添い寝と師匠
―逸らせない。
妖しい光を宿した瞳から。
―背けない。
脳に染み込む蕩けた声から。
―否めない。
甘いのに爽やかな香りから。
―逃げられない。
重なり合う肌より伝わる媚熱から。
―拒めない。
彼女の純粋な求めから。
「ユウタぁ…♪」
切なげにオレの目の前で、今にも唇が触れてしまいそうな距離で彼女はオレを呼んだ。
甘い声が拒む気持ちを染め上げていく。
熱い吐息がまともな判断力を奪い去っていく。
潤んだ瞳が思考をどろどろに溶かしていく。
「し、しょう…」
このまま進みたいと思っている。
関係を深めたいと思っている。
師弟の関係よりもずっと深く、上下の関係よりもずっと魅惑的。
淫靡で、可憐で、甘い男女の関係へ。
「師匠…っ」
そのまま一歩踏み出して建物の中へと進もうとしたそのときだった。
「―…っ?」
腰あたり、ズボンのポケットから感じる微弱な振動。
空いている手で探るとそれは一つの黒い携帯電話。
画面に表示されているものを特に見ようとせずに、ボタンを押してそれを耳に当てた。
そしてすぐさま後悔する。
「こんの馬鹿弟っ!!!!」
携帯電話を当てた耳から反対側へ声が突き抜けるほどの大きな声。
鼓膜が破れたのではないかと思うほどであり、すぐさま耳から離す。
しかし離してもなお電話からは同じ大きさの声が聞こえた。
「いったいこんな時間までどこにいるのさ!え!?」
「…声のボリューム下げてくれよ、あやか」
その声の主はオレの双子の姉である黒崎あやかだった。
あやかはオレの声なんて届いていないかのように先ほどと変わらない大きさの声でしゃべる。というか叫ぶ。
「今何時だか知ってるの!?」
「九時ぐらいだろ?別にこれぐらいの時間で歩いててもいいだろうが。お母さんみたいなこと言いやがって」
「あんたが戻ってこないと番組録画できないんだよ」
「…それくらい一人でしろよ」
まったくこの暴君様は…。
自分の都合第一で他はその二、三なんだから…。
「ところで今どこ?」
「………駅近く」
流石にホテルの前にいますなんて言えはしない。
いったら絶対怒鳴られるし、明日から目もあわせてくれないだろうから。
軽蔑どころの騒ぎではない。
家族だからこそさらにつらい目に合わせられる。
「ふぅん…?何してるの?」
「…と、友達と食事してくるって言っただろ?」
今日は仕事が休みであるお父さんにも言っておいたからあやかも知っているはずなのに聞いてなかったのか。
とにかくここは何とか誤魔化さないと。
師匠といる、何て言ったら絶対に戻って来いと怒鳴られる。
最悪あやかがここに来る事だってありうる。
それくらいのことを平気でしでかすんだ。
オレが師匠といることを何よりも嫌い、師匠という存在を嫌悪しているのだから。
「へぇ…友達?」
「そ、そう、友達」
「…その友達ってさ…
髪の毛灰色の女じゃない?」
「っ!!!」
何で女性というのは鋭いのだろうか。
どうして女性というのはこうも勘がいいのだろうか。
どこかで見ているのではないかというくらいに正確で、見張っているのではないかと思うほど的確だ。
「そんなわけないだろ。第一灰色の髪って師匠じゃないんだし」
その師匠が今傍にいるんだけど。
傍どころかオレの腕の中にいるんだけど。
「…そう」
オレの言葉に若干不満の残るような声で話しながらも何とか納得してくれたらしい。
その後録画のやりかたを懇切丁寧に説明し、電話を切る。
「はやく帰ってきてよね」
最後にそんな言葉を残してあやかとの通話が途切れた。
まったく、人が師匠と一緒にいるときに電話してくるなんて。
…いや、それでもナイスタイミングだったか。
この電話がなければオレはあのまま師匠と共にこのホテルに入っていたかもしれないし。
先ほどのわけのわからない感覚に陥ることもないだろう。
