結婚式の覚悟
「…こんなものか」
「お綺麗ですよ、レジーナ様」
この服を着せた女中の隣で私はくるりと見せつけるように回転した。姿見の中の私は一応笑みを浮かべながら純白のドレスを纏っている。
「流石はディユシエロ王国の王女様です。これならきっと教皇様も気に入ることでしょう」
「…ふん」
穢れのない真っ白な処女雪を仕立て上げたようなウエディングドレス。それは人生の晴れ舞台とも呼べる場で纏うことのできる、女ならば誰もが憧れる一着だ。私とて普段のドレスと違うこのドレスを着ることに憧れを抱いていたこともある。
ただ、望まぬ相手との結婚式で着ることになるとは皮肉なものだが。
「…」
私は鏡に映った私を眺める。
鏡の向こうの私は何を思っているだろう。硬い笑みを浮かべて耐えるように拳を握って取り繕うようにドレスを纏う私は何を考えているのだろう。
ジパングで見たユカタを纏った私は何を思っていたのだろう。全てを忘れ、敵国のような場所でもただ笑えてたあの時の私は何を考えていたのだろう。
あの時捨てた私は何を思っていたのだろう。
そんな風に考えると部屋のドアがノックされた。私が目線で指示すると女中がドアを開ける。
そこに立っていたのは特徴的な青い長髪を纏め整えた一人の勇者の姿だった。私を見ると普段見せないようなきっちりした姿で頭を恭しく下げてくる。
「ごきげんよう、レジーナ王女様。今日護衛を務めさせていただきますアイル=フォン=リヴァージュでございます」
「…なんだその言葉遣いは」
「いや、流石の俺様も礼節を重んじたほうがいいかと思ってさ。それにして似合ってるぜ、ウエディングドレス」
アイルは私を指差してそう言った。いつも女を口説くようなものではなく、どこか羨望を感じさせるため息とともに。
私たちの会話に邪魔をしないように気を遣ったのか女中は一礼してドアから出て行った。静かに閉められたドアへとアイルがもたれかかり、私の周りを見渡して怪訝そうに表情を変えた。
「にしてもここにもユウタ君いないんだな。姫様の護衛なのにドアの外にもいないし、どうしたってんだよ?」
「…ユウタはいない」
ここにはいないというか、挙式の一週間前から会っていない。一週間もあればそれは楽しい日々を過ごせたことだろう。またあの鍛練場でともに精を出すのも良かっただろうし、ユウタが隣にいるだけでもよかった。
本当は会いたくなかったわけじゃない、ただ、会ってしまうと揺らいでしまう。
今日という日に決めた、もう後戻りできない覚悟が。
揺らぎたくない、成し遂げなければならない覚悟が。
「ユウタは今日は非番にしてある」
「そりゃまた…せっかくのユウタ君に一番見せたい姿じゃねぇのそれ?」
「馬鹿者、こんな情けない姿見せられるか」
「…そだな」
結婚式でウエディング姿を見せるのが好いた相手ならばいいだろう。だが相手はあの男。望んだわけではないウエディング姿など見て欲しいわけない。
決めた男性以外の隣で見せるにはあまりにも辛すぎる。
「嫌なら姫様も責任ほっぽり出して逃げちまえばいいんじゃねぇの?俺様みたいにさ」
「ふふん」
私はアイルの言葉に鼻で嘲るように笑ってやった。
「逃げるなんて私には似合わんな。お前は今目の前にいる女を誰だと思っている?」
戦争を司り、軍務を支配し、この国を支えてきた私には最後まで逃走なんてことはあってはいけない。
それこそが私、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロなのだから。
だから。
「何があっても逃げることなどしない。逃げることは、な」
「……そっか」
椅子から立ち上がる際に手を差し出されるが押しのける。アイルはその行為ににやりと笑みを浮かべると私の正面へ移動する。そして自分の胸に手を当てて言った。
「お互い似た者同士だ、選んだ道を阻むようなマネしねぇぜ。例え姫様になにかあろうと俺様たちはやってってやるからよ」
「ふふん。そんなに意気込んでいては苦労するぞ?」
「姫様ほどでもねぇよ」
だがその言葉はありがたい。その一言が私の決断から迷いを消し、後ろを気にすることなく進んでいける。
私とこの人間だからこそ通じられるところがある。きっと立場が逆だったならば私も同じことをしたかもしれない。そう思えるほどこの人間と私は根本が似ているのだ。
「っと、それから一つお知らせ」
「なんだ?」
アイルは二人しかいない部屋の中だというのに何かを気にするように小声で耳元で囁いた。
「…式の護衛配置が変更された」
「何?」
その言葉に私は片眉釣り上げる。
「あの配置はちょいと甘いんじゃないかだとよ。それで勇者の配置は俺様のみ式場内で、ほかの三人は街とか城門とか教会周辺の護衛騎士たちの指揮を任されてる。その代わり式場内は騎士団長直々選出の精鋭と教皇様お付きの護衛部隊とでそりゃもうとんでもないことになってるぜ」
「…そうか」
勇者の配置は全て式場内、護衛部隊は少なく最低限の数しか用意させていなかった。さらにはその提案も決定を下したのも全て私だ。
その提案を却下し、あまつさえ変更できる者は限られてくる。それなりに学があり、戦略を理解しなおかつ私と同等かそれ以上の地位にいるもの。
すなわち父である国王か妹である二人目の王女。
それがどちらかなど聞かずともわかる。
「ふふん…」
多方私の配置に違和感を感じたことだろう。この配置ではあまりにも手薄であるとか、勇者達の位置があまりにも集中しすぎてまるで外から何かを迎え入れるような、騎士達の配置が甘く逃げるにはもってこいの位置にいるような、そんなものを感じたことだろう。
我が妹ながら流石としか言い様がない。
だが。
「上等だ」
それが逆に甘いとも言える。
いくら政治事に精通していようが軍略にはとんと向いていないらしい。
私がこのような展開になることを予期していなかったわけがない。当然誰かが異議を唱えたに違いないと予想できていた。そして騎士の配置を変えることも予想内。
ただ式を飾るには少々物足りない気もするが、これはこれでありだろう。
私は椅子から立ち上がる。そろそろ式の時間だ、女中が迎えに来るのを待つのもいいがわざわざ手間をかけるわけにもいかない。
するとアイルが再び手を差し出してきた。さらには私の瞳を覗き込み誘うように言葉を紡ぐ。
「ほれ姫様。エスコートしますぜ?」
「いや、遠慮しておこう」
「え?なんで?」
「ふふん」
こんなナンパ者に私の隣は譲れない。私のエスコートをする者はたった一人で十分だ。それ以外に立たせるつもりはないのだから。
「行くぞ」
「お供しますぜ」
その一言とともに私は大きく一歩を踏み出した。
二人の騎士がそれぞれドアを開け、アイルも一礼して下がる。踏み出した空間は光に包まれ、真っ赤な絨毯の上を私は歩き始めた。
大きな教会内に用意された数十列の椅子には隙間なく様々な者が座っている。参列するものは王族縁の者たちや賓客、はたまた各隊の隊長や騎士団長。そして私の家族である父の国王と妹の王女。皆手を叩いて私を迎え入れた。
絨毯の上を歩み進んだ先に待っているのは結婚式用に着付けたらしい十字架の刻まれたタキシード姿のディオース。その表情は聖職者らしい清らかな微笑みと違う裏に何かを秘めた男の顔だった。
「お綺麗ですよ、レジーナ姫様。神もこの喜ばしい日を喜んでくださることでしょう」
「…ふん」
私は特に言うことなくディオースと並ぶようにその場に立った。正直これだけでも気分が悪い。どうしてこんな者の隣にわざわざ並ばなければならないのか。
ため息をつきたい気分だったが今は仕方ない。ここで殴りかかればさぞ気分がいいのだろうが我慢する。
「それと、ご安心くださいレジーナ姫様」
「…何がだ?」
周りに聞こえないように、目前に控える牧師にすら悟られないようにディオースは話しかけてくる。こうすること自体気だるいのだがなんとか堪えなければならない。
「随分と手薄だった警備の方ですがこちらで万全に整えさせてもらいました。誠に勝手ながらあのような配置では危険がないとも言い切れず万が一のため、貴方の妹君と共にこちらで決定させていただきました」
「…ふん」
そうか。やはり私の妹が一枚噛んでいたか。そしてこの配置にはこの男が加担していたのか。
なんとも甘い。
全てが甘い。
この程度で堅牢の守りと誰がいえようか。
この程度で頑強の守備と誰が呼べようか。
確かにこの配置ならば大抵の敵も魔物も侵入させることはできないだろう。外からの侵入者も蟻一匹さえ見逃すことはないはずだ。
―だが、相手にする者は必ずしも外から来るとは限らない。
「ああ、それと」
はたと気づいたように言って顔は牧師へ向けたまま、視線は私へと向けてくるディオース。
「レジーナ姫様がご執心なされていたあの男は魔界へと遠征に向かわせました」
「っ!」
「ちょうどいいことに非番だったらしいですからね。あの男も少しは勇者となるべく素質を磨かせなければなりませんので。神も申しておりますよ。『生けるもの皆全うしなければならない使命を背負う』とね」
わかりやすいくらい得意げな笑みは見るものを不快にさせる。特に他人の思考を先読みして手玉にとったと天狗になる者ほど見るに耐えないものはない。正直殴ってやろうかと思えるほどだ。だがそんな感情をぎりぎり押し殺して私は静かに言葉を返す。
「…それが何だ」
「いえ、先に言っておくべきことだと思いまして。この場で言うべきことではありませんがそれでも式には集中していただきたいので」
「…よく喋る聖職者だ」
できることならそのまま喋ってこんなくだらない式をぶち壊してもらいたいものだ。
正面の牧師に目配せすると彼は咳払いを一つして宣誓の言葉を口にする。
「汝ディオース・ネフェッシュはこの女レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロを妻とし、良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他のものに依らず、死が二人を分かつまで愛を誓い、妻を想い、妻のみに添うことを誓いますか?」
「誓います」
静かな誓い。安らかな笑み。それを確認して牧師は私へと視線を向けた。
「汝レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロはこの男ディオースネ・フェッシュを夫とし、良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他のものに依らず、死が二人を分かつまで愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを誓いますか?」
「…」
その宣言に私は口を開こうとしなかった。
沈黙が続き流石に周りも不審がってざわつき始める。隣のディオースは怪訝に思うこともなく勝ち誇ったすまし顔であり、牧師は私に対して再び同じ宣言をする。だが、私は無言で返すまでだ。
「どうしたんだ?」
「マリッジブルーというやつだろう、レジーナ姫とて女なのだから」
「勇猛果敢な姫様にも女らしいところがあったということですな」
参列する者たちはそのようなことを言っているが当然私は正気だし、マリッジブルーなんてものになっているわけではない。女らしいなどと失礼なことを行った輩は後々殴りつけておこうか。
いや、その機会はもうない。
「…レジーナ様、誓いますか?」
もう一度牧師が心配そうに言葉を繰り返した。対して私は何も言わない。これ以上付き合ってやるつもりもない。
もう十分待ったのだから。
今まで存分に耐え抜いたのだから。
―だから、もう、いいだろう?
