オレとデート
約束をしてから数日後、とある土曜日の午後三時。
日差しは温かく頬を撫でる風は穏やかで香しい緑の匂いを運んでくる。
特にこれ取ったことのない和やかな午後、そんな時間にオレは駅の前で立っていた。
時間も時間であり出てくる人、入っていく人は少なく、これならすぐに見つけられるだろう。
元が目立つような姿であり、あまりにも美しすぎる風貌は周りよりもずっと際立っている。
ならば探す必要もなくすぐに見つけられるはずだ。
しかしあの女性にしては珍しい。
普段昼間っから外を歩いているような印象はなかったというのに。
基本的に夜行性っぽくて行動するのも大半夜だと思っていた。
実際あの人昼よりも夜の方が元気だし。
…いや、厳密に言えば夜の方が発言が過激になるというところなんだけど。
そんなことを考えていたらいきなり目の前から光が消えた。
「!」
一瞬で目の前が闇に包まれる。
それでも周りの喧騒は変わらないし、吹き寄せる風も止んだわけではない。
変わったことといえば緑の匂いに別の匂いが混じったこと。
ずっと強く、それなのにしつこくない甘い香り。
甘ったるいといってもいいはずのそれはどこか爽やかにも感じ取れた。
それから感触。
まるで目を覆われているかのように絹のような滑らかな肌触りがする二つのもの。
体温がじんわりと伝わりるそれは優しくそれでもしっかりとオレの顔に張り付いている。
ついでに背中に当たる二つのふくらみは服越しとはいえその感触は肌から伝わり脳へ突き刺さっていた。
こんなことをするのは一人しかいない。
「だ〜れだ?」
「…師匠」
「当たりだよ♪さすがユウタだね♪これはご褒美が―」
「―いいです」
人の目を覆っている両手からすり抜けるように後ろを向くとそこには普段以上に嬉しそうに笑みを浮かべる師匠がいた。
「…近いです」
「そうかな?」
鼻先が触れ合うまで拳一つの隙間もないのだから十分近いだろうに。
一歩下がって師匠の全体像が見えるようにする。
「…ぉお」
思わず感嘆の声を上げてしまった。
白く短いティアードスカート。
カジュアルなミリタリージャケット。
並んだ茶色のブーツ。
ファッション誌に出てきそうなものだが師匠が着ているだけでそれ以上のものとなる。
師匠の普段着はそうそう見ないからとても新鮮だ。
そんな中でも何より目を引いたのは片耳だけに付けられたイヤリング。
普段していないことからそれは穴を開けるタイプのものではないだろう。
ハートの形をしたピンク色の不思議な宝石が揺れている。
師匠はそういうアクセサリー類はいつもしないから持っていないと思ってたのに。
それにしてもハートか…空手の道着の帯にあったのもハートのマークだったな。
女性はやはり好きなのだろうか。
「どう?どう?似合ってるかな?」
「…あ、ええ、すごい綺麗ですよ、師匠」
「んふふ〜♪ありがと♪」
嬉しそうに体をくねらせえへへと笑う様は子供のそれと全く同じ。
その様子にオレもつられて笑みがこぼれた。
もとが美女である師匠なら何を着ようとも似合うこと間違いないだろう。
それならどんな言葉も当然過ぎるものだがそうとしか言えないのだから仕方ない。
仮に今オレが着ている服を師匠が身に着けてもいけると思う。
凛とした女性らしさを惜しげもなく晒し、大人の女性という雰囲気をかもしだす。
しかし、しない。絶対しない。
そんなことをすれば師匠はオレの服をそのまま強奪しかねないし、最悪師匠の服を着せられかねない。
「ちなみに今日の下着は勝負下着で―」
「―スカートをたくし上げようとしないでください」
その後師匠はするりと滑るようにオレの隣に立つ。
手は当然といわんばかりにオレの手に絡められていた。
すべすべの肌の感触、えも言われぬ体の柔らかさ、どこか男を意識させるような体温。
それらの感覚はいつも感じているものなのになぜだかドキドキした。
「それじゃあ行こっか♪」
「…え?行くってどこに?」
そもそも今回は食事するということで約束したはずだ。
約束の時間が夕食の時間帯よりもずっと早いからまぁ何かあるだろうことは予想していた。
それでも、どこへ行くかなんて考え付かない。
…あ、いや…一つだけ予想がつくところはあるけど。
「いいから、行こっ♪」
「あ、師匠っ!?」
そのままオレは師匠に手を引かれて行くのだった。
そのままどこか目的地があるわけでもなく二人で並んで歩いていた。
ここは地元から少し離れたところなので田舎でありながらも都会らしさがある場所。
なのでデートや買い物には最適の場所だ。
…デート?