助かった…というべきか。
とりあえず携帯電話をズボンのポケットにしまいこみ、未だ支えている師匠を見た。
先ほどまでオレを求めていた彼女は。
「くぅ…んん…」
「…」
眠っていた。
…少しだけ残念な気がしたが…今はこれでいいか。
あのままでいるわけにもいかず、今オレは師匠を背負いながら夜道を歩いている。
夜になり冷えた風が体から熱を奪い去っていく。
温かな季節とはいえ肌寒さを感じる今、オレは上着を師匠に着せて背に負っていた。
一枚の布が消えたことにより彼女の体の感触がより明確に伝わる。
落ちないようにと首に回した腕が無意識に首を抱きしめる。
背中で潰れる大きな膨らみ。
耳元で囁くように聞こえる小さな寝息。
手から伝わる胸とは違った太ももの柔らかさ。
体と体を伝いあう体温。
蕩けるようで爽やかな甘い香り。
そのどれもがオレを狂わそうとするが何とか耐える。
慣れているものもあるがそれ以上にこんな野外で何ができるか。
できることは師匠を家に送り届けるだけ。
その後は家に帰ればいい。
帰ったところであやかから怒鳴られることだろうが、それでいい。
今日は師匠と食事しただけ。
ちょっと背伸びして関係を近づけただけ。
まだ、ここまで。
今は、ここらで。
ここから先はもう少し時間が経ってから。
「んふふ〜♪ユウタぁ…自分から蝋燭、使うなんてぇ…せっきょ、くてきぃ…♪」
「…寝言で何を言ってるんだか」
夢の中まで師匠は師匠だった。
以前師匠に渡されていた師匠の家の合鍵を使って家に入る。
家、というか豪邸といってもいいほどの大きい建物。
装飾は細かいが質素であり、それは一見飾り気がないように見えるがそれなりのお金が掛かるだろうことは予想できる。
庭先はうちの高校の400メートルトラックと同じくらいに大きく、その端にあるのがオレと師匠の稽古の場である空手道場。
本当に大きい。
よくもまぁこんなに大きな家や庭ができたもんだ。
これも師匠の親がくれたものだったりするのだろうか。
そんなことを考えながらドアに鍵を掛け、靴を脱ぎ、師匠の靴を脱がして階段を上がる。
師匠の部屋は上にある。
この家で一番大きく、ドアが金で縁取られたもの。
以前行ったことがあるし、オレはその部屋で一夜を明かしたこともあった。
それにこの家には何度もお邪魔している。
だから今更迷うこともないし、戸惑うこともない。
初めてお邪魔したときには迷っていたけど。
部屋のドアを開けると眼前には広い空間があらわれた。
二人で腰掛けても十分な大きさの白いソファー。
大理石で作られた豪勢なテーブル。
部屋の隅にあるのは灯っていることを見たことのないアンティーク調のランプ。
壁と一体化しているクローゼット、ちょこんと鎮座しているハート型の果実をつけた小さな木。
木でできた机の上には大事そうに並べられたアクセサリーが沢山。
そしてこの中でも一番の大きさを誇るのがベッド。
一人どころか二人三人寝転がろうと十分に寝られる大きさ。
その柔らかさはまるで空気を集めて形にしたように柔らかく、肌触りも滑らかで高級品だということが見て取れた。
大きな窓からは月の明かりが差し込み、部屋を幻想的に照らし出す。
ここが師匠の部屋。
一人暮らしをするにしても大きすぎる空間だ。
「師匠、部屋ですよ」
背で寝ている彼女の体を小さく揺らした。
「ん〜…」
しかし師匠はうなるだけで起きる気配はない。
オレの首に抱きつき、猫がじゃれるようにぐりぐりと顔をこすり付けてきた。
…首筋に何か液体のようなものが垂れてきているのだが…きっと気のせいだろう。
「師匠」
「…ふひゅ…」
「…」
揺すろうが跳ねようが起きる気配を見せてくれない。
…仕方ない。このまま寝かせようか。
師匠を背負ったまま掛け布団をめくり、そこに上着を脱がした師匠をそっと寝かせる。
