中編
玉藻姐がこの日に行く場所はここには二つある。
一つは山の奥に作られた桜の木の下のお墓。墓石の下に眠っているのは当然おばあちゃんとおじいちゃんの二人だ。今日は傘をさしながら玉藻姐も一緒に行ったのだから二度も行くとは思えない。
それ以上に可能性があるとすればもうひとつの場所。昔おばあちゃんから教えられたいたずら好きの神様がいるという場所。
黒崎家の北にある龍を奉った神社。その反対側、南に対なすように建てられた社。奉られているのは―
―『狐の神様』
いくつもの割れた石段を駆け上がったその先には大きく開けた空間があった。誰も管理していないのか雑草が生え、立派だった石灯籠は倒れている。特徴的な九つの柱が建てられたその中心には大きな社があった。
建設された時から大分過ぎたのか材木は傷み、板は腐り、ところどころ欠けている。壁にはヒビが入り、取り付けられていた鍵は跡を残してどこかに失せている。ここは誰も参拝に来ない廃れた場所だった。
その社の前に。
オレのいる石段の前に。
二つを挟んだ中間地点に玉藻姐はいた。
暗がりでもわかるくらいにずぶ濡れになった姿。臀部から生やした尻尾も水気を吸って重そうに垂れている。それでも彼女はその場から動かず空を見つめ続けていた。
「玉藻姐」
雨音にかき消されないように呼びかけるが頭の上に生えた耳は動かない。聞こえていないのか、聞いていないのか、オレにはわからない。
そっと足を進ませて彼女の方へと歩いていく。それでもやはり反応はない。水たまりに足が浸る。石畳が軋む。隙間から生えた雑草を踏み、彼女の傍へと進んでいく。
そうして玉藻姐の隣へと来たときオレは傘の下へと彼女を招いた。
「…」
だが玉藻姐は先程と同じように反応を見せない。意識がないのではないかと勘違いしてしまうほど何も応じてはくれない。
「…玉藻姐、風邪ひくって。せめて傘ぐらいは…」
「少し……」
とても小さな声。雨音にかき消されそうなほど小さく偶然聞き取れたようなものだったがしっかりと届いた。
オレはできるだけ優しい声で応じる。
「何?」
「…少し、一人に……してくれ………」
「…」
雨に濡れてすでに着物はずぶ濡れだ。九本生えた尻尾も頭の上に生えた耳も、乱れのない金色の長髪もなにもかもが濡れている。それなら体は当然冷えているはずだ。
―切なくて、泣きたくて、だけど一人になりたくて。
雨の寒さで誤魔化せるものだろうか。
雨の滴で紛らわせるものだろうか。
ただ一人になったからといって抱え込んでいるだけで解決できるはずがない。
「玉藻姐、もう行こう」
オレは思わず彼女の手を握り、自分の傘の方へと引っ張る。彼女はたやすく体のバランスを崩して傘の下に収まった。
―…冷たい。
白魚のように細く可憐な指先はまるで氷のようになっていた。いつも優しく撫でてくれた手のひらはこれ以上ないほど冷え切っていた。
―こんなになるまで雨の下に居て…まだ一人になりたいなんて……。
玉藻姐が一人になりたいというのならその通りにするべきだろう、そう思っていたがだめだ。こんな姿の玉藻姐を一人放っておくことなどできない。
湿った服から雨水が染み込んでくる。冷えた肌から滴っては九つの尻尾からもあふれ出す。
これでは服を着たまま水に入ったようなものだ。早く帰って着替えさせる―いや、それよりも風呂に入らせないと。
そう思っていたオレの腕の中でもぞりと動く玉藻姐。何かを言いたいのか顔を耳元へと寄せてくる。応じるように耳を澄ませると届いた声は―
「一人にさせろと…言ったはずじゃぞ…?」
―ぞっとするほど冷たい声だった。
次の瞬間九本の尻尾が膨らんだ。全ての毛が逆立って雨水が弾け飛ぶ。勢いに押されるように腕の中から飛び出すと青白い光が指先で散った。
「いっ」
まるで静電気が走ったような痛みに顔をしかめた。その間に玉藻姐はオレの傍から離れて距離をおく。
「なに、を…!?」
「昔からそうじゃったな…儂がやめろと言ってもやめんで、千歳に諭されてようやく離れて…」
だらりと垂れさがった腕。力なく俯いた顔。それでもはっきり見えるのは。
「甘えたがりで、我儘で…成長してもなんらかわらんで…」
濡れた髪の毛の間から金色に輝く二つの瞳。
「本当に…―」
闇夜の中でぎらつく二つの瞳。野獣のごとく鋭い眼光はオレを捉えて離さない。威嚇するように尻尾は膨れ上がり怒気を表すように髪の毛が逆立つ。
真正面にいるオレはまるで獣に狙われる獲物の気分だった。
「―鬱陶しいのぅ」
次の瞬間地面が崩れ去った。
「は?嘘…っ!?」
当然ながら足元は土だ。表面に草木の生えたものだ。その地面が今は奈落の如く崩れ去っていく。草が散り、石が落ち、雨粒が飲み込まれていく。
「儂を、一人にさせろ…」
冷たい言葉を聞きながらオレの体は雨粒のように闇に引きずり込まれていく。見上げた先にいる玉藻姐はオレを冷たい目で一瞥すると背を向け社へと消えていくのだった。
「……んぁ?」
冷たい地面の感触に瞼を開く。頬を撫でゆく風を感じ体を起こして見回すと先ほどと変わらない社の前だった。
「…?」
首をかしげて改めてあたりを見回す。先ほど地面が崩れ去ったのは幻覚だったのだろうか。そんな風に思って立ちあがった。
雨は降っていない。そよ風程度に風が吹いている。やや肌寒いが温かい気温に眩しい日差し。
…日差し?ということはオレは一晩雨の降る野外で眠っていたということだろうか。
それにしては服は濡れていない。体もだるくないし、熱が出ているわけでもないいつも通りの体調だ。
一体何が起こってるのかさっぱりわからない。わかっているのはせいぜいオレは今社の前にいるということ。古ぼけながらも玉藻姐がよく訪れていた場所にいて―
「んん?」
改めて社を見て違和感を抱いた。
朽ちた様子のない社。建てられかなり年月は経っているのだろうがオレの見たものよりかはまだまだ建物としての役割を担えている。それを中心に建てられていた九本の柱は蜘蛛の巣のように綱を張り巡らせ、祭りの提灯の如く札が吊り下げられていた。
―まるで中央の社に何かを閉じ込めるように。
建て直された?一晩で?それもあんな使い込んだ木材やら壁で?さらにはこの奇怪な札までとりつけるか?
