過去と師匠
師匠は昔からあんな性格だったわけではない。
以前の師匠はもっとお淑やかで凛々しくて大人の女という雰囲気をかもし出していた。
オレのお父さんの実家に住んでいるあの二人の女性とはまた違ったもの。
玉藻姐のように妖艶でなまめかしいのではなくて。
先生のように柔和で上品ではない。
師匠独特で、女性だからこそ引き出せる爽やかな魅力を見せていた。
初めて師匠と出会ったときのことは今でも覚えている。
お父さんに手を引かれ、車に乗り、連れて行かれたのがここら周辺ではまず見ない大きさの道場。
その道場の後ろに堂々とそびえ立つ豪邸のような建物。
そして、出てきた女性はこの日本じゃ考えられないような美女。
モデルのようなスタイルに灰色の長髪、幼くともわかる美人だという顔ににこやかな表情。
髪の毛が紫色で瞳の色が金色の先生とはまた違う、髪の毛が狐色、お酒が大好きな玉藻姐ともまた違う。
そんな彼女を前にしたときどこかに違和感を抱いた。
言葉にできないような感覚。
しかし子供であり、まだ小さかったからそんなものはすぐに気にならなくなった。
隣にいたお父さんだって特に気にした様子を見せていないのだし。
オレも特に気にしない。
お父さんと共に目の前の女性を見つめていた。
ただ、そこでまた違和感。
違和感というよりも不思議に感じることが一つ。
それは彼女がオレと先生を見つめて怪訝そうに首をかしげたことだった。
何かがおかしい、何かが違う。
それが何なのかはわかるはずもなく、また彼女はそれを気のせいにしたのかすぐさま首を戻し、お父さんと話し出した。
聞こえてきた内容はオレを彼女の下で空手を学ばせたいということと、それを快諾する彼女の声。
大人同士の会話をしている最中についっと腕が後ろに引かれた。
そこをみるとオレよりも身長の低い、幼い少女。
子供の頃の黒崎あやか。
興味本位でついてきたオレの唯一の双子の姉。
あやかはオレの腕を強く掴んだまま彼女を見ていた。
否、何も言わずにただ睨みつけていた。
「今日から自分が君の師だよ。よろしくね、黒崎ユウタ君」
「よろしくおねがいします!!」
そのとき道場にいたのは二十人弱の門弟。
年齢は 最高が高校生くらい、最低でオレよりも小さい子供。
男が多く、それでも女もいるはいる。
幅広く集まったメンバーの中に新たにオレが加わった。
なんとも懐かしい。
あの頃はまだ無邪気で、普通に人と接することができていて、道場の皆と仲良くなれていたっけ。
楽しく話しもできてたしふざけあうことも多々あった。
騒がしくて、賑やかで、それでも楽しい空間だった。
あの頃の師匠はまだクールで凛としていたし。
ただ、一つ。
一つだけ、その空間で違和感を抱いたことがあった。
皆は師匠を前に平然としていること。
あれほどの美女を前にしたらもう少し反応があると思うのに。
誰も話しに行かないし、特に親しげにしている人がいない。
それは既に慣れてしまっているのか、それともまだ性に疎い年頃なのだろうか。
幼かったオレにはそんなことわかるはずもなくただ日々の稽古を続けているだけだった。
中学生になったとき、初めて師匠と組み手をした。
今までは稽古仲間と共にしていたのだが師匠とするのは初めて。
オレは手には勿論、頭にも体にも防具をつけて臨んだ組み手。
結果は一分と三十二秒。
オレの突きも蹴りも掠ることなく師匠の上段回し蹴り一撃で終了。
蹴られてそのまま床に頭を強かに打ちつけた記憶がある。
はっきりと覚えている。
あの時、オレが起き上がったときに師匠が言い放った言葉までも。
「今まで自分の下で何を学んでいたのかな?」
冷たく、はっきりとした口調。
「自分の一撃で倒れちゃうなんて正直期待外れだよ」