ベッドは抗うことなく沈み、その上に灰色の髪が広がった。
「はぅ…ん」
「…」
こうしてじっくり見るとよくわかる。
整った顔に見事なプロポーション。
柔らかそうに艶めいた唇に服越しでも隠せない豊満な胸。
切れ長な目に細く華奢な手足。
すっと通った鼻に傷一つ、染み一つ見当たらない肌。
壊滅的なほどに完璧で。
破壊的なほどに美しい。
人間らしくないその姿はまるで先生や玉藻姐のようだ。
人間らしく…ない…。
「…」
…あ、イヤリング外さないと。
流石に服を脱がせるのはまずいがアクセサリーくらいは外しておかないといけない。
そのまま寝たら痛い思いをするはめになってしまいそうだし。
オレは師匠を起こさないようにそっと耳についているイヤリングを外しに掛かる。
思ったとおり穴を開けるものではなかったようですぐに取れた。
ハートの形をした不思議な宝石。
なんの宝石かはわからないがこれもまた高いものだろう。
傷つけないように丁寧に扱い、アクセサリーが並べられた机にそっと載せておいた。
「…」
改めて机の上を見るとかなりの数のアクセサリーだ。
花を象った指輪、ハートの形をしたペンダント、翼を模したブレスレットや蝙蝠の形を模したブローチに宝石が散りばめられたアンクレット。
どれもこれも奇抜で異形で、禍々しい。
ファンタジーな様を感じるが、まるで悪役が身に着けるようなデザインが多い。
それなのにどこか神々しい美しさを感じさせるのはどこか師匠に似ていた。
そのアクセサリーの中で一つ目に止まったものがある。
赤いブローチ。
黒い縁取りで赤い宝石がギラリと光るそれは禍々しいというよりもおぞましい。
まともな神経をしているなら手元に置くことさえ躊躇われる代物。
ただ見ているだけ、近くにいるだけで肌がちりちりとする奇妙なもの。
これは…いったい何なのか。
師匠の趣味?
それにしちゃ師匠らしいハートのものではない。
なら贈り物?
…世の中変わったものを贈る人がいるんだな。
そう結論付けて師匠の元へと戻る。
師匠は先ほどと全く変わらず眠っていた。
穏やかな寝息を立ててゆっくり胸を上下させて。
服のせいで暑苦しいというわけでもないようだし、これなら帰っても平気そうだ。
それじゃあオレはここらでお暇させてもらおう。
足音を立てないように師匠から離れようとしたそのとき。
「ユウタ…?」
「っ!」
いきなり名を呼ばれた。
いや違う、寝言か。
先ほどだって背負っているときに言っていたんだし。
気にすることもなくオレはそのまま部屋を出て行こうとドアノブに手を掛けて―
「―どこに行くの?」
手を掛けられなかった。
流石にここまで明確な意味を表す言葉を掛けられちゃ寝ているとはいえない。
オレは静かに振り返るとそこには月明かりに照らされる美女が起き上がりこちらを見つめていた。
先ほどのように引き込まれる感覚はない。
惑わされるような雰囲気も、誘われるような空気もない。
それでも生まれ持ったその美貌は隠せない。
「いえ、これから帰ろうかと」
「どうして?もっと一緒にいようよ?」
「ちょっと呼ばれちゃいまして」
そう言って何とか後退しようとするが師匠の目を見て出来なくなった。
先ほどの潤んだ瞳とは打って変わってそれは寂しそうに見えたから。
まるであの時のように。
一人でいると壊れてしまいそうになる、孤独の中にいたように。
「行かないでよ」
「ですが…」
「お願いだよ」
「…」
その言葉に何も言えなくなる。
その顔に何も口にできなくなる。
寂しそうな目のままで、今にも泣き出しそうな顔で。
独りの辛さを知っている彼女は言葉を紡ぐ。
「今夜だけ…今夜だけでいいから…一緒にいてよ…」
「…」
「ねぇ…ユウタ…」
先ほどの甘えるように求めた様子ではない。
一人が寂しいから、誰かといたい。