「えっと、ユウタは何食べる?」
「へ?」
師匠の声に顔を上げるとそこにあったのはとあるクレープの屋台。
値段もお手ごろ種類も豊富でうちの高校でも話題に上がるところだ。
「せっかくだから一緒に食べようよ」
「ああ、そうですね」
とりあえず今は何か選んでおこう。
せっかくこうして師匠と二人で外にいるのだし。
「それじゃあチョコレートのやつを…トッピングで生クリーム、カスタードのダブルクリームにプリンを」
「…相変わらず甘いの好きだよね」
「色々疲れやすいから糖分必要なんですよ」
「そっか。それじゃあ自分はイチゴフロマージュで」
できたものを手に取り、オレと師匠は並んで近くのベンチに座っていた。
オレは既に半分ほど食べ終わり、師匠を見るとまだまだ食べている最中。
ちびちび食べるその姿は子供っぽいのにどこか気品を感じさせる。
食事だけじゃない、歩いている時だって背筋は伸びているし足取りは優雅だった。
師匠は本当はお嬢様とかやっていたのではないのだろうか。
よくそう思う。
背伸びして大人っぽく見せようとする高校生とは大違いで付け焼刃なものではない、生まれてからずっと教え込まれてきたかのような本当の品格。
昔、近寄りがたかったのはその品格がにじみ出ていたというのも理由の一つかもしれない。
「ユウタが食べてるのちょっともらっていい?」
「…へ?」
そのようなことを考えていたところへ子供っぽく無邪気な発言にオレは素っ頓狂な声を上げるが、師匠はオレの持っているクレープを指差していた。
「どんな味がするのかなーって思って」
ここであの麗しの暴君こと双子の姉ならば普通に差し出せただろう。
否、差し出す前に食われてる。
しかしそんなことを気にする仲じゃない。
家族だし、双子だし。
別に間接キスしているとか今更気にしてどうするという感じである。
それでも師匠は別だ。
いかに師弟関係とはいえ男と女。
そうみだりに親しくすべきものではない…のだけど。
「あーん♪]
心の中の葛藤なんて知ってか知らずか師匠はオレに向かって口を開いていた。
桜色の唇が分かれ、雪のように白く輝く歯が覗く。
ちろちろと蠢く舌は挑発的であり 思わず唇を重ねて啜ってみたい衝動に駆られた。
って何を思っているんだオレは。
「あーん♪」
「…」
…仕方ない、か。
「どーぞ」
オレはまだ齧っていない部分を師匠に差し出した。
「あむっ♪」
当然というか、やっぱりというか、師匠は人が食べた部分にあえて食いついた。
もくもくと頬を動かして味わう大人の女性。
顔に浮かべるのは子供っぽい純粋な笑み。
ちぐはぐで全く逆なのにそれでも見とれてしまう魅力がある。
それと同時にその笑みを見て嬉しくなった。
咀嚼し、喉が上下してクレープを飲み込んだ師匠は嬉しそうに呟いた。
「ん、おいし♪」
問題はその次の発言だった。
「これってデートだねぇ♪」
「ぶっ!」
その言葉にオレは噴き出していた。
大人の女性である師匠、その隣にいるのは学生だが大人といってもいいぐらいのオレ。
男女が二人、寄り添うその光景はまさにデート。
あのデート。
…マジで?
「えへへ〜、デート♪デート♪」
嬉しそうに何度も呟きながら師匠はオレに寄りかかってきた。
避けるわけにもいかずその体を受け止め、肩に頭が乗せられる。
途端に強まる爽やかな魅惑の香り。
そのまま動くわけにもいかず、かといってこのまま無言というのもつらい。
だが何を言えばいいのかわからない。
デートなんて今までしたことはなかったし、隣にいるのは親しみなれた師匠なのだし。
気をつかうわけもなく、いつもどおりに接せるはずなのに
何もできないオレは仕方ないので手に持っていたクレープを一口齧る。
齧った部分は先ほどまで味わっていた味とは違う甘さを感じた。
あの後クレープを食べ終え適当にぶらついていた最中、師匠が一つの建物の前で言った。
「ここなんだよ、いつも自分がそういうものを買う場所は」
「…こんなところにあったんですか」
ピンクで塗られた看板にいかにもそういうものを売っていることを教えてくる外装。
「何か買ってく?あ、でもオナホールとかエッチなビデオはダメだよ?そんなもの使うんだったら自分がしてあげるから♪」
「結構です」
「エッチな衣装だったら喜んで買っちゃうよ♪」
「いえ、いいです」
先ほどはあんなにドキドキしたというのになんだかんだいっても師匠は師匠だった。
「ここだよ」
そう言って師匠が案内してくれたのは一つのとても大きなレストランだった。
入り口のドアには細かな装飾が施されており、その両側には大きな白い柱が佇んでいる。
二階建てらしく窓から漏れ出した淡い光は既に夕日の光も消えた闇をぼんやりと照らし出した。
足元の花壇には華やかに飾られた植物が並び、色とりどりの花が咲き誇っている。
一目見てわかった。
ここ、高級レストランだ。
ファミリーレストランや安い飲食店しか言ったことのないオレには到底縁のない場所。
入ることも、近づくことさえ躊躇われる空間。
「師匠…ここって?」
「んふふ〜♪ここで食事しようって思ってね♪」
「いや、でもここってかなり高そうなんですけど…」
「大丈夫だよ、全部自分が持ってあげるから」
「…」
そういえば師匠はかなりのお金持ちだ。
先ほどクレープを買ったときちらりと見えた財布の中で何枚お札が重なっていたことか。
あれならこの高級レストランで食事しても対してお札の数は変わらないことだろう。
しかし、実家から多額のお金を仕送りで送ってもらっているとはいえ女性に食事代を出させるというのは…男としてなんか惨めに感じた。
「うん?ユウタは不満?」
「いえそういうんじゃなくて…」
「そんなに気にするんなら体で払って欲しいな♪」
「さっさと中に入りましょうか」
「やん♪こんなところで挿入れちゃうの?ユウタったら大胆♪」
「そっちの中じゃないです。店内です」
「店内で?皆に見られちゃう…でも、ユウタがいいって言うなら…♪」
「あやか呼びますか?」
「あ、やめて」
店内に入ってすぐに思った。
思ったというよりは悟った。
やべぇ、オレ場違いだ。
とんでもない美貌を持った大人の女性であり振る舞いも気品がある師匠がこんな店に入るのならば納得だ。
しかしオレはどうだろうか?
