでしょうが!!」
「そうですわ。殿方が嫌がることを女性がするものではありません」
「いや、嫌よ嫌よも好きの内なのだろう?」
「またそんなこと言って!!」
「少しは殿方のお言葉を聞き入れないと嫌われてしまいますわ」
「おっとそうか。これはうっかりしていた。なら私ができることはあるかね?」
「イスにでも座って待っててくださいよ」
「待つこともまた淑女としての嗜みですわ」
「そう言われては仕方ない。おとなしく待たせてもらうよ」
私は静かに台所付近のイスに腰を降ろして―気づいた。
…今ユウタ以外の声が聞こえなかったか?
うっかり聞き漏らしていたが確実にユウタよりもずっと高く気品あふれる声色が会話に混じっていた。
聞き覚えある礼儀正しい声色はいったい誰のものか。男性らしく低い声のユウタには到底出せるはずのない声色は特殊容器につっこんだはずのあの女王のものではないか。
「…ユウタ、今変な声がしなかったか?」
「そんなのしたんですか?霊感とかないのでわからないんですが」
「ゴーストの声なら霊感がなくとも聞こえますわ、ユウタ様」
「へぇ、そうなんだ」
「…」
やはり聞こえるスライムの声。それもユウタの方からだ。
目を凝らしてユウタを見る。注意してみると着ている黒い服、その肩の上に何やら蠢く青い塊があるのに気付いた。その物体は小さいのだが人間の形をとっていてそれはまるでスライムの様な…いや、スライムだ。
「…ユウタ。そのスライムはいったいどうした?」
「いや、あの箱の上に立ってたんですけど…妖精か何かかと思いまして」
「うふふ♪どうも、ルア様」
私の方を見て一礼するクイーンスライムに流石の私も驚かずにはいられなかった。
彼女を閉じ込めていた純銀製の箱を見る。厳重に魔法をかけて脱出不可能にしたはずなのだがよく見ると箱の周りが湿っている。おそらくスライムの彼女が這いずり回った跡だろう。
「ヴェロニカ、といったかね。どうやってあの中から抜け出したのかね?」
「ここに来るまでに私もできる限り分体を作っていたのです。一国を攻め落とすのですから数を揃えるのは当然ですわ。後は皆で魔法の解析をし、脱出できる穴を作って…というわけですわ」
「…」
あの魔法を解析し穴を作るなどいったいどれほどの技術と知識が必要だと思っているんだ。さらには魔法封じの純銀製の壁も用いていたというのに。
いや、だが確かクイーンスライムの分体は皆王女と繋がっていたはず。それなら分体全てを使えば人間を遥かに超えた作業効率を可能とするというわけだろう。
改めて考えるとこの魔物、場合によってはドラゴンやリリムにも並ぶ戦力の持ち主なのではないだろうか。
「それでも私一人、しかもこのような体でしか脱出できなかったのは貴方様の魔法のせいですわね。あれほど高度な魔法を使われるとは甘く見ておりました。謝罪しますわ」
「そうか。いや、実際に抜け出すことは不可能だったはずなのだがね。これは脱帽ものだよ」
私もうっかりしていられないということだろう。あんなちんけな体ではあるが魔物であることに変わりないし、栄養があれば再び元の姿に戻り分体を作るに違いない。
…いや、それ以上に気にかけることは今その栄養源の上に立っているということだろう。
「ユウタ、なぜ君はそのスライムを肩に乗せているのかね」
「肩が一番揺れないだろうと思いまして」
「なるほど。確かに人間の体で肩は足や腕や頭に比べ安定していると言って―いや違う」
うっかり話の論点が違ってしまった。いや、言葉足らずな私も悪いのだが。
「なぜ、君は魔物といるのかね?」
小さな姿とはいえ魔物であることに変わりない。それもクイーンスライムというのだからそこらのスライムと比べれば危険度は格段に上がる。どれほど熟練した戦士であっても不用心に手を出せば取り込まれ、搾り取られることもあり得るのだ。
しかしユウタはからから笑う。
「話し相手みたいなもんですよ。肩に乗せたところで別にそんな危険じゃないでしょうし」
「そんな姿でも魔物だぞ?襲われるかもしれないのにか」
「ルアさんよりかは安全かと思います」
「…」
私の方が魔物よりも危険と思われているのは……複雑だな。
「それにもし襲われそうになった時は小麦粉にぶち込みますよ」
「…ユウタ様、それはご勘弁を」
その言葉に流石の女王も笑みが引きつった。彼の隣には覚えのない大きな麻袋が置かれ小麦粉らしきものが見える。おそらく料理のために持ってきた材料だろうが先ほどのユウタの発言からして冗談ではないのだろう。
魔物へ敵対心がないものの場合によっては実力行使も厭わない。彼は私と似たタイプなのかもしれない。
「そんなことより」
ユウタは手にした皿を差し出した。上に乗っているのは先ほどまで作っていた料理であり白い湯気と共に空腹を刺激する香りが漂ってくる。
くぅっと、忘れていた腹の虫が切なく鳴いた。
「ご飯にしましょうか」
「いただきます」
両手を合わせるユウタを前に私は先に料理に手を付けていた。というのもこれほどまともな食事は久方ぶりだった。今まで食べていた栄養食は味気なく少量のものばかり。だが私には料理を作る暇も技術もないのだから仕方ない。それに外食に時間を割けるほど暇でもない。
どれも私の舌を巻く味に手が止まらない。満たされる空腹に喋る暇すら惜しくなる。
料理というものはこれほどまでに美味なものだっただろうか。私自身作りはしないし、正直妹が作ってくれるものよりも美味い。この国の料理とは少し異なっているからでもあるのだろう。
そんな私を見てユウタは満足そうに笑みを浮かべると肩に座ったヴェロニカへと視線を向けた。
「ヴェロニカはご飯はどうするのさ?」
「残念ですが私たちスライムの主食は男性の体液…ユウタ様の汗や唾液といったものなのですわ」
「…へぇ。じゃ唾液でも垂らせばいいの?」
「いえ、そんな苦労をかけるわけにはいきませんわ。ただ少し、首筋を舐める程度のことを許してくださいまし」
「まぁ、それくらいなら」
「…」
二人のやりとりを前に思わず私は料理を運ぶ手を止めた。
「では、失礼して…」
そう言うと、彼女はユウタの首筋にかみついた。いや、正確にはかみついたのではない。顔を寄せ、その小さな口から精一杯舌を伸ばし、ちろりと舐めたのだ。
「…」
男性の肌に液状の体で包み込み、精液や汗、唾液を啜ることが彼女にとっての食事となるのだろう。それはサキュバスが男性の精を摂取することと同じであり彼女にとっては栄養補給でもある。
本来ならばそのようなこと止めるべきだ。彼女が栄養を蓄え続ければまた脅威となってしまう。本体は愚鈍で緩慢であると言われるが逆に分体は機敏で厄介らしく、また二度も油断をするほどうっかりしてはいないだろう。
だがその前に私は気にすべきことがある。
―おかしくはないか。
今彼女はユウタの首を舐めている。スライムであるのならばそんなことせずとも首筋に体をはわせればそれだけで良いというのにだ。そしてユウタは別段嫌がっている様子はない。時折くすぐったそうに身を捩らせるだけだ。
―おかしくは、ないか?