「誓わない」
響き渡るその一言に一瞬結婚式場全ての者が固まった。参列するものが、騎士達が、牧師が、隣の男すらも。誰もが声を失い私の口にした言葉の意味に目を見開く。
「い、今…なんと…?」
「聞こえなかったか?誓わないと言ったんだ」
隣にいたディオースは表情を歪め、牧師は固まり、背後の参列者は皆驚愕の声をあげた。
その中私は振り返り皆に姿を見せつけるように立つ。
「私はこの婚姻を誓わない」
もう一度高らかに宣言し、私は着ていたウエディングドレスの胸元を掴むと力任せに引っ張った。飾り付けられた布は破れ、宙を舞うベールは光を反射する。
高級感あふれる真っ白な生地の下から現れたのは私の素肌と白い鱗だった。それだけではない。臀部からは太い尻尾が生え、背中からは巨大な翼が広がり頭からは鋭い角が生えている。両腕両足は人間のものから形を変え鋭い爪と頑丈な鱗に覆われていた。
どこをどう見ても人間ではない姿。
それは紛れもない魔物である証。
―私は地上の王者である『ドラゴン』となった。
こうなったのは一週間前、ちょうどユウタとともにジパングへと温泉街へと訪れた時のこと。混浴の温泉でユウタが出て行ったあのあとフィオナと二人でいたとき、私は覚悟を決めて魔物になることを選んだ。
全てはこの婚姻を拒むため。
全てがたった一人の男性を手に入れるため。
「王として誇り高い姿に雄々しい角を」
白い悪魔は指を躍らせた。
「主君として気高き素質に端麗な尻尾を」
真っ白な淫魔は吐息を漏らした。
「覇者として偉大な心に赫々たる翼を」
純白のリリムは言葉を紡いだ。
「女として抱いた気持ちに素敵な誕生を、レジーナにあげるわ♪」
―王族としての血を否定し。
―退魔の力を宿した体を捨て。
―私はレジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロという存在を抹消した。
「ふふん♪」
この一週間どれほど辛い思いをしてきたことか。
魔物の体になった故に体は熱く、下腹部は疼き、あの体の感触も逞しい腕もふわりと漂う香りも甘く熱烈な口づけも全てが欲しくなってしまった。それを押しとどめて耐えることがこれほど厳しいことだとは思わなかった。
理性が揺れる。本能が滾る。欲望が溢れる。
熱にうかされたような、夢の中にいるような心地でありながら体は一人の男性を求めて止まずたった一週間の間に何度求めてしまいそうになったことか。
こんな状態で会おうものなら私は決めた覚悟を覆すこととなる。抱きしめ、唇を奪い、情欲のままに交わり続けたことだろう。そしてこの国をさっさと出てどこかの宿にでもこもって止まることなく求め続けたに違いない。そうでなくともこの国を陥落させて魔界にしてやろうかと何度か思うこともあった。
随分と我慢をしたものだ。だが、その我慢はこの時のため。
「私はこの結婚を望まない。お前のような男らしくない者の妻になりたいわけがないだろう?」
認めたのは一人の人間。
求めるのはあの男のみ。
触れていいのも口付けていいのも契っていいのも結婚していいのもあの男だけだ。
「ど、ドラゴン…っ!」
「そんな…レジーナ様が魔物にっ!?」
「何が…何が起きているんだ!?」
「なぜこんなことに…」
式の参列者は口々にそう言って驚愕を隠せないらしい。一国の王女が目の前で魔物の姿として現れれば当然そうなるだろう。
だが驚いても平静を保てる者もいないわけではない。
「おい騎士共!参列者を直ぐに逃せ!王様、姫様は俺様が付くからさっさと動け!相手はドラゴンである上にレジーナ姫だ!並の騎士じゃ敵わねぇ、さっさと逃がす方にまわれ!」
普段おちゃらけてナンパばかりしているとは思えないほど的確に指示を飛ばして教会内の騎士達を巧みに動かしていく一人の人間。あれでも腐っても勇者ということだろう。
勇者は剣を抜くことなく私を見据えながらも参列者や戦えない者たちを率先して逃がそうと行動する。修道女を逃がし、女中を護衛の者に護らせ、非戦闘員を素早く誘導する。
そして王族である私の父と妹の傍に立つとこちらを振り返った。
「王様、姫様!ここにいるのは危険だ。大切なレジーナ姫がああなっちまったのは気の毒だがドラゴン相手じゃこの教会も無事じゃ済まねぇ、さっさと離れるぜ」
その言葉とともに二人の手を取ると一瞬私を見据えて―ウィンクした。
「…ふふん」
次の瞬間にはその場から三人の姿は消え去っていた。どうやら転移魔法を用いて飛んだらしい。これなら私がここで暴れても被害のない場所へと避難してくれたことだろう。
そして私に戦いやすい場を提供してくれた。護衛の者たちを幾人か避難へ割いたのは私が相手するだろう騎士たちの数を減らすためか。別にあの程度の騎士くらい数十人まとめてかかってきても平気なのだがあの勇者は普段女誑しなクセにこういうときだけは気をきかせて…それでもあの男には遠く及ばないが。
「愚かな…っ!」
皆あらかた避難が終わり教会内に残されたのは戦闘員である騎士たちと私になったとき、ディオースは顔をこれ以上ないくらいに歪めて私を睨みつけた。そこにあるのは魔物に対する嫌悪か、思い通りに事が運ばない憤怒か、私が拒否したことへの憎悪か、あるいはその全てか。
いずれにせよこれでディオースとの結婚は破棄となったわけだ。神の声を聞きいれる男がまさか魔物と婚約するようなことはあるはずがない。
「なんと貴方は…愚しい…っ!!」
もう一度ディオースは愚かと続けた。
「私との婚姻を拒むどころか自ら魔物へと身を堕とすなど…その愚行、あまりにも度し難いっ!神は…神はこのようなこと認めるはずがないというのに!!」
「神だ神だとうるさいぞ、ディオース」
「なぜ…なぜ貴方は神の言葉を信じないのですか!?この国をより強く!より良くする者を世継ぎとして残さなければならないというのに!神も申しております。『貴方と私は婚姻を結び、選ばれしものをこの世に産み落とさなければならない』と!」
憎々しく私を睨みつけディオースはがなる。耳障りで聞いてはいられない声色で。
それでいい。それこそ私が狙ったことだ。
「貴方は神に逆らうおつもりですか!?国に背くのですか!?」
「ああ」
その言葉に私はハッキリと言葉を返した。
鋭い爪を向け、尖った牙を見せ、金色の長髪を靡かせ白色のウロコを輝かせて私は胸を張る。
恥じることはなにもないのだ、この国の人間として絶対にやってはならないことをしてもこれが私が決めた覚悟。ならば今更躊躇うことはない。
ぎしりとディオースが悔しそうに歯ぎしりをして。
「愚かな…っ!」
また愚かと言った。
「なぜですか!?貴方ともあろうお方が…ディユシエロ王国王女ともあろう貴方が!よりにもよってこの世で一番下賤で浅ましく愚かな存在へと身を堕とすなんて…なぜですか!?」
「ふふんっ。そんなものは簡単だ。お前との婚姻が嫌だったという理由もあるが―」
「―私が魔物になった理由はただの女として生きたくなったからだ」
愛する男と結ばれるため。
理由としては何ともチンケで安っぽいものだろう。だがそれだけが私を突き動かしたのは事実。
あの男一人がそこまで私を染め上げたことは紛れもない真実。
姿を見せない声だけの、それも特定の人物にしか語りかけない神の声よりも。
神の声と言いながらそこに自分の欲を混ぜた聖職者の声よりも。
あの男の声だけが私に響き、突き動かした。
「今まで国を背負ってきた。きっとこれからも一生背負い続けることだっただろう」
それが王族の勤めであり運命。逃れられない義務であり歩まなければならない道。
だがその男は道の外から寄り添っては別の道へと誘い込む。
聖職者の言葉よりもずっと正しく。
魔物の言葉よりもずっと甘く。
神の言葉よりもずっと強く。
そして―
「だが」
―誰よりも男らしく。
「王族として背負うのではなくて、女として背負われる感覚も味わってみたくてな」
女としてあの男の背を眺めて生きていくのがいい。
女性としてあの男性と共に道を歩むのがたまらない。
そのために私は国を、王女という地位を、私の背負ってきた全てを捨てよう。
「お、愚かなぁ…っ!!」
わなわなと震える指先をこちらへ向け、自分がどれほど見苦しい姿なのか気づいたのか一度こほんと咳払いしてディオースはこちらを見据えた。
「い…いいでしょう。仮にその神に背く行為の理由がそんなくだらない下劣なものだったとしてよくもまぁ魔へと身を堕としながらこの場所にのこのこと来たものですね。さっさと尻尾を巻いて逃げるという道もあったのに」
「だからお前は男らしくないんだ、ディオース」
ディオースの言葉に私は馬鹿にするように笑ってやった。
本当にこの男は何もわかってない。これだから私の周りの男はダメなんだ。
一人を除いて。
「私がわざわざ命を落とす危険を冒してまでこの場に訪れた理由がわからないか。聖職者故に合理性を求めすぎだ」
―これこそが、この行動こそが、私の覚悟。
「せっかくの結婚式なんだ、最高のタイミングで断るほうが粋だろう?」
皆が皆殺しにかかってくるであろう騎士たちのど真ん中で、結婚式をあげようとしていたこの愚か者の前で、命の危険を顧みずに自分の言葉を述べること。
魔物となった姿を晒し、真正面から拒絶の意を示すこと。
逃げることなど性に合わない。胸を張り堂々と立ち向かうことこそ私である。
無事で済まないだろうがそれぐらいの危険を承知の上で私はこの場に来たのだから。
略奪婚など似合わない。
攫われる私などありはしない。
婚姻から逃れようと国を出るわけがない。
「ふふん♪」
逃げるのではなく立ち向かう。
略奪ではなく蹂躙する。
攫われるのではなく奪い去る。
勝鬨をあげ、悠々と歩き、絶対的な勝者の後ろ姿を見せつけて去る。それこそがレジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロという一人の女だ。
最も、結婚式中に奪われるなどと絵空事を想像していなかったわけではない。抱きかかえられ教会から脱出するなどまるでおとぎ話な展開を期待しなかったわけではない。
あの黒い服を纏った男が白いウエディングドレスを着た私を抱えてともに国を逃亡する。ロマン溢れ乙女が憧れるシチュエーションだがやはり私にはあいそうにない。
