連載小説
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前編
一年で好きな日ってなんだろう。
それは自分の誕生日であったり、クリスマスであったり、お正月であったり大晦日であったりと人様々なことだろう。それぞれがその日を心待ちにするだけの理由があるのだから。
なら、一年で嫌いな日とはなんだろう。
これもまた人それぞれであることだろう。十人いれば皆違う答えが返ってくるに違いない。それは夏休みの終わりの日だったり、会議のある日だったりするだろう。そんな日がオレにもある。



それはオレの祖母の命日だ。










山の奥の奥、整備された道路なんてない砂利道は木々で覆われ時折獣の鳴き声が響いてくる。そんな中を歩いて進んだ先にある一つの大きな二階建ての日本家屋。現代文明から切り離されてしまったかのような別空間にあるその家こそがオレ達の父親の実家であり、祖母が亡くなるまでずっと住んでた家である。
そのある一室。広い空間でありながら特に何も置いていない、畳の敷き詰められた部屋。隣には縁側があり、ガラス戸の向こう側にはしとしとと雨が降っている。
そういえば去年も一昨年も、そのさらに前もこの日は雨が降っていたっけか。おばあちゃんの命日は全部雨が降っていた気がする。そんなことを考えながらオレは仏壇の前にいた。火のついた線香から煙が沸き立ち、蝋燭に灯った火が揺れる。傍に置いてあった鈴を鳴らすと透き通った音が静かな部屋に響いた。

「…と」

合わせていた手を下げてゆっくりと後ろへ下がる。そうして仏壇を見据えると視線の先には白黒で写された、優しい笑みを浮かべるおばあちゃんの写真があった。
忙しい両親の代わりに世話をしてくれた優しい人。時折怒られることもあったが甘やかされ、慰められることが多く、オレもオレと双子の姉のあやかも同様に大好きだった女性だ。
亡くなってから十年近く経つ今日。既になれたと思っていたがやはり寂しいと思うことはある。オレはおばあちゃん子ということだろうか。

「よっと」

立ち上がって居間へと戻ろうとしたその時、かたりと乾いた物音が聞こえてきた。
部屋を見回すが何もものが動いた様子はない。雨音、というわけでもないだろう。聞こえてきたのはこの部屋ではなく隣の部屋。それもこの家の縁側の辺り。
ああ、またかと思う。
このまま居間に行って茶菓子でも食べてるほうがいいだろう。気にするようなことではあるが、構うべきものではない。放っておけばいずれ収まることはよく知っている。
だけど、止めなければいけないことでもある。

「…仕方ないか」

オレは小さく息を吐き出しそちらへと足を進めた。部屋を出て冷たい床を歩き、角を曲がったその先でその人は縁側の窓を全開にし、両足を外へと投げ出して雨模様を眺めていた。
特徴的な金色の長い髪の毛をしたオレよりも年上の女性。すっと通った鼻筋に切れ長なこれまた金色の瞳。それから桜色の膨らんだ唇はなんとも艶やかなもので女の色気を漂わせる。それだけではなく和服を着崩して傷のない綺麗な肌を惜しげもなく晒す姿は誰もが目を奪われることだろう。体の線がわかりにくい服だというのに豊かに膨らんだ胸が目立つ。小さい頃の記憶にしか残っていないがその裸体はモデルだってかなわないほど整っていたはずだ。
オレが知る中で見た目だけはめちゃくちゃいい師匠と正しく大和撫子と呼べる先生と並ぶ美女。そんな女性が先生とおばあちゃんと共にオレやあやかを幼い頃から忙しい両親に変わって世話をしてくれた人である。

「…玉藻姐」

そっと彼女の名前を呼ぶとゆっくりとこちらへ顔を向けた。既に何杯も酒を飲んだのか頬は赤く染まり瞳は潤んでいる。
なんと魅惑的なことか。正面から見つめられればそれだけで虜になりそうなほどだ。