そんなことはありえない。やる意味がわからない。
そういえば毎年見ていたから驚かなくなったが玉藻姐の尻尾は九本あった。
―九本の尻尾を持つ狐
昔話でもあるように災厄だとか化け物の類に分類される九尾の存在。よくよく考えると玉藻姐はそれと同じなのかもしれない。
もしそうだとすればこんな荒唐無稽も納得してしまう。人間では測れない存在なんだ、オレの常識が追い付くはずがない。
そんな風に考えているとまだひびも入ってない石段から誰かが歩いてくる音が聞こえた。そちらへ視線を向けると現れたのは―
「―あ、あやか!?」
オレの双子の姉の姿。ただ着こんでいるのは見たこともない黒い巫女装束。背中には見覚えのある花を象った紋が刻まれていた。
見たこともない姿で彼女はオレの横を歩いていく。この距離だ、声が聞こえなかったというわけではないだろう。
だがちらりと見えたあの顔はあやかと全く同じだった。
―いや、違う。
本当に同じなら双子の弟であるオレがわからないわけがない。十八年間生きてきてずっとともに育った片割れともいえる存在なのだから見破れないわけがない。
何よりオレのあやかはあんな―揺れる胸なんてついていない。巫女装束という体の線の分かりにくい服だが確かに二つの膨らみができている。年相応というよりも少し大きい部類にはいるだろう。
なら…誰だ?
ドッペルゲンガーというものがいるがあれは寓話の類のはず。いや、尻尾が九本ある玉藻姐がそっちの類にいるのだがそれでも、これほど似た人間がこの場所にいるだろうか。
―いや………違う。
巫女装束の背中に縫われたあの紋章。それからあの顔とこの場所との関連性。それをまとめて導き出す答えは一つしかない。
―もしかしてあれ…おばあちゃん?
そうだとは思えないがあの背中の紋は紛れもない黒崎家の家紋だ。昔は毎日家で見ていたから間違えるわけがない。
だとしたら…なぜおばあちゃんがここにいる?
そしてオレは…いったいどこへ来てしまったのだろう。
彼女は社へと近づいていく。片手で何かを持っているが包みに入っているため何かはわからない。
「お狐様ー!」
よく通る声がこちらまで響き彼女は社の中へと向かっていく。木製の格子には重く頑丈そうな鍵がついているのだが…いや、それ以前にあんな場所に誰かいるのだろうか。
「…うるさいのぅ。何の用じゃ?」
格子から覗く金色の瞳。遠く離れていてもわかるその瞳には見覚えがある。奥から響いてきた低く唸るような声にも聞き覚えがある。
狭い空間で大きな九本の尻尾を揺らすのは一人の女性。
紛れもない玉藻姐だった。
「…龍の巫女か」
―…巫女?
おばあちゃんを見つけた玉藻姐は面倒臭そうに呟くと格子の隙間から細い腕を伸ばしてきた。白魚のような指先が誘うように動く。
「こちらへ来い…その柔らかな肉を食ろうてやるぞ?」
けたけたと可笑しそうに笑う九尾。だが巫女と呼ばれた彼女は警戒することなく彼女のもとへと近づいて行った。怖がることもなく格子から伸びた手の届く範囲に座り込む。
流石にこれにはオレも玉藻姐も面食らった。
「……よく近づいてこれるのぅ。儂が誰だかわかっておるのか?」
「お狐様」
「狐は狐じゃが…九尾じゃぞ?ぬしら人間の恐れる妖狐じゃぞ?」
「お狐様のこと皆悪く言ってるけど私は知ってるよ。お狐様はいい人だって」
「儂は人ではないがのぅ」
「ちょっと悪戯好きな狐だって、知ってるよ」
「い、悪戯好き?」
…どうやらあれがおばあちゃんで間違いないらしい。というか、随分と危険な真似をする女性だ。
オレの知ってる玉藻姐は優しく面倒見のいい女性だがこの時には大分荒れていたらしい。しかも九尾である。そんな女性へと無防備に近づくとは危なっかしいったらありゃしない。
―だからこそ、玉藻姐はおばあちゃんのことが大切なのだろう。
荒れた心を撫でるような声色は、乾いた気持ちを潤すような眼差しはさぞ安らぐことだろう。
おばあちゃんは格子の前に座ると持っていた包みを玉藻姐へと差し出した。
「なんじゃこれは?」
「お昼ごはんだよ。折角だからお狐様と一緒に食べたいと思って」
「…ぬしは龍姫の巫女じゃろうが。それなら彼奴と共に食べればいい。こんな札だらけの社より向こうはさぞ心地よかろう」
「嫌だよ。向こうだと皆して龍姫様を崇めてどんちゃん騒ぎでうるさいったらありゃしないよ。私はこっちの静かな方が好きなの」
「かっかっか…随分と勝手な人間じゃのぅ」
同感だ。まるでどこかの暴君を見ているかのようだ。
あまりにも勝手。だけど、どこか優しい。オレのしらないおばあちゃんの姿。
彼女は手元の包みを開く。そこに現れたのは狐色をした油揚げの塊だった。
「稲荷寿司か」
「半分あげよっか?」
「供物ならすべて差し出すものじゃろう?」
「お供え物なんて持ってないからいらないってこと?」
「冗談じゃよ。少し分けてくれ」
「はい」
二人のやり取りは見ていて微笑ましい光景だった。
人間の少女と妖狐の女性。巫女と九尾の会話はそこらの女の子の日常と大差ないもの。壁のない普通の友人同士のようなものだった。
「……」
なんというか不思議なものだ。
おばあちゃんと玉藻姐が仲がいいのは昔から知っている。お互いがお互いを大切に思っていることもわかってる。だけどその原因がこんなものだったとは思わなかった。
片や、九尾の妖狐である玉藻姐。
片や、龍の巫女というおばあちゃん。
オレの知らない二人の姿に、知らない事実。
髪を崇めていた人々と、遠ざけるように建てられたこの社。
どれも教えてもらったことのないものばかり。おばあちゃんも玉藻姐も、おじいちゃんや先生やお父さんだって教えてくれなかったことだ。
それだけ言いたくなかったことなのか、教えたくなかったことなのか、秘密にしておきたいことだったのか、わからない。
「…え?」
そんな風に考えているとあたりの景色が一瞬にして変わってしまった。まるで風が吹き抜けるように光は消え去り、再び目に映ったのは秋景色だった。