―それ以上に怖かった。
この姿を見てユウタがなんと言うのかわからない。
あの男のことだ、リリムを友人のように迎え入れたのだからそうひどい反応をされることはないだろう。それくらいわかってる。
だが、全てわかってるわけじゃない。
あの闇色の瞳の中に何があるのか。谷によりも深い性格の中に何を隠しているのか。夜よりもずっと暗く、何より黒いあの心に何を潜ませているのか私はまだまだ理解していない。
恐れられないか。
嫌われないか。
私はただ怖がってるだけなんだ。
―…私というやつは…本当に弱くなったものだ…。
「この、愚か者がぁ!!」
その一言で周りにいた護衛の騎士達が剣を抜いた。非戦闘員は全て避難し、いるのは私を殺しにかかってくるもののみ。
だが動揺を隠せないのか鋒が震え、魔法を使おうとする者は呪文がうまく紡げずにいる。それだけ私の姿はショックだったということだろう。
逆に屈辱と受け取った者もいるらしいが。
「神の言の葉に背く愚か者め!貴方はもうこの国の王女ではない!」
「ここに来た時からそのつもりだ」
この空間内で一番怒り狂った聖職者はどこに隠していたのか一冊の本と十字架を取り出した。
青く分厚い本と銀色に輝く十字架。
神の言葉を記した聖なる書物と退魔の力を宿した神聖な崇拝の対象。どちらも魔物に対して力を発揮するものだ。
「神の声を聞くこの私との婚姻を拒むどころか自ら魔物へと身を堕とした愚か者よ!せめてこの私の前で、神の言の葉を身に刻みながら刺し貫かれよ!その鱗一つ、髪の毛一本も余すことなく退魔の炎で焼き焦がしてやる!」
ディオースは聖書を開き十字架を掲げた。ステンドグラス越しの光に反射して眩しく光る。
「私の一言は神の一言と同義!神の言葉を聞き入れる私の声は神の声と同じ!!私という存在は神そのものである!!」
掲げた十字架の先は滅すべき対象である魔物へと向けられる。
「神は申しております!」
ディオースは私に、騎士たちに向かって宣言するように高らかに言った。
「『この愚か者を、殺せ!!』」
その一言と共に周りの騎士達全てが飛びかかってきた。
「…つまらん」
皆剣を抜き、殺す気でかかってきた数分後、私は倒れ伏した騎士たちの上に立っていた。
私を魔物として殺そうとする姿は稽古では見られない鬼気迫るものだった。これこそ戦場を生きる男の姿、なんとも雄々しく賞賛すべきものだった。
だが、稽古がなってないのか実力が伴っていないのか誰も私に傷一つつけられない始末。軽く首を振るうだけで剣は避けられ、腕を振るえば刀剣が砕けて散った。
王女を相手にすることに躊躇いを感じているのか。
ドラゴンと敵対することに恐れおののいたのか。
いや、それだけではないか。
私がこの姿になったことが大きな原因だろう。
魔物というのは人間よりも強靭な肉体を保持しているという。あのリリムも一見ただの女性の細腕だがそこから生まれる力は半端なものではない。中には腕一本で建物を倒壊させるなど馬鹿げたものもいるらしい。
今の私はその存在だ。力は滾り、感覚は研ぎ澄まされ、技はキレが増して実力は跳ね上がった。
「…」
その感覚を確かめるように手を握る。人間の頃と違う感覚に私は小さく息を吐いた。
魔物になるというのは存外悪いことではない。だが、今この状況においては良いとはいえないだろう。
なぜなら今私は万全の体調とは言えない。というのも、そもそもこのディユシエロ王国は主神を崇め、魔物は人間を堕落させる存在とされている。
魔物は悪。
魔物は敵。
それならばこの国は魔物に対する手段が無限に存在する。迎撃するための魔法や魔物へ立ち向かう騎士達、魔物を滅することを使命とした勇者に主神の教えを掲げる聖職者。それだけではなくこの国自体、この領地自体もその手段の一つ。
魔界には踏み入れるだけで魔物になってしまうほど濃密な魔力が漂う地があるという。その逆に、並の魔物ならば踏み入れるだけで存在が消え失せる場所がこの国にはある。
王族が守護する聖域。
聖女が司る大聖堂。
そして、今私がこうして立っているこの、神を崇めるための教会。
「…ふふん」
私が魔物になってしまったからか教会内に入ってから空気が痛い。まるで刃を押し付けられているかのように痛い。それだけではなく体は重いし、頭の中がぼんやりする。四肢はまるで痺れたように動きが鈍いし、ただ立っているだけで体力を奪われてるんじゃないかと思うほど気だるい。本当ならば青白い退魔の炎に焼かれて消えるのだが元々退魔の力を宿す王族であった私だからこの程度で済んでいるのだろう。
だが、全部わかっていたことだ。分かっていたことでこの場に訪れた。
死ぬ危険があるならば超えなければならない。
無事で済まぬと分かっていてもなさなければならない。
それが私の決めた覚悟なのだから。
踏みつけた足の下から『ありがとうございます』なんて聞こえてくるのだが無視。振り返って私は祭壇に立ち尽くす一人の人間を見据えた。
「どうしたディオース。この程度で魔物を迎え撃つつもりだったのか?」
悔しそうに顔を歪めて憎々しいと言わんばかりの視線を向ける聖職者。そんな相手を前に私は得意げに鼻を鳴らす。
まったく、この程度の護衛を揃えたところで万全の対策と言えるとはなんとも片腹痛い。これでは私がいなくなったらこの国はどうなってしまうのだろうか。いや、寧ろそちらのほうが魔物の私にとっては都合がいいのかもしれない。
「愚か者…がぁ!!」
ディオースは何度も憎々しげに呟いて聖書を仕舞うと別の十字架を剣のように引き抜いた。長い部分から解き放たれたのはステンドグラスの光を鋭く反射する刃。神を称え崇めるための道具であると同時に魔物を滅する武器だ。
「神よ、私は貴方の意志を代行します」
その言葉とともに十字の刃が青白く光を発する。私には見慣れたそれは紛れもない退魔の力。
私を殺すための力。
ディオースは刃の先をこちらへと向けた。
「堕落した愚かなる存在よ…貴方のような者は私の手で、神の手で滅っされなければならないっ!!」
「っ!」
次の瞬間ディオースはどこからか取り出したなにかを振りかぶってこちらへ投げつけてきた。それを思わず条件反射で叩き落としてしまう。
それはてっきりナイフのようなものかと思っていたが砕ける感触にそうでないと理解する。
「―っ!」
砕け散ったのはガラスの破片。飛び散ったのは透明な液体。
それは紛れもない退魔の力を宿した聖水。
「ああっ!!」
並の魔物ならば濡れた部分が溶けていったことだろうがどうやら私はドラゴンという存在だからか、それとも王家の血によるものか威力が緩和されている。だがそれでも私の動きを奪うだけの激痛が体中を駆け巡った。
この程度、何の問題もない。傷にもなっていないだけのただの一撃だ、構うこともない。まだまだ戦える。
そう思って一歩踏み出そうとしていたその時、目前にディオースが迫っていた。
「消えよ!!」
銀色に光る刃。青白く灯った光。騎士たちの持っていた剣と比べればなんとも短いものだが直に触れようものなら肌が焼け、大怪我するに違いない。
だが所詮握り方も振り方も実力はとうてい私に及ばない。容易くその刃の一閃を避けられるものだ。
しかし。
「…ぐっ」
いきなりぐらりと傾く体。
突然がくんと崩れる膝。
視界は揺れ、意識がぼやける。
先ほどの聖水のせいか、それともこの教会内にいるせいか、どちらかはわからないがこの瞬間にそのようなことになるとはなんともタイミングの悪いことだった。
「ふんっ!」
「ぐっ!」
その隙を逃すことなく一本の腕が突き出された。
こんなのでも教皇。いざという時のためそれなりに体は動くし、戦うこともできる。神の声を聞き入れ、上からものを言うだけのただの無能ではない。
その上私の体調は万全ではない。おそらく今は人間であった時よりもずっと体は動かない。そこらの騎士になら負けることはないだろうがそれ以上の実力者には劣ってしまう。
刃を避けた私の首を掴むとそのまま一気に祭壇に叩きつけられた。追い討ちをかけるようにディオースが覆いかぶさってくる。
喉元に突きつけられる十字架の刃。あと髪の毛一本でも近づければ私の喉へ食い込み、退魔の力は肌を焼いて切り裂くことだろう。そうなれば私の命はこの男に奪われることとなる。
ディオースはゆっくりと口を開いた。
「貴方は道を違えてしまった。それは許しがたい罪でしょう。神は申しております。『死して償え』と」
そう言ってディオースは手にしていた十字の刃を掲げた。ステンドグラスを通して差し込む光が鋭く反射し、笑みを浮かべた顔を照らし出す。
なんとも隙だらけな姿だ。
今目の前にしているのがこの国で先頭を切って戦いに臨んでいた者だということを理解しているのか、この馬鹿は。勝利を確信したときほど隙だらけになる瞬間はないというのに。
頭は痛い。目眩はする。呼吸が辛い。この場所にいること自体が厳しい。だが私にはこの程度の人間一人跳ね飛ばすぐらいの力はまだ残ってる。
そんな相手に刃一つで距離を詰めるなど愚の骨頂。
―刃一つだけなら、だ。
「神よ!私は貴方の言葉を代行します!!」
ディオースは服の内側にいくつももっていただろう退魔の力を示す純銀の十字架をばらまいた。
「!」
どれも大きさとしては手のひらに収まる程度のもの。アクセサリーとなんら変わらない大きさだがその一つ一つには退魔の力を宿している。何よりこの聖職者が、神の声を聞けるというこの男がこの状況でばらまくものがただの十字架なわけがない。
「くそっ!」
悪態をつきながらその場から逃れようと体をばたつかせるが教会のせいで力が入らない。翼を広げようにも今までこの姿を隠していたのだから飛び方はまだわからないし、せっかくついた尻尾も同様だ。
結果私は成すすべもなく体の上に十字架がまかれた。
「っ!!」
熱い。どの十字架も熱い。肌を焼くというよりも溶かされるのではないかと思えるほどに。
「無理して動かない方がいいですよ。普通の魔物ならその十字架一つだけでも動きを止められるほどなんですから。さらには教会という場所ですからいかに格上の魔物とて無事で済むはずがないでしょう?」