どこにでもいる平々凡々な高校生。気品なし、まぁまぁ大人といえる風貌と年頃。
それでもこんな高級レストランに入るにはいささか若い気がする。
いや、全然若い。
こういうところは大人同士で来るものであり、長年付き合った恋人がプロポーズに使ったり、寄り添った夫婦の結婚記念日などに使用したりするのが妥当だろう。
師弟関係のオレと師匠には合うと思えない。
ついでに言うとこういう場所ならば確実に心得ておかなければいけないものがある。
テーブルマナー。
当然ごく普通の高校男児がそんなものを心得ているわけないし、知っていてもテレビで得たごく一部の知識のみ。
「し、師匠…」
思わず不安な声を上げると師匠は得意げに鼻を鳴らした。
「んふふ〜♪そんなに心配しなくていいよ。ユウタのことだからマナーとか気にしてるんでしょ?大丈夫、自分が手取り足取り…体で教えてあ・げ・る♪」
「帰っていいですか?」
「あ、ちょっと帰らないでよ。せっかく予約までしたんだからさ」
そのまま出てきたウェイターさんの後ろを師匠に引きずられる形で連れていかれた。
ナプキンなんて普段使わない。
ここまでお洒落な皿は師匠の家ぐらいしか見られなかった。
真っ白なテーブルクロスは新品同様に輝いている。
並べられたナイフにフォークは鏡のように光を反射していた。
丸いテーブルには場を盛り上げるアクセントとして花まで飾られている。
そんなところで目の前に座るのは灰色という不思議な髪の色をした現実離れした美貌を兼ね備える女性。
切り取ればドラマのワンシーンになりそうだし、絵にすれば芸術と呼べる代物になるだろう。
その正面にオレがいなければ。
「どうしたの、ユウタ。なんだか硬くなってるよ?」
「…こんなところにきて硬くならずにいられませんよ」
「あ、もしかして欲情して硬くなっちゃったのかな♪」
「緊張してですから」
はぁ、とため息一つつくことさえできない。
しかし緊張するオレとは違い師匠はいつもどおりである。
慣れているというよりも当たり前というような態度。
リラックスしているのではなくて、当然という反応。
師匠の実家はとんでもない大金持ちのところだと聞いていたけど…こういう場にはもう何度も出ているのだろうか。
師匠はやはりお嬢様やっていたのかもしれない。
その後ウェイターさんが赤ワインを持ってきて師匠のグラスに注いでいく。
お酒のことはよくわからないし、ワインなんて全然知らない。
それでもそのワインが高級なものであることぐらいは雰囲気で察した。
次いでオレのグラスにも注いでいく。
…え?オレのに?
「…師匠?」
「それじゃあ食べよっか」
「いえ、師匠?これワインですよね?」
「うん?白のほうが良かった?」
「いえ、そうじゃなくて…オレ飲めませんからね?」
「えー何で?」
何でって…師匠も分かっているだろうに。
十八歳が飲酒をするのは法で認められてないことだし、体もそこまで発達しているわけじゃない。
っていうか二十歳になるまでお酒は飲まないと決めているんだし。
「二十歳まで飲みませんから」
「別に十八も二十も変わらないよ」
「師匠、確信犯ですか」
「大丈夫だよ、酔っても自分が介抱してあげるから♪」
「それが目的ですか」
まったくこの女性は…。
はぁとため息をついていたら目の前で師匠がウェイターさんが注いでくれたワインの入ったグラスを手にしていた。
「それなら乾杯ぐらいはいいでしょ?」
「…まぁ、それくらいなら」
軽くグラスを合わせるだけ、それなら十分だろう。
オレもグラスを持ち、師匠のほうへと突き出す。
師匠は普段の子供のような笑みではない、澄み切った水のような、それでも温かい笑みを浮かべそっと言葉を唇に載せる。
「最愛のユウタと、至福な夜に」
その言葉に一瞬驚くがオレからも言葉を紡ぐ。
「敬愛する師匠と、素敵な日に」
「「乾杯」」
その行動に師匠は照れたように頬をかいて笑い、オレも同じように笑ってグラスを合わせた。
乾いた音が響き、グラスを傾けてワインを流し込む。
オレも師匠と同じようにグラスを傾け―
「―危ね、飲むとこだった…」
「ちっ」
師匠から舌打ちが聞こえたのは…気のせいではないだろう。
「ほら、そんな飲みすぎるからですよ」
「ユウタが飲まないからだよぉ〜」
食事を終えたオレと師匠は二人で夜の街を歩いていた。
既に時間は九時をまわっていて辺りは町の明かりに照らされながらも夜の闇に囲まれている。
そんな中で師匠は不安定な足取りで歩くのでオレが隣から支えている。
時折ふらつくとオレに抱きつきぐりぐりと顔を猫のようにこすり付けてくる。
アルコールによって肌はわずかに朱に染まり、普段からニコニコしている顔は目がとろんとし、非情に魅力的で色っぽい顔だ。
服の隙間から覗く肌、抱きいたときに押し当てられる大きな胸、仄かに香るアルコール臭とそれ以上の甘い、蕩けるような甘い香り。
しおらしいその姿は普段積極的でえへへと笑っている師匠とは一変してなんとも相手にしにくい。
かといってこのまま離れれば師匠は倒れるかもしれないし…。
仕方ない、そろそろ帰ろうか。
そもそも今回は食事の約束だけだったんだし。
「師匠、帰りますよ」
「ん〜?無理ぃ、歩けないよぉ」
お酒が回ってか師匠の口調が間延びしたものになってきた。
ふらつき、笑い、感情に素直、典型的な酔っ払いになっていた。
全く、オレがワインを飲めないというので自分ひとりで飲んでいた。
それも三本。
いくらなんでも飲みすぎだろうに。
「じゃ、おぶりますよ」
「ん〜…それよりも自分は休憩したいなぁ」
ふらつく足取りを支えてオレは師匠と歩いていく。
ふにゅりと伝わる柔らかさを意識しないよう注意しながら足を進めると師匠が動きを止めた。
…どうしたのだろうか?