「…ああ、ゆうたか」

どこか気だるそうにそう言って玉藻姐は顔を戻して手元にあった酒瓶を直接煽った。そこらには既に飲み干したのだろう空になった酒瓶が七本。傍にはツマミ用の二枚皿に乗った油揚げ。
いくら酒豪で油揚げが好きな玉藻姐とはいえこれはあまりにも多すぎる。人間だったらアルコール中毒になってもおかしくないほどの量だ。

―人間なら

「…」

オレの目の前で背中を見せる玉藻姐。特に何も言うことなく雨の降る外を眺めながら酒を煽る姿を見ているとちらりちらりと視界に揺れるものがあった。それはゆらゆらと右に行けば次に左、左に行けば次に右に揺れる。まるで振り子のようなのだがそんな無機質なものではない。まるでぬいぐるみに使われていそうなもこもした表面。細い毛がいくつも生え固まった柔らかそうなそれはどう見ても玉藻姐の臀部から生えている。



―つまるところ、玉藻姐のお尻から尻尾が生えている。それも九本も。



ついでにいうと頭には三角形の耳が生えていた。
別に今更驚くことじゃない。これは今までに何度も見ている。
今日この日、おばあちゃんの命日になると先生や玉藻姐、はたまた猫の夜宵もが悲しむように元気をなくす。おばあちゃん子だったオレやあやかも同様なのだがこっちは尋常じゃないほどだ。
それだけおばあちゃんと関わりが深かったのかはわからない。それを知っているのはここに住んでいたお父さんなのだろうが既にここから出て行ってしまっている。
とにかく、きっとそういう感情の変化の原因で尻尾が出ているのだろう。もしかしたらオレの幻覚じゃないかと思ったが空になった酒瓶をどかすように動くのを見ると現実であることを認めざるを得ない。
だが普段は隠しているのだから知られたくないことなのだろう。それならばあえて指摘はしないほうがいい。明日になればまたいつも通り人の姿で何事もなかったかのように酒を煽ることだろうから。

「玉藻姐」

人間ではない姿。きっと人間の常識は当てはめられないのだろうがそれでも止めなければならないことがある。
オレは玉藻姐の隣に立つと空になった酒瓶を拾い上げた。

「いくらなんでも飲みすぎだよ。これだけ一気に飲んでたら体壊しちゃうよ」

傍に置かれていた酒瓶をそっと掴むと自分の方へ引き寄せる。中身はまだ半分ほど残っており、強烈なアルコール臭が漂ってくる。ラベルを見なくとも半端じゃない強さの酒だということはわかった。
というか、玉藻姐は普段から強いものばかりを好んで飲んでいる。つまみには油揚げというなんとも変わった飲み方だが常人ならば倒れるほどの量だって平然と飲む。
そして今の玉藻姐の傍に転がる空になった酒瓶。いくら人間でなくともこの量を一気に飲んでは体に毒だろう。それに今はまだ午前中。午後も飲むつもりならとんでもない量のアルコールを摂取することとなる。
オレは玉藻姐の手の届かない位置へと手を伸ばして酒瓶を置こうとする。

「…よこせ」

だが彼女はそれよりも早くオレの手から力ずくで奪い取った。

「…」

随分と荒れている。こんなことを他人にするような女性ではなかったというのに。普段は豪快で、だけど色っぽく、そして面倒見のいい玉藻姐とは思えない態度だ。
それだけ今日という日が玉藻姐にとって重いということだろう。
それゆえこの日は玉藻姐にとって心を狂わす日となる。

「玉藻姐…飲みすぎは体に毒だって」
「うるさい。美味いものが体に悪いわけなかろうが…」
「いや、そんなことないでしょうが。いくらお酒に強くても一日にそんなに飲むもんじゃないって」
「酒は百薬の長じゃ」
「薬もすぎれば毒なんだよ」
「……ふん」

