湯煙の落涙
「…よし」
赤い暖簾をくぐると中々広い脱衣所に出た。木の板でできた床に真っ白な壁。その中央にあるのは蔓で編まれた籠とバスタオルとタオルがセットになって入っている棚が並ぶ。出た後はこれで拭けということだろう。質素というか簡素というか、飾り気がない。ジパングの家屋とはこういうものなのだろうか。
私は帯をほどきユカタを脱ぎ捨てる。
「…」
ほんのわずかな時間着飾っていられた私の存在。ジパングの文化に染めた私の姿。ただの布で魔力すら込められていないというのに着ているときは王女ということを忘れていた。
このジパングだからか。
このキモノのおかげか。
ユウタの隣だったからか。
暫く手にしたキモノを眺めると折りたたんで籠へと入れる。一度着た服だ、二度目は自分の手で着られるだろう。
タオルで体を包むと脱衣所から温泉へと足を進めた。横開きで曇りガラスのはめられたドアを開ける。その向こうに広がっていたのは石で作られた床や風呂、それらを覆い隠すように湧き出す大量の湯気だった。
「…ふむ」
竹垣で仕切りを作り、野外に風呂を設置することで開放感ある空間となっているのか。普段は室内で湯浴みをするのだが空が見える風呂というのも悪いものではない。時折吹き付ける風がなんとも心地よさそうだ。
その場をゆっくりと進んでいくと漂う湯気の向こうに黒い影が現れた。その影はおそらく体を洗ったあとなんだろう、頭の上から湯を被ると立ち上がって温泉の方へと歩いていく。
私に気づいた様子はない。
「ふふん♪」
これからその影が浮かべるだろう表情を思い浮かべると思わず笑みが浮かんでしまう。それをなんとか噛み殺し、湯に浸かったタイミングを見計らって名を呼んだ。
「ユウタ」
「…………え?レジーナ?」
そこにいたのは先ほど私と別れたはずである黒崎ユウタの姿だった。ユウタは湯気の中から出てきた私の姿を見ると目を見開き固まった。
驚いた表情ではあるのだがその驚きが尋常じゃない。口づけをした時とはまた違う余裕なんて欠片もない表情も珍しくて面白いものだ。
「なんだその反応は?まるで鳩が火炎魔法を打ち込まれたようだぞ?」
「…いやいやいやいや」
大慌てで湯を撒き散らし奥の方へと逃げていく。
おぉ、これは…恥ずかしがっているな♪
「なんでレジーナがここにいんのさっ!?ここ男湯なのに!?」
「それはおかしいな。私は女湯の暖簾をくぐってきたぞ?」
その言葉がユウタは全く理解できていない。だが私にはわかっている。
そもそもはユウタがもらってきたというあの温泉宿のチケット。あの紙切れの詳細はユウタのわからないこの世界の言葉で書かれていた。
デカデカと目立つように書かれていた言葉。
『貸切混浴露天風呂』
つまりこの温泉に私たち以外入ってくる者はいない。そして混浴故に男女で風呂が分かれていない。
あの商売人はそれを狙っていたのだろう。混浴の温泉で互いに一糸纏わぬ姿になったところで誘惑し、ユウタを篭絡せんと考えていたことだろう。見事に裏目に出たわけだが。
「…まさかこの温泉混浴?」
「そうなんだろうなぁ♪」
手近なところにあったタオルを手に取るとユウタは腰をあげて後ろへと足を動かし始めた。
湯気でよく見えないがそれでも絞られた体だということがよくわかる。ほどよく付けられた筋肉には無駄がなくしなやかな四肢は細くても逞しく私の目に映る。
男性の体とは初めて見るものだが…これはなんとも美しいものだ。
「ふふん♪中々男らしい体をしているじゃないか、ユウタ」
足をつけるとやや熱めの湯が肌に染み込んでくる。白く濁った湯なのでタオルを離しても湯に浸かれば見られることはないだろう。
まぁ、この男には見せてやってもいいのだが。
「…」
私が一歩進むとユウタは一歩下がっていく。だがこの温泉は広くも限りがないわけじゃない。後ろに下がれば下がるほど壁が近づくだけだ。
一歩また一歩、進んだところでユウタの足が止まった。どうやら背中に壁が当たったらしい。
「うぁ…壁…」
「何を逃げる必要がある?別に取って食ったりしないんだぞ?」
「いや、だからって一緒に入っていいもんじゃないでしょうが」
「別にいいだろうが。一国の王女と湯を共にすることがどれほどの名誉だがわかっているのか?そこらの騎士なら泣いて喜ぶところだぞ?」
「オレはそこらの騎士じゃないんで。名誉よりも常識を重んじるんだよ」
「なんだ、男だったら普通喜ぶものだろうが、もったいないやつめ」
これ以上近づけば距離は詰められるだろうがそれでは面白くない。いや、既に顔を赤くしたユウタを眺めているのもいいが今は少し落ち着きたかった。
私はその場に腰を下ろして湯に体を浸す。
「…」
「何ぼーっとつっ立っているんだ。そんなところにいては湯冷めするぞ」
「いや、だって…」
「別に背中を流せというのではない、さっさと傍に来いと言っているだけだ。私の命に対する返事は忘れたのか?」
「…」
渋々といった面持ちでユウタはゆっくりこちらへ歩み寄ってくる。そのまま私の隣に来るかと思ったら背中に自分の背中を向けて座り込んだ。相変わらずの男だと苦笑する。
「…」
「…」
言葉はなし。聞こえるのは吹き付ける風の音のみ。
会話がないものの悪い雰囲気ではない。こういう自然をそのままに感じられる空間内で二人きりというのも中々乙なものだ。
ちらりとユウタを見た。肩越しゆえにハッキリ見えたわけではないものの温泉の湯のせいかそれとも私と共に入っているせいか、頬がほんのり赤らんでいる。きっと後者だ、そうに違いない。
「いいものだな」
私はぽつりと言葉を零すと背後で頷く気配を感じた。
上を見れば薄暗い空と眩い星、淡い光を放つ月が見える。湯に浸かりながら外の景色を楽しめるというのはまた格別だ。そこにいるのがこの男だということも…。
「だね。露天風呂っていうのも久しぶりかも」
「なんだ、入ったことあるのか?」
「修学旅行のスキー旅行の時に」
「んん?しゅうがく旅行?」
「こっちで言う遠征みたいなもんさ。遠出して普段できない学習をしようってところ」
「楽しそうな行事だな」
「わりと楽しかったよ。友人もうちの姉も、先生もやたらとはっちゃけててさ」
「…そうか」
「うん…そうだよ」
「……ユウタは…やはり大切な人を残してきたのか」
「…そりゃね」
湯が波打ち水滴が散る。どうやらユウタが顔に湯をかけたらしい。気の抜けた声と共に息を吐き出すとユウタは囁くように人の名を口にした。
「お父さんにお母さん、姉ちゃん。もういないお爺ちゃんとお婆ちゃんに世話してくれた先生に玉藻姉に猫の夜宵。京極に早乙女先生に後輩。
―それから、師匠とあやか」
最後の二人だけ、名を呼ぶときの声色がわずかながら違っていた。先に名をあげた人たちと比べると明らかに何か特別な感情を抱いている、そう思わせる声だった。
ならば、二人はきっとユウタにとって大切な存在だったのだろう。先ほどあげた親族とはまた違う、もっと特別な者だったのだろう。
「…恋人だったのか?その…先程言った者は」
「んなまさか。オレは年齢イコール恋人いない歴の男だからね。さっき言ったあやかってのはオレの双子の姉さ」
「姉か。お前にもそういうのがいるんだな」
カラカラ笑って答える態度は普段と変わらないものだった。