もしかして…あれだろうか?
酔いすぎて吐くとか言う奴だろうか?
不安そうに師匠の顔を見ると気分が悪いという表情をしていなかった。
それどころか探していたものが見つかったという嬉しそうな顔をしている。
「ここなんか…いいよね♪」
その言葉にオレは師匠の視線の先を見て…固まった。
闇夜を照らす妖しい光。
黒とピンクを基準として彩られた外装。
ここら辺にあるにしては中々な大きさの建物。
単調なのに高級感溢れるそれは一見するならば観光用とかお洒落なものに見えなくない。
しかし看板に書かれた休憩、宿泊の金額と内側が見えないようにされている自動ドア、先ほど見ているこちらが恥ずかしくなるようなカップル一組入っていったことからここが何かわかる。
『ラブホテル』
頭のどこかで予想はしていたけど…ここまでストレートにくるとは思わなかった。
というか師匠、最初からこれが目的だったんじゃないか?
そうなれば先ほどのワインを飲ませようとしていたのも頷ける。
アルコールは感情を昂ぶらせ、酔いは判断を鈍らせる。
未成年といえどその効果は出るだろうし、否未成年だからこそ効果は絶大だろう。
だけどオレはワインに口をつけてはいないし、当然酔ってもいない。
雰囲気と状況に流されるほど判断は鈍っていない。
「ダメですから。どうせ家までそう遠い距離じゃないんですから歩きましょうよ」
「やーだー」
「歩いてるうちに酔いも醒めますよ」
「いーやーだー」
…困ったなぁ。
そりゃオレだってそういう邪な感情を抱かないわけじゃないし、師匠の体を味わいたいと思わなかったといえば嘘になる。
豊満で妖艶な肢体は男性ならば誰もが見たいと思うだろうし心行くまで貪りたいと思うだろう。
だけど、だから引かなければいけない。
感情に流されるというのは好きじゃないし、一時の迷いは後々大きなものとなって返ってくる。
それにオレはまだ高校生。
養うために働く…なんてことは考えなくてもいいだろうがそれでも学生であることにかわりない。
ただ単にビビッてるだけかもしれないけど。
それでもまだ、せめて高校を卒業してから…。
そう考えていたときにオレの両頬を温かな手が包んだ。
昼に目を隠されたときのように、そっと。
ただ触れている手の温もりがやや高い。
アルコールで体温が上がっているのだろうか?
「ユウタぁ…」
甘えるように、ねだるように、求めるように師匠はオレの名前を唇にのせた。
しかしその程度、今までだってなかったわけじゃない。
そのときは素面で物分りも良い…いや、結構ごねていたけどそれでも何とか分かってくれた。
それは酔っていてあのときよりも大変そうだけど無理な話じゃない。
「だからダメですよ、ししょ―」
言いかけて止まった。
覗き込むようにしてオレを見つめる師匠を前に言葉を飲み込んだ。
なぜなら思わずその顔に見とれてしまったから。
あの頃の凛としていた師匠とは違う、現在の無邪気な師匠とは違う。
水のように冷たい笑みを浮かべているのではなくて、子供っぽく明るい笑顔をしているのではなくて。
切なげで儚くて。
脆くて、だから美しい。
壊れそうな魅力を出した師匠は冷たくも子供でもない、大人の女の姿だった。
普段を知って、昔を知っている師匠だからこそいつも以上の魅力が出る。
頬を朱に染め潤んだ目で見つめる彼女にオレは何も言えなかった。
口を開けばいきましょうと言ってしまいそうで。
思わず頷き足を進めてしまいそうで。
何もできなかった。
ただ、そんな中で一つの疑問が生じた。
今まで共にいた師匠なのに感じたことのない違和感を抱いた。
何か違うような、どこか間違っているような…。
そんな、感覚を。
―あれ?師匠って…こんな目の色してたっけ………?