相手の気持ちを考えない事実のみの言葉。
「ほら、終わりならそこどきなよ。次が控えてるんだからさ」
棘棘しくて容赦のない言葉。
まるで寄せ付けたくないような、自ら突き放すような物言い。
それは中学生とはいえ流石にきついものがあった。
それでも。
そのときのオレにとって空手を習うことが力をつける近道だと思っていた。
途中、お父さんの実家に住んでいる先生は「『合気道』を知っているので教えますよ」と勧誘を受けていたのだが断ることにした。
中学生になるまでやってきたというのにここであきらめるというのはなんだか…負けた気がするから嫌だった。
ようやく積み上げてきたものを崩すのは耐えられなかった。
帯だって、やっとあと二つで黒帯になれるというところまで来たんだから。
「終わりじゃないですよ」
震える足で立ち上がったのを覚えている。
震える声でそういったのも覚えている。
「まだ、できますから」
ふらふらで、力もろくに入らない状態だった。
それでもあきらめるというのが嫌だった。
昔は諦めが悪い、言うことも聞かない子供だったし。
そんなオレを前に師匠は―
「ふふ、そっか。それじゃあ…もう一回、いくよ」
普段の顔とは違う笑みを見せた気がした。
その後の師匠はいつもそんな感じだった。
「君一人にずっとかまっていられるわけじゃないんだよ」
そう言われたことがあったし、骨折した時だって。
「骨折した?それだから練習を休むの?甘えちゃダメだよ」
決して甘やかさない。
絶対優しくしない。
和まず、親しくならず。
まるで自分から他人を寄せ付けまいとしているような態度。
それが師匠であり、オレのたった一人の空手の師だった。
あの頃は冷たくて、クールで凛としてて、できる女という感じだったっけか。
それなのに今の師匠ときたら随分と変わったもんだ。
あの頃の面影なんて欠片もない。
まったく、誰がこうしてくれたんだか…。
…いや、原因も犯人もオレなんだけど。
「変わったものですよね、師匠っ!」
そんな言葉と共にオレは師匠の頭部目掛けて蹴りを放つ。
足先が大きく弧を描く威力も速度もある回し蹴り。
しかし師匠はそんなオレの足をニコニコした顔で防具をつけた手で軽く受け止める。
防具を着用しているとはいえ十八歳の高校男児の蹴りをいとも容易く。
そしてすぐさま放たれる同じ回し蹴り。
狙いも同じ、頭部目掛けたその足はオレの倍以上早く、倍以上鋭い。
ぞくりと肌を刺激してくる恐怖の一撃をすぐさま頭を下げ、今度は拳を叩き込む。
しかしこれもまた軽く手のひらで受け止められる。
「何が?」
「いや、昔の頃の師匠はクールだったな、なんて思いまして」
しゃべりながらの打ち合い。
話しながらの組み手。
最もそんな余裕があるようには見えないほど激しい打ち合いであり、一歩間違えれば怪我を負いかねないものだ。
しかしこれも普段の一部であり、以前のようにローションをぶちまけることもまた普段の一部。
稽古としてはこっちがメインなのに…。
「クール?そうだったっけ?」
そんな軽い言葉とともに放たれたのは重い突き。
なんとか両手の平で受け流すも鋼鉄のハンマーで殴られたかのような痺れを残す。
細くたった二本しかない華奢な腕から放たれたものとは思えないな。
受け流した後は止まることなくすぐさま師匠の懐へと潜り込む。
近いからこそ拳が振るえず、近すぎるからこそ蹴りが打てない安全地帯。
そこから放つのはリーチ、威力共に低い『掌底』。
稽古だからこそこの技であり、本番ではないからこそこれである。
師匠の肩辺りに狙いをつけて、放った。
「自分は」
刹那、手に衝撃が走る。
言うほど重いものではない、しかしその衝撃の後手が動かなくなった。
否、絡め取られていた。