柔らかな言葉遣いだが込められているのは紛れもない殺意。それから思い通りに行かなかった事へ対する憤怒だろう。ぎらつく瞳には慈愛も情けも存在しない。存在するのは魔物へ対する嫌悪のみだ。
「せめて貴方を苦しまずに滅して差し上げます。私も神も情け深いのです」
「…何が情け深いだ、馬鹿者が」
私の悪態にディオースは笑みを浮かべた。
汚れてはならない聖職者が浮かべるのに相応しい安らかな笑みを。
神に仕える者が浮かべるには相応しくない卑下た笑みを。
どちらとも捉えられる綺麗で残酷な笑みを。
「死んでください、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロ」
「…ふふん」
元々死ぬことを覚悟してここに趣いたのだ、これで終わってしまっても後悔はない。
…いや。
死ぬのだとしたらせめて女としての喜びくらい知っておきたかった。子を孕み、家庭を築き、一家団欒と暮らしていく。平凡でありふれたそんな日常を過ごしてみたかった。
それが叶わないのならばせめてあの時、無理やりにでも体を交えるべきだっただろうか。涙を流してでも懇願すべきだっただろうか。
今更悔いたところでどうにもできないのだが。
「…今更、か」
小さく自嘲気味に私は呟いた。
こんな時なら潔く死を迎え入れるべきなのだろう。それだというのに後悔をするなんて…私は本当に変わってしまったようだ。魔物になったからではなく、もっとずっと前からだろう。
全てはあの男との出会いから始まった。
ならあの男とともに終わりを迎えたかった。
叶わぬ願いだが、もう仕方ない。
体は自由が効かないし、聞いたところで少々無茶をしすぎた。もう少し魔物の体になれていれば別だっただろうがそんなこと今更悔いても遅い。
掲げられた十字架の刃の先に瞼を閉じて最後の瞬間を迎えようとしたその時。
ガラスの砕け散る音が響いた。
「っ!」
「!!」
赤の、青の、黄色の、白の、色様々なステンドグラスの破片が飛び散り輝く。その中で一際目立つのは輝くことなく飛び込んできた一つの固まり。
それは深く。
それは濃く。
それは黒く。
全てを引きずり込むような闇を纏った黒崎ユウタだった。
「レジィィィィナァアアアアアアアアア!!!」
私の名前を叫びながら砕いたガラスの破片をものともせずに飛び込んでくる。
ディオースの言葉を信じるならばユウタは今頃魔界だったはず。魔界なんてこの国のそばに存在しているわけがない。ならどうしてここにいるのか。
いや、そんなことはどうでもいい!
「!?」
歓喜の顔をする私と驚愕の表情を浮かべるディオース。そしてユウタは祭壇に着地すると私の顔面スレスレを、ディオースの顔を目掛けて足が振り抜かれた。
「おごっ!」
鈍い音と共にディオースははるか後方へと吹っ飛ばされる。頭から床にぶつかって二、三回転し、敷かれた赤絨毯の上で止まった。
蹴った本人は祭壇から飛び降り、祭壇に倒されていた私の手を握った。
私の手と彼の手が触れる。ドラゴンとして爪と鱗の生えた大きな手は人間のものと比べると一回り大きくなってしまったがその手は私のものよりもずっと力強く握ってきた。熱い体温に異常な硬さを持つ骨、逞しくそして柔らかな手つき。
紛れもなく私の求めたもの。
そして彼は普段のように笑みを浮かべて私を呼んだ。
「レジーナ、大丈夫?」
人間を捨てた私に驚くことなく、嫌うことすらせず、怪訝に思うこともなく、普段となんら変わらない態度でそう言った。
この感触だ。
その笑みだ。
この感覚だ。
その声だ。
私が求めて止まないもの。そして私が欲したもの。
「ふふん♪遅いぞ、ユウタ」
私は待ち焦がれていた男性の名を呼んだ。
「だが中々悪くないタイミングだ。いや、本当ならもっと早く来るべきだっただろうな」
「どっちなのさ」
私は引っ張り起こされてその場に立ち上がった。飛び散ったステンドグラスの破片とばらまかれた十字架は丁寧にユウタに払われて赤絨毯の上に落ちていく。そうしてようやく私の魔物としての姿がユウタの前に晒された。
黒い瞳に映し出される、白い鱗を生やしたドラゴン。
その姿を見てなんと言うべきなのか言葉が見つからないのか、どう反応すればいいのかわかっていないのかユウタは何も答えない。
「…」
「やはりその…変か?」
「あ、いや…」
不安を孕んだ声色に慌てて両手を振りながらユウタは言った。
「なんか一週間前と全然違う格好してるから驚いちゃってさ」
「そうだろうな…ふふん。私自身がこうなったことに一番驚いているしな」
「あれだけフィオナのこと邪険にしてたしね」
「女を前に別の女のことを話すな、馬鹿者」
「ごめん。でもその姿もいいと思うよ。かっこいいし」
それは女心を気にかけないただの意見だった。
だが、この男らしい。本来ならばもっと気の利いた台詞を聞きたかったのだが我慢しよう。そういうことは今やるべき事を終わらせてからだ。
「というかお前、魔界に行ったのではないのか?」
「行ったというか無理やり連れてかれたよ。でも道中付き添いの騎士から逃げてそれで―」
「―私が連れてきたのよ」
上から声が降り注ぎ、そちらを向くと砕け散ったステンドグラスのところに太陽を背にして座り込む白い悪魔がいた。私の姿を視界に収めるとうっとりした表情を浮かべる。
「ふふ♪レジーナのドラゴン姿、やっぱり似合ってるわ♪」
「お前に言われても嬉しくないがな」
フィオナは白い翼を羽ばたかせ私たちの隣へと降り立った。
フィオナとユウタ。この二人が共にいるということは何があったのか言われずともわかる。多方魔界へ行くとフィオナに伝えたユウタがこの女の手を借りてとんぼ返りでもしてきたというところだろう。よりにもよってこの魔物との縁がこんな形で役にたつことになろうとは…なんとも複雑な気分だった。
「ぐ、ぅう…」
「!」
蹴り抜かれた顔を手で覆いながら唸り声を上げてこちらへと体を起こすディオース。祭壇前に並んだ私たちへ視線を向けると目を見開いた。
「リリム…!?」
「そうよ、よろしく♪」
真っ白な髪の毛を揺らし笑ってウインクまでするフィオナ。普通の男ならば虜にする仕草なのだろうが流石神の声を聞けるだけあってかディオースは惑わされることなく睨みつけてきた。
その視線が隣へ移る。
白の隣の黒へと。
その姿を見た途端聖職者の顔は苦々しいものへと変貌していった。
「黒崎、ユウタぁ……っ!!」
「…」
忌々しく呼ばれる名前にユウタは目を細め、私たちの前へと一歩踏み出す。
まるで目の前の男から守るように。
まるで目前の獲物を射殺すように。
「あろうことかレジーナ姫を誑かすだけではなくリリムとまで通じていようとは……なんと罪深きことかっ!」
憤怒の言葉を口にしながらディオースは燃え上がるような殺気を滾らせ手にした聖書を開いた。先ほど転がっていった十字架もいつの間にか手の内に有りその二つをもって私たちと対峙する。
「ぽっと出てきた石ころが…愚劣極まりない存在が…」
「…」
「貴様さえいなければ全て上手くいったはずなのに…レジーナ姫も愚かな存在へと身を堕とすこともなく、神の言葉のままに事が運んだものを……っ!!」
その言葉にまた一歩、ユウタが踏み出した。ちらりと振り返ると私とフィオナを見て笑みを浮かべる。嫌でも感じられる殺気の充満した空間内だというのにやはりいつもどおりの表情だ。
「レジーナ、ここはオレに任せてもらっていい?」
「んん?」
にぃっと歯を見せた笑みを浮かべてユウタは手をぶらつかせた。今まで気づかなかったがそこには黒々と光るガントレットが覆っている。その下では固く拳を握り込んでいることだろう。
「結婚式で男が無理やり女を手篭めにしようとするんなら真正面から殴りとってくのが礼儀でしょ。ここは男の見せ場なんだ、レジーナは女らしく待っててよ」
「ふふん♪言ってくれるではないか」
女らしく、なんて言葉を言ってくれるのは女中以外にはこの男だけだ。その声で、その一言こそが私をどんな時でも嬉しくさせる。例え死に直面していた状況でも、だ。
それに、とユウタは言葉を続ける。普段と違う、僅かに低い声色で。そこへ今まで見せたことのない感情を、怒りの色を混ぜ込んで。
「レジーナを傷つけようとしたやつを許せるかよ」
ああ、と思う。
この声は聞いてるだけで心強い。
この背中は眺めているだけでも心地いい。
この笑みは向けられるだけで温かくなる。
ずっと頼っていたくなり、ずっと寄り添っていたくなる。
これが私の求めた男。
私が認めた、たった一人の男。
「なら」
共に手を取り合ってこの国を去ろう。
それがディユシエロ王国王女、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロの最後となる。
一緒に並んでこの国を出て行こう。
これで一人の女、ドラゴンとなったレジーナの始まりとなる。
「お前に任せるぞ、ユウタ」
「お綺麗ですよ、レジーナ様」
この服を着せた女中の隣で私はくるりと見せつけるように回転した。姿見の中の私は一応笑みを浮かべながら純白のドレスを纏っている。
「流石はディユシエロ王国の王女様です。これならきっと教皇様も気に入ることでしょう」
「…ふん」
穢れのない真っ白な処女雪を仕立て上げたようなウエディングドレス。それは人生の晴れ舞台とも呼べる場で纏うことのできる、女ならば誰もが憧れる一着だ。私とて普段のドレスと違うこのドレスを着ることに憧れを抱いていたこともある。
ただ、望まぬ相手との結婚式で着ることになるとは皮肉なものだが。
「…」
私は鏡に映った私を眺める。
鏡の向こうの私は何を思っているだろう。硬い笑みを浮かべて耐えるように拳を握って取り繕うようにドレスを纏う私は何を考えているのだろう。
ジパングで見たユカタを纏った私は何を思っていたのだろう。全てを忘れ、敵国のような場所でもただ笑えてたあの時の私は何を考えていたのだろう。
あの時捨てた私は何を思っていたのだろう。
そんな風に考えると部屋のドアがノックされた。私が目線で指示すると女中がドアを開ける。
そこに立っていたのは特徴的な青い長髪を纏め整えた一人の勇者の姿だった。私を見ると普段見せないようなきっちりした姿で頭を恭しく下げてくる。
「ごきげんよう、レジーナ王女様。今日護衛を務めさせていただきますアイル=フォン=リヴァージュでございます」