日差しは温かく頬を撫でる風は穏やかで香しい緑の匂いを運んでくる。
特にこれ取ったことのない和やかな午後、そんな時間にオレは駅の前で立っていた。
時間も時間であり出てくる人、入っていく人は少なく、これならすぐに見つけられるだろう。
元が目立つような姿であり、あまりにも美しすぎる風貌は周りよりもずっと際立っている。
ならば探す必要もなくすぐに見つけられるはずだ。
しかしあの女性にしては珍しい。
普段昼間っから外を歩いているような印象はなかったというのに。
基本的に夜行性っぽくて行動するのも大半夜だと思っていた。
実際あの人昼よりも夜の方が元気だし。
…いや、厳密に言えば夜の方が発言が過激になるというところなんだけど。
そんなことを考えていたらいきなり目の前から光が消えた。
「!」
一瞬で目の前が闇に包まれる。
それでも周りの喧騒は変わらないし、吹き寄せる風も止んだわけではない。
変わったことといえば緑の匂いに別の匂いが混じったこと。
ずっと強く、それなのにしつこくない甘い香り。
甘ったるいといってもいいはずのそれはどこか爽やかにも感じ取れた。
それから感触。
まるで目を覆われているかのように絹のような滑らかな肌触りがする二つのもの。
体温がじんわりと伝わりるそれは優しくそれでもしっかりとオレの顔に張り付いている。
ついでに背中に当たる二つのふくらみは服越しとはいえその感触は肌から伝わり脳へ突き刺さっていた。
こんなことをするのは一人しかいない。
「だ〜れだ?」
「…師匠」
「当たりだよ♪さすがユウタだね♪これはご褒美が―」
「―いいです」
人の目を覆っている両手からすり抜けるように後ろを向くとそこには普段以上に嬉しそうに笑みを浮かべる師匠がいた。
「…近いです」
「そうかな?」
鼻先が触れ合うまで拳一つの隙間もないのだから十分近いだろうに。
一歩下がって師匠の全体像が見えるようにする。
「…ぉお」
思わず感嘆の声を上げてしまった。
白く短いティアードスカート。
カジュアルなミリタリージャケット。
並んだ茶色のブーツ。
ファッション誌に出てきそうなものだが師匠が着ているだけでそれ以上のものとなる。
師匠の普段着はそうそう見ないからとても新鮮だ。
そんな中でも何より目を引いたのは片耳だけに付けられたイヤリング。
普段していないことからそれは穴を開けるタイプのものではないだろう。
ハートの形をしたピンク色の不思議な宝石が揺れている。
師匠はそういうアクセサリー類はいつもしないから持っていないと思ってたのに。
それにしてもハートか…空手の道着の帯にあったのもハートのマークだったな。
女性はやはり好きなのだろうか。
「どう?どう?似合ってるかな?」
「…あ、ええ、すごい綺麗ですよ、師匠」
「んふふ〜♪ありがと♪」
嬉しそうに体をくねらせえへへと笑う様は子供のそれと全く同じ。
その様子にオレもつられて笑みがこぼれた。
もとが美女である師匠なら何を着ようとも似合うこと間違いないだろう。
それならどんな言葉も当然過ぎるものだがそうとしか言えないのだから仕方ない。
仮に今オレが着ている服を師匠が身に着けてもいけると思う。
凛とした女性らしさを惜しげもなく晒し、大人の女性という雰囲気をかもしだす。
しかし、しない。絶対しない。
そんなことをすれば師匠はオレの服をそのまま強奪しかねないし、最悪師匠の服を着せられかねない。
「ちなみに今日の下着は勝負下着で―」
「―スカートをたくし上げようとしないでください」
その後師匠はするりと滑るようにオレの隣に立つ。
手は当然といわんばかりにオレの手に絡められていた。
すべすべの肌の感触、えも言われぬ体の柔らかさ、どこか男を意識させるような体温。
それらの感覚はいつも感じているものなのになぜだかドキドキした。
「それじゃあ行こっか♪」
「…え?行くってどこに?」
そもそも今回は食事するということで約束したはずだ。
約束の時間が夕食の時間帯よりもずっと早いからまぁ何かあるだろうことは予想していた。
それでも、どこへ行くかなんて考え付かない。
…あ、いや…一つだけ予想がつくところはあるけど。
「いいから、行こっ♪」
「あ、師匠っ!?」
そのままオレは師匠に手を引かれて行くのだった。
そのままどこか目的地があるわけでもなく二人で並んで歩いていた。
ここは地元から少し離れたところなので田舎でありながらも都会らしさがある場所。
なのでデートや買い物には最適の場所だ。
…デート?