瑞々しい緑色の葉は紅葉へと移り変わり、やや冷たい冬を間近に感じさせる風が頬を撫でていく。社の周りに建っていた九つの柱はそのままに、だがまるで祭りの提灯のように下げられていた札はすべてが取り払われていた。
そんな空間の中央の社に二人はいた。
外見は変わることない九本の尻尾を持った玉藻姐。
その隣に座るのは大分歳をとった皺のあるおばあちゃん。オレ達の知ってる、甘えさせてくれた姿だ。
「…マジ、か」
その姿を見ると切なくなる。鼻の奥がつんとして目の前がゆがむほどに。
オレの声なんて届かないと知っていても、話しかけたところで言葉は帰ってこなくても心が締め付けられる。
だが、玉藻姐が感じているのはオレとは比べ物にならないだろう。オレと彼女では過ごしてきた日々が違う。共に生きてきた時間の長さが違う。
おばあちゃんとの思い出の量が、違う。
オレが今見ている光景は…玉藻姐にとって心に深く残ったことだろう。先ほど見たのが二人の出会いだというのなら今見ているのは同じほど印象深いことだったに違いない。
ほぅっと小さく息を吐き出した玉藻姐は正面を向いたまま口を開いた。
「大分ここらも静かになったのぅ」
「皆…もういないですからねぇ」
「龍姫すら残して出ていくとは…薄情な者どもじゃ」
「そういうことを言ってはいけませんよ」
柔らかな笑みで手を擦り合わせるおばあちゃん。どうやら秋の風は彼女にとって少々体にくるらしい。そんなおばあちゃんを見ていた玉藻姐は臀部から伸びる尻尾で手を包み込んだ。
「ありがとうございます」
「この程度礼を言われるまでもないわ。礼よりも……儂はあやまらんといけないのじゃから」
「そのようなこと、もう気にしなくていいんですよ。皆がここを出て行ったのは貴方様のせいではありません」
「誤魔化すでない。儂がそれくらいわからんわけがなかろうが」
紡いだ言の葉はオレの知らないことであり、二人を繋ぐ優しくも切ない事実。
「千歳が皆を説得しなければ儂はここから出られんかった」
―龍の巫女というのはそれだけ皆へ権限を持っていたのだろうか。
「千歳が儂を出さなければ…皆千歳の傍を離れなかった」
―九尾の妖狐というのはそれだけ皆に脅威なものだったのだろうか。
「皆…千歳を好いていたのに儂を救ったせいで見捨てられるとは……これでは儂は…ただの疫病神じゃのぅ」
自嘲気味に笑う玉藻姐におばあちゃんは何も言えなかった。聞こえるのは冷たい風が唸る音だけだ。
金色の髪が揺れる。乾いた音と共に紅葉が一枚二人の前で舞い落ちる。そうして玉藻姐は大きくため息をついた。
「…だめじゃのぅ。二人っきりになると儂はずっとこの話しかできん。ぬしに、詫びることしかできんわ…」
「玉藻様…」
「いまだに様を付けて呼んでくれるのぅ。儂は龍姫のような神ではないのじゃぞ?神だとしてもぬしにとっての…疫病神じゃぞ…」
「私にとって玉藻様は玉藻様ですよ。昔も今も、何ら変わりありません。悪戯好きで油揚げの好きなお狐様です」
「かっかっか…懐かしいことを言ってくれるわ」
そこへ、重い空気をぶち壊す様にとてとてと二つの小さな影が背後から玉藻姐に抱きついた。
「突撃ー!」
「とつげきー!」
「わっ!?」
九本の尻尾に頭からぶつかっていく二つの影。潜り込んで顔をぐしぐしと押し付けるのを見ておばあちゃんは小さく笑っていた。
「こやつらっ」
器用に尻尾だけで絡め取る。すると二つの影はきゃっきゃと嬉しそうに笑った。
対して玉藻姐は呆れたようにため息をつく。
「また人の尻尾で遊びおって」
「たまもおねえちゃん」
「たまもねぇー」
共に黒い和服を着こんだ子供。年齢は三か四ほどの小さな二人。特徴的なのは日本人らしい黒髪と黒目と共に似通った顔立ち。髪の毛を結っている片方が女の子ならもう片方は男の子だろう。
間違いない。あれは―オレとあやかだ。
「毎回やめろと言っておるのがわからんのか?」
「だってたまもおねえちゃんのしっぽきもちいいんだもん」
「そうだよ。たつきねぇのはかたくってつめたいんだよ」
「こら、二人とも。そんなことを言っちゃいけないよ」
そう言って怒られるオレとあやか。だけどその声は優しいもの。オレ達が好きだったものだ。
「かっかっか。こんなことを言われては龍もさぞ落ち込むことじゃろうな」
「玉藻様もそのようなことを言ってはいけませんよ」
「別によかろう。彼奴は昔から敬われておるのじゃ、少しは貶されてもいいじゃろうて」
尻尾に巻かれたオレ達はそのまま玉藻姐の膝の上に落とされる。そしてあやすように首を、体を尻尾が撫でた。
「くすぐったーいっ♪」
「もふもふするー♪」
「こうされるのがいいんじゃろう?まったく」
先ほどとは打って変わって幼子を愛でるような表情を浮かべ笑う玉藻姐。その様子を見るに既に昔の毒気が抜けているらしい。
白く白魚のような指先が頬を優しく撫でると彼女は隣のおばあちゃんを見た。
「まったく…儂らに子供を任せて自分は仕事かのぅ。あの小僧も偉くなったもんじゃ」
「私たちのいた頃に比べて大分変ってきましたからね」
「…そうじゃな」
撫でる指先が動きを止める。紡いだ言葉が止まる。やや冷たい風が二人の間を吹きぬけ金色の髪の毛が靡いた。
玉藻姐の目は細められている。視線はまっすぐオレを見ているのだがその瞳には映っていない。ここはオレの知らない彼女の過去なのだから当然だ。
隣のおばあちゃんは変わらず笑みを浮かべている。優しくて、温かいオレ達がよく知る大好きな顔だ。
互いに無言。響くのは風の音とじゃれあう幼いオレとあやかの声。年相応の高い声色をききながら玉藻姐はゆっくりと口を開いた。
「千歳、ぬしは……大分老いたな」
腕の中のオレとあやかを見て、続いておばあちゃんを見て彼女はそう言った。
「ええ。もう私たちが会って70年近くは経ちますからねぇ」