白く、白魚の腹のような綺麗な指で。
そんな細い指が出せるとは思えない力で。
絡めて、捕らえて、受け止められた。
「こんな感じだったよ」
「…そうでしたっけ」
全然違う。
全く違う。
昔の師匠はここまでフレンドリーかつとんでもない発言をする女性じゃなかった。
もっと凛としていてクールで、どこか棘棘している姿は近寄りがたいものを感じた。
会話をすることは場違いで、視線を向けることさえ躊躇ってしまう。
実際、あのころともに習っていた門弟仲間は皆が皆そんな感じだった。
それでも、今も昔も師匠が師匠であることに変わりないのでいいのだけど。
「昔の師匠はなんというか…猫っていう感じでしたけどね」
「ん〜そうかなぁ?」
「ツンツンしてて、どこか近寄りがたいって感じでしたね」
「ワーキャットみたくしてたつもりはないんだけどね」
「?」
時折出されるこのような発言。
オレの知らない言葉であり、何を示しているのかわからない。
調べてみれば大半は伝説上や架空の話の出てくる怪物の類。
それを何で口にするのかはいまだにわかりはしなかった。
「それを言ったらユウタは昔はワンちゃんぽかったよね?あ、アヌビスじゃないよ?」
「アヌビス?」
アヌビスというと…エジプトあたりに出てくる犬を模した神様のあれだろうか?
顔が犬で体が人間。
師匠がそんなものを突然口にする理由がわからない。
「こう、呼ぶと寄ってきて可愛かったなぁ〜♪あ、今でも可愛いんだけどね♪」
「可愛いって高校男児に合わない言葉ですよ。それにそれを言ったら師匠が今は犬ですよね?」
「ワン♪」
「…」
この女性、本当に変わったよな。
あの頃なら絶対にこんな犬の鳴き真似をしたりしなかったというのに。
「クゥ~ン♪」
「…なんですかその目は」
「ワンちゃんは発情するんだよ♪」
「そりゃ動物ですからね」
「発情したら襲いたくなっちゃうんだよ♪」
「こりゃ危険ですね。今のうちに保健所の人に連絡して引き取りに来てもらいましょうか」
「やめてやめて」
携帯電話を取りに行こうとして気づいた。
オレの手はずっと師匠につかまったままだ。
握られたてはそのままであり、組み手もこんな状況じゃ続けるわけにもいかないのでとりあえずは休憩といこう。
構えを解き、握っていた拳を下げた。
手を離そうとするが師匠の手ががっちり掴んでいて離してくれない。
痛くはない、それでも動かない。
「…師匠、手」
「あ、ユウタの手、握っちゃった♪」
可愛らしく頬を朱に染めるその姿は以前の師匠からは考えられない乙女な姿。
大人っぽい外見とは違う仕草はちぐはぐであるのに彼女の魅力をさらに引き立てる。
もっとも、その握った手をオレの袖に潜り込ませようとしなければ。
「んー…そうかなぁ」
オレは師匠の手を叩き落とし、頷く。
「それじゃあこんなのはどうかな?」
「こんなの?」
師匠は相変わらずオレの手を握ったまま頬を染めたまま顔を背けた。
「べ、別にユウタのことなんて好きじゃないんだからねっ!」
…。
…。
……え、ツンデレ?
「…はぁ、そうですか」
「…あれ、その反応は酷くない?」
「いや、どう反応すればいいかわからなかったので…」
「んもう、もう少し喜んでくれたっていいのに…」
「いや、ちょっとツンデレってよくわからないのですいません」
「そんなんじゃメドゥーサに嫌われちゃうよ?」
「…メドゥーサ?」
師匠の言葉を繰り返す。
メドゥーサ。
それは神話に出てくる髪の毛が蛇の怪物。
目が合った者を石へと変える女性である。
元は美しかったのだが嫉妬をどこかの神様から買ったからその姿になったなどという伝説があるとかないとか…そういうものなのだが。
何で今そのメドゥーサを出すのだろう。
ツンデレなのだろうか?