「えっと、ユウタは何食べる?」
「へ?」
師匠の声に顔を上げるとそこにあったのはとあるクレープの屋台。
値段もお手ごろ種類も豊富でうちの高校でも話題に上がるところだ。
「せっかくだから一緒に食べようよ」
「ああ、そうですね」
とりあえず今は何か選んでおこう。
せっかくこうして師匠と二人で外にいるのだし。
「それじゃあチョコレートのやつを…トッピングで生クリーム、カスタードのダブルクリームにプリンを」
「…相変わらず甘いの好きだよね」
「色々疲れやすいから糖分必要なんですよ」
「そっか。それじゃあ自分はイチゴフロマージュで」
できたものを手に取り、オレと師匠は並んで近くのベンチに座っていた。
オレは既に半分ほど食べ終わり、師匠を見るとまだまだ食べている最中。
ちびちび食べるその姿は子供っぽいのにどこか気品を感じさせる。
食事だけじゃない、歩いている時だって背筋は伸びているし足取りは優雅だった。
師匠は本当はお嬢様とかやっていたのではないのだろうか。
よくそう思う。
背伸びして大人っぽく見せようとする高校生とは大違いで付け焼刃なものではない、生まれてからずっと教え込まれてきたかのような本当の品格。
昔、近寄りがたかったのはその品格がにじみ出ていたというのも理由の一つかもしれない。
「ユウタが食べてるのちょっともらっていい?」
「…へ?」
そのようなことを考えていたところへ子供っぽく無邪気な発言にオレは素っ頓狂な声を上げるが、師匠はオレの持っているクレープを指差していた。
「どんな味がするのかなーって思って」
ここであの麗しの暴君こと双子の姉ならば普通に差し出せただろう。
否、差し出す前に食われてる。
しかしそんなことを気にする仲じゃない。
家族だし、双子だし。
別に間接キスしているとか今更気にしてどうするという感じである。
それでも師匠は別だ。
いかに師弟関係とはいえ男と女。
そうみだりに親しくすべきものではない…のだけど。
「あーん♪]
心の中の葛藤なんて知ってか知らずか師匠はオレに向かって口を開いていた。
桜色の唇が分かれ、雪のように白く輝く歯が覗く。
ちろちろと蠢く舌は挑発的であり 思わず唇を重ねて啜ってみたい衝動に駆られた。
って何を思っているんだオレは。
「あーん♪」
「…」
…仕方ない、か。
「どーぞ」
オレはまだ齧っていない部分を師匠に差し出した。
「あむっ♪」
当然というか、やっぱりというか、師匠は人が食べた部分にあえて食いついた。
もくもくと頬を動かして味わう大人の女性。
顔に浮かべるのは子供っぽい純粋な笑み。
ちぐはぐで全く逆なのにそれでも見とれてしまう魅力がある。
それと同時にその笑みを見て嬉しくなった。
咀嚼し、喉が上下してクレープを飲み込んだ師匠は嬉しそうに呟いた。
「ん、おいし♪」
問題はその次の発言だった。
「これってデートだねぇ♪」
「ぶっ!」
その言葉にオレは噴き出していた。
大人の女性である師匠、その隣にいるのは学生だが大人といってもいいぐらいのオレ。
男女が二人、寄り添うその光景はまさにデート。
あのデート。
…マジで?
「えへへ〜、デート♪デート♪」
嬉しそうに何度も呟きながら師匠はオレに寄りかかってきた。
避けるわけにもいかずその体を受け止め、肩に頭が乗せられる。
途端に強まる爽やかな魅惑の香り。
そのまま動くわけにもいかず、かといってこのまま無言というのもつらい。
だが何を言えばいいのかわからない。
デートなんて今までしたことはなかったし、隣にいるのは親しみなれた師匠なのだし。
気をつかうわけもなく、いつもどおりに接せるはずなのに
何もできないオレは仕方ないので手に持っていたクレープを一口齧る。
齧った部分は先ほどまで味わっていた味とは違う甘さを感じた。
あの後クレープを食べ終え適当にぶらついていた最中、師匠が一つの建物の前で言った。
「ここなんだよ、いつも自分がそういうものを買う場所は」
「…こんなところにあったんですか」
ピンクで塗られた看板にいかにもそういうものを売っていることを教えてくる外装。
「何か買ってく?あ、でもオナホールとかエッチなビデオはダメだよ?そんなもの使うんだったら自分がしてあげるから♪」
「結構です」
「エッチな衣装だったら喜んで買っちゃうよ♪」
「いえ、いいです」
先ほどはあんなにドキドキしたというのになんだかんだいっても師匠は師匠だった。
「ここだよ」
そう言って師匠が案内してくれたのは一つのとても大きなレストランだった。
入り口のドアには細かな装飾が施されており、その両側には大きな白い柱が佇んでいる。
二階建てらしく窓から漏れ出した淡い光は既に夕日の光も消えた闇をぼんやりと照らし出した。
足元の花壇には華やかに飾られた植物が並び、色とりどりの花が咲き誇っている。
一目見てわかった。
ここ、高級レストランだ。
ファミリーレストランや安い飲食店しか言ったことのないオレには到底縁のない場所。
入ることも、近づくことさえ躊躇われる空間。
「師匠…ここって?」
「んふふ〜♪ここで食事しようって思ってね♪」
「いや、でもここってかなり高そうなんですけど…」
「大丈夫だよ、全部自分が持ってあげるから」
「…」
そういえば師匠はかなりのお金持ちだ。
先ほどクレープを買ったときちらりと見えた財布の中で何枚お札が重なっていたことか。
あれならこの高級レストランで食事しても対してお札の数は変わらないことだろう。
しかし、実家から多額のお金を仕送りで送ってもらっているとはいえ女性に食事代を出させるというのは…男としてなんか惨めに感じた。
「うん?ユウタは不満?」
「いえそういうんじゃなくて…」
「そんなに気にするんなら体で払って欲しいな♪」
「さっさと中に入りましょうか」
「やん♪こんなところで挿入れちゃうの?ユウタったら大胆♪」
「そっちの中じゃないです。店内です」
「店内で?皆に見られちゃう…でも、ユウタがいいって言うなら…♪」
「あやか呼びますか?」
「あ、やめて」
店内に入ってすぐに思った。
思ったというよりは悟った。
やべぇ、オレ場違いだ。
とんでもない美貌を持った大人の女性であり振る舞いも気品がある師匠がこんな店に入るのならば納得だ。
しかしオレはどうだろうか?