オレの言葉にも構わず酒瓶を傾ける玉藻姐。桜色の唇が瓶の先端に添えられ白く細い喉が上下する。一度に注ぎ込んだ量が多かったのか唇の端から数滴雫が伝わり落ちた。

「んぐ……」

玉藻姐はそれを手の甲で拭う。可憐さなんてない、清楚さもないむしろさっぱりとしたかっこよさのある豪快な姿。普段の彼女らしいのだが普段纏う雰囲気とは全く違った。
色っぽい。
そんな言葉を女性にしたような男ならば誰もが惑わされてみたいと思う大人の女性。色香を惜しげもなく振りまきながらどこかセクハラオヤジみたいな言動をする、面倒見のいいお姉さん。
ときには腕を首を回して抱き寄せられ、子供の成長を楽しむように笑みを浮かべ。
ときには風呂へと手を引かれ、人前でも平気で魅了するかのように誘われる。
恥ずかしいような、困ってしまうがそれでもどことなく嬉しいそんなことをするのが玉藻姐だった。
だけど今の彼女はどうだろうか。
酒が好きだといっても取られたぐらいでここまで険悪な表情はしなかった。酔いのせいであるだろうがここまで乱暴になることなどなかった。
妖しい色を宿した瞳は今は焦点が合わず、船漕ぐように揺れる頭とともにサラサラの金髪が揺れる。それから誰もが見蕩れる美貌を備えたその顔は徐々に青白くなっていき―

―…青白く?…………え?

「…う」
「ちょっ!玉藻姐!!トイレまで待って!!!」











「…すまん」
「大丈夫だよ」

トレイで溜め込んだものを全て吐き出した玉藻姐は仏壇のある部屋の上でうつ伏せで倒れていた。どうやら相当酔っていたらしく立つことすらままならない状態らしい。九本ある尻尾もだらんと元気なく垂れている。そんな玉藻姐の傍にオレは座っていた。

「本当に、すまん…」
「だから大丈夫だって。いつもこっちが面倒見てもらってるんだから気にしないでよ」

というか毎年この日に玉藻姐は吐くまで飲む。飲兵衛の彼女が自分の限界を知らないわけじゃないだろうに。
吐くまで飲んで、酔いに酔って、そうして気を紛らわせたいのだろう。酒の飲めないオレにはどれほど効果があるのかはわからない。わかることなんてここ数年で学んだお酒を飲みすぎた人の対処ぐらいだ。
オレは先ほど持ってきた湯飲み茶碗に注いだ水を玉藻姐に差し出した。

「水持ってきたよ。飲める?」
「んぁ……」

彼女はうつ伏せの状態から手を伸ばしてオレの足を掴む。そのまま体を這って腕に届くと手のひらを見せてきた。応じる様に湯飲み茶碗を手渡すとうつ伏せでありながら器用に飲み干し、空になったそれを畳の上に転がした。
ああ、まったく仕方ない。そう思いながら転がった湯呑を部屋の端の方に置く。そうして視線を戻すと水を飲んで少し落ち着いたのかそれとも力尽きたのか玉藻姐の動きが鈍くなってきた。

「んぅ……」

ゆっくりと畳の上を這って玉藻姐がオレの膝の上に体を載せる。暖かい体温が染み込み、豊かな膨らみが押し付けられる。その感覚に思わず体が強ばってしまう。

「…た…玉藻姐」
「んん…」

唸るような声を上げて彼女は膝の上で動きを止めた。顔は伏せた故に前が見えず何かを探すように両手を突き出す。オレの腹にぶつかるとまるで抱き枕にするように両手を回してさらに体を寄せてきた。
ぐっと腹部に玉藻姐の顔が押し付けられる。それだけではなく柔らかな胸がちょうど股間の上に乗ってしまった。

「…っ!!」

男として耐え難い感触。絶世と言っても過言じゃないほどの女性の体の感触だ、年頃の高校男児ならば誰もが羨むものだろう。
だけどそんな気分にならないのは今の玉藻姐が普段と違うからだろうか。

「…玉藻姐?」
「…………」

腹部からじんわりと広がってくる湿り気。冷たいものではないものの心地いいといえるものでもない。
だけど突き放せないのはそれがなんだか分かってしまったからか。それとも玉藻姐がそんなことをするとは思わなかったからか。