孤独が嫌だから、傍にいて欲しい。
欲望なんてない、邪な感情なんて欠片もない純粋な求め。
そんな師匠にオレは頭を掻いた。
「ああ、もう…仕方ないですね師匠は」
ポケットに手を入れ、中から携帯電話を取り出した。
そこで素早くメールを打ち、すぐさま電源を切る。
返事は受け付けない、電話も掛けられないように。
今だけ、せめて今くらいは。
二人っきりでいたいから。
「今夜だけですからね?」
「うん」
「一緒に寝るだけですからね?」
「うん」
「変なことしないで下さいよ?」
「………………………………うん」
何でかなり間があったんだよ、まったく。
上着をソファーに掛けて、師匠とは反対側のほうからベッドに入る。
手をつくとついたぶんだけベッドに沈み、空気に座っているんじゃないかと思うほどの柔らかさで返ってきた。
なぜだか二つある枕の片方を師匠に渡し、もう片方をオレのところに置く。
それから掛け布団を引っ張り肩まで上げる。
二人で並んでベッドに寝転がり、目の前には師匠の顔があった。
「こうして一緒に寝るのは久しぶりだね」
「そうですね。前は…合宿のときでしたか」
「合宿って言うかお泊りだったけどね」
「はは、そうですね」
あれは既に他の稽古仲間がいなくなったときのこと。
何でだかわからないが突然師匠が合宿をしようと言い出した。
もっとも合宿というほど稽古をしたわけでもなく、ただ二人でのんびりしていただけなのだが。
それでも、懐かしい。
とても、久しい。
オレと師匠の、二人だけのいい思い出だ。
「ユウタ」
「はい?」
「ん〜♪」
何をするのかと思ったら師匠は向かい合ったまま目を閉じて唇を突き出してきた。
何をして欲しいのかは一発で見てわかる。
どうされたいかなんて言わずとも理解できる。
でもそういうことはしないといったというのに…この女性は…。
まったく、心の中で苦笑してオレは師匠の頭に手を回し、そっと口付けを落とした。
「…」
「…」
「…」
「…え?何で額?」
そう額にである。
唇するなんてことはできません。
ビビッてるんじゃないよ?わきまえてるだけだよ?
「そういうことはしないって言いました」
「変なことじゃないよ?お休み前のキスだよ?」
「そういうのはおでこにするのが常識です」
「ぶ〜」
あからさまに不満を見せつけ頬を膨らました師匠。
なんとも子供っぽく大人の威厳なんて欠片もない姿は思わず笑いそうになってしまうほど。
それと同時に見とれそうな美しさが輝くのもまた師匠魅力の一つなのだろう。
でも、そんな膨れなくてもいいだろうに。
…まったく仕方ないな。
「それじゃあこれでいいですか?」
流石に師匠の求めるままにキスするわけにはいかない。
そんなことをしようものならオレは自身を止められなくなるだろうし、今だって本当ならこのまま襲い掛かってもおかしくないんだから。
必死に耐えて、何とか堪えて。
もう少し時間が過ぎるのを待っているのだから。
だから今できることはこれぐらい。
オレは師匠の頭をそっと撫でた。
まるで宝石に触れるかのように丁寧に触れ、そのまま髪を整えるように下へ動かす。
灰色の髪は柔らかくさらさらで指に絡まることなく梳かされていった。
「んん♪」
その感触に師匠は気持ちよさそうに目を細める。
その様子が本当に子供っぽい。
これじゃあどちらが年上かわからなくなりそうだ。
「師匠が寝るまで続けてあげますよ」
「んふふ…ありがとう、ユウタ♪」
「いえいえ。おやすみなさい、師匠」
「んん♪おやすみ、ユウタ♪」
そういいながらもオレは師匠の頭を撫で続けた。
言葉通り師匠が寝付くまでずっと。
その様子を見て出来るなら、もう少しこの関係でいられればいいな…なんてふうに思えた。
妖しい光を宿した瞳から。
―背けない。
脳に染み込む蕩けた声から。