どこにでもいる平々凡々な高校生。気品なし、まぁまぁ大人といえる風貌と年頃。
それでもこんな高級レストランに入るにはいささか若い気がする。
いや、全然若い。
こういうところは大人同士で来るものであり、長年付き合った恋人がプロポーズに使ったり、寄り添った夫婦の結婚記念日などに使用したりするのが妥当だろう。
師弟関係のオレと師匠には合うと思えない。
ついでに言うとこういう場所ならば確実に心得ておかなければいけないものがある。
テーブルマナー。
当然ごく普通の高校男児がそんなものを心得ているわけないし、知っていてもテレビで得たごく一部の知識のみ。
「し、師匠…」
思わず不安な声を上げると師匠は得意げに鼻を鳴らした。
「んふふ〜♪そんなに心配しなくていいよ。ユウタのことだからマナーとか気にしてるんでしょ?大丈夫、自分が手取り足取り…体で教えてあ・げ・る♪」
「帰っていいですか?」
「あ、ちょっと帰らないでよ。せっかく予約までしたんだからさ」
そのまま出てきたウェイターさんの後ろを師匠に引きずられる形で連れていかれた。
ナプキンなんて普段使わない。
ここまでお洒落な皿は師匠の家ぐらいしか見られなかった。
真っ白なテーブルクロスは新品同様に輝いている。
並べられたナイフにフォークは鏡のように光を反射していた。
丸いテーブルには場を盛り上げるアクセントとして花まで飾られている。
そんなところで目の前に座るのは灰色という不思議な髪の色をした現実離れした美貌を兼ね備える女性。
切り取ればドラマのワンシーンになりそうだし、絵にすれば芸術と呼べる代物になるだろう。
その正面にオレがいなければ。
「どうしたの、ユウタ。なんだか硬くなってるよ?」
「…こんなところにきて硬くならずにいられませんよ」
「あ、もしかして欲情して硬くなっちゃったのかな♪」
「緊張してですから」
はぁ、とため息一つつくことさえできない。
しかし緊張するオレとは違い師匠はいつもどおりである。
慣れているというよりも当たり前というような態度。
リラックスしているのではなくて、当然という反応。
師匠の実家はとんでもない大金持ちのところだと聞いていたけど…こういう場にはもう何度も出ているのだろうか。
師匠はやはりお嬢様やっていたのかもしれない。
その後ウェイターさんが赤ワインを持ってきて師匠のグラスに注いでいく。
お酒のことはよくわからないし、ワインなんて全然知らない。
それでもそのワインが高級なものであることぐらいは雰囲気で察した。
次いでオレのグラスにも注いでいく。
…え?オレのに?
「…師匠?」
「それじゃあ食べよっか」
「いえ、師匠?これワインですよね?」
「うん?白のほうが良かった?」
「いえ、そうじゃなくて…オレ飲めませんからね?」
「えー何で?」
何でって…師匠も分かっているだろうに。
十八歳が飲酒をするのは法で認められてないことだし、体もそこまで発達しているわけじゃない。
っていうか二十歳になるまでお酒は飲まないと決めているんだし。
「二十歳まで飲みませんから」
「別に十八も二十も変わらないよ」
「師匠、確信犯ですか」
「大丈夫だよ、酔っても自分が介抱してあげるから♪」
「それが目的ですか」
まったくこの女性は…。
はぁとため息をついていたら目の前で師匠がウェイターさんが注いでくれたワインの入ったグラスを手にしていた。
「それなら乾杯ぐらいはいいでしょ?」
「…まぁ、それくらいなら」
軽くグラスを合わせるだけ、それなら十分だろう。
オレもグラスを持ち、師匠のほうへと突き出す。
師匠は普段の子供のような笑みではない、澄み切った水のような、それでも温かい笑みを浮かべそっと言葉を唇に載せる。
「最愛のユウタと、至福な夜に」
その言葉に一瞬驚くがオレからも言葉を紡ぐ。
「敬愛する師匠と、素敵な日に」
「「乾杯」」
その行動に師匠は照れたように頬をかいて笑い、オレも同じように笑ってグラスを合わせた。
乾いた音が響き、グラスを傾けてワインを流し込む。
オレも師匠と同じようにグラスを傾け―
「―危ね、飲むとこだった…」
「ちっ」
師匠から舌打ちが聞こえたのは…気のせいではないだろう。
「ほら、そんな飲みすぎるからですよ」
「ユウタが飲まないからだよぉ〜」
食事を終えたオレと師匠は二人で夜の街を歩いていた。
既に時間は九時をまわっていて辺りは町の明かりに照らされながらも夜の闇に囲まれている。
そんな中で師匠は不安定な足取りで歩くのでオレが隣から支えている。
時折ふらつくとオレに抱きつきぐりぐりと顔を猫のようにこすり付けてくる。
アルコールによって肌はわずかに朱に染まり、普段からニコニコしている顔は目がとろんとし、非情に魅力的で色っぽい顔だ。
服の隙間から覗く肌、抱きいたときに押し当てられる大きな胸、仄かに香るアルコール臭とそれ以上の甘い、蕩けるような甘い香り。
しおらしいその姿は普段積極的でえへへと笑っている師匠とは一変してなんとも相手にしにくい。
かといってこのまま離れれば師匠は倒れるかもしれないし…。
仕方ない、そろそろ帰ろうか。
そもそも今回は食事の約束だけだったんだし。
「師匠、帰りますよ」
「ん〜?無理ぃ、歩けないよぉ」
お酒が回ってか師匠の口調が間延びしたものになってきた。
ふらつき、笑い、感情に素直、典型的な酔っ払いになっていた。
全く、オレがワインを飲めないというので自分ひとりで飲んでいた。
それも三本。
いくらなんでも飲みすぎだろうに。
「じゃ、おぶりますよ」
「ん〜…それよりも自分は休憩したいなぁ」
ふらつく足取りを支えてオレは師匠と歩いていく。
ふにゅりと伝わる柔らかさを意識しないよう注意しながら足を進めると師匠が動きを止めた。
…どうしたのだろうか?