―玉藻姐は泣いていた。



嗚咽を漏らさず涙を流し、声を殺して体を震わせる。
それは今まで一緒にいた彼女にしては想像つかないほどに弱々しいものだった。
お酒が好きで、油揚げをつまみにして飲んでいて。
絡むように体をくっつけて、愛でるように体を抱き寄せて。
豪快に笑い、心底楽しそうに表情を変えて。
それがオレの知ってる普段の玉藻姐だ。
だというのに今の彼女はどうだろうか。
酒に溺れ、逃げるようにまた飲んで。
寂しがるように抱きついて、悲しむように体を震わせて。
切なげに啜り泣き、侘しげに表情を歪めて。
普段と全く違う玉藻姐の姿だ。
正直見ていられない。普段を知っているからこそその姿は見ているだけで心が痛い。

「玉藻姐…」

ゆっくりとその頭を撫でてあげる。子供の頃オレがおばあちゃんにされたように。

「…ん」

そうしてやると玉藻姐はぐしぐしと顔を擦りつけ静かになった。じんわりと濡れた服は心地いいとは言えないのだがこの際仕方ない。
玉藻姐はこのまま眠ってしまうのだろうか。それならちゃんと布団を敷いてその上で眠らないと体を痛めてしまう。なら抱き上げて二階に連れて行ったほうがいいだろう。外は雨だ、こんなところにいたら体を冷やすことにもなる。
そう思って体を離そうと畳の上に手をついたその時だった。

「…………千歳…ぇ……」
「っ…」

切なげに紡がれた言の葉。悲しげに呼ばれた人の名。
その名前はオレが今まで聞いた中で一人しかいない。仏壇の奥にある白と黒により映し出された人のもの。
おばあちゃんの名前。

「…千歳ぇ……っ」

おばあちゃんの名前を寂しげに紡ぐ玉藻姐。まるで未練があったような、すがり付くような声色にオレは動きを止めてしまう。
その声にどのような感情を込めているのかわからない。
彼女が一体おばあちゃんに何を抱いていたいのかわからない。
オレの知らない玉藻姐とおばあちゃんの事。ここまで悲しむのだから相応に関わりが深かったのだろうが、話してくれと言ったところで話してくれるわけもないだろう。

「儂の傍から、行くな……千歳……ぇ」

先程のやりとりからオレがおばあちゃんではないことぐらい理解しているはずだ。それどころか今日が命日だということも理解しているはず。酒で意識が朦朧としているのか、はたまた先ほどオレのしたことがおばあちゃんを思わせたのか。
玉藻姐は縋り付くようにオレを抱きしめてすすり泣く。

―少し…嫉妬してしまう。

玉藻姐が泣いているのはおばあちゃんのことを想ってだ。それなら本当に慰められるのはオレではない。こうして撫でてあげてもおばあちゃんのとは全く違う感触がすることだろう。感じたことをなぞるようにやっているだけでは彼女の涙は止められそうにない。

―だからこそ、少し焼いてしまう。

玉藻姐の気持ちはずっとおばあちゃんに向いている。普段はオレやあやかに優しくしてくれるけどこの日だけは何をやってもこちらを見てくれない。世話を焼こうが酒の始末をしようが、慰めようが寄り添おうが気持ちは変わらない。
彼女がどんな気持ちになろうとどのような態度をとろうとそれはオレの口出すことじゃない。荒く、辛くあたられてもどうこうできるものではない。
だけど、こんなときでもこちらを見て欲しいと思ってしまうのはオレがわがままだからだろうか。
切ないのと寂しいのと、共に抱いたわずかな嫉妬。悔しいような、慰めてほしいような感情を押さえつけオレは彼女の頭を抱きしめた

「玉藻姐…」

暖かく柔らかな肌や一切の乱れない長い金髪の感触が手のひらを伝わってくる。三角の狐の耳が一瞬反応するが玉藻姐は泣き止まない。
オレは彼女の震える体を落ち着けるように背中を優しく叩く。とんとんと、幼子を寝かしつけるかのように。これもまた、おばあちゃんが昔にやってくれたことだ。

「んんぅ……」

すると玉藻姐はより一層体を抱きしめ顔を埋め、しばらくして動かなくなった。九本生えた尻尾は動くことなく畳の上に投げ出され、静かに耳をすませるとかすかな呼吸が聞こえてくる。