だが、私はよくわかってる。その笑みに秘めた感情がどれほど深くて大きなものか。
かつてユウタが語った夢の言葉。そこにはユウタと関わり深い者たちが何人もいたことだろう。その世界でしか成し得なかった平々凡々な日常こそがユウタが描く理想だったはずだ。
それを全て奪い去ってしまった私にはユウタの態度が痛々しく感じられるだけだった。
「…」
だが…もし。
もしも、その夢に。
ユウタの語った夢に私が介入するのはどうだろうか。
平々凡々で刺激の少なそうな、それでもありふれた幸せに囲まれて暮らす平穏の日々はどれほど楽しいことだろう。
契を交わし、子をなし、家族を作り、暮らしていく。そんな王族から離れた普通の女として生きていくとしたら私はどうなるのだろうか。
そうなった私は…きっと後悔はしないだろう。
―だが、私はどうやったら後悔せずに済んだのだろうか。
「…なぁ、ユウタ」
「ん?何?」
「聞いてくれないか?その……私の悩み事」
「…」
背後で僅かに動く気配がする。水面が波たち、ユウタが肩越しにこちらを振り向いた。
それを私も肩ごしに見て視線を戻す。
この話は正面から話すにはあまりにも辛い。
ここまで親しくしてきた男だからこそ、辛い。
ただ言葉にするだけでもあまりにもきつい。
今まで傍にいてくれた彼だからこそ、きつい。
「…私は」
この事実はユウタにだけは言いたくなかった。
だが、逆にユウタに知っておいて欲しかった。
「……私は、な…」
たったの一言、口にすることなどたやすいはずだ。だが私の喉は動かず舌も動きを止めてしまう。唇だって塞がって体が伝えることを拒否してしまう。
おかしいな。この程度のこと普段と比べればずいぶん楽なのに。国民の前でのスピーチや騎士達を盛り上げるための口上の方がよっぽど面倒なことなのに。
「……………わた、し、は…」
こんな一言すら言えなくなるほど私は…弱くなってしまったのか。
すると見かねたのかそれとも私を気遣ってかユウタがそっと呟いた。
「…もしかして結婚したり?」
その言葉に私の体は強ばった。表情すら固まった。
そして、胸が痛くなった。
「………知っていたのか」
「そりゃ」
ぱしゃりとユウタが水面を叩いた。
「年頃のお姫様が嫌がることといえば政略結婚って相場は決まってるんだよ」
「決まっている、か………まぁ、そうなんだがな」
「…そっか」
私は小さく息を吐いてそっと後ろにもたれかかった。すぐ後ろにあったユウタの背中が一瞬緊張に震え、それでも支えてくれる。
「世継ぎを成すことは王族の義務だ。その上で大切なことが何かユウタはわかるか?」
「…より強い子供にすること?」
「そうだ」
王族としてまず世継ぎに求められるのは強い力を持った子供。病弱な人間が人の上に立つことはできても体が弱ければ長く国を治めることはできない。それだけではなく戦事で先陣をきれるような力もときには必要なんだ、そのためより優れた体が望まれる。
ゆえに、求められるのは力を持った相手との子供だ。
「なら、その相手は…?もしかしてアイルだったり?」
「まさか。あんなナンパ者話にもならん。ユウタも最近見た…あれだ」
「ああ…あの男か……え?ちょっとまって」
はたと気づいたようにユウタが言った。
「あの男って教皇なんでしょ?それって聖職者じゃないの?聖職者が結婚って…普通だめじゃないの?」
「ユウタ。国がより強くなるのとくだらない規律に従うのとではどちらが賢い判断だと思う?お前ならわかるだろう?」
「そりゃ……」
政治に宗教は関係ない。いや、政治にとって宗教は道具だ。
時には民を率いる旗として、時には魔を滅する鉾として利用できる材料でしかない。それをうまく扱えるのは私ではなくあの男と私の父と妹ぐらいだろう。
そして、今回の話を持ちかけたのは父とあの男。この国にさらなる力をつけるためと婚姻を持ちかけてきた。
私たち王族のみに宿る退魔の力。
あの男に宿った神の声を聞く力。
受け継がれれば生まれてくるのは魔物共にとって脅威となる存在。
あまりにも単純な考えであり、恋愛感情のない無機質な王族の義務である。
「より強い世継ぎを作るため、より強い男を求めるのは当然のこと。王族ならば国の行く末を案じ、宿った力をさらに強力にするためにそういった相手を迎え入れることが義務だ」
それは政略結婚となんら変わらない。
好いた者でもないのに契り、国のために人生を捧げる。私情を挟む余地のない、生まれて背負うことになる義務。王族であっても抗えない、寧ろ、王族だからこそ逆らえない運命。
ただ、もしも…。
もしもその相手が選べるのならば…。
「…どうして、お前ではないのだろうな」
振り返り、後ろの相手の前へとまわる。私を真っ直ぐに映し出してくれる闇色の瞳を潤んだ目で見据えた。
リリムの魅了に耐えうる体質。それならば他の魔物からの魅了にすら対抗できるということ。この国にとって、この世界にとって、魔物に対抗するための最高の素質。
それを持つユウタならば私の相手に相応しかったはずだ。
退魔の力を宿す私と魅了をものともしないユウタ。
魔を退ける血と染められない心。
あの男と比べても劣らない素質をもつユウタがもっと早く私の前に現れてくれれば、私が迎え入れる存在は変えることができていたはずだ。
もう少し、早く出会えていれば…。
「なぁ、ユウタ…」
だが一度決められたことを覆すことなど私にはできなかった。一国の王女であっても覆せない決定は存在する。
それは父親の、ディユシエロ王国国王の決定。
国に住まう民ならば、国に忠誠を誓う騎士ならば、神を信じこの国に身を捧げた聖職者ならば、そしてこの国を背負う王族ならば誰もが従わざるを得ないもの。
一度決められれば本人すら変えられない命令。
その命令を下す前にユウタがいてくれたなら…私は……。
「ん?何…?」
すぐ傍にユウタがいる。
手を伸ばせば届く距離、一歩近づけば体がぶつかる位置。
触れるのに一秒もかからない、身を寄せるのに邪魔はない。
そして、ここにいるのはただの男と女。
別世界から来たことなんて何も意味をなさない。
王族であることなんて何の理由にもならない。
たった二人だけの空間だ。
「…」
抱いてしまった感情をこの時だけでも。
湧いてしまった気持ちを今だけでも。
待っている運命はこの感情を殺すこととなろう。
受け入れがたい義務はこの気持ちを消し去ってくことだろう。
だから…だから…っ。
「今、だけでも…」
「…レジーナ?」
そっと身を寄せるとユウタは体を後退させた。だが戸惑っているのかその動きは非常にゆっくりなものだった。
一気に体を倒すと慌てながらも彼の体に支えられる。温泉とは違う優しい熱がじんわりと染み込んできた。既に体を洗ったのだろう石鹸とそれに混じったユウタの香りに体の奥が切なくなる。
「…んっ」
「むっ!」
感情のまま、気持ちのままに私はユウタの顎を掴むと力づくで唇を重ねた。逃げられないようにもう片手で肩を抱き、体を押し付ける。
私の胸を潰す逞しく鍛え上げられた硬い胸板の感触に隠そうにも隠せない心臓の鼓動の音。ほんのりと感じる甘い口づけの味。それから切なくも嬉しい心の声。
押しのけられれるかと思ったが抵抗らしい抵抗はない。それをいいことに私はさらに体重をかけて唇を押し付けた。
啄むように重ねては、啜るように触れ合わせる。
「ちゅ……♪」