もしかして…あれだろうか?
酔いすぎて吐くとか言う奴だろうか?
不安そうに師匠の顔を見ると気分が悪いという表情をしていなかった。
それどころか探していたものが見つかったという嬉しそうな顔をしている。
「ここなんか…いいよね♪」
その言葉にオレは師匠の視線の先を見て…固まった。
闇夜を照らす妖しい光。
黒とピンクを基準として彩られた外装。
ここら辺にあるにしては中々な大きさの建物。
単調なのに高級感溢れるそれは一見するならば観光用とかお洒落なものに見えなくない。
しかし看板に書かれた休憩、宿泊の金額と内側が見えないようにされている自動ドア、先ほど見ているこちらが恥ずかしくなるようなカップル一組入っていったことからここが何かわかる。
『ラブホテル』
頭のどこかで予想はしていたけど…ここまでストレートにくるとは思わなかった。
というか師匠、最初からこれが目的だったんじゃないか?
そうなれば先ほどのワインを飲ませようとしていたのも頷ける。
アルコールは感情を昂ぶらせ、酔いは判断を鈍らせる。
未成年といえどその効果は出るだろうし、否未成年だからこそ効果は絶大だろう。
だけどオレはワインに口をつけてはいないし、当然酔ってもいない。
雰囲気と状況に流されるほど判断は鈍っていない。
「ダメですから。どうせ家までそう遠い距離じゃないんですから歩きましょうよ」
「やーだー」
「歩いてるうちに酔いも醒めますよ」
「いーやーだー」
…困ったなぁ。
そりゃオレだってそういう邪な感情を抱かないわけじゃないし、師匠の体を味わいたいと思わなかったといえば嘘になる。
豊満で妖艶な肢体は男性ならば誰もが見たいと思うだろうし心行くまで貪りたいと思うだろう。
だけど、だから引かなければいけない。
感情に流されるというのは好きじゃないし、一時の迷いは後々大きなものとなって返ってくる。
それにオレはまだ高校生。
養うために働く…なんてことは考えなくてもいいだろうがそれでも学生であることにかわりない。
ただ単にビビッてるだけかもしれないけど。
それでもまだ、せめて高校を卒業してから…。
そう考えていたときにオレの両頬を温かな手が包んだ。
昼に目を隠されたときのように、そっと。
ただ触れている手の温もりがやや高い。
アルコールで体温が上がっているのだろうか?
「ユウタぁ…」
甘えるように、ねだるように、求めるように師匠はオレの名前を唇にのせた。
しかしその程度、今までだってなかったわけじゃない。
そのときは素面で物分りも良い…いや、結構ごねていたけどそれでも何とか分かってくれた。
それは酔っていてあのときよりも大変そうだけど無理な話じゃない。
「だからダメですよ、ししょ―」
言いかけて止まった。
覗き込むようにしてオレを見つめる師匠を前に言葉を飲み込んだ。
なぜなら思わずその顔に見とれてしまったから。
あの頃の凛としていた師匠とは違う、現在の無邪気な師匠とは違う。
水のように冷たい笑みを浮かべているのではなくて、子供っぽく明るい笑顔をしているのではなくて。
切なげで儚くて。
脆くて、だから美しい。
壊れそうな魅力を出した師匠は冷たくも子供でもない、大人の女の姿だった。
普段を知って、昔を知っている師匠だからこそいつも以上の魅力が出る。
頬を朱に染め潤んだ目で見つめる彼女にオレは何も言えなかった。
口を開けばいきましょうと言ってしまいそうで。
思わず頷き足を進めてしまいそうで。
何もできなかった。
ただ、そんな中で一つの疑問が生じた。
今まで共にいた師匠なのに感じたことのない違和感を抱いた。
何か違うような、どこか間違っているような…。
そんな、感覚を。
―あれ?師匠って…こんな目の色してたっけ………?
12/05/05 21:03更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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