「70年か……それだけ過ぎれば流石に老いるのぅ」
「私は人間ですからねぇ。先に逝ってしまったあの人も同じ人間ですから」
それは―おじいちゃんの事だろう。
おばあちゃん同様に優しくて、だけどおばあちゃん以上に厳しくて、それでもオレもあやかも大好きだった人だ。
「私もそのうちぽっくりと逝ってしまいますよ。きっと向こうで寂しがってるあの人に連れて行かれるかもしれませんね」
「そんなことを言うではない。そうなったら…こやつらが悲しむぞ。こやつらだけではない、龍姫たちも、きっと泣くぞ」
当然その中には自分のことも入っているのだろう。そして優しいおばあちゃんのことだ、それがわからなかったわけがない。
「…すいません」
だけどおばあちゃんの答えは―拒絶だった。
「儂と共には…おれんのか」
「玉藻様。私では貴方様の隣に立つに相応しくはありませんよ」
「儂の傍にいるくせにか…」
「えぇ…」
「…龍姫の巫女だから彼奴の傍が相応しいというのかのぅ?」
「いいえ。私は所詮人間で…ただの女ですからねぇ。過ぎる時間には抗えません」
「共に生きる術を与えてやるぞ?老いることもなく生きることができるぞ?それでもなのかのぅ?」
「ええ」
「…儂をこの社から救っておいてか」
「…私では貴方様を幸せにはできません。きっと、私以上に大切な方ができますよ。その方なら貴方様を幸せにしてくれることでしょう」
「勝手じゃのぅ。真に…勝手じゃ」
「ふふっ。お互い様ですよ。女は、勝手なものですからねぇ」
そこに見えたのは先ほど見た、おばあちゃんの昔の面影。自分勝手で、だけど優しい可憐な少女性格が垣間見えた。
しかし玉藻姐は小さく笑う。自分を嘲るように。
「こんな化け狐にそのような者が現れるわけないじゃろうが。まったくぬしは勝手じゃよ……昔と変わらず…勝手すぎるわ…………」
玉藻姐は泣きはしなかった。みっともなく喚きもしなかった。
だけど優しいおばあちゃんの拒絶はさぞ心に響いたことだろう。
―それこそ、一生残る傷となって刻まれたことだろう。
おばあちゃんがなくなってしばらくたってもその傷は癒えることはない。命日がくるたびくるたび酒に逃げ荒れるのも仕方ないことだろう。
たった十八年間しか生きていないオレには想像できるものじゃない。彼女の心にどれだけきついものだったかなんてわかるわけがない。
少なくとも―
「たまもおねえちゃん?」
―あの頃のオレには何もわかっていなかった。
「どうしたの?おなかいたいの?」
二人の会話を理解できるはずもない年端もいかなかったオレは心配そうに玉藻姐の顔を覗き込む。
「かっか……腹など、痛くないわ」
「あたま、いたいの?」
「頭でもないわ…子供が、気にするでないわ」
俯きながら小声でそう言った玉藻姐。その時のオレからしてみれば頭か腹が痛いとしか見えなかっただろう。
玉藻姐の気持ちを察することなどできなかっただろう。
だからこそ―
「よしよし」
「…っ」
オレは精一杯背伸びして玉藻姐の頭を撫でていた。いきなり撫でられたことに玉藻姐は呆気にとられてる。
いくらわからないからって大人の頭を撫でるか…昔のオレは随分と空気が読めないというか、大胆というか…子供だったのだから仕方ないのだけど。
だけどその行動の意味は。
「おばあちゃんがね、げんきのないときにやってくれるから」
大人になった今でも覚えている。
大好きだったおばあちゃんのやってくれたこと。それはオレが今日玉藻姐を慰める時にやったことと同じだ。昔も今も、オレはあまり変わらないのかもしれない。
「…げんきでた?」
「……かっかっか、こやつめっ」
顔を上げた玉藻姐は笑いながら尻尾でオレのことをくすぐる。それをきゃっきゃと喜ぶオレの姿と隣で笑うおばあちゃんの姿。それから放っておかれて面白くなさそうなあやかの姿。
玉藻姐にとって忘れることのできないこの思い出は―オレにとっても忘れることのできないもの。
「―…っ」
思わずその四人へ一歩踏み出した―その時。
「―…ぁあ?」
オレは目を覚ました。頬を濡らす水滴を感じながら体を起こすと服が雨水でずぶ濡れになっていたことに気付く。どうやら長い時間ここで気を失っていたらしい。
「…」
傍に落ちていた傘を拾わずにオレはあたりを見回し、社を見据えた。
先ほどとはやはり違う風景。時間は夜だし雨も降っている。九本の柱は朽ち、社の木材は腐りかけている。
なら今見たことは幻覚か夢だったのだろうか。…いや、あれほどリアルな幻覚があるはずない。
あれはきっと玉藻姐にとって深く心に残ってる思い出だ。
それだけ彼女の心にそれだけ深い傷が残っていたことだろう。
出会いと拒絶。
何気ない日常の一端と思いの丈をぶちまけた日の事。
彼女は悔いていたのだろう。あの日々を、おばあちゃんとの出会いを。
悔いて、泣いて、叫んで、嘆いて。
ずっと一緒に居たかったから。
ずっと傍で笑ってほしかったから。
だから玉藻姐はずっと泣いている。
この場所で、昔から共に過ごしていたこの社で。
「玉藻姐…」
きっと彼女は社の中にいるはずだ。昔おばあちゃんが来たことを思いかえしているに違いない。当然もうおばあちゃんはいない。だからこそ思い出の地に縋り付きたいのだろう。
「…ああ、まったく」
あやかには危ないなどと言われたがやはり見捨てるわけにはいかない。明日はいつも通りの玉藻姐に戻るといわれても放っておくことなどできない。
「仕方ないか」
今度会いに行けばさらにひどいことになるのは目に見えてる。きっとひっぱたかれる程度じゃ済まないだろう。
それでも行くことしか考えられない自分に呆れながらもオレは彼女のいるだろう社へ足を進めるのだった。
一つは山の奥に作られた桜の木の下のお墓。墓石の下に眠っているのは当然おばあちゃんとおじいちゃんの二人だ。今日は傘をさしながら玉藻姐も一緒に行ったのだから二度も行くとは思えない。