そっと唇を離せば僅かに瞼を下ろした男の顔。吐き出す息が荒いのは先程の口づけによる興奮のものだろうか。
それは私も同じ。胸の内側で爆発しそうなほど激しく轟く心音を感じる。指先が震え、体に力を込められない。
仕方なく倒れ掛かるようにユウタにもたれかかりながら私は囁くように言葉を紡いだ。
「ユウタ…」
その願いが叶わないのなら…。
「今だけでいい…」
想うだけで何もできないなら…。
「一度だけでいい…」
望んだところで届かないのなら…。
「だから…」
―穢れのない私という存在を。
「私を…お前だけの女にしてくれ…」
―お前という色で染め上げてくれ…。
「…それは、嫌だ」
だがユウタは私の手から逃れるように身を翻した。川の流れに乗ったかのような身動きで湯の中だというのにするする進み、温泉の淵へと到達する。
顔は口づけのせいで真っ赤になっているのに浮かんだ表情はどこか悲しげなものだった。
「…なんでだ、ユウタ。なんで拒否するんだ…?私が、このレジーナ。ヴィルジニテ・ディユシエロが求めているんだぞ?男として、名誉な事なんだぞ…?」
拒否されたことにより声が震えてしまう。だがこの程度、予想通りで普段通り気丈に振舞おうとしているのだが…気づけば私は唇をかんでいた。
「それをなんで…拒否する?私はそんなに…魅力がないか?」
「そんなことない。そんなことないけど…」
だけど、ユウタはそう言ってこちらを真っ直ぐ見た。
「そんなの一時的に逃げてるだけだよ」
「………そうだ…私は逃げようとしているんだ」
自分ではわかっている。嫌というほど自覚している。
逃亡などディユシエロ王国雨所としてあってはならないことだ。戦場で前線を駆けた私にとって似つかわしくない行動だ。
だけど、それでも今はこれぐらいしかできそうにない。
こうでもしていないと私は………私を保てなくなってしまう。
抱いた感情が爆発して、湧き出した気持ちが弾け飛んで王族の私と女の私が入り乱れてどうにかなってしまう。
王族としての責任を果たしたい私。
女としてユウタとともにいたい私。
どちらかをここで殺さなければ私は前に進めない。
「一時でもいい…僅かな時間でいいんだ……」
私は縋るようにユウタに抱きついて溢れ出す感情のまま言葉を紡いだ。
「私に夢を、見せてくれ」
ユウタと過ごす時間はとても楽しかった。おそらく私の人生の中で一番であり、まさに夢のようなものだった。
だからこそ夢からは覚めなければいけない。
夢から覚めて現実を見つめなければいけない。
私が、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロ、ディユシエロ王国の王女である限りうつつを抜かしてはいられない。
「あとはもう、何も求めないから…」
―だから、女でいられる私に最後の夢を、見せてくれ…。
「ふざけんな」
だがユウタの言葉は冷たかった。口調も変わるほど冷たかった。
「…嫌か」
「ああ、嫌だ」
「そうか…」
自嘲気味に笑って私はうつむいた。この男からそんな言葉を聞くとは思えなかったからだ。
普段から優しくて私の言葉にはなんだかんだで従ってくれた私の護衛は静かに言葉を紡いだ。
「逃げるんだったら逃げ続けろよ」
「…は?」
「逃げるって決めたんなら一時なんじゃなくて逃げ切れって言ってんだよ」
思わず顔を上げるとユウタの黒い瞳と視線がぶつかった。真っ直ぐにこちらを向き、宿った意志が闇の中でもハッキリとわかるほど強く輝く。
「そもそもなんだよ。それでどうなる?たった一度、終わったらまた王族としての責務の中に放り込まれて、あげくには人生を国に捧げるだけじゃん。それじゃあまるで人柱だ」
「それが王たるものだ。それこそ私の歩まなければいけない道だ」
ユウタは心底呆れたようにため息をつき、疲れたと言わんばかりにこちらを見つめる。呆れているのは私の方だというのに。
この男は知らないんだ。
王族として生まれた者の人生がどれほど辛く厳しいものなのか。
王者としての地位が抱いた夢をどのように消し去っていくものなのか。
「ユウタはわかるのか?民の命を、国の行く末を一生背負って生きなければならない私の苦労がわかるのか…っ?」
「わからねぇよっ!!」
その一言は滅茶苦茶だった。滅茶苦茶で、馬鹿馬鹿しくて、可笑しくて、荒唐無稽で、だけど、真っ直ぐな言葉だった。
「王女?王族?そんなもん知るか!民の命を背負うだって?見誤ってんじゃねぇよ!」
怒りを込めて、それ以上に真っ直ぐな心を込めた言葉が響いてくる。
「王族に生まれたからってずっと王族でいる義務をまっとうするつもりかよ!?国民だからって、人間誰かに背負われなきゃ生きていけないほど弱くはないだろうが!」
「…だが…だが私は王族だ!民が皆そうであっても先導する私が、責任を背負うべき王族がいなければ国は成り立たないんだぞ!」
「レジーナは王女である前に女性だろ!!」
その一言に私は言いかけた言葉を止めた。
短く、そして単純な言葉。怒鳴り声で紡がれたシンプルな一言。
だけど、その一言が何よりも私の胸へと染み込んでくる。鼻の奥がつんとして、目の前が歪んでしまうほどに。
歪んでしまったユウタの姿。それでもハッキリ見える黒い瞳がまっすぐ私を捉えてくれる。
「それだっていうのになんだよ。普段みたいな命令口調はどうした?オレに言う時は堂々と偉そうに我侭言ってくるくせに、自分の時は押し殺すっていうのかよ!」
そこまで言い切るとユウタは小さく息を吐き出し、先ほどと打って変わって落ち着いた様子で言った。
「泣くほど嫌ならやめればいい」
縋りつきたくなるほど優しい声で。
「逃げたくなったら逃げればいい」
曲げようのない真っ直ぐな言葉で。
「嫌なことぐらい嫌って言えるだろ」
吸い込まれそうな闇色の瞳を向けて。
そして、言った。
「レジーナはオレと違ってまだ選択の余地があるだろ?嫌なら拒むことがまだできるだろ?それなのに仕方ないって受け入れるのかよ…?」
その一言は別世界から連れてこられたユウタだからこそあまりにも鋭くなり、重くなり
私へ深く突き刺さった。
実際声色にも寂寥に似た感情が混ざっていた。本来なら泣き出したいはずの心を押し殺してひねり出した声は僅かに震えていた。
「受け入れてレジーナは…笑ってられるのかよ…っ!?」
浮かべた表情は苦々しくて切ないもの。
きっとこれは普段笑顔という仮面をつけているユウタの本心なんだ。苦しくても苦しいと言い出せなくて、泣き出したくても泣けなくて、伸ばした手は絶対に届かないことを知ってしまったユウタの心なんだろう。
絡まった鎖は解けなくて。
付けられた錠は鍵穴がなくて。
押し込まれた独房には窓すらない。
希望の光も存在しない闇へと落ちたからこそ、ユウタはその辛さを知っている。元の世界へと戻れないという絶望を味わったからこそユウタの言葉は響くんだ。
「…とにかくさ」
ユウタは私に背を向けて温泉の外へと足を進める。どうやらもう上がるらしい。
「オレがレジーナの将来に文句つけられないってわかってるけど…でもレジーナには選ぶチャンスが残ってる。オレと違ってさ」
一度湯から片足を出した状態でユウタは止まった。
「だから」
振り返った表情は笑みだった。ただ、笑みというにはあまりにも寂しげな、今にも涙をこぼしてしまいそうな泣き顔に近かった。