「…寝ちゃったか」

きっと先ほど大量の酒を飲んで酔ったからだ。吐くほど飲んだのだから気分は優れないだろうし、これならしばらく起きないだろう。
だが腹に顔を埋められて膝に体を押し付けられたこの状態だ。まず動ける姿ではない。無理矢理抜け出そうとすれば眠っている玉藻姐を起こすこととなってしまう。

「…仕方ないか」

急ぎの用事もあるわけじゃない。特にこれといったことは何もない。先生のところにはきっとあやかが相手しているのだろうからオレは玉藻姐に付き合うこととしよう。
そう思っていると部屋の端から小さな鳴き声が聞こえた。

「…夜宵」

みゃーと悲しげに鳴いた黒猫は音も立てずにこちらへ歩み寄ってくるとオレの体に顔をこすりつけた。
構って欲しいというよりも傍にいて欲しいと言うように。切なく鳴いては寂しげに体を寄せてくる。猫とはいえ彼女もまたこの日のことを嘆いているのだろうか。

「ごめんな、今は玉藻姐に付きっきりになってるから」

そう言ってやるとまた一声鳴き彼女はその場で丸くなる。納得してくれたのか、それとも自分はこれでいいというのか傍に身を寄せただけだった。そんな夜宵に笑みを浮かべ、そっと背中を撫でると二本の尻尾が腕に絡んできた。
…………え?二本?





「…んぁ?」

体を起こすと口の端から涎がたれているのに気づいた。どうやらオレは眠っていたらしい。
手の甲で拭い、眠気を振り払うように頭を振るう。そうしてようやくオレは足の上の温もりがなくなっていたことに気づいた。

「……玉藻姐?」

彼女の名を呼ぶが返事はない。あたりを見回すが人影はない。というか人影も見えないほどにあたりは暗くなっていた。
近くに置いてあった時計の針をなんとか確認すると六の位置にあった。どうやらかなりの時間寝ていたらしい。それならこの暗さも納得だ。
部屋の明かりを灯して再び確認する。廊下に出て縁側に行くも窓は締め切られ酒瓶は片付けられていた。

「…トイレ、か?」

だとしたら少し待っていればくるだろう。そう思って未だ眠っている夜宵を起こさぬように居間へと向かおうとしたその時。

「あ、やっと起きたんだ」

居間の戸を開けて一人の少女が出てきた。
癖のある黒髪を長く伸ばて一つにまとめ、対照的な白い肌をした彼女はオレと同じ黒い瞳を向けて言う。

「とりあえずおはよ」
「…ああ、あやかか」

オレ黒崎ゆうたの双子の姉、黒崎あやか。
あやかはオレの隣から部屋を覗き込み、こちらを見据える。そうして特に気遣うようなこともなく、日常生活に漏らす独り言のようにあることを言った。

「お昼ご飯食べちゃったよ」
「…え」

今の時間が六時なのだから午前中からずっと寝てたオレが食べられるわけがない。寝ていたことを知ってたならなんで起に来ないのだろうかこの姉は。

「お昼何だった?」
「鯖の味噌煮。ゆうたと玉藻姐の分ちゃんと食べておいたから」
「おい」

お昼ご飯を作ってくれたのはきっと先生だろう。あの女性が作ってくれる食事はどれも絶品、普通に店を出せるほど。だというのに食べられないというのは……それを知っておきながら独占するとは流石は暴君といったところか。
…独占?

「玉藻姐は?」
「知らない」

簡素でそっけない一言にオレはあやかを見る。どうでもいいと言いたげな顔をしていた。

「どうせ部屋にでも篭ってお酒でも飲んでるんでしょ。なら放っておいたほうがいいよ」
「そう?」
「そうでしょ。誰だって泣きたい時はあるんだし」
「…だよな」

玉藻姐がオレの傍から離れたというのなら一人になりたかったということだろう。それなら無理に傍にいられる方が迷惑か。…あの状態で一人にするのはこちらも辛いものがあるが。