「自分はそれでもいいんだけどね〜♪」
「…はぁ」
いまいち要領を得ない会話に区切りをつけ、とりあえず組み手を再開させようとして師匠と距離を置こう。
そうしようとして、気がついた。
「…師匠、手」
ずっと握ったまま。
指を絡めたままだった。
「あ、ユウタに手握られちゃった♪」
「師匠が握ってるんですから」
「ねぇ、ユウタ。今度一緒にご飯食べに行かない?」
「はい?」
急なお誘い。
それはオレが道場内の更衣室で帰りの支度をしているときに言われた。
師匠はドアの向こう側。寄りかかるようにして体重をドアに預けている。
「何でまた?」
「うん、一緒に食事してデザートは自分を食べてもらいたいからかな♪」
「遠慮します」
「嘘だよ〜、本当はそのままユウタを食べるためだよ〜♪」
「あやか呼んでいいですかね?」
「あ、それはやめて」
ため息をつき、道着を脱いで折りたたみ、床の上に落とす。
ついで来るときに履いていたズボンに足を通し始めたところで会話を再開する。
「で、何でですか?」
「たまには一緒にご飯くらい食べたいんだよ。独り身の食事って寂しいんだからね?」
「…そりゃ」
返しにくい言葉だ。
一人暮らしをしていないオレにとってはわからない感覚。
それに師匠の家族はここにはいなく、師匠にとっての知り合いはオレくらいのもの。
昔なら稽古仲間が何人もいたが今はオレのみ。
それにオレと師匠の関係。
彼女にとって唯一の繋がりであり、オレとはただの師弟だけという関係ではないのだ。
勿論、男女の仲まで発展はしてないが。
お世話になっている師匠の頼みだから無碍には出来ないし、一人が寂しいというのをどうにかしてあげたいと思う気持ちもある。
…仕方ないか。
オレはズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
黒く、傷だらけで長年使っているスライド式の携帯電話。
スケジュールを開き、あることをチェックする。
明日、明後日…明々後日…あ、あった。
…姉ちゃんは大学が忙しそうだから頼れないか。
「師匠、次の土曜なんてどうですかね?」
「っ!いいの!?」
「ええ、折角師匠が誘ってくれたんですし」
次の土曜日。
それはお母さんとお父さんが家にいる日であり、家事を任せていい日である。
お父さんなら我が麗しの暴君を上手く面倒見てくれるだろうし、オレがいなくても大丈夫だろう。
「うわーい、やったー♪」
大の大人が出すような声ではない子供のように無邪気に喜ぶ声。
その声を聞いて本当に思う。
あの頃の師匠とすごい変わったと。
ここまで楽しげに笑うような人じゃなかったと。
冷たく、冷静で、冷徹で、容赦なく、どこか残酷な女性だったのに。
あの頃の冷たい師匠が本当の彼女なのか、今の子供っぽい師匠が本当の彼女なのかわからない。
昔の笑みは冷たかった。
仮面のように貼り付けた笑みだった。
笑っているのに心は何も感じていない。
表面だけで感情を持っているのかと疑ってしまったほど。
でも、やはり。
今のほうがいいのかもしれない。
あの頃のようにただ冷たいだけではなくて、ただ貼り付けた笑みを浮かべるだけではなくて。
品のない言葉を並べようと、子供っぽい言動をしようと、ああやって無邪気に笑ってくれていたほうがいいかもしれない。
そう、思った。
「わーい♪ありがとうユウタっ!」
「いえいえどういたしまして。というわけでさっさと更衣室から出てってください」
「えー、自分とユウタの仲でしょ?」
「いくら男でも女性に裸を見せて平然としていられるわけじゃないんですよ」
「でも変な人が来ないようにこうやって監視をしてさ」
「鏡見てください。変な人が映りますよ」