「レジーナは…レジーナの好きなことをやればいい。やらずに後悔するよりも、やる暇なく後悔するよりも……一生懸命やれば後悔なんてしないんだからさ」
そう言い残してこの空間から出て行ってしまう。追いかけようにもその背中はあまりにも遠くて私の手が届かないように感じられた。
距離にして数歩なのに。
こんな距離一瞬でつめられるのに。
それでも私はその場から動けなかった。
「言って……くれるな…ユウタ……」
あの男に出会う前ならば嫌々ながらも受け入れる覚悟は出来ていた。仕方ないと自分を納得させて突き進む準備は出来ていた。
だというのに、今はどうしたことだろうか。
拒みたくて、縋りつきたくて堪らない。
抱きしめた腕を離したくない。
重なり合った肌を離したくない。
気づいた心を手放したくない。
あの男に出会ったせいで私は楽しく、嬉しく、愉快で、心地よい日々を過ごせてしまった。
きっとそのせいだろう。それがなければ私はいつものように凛々しく王者としての姿勢を崩すことなどなかったはずだ。胸を張って堂々と自分の運命を受け入れることができたはずだ。
ああ、私は……
―私は…弱くなってしまったなぁ………
甘えすぎて、ねだりすぎて、女々しく、弱々しい、ただの女に成り下がってしまった。
「ふふん…」
自嘲気味に笑って滲んだ涙を拭う。誰もいないこの場でなら思い切り泣いても良かったのだろうが染み付いた王女としての性格がそれを許さなかった。
ユウタなら、思い切り私を泣かせてくれただろうに。ああ見えて気を配れる男だ、泣き喚く私を抱きしめてその掌で優しく撫でたことだろう。
そんなことを考えて頭を振る。
さっきからずっとユウタのことばかりではないか。
また守ってほしいのか。
再び手を繋いでほしいのか。
ずっと傍に居て欲しいのか。
いや…私はそう望んでいるんだ。
「…っ」
一人になって、少し頭が冷えてようやく私はそれに気づいた。本来ならば一人にならずともこの程度気づくことができたはずだった。それがこの体たらくとは…そこまで私はユウタのことしか目になかったのかもしれない。
白い湯気の向こう側、気づかれないように気配を消し、湯気に映る影も光魔法で消し去ってまでここにいる愚か者。実力者でもそうそう見破れない気配りと高度な魔法だが気づけたのは水面の僅かな揺れと夜風に混じる甘い香り。
「何をしているんだ、フィオナ」
名を呼ぶと真っ白な湯気の向こう側からフィオナは姿を現した。きっと私たちが入るよりも先に湯に浸かって身を隠していたのだろう、頬は赤くなりどこか目も虚ろだった。
それでも血のように赤い瞳は私を真っ直ぐに捉えていた。
「人の話を盗み聞くとは感心しないな。流石は魔物ということか」
「…」
「その様子では私たちのデートもずっと見ていたのだな?ふふん♪羨ましかっただろう?」
「…」
「お前の入れる余地などない。さっさと尻尾巻いて帰れ」
「…今日は、何もしないのね」
反応がなく長湯でのぼせたのかと思っていたがそうではないらしい。フィオナは遠慮がちにそう言った。
「…する気も起きないだけだ」
以前なら目にしただけで剣を抜き斬りかかっていたというのにだ。以前なら会話なんてものもしないし、こんな場所にも訪れるはずがなかった。
どうやら私は角も取れて丸くなってしまったらしい。
本当に私は変わってしまった。
「ね、レジーナはどうするの?」
「どうするとは何をだ?」
「その…結婚…」
「…聞いていたのだろう?私たちの会話を」
聞かれたくない泣き言すら聞いていたのだろうこの魔物は。気まずそうな表情を浮かべるものの視線は外そうとせずこちらを見据える。
「間違ってるわ。間違ってるわよ、それって」
「…」
「好きでもない人と結婚するなんてあっていいわけないじゃない。ユウタが言ってた通りに泣くほど嫌ならやめればいいのに」
「そんなこと、できればやっている…」
水面が目前にあるのに足には鎖が絡まり手は届かない。例えるならばそういうことだ。
もがき苦しみ、それでも水から這い出したい。その向こうに広がる世界がどれほど素晴らしいか私は知ってしまった。だからこそ無駄だと分かっても今まで私はもがき続けていたんだ。
優しく暖かな日の光。水のせせらぎに小鳥の囀り。生い茂る野原に香る緑の匂い。平穏を約束された希望の園。
その場で隣にいるのはただ一人の男。その男の夢を重ねるならば一軒家でも建っていて私達によく似た子供が隣にいる。二人で挟むように両側から体を寄せてのどかな風を感じながら三人で微睡んだらどれほど心地いいことか。
だからこそ。
敗戦という名の水に溺れたくない。
敗北という名の底へ沈みたくない。
それでも背負った運命という鎖はあまりにも強固で私を絡めて離さない。
「女として生きれないの?」
「女として生きたいさ」
「ならそうすればいいじゃない」
「そうできないのが王族なんだ。お前と違ってな」
薄笑いとともに皮肉を込めて言ってやる。そうすればいつものフィオナなら大声あげて反論するのだが彼女はそんなことはなくただ俯くだけだった。
これは少し言いすぎたか…なんて、気づけば考えていた。そんな気遣いまでするとは。
「…本当に、変わったな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
「……ねぇ、レジーナ」
「なんだ?」
「貴方、やっぱり魔物にならない?」
「またその話か」
「王国が大切なら貴方が魔物になって魔界にしちゃえばいいじゃない。そうすれば改めて貴方が国を治めることも、国民を背負うこともできるでしょ?」
「…お前はあくまで魔物化へ持っていくのだな」
フィオナは魔物化を勧めるがユウタは逃げたくなったら逃げればいいと言っていた。
逃げるが勝ちとはよくいうがそれが全てのことに通るわけではない。逃げられない戦いだって沢山あるし逃げ道すらない場合もあるのだから。
だが。
「魔界にする…」
「いい案でしょ?そうすれば皆魔物になって以前と変わらず…いえ、ちょっとは騒がしくなるけど幸せに暮らせるはずよ?」
「くだらん」
呟きはしたがそんなことあってたまるか。
ディユシエロ王国王女が反旗を翻し魔物と手を組んで一人の男のために国を堕とす。物語としてはありだろうが現実にはなしだ。
それに、例え腐ろうが身を魔へと落とそうが私は王族である。背負うべき国を自らの手で堕落させるなどあってなるものか。
しかし、私はユウタの言葉を思い返す。優しく紡がれたあの言葉を。
「『好きなことをやればいい』…か」
責任か、自由か。
義務か、好意か。
どちらを選べば後悔しないかなど言うまでもない。
どちらをとれば懸命になれるのか考えるまでもない。
今までさんざん迷ってしまった。
ここまでひどく躊躇ってしまった。
なら、もう決断すべきだろう。
「…」
私は隣のフィオナを見据えた。白い髪から生えた二本の黒い角。エルフのように尖った耳にゆっくりと動く翼。それから背後でずっと揺れる尻尾。
どれも人間にないものであり、人外であることを証明する姿。
「…」
―なぁ、ユウタ…
「フィオナ…」
「な、何かしら…?」
―もしも私が、こちらの道を進んだとしたら……
「手を、貸せ……」
―お前は私が選んだ道の先にいてくれるだろうか………?