私が舐めようとすると尋常じゃないほど嫌がったくせにどうして彼女が舐めるというのは許容しているのか。舐められるというのなら私も彼女も変わらないだろうに。
確かに魔物と人間という違いはある。だがともに性別は女だというところは変わらない。大きさの違いは仕方ないが元に戻れば私と同じくらいになるはずだ。
―おかしいだろう。
「ユウタ」
「ん?何ですか?」
「私も舐めて良いかね?」
「ぶっ飛ばしますよ?」
これだ。
これが私の場合の対応だ。
だというのに首筋ではちろちろと小さな舌を使って舐めるヴェロニカがいる。丹念に、まるで蜂蜜でもついているかのように恍惚とした表情を浮かべながら舐めとる彼女のことは咎めない。やっていることは私以上に過激だろうにどうして彼女の場合は許されるのか。
納得がいかない。
そして、私もしたくなる。
不思議と他人がしていることはよく見える。隣の芝生は青く見えるのと同じ原理か、他人がやらせてもらえることを目の当たりにするとなおさら私もやりたくなってくる。いや、不思議なものだ。
「ユウタ」
「ダメですよ」
「わかった。首がダメというのなら頬で我慢しよう」
「ダメですって」
「ならば胸でいいだろう?」
「舐めること自体ダメって言ってるんです」
「…ならばなぜそのスライムに舐められることはいいのかね?」
「スライムの食事がそういうものだというので」
「なら私の食事もそれでいいから」
「老廃物食わないでくださいよ」
ああ言えばこう言い、こう言えばああ言う。
なぜそこまで私を拒否するのかわからない。いや、嫌われるようなことを初対面でやってしまったのだがここまで邪険にするものだろうか。
男性というのは本当に不思議な生き物だ。
だが、私は人間であり、女性である前に研究者である。真理を求めることを生業とし、真実を欲することを本能とする生き物である。
「ユウタ、人間何かを知りたいという気持ちを持つことは悪いことかね?研究者は皆独自の探求心を持ち日々謎を解明するために全てを捧げる。そこにどんな障壁があろうと、どんな障害があろうと挫けることなく進むものだ」
私は席を立ちあがり彼の隣へと立つ。
「だから、私は君という男性を知ることができるのならば何もかも知っておきたいのだよ。姿形、感触、温度、声色、鼓動、香り、そして味」
顔を寄せちろりと私は舌を出し、指先で見せつけるように摘んだ。ぬるりとした唾液が付着し、部屋の明かりに妖しく光る。
「人体における全ての感覚を用いてでも君という存在を理解したいのだよ」
「…言ってることかっこいいけどやってること変態と変わんないんですが」
「そのお心行き、大変すばらしいものですが淑女としての礼節が欠けているのではないかと」
「君たちはうっかりしているな。変態だろうが淑女でなかろうが謎を解明するためならば何だって犠牲にできる。それが研究者という者だ。だから―」
ユウタの手を握り込み、真っ直ぐその瞳を見つめる。闇を押し固めたような黒い瞳の中には私の姿が映し出されていた。まるで周りの闇に取り込まれたかのように、それでも必死に懇願する私の姿が。
「―舐めさせてくれないかね?」
「ダメ」
それでも返ってきたのは一切の迷いなき答えだった。
断られたからはいそうですかと引き下がるほど私は聞き分けがよくはないと自負している。それ以前に研究者がただ止められたから止まるほどやわな存在でもない。あの手がダメならこの手で行く。その手でダメなら別の手を用いる。物事を一つの見方から見るのではない、あらゆる方向から眺めることのできる柔軟さが研究者には求められる。
つまるところ、ユウタが拒否するのならば別の方法を用いればいいということだ。
研究室の仮眠室前のドアの前で私は立っていた。
明日の研究のためにこの研究室に残ってもらうため提供した一室だが利用する者はほとんどいない。私の助手なんて今までいたことはないし、時折様子見に泊まりにくる妹ぐらいしか使わない。
だが今はユウタが眠っている。仮眠室は鍵がかかるように設計されている故に彼もここで寝ることを承諾した。
だが、この研究室の主である私がその鍵を開けられないわけがない。鍵をかけた程度で我が身の安全を確保した気になり安堵するなど―
「―うっかりしているものだ」
小さくほくそ笑んだ私は指を鳴らして開錠すると、部屋のドアを開いた。その向こうには窓から差し込む月明かり以外照らすものがない闇夜の空間。普通の人間が入ればすぐさまつまづき、まともに歩くことなどできないだろう。
だがここは私の研究室だ。
耳を澄ませて呼吸を探る。そうしていると静かながら規則的な寝息が聞こえてきた。
―ふむ、東に十歩、北に二歩というところか。
部屋の配置も間取りも頭の中に入っている。目を閉じていてもぶつかることなく歩き回れる程度には記憶している。ならば、ユウタが寝ている場所も特定できるし音を立てることなく目的を果たせる。
すぐさま足を進めて一つのベッドの前に立つ。聞こえてくる寝息の位置から間違いないことを理解した。
―それでは試させてもらおうか。
この際だ、舐める程度では物足りない。もっと別のことも試してみよう。ただでさえ暴れて嫌がるのだからこんなチャンスをうっかり逃してなるものか。
ならばいったい何をしようか。体の感触を隅々まで確かめるか、男性特有の器官を観察させてもらうか。ああ、思いつけばきりがない。
とりあえずは脱がそう。
それで拘束魔法で縛り上げてしまおう。
抵抗されては厄介だ。少々手荒かもしれないが暴れてうっかり怪我をされてはたまったものではない。いや、この場合怪我をするのは私の方だが。
しかしこれほど暗闇では何がなんだかわらない。窓の外の月明かりしか頼りになるものがないではないか。しかもユウタがいる位置は窓から最も遠く、さらには黒髪が闇夜に紛れて何が何だかわからない。
これはうっかりしていた。すぐさま私は指を弾いて拳大の光球を作り上げた。
「ふむ…」
光に映し出されるあどけない寝顔。
他人の寝顔というのは妹以外では初めて見た。別世界から来た者故の見慣れむ顔立ちで静かに眠る様子はなんというか…どことない幼さを感じさせる。起きているときにはできない安らかな表情故だからだろうか。
視線を下へと移すとそこにあるのは黒地の薄い寝間着を纏った体。寝返りを打ったからか多少乱れはだけている。
「…ふふ」
それを見ているだけでぞくぞくする。
欲しいものが目の前にあるこの実感。知的探求心が満たされるこの瞬間。わき上がるのは筆舌しがたい充足感。
それではさっそく触らせてもらおう。縛った方がいいかと思ったがそんな手間をかけるのも面倒だ。起きてしまったときはうっかりしていたといいわけでもしておけばいいのだし。
そう思って彼の寝間着を捲り上げ、手を差し込んだ。
「…あぁ」
指先から伝わってくる感触にうっかり声が漏れてしまう。だがそんなこと気にならないくらいに私は手から伝わってくる感触に夢中だった。
しっとり湿ったような手触りに弾力のある感触。どことなく冷たいのは別世界の人間は私たちより低体温だからだろうか。撫でるたびに波打ち肌を刺激する柔らかさは存外心地よさのあるものだった。
これがユウタの体か。
昼頃に彼の体を触診したがそれとは違った感触だ。暖かくないし、筋肉の堅さもない。昼と夜でユウタは体の感触を変えるのだろうか。もしそうだとしたらまた興味深いことだ。
「…そんなわけあるか」
さすがの私もそこまでうっかりするわけがない。人間の肌がこれほどまでに冷たく柔らかなわけがない。触れたユウタの感触は今でもはっきりと思い出せるほど頭に刻み込まれているのだ、間違えるはずがない。
なら何か?