「鏡は洗面台にしかないんだ。一人で行くのは怖いな〜♪一緒に来てくれないかな♪」
「子供ですか師匠は」
以前の師匠はもっとお淑やかで凛々しくて大人の女という雰囲気をかもし出していた。
オレのお父さんの実家に住んでいるあの二人の女性とはまた違ったもの。
玉藻姐のように妖艶でなまめかしいのではなくて。
先生のように柔和で上品ではない。
師匠独特で、女性だからこそ引き出せる爽やかな魅力を見せていた。
初めて師匠と出会ったときのことは今でも覚えている。
お父さんに手を引かれ、車に乗り、連れて行かれたのがここら周辺ではまず見ない大きさの道場。
その道場の後ろに堂々とそびえ立つ豪邸のような建物。
そして、出てきた女性はこの日本じゃ考えられないような美女。
モデルのようなスタイルに灰色の長髪、幼くともわかる美人だという顔ににこやかな表情。
髪の毛が紫色で瞳の色が金色の先生とはまた違う、髪の毛が狐色、お酒が大好きな玉藻姐ともまた違う。
そんな彼女を前にしたときどこかに違和感を抱いた。
言葉にできないような感覚。
しかし子供であり、まだ小さかったからそんなものはすぐに気にならなくなった。
隣にいたお父さんだって特に気にした様子を見せていないのだし。
オレも特に気にしない。
お父さんと共に目の前の女性を見つめていた。
ただ、そこでまた違和感。
違和感というよりも不思議に感じることが一つ。
それは彼女がオレと先生を見つめて怪訝そうに首をかしげたことだった。
何かがおかしい、何かが違う。
それが何なのかはわかるはずもなく、また彼女はそれを気のせいにしたのかすぐさま首を戻し、お父さんと話し出した。
聞こえてきた内容はオレを彼女の下で空手を学ばせたいということと、それを快諾する彼女の声。
大人同士の会話をしている最中についっと腕が後ろに引かれた。
そこをみるとオレよりも身長の低い、幼い少女。
子供の頃の黒崎あやか。
興味本位でついてきたオレの唯一の双子の姉。
あやかはオレの腕を強く掴んだまま彼女を見ていた。
否、何も言わずにただ睨みつけていた。
「今日から自分が君の師だよ。よろしくね、黒崎ユウタ君」
「よろしくおねがいします!!」
そのとき道場にいたのは二十人弱の門弟。
年齢は 最高が高校生くらい、最低でオレよりも小さい子供。
男が多く、それでも女もいるはいる。
幅広く集まったメンバーの中に新たにオレが加わった。
なんとも懐かしい。
あの頃はまだ無邪気で、普通に人と接することができていて、道場の皆と仲良くなれていたっけ。
楽しく話しもできてたしふざけあうことも多々あった。
騒がしくて、賑やかで、それでも楽しい空間だった。
あの頃の師匠はまだクールで凛としていたし。
ただ、一つ。
一つだけ、その空間で違和感を抱いたことがあった。
皆は師匠を前に平然としていること。
あれほどの美女を前にしたらもう少し反応があると思うのに。
誰も話しに行かないし、特に親しげにしている人がいない。
それは既に慣れてしまっているのか、それともまだ性に疎い年頃なのだろうか。
幼かったオレにはそんなことわかるはずもなくただ日々の稽古を続けているだけだった。
中学生になったとき、初めて師匠と組み手をした。
今までは稽古仲間と共にしていたのだが師匠とするのは初めて。
オレは手には勿論、頭にも体にも防具をつけて臨んだ組み手。
結果は一分と三十二秒。
オレの突きも蹴りも掠ることなく師匠の上段回し蹴り一撃で終了。
蹴られてそのまま床に頭を強かに打ちつけた記憶がある。
はっきりと覚えている。
あの時、オレが起き上がったときに師匠が言い放った言葉までも。
「今まで自分の下で何を学んでいたのかな?」
冷たく、はっきりとした口調。
「自分の一撃で倒れちゃうなんて正直期待外れだよ」