「…なんだその言葉遣いは」
「いや、流石の俺様も礼節を重んじたほうがいいかと思ってさ。それにして似合ってるぜ、ウエディングドレス」
アイルは私を指差してそう言った。いつも女を口説くようなものではなく、どこか羨望を感じさせるため息とともに。
私たちの会話に邪魔をしないように気を遣ったのか女中は一礼してドアから出て行った。静かに閉められたドアへとアイルがもたれかかり、私の周りを見渡して怪訝そうに表情を変えた。
「にしてもここにもユウタ君いないんだな。姫様の護衛なのにドアの外にもいないし、どうしたってんだよ?」
「…ユウタはいない」
ここにはいないというか、挙式の一週間前から会っていない。一週間もあればそれは楽しい日々を過ごせたことだろう。またあの鍛練場でともに精を出すのも良かっただろうし、ユウタが隣にいるだけでもよかった。
本当は会いたくなかったわけじゃない、ただ、会ってしまうと揺らいでしまう。
今日という日に決めた、もう後戻りできない覚悟が。
揺らぎたくない、成し遂げなければならない覚悟が。
「ユウタは今日は非番にしてある」
「そりゃまた…せっかくのユウタ君に一番見せたい姿じゃねぇのそれ?」
「馬鹿者、こんな情けない姿見せられるか」
「…そだな」
結婚式でウエディング姿を見せるのが好いた相手ならばいいだろう。だが相手はあの男。望んだわけではないウエディング姿など見て欲しいわけない。
決めた男性以外の隣で見せるにはあまりにも辛すぎる。
「嫌なら姫様も責任ほっぽり出して逃げちまえばいいんじゃねぇの?俺様みたいにさ」
「ふふん」
私はアイルの言葉に鼻で嘲るように笑ってやった。
「逃げるなんて私には似合わんな。お前は今目の前にいる女を誰だと思っている?」
戦争を司り、軍務を支配し、この国を支えてきた私には最後まで逃走なんてことはあってはいけない。
それこそが私、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロなのだから。
だから。
「何があっても逃げることなどしない。逃げることは、な」
「……そっか」
椅子から立ち上がる際に手を差し出されるが押しのける。アイルはその行為ににやりと笑みを浮かべると私の正面へ移動する。そして自分の胸に手を当てて言った。
「お互い似た者同士だ、選んだ道を阻むようなマネしねぇぜ。例え姫様になにかあろうと俺様たちはやってってやるからよ」
「ふふん。そんなに意気込んでいては苦労するぞ?」
「姫様ほどでもねぇよ」
だがその言葉はありがたい。その一言が私の決断から迷いを消し、後ろを気にすることなく進んでいける。
私とこの人間だからこそ通じられるところがある。きっと立場が逆だったならば私も同じことをしたかもしれない。そう思えるほどこの人間と私は根本が似ているのだ。
「っと、それから一つお知らせ」
「なんだ?」
アイルは二人しかいない部屋の中だというのに何かを気にするように小声で耳元で囁いた。
「…式の護衛配置が変更された」
「何?」
その言葉に私は片眉釣り上げる。
「あの配置はちょいと甘いんじゃないかだとよ。それで勇者の配置は俺様のみ式場内で、ほかの三人は街とか城門とか教会周辺の護衛騎士たちの指揮を任されてる。その代わり式場内は騎士団長直々選出の精鋭と教皇様お付きの護衛部隊とでそりゃもうとんでもないことになってるぜ」
「…そうか」
勇者の配置は全て式場内、護衛部隊は少なく最低限の数しか用意させていなかった。さらにはその提案も決定を下したのも全て私だ。
その提案を却下し、あまつさえ変更できる者は限られてくる。それなりに学があり、戦略を理解しなおかつ私と同等かそれ以上の地位にいるもの。
すなわち父である国王か妹である二人目の王女。
それがどちらかなど聞かずともわかる。
「ふふん…」
多方私の配置に違和感を感じたことだろう。この配置ではあまりにも手薄であるとか、勇者達の位置があまりにも集中しすぎてまるで外から何かを迎え入れるような、騎士達の配置が甘く逃げるにはもってこいの位置にいるような、そんなものを感じたことだろう。
我が妹ながら流石としか言い様がない。
だが。
「上等だ」
それが逆に甘いとも言える。
いくら政治事に精通していようが軍略にはとんと向いていないらしい。
私がこのような展開になることを予期していなかったわけがない。当然誰かが異議を唱えたに違いないと予想できていた。そして騎士の配置を変えることも予想内。
ただ式を飾るには少々物足りない気もするが、これはこれでありだろう。
私は椅子から立ち上がる。そろそろ式の時間だ、女中が迎えに来るのを待つのもいいがわざわざ手間をかけるわけにもいかない。
するとアイルが再び手を差し出してきた。さらには私の瞳を覗き込み誘うように言葉を紡ぐ。
「ほれ姫様。エスコートしますぜ?」
「いや、遠慮しておこう」
「え?なんで?」
「ふふん」
こんなナンパ者に私の隣は譲れない。私のエスコートをする者はたった一人で十分だ。それ以外に立たせるつもりはないのだから。
「行くぞ」
「お供しますぜ」
その一言とともに私は大きく一歩を踏み出した。
二人の騎士がそれぞれドアを開け、アイルも一礼して下がる。踏み出した空間は光に包まれ、真っ赤な絨毯の上を私は歩き始めた。
大きな教会内に用意された数十列の椅子には隙間なく様々な者が座っている。参列するものは王族縁の者たちや賓客、はたまた各隊の隊長や騎士団長。そして私の家族である父の国王と妹の王女。皆手を叩いて私を迎え入れた。
絨毯の上を歩み進んだ先に待っているのは結婚式用に着付けたらしい十字架の刻まれたタキシード姿のディオース。その表情は聖職者らしい清らかな微笑みと違う裏に何かを秘めた男の顔だった。
「お綺麗ですよ、レジーナ姫様。神もこの喜ばしい日を喜んでくださることでしょう」
「…ふん」
私は特に言うことなくディオースと並ぶようにその場に立った。正直これだけでも気分が悪い。どうしてこんな者の隣にわざわざ並ばなければならないのか。
ため息をつきたい気分だったが今は仕方ない。ここで殴りかかればさぞ気分がいいのだろうが我慢する。
「それと、ご安心くださいレジーナ姫様」
「…何がだ?」
周りに聞こえないように、目前に控える牧師にすら悟られないようにディオースは話しかけてくる。こうすること自体気だるいのだがなんとか堪えなければならない。
「随分と手薄だった警備の方ですがこちらで万全に整えさせてもらいました。誠に勝手ながらあのような配置では危険がないとも言い切れず万が一のため、貴方の妹君と共にこちらで決定させていただきました」
「…ふん」
そうか。やはり私の妹が一枚噛んでいたか。そしてこの配置にはこの男が加担していたのか。
なんとも甘い。
全てが甘い。
この程度で堅牢の守りと誰がいえようか。
この程度で頑強の守備と誰が呼べようか。
確かにこの配置ならば大抵の敵も魔物も侵入させることはできないだろう。外からの侵入者も蟻一匹さえ見逃すことはないはずだ。
―だが、相手にする者は必ずしも外から来るとは限らない。
「ああ、それと」
はたと気づいたように言って顔は牧師へ向けたまま、視線は私へと向けてくるディオース。
「レジーナ姫様がご執心なされていたあの男は魔界へと遠征に向かわせました」
「っ!」
「ちょうどいいことに非番だったらしいですからね。あの男も少しは勇者となるべく素質を磨かせなければなりませんので。神も申しておりますよ。『生けるもの皆全うしなければならない使命を背負う』とね」
わかりやすいくらい得意げな笑みは見るものを不快にさせる。特に他人の思考を先読みして手玉にとったと天狗になる者ほど見るに耐えないものはない。正直殴ってやろうかと思えるほどだ。だがそんな感情をぎりぎり押し殺して私は静かに言葉を返す。
「…それが何だ」
「いえ、先に言っておくべきことだと思いまして。この場で言うべきことではありませんがそれでも式には集中していただきたいので」
「…よく喋る聖職者だ」
できることならそのまま喋ってこんなくだらない式をぶち壊してもらいたいものだ。
正面の牧師に目配せすると彼は咳払いを一つして宣誓の言葉を口にする。
「汝ディオース・ネフェッシュはこの女レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロを妻とし、良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他のものに依らず、死が二人を分かつまで愛を誓い、妻を想い、妻のみに添うことを誓いますか?」
「誓います」
静かな誓い。安らかな笑み。それを確認して牧師は私へと視線を向けた。
「汝レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロはこの男ディオースネ・フェッシュを夫とし、良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他のものに依らず、死が二人を分かつまで愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを誓いますか?」
「…」
その宣言に私は口を開こうとしなかった。
沈黙が続き流石に周りも不審がってざわつき始める。隣のディオースは怪訝に思うこともなく勝ち誇ったすまし顔であり、牧師は私に対して再び同じ宣言をする。だが、私は無言で返すまでだ。
「どうしたんだ?」
「マリッジブルーというやつだろう、レジーナ姫とて女なのだから」
「勇猛果敢な姫様にも女らしいところがあったということですな」
参列する者たちはそのようなことを言っているが当然私は正気だし、マリッジブルーなんてものになっているわけではない。女らしいなどと失礼なことを行った輩は後々殴りつけておこうか。
いや、その機会はもうない。
「…レジーナ様、誓いますか?」
もう一度牧師が心配そうに言葉を繰り返した。対して私は何も言わない。これ以上付き合ってやるつもりもない。
もう十分待ったのだから。
今まで存分に耐え抜いたのだから。
―だから、もう、いいだろう?