それ以上に可能性があるとすればもうひとつの場所。昔おばあちゃんから教えられたいたずら好きの神様がいるという場所。
黒崎家の北にある龍を奉った神社。その反対側、南に対なすように建てられた社。奉られているのは―
―『狐の神様』
いくつもの割れた石段を駆け上がったその先には大きく開けた空間があった。誰も管理していないのか雑草が生え、立派だった石灯籠は倒れている。特徴的な九つの柱が建てられたその中心には大きな社があった。
建設された時から大分過ぎたのか材木は傷み、板は腐り、ところどころ欠けている。壁にはヒビが入り、取り付けられていた鍵は跡を残してどこかに失せている。ここは誰も参拝に来ない廃れた場所だった。
その社の前に。
オレのいる石段の前に。
二つを挟んだ中間地点に玉藻姐はいた。
暗がりでもわかるくらいにずぶ濡れになった姿。臀部から生やした尻尾も水気を吸って重そうに垂れている。それでも彼女はその場から動かず空を見つめ続けていた。
「玉藻姐」
雨音にかき消されないように呼びかけるが頭の上に生えた耳は動かない。聞こえていないのか、聞いていないのか、オレにはわからない。
そっと足を進ませて彼女の方へと歩いていく。それでもやはり反応はない。水たまりに足が浸る。石畳が軋む。隙間から生えた雑草を踏み、彼女の傍へと進んでいく。
そうして玉藻姐の隣へと来たときオレは傘の下へと彼女を招いた。
「…」
だが玉藻姐は先程と同じように反応を見せない。意識がないのではないかと勘違いしてしまうほど何も応じてはくれない。
「…玉藻姐、風邪ひくって。せめて傘ぐらいは…」
「少し……」
とても小さな声。雨音にかき消されそうなほど小さく偶然聞き取れたようなものだったがしっかりと届いた。
オレはできるだけ優しい声で応じる。
「何?」
「…少し、一人に……してくれ………」
「…」
雨に濡れてすでに着物はずぶ濡れだ。九本生えた尻尾も頭の上に生えた耳も、乱れのない金色の長髪もなにもかもが濡れている。それなら体は当然冷えているはずだ。
―切なくて、泣きたくて、だけど一人になりたくて。
雨の寒さで誤魔化せるものだろうか。
雨の滴で紛らわせるものだろうか。
ただ一人になったからといって抱え込んでいるだけで解決できるはずがない。
「玉藻姐、もう行こう」
オレは思わず彼女の手を握り、自分の傘の方へと引っ張る。彼女はたやすく体のバランスを崩して傘の下に収まった。
―…冷たい。
白魚のように細く可憐な指先はまるで氷のようになっていた。いつも優しく撫でてくれた手のひらはこれ以上ないほど冷え切っていた。
―こんなになるまで雨の下に居て…まだ一人になりたいなんて……。
玉藻姐が一人になりたいというのならその通りにするべきだろう、そう思っていたがだめだ。こんな姿の玉藻姐を一人放っておくことなどできない。
湿った服から雨水が染み込んでくる。冷えた肌から滴っては九つの尻尾からもあふれ出す。
これでは服を着たまま水に入ったようなものだ。早く帰って着替えさせる―いや、それよりも風呂に入らせないと。
そう思っていたオレの腕の中でもぞりと動く玉藻姐。何かを言いたいのか顔を耳元へと寄せてくる。応じるように耳を澄ませると届いた声は―
「一人にさせろと…言ったはずじゃぞ…?」
―ぞっとするほど冷たい声だった。
次の瞬間九本の尻尾が膨らんだ。全ての毛が逆立って雨水が弾け飛ぶ。勢いに押されるように腕の中から飛び出すと青白い光が指先で散った。
「いっ」
まるで静電気が走ったような痛みに顔をしかめた。その間に玉藻姐はオレの傍から離れて距離をおく。
「なに、を…!?」
「昔からそうじゃったな…儂がやめろと言ってもやめんで、千歳に諭されてようやく離れて…」
だらりと垂れさがった腕。力なく俯いた顔。それでもはっきり見えるのは。
「甘えたがりで、我儘で…成長してもなんらかわらんで…」
濡れた髪の毛の間から金色に輝く二つの瞳。
「本当に…―」
闇夜の中でぎらつく二つの瞳。野獣のごとく鋭い眼光はオレを捉えて離さない。威嚇するように尻尾は膨れ上がり怒気を表すように髪の毛が逆立つ。
真正面にいるオレはまるで獣に狙われる獲物の気分だった。
「―鬱陶しいのぅ」
次の瞬間地面が崩れ去った。
「は?嘘…っ!?」
当然ながら足元は土だ。表面に草木の生えたものだ。その地面が今は奈落の如く崩れ去っていく。草が散り、石が落ち、雨粒が飲み込まれていく。
「儂を、一人にさせろ…」
冷たい言葉を聞きながらオレの体は雨粒のように闇に引きずり込まれていく。見上げた先にいる玉藻姐はオレを冷たい目で一瞥すると背を向け社へと消えていくのだった。
「……んぁ?」
冷たい地面の感触に瞼を開く。頬を撫でゆく風を感じ体を起こして見回すと先ほどと変わらない社の前だった。
「…?」
首をかしげて改めてあたりを見回す。先ほど地面が崩れ去ったのは幻覚だったのだろうか。そんな風に思って立ちあがった。
雨は降っていない。そよ風程度に風が吹いている。やや肌寒いが温かい気温に眩しい日差し。
…日差し?ということはオレは一晩雨の降る野外で眠っていたということだろうか。
それにしては服は濡れていない。体もだるくないし、熱が出ているわけでもないいつも通りの体調だ。
一体何が起こってるのかさっぱりわからない。わかっているのはせいぜいオレは今社の前にいるということ。古ぼけながらも玉藻姐がよく訪れていた場所にいて―
「んん?」
改めて社を見て違和感を抱いた。
朽ちた様子のない社。建てられかなり年月は経っているのだろうがオレの見たものよりかはまだまだ建物としての役割を担えている。それを中心に建てられていた九本の柱は蜘蛛の巣のように綱を張り巡らせ、祭りの提灯の如く札が吊り下げられていた。
―まるで中央の社に何かを閉じ込めるように。
建て直された?一晩で?それもあんな使い込んだ木材やら壁で?さらにはこの奇怪な札までとりつけるか?