―否めない。
甘いのに爽やかな香りから。
―逃げられない。
重なり合う肌より伝わる媚熱から。
―拒めない。
彼女の純粋な求めから。
「ユウタぁ…♪」
切なげにオレの目の前で、今にも唇が触れてしまいそうな距離で彼女はオレを呼んだ。
甘い声が拒む気持ちを染め上げていく。
熱い吐息がまともな判断力を奪い去っていく。
潤んだ瞳が思考をどろどろに溶かしていく。
「し、しょう…」
このまま進みたいと思っている。
関係を深めたいと思っている。
師弟の関係よりもずっと深く、上下の関係よりもずっと魅惑的。
淫靡で、可憐で、甘い男女の関係へ。
「師匠…っ」
そのまま一歩踏み出して建物の中へと進もうとしたそのときだった。
「―…っ?」
腰あたり、ズボンのポケットから感じる微弱な振動。
空いている手で探るとそれは一つの黒い携帯電話。
画面に表示されているものを特に見ようとせずに、ボタンを押してそれを耳に当てた。
そしてすぐさま後悔する。
「こんの馬鹿弟っ!!!!」
携帯電話を当てた耳から反対側へ声が突き抜けるほどの大きな声。
鼓膜が破れたのではないかと思うほどであり、すぐさま耳から離す。
しかし離してもなお電話からは同じ大きさの声が聞こえた。
「いったいこんな時間までどこにいるのさ!え!?」
「…声のボリューム下げてくれよ、あやか」
その声の主はオレの双子の姉である黒崎あやかだった。
あやかはオレの声なんて届いていないかのように先ほどと変わらない大きさの声でしゃべる。というか叫ぶ。
「今何時だか知ってるの!?」
「九時ぐらいだろ?別にこれぐらいの時間で歩いててもいいだろうが。お母さんみたいなこと言いやがって」
「あんたが戻ってこないと番組録画できないんだよ」
「…それくらい一人でしろよ」
まったくこの暴君様は…。
自分の都合第一で他はその二、三なんだから…。
「ところで今どこ?」
「………駅近く」
流石にホテルの前にいますなんて言えはしない。
いったら絶対怒鳴られるし、明日から目もあわせてくれないだろうから。
軽蔑どころの騒ぎではない。
家族だからこそさらにつらい目に合わせられる。
「ふぅん…?何してるの?」
「…と、友達と食事してくるって言っただろ?」
今日は仕事が休みであるお父さんにも言っておいたからあやかも知っているはずなのに聞いてなかったのか。
とにかくここは何とか誤魔化さないと。
師匠といる、何て言ったら絶対に戻って来いと怒鳴られる。
最悪あやかがここに来る事だってありうる。
それくらいのことを平気でしでかすんだ。
オレが師匠といることを何よりも嫌い、師匠という存在を嫌悪しているのだから。
「へぇ…友達?」
「そ、そう、友達」
「…その友達ってさ…
髪の毛灰色の女じゃない?」
「っ!!!」
何で女性というのは鋭いのだろうか。
どうして女性というのはこうも勘がいいのだろうか。
どこかで見ているのではないかというくらいに正確で、見張っているのではないかと思うほど的確だ。
「そんなわけないだろ。第一灰色の髪って師匠じゃないんだし」
その師匠が今傍にいるんだけど。
傍どころかオレの腕の中にいるんだけど。
「…そう」
オレの言葉に若干不満の残るような声で話しながらも何とか納得してくれたらしい。
その後録画のやりかたを懇切丁寧に説明し、電話を切る。
「はやく帰ってきてよね」
最後にそんな言葉を残してあやかとの通話が途切れた。
まったく、人が師匠と一緒にいるときに電話してくるなんて。
…いや、それでもナイスタイミングだったか。
この電話がなければオレはあのまま師匠と共にこのホテルに入っていたかもしれないし。
先ほどのわけのわからない感覚に陥ることもないだろう。
助かった…というべきか。
とりあえず携帯電話をズボンのポケットにしまいこみ、未だ支えている師匠を見た。