相手の気持ちを考えない事実のみの言葉。
「ほら、終わりならそこどきなよ。次が控えてるんだからさ」
棘棘しくて容赦のない言葉。
まるで寄せ付けたくないような、自ら突き放すような物言い。
それは中学生とはいえ流石にきついものがあった。
それでも。
そのときのオレにとって空手を習うことが力をつける近道だと思っていた。
途中、お父さんの実家に住んでいる先生は「『合気道』を知っているので教えますよ」と勧誘を受けていたのだが断ることにした。
中学生になるまでやってきたというのにここであきらめるというのはなんだか…負けた気がするから嫌だった。
ようやく積み上げてきたものを崩すのは耐えられなかった。
帯だって、やっとあと二つで黒帯になれるというところまで来たんだから。
「終わりじゃないですよ」
震える足で立ち上がったのを覚えている。
震える声でそういったのも覚えている。
「まだ、できますから」
ふらふらで、力もろくに入らない状態だった。
それでもあきらめるというのが嫌だった。
昔は諦めが悪い、言うことも聞かない子供だったし。
そんなオレを前に師匠は―
「ふふ、そっか。それじゃあ…もう一回、いくよ」
普段の顔とは違う笑みを見せた気がした。
その後の師匠はいつもそんな感じだった。
「君一人にずっとかまっていられるわけじゃないんだよ」
そう言われたことがあったし、骨折した時だって。
「骨折した?それだから練習を休むの?甘えちゃダメだよ」
決して甘やかさない。
絶対優しくしない。
和まず、親しくならず。
まるで自分から他人を寄せ付けまいとしているような態度。
それが師匠であり、オレのたった一人の空手の師だった。
あの頃は冷たくて、クールで凛としてて、できる女という感じだったっけか。
それなのに今の師匠ときたら随分と変わったもんだ。
あの頃の面影なんて欠片もない。
まったく、誰がこうしてくれたんだか…。
…いや、原因も犯人もオレなんだけど。
「変わったものですよね、師匠っ!」
そんな言葉と共にオレは師匠の頭部目掛けて蹴りを放つ。
足先が大きく弧を描く威力も速度もある回し蹴り。
しかし師匠はそんなオレの足をニコニコした顔で防具をつけた手で軽く受け止める。
防具を着用しているとはいえ十八歳の高校男児の蹴りをいとも容易く。
そしてすぐさま放たれる同じ回し蹴り。
狙いも同じ、頭部目掛けたその足はオレの倍以上早く、倍以上鋭い。
ぞくりと肌を刺激してくる恐怖の一撃をすぐさま頭を下げ、今度は拳を叩き込む。
しかしこれもまた軽く手のひらで受け止められる。
「何が?」
「いや、昔の頃の師匠はクールだったな、なんて思いまして」
しゃべりながらの打ち合い。
話しながらの組み手。
最もそんな余裕があるようには見えないほど激しい打ち合いであり、一歩間違えれば怪我を負いかねないものだ。
しかしこれも普段の一部であり、以前のようにローションをぶちまけることもまた普段の一部。
稽古としてはこっちがメインなのに…。
「クール?そうだったっけ?」
そんな軽い言葉とともに放たれたのは重い突き。
なんとか両手の平で受け流すも鋼鉄のハンマーで殴られたかのような痺れを残す。
細くたった二本しかない華奢な腕から放たれたものとは思えないな。
受け流した後は止まることなくすぐさま師匠の懐へと潜り込む。
近いからこそ拳が振るえず、近すぎるからこそ蹴りが打てない安全地帯。
そこから放つのはリーチ、威力共に低い『掌底』。
稽古だからこそこの技であり、本番ではないからこそこれである。
師匠の肩辺りに狙いをつけて、放った。
「自分は」
刹那、手に衝撃が走る。
言うほど重いものではない、しかしその衝撃の後手が動かなくなった。
否、絡め取られていた。