そんなことはありえない。やる意味がわからない。
そういえば毎年見ていたから驚かなくなったが玉藻姐の尻尾は九本あった。
―九本の尻尾を持つ狐
昔話でもあるように災厄だとか化け物の類に分類される九尾の存在。よくよく考えると玉藻姐はそれと同じなのかもしれない。
もしそうだとすればこんな荒唐無稽も納得してしまう。人間では測れない存在なんだ、オレの常識が追い付くはずがない。
そんな風に考えているとまだひびも入ってない石段から誰かが歩いてくる音が聞こえた。そちらへ視線を向けると現れたのは―
「―あ、あやか!?」
オレの双子の姉の姿。ただ着こんでいるのは見たこともない黒い巫女装束。背中には見覚えのある花を象った紋が刻まれていた。
見たこともない姿で彼女はオレの横を歩いていく。この距離だ、声が聞こえなかったというわけではないだろう。
だがちらりと見えたあの顔はあやかと全く同じだった。
―いや、違う。
本当に同じなら双子の弟であるオレがわからないわけがない。十八年間生きてきてずっとともに育った片割れともいえる存在なのだから見破れないわけがない。
何よりオレのあやかはあんな―揺れる胸なんてついていない。巫女装束という体の線の分かりにくい服だが確かに二つの膨らみができている。年相応というよりも少し大きい部類にはいるだろう。
なら…誰だ?
ドッペルゲンガーというものがいるがあれは寓話の類のはず。いや、尻尾が九本ある玉藻姐がそっちの類にいるのだがそれでも、これほど似た人間がこの場所にいるだろうか。
―いや………違う。
巫女装束の背中に縫われたあの紋章。それからあの顔とこの場所との関連性。それをまとめて導き出す答えは一つしかない。
―もしかしてあれ…おばあちゃん?
そうだとは思えないがあの背中の紋は紛れもない黒崎家の家紋だ。昔は毎日家で見ていたから間違えるわけがない。
だとしたら…なぜおばあちゃんがここにいる?
そしてオレは…いったいどこへ来てしまったのだろう。
彼女は社へと近づいていく。片手で何かを持っているが包みに入っているため何かはわからない。
「お狐様ー!」
よく通る声がこちらまで響き彼女は社の中へと向かっていく。木製の格子には重く頑丈そうな鍵がついているのだが…いや、それ以前にあんな場所に誰かいるのだろうか。
「…うるさいのぅ。何の用じゃ?」
格子から覗く金色の瞳。遠く離れていてもわかるその瞳には見覚えがある。奥から響いてきた低く唸るような声にも聞き覚えがある。
狭い空間で大きな九本の尻尾を揺らすのは一人の女性。
紛れもない玉藻姐だった。
「…龍の巫女か」
―…巫女?
おばあちゃんを見つけた玉藻姐は面倒臭そうに呟くと格子の隙間から細い腕を伸ばしてきた。白魚のような指先が誘うように動く。
「こちらへ来い…その柔らかな肉を食ろうてやるぞ?」
けたけたと可笑しそうに笑う九尾。だが巫女と呼ばれた彼女は警戒することなく彼女のもとへと近づいて行った。怖がることもなく格子から伸びた手の届く範囲に座り込む。
流石にこれにはオレも玉藻姐も面食らった。
「……よく近づいてこれるのぅ。儂が誰だかわかっておるのか?」
「お狐様」
「狐は狐じゃが…九尾じゃぞ?ぬしら人間の恐れる妖狐じゃぞ?」
「お狐様のこと皆悪く言ってるけど私は知ってるよ。お狐様はいい人だって」
「儂は人ではないがのぅ」
「ちょっと悪戯好きな狐だって、知ってるよ」
「い、悪戯好き?」
…どうやらあれがおばあちゃんで間違いないらしい。というか、随分と危険な真似をする女性だ。
オレの知ってる玉藻姐は優しく面倒見のいい女性だがこの時には大分荒れていたらしい。しかも九尾である。そんな女性へと無防備に近づくとは危なっかしいったらありゃしない。
―だからこそ、玉藻姐はおばあちゃんのことが大切なのだろう。
荒れた心を撫でるような声色は、乾いた気持ちを潤すような眼差しはさぞ安らぐことだろう。
おばあちゃんは格子の前に座ると持っていた包みを玉藻姐へと差し出した。
「なんじゃこれは?」
「お昼ごはんだよ。折角だからお狐様と一緒に食べたいと思って」
「…ぬしは龍姫の巫女じゃろうが。それなら彼奴と共に食べればいい。こんな札だらけの社より向こうはさぞ心地よかろう」
「嫌だよ。向こうだと皆して龍姫様を崇めてどんちゃん騒ぎでうるさいったらありゃしないよ。私はこっちの静かな方が好きなの」
「かっかっか…随分と勝手な人間じゃのぅ」
同感だ。まるでどこかの暴君を見ているかのようだ。
あまりにも勝手。だけど、どこか優しい。オレのしらないおばあちゃんの姿。
彼女は手元の包みを開く。そこに現れたのは狐色をした油揚げの塊だった。
「稲荷寿司か」
「半分あげよっか?」
「供物ならすべて差し出すものじゃろう?」
「お供え物なんて持ってないからいらないってこと?」
「冗談じゃよ。少し分けてくれ」
「はい」
二人のやり取りは見ていて微笑ましい光景だった。
人間の少女と妖狐の女性。巫女と九尾の会話はそこらの女の子の日常と大差ないもの。壁のない普通の友人同士のようなものだった。
「……」
なんというか不思議なものだ。
おばあちゃんと玉藻姐が仲がいいのは昔から知っている。お互いがお互いを大切に思っていることもわかってる。だけどその原因がこんなものだったとは思わなかった。
片や、九尾の妖狐である玉藻姐。
片や、龍の巫女というおばあちゃん。
オレの知らない二人の姿に、知らない事実。
髪を崇めていた人々と、遠ざけるように建てられたこの社。
どれも教えてもらったことのないものばかり。おばあちゃんも玉藻姐も、おじいちゃんや先生やお父さんだって教えてくれなかったことだ。
それだけ言いたくなかったことなのか、教えたくなかったことなのか、秘密にしておきたいことだったのか、わからない。
「…え?」
そんな風に考えているとあたりの景色が一瞬にして変わってしまった。まるで風が吹き抜けるように光は消え去り、再び目に映ったのは秋景色だった。