私はユウタの寝間着をさらに捲り上げた。
「…」
「…あら?」
ユウタの体は胸から腹にかけて本来の人間の肌色ではなくなっていた。照らし出す明かりの下で艶やかに輝くそれは骨と肉と皮膚でできた人体とはかけ離れたものだった。
透き通った真っ青な液状の物体。その中央には寄り添うように小さな体を横たわらせるスライムの女王の姿。
「おはようございます、ルア様」
ヴェロニカは体を起こして笑みを浮かべ、私に向かってそう言った。
「…何を、しているのかね?」
「いやですわ。私たちスライムは男性の体液を必要とすると言ったではありませんか」
「君の食事は既に済んだものだと思っていたのだがね」
「ええ、ですが私たちクイーンスライムにとって男性の体液は分裂するための栄養でもありますわ」
やはりこの女王、自分が完全に復活するための隙を伺っていたらしい。警戒心の薄いユウタはまさに適した栄養源なのだろう。
「初めて味わう殿方のお味があまりにも甘美なもので…うふふ♪思わずはしたない真似をしてしまったのですわ」
「だが、魔物ならば男性の精液が餌となるのではないかね?」
「ええ、そうですわ。本当ならばユウタ様の汗や唾液ではなく精液を味わいたいところです。精液ならば一度で元の体に戻ることもできましょう」
ですが、とヴェロニカは続けた。
「眠っている相手から一方的に搾精するのは少々品のないこと。仮にもクイーンと名のつく私が礼節を欠いた行動をするわけにはいきませんわ。魔物であってもクイーンとしての矜持があるのです」
「ふむ…立派な考えだ」
だが、それでも彼女はユウタの肌の上から退こうとしない。相変わらず彼の体の上を這いまわりわずかに滲んだ汗を啜っている。
「だが、立派でもユウタの知らぬ間に体に這いずり回るとはずいぶんと失礼な女王だ」
「寝込みを襲おうとするあなた様もなかなかのものですわ」
指先で弾けば飛びそうな大きさのクイーンスライムは自分が不利な状況にあるというのに依然とした態度でいる。さすがはクイーンと名の付く魔物だといえよう。
だが、所詮態度がどうであれここで必要なのは実力だ。
私ならこの程度の魔物傷つけることなく黙らせることは可能であり、その際に被害が出ることはないだろう。ここでいくら分体を作ろうとも蒸発させるのに一秒すらかからない。
何も問題はない。
そう結論を出した私はすぐさま行動に移すため指先をあわせた。
「こんなところで魔法を使うのはいかがなものかと思いますわ」
「いくらその大きさといえどクイーンスライムであることに変わりない。魔物であり、女王な君だ、何を隠しているかわからない以上うっかり気を抜くべきではないのだよ」
「ふふ、その心構えただの研究者とは思えませんわね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
ぱちりと指を鳴らせば空気の玉で彼女を閉じこめておける。その中なら音を反響させて外部へと漏らすこともない。彼女も抜け出すことは出来ず、私は好き勝手にユウタの体を楽しめるということだ。
完璧だ。
だが念には念を入れなければ。こんな滅多とないチャンスをうっかり失うわけにはいかない。
クイーンスライムはくすくす上品に笑う。依然として自分の優勢が変わらない、そう言いたげな笑みだった。
「何かおかしいのかね?」
「いえ、本当に貴方様はよくわからないお方だと思いまして」
「んん?それはいったい何を思ってのことかね?」
「それだけ警戒しておけるのなら実力も相当のはず。現に私をこの状態まで陥れたのですからかなりのものと思われますわ。ですが―」
「―本当にうっかりさんですこと」
そう言い残して彼女は青い液体へと形を変えユウタの体から滑り降りて行ってしまった。ベッドの端から滴り落ちて部屋を出て行ってしまう。眠りに帰った、というわけではあるまい。
なら何だ?