「それより先生がご飯だって」
「玉藻姐はどうする?」
「お腹すいたら来るでしょ。放っておけばいいよ」

あやかの言葉にオレは頷き部屋を出る。あとをついていくように廊下を歩いていると玄関に出た。
先生がいるのはその先の居間。そのまま足を進めていこうとしたら―

「―…ん?」

あるべきものがひとつなくなっていることに気づいた。

「何?どうかした?」
「いや」

この位置からでも見える玄関に並べられたもの。オレのとあやかの、先生の。揃えて置かれているのだが一つ分、オレと先生の間には隙間が出来ている。

「…この雨で外か」

つまるところ、玉藻姐の靴がなくなっていた。だというのに傘立てに刺さっている傘は全部ある。
つまり彼女は傘をさすことなく外へ出ていったということになる。外は土砂降りとはいかずとも小雨でもない。ちょっといるだけでもずぶ濡れだ。
流石にそんな玉藻姐を一人にしてはおけない。一人になりたいのならせめて体調に気を配るべきだろう。

「ああ、まったく」

髪の毛を掻きむしり玄関へと足を進めて靴をはく。傘を取ろうと手を伸ばしたその時、後ろから伸びてきた手が腕を掴んだ。
細くて白い女性のもの。この場においては一人しかいないあやかの腕だ。

「さっさと来てよ。夕御飯なんだからさ」
「いや、玉藻姐だって昼飯食べてないんだろ?それじゃあ呼んできたほうがいいって」
「別にいいでしょうがあんなの。どうせ今もお酒のんでるだけなんだから」
「こんな雨の中で?」
「酔い覚ましでもしてるんでしょ」
「どんな酔い覚ましだよ。風邪ひくだろ」

何を言おうと止まらないオレの言葉にあやかは目つきを変えた。黒い瞳の奥には剣呑な光を宿す。
そして言った。

「あんたわかってるの?」

それは脅すように低い声だった。十八年間一緒に生きてきたが聞いたことがあるのは数回、それもただ怒っただけではない時の声色だった。

「今更何言ってるのって言うの。去年だって一昨年だってあんたは玉藻姐がああなるのに付き合ってるでしょうが。それをどうしてわざわざ慰めにいくわけ?」
「…」
「こういうのは放っておいたほうがいいの。わざわざ行かなくたってご飯でも食べて寝て過ごせば明日にはいつもどおりの酒飲みのだらしない痴女に戻るでしょうが」
「…痴女ってこの前師匠に向かっても言ってたけど失礼だろ」
「事実でしょ。どっちにしろ」

その声色に、向けてくる瞳にオレははたと気づいた。

「…何怒ってんだよ」

わずかながらに声の中に刺がある。言葉はいつもと同じなのだが声色にはもっと辛辣で深くまで刺さるような刺がある。
脅すのではなく、諭すように。それでも苛立ちをぶつけるように。
他の人が聞いたところでわからない。わかるのはきっと双子であるオレだけだろう。
あやかは指摘されて小さくため息をつき、髪の毛をかき上げた。

「別に…」
「…そ」

言わないのなら聞くべきではないだろう。いくら双子の姉弟とはいえ男女の違いがあるんだ、理解できないところがあるのは仕方ない。
オレがあやかの気持ちをわからないように―あやかもまたオレの感情を理解できない。

「とにかく傘は持ってく。それくらいはさせろよ」
「…っ」

その言葉に僅かに、本当に僅かに片眉釣り上げた。オレが玉藻姐を探しにいく、ただそれだけのことだというのに。
心底面倒くさそうにあやかは頭を掻きむしった。オレと同じ艶やかな黒髪が揺れ、シャンプーとはまた違う匂いがふわりと香る。

「あ、そ…だったら行けば?」

苛立って、それでいて投げやりな態度。一人廊下を歩いて居間へと進んでいく。だが、その半分あたりで振り返ってあやかは言った。

「行くんなら気をつけな。女の執着は怖いよ?獣よりもね」

そう言って居間へと歩いて行ってしまった。片手にはいつの間に抱きかかえたのか猫の夜宵を持ったまま。
獣…その一言が表すことは当然玉藻姐のことだろう。オレが見えていてあやかが見えていないはずがない。
だけど―