白く、白魚の腹のような綺麗な指で。
そんな細い指が出せるとは思えない力で。
絡めて、捕らえて、受け止められた。
「こんな感じだったよ」
「…そうでしたっけ」
全然違う。
全く違う。
昔の師匠はここまでフレンドリーかつとんでもない発言をする女性じゃなかった。
もっと凛としていてクールで、どこか棘棘している姿は近寄りがたいものを感じた。
会話をすることは場違いで、視線を向けることさえ躊躇ってしまう。
実際、あのころともに習っていた門弟仲間は皆が皆そんな感じだった。
それでも、今も昔も師匠が師匠であることに変わりないのでいいのだけど。
「昔の師匠はなんというか…猫っていう感じでしたけどね」
「ん〜そうかなぁ?」
「ツンツンしてて、どこか近寄りがたいって感じでしたね」
「ワーキャットみたくしてたつもりはないんだけどね」
「?」
時折出されるこのような発言。
オレの知らない言葉であり、何を示しているのかわからない。
調べてみれば大半は伝説上や架空の話の出てくる怪物の類。
それを何で口にするのかはいまだにわかりはしなかった。
「それを言ったらユウタは昔はワンちゃんぽかったよね?あ、アヌビスじゃないよ?」
「アヌビス?」
アヌビスというと…エジプトあたりに出てくる犬を模した神様のあれだろうか?
顔が犬で体が人間。
師匠がそんなものを突然口にする理由がわからない。
「こう、呼ぶと寄ってきて可愛かったなぁ〜♪あ、今でも可愛いんだけどね♪」
「可愛いって高校男児に合わない言葉ですよ。それにそれを言ったら師匠が今は犬ですよね?」
「ワン♪」
「…」
この女性、本当に変わったよな。
あの頃なら絶対にこんな犬の鳴き真似をしたりしなかったというのに。
「クゥ~ン♪」
「…なんですかその目は」
「ワンちゃんは発情するんだよ♪」
「そりゃ動物ですからね」
「発情したら襲いたくなっちゃうんだよ♪」
「こりゃ危険ですね。今のうちに保健所の人に連絡して引き取りに来てもらいましょうか」
「やめてやめて」
携帯電話を取りに行こうとして気づいた。
オレの手はずっと師匠につかまったままだ。
握られたてはそのままであり、組み手もこんな状況じゃ続けるわけにもいかないのでとりあえずは休憩といこう。
構えを解き、握っていた拳を下げた。
手を離そうとするが師匠の手ががっちり掴んでいて離してくれない。
痛くはない、それでも動かない。
「…師匠、手」
「あ、ユウタの手、握っちゃった♪」
可愛らしく頬を朱に染めるその姿は以前の師匠からは考えられない乙女な姿。
大人っぽい外見とは違う仕草はちぐはぐであるのに彼女の魅力をさらに引き立てる。
もっとも、その握った手をオレの袖に潜り込ませようとしなければ。
「んー…そうかなぁ」
オレは師匠の手を叩き落とし、頷く。
「それじゃあこんなのはどうかな?」
「こんなの?」
師匠は相変わらずオレの手を握ったまま頬を染めたまま顔を背けた。
「べ、別にユウタのことなんて好きじゃないんだからねっ!」
…。
…。
……え、ツンデレ?
「…はぁ、そうですか」
「…あれ、その反応は酷くない?」
「いや、どう反応すればいいかわからなかったので…」
「んもう、もう少し喜んでくれたっていいのに…」
「いや、ちょっとツンデレってよくわからないのですいません」
「そんなんじゃメドゥーサに嫌われちゃうよ?」
「…メドゥーサ?」
師匠の言葉を繰り返す。
メドゥーサ。
それは神話に出てくる髪の毛が蛇の怪物。
目が合った者を石へと変える女性である。
元は美しかったのだが嫉妬をどこかの神様から買ったからその姿になったなどという伝説があるとかないとか…そういうものなのだが。
何で今そのメドゥーサを出すのだろう。
ツンデレなのだろうか?