疑問を抱いて私は辺りを見回して―気づいた。
光の届かない暗闇の中からじっとこちらを見据える、辺りよりも一際濃い闇色の瞳に。
「…」
「…」
「…」
「…」
「…おはよう」
「今、夜」
安らかな眠りを妨げられてか不機嫌そうな面もちのユウタ。目は半分までしか開いておらず、それが逆に睨まれているように見えてしまう。いや、実際睨まれているのか。
どうやら先ほどの私とクイーンスライムとのやりとりで目を覚ましたらしい。いや―
「…おっと、これはうっかりしていた」
照らし出すために付けたこの光球のせいか。
暗闇になれた目には少々刺激の強いものだったことだろう。眠っているのならなおさらだ。
「…何?」
鋭いとは言い難いが柔らかくはない視線に思わず緊張してしまう。昼間相手にした時と違う雰囲気は流石の私でも険悪なものだと理解できた。
「い、いや…安眠できているかどうか気になってな」
「…で?」
「で、と言われてもな…」
「で?」
先ほどから疑わしげな視線を投げかけるユウタ。彼は私の言葉を疑っているのか。
「別に君になにをしようというわけではないのだよ。ただね、ヴェロニカが襲ってないかチェックしておくべきだろう?」
「で?」
「あれでも魔物だ、睡眠中は一番危険だと言えるのだよ」
「で?」
「…まだ続くのか」
「…じゃ、なんで服脱がされてんの?」
「それは君の裸体を観察するためだ」
「…」
…おっとこれはうっかりしていた。つい本当のことを言ってしまった。
だが取り消せるはずもなくその言葉はハッキリとユウタに届いてしまったことだろう。その証拠に眉間に深く皺が刻み込まれる。
「…で?」
先ほどの発言では納得しなかったらしい。いや、普段の態度からしたら納得するはずもないのだが。
しかしこれ以上私が何を言えばいいのだろう。彼は徐々に不機嫌になっていくしこのままでは爆発しかねない。寝起きは人間不機嫌なものだがユウタの場合安眠妨害もされているのだ、尋常じゃないほど怒っているのだろう。
「す、済まない」
とりあえず誤っておくことにしよう。
するとユウタはそれで満足したのかシーツを引っ張り上げ背を向け寝ころんだ。
「ユ、ユウタ?」
「寝る」
不機嫌な声色で短くそう言うと彼は静かになる。本当に眠るつもりらしい。
「…」
これはもしかして無言の意思表示だろうか。私にどうされてもいいという心の表れなのだろうか。ユウタなら最低でも部屋から出されるぐらいはされると思ったのだがそこまで私に気を許してくれたということなのか。
…ならば、この機会を逃すわけにはいかないな。
私はゆっくりとユウタに近づいてシーツの中へ、より正確に言うならば寝巻の下へと手を滑り込ませ―
「あいたっ」
頬に一撃、強烈な平手打ちを貰うのだった。
女性であれば脂肪が付きどうしても丸みを帯びた体つきとなってしまう。それはこの王国のレジーナ姫や勇者がいい例だ。だが男性の体には女性のような胸はないし、脂肪の柔らかさというのもあまりない。ためしに抓ってもそれほど肉はない。いや、それは彼が鍛えているからか。
私の目の前で半裸になっているユウタ。その体は余計な肉はそぎ落とされ絞られたものとなっている。腹部は割れ、胸も堅く肩幅は私よりも広い。がっしりしているとは言えない細身だがこれはこれで逞しさを感じるものだ。
「…ふむ」
私は普段付けぬ聴診器を耳にユウタの鼓動を聞いていた。規則的に鼓動を刻む心臓はこれと言っておかしなものはない。別世界といえ同じ人間なのだから体の各器官にそこまで違いはないのだろう。
「…もういいですか?」
「静かに。もう少し聞かせてくれ」
「…」
その言葉に小さくため息をつくユウタだがお構いなしに聴診器に意識を集中する。先ほどから変わらない一定の鼓動を聞いているだけなのだが、なぜかとても落ち着く。ずっとこうしていたいとは言わないが少しばかり癖になりそうだ。
だが聴診器を押しつけただ鼓動を聞いているだけではわからないことがある。鼓動だけでは人の全てを推し量る事なんてできやしない。
私は聴診器をはずして彼を見据えた。
「少し良いかね?」
「はい?」
返答を聞く前に私は耳をユウタの胸に押しつけた。
「わっ!?何してるんで―」
「静かに」
「…」
その一言でユウタはおとなしく体から力を抜いた。どうやらこれも必要なことだと思っているらしく抵抗はしないようだ。いや、実際に必要なことだが。
先ほどよりもわずかに速まったような気がする鼓動。それから触れた肌を伝わる私以上の体温。鍛え上げた肉体は思った以上に堅いもので私は思わず息を吐いた。
これが男性というものか。
堅いのだがとても心地良い。高い体温がとても心安らぐ。瞼を閉じればそのままうっかり眠りに落ちれるほどに。
やはり男性というものは不思議だ。肉体的構造が異なることは知っていたが本で見るのと実際目にするのとでは大きく違う。しかも今頬が触れるほどの距離にいるのだ、これではもっと知りたくなってしまう。
「…なぁユウタ。舐めても良いかね?」
「ぶっとばしますよ?」
流石にこれはだめだったか。いやうっかりしていた。
だが肌が触れ、鼓動を聞き、指でなぞって、言葉を交わして、ようやくユウタの事がわかってきた。
体のどこにも現れない勇者の証。それはきっと彼がまだ目覚めていないからだろうと結論づける。他の者もこちらに喚ばれてすぐに目覚めるものはいなかった。つまるところユウタはまだまだ準備期間というわけだ。
ただ、もう一つわかったことがある。
「ユウタ、君は魔法が使えない体質だ」
「…はい?」
「魔法だよ、魔法」
この国でも盛んに用いられる、日常生活に欠かせないものから戦闘の手段となるもの。手のひらサイズの光の玉で闇夜を照らしたり、軍勢を滅ぼせる威力を備えたものと種類も用途も様々なものがある。
だが欠かせないのが魔力。全ての魔法に通じる必要不可欠なものだ。
「ユウタは魔力を作る器官が発達していないんだ」
「…はぁ。まぁ、魔法なんてオレのいたとこじゃありませんでしたからね」
「魔法とは無縁の世界にいた人間ならそうなるのも仕方ないだろう」
だが、一概にすべての別世界の人間がそうだとも言い切れない。逆にとてつもない潜在能力と魔力を備えた人間も呼び出されることがあるらしいのだから。
「それでも魔法が使えない体質でも魔法は扱えるさ。この王国の騎士たちが皆つけている防具には皆退魔の力を備えている。魔法を弾く魔法ということだ」
「別にそんなものがあったところで何か変わるんですか?」
「大分変わるぞ。肉体強化や治癒、一度発動すれば山一つ消し飛ぶほどのものだってあるのだからな」
それだけではない。空間圧縮や転位、はたまた兵器となる混合生物の創造や肉体へ刻み込む人体実験と数えればきりがないほど存在する。
「勇者の力が覚醒しないのならせめてそういう最低限の魔法知識や付与された防具を用意すべきだろう。相手するのは魔物であり魔法を用いた戦いを得意とするのだからな」