瑞々しい緑色の葉は紅葉へと移り変わり、やや冷たい冬を間近に感じさせる風が頬を撫でていく。社の周りに建っていた九つの柱はそのままに、だがまるで祭りの提灯のように下げられていた札はすべてが取り払われていた。
そんな空間の中央の社に二人はいた。
外見は変わることない九本の尻尾を持った玉藻姐。
その隣に座るのは大分歳をとった皺のあるおばあちゃん。オレ達の知ってる、甘えさせてくれた姿だ。
「…マジ、か」
その姿を見ると切なくなる。鼻の奥がつんとして目の前がゆがむほどに。
オレの声なんて届かないと知っていても、話しかけたところで言葉は帰ってこなくても心が締め付けられる。
だが、玉藻姐が感じているのはオレとは比べ物にならないだろう。オレと彼女では過ごしてきた日々が違う。共に生きてきた時間の長さが違う。
おばあちゃんとの思い出の量が、違う。
オレが今見ている光景は…玉藻姐にとって心に深く残ったことだろう。先ほど見たのが二人の出会いだというのなら今見ているのは同じほど印象深いことだったに違いない。
ほぅっと小さく息を吐き出した玉藻姐は正面を向いたまま口を開いた。
「大分ここらも静かになったのぅ」
「皆…もういないですからねぇ」
「龍姫すら残して出ていくとは…薄情な者どもじゃ」
「そういうことを言ってはいけませんよ」
柔らかな笑みで手を擦り合わせるおばあちゃん。どうやら秋の風は彼女にとって少々体にくるらしい。そんなおばあちゃんを見ていた玉藻姐は臀部から伸びる尻尾で手を包み込んだ。
「ありがとうございます」
「この程度礼を言われるまでもないわ。礼よりも……儂はあやまらんといけないのじゃから」
「そのようなこと、もう気にしなくていいんですよ。皆がここを出て行ったのは貴方様のせいではありません」
「誤魔化すでない。儂がそれくらいわからんわけがなかろうが」
紡いだ言の葉はオレの知らないことであり、二人を繋ぐ優しくも切ない事実。
「千歳が皆を説得しなければ儂はここから出られんかった」
―龍の巫女というのはそれだけ皆へ権限を持っていたのだろうか。
「千歳が儂を出さなければ…皆千歳の傍を離れなかった」
―九尾の妖狐というのはそれだけ皆に脅威なものだったのだろうか。
「皆…千歳を好いていたのに儂を救ったせいで見捨てられるとは……これでは儂は…ただの疫病神じゃのぅ」
自嘲気味に笑う玉藻姐におばあちゃんは何も言えなかった。聞こえるのは冷たい風が唸る音だけだ。
金色の髪が揺れる。乾いた音と共に紅葉が一枚二人の前で舞い落ちる。そうして玉藻姐は大きくため息をついた。
「…だめじゃのぅ。二人っきりになると儂はずっとこの話しかできん。ぬしに、詫びることしかできんわ…」
「玉藻様…」
「いまだに様を付けて呼んでくれるのぅ。儂は龍姫のような神ではないのじゃぞ?神だとしてもぬしにとっての…疫病神じゃぞ…」
「私にとって玉藻様は玉藻様ですよ。昔も今も、何ら変わりありません。悪戯好きで油揚げの好きなお狐様です」
「かっかっか…懐かしいことを言ってくれるわ」
そこへ、重い空気をぶち壊す様にとてとてと二つの小さな影が背後から玉藻姐に抱きついた。
「突撃ー!」
「とつげきー!」
「わっ!?」
九本の尻尾に頭からぶつかっていく二つの影。潜り込んで顔をぐしぐしと押し付けるのを見ておばあちゃんは小さく笑っていた。
「こやつらっ」
器用に尻尾だけで絡め取る。すると二つの影はきゃっきゃと嬉しそうに笑った。
対して玉藻姐は呆れたようにため息をつく。
「また人の尻尾で遊びおって」
「たまもおねえちゃん」
「たまもねぇー」
共に黒い和服を着こんだ子供。年齢は三か四ほどの小さな二人。特徴的なのは日本人らしい黒髪と黒目と共に似通った顔立ち。髪の毛を結っている片方が女の子ならもう片方は男の子だろう。
間違いない。あれは―オレとあやかだ。
「毎回やめろと言っておるのがわからんのか?」
「だってたまもおねえちゃんのしっぽきもちいいんだもん」
「そうだよ。たつきねぇのはかたくってつめたいんだよ」
「こら、二人とも。そんなことを言っちゃいけないよ」
そう言って怒られるオレとあやか。だけどその声は優しいもの。オレ達が好きだったものだ。
「かっかっか。こんなことを言われては龍もさぞ落ち込むことじゃろうな」
「玉藻様もそのようなことを言ってはいけませんよ」
「別によかろう。彼奴は昔から敬われておるのじゃ、少しは貶されてもいいじゃろうて」
尻尾に巻かれたオレ達はそのまま玉藻姐の膝の上に落とされる。そしてあやすように首を、体を尻尾が撫でた。
「くすぐったーいっ♪」
「もふもふするー♪」
「こうされるのがいいんじゃろう?まったく」
先ほどとは打って変わって幼子を愛でるような表情を浮かべ笑う玉藻姐。その様子を見るに既に昔の毒気が抜けているらしい。
白く白魚のような指先が頬を優しく撫でると彼女は隣のおばあちゃんを見た。
「まったく…儂らに子供を任せて自分は仕事かのぅ。あの小僧も偉くなったもんじゃ」
「私たちのいた頃に比べて大分変ってきましたからね」
「…そうじゃな」
撫でる指先が動きを止める。紡いだ言葉が止まる。やや冷たい風が二人の間を吹きぬけ金色の髪の毛が靡いた。
玉藻姐の目は細められている。視線はまっすぐオレを見ているのだがその瞳には映っていない。ここはオレの知らない彼女の過去なのだから当然だ。
隣のおばあちゃんは変わらず笑みを浮かべている。優しくて、温かいオレ達がよく知る大好きな顔だ。
互いに無言。響くのは風の音とじゃれあう幼いオレとあやかの声。年相応の高い声色をききながら玉藻姐はゆっくりと口を開いた。
「千歳、ぬしは……大分老いたな」
腕の中のオレとあやかを見て、続いておばあちゃんを見て彼女はそう言った。
「ええ。もう私たちが会って70年近くは経ちますからねぇ」
「70年か……それだけ過ぎれば流石に老いるのぅ」