ここにはいない男に向かって私は心の中でつぶやいた。
赤い暖簾をくぐると中々広い脱衣所に出た。木の板でできた床に真っ白な壁。その中央にあるのは蔓で編まれた籠とバスタオルとタオルがセットになって入っている棚が並ぶ。出た後はこれで拭けということだろう。質素というか簡素というか、飾り気がない。ジパングの家屋とはこういうものなのだろうか。
私は帯をほどきユカタを脱ぎ捨てる。
「…」
ほんのわずかな時間着飾っていられた私の存在。ジパングの文化に染めた私の姿。ただの布で魔力すら込められていないというのに着ているときは王女ということを忘れていた。
このジパングだからか。
このキモノのおかげか。
ユウタの隣だったからか。
暫く手にしたキモノを眺めると折りたたんで籠へと入れる。一度着た服だ、二度目は自分の手で着られるだろう。
タオルで体を包むと脱衣所から温泉へと足を進めた。横開きで曇りガラスのはめられたドアを開ける。その向こうに広がっていたのは石で作られた床や風呂、それらを覆い隠すように湧き出す大量の湯気だった。
「…ふむ」
竹垣で仕切りを作り、野外に風呂を設置することで開放感ある空間となっているのか。普段は室内で湯浴みをするのだが空が見える風呂というのも悪いものではない。時折吹き付ける風がなんとも心地よさそうだ。
その場をゆっくりと進んでいくと漂う湯気の向こうに黒い影が現れた。その影はおそらく体を洗ったあとなんだろう、頭の上から湯を被ると立ち上がって温泉の方へと歩いていく。
私に気づいた様子はない。
「ふふん♪」
これからその影が浮かべるだろう表情を思い浮かべると思わず笑みが浮かんでしまう。それをなんとか噛み殺し、湯に浸かったタイミングを見計らって名を呼んだ。
「ユウタ」
「…………え?レジーナ?」
そこにいたのは先ほど私と別れたはずである黒崎ユウタの姿だった。ユウタは湯気の中から出てきた私の姿を見ると目を見開き固まった。
驚いた表情ではあるのだがその驚きが尋常じゃない。口づけをした時とはまた違う余裕なんて欠片もない表情も珍しくて面白いものだ。
「なんだその反応は?まるで鳩が火炎魔法を打ち込まれたようだぞ?」
「…いやいやいやいや」
大慌てで湯を撒き散らし奥の方へと逃げていく。
おぉ、これは…恥ずかしがっているな♪
「なんでレジーナがここにいんのさっ!?ここ男湯なのに!?」
「それはおかしいな。私は女湯の暖簾をくぐってきたぞ?」
その言葉がユウタは全く理解できていない。だが私にはわかっている。
そもそもはユウタがもらってきたというあの温泉宿のチケット。あの紙切れの詳細はユウタのわからないこの世界の言葉で書かれていた。
デカデカと目立つように書かれていた言葉。
『貸切混浴露天風呂』
つまりこの温泉に私たち以外入ってくる者はいない。そして混浴故に男女で風呂が分かれていない。
あの商売人はそれを狙っていたのだろう。混浴の温泉で互いに一糸纏わぬ姿になったところで誘惑し、ユウタを篭絡せんと考えていたことだろう。見事に裏目に出たわけだが。
「…まさかこの温泉混浴?」
「そうなんだろうなぁ♪」
手近なところにあったタオルを手に取るとユウタは腰をあげて後ろへと足を動かし始めた。
湯気でよく見えないがそれでも絞られた体だということがよくわかる。ほどよく付けられた筋肉には無駄がなくしなやかな四肢は細くても逞しく私の目に映る。
男性の体とは初めて見るものだが…これはなんとも美しいものだ。
「ふふん♪中々男らしい体をしているじゃないか、ユウタ」
足をつけるとやや熱めの湯が肌に染み込んでくる。白く濁った湯なのでタオルを離しても湯に浸かれば見られることはないだろう。
まぁ、この男には見せてやってもいいのだが。
「…」
私が一歩進むとユウタは一歩下がっていく。だがこの温泉は広くも限りがないわけじゃない。後ろに下がれば下がるほど壁が近づくだけだ。
一歩また一歩、進んだところでユウタの足が止まった。どうやら背中に壁が当たったらしい。
「うぁ…壁…」
「何を逃げる必要がある?別に取って食ったりしないんだぞ?」
「いや、だからって一緒に入っていいもんじゃないでしょうが」
「別にいいだろうが。一国の王女と湯を共にすることがどれほどの名誉だがわかっているのか?そこらの騎士なら泣いて喜ぶところだぞ?」
「オレはそこらの騎士じゃないんで。名誉よりも常識を重んじるんだよ」
「なんだ、男だったら普通喜ぶものだろうが、もったいないやつめ」
これ以上近づけば距離は詰められるだろうがそれでは面白くない。いや、既に顔を赤くしたユウタを眺めているのもいいが今は少し落ち着きたかった。
私はその場に腰を下ろして湯に体を浸す。
「…」
「何ぼーっとつっ立っているんだ。そんなところにいては湯冷めするぞ」
「いや、だって…」
「別に背中を流せというのではない、さっさと傍に来いと言っているだけだ。私の命に対する返事は忘れたのか?」
「…」
渋々といった面持ちでユウタはゆっくりこちらへ歩み寄ってくる。そのまま私の隣に来るかと思ったら背中に自分の背中を向けて座り込んだ。相変わらずの男だと苦笑する。
「…」
「…」
言葉はなし。聞こえるのは吹き付ける風の音のみ。
会話がないものの悪い雰囲気ではない。こういう自然をそのままに感じられる空間内で二人きりというのも中々乙なものだ。
ちらりとユウタを見た。肩越しゆえにハッキリ見えたわけではないものの温泉の湯のせいかそれとも私と共に入っているせいか、頬がほんのり赤らんでいる。きっと後者だ、そうに違いない。
「いいものだな」
私はぽつりと言葉を零すと背後で頷く気配を感じた。
上を見れば薄暗い空と眩い星、淡い光を放つ月が見える。湯に浸かりながら外の景色を楽しめるというのはまた格別だ。そこにいるのがこの男だということも…。
「だね。露天風呂っていうのも久しぶりかも」
「なんだ、入ったことあるのか?」
「修学旅行のスキー旅行の時に」
「んん?しゅうがく旅行?」
「こっちで言う遠征みたいなもんさ。遠出して普段できない学習をしようってところ」
「楽しそうな行事だな」
「わりと楽しかったよ。友人もうちの姉も、先生もやたらとはっちゃけててさ」
「…そうか」
「うん…そうだよ」
「……ユウタは…やはり大切な人を残してきたのか」
「…そりゃね」
湯が波打ち水滴が散る。どうやらユウタが顔に湯をかけたらしい。気の抜けた声と共に息を吐き出すとユウタは囁くように人の名を口にした。
「お父さんにお母さん、姉ちゃん。もういないお爺ちゃんとお婆ちゃんに世話してくれた先生に玉藻姉に猫の夜宵。京極に早乙女先生に後輩。
―それから、師匠とあやか」
最後の二人だけ、名を呼ぶときの声色がわずかながら違っていた。先に名をあげた人たちと比べると明らかに何か特別な感情を抱いている、そう思わせる声だった。
ならば、二人はきっとユウタにとって大切な存在だったのだろう。先ほどあげた親族とはまた違う、もっと特別な者だったのだろう。
「…恋人だったのか?その…先程言った者は」
「んなまさか。オレは年齢イコール恋人いない歴の男だからね。さっき言ったあやかってのはオレの双子の姉さ」
「姉か。お前にもそういうのがいるんだな」
カラカラ笑って答える態度は普段と変わらないものだった。
だが、私はよくわかってる。その笑みに秘めた感情がどれほど深くて大きなものか。