「…なんだよ」

わからない。あんなに怒って、それなのに助言するようなことを言って…何がしたかったのだろうか。
玉藻姐を探しにいく。そのどこに苛立つ要素があるのだろうか。
あれだけ荒れて、泣いている女性を前にして放っておけというのは無理がある。その上普段から世話になっている相手だ。なおさら無理だ。
だからせめて傘を届けるだけ。
一人にしておけというのなら……そうしよう。
靴を履き、傘を片手にオレはドアを開けて外へ出ていく。雨により冷えた空気が肌寒いが気にするほどではない。

「よしっと」

傘を開いたオレは水たまりのできた地面に構うことなく暗がりの中へと駆けだした。
13/12/29 22:11更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
前回から三週間空いてしまいました。申し訳ありません
師走というだけあって本当に忙しい月ですよね
気づけば年末ですから時間が過ぎるのは早いです
それでもできる限り定期的に書かせていただきたいと思います

そして始まりました、現代黒崎家編玉藻姐ルート
以前書いた龍ルートで龍姫姉こと先生と一緒に出てきた女性がヒロインの話となっております
幼い頃からお世話になっている年上のお姉さんである彼女ですが主人公の祖母の命日だけ本当の姿を見せてしまう
こんなことされていれば主人公も大抵のことじゃ驚きませんね
泣きながら口にする祖母の名前。玉藻姐と彼女の関係がどれほど深いものであったのか、それは次回に続きます


そして、この下今回は出せなかった黒崎家の日常の一コマとなっております



おまけ 黒崎家の日常

「ほーれ、今日は儂が直々に飯を作ってやったぞ。ありがたく食え」
「はーい。それじゃあ頂きます」
「……」
「…どうしたあやか」
「なんじゃ?嫌いなものでも入っておったか?」
「いつも聞きたいんだけどさ、なんであんたが料理すると三食全品油揚げ料理になるの?」
「おいあやか…」
「油揚げは美味いぞ?酒と油揚げは人が作ったもので最高のものじゃろうて」
「あんたは好きだからいいだろうけど三食も食べたくないって言ってんの。こんなに出されりゃ飽きるんだよ」
「あやか、やめ」
「…儂の料理が食えんと言うか?」
「自分の都合しか考えないで作ったものを料理なんて言うの?はっ!おこがましいったらありゃしないね」
「あやかの好き嫌いは顕在化のぅ。昔とまったく変わらんわ」
「好きか嫌いかの問題じゃないって言ってんの」
「そんなことをしておるから昔から何も変わらんのじゃよ。特に『胸』がのぅ」
「…あ?」
「たっ!玉藻姐それは」
「かっかっか!小さい小さい、幼子と全く変わらんわ!胸についておるのは洗濯板か?何なら河原で服でも洗ってやろうか?これでは女らしさも色気もないわい。ああ、胸が大きくて肩がこってきたわ。ゆうた、肩を揉んでくれぬかのぅ?」
「ちょっと玉藻姐!それは本当に―」
「だるんだるんでだらしのない胸なんてつりさげてる意味あんの?今の時代コンパクトな方がいいんだよ。あんたみたいな時代遅れの獣痴女がいつまでも胸張っていられると思ったの?」
「…言うではないか」
「…何度だって言ってあげるけど?」
「これは少し躾が必要みたいじゃ。久しぶりに儂が直々こってりと絞ってやろうかのぅ」
「たかだか獣の分際で人様に躾なんておかしいんじゃないの?」
「生意気な小娘が…その伸びきった鼻をへし折ってやろう。表へ出よ」
「ならその邪魔くさい尻尾全部引っこ抜いてあげる。さっさと行きな」
「玉藻姐!!あやか!!飯が………………………………まったく、仕方ないな!!」



基本的に黒崎姉と玉藻姐はこんな感じです
ここで彼が止めに入ってぼこぼこですねw
これでも世話してた玉藻姐と世話になっていた黒崎姉ですので意外と仲がよかったりします

それでは、ここまで読んでくださってありがとうございます!!
次回もよろしくお願いします!!

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