「私は人間ですからねぇ。先に逝ってしまったあの人も同じ人間ですから」
それは―おじいちゃんの事だろう。
おばあちゃん同様に優しくて、だけどおばあちゃん以上に厳しくて、それでもオレもあやかも大好きだった人だ。
「私もそのうちぽっくりと逝ってしまいますよ。きっと向こうで寂しがってるあの人に連れて行かれるかもしれませんね」
「そんなことを言うではない。そうなったら…こやつらが悲しむぞ。こやつらだけではない、龍姫たちも、きっと泣くぞ」
当然その中には自分のことも入っているのだろう。そして優しいおばあちゃんのことだ、それがわからなかったわけがない。
「…すいません」
だけどおばあちゃんの答えは―拒絶だった。
「儂と共には…おれんのか」
「玉藻様。私では貴方様の隣に立つに相応しくはありませんよ」
「儂の傍にいるくせにか…」
「えぇ…」
「…龍姫の巫女だから彼奴の傍が相応しいというのかのぅ?」
「いいえ。私は所詮人間で…ただの女ですからねぇ。過ぎる時間には抗えません」
「共に生きる術を与えてやるぞ?老いることもなく生きることができるぞ?それでもなのかのぅ?」
「ええ」
「…儂をこの社から救っておいてか」
「…私では貴方様を幸せにはできません。きっと、私以上に大切な方ができますよ。その方なら貴方様を幸せにしてくれることでしょう」
「勝手じゃのぅ。真に…勝手じゃ」
「ふふっ。お互い様ですよ。女は、勝手なものですからねぇ」
そこに見えたのは先ほど見た、おばあちゃんの昔の面影。自分勝手で、だけど優しい可憐な少女性格が垣間見えた。
しかし玉藻姐は小さく笑う。自分を嘲るように。
「こんな化け狐にそのような者が現れるわけないじゃろうが。まったくぬしは勝手じゃよ……昔と変わらず…勝手すぎるわ…………」
玉藻姐は泣きはしなかった。みっともなく喚きもしなかった。
だけど優しいおばあちゃんの拒絶はさぞ心に響いたことだろう。
―それこそ、一生残る傷となって刻まれたことだろう。
おばあちゃんがなくなってしばらくたってもその傷は癒えることはない。命日がくるたびくるたび酒に逃げ荒れるのも仕方ないことだろう。
たった十八年間しか生きていないオレには想像できるものじゃない。彼女の心にどれだけきついものだったかなんてわかるわけがない。
少なくとも―
「たまもおねえちゃん?」
―あの頃のオレには何もわかっていなかった。
「どうしたの?おなかいたいの?」
二人の会話を理解できるはずもない年端もいかなかったオレは心配そうに玉藻姐の顔を覗き込む。
「かっか……腹など、痛くないわ」
「あたま、いたいの?」
「頭でもないわ…子供が、気にするでないわ」
俯きながら小声でそう言った玉藻姐。その時のオレからしてみれば頭か腹が痛いとしか見えなかっただろう。
玉藻姐の気持ちを察することなどできなかっただろう。
だからこそ―
「よしよし」
「…っ」
オレは精一杯背伸びして玉藻姐の頭を撫でていた。いきなり撫でられたことに玉藻姐は呆気にとられてる。
いくらわからないからって大人の頭を撫でるか…昔のオレは随分と空気が読めないというか、大胆というか…子供だったのだから仕方ないのだけど。
だけどその行動の意味は。
「おばあちゃんがね、げんきのないときにやってくれるから」
大人になった今でも覚えている。
大好きだったおばあちゃんのやってくれたこと。それはオレが今日玉藻姐を慰める時にやったことと同じだ。昔も今も、オレはあまり変わらないのかもしれない。
「…げんきでた?」
「……かっかっか、こやつめっ」
顔を上げた玉藻姐は笑いながら尻尾でオレのことをくすぐる。それをきゃっきゃと喜ぶオレの姿と隣で笑うおばあちゃんの姿。それから放っておかれて面白くなさそうなあやかの姿。
玉藻姐にとって忘れることのできないこの思い出は―オレにとっても忘れることのできないもの。
「―…っ」
思わずその四人へ一歩踏み出した―その時。
「―…ぁあ?」
オレは目を覚ました。頬を濡らす水滴を感じながら体を起こすと服が雨水でずぶ濡れになっていたことに気付く。どうやら長い時間ここで気を失っていたらしい。
「…」
傍に落ちていた傘を拾わずにオレはあたりを見回し、社を見据えた。
先ほどとはやはり違う風景。時間は夜だし雨も降っている。九本の柱は朽ち、社の木材は腐りかけている。
なら今見たことは幻覚か夢だったのだろうか。…いや、あれほどリアルな幻覚があるはずない。
あれはきっと玉藻姐にとって深く心に残ってる思い出だ。
それだけ彼女の心にそれだけ深い傷が残っていたことだろう。
出会いと拒絶。
何気ない日常の一端と思いの丈をぶちまけた日の事。
彼女は悔いていたのだろう。あの日々を、おばあちゃんとの出会いを。
悔いて、泣いて、叫んで、嘆いて。
ずっと一緒に居たかったから。
ずっと傍で笑ってほしかったから。
だから玉藻姐はずっと泣いている。
この場所で、昔から共に過ごしていたこの社で。
「玉藻姐…」
きっと彼女は社の中にいるはずだ。昔おばあちゃんが来たことを思いかえしているに違いない。当然もうおばあちゃんはいない。だからこそ思い出の地に縋り付きたいのだろう。
「…ああ、まったく」
あやかには危ないなどと言われたがやはり見捨てるわけにはいかない。明日はいつも通りの玉藻姐に戻るといわれても放っておくことなどできない。
「仕方ないか」
今度会いに行けばさらにひどいことになるのは目に見えてる。きっとひっぱたかれる程度じゃ済まないだろう。
それでも行くことしか考えられない自分に呆れながらもオレは彼女のいるだろう社へ足を進めるのだった。
14/01/12 21:26更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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