先ほどまでオレを求めていた彼女は。
「くぅ…んん…」
「…」
眠っていた。
…少しだけ残念な気がしたが…今はこれでいいか。
あのままでいるわけにもいかず、今オレは師匠を背負いながら夜道を歩いている。
夜になり冷えた風が体から熱を奪い去っていく。
温かな季節とはいえ肌寒さを感じる今、オレは上着を師匠に着せて背に負っていた。
一枚の布が消えたことにより彼女の体の感触がより明確に伝わる。
落ちないようにと首に回した腕が無意識に首を抱きしめる。
背中で潰れる大きな膨らみ。
耳元で囁くように聞こえる小さな寝息。
手から伝わる胸とは違った太ももの柔らかさ。
体と体を伝いあう体温。
蕩けるようで爽やかな甘い香り。
そのどれもがオレを狂わそうとするが何とか耐える。
慣れているものもあるがそれ以上にこんな野外で何ができるか。
できることは師匠を家に送り届けるだけ。
その後は家に帰ればいい。
帰ったところであやかから怒鳴られることだろうが、それでいい。
今日は師匠と食事しただけ。
ちょっと背伸びして関係を近づけただけ。
まだ、ここまで。
今は、ここらで。
ここから先はもう少し時間が経ってから。
「んふふ〜♪ユウタぁ…自分から蝋燭、使うなんてぇ…せっきょ、くてきぃ…♪」
「…寝言で何を言ってるんだか」
夢の中まで師匠は師匠だった。
以前師匠に渡されていた師匠の家の合鍵を使って家に入る。
家、というか豪邸といってもいいほどの大きい建物。
装飾は細かいが質素であり、それは一見飾り気がないように見えるがそれなりのお金が掛かるだろうことは予想できる。
庭先はうちの高校の400メートルトラックと同じくらいに大きく、その端にあるのがオレと師匠の稽古の場である空手道場。
本当に大きい。
よくもまぁこんなに大きな家や庭ができたもんだ。
これも師匠の親がくれたものだったりするのだろうか。
そんなことを考えながらドアに鍵を掛け、靴を脱ぎ、師匠の靴を脱がして階段を上がる。
師匠の部屋は上にある。
この家で一番大きく、ドアが金で縁取られたもの。
以前行ったことがあるし、オレはその部屋で一夜を明かしたこともあった。
それにこの家には何度もお邪魔している。
だから今更迷うこともないし、戸惑うこともない。
初めてお邪魔したときには迷っていたけど。
部屋のドアを開けると眼前には広い空間があらわれた。
二人で腰掛けても十分な大きさの白いソファー。
大理石で作られた豪勢なテーブル。
部屋の隅にあるのは灯っていることを見たことのないアンティーク調のランプ。
壁と一体化しているクローゼット、ちょこんと鎮座しているハート型の果実をつけた小さな木。
木でできた机の上には大事そうに並べられたアクセサリーが沢山。
そしてこの中でも一番の大きさを誇るのがベッド。
一人どころか二人三人寝転がろうと十分に寝られる大きさ。
その柔らかさはまるで空気を集めて形にしたように柔らかく、肌触りも滑らかで高級品だということが見て取れた。
大きな窓からは月の明かりが差し込み、部屋を幻想的に照らし出す。
ここが師匠の部屋。
一人暮らしをするにしても大きすぎる空間だ。
「師匠、部屋ですよ」
背で寝ている彼女の体を小さく揺らした。
「ん〜…」
しかし師匠はうなるだけで起きる気配はない。
オレの首に抱きつき、猫がじゃれるようにぐりぐりと顔をこすり付けてきた。
…首筋に何か液体のようなものが垂れてきているのだが…きっと気のせいだろう。
「師匠」
「…ふひゅ…」
「…」
揺すろうが跳ねようが起きる気配を見せてくれない。
…仕方ない。このまま寝かせようか。
師匠を背負ったまま掛け布団をめくり、そこに上着を脱がした師匠をそっと寝かせる。
ベッドは抗うことなく沈み、その上に灰色の髪が広がった。
「はぅ…ん」