「…魔物ねぇ」
ユウタは何やら意味深に呟く。彼は魔物という存在をまだわかっていないのかもしれない。
別世界からきた人間なら彼女達は美女にしか見えないだろう。そんな相手を魔物と呼び殺すというのは納得できないかもしれない。
かくいう私も魔物を殺したいほど嫌ってはいない。研究には彼女たちの助けが必要なこともあるのだ、邪険にしては可能性を潰すこととなる。
だが、身に危険が及べば敵対はする。あのクイーンスライムのように殺しはしないが無力化はさせてもらう。
「もし魔法を使いたいのならば私を頼ってくれ。魔法を使えない人間がいったいどのように魔法を用いるのか是非とも見てみたいのだよ」
「期待するほどすごいことなんてできませんよ」
からから笑いながらユウタはいそいそと服を着始めた。雪のように真っ白で薄い服に腕を通しボタンを閉めようとする寸前で私は声をかける。
「ああ、ユウタ。まだ着ないでくれないか。調べることは山ほどあるんだ」
「え?」
「ここまで触れ、聞き、見て、嗅いで君というものを感じた。ならば五感というのだからもう一つの感覚で君を感じたいのだよ」
「…えっとつまり」
「舐めさせてくれ」
その言葉にユウタはにこりと笑って言った。
「ぶっ飛ばしますよ」
やはりこれはだめらしい。いや、本当に男性というのはわからないものだ。
「…うぁ?」
気の抜けた声を上げて気だるい体をゆっくり起こし伝っていた涎を拭う。あたりを見回すと普段見慣れている研究室の壁があり、いつも座っている椅子と机の上に倒れてたことに気付いた。
「…眠っていたのかね」
どうも最近研究の進みがいいからと調子に乗っていたのがまずかったか。ここにきて体の限界が来たらしい。
しかしいったいいつ寝たのだろう。寝たということはやるべきことは多少終わらせているはずだ。ならばユウタに対する調査は幾分か済み、既に帰らせたと考えるべきか。
ふと視線を落とすとそこにはまとめた資料に大きな染みを作る涎の跡ができていた。
「…これはうっかりしていた」
このまま拭えば文字が滲んで読めなくなる。しばらく時間はかかるが浄化魔法をかけて乾かしておこう。その間に食事でも済ませて研究を再開させるとしよう。
そんな風に考えてイスから立ち上がり台所へとあるいていく最中に気づいた。
「…何もなかったな」
私一人なのだから食事なんて最低限で良い。睡眠も、風呂も、研究者にとって研究こそが一番であり他のことなど二の次だ。
それ故食材なんてものはここには置いてない。最近は上から支給される栄養食だけで済ませていたのだがそれももう尽きていたはずだ。いや、これはうっかりしていた。
「なら買い物にいくしかないのかね」
これは仕方ない。食べ物がないなら買うしかない。なら財布と思い引き出しの中から金貨の入った袋を取り出す。
「…む」
手にした重さがあまりにも軽い。揺らしてみるも硬質な音がまったくしない。
ああ、そうだった。この前狸からスライムを買い取ったばかりだった。あのとき財布の中身の大半を使ってしまったんだか。研究費が落ちるのもまだ一週間はかかる。とすると今私の手持ちは限りなく零に近いと言うことだろう。
無一文、ではないものの買えるのはリンゴが一つぐらい。
「うっかりしていた」
これでは何もできないではないか。我ながら自分のうっかりさに腹が立つ。だがいくら立ったところで腹が膨らむわけではない。
「…とにかく外だ」
この時間帯ならまだやってる店もあるはずだ。そこで腹を満たすものを手に入れることにしよう。最悪付けにでもしてもらえばいい。うっかり払い忘れてしまいそうだがそのときは向こうから言ってくれるだろう。それでもダメなら妹を頼ることとしよう。
そう思って部屋を出ると鼻孔を擽る香りに気づいた。深みあるその香りは私の空腹神経を刺激し口内に涎が溢れる。
これは台所から香ってくるな。はて、私は料理をしたまま眠ってしまっただろうか?
疑問に思いながらも台所へと向かう。するとそこでは手慣れた手つきで鍋をかき混ぜる異国装束の男性が立っていた。
「…ユウタかね?」
「おはようござみます、って言っても夜ですけどね」
「ああ、おはよう。いや、今はこんばんわか。それよりもこの香りは?」
「ご飯ですよ」
既に帰ったと思っていた彼は鍋の火を弱めこちらを向いて言った。鍋の隣にはいくつもの皿が置かれ、上には既に出来上がった料理が乗っている。
「…君が作ったのかね」
「ええ、そうですよ」
ユウタは鍋の中のスープを皿に移すと火を止めエプロンを脱ぐ。小さく息を吐きながら彼は苦笑を浮かべていた。
「研究者っていうからもしかしたら研究一筋で他の事全然やらないんじゃないかと思ってたんですよ。そんなの漫画かゲームみたいなもんだと思ってましたけどまさかその通りだったとは驚きですね」
「よくわかったな。私が他の事を全くしないと」
「ええ、まぁ。食器が埃被ってますし、冷蔵庫の中何もありませんでしたからね」
「それで料理を作ってくれたのか………ああ、君という奴は」
なんと助かることだろう。窮地の私を救ってくれるとはこの男性は神か。主神を私は信仰する人間ではないのだがこの施しには思わず崇め称えてしまいそうだ。
私は最大の敬意を表して彼の体を抱きしめた。
「…え!?何してるんですか!?」
「ありがとう。助かったよ」
「あ、はい…」
私の行動に驚きながらも感謝の言葉に頷く。だがすぐさまユウタは私の手の中から抜け出していった。
…残念だ。もう少し堪能させてくれてもいいだろうに。
「いや、本当に助かった。のたれ死ぬかと思ったぐらいだ」
「んな大げさな」
「大げさではないさ。しかしこう言った場合はどうやって恩を返せばいいのかね?何分人と接すること自体あまりなかったのでわからないのだよ」
「そんなことのためにやったんじゃないので別にいいですよ」
「なんなら私を舐めて良いぞ」
「遠慮します」
「なら私が舐めていいのかね?」
「ぶっ飛ばしますよ?」
「嫌かね。これはうっかりしていたよ」
「そんな舐めたいなら足でも舐めさせてやりましょうか?」
「そうか、足はいいのかね」
「冗談で―ちょっと!なんで靴を脱がしにかかるんですか!?冗談だって言ってるでしょうが!!」
「そうですわ。殿方が嫌がることを女性がするものではありません」
「いや、嫌よ嫌よも好きの内なのだろう?」
「またそんなこと言って!!」
「少しは殿方のお言葉を聞き入れないと嫌われてしまいますわ」
「おっとそうか。これはうっかりしていた。なら私ができることはあるかね?」
「イスにでも座って待っててくださいよ」
「待つこともまた淑女としての嗜みですわ」
「そう言われては仕方ない。おとなしく待たせてもらうよ」
私は静かに台所付近のイスに腰を降ろして―気づいた。
…今ユウタ以外の声が聞こえなかったか?