「誓わない」
響き渡るその一言に一瞬結婚式場全ての者が固まった。参列するものが、騎士達が、牧師が、隣の男すらも。誰もが声を失い私の口にした言葉の意味に目を見開く。
「い、今…なんと…?」
「聞こえなかったか?誓わないと言ったんだ」
隣にいたディオースは表情を歪め、牧師は固まり、背後の参列者は皆驚愕の声をあげた。
その中私は振り返り皆に姿を見せつけるように立つ。
「私はこの婚姻を誓わない」
もう一度高らかに宣言し、私は着ていたウエディングドレスの胸元を掴むと力任せに引っ張った。飾り付けられた布は破れ、宙を舞うベールは光を反射する。
高級感あふれる真っ白な生地の下から現れたのは私の素肌と白い鱗だった。それだけではない。臀部からは太い尻尾が生え、背中からは巨大な翼が広がり頭からは鋭い角が生えている。両腕両足は人間のものから形を変え鋭い爪と頑丈な鱗に覆われていた。
どこをどう見ても人間ではない姿。
それは紛れもない魔物である証。
―私は地上の王者である『ドラゴン』となった。
こうなったのは一週間前、ちょうどユウタとともにジパングへと温泉街へと訪れた時のこと。混浴の温泉でユウタが出て行ったあのあとフィオナと二人でいたとき、私は覚悟を決めて魔物になることを選んだ。
全てはこの婚姻を拒むため。
全てがたった一人の男性を手に入れるため。
「王として誇り高い姿に雄々しい角を」
白い悪魔は指を躍らせた。
「主君として気高き素質に端麗な尻尾を」
真っ白な淫魔は吐息を漏らした。
「覇者として偉大な心に赫々たる翼を」
純白のリリムは言葉を紡いだ。
「女として抱いた気持ちに素敵な誕生を、レジーナにあげるわ♪」
―王族としての血を否定し。
―退魔の力を宿した体を捨て。
―私はレジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロという存在を抹消した。
「ふふん♪」
この一週間どれほど辛い思いをしてきたことか。
魔物の体になった故に体は熱く、下腹部は疼き、あの体の感触も逞しい腕もふわりと漂う香りも甘く熱烈な口づけも全てが欲しくなってしまった。それを押しとどめて耐えることがこれほど厳しいことだとは思わなかった。
理性が揺れる。本能が滾る。欲望が溢れる。
熱にうかされたような、夢の中にいるような心地でありながら体は一人の男性を求めて止まずたった一週間の間に何度求めてしまいそうになったことか。
こんな状態で会おうものなら私は決めた覚悟を覆すこととなる。抱きしめ、唇を奪い、情欲のままに交わり続けたことだろう。そしてこの国をさっさと出てどこかの宿にでもこもって止まることなく求め続けたに違いない。そうでなくともこの国を陥落させて魔界にしてやろうかと何度か思うこともあった。
随分と我慢をしたものだ。だが、その我慢はこの時のため。
「私はこの結婚を望まない。お前のような男らしくない者の妻になりたいわけがないだろう?」
認めたのは一人の人間。
求めるのはあの男のみ。
触れていいのも口付けていいのも契っていいのも結婚していいのもあの男だけだ。
「ど、ドラゴン…っ!」
「そんな…レジーナ様が魔物にっ!?」
「何が…何が起きているんだ!?」
「なぜこんなことに…」
式の参列者は口々にそう言って驚愕を隠せないらしい。一国の王女が目の前で魔物の姿として現れれば当然そうなるだろう。
だが驚いても平静を保てる者もいないわけではない。
「おい騎士共!参列者を直ぐに逃せ!王様、姫様は俺様が付くからさっさと動け!相手はドラゴンである上にレジーナ姫だ!並の騎士じゃ敵わねぇ、さっさと逃がす方にまわれ!」
普段おちゃらけてナンパばかりしているとは思えないほど的確に指示を飛ばして教会内の騎士達を巧みに動かしていく一人の人間。あれでも腐っても勇者ということだろう。
勇者は剣を抜くことなく私を見据えながらも参列者や戦えない者たちを率先して逃がそうと行動する。修道女を逃がし、女中を護衛の者に護らせ、非戦闘員を素早く誘導する。
そして王族である私の父と妹の傍に立つとこちらを振り返った。
「王様、姫様!ここにいるのは危険だ。大切なレジーナ姫がああなっちまったのは気の毒だがドラゴン相手じゃこの教会も無事じゃ済まねぇ、さっさと離れるぜ」
その言葉とともに二人の手を取ると一瞬私を見据えて―ウィンクした。
「…ふふん」
次の瞬間にはその場から三人の姿は消え去っていた。どうやら転移魔法を用いて飛んだらしい。これなら私がここで暴れても被害のない場所へと避難してくれたことだろう。
そして私に戦いやすい場を提供してくれた。護衛の者たちを幾人か避難へ割いたのは私が相手するだろう騎士たちの数を減らすためか。別にあの程度の騎士くらい数十人まとめてかかってきても平気なのだがあの勇者は普段女誑しなクセにこういうときだけは気をきかせて…それでもあの男には遠く及ばないが。
「愚かな…っ!」
皆あらかた避難が終わり教会内に残されたのは戦闘員である騎士たちと私になったとき、ディオースは顔をこれ以上ないくらいに歪めて私を睨みつけた。そこにあるのは魔物に対する嫌悪か、思い通りに事が運ばない憤怒か、私が拒否したことへの憎悪か、あるいはその全てか。
いずれにせよこれでディオースとの結婚は破棄となったわけだ。神の声を聞きいれる男がまさか魔物と婚約するようなことはあるはずがない。
「なんと貴方は…愚しい…っ!!」
もう一度ディオースは愚かと続けた。
「私との婚姻を拒むどころか自ら魔物へと身を堕とすなど…その愚行、あまりにも度し難いっ!神は…神はこのようなこと認めるはずがないというのに!!」
「神だ神だとうるさいぞ、ディオース」
「なぜ…なぜ貴方は神の言葉を信じないのですか!?この国をより強く!より良くする者を世継ぎとして残さなければならないというのに!神も申しております。『貴方と私は婚姻を結び、選ばれしものをこの世に産み落とさなければならない』と!」
憎々しく私を睨みつけディオースはがなる。耳障りで聞いてはいられない声色で。
それでいい。それこそ私が狙ったことだ。
「貴方は神に逆らうおつもりですか!?国に背くのですか!?」
「ああ」
その言葉に私はハッキリと言葉を返した。
鋭い爪を向け、尖った牙を見せ、金色の長髪を靡かせ白色のウロコを輝かせて私は胸を張る。
恥じることはなにもないのだ、この国の人間として絶対にやってはならないことをしてもこれが私が決めた覚悟。ならば今更躊躇うことはない。
ぎしりとディオースが悔しそうに歯ぎしりをして。
「愚かな…っ!」
また愚かと言った。
「なぜですか!?貴方ともあろうお方が…ディユシエロ王国王女ともあろう貴方が!よりにもよってこの世で一番下賤で浅ましく愚かな存在へと身を堕とすなんて…なぜですか!?」
「ふふんっ。そんなものは簡単だ。お前との婚姻が嫌だったという理由もあるが―」
「―私が魔物になった理由はただの女として生きたくなったからだ」
愛する男と結ばれるため。
理由としては何ともチンケで安っぽいものだろう。だがそれだけが私を突き動かしたのは事実。
あの男一人がそこまで私を染め上げたことは紛れもない真実。
姿を見せない声だけの、それも特定の人物にしか語りかけない神の声よりも。
神の声と言いながらそこに自分の欲を混ぜた聖職者の声よりも。
あの男の声だけが私に響き、突き動かした。
「今まで国を背負ってきた。きっとこれからも一生背負い続けることだっただろう」
それが王族の勤めであり運命。逃れられない義務であり歩まなければならない道。
だがその男は道の外から寄り添っては別の道へと誘い込む。
聖職者の言葉よりもずっと正しく。
魔物の言葉よりもずっと甘く。
神の言葉よりもずっと強く。
そして―
「だが」
―誰よりも男らしく。
「王族として背負うのではなくて、女として背負われる感覚も味わってみたくてな」
女としてあの男の背を眺めて生きていくのがいい。
女性としてあの男性と共に道を歩むのがたまらない。
そのために私は国を、王女という地位を、私の背負ってきた全てを捨てよう。
「お、愚かなぁ…っ!!」
わなわなと震える指先をこちらへ向け、自分がどれほど見苦しい姿なのか気づいたのか一度こほんと咳払いしてディオースはこちらを見据えた。
「い…いいでしょう。仮にその神に背く行為の理由がそんなくだらない下劣なものだったとしてよくもまぁ魔へと身を堕としながらこの場所にのこのこと来たものですね。さっさと尻尾を巻いて逃げるという道もあったのに」
「だからお前は男らしくないんだ、ディオース」
ディオースの言葉に私は馬鹿にするように笑ってやった。
本当にこの男は何もわかってない。これだから私の周りの男はダメなんだ。
一人を除いて。
「私がわざわざ命を落とす危険を冒してまでこの場に訪れた理由がわからないか。聖職者故に合理性を求めすぎだ」
―これこそが、この行動こそが、私の覚悟。
「せっかくの結婚式なんだ、最高のタイミングで断るほうが粋だろう?」
皆が皆殺しにかかってくるであろう騎士たちのど真ん中で、結婚式をあげようとしていたこの愚か者の前で、命の危険を顧みずに自分の言葉を述べること。
魔物となった姿を晒し、真正面から拒絶の意を示すこと。
逃げることなど性に合わない。胸を張り堂々と立ち向かうことこそ私である。
無事で済まないだろうがそれぐらいの危険を承知の上で私はこの場に来たのだから。
略奪婚など似合わない。
攫われる私などありはしない。
婚姻から逃れようと国を出るわけがない。
「ふふん♪」
逃げるのではなく立ち向かう。
略奪ではなく蹂躙する。
攫われるのではなく奪い去る。
勝鬨をあげ、悠々と歩き、絶対的な勝者の後ろ姿を見せつけて去る。それこそがレジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロという一人の女だ。