「…」
こうしてじっくり見るとよくわかる。
整った顔に見事なプロポーション。
柔らかそうに艶めいた唇に服越しでも隠せない豊満な胸。
切れ長な目に細く華奢な手足。
すっと通った鼻に傷一つ、染み一つ見当たらない肌。
壊滅的なほどに完璧で。
破壊的なほどに美しい。
人間らしくないその姿はまるで先生や玉藻姐のようだ。
人間らしく…ない…。
「…」
…あ、イヤリング外さないと。
流石に服を脱がせるのはまずいがアクセサリーくらいは外しておかないといけない。
そのまま寝たら痛い思いをするはめになってしまいそうだし。
オレは師匠を起こさないようにそっと耳についているイヤリングを外しに掛かる。
思ったとおり穴を開けるものではなかったようですぐに取れた。
ハートの形をした不思議な宝石。
なんの宝石かはわからないがこれもまた高いものだろう。
傷つけないように丁寧に扱い、アクセサリーが並べられた机にそっと載せておいた。
「…」
改めて机の上を見るとかなりの数のアクセサリーだ。
花を象った指輪、ハートの形をしたペンダント、翼を模したブレスレットや蝙蝠の形を模したブローチに宝石が散りばめられたアンクレット。
どれもこれも奇抜で異形で、禍々しい。
ファンタジーな様を感じるが、まるで悪役が身に着けるようなデザインが多い。
それなのにどこか神々しい美しさを感じさせるのはどこか師匠に似ていた。
そのアクセサリーの中で一つ目に止まったものがある。
赤いブローチ。
黒い縁取りで赤い宝石がギラリと光るそれは禍々しいというよりもおぞましい。
まともな神経をしているなら手元に置くことさえ躊躇われる代物。
ただ見ているだけ、近くにいるだけで肌がちりちりとする奇妙なもの。
これは…いったい何なのか。
師匠の趣味?
それにしちゃ師匠らしいハートのものではない。
なら贈り物?
…世の中変わったものを贈る人がいるんだな。
そう結論付けて師匠の元へと戻る。
師匠は先ほどと全く変わらず眠っていた。
穏やかな寝息を立ててゆっくり胸を上下させて。
服のせいで暑苦しいというわけでもないようだし、これなら帰っても平気そうだ。
それじゃあオレはここらでお暇させてもらおう。
足音を立てないように師匠から離れようとしたそのとき。
「ユウタ…?」
「っ!」
いきなり名を呼ばれた。
いや違う、寝言か。
先ほどだって背負っているときに言っていたんだし。
気にすることもなくオレはそのまま部屋を出て行こうとドアノブに手を掛けて―
「―どこに行くの?」
手を掛けられなかった。
流石にここまで明確な意味を表す言葉を掛けられちゃ寝ているとはいえない。
オレは静かに振り返るとそこには月明かりに照らされる美女が起き上がりこちらを見つめていた。
先ほどのように引き込まれる感覚はない。
惑わされるような雰囲気も、誘われるような空気もない。
それでも生まれ持ったその美貌は隠せない。
「いえ、これから帰ろうかと」
「どうして?もっと一緒にいようよ?」
「ちょっと呼ばれちゃいまして」
そう言って何とか後退しようとするが師匠の目を見て出来なくなった。
先ほどの潤んだ瞳とは打って変わってそれは寂しそうに見えたから。
まるであの時のように。
一人でいると壊れてしまいそうになる、孤独の中にいたように。
「行かないでよ」
「ですが…」
「お願いだよ」
「…」
その言葉に何も言えなくなる。
その顔に何も口にできなくなる。
寂しそうな目のままで、今にも泣き出しそうな顔で。
独りの辛さを知っている彼女は言葉を紡ぐ。
「今夜だけ…今夜だけでいいから…一緒にいてよ…」
「…」
「ねぇ…ユウタ…」
先ほどの甘えるように求めた様子ではない。
一人が寂しいから、誰かといたい。
孤独が嫌だから、傍にいて欲しい。
欲望なんてない、邪な感情なんて欠片もない純粋な求め。