「自分はそれでもいいんだけどね〜♪」
「…はぁ」
いまいち要領を得ない会話に区切りをつけ、とりあえず組み手を再開させようとして師匠と距離を置こう。
そうしようとして、気がついた。
「…師匠、手」
ずっと握ったまま。
指を絡めたままだった。
「あ、ユウタに手握られちゃった♪」
「師匠が握ってるんですから」
「ねぇ、ユウタ。今度一緒にご飯食べに行かない?」
「はい?」
急なお誘い。
それはオレが道場内の更衣室で帰りの支度をしているときに言われた。
師匠はドアの向こう側。寄りかかるようにして体重をドアに預けている。
「何でまた?」
「うん、一緒に食事してデザートは自分を食べてもらいたいからかな♪」
「遠慮します」
「嘘だよ〜、本当はそのままユウタを食べるためだよ〜♪」
「あやか呼んでいいですかね?」
「あ、それはやめて」
ため息をつき、道着を脱いで折りたたみ、床の上に落とす。
ついで来るときに履いていたズボンに足を通し始めたところで会話を再開する。
「で、何でですか?」
「たまには一緒にご飯くらい食べたいんだよ。独り身の食事って寂しいんだからね?」
「…そりゃ」
返しにくい言葉だ。
一人暮らしをしていないオレにとってはわからない感覚。
それに師匠の家族はここにはいなく、師匠にとっての知り合いはオレくらいのもの。
昔なら稽古仲間が何人もいたが今はオレのみ。
それにオレと師匠の関係。
彼女にとって唯一の繋がりであり、オレとはただの師弟だけという関係ではないのだ。
勿論、男女の仲まで発展はしてないが。
お世話になっている師匠の頼みだから無碍には出来ないし、一人が寂しいというのをどうにかしてあげたいと思う気持ちもある。
…仕方ないか。
オレはズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
黒く、傷だらけで長年使っているスライド式の携帯電話。
スケジュールを開き、あることをチェックする。
明日、明後日…明々後日…あ、あった。
…姉ちゃんは大学が忙しそうだから頼れないか。
「師匠、次の土曜なんてどうですかね?」
「っ!いいの!?」
「ええ、折角師匠が誘ってくれたんですし」
次の土曜日。
それはお母さんとお父さんが家にいる日であり、家事を任せていい日である。
お父さんなら我が麗しの暴君を上手く面倒見てくれるだろうし、オレがいなくても大丈夫だろう。
「うわーい、やったー♪」
大の大人が出すような声ではない子供のように無邪気に喜ぶ声。
その声を聞いて本当に思う。
あの頃の師匠とすごい変わったと。
ここまで楽しげに笑うような人じゃなかったと。
冷たく、冷静で、冷徹で、容赦なく、どこか残酷な女性だったのに。
あの頃の冷たい師匠が本当の彼女なのか、今の子供っぽい師匠が本当の彼女なのかわからない。
昔の笑みは冷たかった。
仮面のように貼り付けた笑みだった。
笑っているのに心は何も感じていない。
表面だけで感情を持っているのかと疑ってしまったほど。
でも、やはり。
今のほうがいいのかもしれない。
あの頃のようにただ冷たいだけではなくて、ただ貼り付けた笑みを浮かべるだけではなくて。
品のない言葉を並べようと、子供っぽい言動をしようと、ああやって無邪気に笑ってくれていたほうがいいかもしれない。
そう、思った。
「わーい♪ありがとうユウタっ!」
「いえいえどういたしまして。というわけでさっさと更衣室から出てってください」
「えー、自分とユウタの仲でしょ?」
「いくら男でも女性に裸を見せて平然としていられるわけじゃないんですよ」
「でも変な人が来ないようにこうやって監視をしてさ」
「鏡見てください。変な人が映りますよ」
「鏡は洗面台にしかないんだ。一人で行くのは怖いな〜♪一緒に来てくれないかな♪」
「子供ですか師匠は」
12/04/28 21:11更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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