最も、結婚式中に奪われるなどと絵空事を想像していなかったわけではない。抱きかかえられ教会から脱出するなどまるでおとぎ話な展開を期待しなかったわけではない。
あの黒い服を纏った男が白いウエディングドレスを着た私を抱えてともに国を逃亡する。ロマン溢れ乙女が憧れるシチュエーションだがやはり私にはあいそうにない。
―それ以上に怖かった。
この姿を見てユウタがなんと言うのかわからない。
あの男のことだ、リリムを友人のように迎え入れたのだからそうひどい反応をされることはないだろう。それくらいわかってる。
だが、全てわかってるわけじゃない。
あの闇色の瞳の中に何があるのか。谷によりも深い性格の中に何を隠しているのか。夜よりもずっと暗く、何より黒いあの心に何を潜ませているのか私はまだまだ理解していない。
恐れられないか。
嫌われないか。
私はただ怖がってるだけなんだ。
―…私というやつは…本当に弱くなったものだ…。
「この、愚か者がぁ!!」
その一言で周りにいた護衛の騎士達が剣を抜いた。非戦闘員は全て避難し、いるのは私を殺しにかかってくるもののみ。
だが動揺を隠せないのか鋒が震え、魔法を使おうとする者は呪文がうまく紡げずにいる。それだけ私の姿はショックだったということだろう。
逆に屈辱と受け取った者もいるらしいが。
「神の言の葉に背く愚か者め!貴方はもうこの国の王女ではない!」
「ここに来た時からそのつもりだ」
この空間内で一番怒り狂った聖職者はどこに隠していたのか一冊の本と十字架を取り出した。
青く分厚い本と銀色に輝く十字架。
神の言葉を記した聖なる書物と退魔の力を宿した神聖な崇拝の対象。どちらも魔物に対して力を発揮するものだ。
「神の声を聞くこの私との婚姻を拒むどころか自ら魔物へと身を堕とした愚か者よ!せめてこの私の前で、神の言の葉を身に刻みながら刺し貫かれよ!その鱗一つ、髪の毛一本も余すことなく退魔の炎で焼き焦がしてやる!」
ディオースは聖書を開き十字架を掲げた。ステンドグラス越しの光に反射して眩しく光る。
「私の一言は神の一言と同義!神の言葉を聞き入れる私の声は神の声と同じ!!私という存在は神そのものである!!」
掲げた十字架の先は滅すべき対象である魔物へと向けられる。
「神は申しております!」
ディオースは私に、騎士たちに向かって宣言するように高らかに言った。
「『この愚か者を、殺せ!!』」
その一言と共に周りの騎士達全てが飛びかかってきた。
「…つまらん」
皆剣を抜き、殺す気でかかってきた数分後、私は倒れ伏した騎士たちの上に立っていた。
私を魔物として殺そうとする姿は稽古では見られない鬼気迫るものだった。これこそ戦場を生きる男の姿、なんとも雄々しく賞賛すべきものだった。
だが、稽古がなってないのか実力が伴っていないのか誰も私に傷一つつけられない始末。軽く首を振るうだけで剣は避けられ、腕を振るえば刀剣が砕けて散った。
王女を相手にすることに躊躇いを感じているのか。
ドラゴンと敵対することに恐れおののいたのか。
いや、それだけではないか。
私がこの姿になったことが大きな原因だろう。
魔物というのは人間よりも強靭な肉体を保持しているという。あのリリムも一見ただの女性の細腕だがそこから生まれる力は半端なものではない。中には腕一本で建物を倒壊させるなど馬鹿げたものもいるらしい。
今の私はその存在だ。力は滾り、感覚は研ぎ澄まされ、技はキレが増して実力は跳ね上がった。
「…」
その感覚を確かめるように手を握る。人間の頃と違う感覚に私は小さく息を吐いた。
魔物になるというのは存外悪いことではない。だが、今この状況においては良いとはいえないだろう。
なぜなら今私は万全の体調とは言えない。というのも、そもそもこのディユシエロ王国は主神を崇め、魔物は人間を堕落させる存在とされている。
魔物は悪。
魔物は敵。
それならばこの国は魔物に対する手段が無限に存在する。迎撃するための魔法や魔物へ立ち向かう騎士達、魔物を滅することを使命とした勇者に主神の教えを掲げる聖職者。それだけではなくこの国自体、この領地自体もその手段の一つ。
魔界には踏み入れるだけで魔物になってしまうほど濃密な魔力が漂う地があるという。その逆に、並の魔物ならば踏み入れるだけで存在が消え失せる場所がこの国にはある。
王族が守護する聖域。
聖女が司る大聖堂。
そして、今私がこうして立っているこの、神を崇めるための教会。
「…ふふん」
私が魔物になってしまったからか教会内に入ってから空気が痛い。まるで刃を押し付けられているかのように痛い。それだけではなく体は重いし、頭の中がぼんやりする。四肢はまるで痺れたように動きが鈍いし、ただ立っているだけで体力を奪われてるんじゃないかと思うほど気だるい。本当ならば青白い退魔の炎に焼かれて消えるのだが元々退魔の力を宿す王族であった私だからこの程度で済んでいるのだろう。
だが、全部わかっていたことだ。分かっていたことでこの場に訪れた。
死ぬ危険があるならば超えなければならない。
無事で済まぬと分かっていてもなさなければならない。
それが私の決めた覚悟なのだから。
踏みつけた足の下から『ありがとうございます』なんて聞こえてくるのだが無視。振り返って私は祭壇に立ち尽くす一人の人間を見据えた。
「どうしたディオース。この程度で魔物を迎え撃つつもりだったのか?」
悔しそうに顔を歪めて憎々しいと言わんばかりの視線を向ける聖職者。そんな相手を前に私は得意げに鼻を鳴らす。
まったく、この程度の護衛を揃えたところで万全の対策と言えるとはなんとも片腹痛い。これでは私がいなくなったらこの国はどうなってしまうのだろうか。いや、寧ろそちらのほうが魔物の私にとっては都合がいいのかもしれない。
「愚か者…がぁ!!」
ディオースは何度も憎々しげに呟いて聖書を仕舞うと別の十字架を剣のように引き抜いた。長い部分から解き放たれたのはステンドグラスの光を鋭く反射する刃。神を称え崇めるための道具であると同時に魔物を滅する武器だ。
「神よ、私は貴方の意志を代行します」
その言葉とともに十字の刃が青白く光を発する。私には見慣れたそれは紛れもない退魔の力。
私を殺すための力。
ディオースは刃の先をこちらへと向けた。
「堕落した愚かなる存在よ…貴方のような者は私の手で、神の手で滅っされなければならないっ!!」
「っ!」
次の瞬間ディオースはどこからか取り出したなにかを振りかぶってこちらへ投げつけてきた。それを思わず条件反射で叩き落としてしまう。
それはてっきりナイフのようなものかと思っていたが砕ける感触にそうでないと理解する。
「―っ!」
砕け散ったのはガラスの破片。飛び散ったのは透明な液体。
それは紛れもない退魔の力を宿した聖水。
「ああっ!!」
並の魔物ならば濡れた部分が溶けていったことだろうがどうやら私はドラゴンという存在だからか、それとも王家の血によるものか威力が緩和されている。だがそれでも私の動きを奪うだけの激痛が体中を駆け巡った。
この程度、何の問題もない。傷にもなっていないだけのただの一撃だ、構うこともない。まだまだ戦える。
そう思って一歩踏み出そうとしていたその時、目前にディオースが迫っていた。
「消えよ!!」
銀色に光る刃。青白く灯った光。騎士たちの持っていた剣と比べればなんとも短いものだが直に触れようものなら肌が焼け、大怪我するに違いない。
だが所詮握り方も振り方も実力はとうてい私に及ばない。容易くその刃の一閃を避けられるものだ。
しかし。
「…ぐっ」
いきなりぐらりと傾く体。
突然がくんと崩れる膝。
視界は揺れ、意識がぼやける。
先ほどの聖水のせいか、それともこの教会内にいるせいか、どちらかはわからないがこの瞬間にそのようなことになるとはなんともタイミングの悪いことだった。
「ふんっ!」
「ぐっ!」
その隙を逃すことなく一本の腕が突き出された。
こんなのでも教皇。いざという時のためそれなりに体は動くし、戦うこともできる。神の声を聞き入れ、上からものを言うだけのただの無能ではない。
その上私の体調は万全ではない。おそらく今は人間であった時よりもずっと体は動かない。そこらの騎士になら負けることはないだろうがそれ以上の実力者には劣ってしまう。
刃を避けた私の首を掴むとそのまま一気に祭壇に叩きつけられた。追い討ちをかけるようにディオースが覆いかぶさってくる。
喉元に突きつけられる十字架の刃。あと髪の毛一本でも近づければ私の喉へ食い込み、退魔の力は肌を焼いて切り裂くことだろう。そうなれば私の命はこの男に奪われることとなる。
ディオースはゆっくりと口を開いた。
「貴方は道を違えてしまった。それは許しがたい罪でしょう。神は申しております。『死して償え』と」
そう言ってディオースは手にしていた十字の刃を掲げた。ステンドグラスを通して差し込む光が鋭く反射し、笑みを浮かべた顔を照らし出す。
なんとも隙だらけな姿だ。
今目の前にしているのがこの国で先頭を切って戦いに臨んでいた者だということを理解しているのか、この馬鹿は。勝利を確信したときほど隙だらけになる瞬間はないというのに。
頭は痛い。目眩はする。呼吸が辛い。この場所にいること自体が厳しい。だが私にはこの程度の人間一人跳ね飛ばすぐらいの力はまだ残ってる。
そんな相手に刃一つで距離を詰めるなど愚の骨頂。
―刃一つだけなら、だ。
「神よ!私は貴方の言葉を代行します!!」
ディオースは服の内側にいくつももっていただろう退魔の力を示す純銀の十字架をばらまいた。
「!」
どれも大きさとしては手のひらに収まる程度のもの。アクセサリーとなんら変わらない大きさだがその一つ一つには退魔の力を宿している。何よりこの聖職者が、神の声を聞けるというこの男がこの状況でばらまくものがただの十字架なわけがない。