かつてユウタが語った夢の言葉。そこにはユウタと関わり深い者たちが何人もいたことだろう。その世界でしか成し得なかった平々凡々な日常こそがユウタが描く理想だったはずだ。
それを全て奪い去ってしまった私にはユウタの態度が痛々しく感じられるだけだった。
「…」
だが…もし。
もしも、その夢に。
ユウタの語った夢に私が介入するのはどうだろうか。
平々凡々で刺激の少なそうな、それでもありふれた幸せに囲まれて暮らす平穏の日々はどれほど楽しいことだろう。
契を交わし、子をなし、家族を作り、暮らしていく。そんな王族から離れた普通の女として生きていくとしたら私はどうなるのだろうか。
そうなった私は…きっと後悔はしないだろう。
―だが、私はどうやったら後悔せずに済んだのだろうか。
「…なぁ、ユウタ」
「ん?何?」
「聞いてくれないか?その……私の悩み事」
「…」
背後で僅かに動く気配がする。水面が波たち、ユウタが肩越しにこちらを振り向いた。
それを私も肩ごしに見て視線を戻す。
この話は正面から話すにはあまりにも辛い。
ここまで親しくしてきた男だからこそ、辛い。
ただ言葉にするだけでもあまりにもきつい。
今まで傍にいてくれた彼だからこそ、きつい。
「…私は」
この事実はユウタにだけは言いたくなかった。
だが、逆にユウタに知っておいて欲しかった。
「……私は、な…」
たったの一言、口にすることなどたやすいはずだ。だが私の喉は動かず舌も動きを止めてしまう。唇だって塞がって体が伝えることを拒否してしまう。
おかしいな。この程度のこと普段と比べればずいぶん楽なのに。国民の前でのスピーチや騎士達を盛り上げるための口上の方がよっぽど面倒なことなのに。
「……………わた、し、は…」
こんな一言すら言えなくなるほど私は…弱くなってしまったのか。
すると見かねたのかそれとも私を気遣ってかユウタがそっと呟いた。
「…もしかして結婚したり?」
その言葉に私の体は強ばった。表情すら固まった。
そして、胸が痛くなった。
「………知っていたのか」
「そりゃ」
ぱしゃりとユウタが水面を叩いた。
「年頃のお姫様が嫌がることといえば政略結婚って相場は決まってるんだよ」
「決まっている、か………まぁ、そうなんだがな」
「…そっか」
私は小さく息を吐いてそっと後ろにもたれかかった。すぐ後ろにあったユウタの背中が一瞬緊張に震え、それでも支えてくれる。
「世継ぎを成すことは王族の義務だ。その上で大切なことが何かユウタはわかるか?」
「…より強い子供にすること?」
「そうだ」
王族としてまず世継ぎに求められるのは強い力を持った子供。病弱な人間が人の上に立つことはできても体が弱ければ長く国を治めることはできない。それだけではなく戦事で先陣をきれるような力もときには必要なんだ、そのためより優れた体が望まれる。
ゆえに、求められるのは力を持った相手との子供だ。
「なら、その相手は…?もしかしてアイルだったり?」
「まさか。あんなナンパ者話にもならん。ユウタも最近見た…あれだ」
「ああ…あの男か……え?ちょっとまって」
はたと気づいたようにユウタが言った。
「あの男って教皇なんでしょ?それって聖職者じゃないの?聖職者が結婚って…普通だめじゃないの?」
「ユウタ。国がより強くなるのとくだらない規律に従うのとではどちらが賢い判断だと思う?お前ならわかるだろう?」
「そりゃ……」
政治に宗教は関係ない。いや、政治にとって宗教は道具だ。
時には民を率いる旗として、時には魔を滅する鉾として利用できる材料でしかない。それをうまく扱えるのは私ではなくあの男と私の父と妹ぐらいだろう。
そして、今回の話を持ちかけたのは父とあの男。この国にさらなる力をつけるためと婚姻を持ちかけてきた。
私たち王族のみに宿る退魔の力。
あの男に宿った神の声を聞く力。
受け継がれれば生まれてくるのは魔物共にとって脅威となる存在。
あまりにも単純な考えであり、恋愛感情のない無機質な王族の義務である。
「より強い世継ぎを作るため、より強い男を求めるのは当然のこと。王族ならば国の行く末を案じ、宿った力をさらに強力にするためにそういった相手を迎え入れることが義務だ」
それは政略結婚となんら変わらない。
好いた者でもないのに契り、国のために人生を捧げる。私情を挟む余地のない、生まれて背負うことになる義務。王族であっても抗えない、寧ろ、王族だからこそ逆らえない運命。
ただ、もしも…。
もしもその相手が選べるのならば…。
「…どうして、お前ではないのだろうな」
振り返り、後ろの相手の前へとまわる。私を真っ直ぐに映し出してくれる闇色の瞳を潤んだ目で見据えた。
リリムの魅了に耐えうる体質。それならば他の魔物からの魅了にすら対抗できるということ。この国にとって、この世界にとって、魔物に対抗するための最高の素質。
それを持つユウタならば私の相手に相応しかったはずだ。
退魔の力を宿す私と魅了をものともしないユウタ。
魔を退ける血と染められない心。
あの男と比べても劣らない素質をもつユウタがもっと早く私の前に現れてくれれば、私が迎え入れる存在は変えることができていたはずだ。
もう少し、早く出会えていれば…。
「なぁ、ユウタ…」
だが一度決められたことを覆すことなど私にはできなかった。一国の王女であっても覆せない決定は存在する。
それは父親の、ディユシエロ王国国王の決定。
国に住まう民ならば、国に忠誠を誓う騎士ならば、神を信じこの国に身を捧げた聖職者ならば、そしてこの国を背負う王族ならば誰もが従わざるを得ないもの。
一度決められれば本人すら変えられない命令。
その命令を下す前にユウタがいてくれたなら…私は……。
「ん?何…?」
すぐ傍にユウタがいる。
手を伸ばせば届く距離、一歩近づけば体がぶつかる位置。
触れるのに一秒もかからない、身を寄せるのに邪魔はない。
そして、ここにいるのはただの男と女。
別世界から来たことなんて何も意味をなさない。
王族であることなんて何の理由にもならない。
たった二人だけの空間だ。
「…」
抱いてしまった感情をこの時だけでも。
湧いてしまった気持ちを今だけでも。
待っている運命はこの感情を殺すこととなろう。
受け入れがたい義務はこの気持ちを消し去ってくことだろう。
だから…だから…っ。
「今、だけでも…」
「…レジーナ?」
そっと身を寄せるとユウタは体を後退させた。だが戸惑っているのかその動きは非常にゆっくりなものだった。
一気に体を倒すと慌てながらも彼の体に支えられる。温泉とは違う優しい熱がじんわりと染み込んできた。既に体を洗ったのだろう石鹸とそれに混じったユウタの香りに体の奥が切なくなる。
「…んっ」
「むっ!」
感情のまま、気持ちのままに私はユウタの顎を掴むと力づくで唇を重ねた。逃げられないようにもう片手で肩を抱き、体を押し付ける。
私の胸を潰す逞しく鍛え上げられた硬い胸板の感触に隠そうにも隠せない心臓の鼓動の音。ほんのりと感じる甘い口づけの味。それから切なくも嬉しい心の声。
押しのけられれるかと思ったが抵抗らしい抵抗はない。それをいいことに私はさらに体重をかけて唇を押し付けた。
啄むように重ねては、啜るように触れ合わせる。
「ちゅ……♪」
そっと唇を離せば僅かに瞼を下ろした男の顔。吐き出す息が荒いのは先程の口づけによる興奮のものだろうか。