うっかり聞き漏らしていたが確実にユウタよりもずっと高く気品あふれる声色が会話に混じっていた。
聞き覚えある礼儀正しい声色はいったい誰のものか。男性らしく低い声のユウタには到底出せるはずのない声色は特殊容器につっこんだはずのあの女王のものではないか。
「…ユウタ、今変な声がしなかったか?」
「そんなのしたんですか?霊感とかないのでわからないんですが」
「ゴーストの声なら霊感がなくとも聞こえますわ、ユウタ様」
「へぇ、そうなんだ」
「…」
やはり聞こえるスライムの声。それもユウタの方からだ。
目を凝らしてユウタを見る。注意してみると着ている黒い服、その肩の上に何やら蠢く青い塊があるのに気付いた。その物体は小さいのだが人間の形をとっていてそれはまるでスライムの様な…いや、スライムだ。
「…ユウタ。そのスライムはいったいどうした?」
「いや、あの箱の上に立ってたんですけど…妖精か何かかと思いまして」
「うふふ♪どうも、ルア様」
私の方を見て一礼するクイーンスライムに流石の私も驚かずにはいられなかった。
彼女を閉じ込めていた純銀製の箱を見る。厳重に魔法をかけて脱出不可能にしたはずなのだがよく見ると箱の周りが湿っている。おそらくスライムの彼女が這いずり回った跡だろう。
「ヴェロニカ、といったかね。どうやってあの中から抜け出したのかね?」
「ここに来るまでに私もできる限り分体を作っていたのです。一国を攻め落とすのですから数を揃えるのは当然ですわ。後は皆で魔法の解析をし、脱出できる穴を作って…というわけですわ」
「…」
あの魔法を解析し穴を作るなどいったいどれほどの技術と知識が必要だと思っているんだ。さらには魔法封じの純銀製の壁も用いていたというのに。
いや、だが確かクイーンスライムの分体は皆王女と繋がっていたはず。それなら分体全てを使えば人間を遥かに超えた作業効率を可能とするというわけだろう。
改めて考えるとこの魔物、場合によってはドラゴンやリリムにも並ぶ戦力の持ち主なのではないだろうか。
「それでも私一人、しかもこのような体でしか脱出できなかったのは貴方様の魔法のせいですわね。あれほど高度な魔法を使われるとは甘く見ておりました。謝罪しますわ」
「そうか。いや、実際に抜け出すことは不可能だったはずなのだがね。これは脱帽ものだよ」
私もうっかりしていられないということだろう。あんなちんけな体ではあるが魔物であることに変わりないし、栄養があれば再び元の姿に戻り分体を作るに違いない。
…いや、それ以上に気にかけることは今その栄養源の上に立っているということだろう。
「ユウタ、なぜ君はそのスライムを肩に乗せているのかね」
「肩が一番揺れないだろうと思いまして」
「なるほど。確かに人間の体で肩は足や腕や頭に比べ安定していると言って―いや違う」
うっかり話の論点が違ってしまった。いや、言葉足らずな私も悪いのだが。
「なぜ、君は魔物といるのかね?」
小さな姿とはいえ魔物であることに変わりない。それもクイーンスライムというのだからそこらのスライムと比べれば危険度は格段に上がる。どれほど熟練した戦士であっても不用心に手を出せば取り込まれ、搾り取られることもあり得るのだ。
しかしユウタはからから笑う。
「話し相手みたいなもんですよ。肩に乗せたところで別にそんな危険じゃないでしょうし」
「そんな姿でも魔物だぞ?襲われるかもしれないのにか」
「ルアさんよりかは安全かと思います」
「…」
私の方が魔物よりも危険と思われているのは……複雑だな。
「それにもし襲われそうになった時は小麦粉にぶち込みますよ」
「…ユウタ様、それはご勘弁を」
その言葉に流石の女王も笑みが引きつった。彼の隣には覚えのない大きな麻袋が置かれ小麦粉らしきものが見える。おそらく料理のために持ってきた材料だろうが先ほどのユウタの発言からして冗談ではないのだろう。
魔物へ敵対心がないものの場合によっては実力行使も厭わない。彼は私と似たタイプなのかもしれない。
「そんなことより」
ユウタは手にした皿を差し出した。上に乗っているのは先ほどまで作っていた料理であり白い湯気と共に空腹を刺激する香りが漂ってくる。
くぅっと、忘れていた腹の虫が切なく鳴いた。
「ご飯にしましょうか」
「いただきます」
両手を合わせるユウタを前に私は先に料理に手を付けていた。というのもこれほどまともな食事は久方ぶりだった。今まで食べていた栄養食は味気なく少量のものばかり。だが私には料理を作る暇も技術もないのだから仕方ない。それに外食に時間を割けるほど暇でもない。
どれも私の舌を巻く味に手が止まらない。満たされる空腹に喋る暇すら惜しくなる。
料理というものはこれほどまでに美味なものだっただろうか。私自身作りはしないし、正直妹が作ってくれるものよりも美味い。この国の料理とは少し異なっているからでもあるのだろう。
そんな私を見てユウタは満足そうに笑みを浮かべると肩に座ったヴェロニカへと視線を向けた。
「ヴェロニカはご飯はどうするのさ?」
「残念ですが私たちスライムの主食は男性の体液…ユウタ様の汗や唾液といったものなのですわ」
「…へぇ。じゃ唾液でも垂らせばいいの?」
「いえ、そんな苦労をかけるわけにはいきませんわ。ただ少し、首筋を舐める程度のことを許してくださいまし」
「まぁ、それくらいなら」
「…」
二人のやりとりを前に思わず私は料理を運ぶ手を止めた。
「では、失礼して…」
そう言うと、彼女はユウタの首筋にかみついた。いや、正確にはかみついたのではない。顔を寄せ、その小さな口から精一杯舌を伸ばし、ちろりと舐めたのだ。
「…」
男性の肌に液状の体で包み込み、精液や汗、唾液を啜ることが彼女にとっての食事となるのだろう。それはサキュバスが男性の精を摂取することと同じであり彼女にとっては栄養補給でもある。
本来ならばそのようなこと止めるべきだ。彼女が栄養を蓄え続ければまた脅威となってしまう。本体は愚鈍で緩慢であると言われるが逆に分体は機敏で厄介らしく、また二度も油断をするほどうっかりしてはいないだろう。
だがその前に私は気にすべきことがある。
―おかしくはないか。
今彼女はユウタの首を舐めている。スライムであるのならばそんなことせずとも首筋に体をはわせればそれだけで良いというのにだ。そしてユウタは別段嫌がっている様子はない。時折くすぐったそうに身を捩らせるだけだ。
―おかしくは、ないか?