「くそっ!」
悪態をつきながらその場から逃れようと体をばたつかせるが教会のせいで力が入らない。翼を広げようにも今までこの姿を隠していたのだから飛び方はまだわからないし、せっかくついた尻尾も同様だ。
結果私は成すすべもなく体の上に十字架がまかれた。
「っ!!」
熱い。どの十字架も熱い。肌を焼くというよりも溶かされるのではないかと思えるほどに。
「無理して動かない方がいいですよ。普通の魔物ならその十字架一つだけでも動きを止められるほどなんですから。さらには教会という場所ですからいかに格上の魔物とて無事で済むはずがないでしょう?」
柔らかな言葉遣いだが込められているのは紛れもない殺意。それから思い通りに行かなかった事へ対する憤怒だろう。ぎらつく瞳には慈愛も情けも存在しない。存在するのは魔物へ対する嫌悪のみだ。
「せめて貴方を苦しまずに滅して差し上げます。私も神も情け深いのです」
「…何が情け深いだ、馬鹿者が」
私の悪態にディオースは笑みを浮かべた。
汚れてはならない聖職者が浮かべるのに相応しい安らかな笑みを。
神に仕える者が浮かべるには相応しくない卑下た笑みを。
どちらとも捉えられる綺麗で残酷な笑みを。
「死んでください、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロ」
「…ふふん」
元々死ぬことを覚悟してここに趣いたのだ、これで終わってしまっても後悔はない。
…いや。
死ぬのだとしたらせめて女としての喜びくらい知っておきたかった。子を孕み、家庭を築き、一家団欒と暮らしていく。平凡でありふれたそんな日常を過ごしてみたかった。
それが叶わないのならばせめてあの時、無理やりにでも体を交えるべきだっただろうか。涙を流してでも懇願すべきだっただろうか。
今更悔いたところでどうにもできないのだが。
「…今更、か」
小さく自嘲気味に私は呟いた。
こんな時なら潔く死を迎え入れるべきなのだろう。それだというのに後悔をするなんて…私は本当に変わってしまったようだ。魔物になったからではなく、もっとずっと前からだろう。
全てはあの男との出会いから始まった。
ならあの男とともに終わりを迎えたかった。
叶わぬ願いだが、もう仕方ない。
体は自由が効かないし、聞いたところで少々無茶をしすぎた。もう少し魔物の体になれていれば別だっただろうがそんなこと今更悔いても遅い。
掲げられた十字架の刃の先に瞼を閉じて最後の瞬間を迎えようとしたその時。
ガラスの砕け散る音が響いた。
「っ!」
「!!」
赤の、青の、黄色の、白の、色様々なステンドグラスの破片が飛び散り輝く。その中で一際目立つのは輝くことなく飛び込んできた一つの固まり。
それは深く。
それは濃く。
それは黒く。
全てを引きずり込むような闇を纏った黒崎ユウタだった。
「レジィィィィナァアアアアアアアアア!!!」
私の名前を叫びながら砕いたガラスの破片をものともせずに飛び込んでくる。
ディオースの言葉を信じるならばユウタは今頃魔界だったはず。魔界なんてこの国のそばに存在しているわけがない。ならどうしてここにいるのか。
いや、そんなことはどうでもいい!
「!?」
歓喜の顔をする私と驚愕の表情を浮かべるディオース。そしてユウタは祭壇に着地すると私の顔面スレスレを、ディオースの顔を目掛けて足が振り抜かれた。
「おごっ!」
鈍い音と共にディオースははるか後方へと吹っ飛ばされる。頭から床にぶつかって二、三回転し、敷かれた赤絨毯の上で止まった。
蹴った本人は祭壇から飛び降り、祭壇に倒されていた私の手を握った。
私の手と彼の手が触れる。ドラゴンとして爪と鱗の生えた大きな手は人間のものと比べると一回り大きくなってしまったがその手は私のものよりもずっと力強く握ってきた。熱い体温に異常な硬さを持つ骨、逞しくそして柔らかな手つき。
紛れもなく私の求めたもの。
そして彼は普段のように笑みを浮かべて私を呼んだ。
「レジーナ、大丈夫?」
人間を捨てた私に驚くことなく、嫌うことすらせず、怪訝に思うこともなく、普段となんら変わらない態度でそう言った。
この感触だ。
その笑みだ。
この感覚だ。
その声だ。
私が求めて止まないもの。そして私が欲したもの。
「ふふん♪遅いぞ、ユウタ」
私は待ち焦がれていた男性の名を呼んだ。
「だが中々悪くないタイミングだ。いや、本当ならもっと早く来るべきだっただろうな」
「どっちなのさ」
私は引っ張り起こされてその場に立ち上がった。飛び散ったステンドグラスの破片とばらまかれた十字架は丁寧にユウタに払われて赤絨毯の上に落ちていく。そうしてようやく私の魔物としての姿がユウタの前に晒された。
黒い瞳に映し出される、白い鱗を生やしたドラゴン。
その姿を見てなんと言うべきなのか言葉が見つからないのか、どう反応すればいいのかわかっていないのかユウタは何も答えない。
「…」
「やはりその…変か?」
「あ、いや…」
不安を孕んだ声色に慌てて両手を振りながらユウタは言った。
「なんか一週間前と全然違う格好してるから驚いちゃってさ」
「そうだろうな…ふふん。私自身がこうなったことに一番驚いているしな」
「あれだけフィオナのこと邪険にしてたしね」
「女を前に別の女のことを話すな、馬鹿者」
「ごめん。でもその姿もいいと思うよ。かっこいいし」
それは女心を気にかけないただの意見だった。
だが、この男らしい。本来ならばもっと気の利いた台詞を聞きたかったのだが我慢しよう。そういうことは今やるべき事を終わらせてからだ。
「というかお前、魔界に行ったのではないのか?」
「行ったというか無理やり連れてかれたよ。でも道中付き添いの騎士から逃げてそれで―」
「―私が連れてきたのよ」
上から声が降り注ぎ、そちらを向くと砕け散ったステンドグラスのところに太陽を背にして座り込む白い悪魔がいた。私の姿を視界に収めるとうっとりした表情を浮かべる。
「ふふ♪レジーナのドラゴン姿、やっぱり似合ってるわ♪」
「お前に言われても嬉しくないがな」
フィオナは白い翼を羽ばたかせ私たちの隣へと降り立った。
フィオナとユウタ。この二人が共にいるということは何があったのか言われずともわかる。多方魔界へ行くとフィオナに伝えたユウタがこの女の手を借りてとんぼ返りでもしてきたというところだろう。よりにもよってこの魔物との縁がこんな形で役にたつことになろうとは…なんとも複雑な気分だった。
「ぐ、ぅう…」
「!」
蹴り抜かれた顔を手で覆いながら唸り声を上げてこちらへと体を起こすディオース。祭壇前に並んだ私たちへ視線を向けると目を見開いた。
「リリム…!?」
「そうよ、よろしく♪」
真っ白な髪の毛を揺らし笑ってウインクまでするフィオナ。普通の男ならば虜にする仕草なのだろうが流石神の声を聞けるだけあってかディオースは惑わされることなく睨みつけてきた。
その視線が隣へ移る。
白の隣の黒へと。
その姿を見た途端聖職者の顔は苦々しいものへと変貌していった。
「黒崎、ユウタぁ……っ!!」
「…」
忌々しく呼ばれる名前にユウタは目を細め、私たちの前へと一歩踏み出す。
まるで目の前の男から守るように。
まるで目前の獲物を射殺すように。
「あろうことかレジーナ姫を誑かすだけではなくリリムとまで通じていようとは……なんと罪深きことかっ!」
憤怒の言葉を口にしながらディオースは燃え上がるような殺気を滾らせ手にした聖書を開いた。先ほど転がっていった十字架もいつの間にか手の内に有りその二つをもって私たちと対峙する。
「ぽっと出てきた石ころが…愚劣極まりない存在が…」
「…」
「貴様さえいなければ全て上手くいったはずなのに…レジーナ姫も愚かな存在へと身を堕とすこともなく、神の言葉のままに事が運んだものを……っ!!」
その言葉にまた一歩、ユウタが踏み出した。ちらりと振り返ると私とフィオナを見て笑みを浮かべる。嫌でも感じられる殺気の充満した空間内だというのにやはりいつもどおりの表情だ。
「レジーナ、ここはオレに任せてもらっていい?」
「んん?」
にぃっと歯を見せた笑みを浮かべてユウタは手をぶらつかせた。今まで気づかなかったがそこには黒々と光るガントレットが覆っている。その下では固く拳を握り込んでいることだろう。
「結婚式で男が無理やり女を手篭めにしようとするんなら真正面から殴りとってくのが礼儀でしょ。ここは男の見せ場なんだ、レジーナは女らしく待っててよ」
「ふふん♪言ってくれるではないか」
女らしく、なんて言葉を言ってくれるのは女中以外にはこの男だけだ。その声で、その一言こそが私をどんな時でも嬉しくさせる。例え死に直面していた状況でも、だ。
それに、とユウタは言葉を続ける。普段と違う、僅かに低い声色で。そこへ今まで見せたことのない感情を、怒りの色を混ぜ込んで。
「レジーナを傷つけようとしたやつを許せるかよ」
ああ、と思う。
この声は聞いてるだけで心強い。
この背中は眺めているだけでも心地いい。
この笑みは向けられるだけで温かくなる。
ずっと頼っていたくなり、ずっと寄り添っていたくなる。
これが私の求めた男。
私が認めた、たった一人の男。
「なら」
共に手を取り合ってこの国を去ろう。
それがディユシエロ王国王女、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロの最後となる。
一緒に並んでこの国を出て行こう。
これで一人の女、ドラゴンとなったレジーナの始まりとなる。
「お前に任せるぞ、ユウタ」
13/11/16 23:29更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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