それは私も同じ。胸の内側で爆発しそうなほど激しく轟く心音を感じる。指先が震え、体に力を込められない。
仕方なく倒れ掛かるようにユウタにもたれかかりながら私は囁くように言葉を紡いだ。
「ユウタ…」
その願いが叶わないのなら…。
「今だけでいい…」
想うだけで何もできないなら…。
「一度だけでいい…」
望んだところで届かないのなら…。
「だから…」
―穢れのない私という存在を。
「私を…お前だけの女にしてくれ…」
―お前という色で染め上げてくれ…。
「…それは、嫌だ」
だがユウタは私の手から逃れるように身を翻した。川の流れに乗ったかのような身動きで湯の中だというのにするする進み、温泉の淵へと到達する。
顔は口づけのせいで真っ赤になっているのに浮かんだ表情はどこか悲しげなものだった。
「…なんでだ、ユウタ。なんで拒否するんだ…?私が、このレジーナ。ヴィルジニテ・ディユシエロが求めているんだぞ?男として、名誉な事なんだぞ…?」
拒否されたことにより声が震えてしまう。だがこの程度、予想通りで普段通り気丈に振舞おうとしているのだが…気づけば私は唇をかんでいた。
「それをなんで…拒否する?私はそんなに…魅力がないか?」
「そんなことない。そんなことないけど…」
だけど、ユウタはそう言ってこちらを真っ直ぐ見た。
「そんなの一時的に逃げてるだけだよ」
「………そうだ…私は逃げようとしているんだ」
自分ではわかっている。嫌というほど自覚している。
逃亡などディユシエロ王国雨所としてあってはならないことだ。戦場で前線を駆けた私にとって似つかわしくない行動だ。
だけど、それでも今はこれぐらいしかできそうにない。
こうでもしていないと私は………私を保てなくなってしまう。
抱いた感情が爆発して、湧き出した気持ちが弾け飛んで王族の私と女の私が入り乱れてどうにかなってしまう。
王族としての責任を果たしたい私。
女としてユウタとともにいたい私。
どちらかをここで殺さなければ私は前に進めない。
「一時でもいい…僅かな時間でいいんだ……」
私は縋るようにユウタに抱きついて溢れ出す感情のまま言葉を紡いだ。
「私に夢を、見せてくれ」
ユウタと過ごす時間はとても楽しかった。おそらく私の人生の中で一番であり、まさに夢のようなものだった。
だからこそ夢からは覚めなければいけない。
夢から覚めて現実を見つめなければいけない。
私が、レジーナ・ヴィルジニテ・ディユシエロ、ディユシエロ王国の王女である限りうつつを抜かしてはいられない。
「あとはもう、何も求めないから…」
―だから、女でいられる私に最後の夢を、見せてくれ…。
「ふざけんな」
だがユウタの言葉は冷たかった。口調も変わるほど冷たかった。
「…嫌か」
「ああ、嫌だ」
「そうか…」
自嘲気味に笑って私はうつむいた。この男からそんな言葉を聞くとは思えなかったからだ。
普段から優しくて私の言葉にはなんだかんだで従ってくれた私の護衛は静かに言葉を紡いだ。
「逃げるんだったら逃げ続けろよ」
「…は?」
「逃げるって決めたんなら一時なんじゃなくて逃げ切れって言ってんだよ」
思わず顔を上げるとユウタの黒い瞳と視線がぶつかった。真っ直ぐにこちらを向き、宿った意志が闇の中でもハッキリとわかるほど強く輝く。
「そもそもなんだよ。それでどうなる?たった一度、終わったらまた王族としての責務の中に放り込まれて、あげくには人生を国に捧げるだけじゃん。それじゃあまるで人柱だ」
「それが王たるものだ。それこそ私の歩まなければいけない道だ」
ユウタは心底呆れたようにため息をつき、疲れたと言わんばかりにこちらを見つめる。呆れているのは私の方だというのに。
この男は知らないんだ。
王族として生まれた者の人生がどれほど辛く厳しいものなのか。
王者としての地位が抱いた夢をどのように消し去っていくものなのか。
「ユウタはわかるのか?民の命を、国の行く末を一生背負って生きなければならない私の苦労がわかるのか…っ?」
「わからねぇよっ!!」
その一言は滅茶苦茶だった。滅茶苦茶で、馬鹿馬鹿しくて、可笑しくて、荒唐無稽で、だけど、真っ直ぐな言葉だった。
「王女?王族?そんなもん知るか!民の命を背負うだって?見誤ってんじゃねぇよ!」
怒りを込めて、それ以上に真っ直ぐな心を込めた言葉が響いてくる。
「王族に生まれたからってずっと王族でいる義務をまっとうするつもりかよ!?国民だからって、人間誰かに背負われなきゃ生きていけないほど弱くはないだろうが!」
「…だが…だが私は王族だ!民が皆そうであっても先導する私が、責任を背負うべき王族がいなければ国は成り立たないんだぞ!」
「レジーナは王女である前に女性だろ!!」
その一言に私は言いかけた言葉を止めた。
短く、そして単純な言葉。怒鳴り声で紡がれたシンプルな一言。
だけど、その一言が何よりも私の胸へと染み込んでくる。鼻の奥がつんとして、目の前が歪んでしまうほどに。
歪んでしまったユウタの姿。それでもハッキリ見える黒い瞳がまっすぐ私を捉えてくれる。
「それだっていうのになんだよ。普段みたいな命令口調はどうした?オレに言う時は堂々と偉そうに我侭言ってくるくせに、自分の時は押し殺すっていうのかよ!」
そこまで言い切るとユウタは小さく息を吐き出し、先ほどと打って変わって落ち着いた様子で言った。
「泣くほど嫌ならやめればいい」
縋りつきたくなるほど優しい声で。
「逃げたくなったら逃げればいい」
曲げようのない真っ直ぐな言葉で。
「嫌なことぐらい嫌って言えるだろ」
吸い込まれそうな闇色の瞳を向けて。
そして、言った。
「レジーナはオレと違ってまだ選択の余地があるだろ?嫌なら拒むことがまだできるだろ?それなのに仕方ないって受け入れるのかよ…?」
その一言は別世界から連れてこられたユウタだからこそあまりにも鋭くなり、重くなり
私へ深く突き刺さった。
実際声色にも寂寥に似た感情が混ざっていた。本来なら泣き出したいはずの心を押し殺してひねり出した声は僅かに震えていた。
「受け入れてレジーナは…笑ってられるのかよ…っ!?」
浮かべた表情は苦々しくて切ないもの。
きっとこれは普段笑顔という仮面をつけているユウタの本心なんだ。苦しくても苦しいと言い出せなくて、泣き出したくても泣けなくて、伸ばした手は絶対に届かないことを知ってしまったユウタの心なんだろう。
絡まった鎖は解けなくて。
付けられた錠は鍵穴がなくて。
押し込まれた独房には窓すらない。
希望の光も存在しない闇へと落ちたからこそ、ユウタはその辛さを知っている。元の世界へと戻れないという絶望を味わったからこそユウタの言葉は響くんだ。
「…とにかくさ」
ユウタは私に背を向けて温泉の外へと足を進める。どうやらもう上がるらしい。
「オレがレジーナの将来に文句つけられないってわかってるけど…でもレジーナには選ぶチャンスが残ってる。オレと違ってさ」
一度湯から片足を出した状態でユウタは止まった。
「だから」
振り返った表情は笑みだった。ただ、笑みというにはあまりにも寂しげな、今にも涙をこぼしてしまいそうな泣き顔に近かった。
「レジーナは…レジーナの好きなことをやればいい。やらずに後悔するよりも、やる暇なく後悔するよりも……一生懸命やれば後悔なんてしないんだからさ」