私が舐めようとすると尋常じゃないほど嫌がったくせにどうして彼女が舐めるというのは許容しているのか。舐められるというのなら私も彼女も変わらないだろうに。
確かに魔物と人間という違いはある。だがともに性別は女だというところは変わらない。大きさの違いは仕方ないが元に戻れば私と同じくらいになるはずだ。
―おかしいだろう。
「ユウタ」
「ん?何ですか?」
「私も舐めて良いかね?」
「ぶっ飛ばしますよ?」
これだ。
これが私の場合の対応だ。
だというのに首筋ではちろちろと小さな舌を使って舐めるヴェロニカがいる。丹念に、まるで蜂蜜でもついているかのように恍惚とした表情を浮かべながら舐めとる彼女のことは咎めない。やっていることは私以上に過激だろうにどうして彼女の場合は許されるのか。
納得がいかない。
そして、私もしたくなる。
不思議と他人がしていることはよく見える。隣の芝生は青く見えるのと同じ原理か、他人がやらせてもらえることを目の当たりにするとなおさら私もやりたくなってくる。いや、不思議なものだ。
「ユウタ」
「ダメですよ」
「わかった。首がダメというのなら頬で我慢しよう」
「ダメですって」
「ならば胸でいいだろう?」
「舐めること自体ダメって言ってるんです」
「…ならばなぜそのスライムに舐められることはいいのかね?」
「スライムの食事がそういうものだというので」
「なら私の食事もそれでいいから」
「老廃物食わないでくださいよ」
ああ言えばこう言い、こう言えばああ言う。
なぜそこまで私を拒否するのかわからない。いや、嫌われるようなことを初対面でやってしまったのだがここまで邪険にするものだろうか。
男性というのは本当に不思議な生き物だ。
だが、私は人間であり、女性である前に研究者である。真理を求めることを生業とし、真実を欲することを本能とする生き物である。
「ユウタ、人間何かを知りたいという気持ちを持つことは悪いことかね?研究者は皆独自の探求心を持ち日々謎を解明するために全てを捧げる。そこにどんな障壁があろうと、どんな障害があろうと挫けることなく進むものだ」
私は席を立ちあがり彼の隣へと立つ。
「だから、私は君という男性を知ることができるのならば何もかも知っておきたいのだよ。姿形、感触、温度、声色、鼓動、香り、そして味」
顔を寄せちろりと私は舌を出し、指先で見せつけるように摘んだ。ぬるりとした唾液が付着し、部屋の明かりに妖しく光る。
「人体における全ての感覚を用いてでも君という存在を理解したいのだよ」
「…言ってることかっこいいけどやってること変態と変わんないんですが」
「そのお心行き、大変すばらしいものですが淑女としての礼節が欠けているのではないかと」
「君たちはうっかりしているな。変態だろうが淑女でなかろうが謎を解明するためならば何だって犠牲にできる。それが研究者という者だ。だから―」
ユウタの手を握り込み、真っ直ぐその瞳を見つめる。闇を押し固めたような黒い瞳の中には私の姿が映し出されていた。まるで周りの闇に取り込まれたかのように、それでも必死に懇願する私の姿が。
「―舐めさせてくれないかね?」
「ダメ」
それでも返ってきたのは一切の迷いなき答えだった。
断られたからはいそうですかと引き下がるほど私は聞き分けがよくはないと自負している。それ以前に研究者がただ止められたから止まるほどやわな存在でもない。あの手がダメならこの手で行く。その手でダメなら別の手を用いる。物事を一つの見方から見るのではない、あらゆる方向から眺めることのできる柔軟さが研究者には求められる。
つまるところ、ユウタが拒否するのならば別の方法を用いればいいということだ。
研究室の仮眠室前のドアの前で私は立っていた。
明日の研究のためにこの研究室に残ってもらうため提供した一室だが利用する者はほとんどいない。私の助手なんて今までいたことはないし、時折様子見に泊まりにくる妹ぐらいしか使わない。
だが今はユウタが眠っている。仮眠室は鍵がかかるように設計されている故に彼もここで寝ることを承諾した。
だが、この研究室の主である私がその鍵を開けられないわけがない。鍵をかけた程度で我が身の安全を確保した気になり安堵するなど―
「―うっかりしているものだ」
小さくほくそ笑んだ私は指を鳴らして開錠すると、部屋のドアを開いた。その向こうには窓から差し込む月明かり以外照らすものがない闇夜の空間。普通の人間が入ればすぐさまつまづき、まともに歩くことなどできないだろう。
だがここは私の研究室だ。
耳を澄ませて呼吸を探る。そうしていると静かながら規則的な寝息が聞こえてきた。
―ふむ、東に十歩、北に二歩というところか。
部屋の配置も間取りも頭の中に入っている。目を閉じていてもぶつかることなく歩き回れる程度には記憶している。ならば、ユウタが寝ている場所も特定できるし音を立てることなく目的を果たせる。
すぐさま足を進めて一つのベッドの前に立つ。聞こえてくる寝息の位置から間違いないことを理解した。
―それでは試させてもらおうか。
この際だ、舐める程度では物足りない。もっと別のことも試してみよう。ただでさえ暴れて嫌がるのだからこんなチャンスをうっかり逃してなるものか。
ならばいったい何をしようか。体の感触を隅々まで確かめるか、男性特有の器官を観察させてもらうか。ああ、思いつけばきりがない。
とりあえずは脱がそう。
それで拘束魔法で縛り上げてしまおう。
抵抗されては厄介だ。少々手荒かもしれないが暴れてうっかり怪我をされてはたまったものではない。いや、この場合怪我をするのは私の方だが。
しかしこれほど暗闇では何がなんだかわらない。窓の外の月明かりしか頼りになるものがないではないか。しかもユウタがいる位置は窓から最も遠く、さらには黒髪が闇夜に紛れて何が何だかわからない。
これはうっかりしていた。すぐさま私は指を弾いて拳大の光球を作り上げた。
「ふむ…」
光に映し出されるあどけない寝顔。
他人の寝顔というのは妹以外では初めて見た。別世界から来た者故の見慣れむ顔立ちで静かに眠る様子はなんというか…どことない幼さを感じさせる。起きているときにはできない安らかな表情故だからだろうか。
視線を下へと移すとそこにあるのは黒地の薄い寝間着を纏った体。寝返りを打ったからか多少乱れはだけている。
「…ふふ」
それを見ているだけでぞくぞくする。
欲しいものが目の前にあるこの実感。知的探求心が満たされるこの瞬間。わき上がるのは筆舌しがたい充足感。
それではさっそく触らせてもらおう。縛った方がいいかと思ったがそんな手間をかけるのも面倒だ。起きてしまったときはうっかりしていたといいわけでもしておけばいいのだし。
そう思って彼の寝間着を捲り上げ、手を差し込んだ。
「…あぁ」
指先から伝わってくる感触にうっかり声が漏れてしまう。だがそんなこと気にならないくらいに私は手から伝わってくる感触に夢中だった。
しっとり湿ったような手触りに弾力のある感触。どことなく冷たいのは別世界の人間は私たちより低体温だからだろうか。撫でるたびに波打ち肌を刺激する柔らかさは存外心地よさのあるものだった。
これがユウタの体か。
昼頃に彼の体を触診したがそれとは違った感触だ。暖かくないし、筋肉の堅さもない。昼と夜でユウタは体の感触を変えるのだろうか。もしそうだとしたらまた興味深いことだ。
「…そんなわけあるか」
さすがの私もそこまでうっかりするわけがない。人間の肌がこれほどまでに冷たく柔らかなわけがない。触れたユウタの感触は今でもはっきりと思い出せるほど頭に刻み込まれているのだ、間違えるはずがない。
なら何か?