そんな師匠にオレは頭を掻いた。
「ああ、もう…仕方ないですね師匠は」
ポケットに手を入れ、中から携帯電話を取り出した。
そこで素早くメールを打ち、すぐさま電源を切る。
返事は受け付けない、電話も掛けられないように。
今だけ、せめて今くらいは。
二人っきりでいたいから。
「今夜だけですからね?」
「うん」
「一緒に寝るだけですからね?」
「うん」
「変なことしないで下さいよ?」
「………………………………うん」
何でかなり間があったんだよ、まったく。
上着をソファーに掛けて、師匠とは反対側のほうからベッドに入る。
手をつくとついたぶんだけベッドに沈み、空気に座っているんじゃないかと思うほどの柔らかさで返ってきた。
なぜだか二つある枕の片方を師匠に渡し、もう片方をオレのところに置く。
それから掛け布団を引っ張り肩まで上げる。
二人で並んでベッドに寝転がり、目の前には師匠の顔があった。
「こうして一緒に寝るのは久しぶりだね」
「そうですね。前は…合宿のときでしたか」
「合宿って言うかお泊りだったけどね」
「はは、そうですね」
あれは既に他の稽古仲間がいなくなったときのこと。
何でだかわからないが突然師匠が合宿をしようと言い出した。
もっとも合宿というほど稽古をしたわけでもなく、ただ二人でのんびりしていただけなのだが。
それでも、懐かしい。
とても、久しい。
オレと師匠の、二人だけのいい思い出だ。
「ユウタ」
「はい?」
「ん〜♪」
何をするのかと思ったら師匠は向かい合ったまま目を閉じて唇を突き出してきた。
何をして欲しいのかは一発で見てわかる。
どうされたいかなんて言わずとも理解できる。
でもそういうことはしないといったというのに…この女性は…。
まったく、心の中で苦笑してオレは師匠の頭に手を回し、そっと口付けを落とした。
「…」
「…」
「…」
「…え?何で額?」
そう額にである。
唇するなんてことはできません。
ビビッてるんじゃないよ?わきまえてるだけだよ?
「そういうことはしないって言いました」
「変なことじゃないよ?お休み前のキスだよ?」
「そういうのはおでこにするのが常識です」
「ぶ〜」
あからさまに不満を見せつけ頬を膨らました師匠。
なんとも子供っぽく大人の威厳なんて欠片もない姿は思わず笑いそうになってしまうほど。
それと同時に見とれそうな美しさが輝くのもまた師匠魅力の一つなのだろう。
でも、そんな膨れなくてもいいだろうに。
…まったく仕方ないな。
「それじゃあこれでいいですか?」
流石に師匠の求めるままにキスするわけにはいかない。
そんなことをしようものならオレは自身を止められなくなるだろうし、今だって本当ならこのまま襲い掛かってもおかしくないんだから。
必死に耐えて、何とか堪えて。
もう少し時間が過ぎるのを待っているのだから。
だから今できることはこれぐらい。
オレは師匠の頭をそっと撫でた。
まるで宝石に触れるかのように丁寧に触れ、そのまま髪を整えるように下へ動かす。
灰色の髪は柔らかくさらさらで指に絡まることなく梳かされていった。
「んん♪」
その感触に師匠は気持ちよさそうに目を細める。
その様子が本当に子供っぽい。
これじゃあどちらが年上かわからなくなりそうだ。
「師匠が寝るまで続けてあげますよ」
「んふふ…ありがとう、ユウタ♪」
「いえいえ。おやすみなさい、師匠」
「んん♪おやすみ、ユウタ♪」
そういいながらもオレは師匠の頭を撫で続けた。
言葉通り師匠が寝付くまでずっと。
その様子を見て出来るなら、もう少しこの関係でいられればいいな…なんてふうに思えた。
12/07/01 20:38更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
戻る
次へ