そう言い残してこの空間から出て行ってしまう。追いかけようにもその背中はあまりにも遠くて私の手が届かないように感じられた。
距離にして数歩なのに。
こんな距離一瞬でつめられるのに。
それでも私はその場から動けなかった。
「言って……くれるな…ユウタ……」
あの男に出会う前ならば嫌々ながらも受け入れる覚悟は出来ていた。仕方ないと自分を納得させて突き進む準備は出来ていた。
だというのに、今はどうしたことだろうか。
拒みたくて、縋りつきたくて堪らない。
抱きしめた腕を離したくない。
重なり合った肌を離したくない。
気づいた心を手放したくない。
あの男に出会ったせいで私は楽しく、嬉しく、愉快で、心地よい日々を過ごせてしまった。
きっとそのせいだろう。それがなければ私はいつものように凛々しく王者としての姿勢を崩すことなどなかったはずだ。胸を張って堂々と自分の運命を受け入れることができたはずだ。
ああ、私は……
―私は…弱くなってしまったなぁ………
甘えすぎて、ねだりすぎて、女々しく、弱々しい、ただの女に成り下がってしまった。
「ふふん…」
自嘲気味に笑って滲んだ涙を拭う。誰もいないこの場でなら思い切り泣いても良かったのだろうが染み付いた王女としての性格がそれを許さなかった。
ユウタなら、思い切り私を泣かせてくれただろうに。ああ見えて気を配れる男だ、泣き喚く私を抱きしめてその掌で優しく撫でたことだろう。
そんなことを考えて頭を振る。
さっきからずっとユウタのことばかりではないか。
また守ってほしいのか。
再び手を繋いでほしいのか。
ずっと傍に居て欲しいのか。
いや…私はそう望んでいるんだ。
「…っ」
一人になって、少し頭が冷えてようやく私はそれに気づいた。本来ならば一人にならずともこの程度気づくことができたはずだった。それがこの体たらくとは…そこまで私はユウタのことしか目になかったのかもしれない。
白い湯気の向こう側、気づかれないように気配を消し、湯気に映る影も光魔法で消し去ってまでここにいる愚か者。実力者でもそうそう見破れない気配りと高度な魔法だが気づけたのは水面の僅かな揺れと夜風に混じる甘い香り。
「何をしているんだ、フィオナ」
名を呼ぶと真っ白な湯気の向こう側からフィオナは姿を現した。きっと私たちが入るよりも先に湯に浸かって身を隠していたのだろう、頬は赤くなりどこか目も虚ろだった。
それでも血のように赤い瞳は私を真っ直ぐに捉えていた。
「人の話を盗み聞くとは感心しないな。流石は魔物ということか」
「…」
「その様子では私たちのデートもずっと見ていたのだな?ふふん♪羨ましかっただろう?」
「…」
「お前の入れる余地などない。さっさと尻尾巻いて帰れ」
「…今日は、何もしないのね」
反応がなく長湯でのぼせたのかと思っていたがそうではないらしい。フィオナは遠慮がちにそう言った。
「…する気も起きないだけだ」
以前なら目にしただけで剣を抜き斬りかかっていたというのにだ。以前なら会話なんてものもしないし、こんな場所にも訪れるはずがなかった。
どうやら私は角も取れて丸くなってしまったらしい。
本当に私は変わってしまった。
「ね、レジーナはどうするの?」
「どうするとは何をだ?」
「その…結婚…」
「…聞いていたのだろう?私たちの会話を」
聞かれたくない泣き言すら聞いていたのだろうこの魔物は。気まずそうな表情を浮かべるものの視線は外そうとせずこちらを見据える。
「間違ってるわ。間違ってるわよ、それって」
「…」
「好きでもない人と結婚するなんてあっていいわけないじゃない。ユウタが言ってた通りに泣くほど嫌ならやめればいいのに」
「そんなこと、できればやっている…」
水面が目前にあるのに足には鎖が絡まり手は届かない。例えるならばそういうことだ。
もがき苦しみ、それでも水から這い出したい。その向こうに広がる世界がどれほど素晴らしいか私は知ってしまった。だからこそ無駄だと分かっても今まで私はもがき続けていたんだ。
優しく暖かな日の光。水のせせらぎに小鳥の囀り。生い茂る野原に香る緑の匂い。平穏を約束された希望の園。
その場で隣にいるのはただ一人の男。その男の夢を重ねるならば一軒家でも建っていて私達によく似た子供が隣にいる。二人で挟むように両側から体を寄せてのどかな風を感じながら三人で微睡んだらどれほど心地いいことか。
だからこそ。
敗戦という名の水に溺れたくない。
敗北という名の底へ沈みたくない。
それでも背負った運命という鎖はあまりにも強固で私を絡めて離さない。
「女として生きれないの?」
「女として生きたいさ」
「ならそうすればいいじゃない」
「そうできないのが王族なんだ。お前と違ってな」
薄笑いとともに皮肉を込めて言ってやる。そうすればいつものフィオナなら大声あげて反論するのだが彼女はそんなことはなくただ俯くだけだった。
これは少し言いすぎたか…なんて、気づけば考えていた。そんな気遣いまでするとは。
「…本当に、変わったな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
「……ねぇ、レジーナ」
「なんだ?」
「貴方、やっぱり魔物にならない?」
「またその話か」
「王国が大切なら貴方が魔物になって魔界にしちゃえばいいじゃない。そうすれば改めて貴方が国を治めることも、国民を背負うこともできるでしょ?」
「…お前はあくまで魔物化へ持っていくのだな」
フィオナは魔物化を勧めるがユウタは逃げたくなったら逃げればいいと言っていた。
逃げるが勝ちとはよくいうがそれが全てのことに通るわけではない。逃げられない戦いだって沢山あるし逃げ道すらない場合もあるのだから。
だが。
「魔界にする…」
「いい案でしょ?そうすれば皆魔物になって以前と変わらず…いえ、ちょっとは騒がしくなるけど幸せに暮らせるはずよ?」
「くだらん」
呟きはしたがそんなことあってたまるか。
ディユシエロ王国王女が反旗を翻し魔物と手を組んで一人の男のために国を堕とす。物語としてはありだろうが現実にはなしだ。
それに、例え腐ろうが身を魔へと落とそうが私は王族である。背負うべき国を自らの手で堕落させるなどあってなるものか。
しかし、私はユウタの言葉を思い返す。優しく紡がれたあの言葉を。
「『好きなことをやればいい』…か」
責任か、自由か。
義務か、好意か。
どちらを選べば後悔しないかなど言うまでもない。
どちらをとれば懸命になれるのか考えるまでもない。
今までさんざん迷ってしまった。
ここまでひどく躊躇ってしまった。
なら、もう決断すべきだろう。
「…」
私は隣のフィオナを見据えた。白い髪から生えた二本の黒い角。エルフのように尖った耳にゆっくりと動く翼。それから背後でずっと揺れる尻尾。
どれも人間にないものであり、人外であることを証明する姿。
「…」
―なぁ、ユウタ…
「フィオナ…」
「な、何かしら…?」
―もしも私が、こちらの道を進んだとしたら……
「手を、貸せ……」
―お前は私が選んだ道の先にいてくれるだろうか………?
ここにはいない男に向かって私は心の中でつぶやいた。
13/10/27 20:33更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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