私はユウタの寝間着をさらに捲り上げた。
「…」
「…あら?」
ユウタの体は胸から腹にかけて本来の人間の肌色ではなくなっていた。照らし出す明かりの下で艶やかに輝くそれは骨と肉と皮膚でできた人体とはかけ離れたものだった。
透き通った真っ青な液状の物体。その中央には寄り添うように小さな体を横たわらせるスライムの女王の姿。
「おはようございます、ルア様」
ヴェロニカは体を起こして笑みを浮かべ、私に向かってそう言った。
「…何を、しているのかね?」
「いやですわ。私たちスライムは男性の体液を必要とすると言ったではありませんか」
「君の食事は既に済んだものだと思っていたのだがね」
「ええ、ですが私たちクイーンスライムにとって男性の体液は分裂するための栄養でもありますわ」
やはりこの女王、自分が完全に復活するための隙を伺っていたらしい。警戒心の薄いユウタはまさに適した栄養源なのだろう。
「初めて味わう殿方のお味があまりにも甘美なもので…うふふ♪思わずはしたない真似をしてしまったのですわ」
「だが、魔物ならば男性の精液が餌となるのではないかね?」
「ええ、そうですわ。本当ならばユウタ様の汗や唾液ではなく精液を味わいたいところです。精液ならば一度で元の体に戻ることもできましょう」
ですが、とヴェロニカは続けた。
「眠っている相手から一方的に搾精するのは少々品のないこと。仮にもクイーンと名のつく私が礼節を欠いた行動をするわけにはいきませんわ。魔物であってもクイーンとしての矜持があるのです」
「ふむ…立派な考えだ」
だが、それでも彼女はユウタの肌の上から退こうとしない。相変わらず彼の体の上を這いまわりわずかに滲んだ汗を啜っている。
「だが、立派でもユウタの知らぬ間に体に這いずり回るとはずいぶんと失礼な女王だ」
「寝込みを襲おうとするあなた様もなかなかのものですわ」
指先で弾けば飛びそうな大きさのクイーンスライムは自分が不利な状況にあるというのに依然とした態度でいる。さすがはクイーンと名の付く魔物だといえよう。
だが、所詮態度がどうであれここで必要なのは実力だ。
私ならこの程度の魔物傷つけることなく黙らせることは可能であり、その際に被害が出ることはないだろう。ここでいくら分体を作ろうとも蒸発させるのに一秒すらかからない。
何も問題はない。
そう結論を出した私はすぐさま行動に移すため指先をあわせた。
「こんなところで魔法を使うのはいかがなものかと思いますわ」
「いくらその大きさといえどクイーンスライムであることに変わりない。魔物であり、女王な君だ、何を隠しているかわからない以上うっかり気を抜くべきではないのだよ」
「ふふ、その心構えただの研究者とは思えませんわね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
ぱちりと指を鳴らせば空気の玉で彼女を閉じこめておける。その中なら音を反響させて外部へと漏らすこともない。彼女も抜け出すことは出来ず、私は好き勝手にユウタの体を楽しめるということだ。
完璧だ。
だが念には念を入れなければ。こんな滅多とないチャンスをうっかり失うわけにはいかない。
クイーンスライムはくすくす上品に笑う。依然として自分の優勢が変わらない、そう言いたげな笑みだった。
「何かおかしいのかね?」
「いえ、本当に貴方様はよくわからないお方だと思いまして」
「んん?それはいったい何を思ってのことかね?」
「それだけ警戒しておけるのなら実力も相当のはず。現に私をこの状態まで陥れたのですからかなりのものと思われますわ。ですが―」
「―本当にうっかりさんですこと」
そう言い残して彼女は青い液体へと形を変えユウタの体から滑り降りて行ってしまった。ベッドの端から滴り落ちて部屋を出て行ってしまう。眠りに帰った、というわけではあるまい。
なら何だ?
疑問を抱いて私は辺りを見回して―気づいた。
光の届かない暗闇の中からじっとこちらを見据える、辺りよりも一際濃い闇色の瞳に。
「…」
「…」
「…」
「…」
「…おはよう」
「今、夜」
安らかな眠りを妨げられてか不機嫌そうな面もちのユウタ。目は半分までしか開いておらず、それが逆に睨まれているように見えてしまう。いや、実際睨まれているのか。
どうやら先ほどの私とクイーンスライムとのやりとりで目を覚ましたらしい。いや―
「…おっと、これはうっかりしていた」
照らし出すために付けたこの光球のせいか。
暗闇になれた目には少々刺激の強いものだったことだろう。眠っているのならなおさらだ。
「…何?」
鋭いとは言い難いが柔らかくはない視線に思わず緊張してしまう。昼間相手にした時と違う雰囲気は流石の私でも険悪なものだと理解できた。
「い、いや…安眠できているかどうか気になってな」
「…で?」
「で、と言われてもな…」
「で?」
先ほどから疑わしげな視線を投げかけるユウタ。彼は私の言葉を疑っているのか。
「別に君になにをしようというわけではないのだよ。ただね、ヴェロニカが襲ってないかチェックしておくべきだろう?」
「で?」
「あれでも魔物だ、睡眠中は一番危険だと言えるのだよ」
「で?」
「…まだ続くのか」
「…じゃ、なんで服脱がされてんの?」
「それは君の裸体を観察するためだ」
「…」
…おっとこれはうっかりしていた。つい本当のことを言ってしまった。
だが取り消せるはずもなくその言葉はハッキリとユウタに届いてしまったことだろう。その証拠に眉間に深く皺が刻み込まれる。
「…で?」
先ほどの発言では納得しなかったらしい。いや、普段の態度からしたら納得するはずもないのだが。
しかしこれ以上私が何を言えばいいのだろう。彼は徐々に不機嫌になっていくしこのままでは爆発しかねない。寝起きは人間不機嫌なものだがユウタの場合安眠妨害もされているのだ、尋常じゃないほど怒っているのだろう。
「す、済まない」
とりあえず誤っておくことにしよう。
するとユウタはそれで満足したのかシーツを引っ張り上げ背を向け寝ころんだ。
「ユ、ユウタ?」
「寝る」
不機嫌な声色で短くそう言うと彼は静かになる。本当に眠るつもりらしい。
「…」
これはもしかして無言の意思表示だろうか。私にどうされてもいいという心の表れなのだろうか。ユウタなら最低でも部屋から出されるぐらいはされると思ったのだがそこまで私に気を許してくれたということなのか。
…ならば、この機会を逃すわけにはいかないな。
私はゆっくりとユウタに近づいてシーツの中へ、より正確に言うならば寝巻の下へと手を滑り込ませ―
「あいたっ」
頬に一撃、強烈な平手打ちを貰うのだった。
14/04/06 21:28更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
戻る
次へ