オレと日常
オレこと黒崎ゆうたには一人の師匠がいる。
それは嘘みたいな美女であり、夢のような麗人であり、信じられないほどの美姫である。
そんな彼女のもとにオレは週に三回ほど、空手を習いに通っている。
オレが習っている空手の師こと師匠と初めて出会ったのは小学校二年生のとき。
オレがお父さんに頼んだことが始まりだった。
『じゅーどー、おしえて』
それは幼い頃にオレが思いついた簡単なことであり、覚悟したことである。
うちの家族で男であるのはオレとお父さんだけ。
お母さんに姉ちゃん、それから双子の姉の計五人家族。
だからこそ男である以上、兄も弟もいない以上オレがしっかりしないといけない。
幼くても、守りたい。
男はオレとお父さんだけなのだから。
我が父はいたって普通の社会人。
どこにでもいるような父親でちょっと寡黙で放任主義。
それでもどこか優しく、温かい人である。
そんなお父さんは柔道をやっていた。
それを教えてくれたのはお父さんの実家に住んでいる玉藻姐と先生。
もっとも教えてくれただけでそれがどれほどの実力なのか、本当にやっていたのかは定かではない。
だが、幼い頃のオレはどうでもよかった。
ただ強くなれるのであればそれだけでよかった。
姉を、双子の姉を守れるような男になれれば何でもよかったんだ。
だがおお父さんはそんなオレの頼みを断った。
ただ断っただけではなく、別の提案をして。
『どうせなら空手なんてどうだ?』
思えばそれが始まりであり、師匠との出会いへ続いていく。
あれがなければこうなってはいなかっただろうし、こうして師匠と二人になることもなかっただろう。
今現在、オレの目の前には絶世の美女といっても過言ではないほどの女性がいた。
彼女は真っ白でしわ一つ、汚れ一見当たらない胴着を着込んだ姿で立っている。
腰に巻かれた鮮やかな赤い色の帯、その端には唇が中に描かれたハートマークをリボンらしきもので飾ったなんとも風変わりなマークが刺繍されている。
背はすらりと高く、鉄心でも刺さっているのか真っ直ぐな姿勢。
胴着から出た肌は傷も染みも見当たらず、真っ白な様は陶磁器を思わせる。
普通の服と違って体の線が出にくいこの姿でも彼女の豊かな女性の象徴は隠しきれない。
丸みを帯びた臀部のライン、スリムな腹部は流石に見えないとしても厚手の生地でできた胴着を押し上げる胸は胴着の隙間から深い渓谷を覗かせる。
本来きちんと着こなしていればそんなものは見えないというのに…見せ付けているのだろう、この女性は。
表情は普段どおり、何か嬉しいことがあったのか、それともこれから起きるのか期待しているニコニコ顔。
大人びた顔立ちにすっと通った鼻筋、細い顎に艶やかな唇。
それはいつものように端が持ち上がり、まるで愛らしい子供のように笑っている。
女性として完璧な体つき、女としてこれ以上ないほどの顔。
そして、何より特徴的なのが彼女の整えられた長髪。
黒いわけではなく、白いわけでもなく。
灰色である。
普通そんな姿は異常あるも自身の美貌が合わさって人間離れした美しさだと思えた。
かもし出しているのはどこか妖艶で、それでも高貴で、それなのに無邪気な雰囲気。
百人中百人が、むしろ誰もそれ以外の言葉を思いつかないのではないかというほどの美しさを持ったその人物。
「んふふ〜♪今日はね、こんな稽古をしてみよっか♪」
それがオレのたった一人の師匠である。
木でできた板を張り巡らせた床、高めの天井に輝く蛍光灯の明かり。
やや高い位置に作られた窓の向こうは墨で塗りつぶしたかのように真っ黒だ。
既に夜であるこの時間、無機質で質素で、とても広いこの空間にオレと師匠の二人っきり。
かたや絶世の美女、かたや平々凡々の高校生。
それは傍から見たらとんでもなく異常で異質なものであるに違いない。
それでも仕方ない。
オレにとっての師匠は彼女一人だけなのだし、彼女にとって弟子というのはオレ一人だけだ。
昔ならこの場にはオレ以外の生徒も沢山いたのだが…。
「師匠、こんな稽古って何ですか?」
「これだよ」
そう言って師匠が出してきたのは椅子二脚と、板。それから蝋燭数本。
一見何に使うかわからないがそれを見て思い出した。
それは一見遊びにも見える稽古内容。
なんとも稚拙で子供っぽい、それでもちゃんとしたもの。
椅子で支えられた板の上に火をつけた蝋燭を並べて立たせ、その蝋燭の火を消すというもの。
勿論ただ火を吹いて消すわけではない。
拳を突き出し、そのわずかな風で消すというものである。
ただそれをやっていたのは昔であり、打ち合い蹴りあう『組み手』や相手がいることを仮定して動く『形』と比べるとなんとも子供っぽいものである。
だから最近は、師匠と二人っきりになってからはやるはずもなかった。
「懐かしいですね」
「でしょ?でもあの時とは違うからね」
「?何が違うんですか?」
「ただ火を消しただけじゃすぐに終わるし、ユウタもこんな蝋燭の火を消すのに苦労しないと思うんだ」
そりゃ今まで師匠と二人っきりの稽古は皆がいた頃よりもずっときつく、激しいものだった。
それは自分のためであり、師匠のためでもあるから。
だから死に物狂いで必死にやったし、強くなった。
よって今のオレにとって蝋燭の火を拳で消すなんて容易いことこの上ない。
「ええ、まぁそうでしょうけど」
「だからね、こんなのはどうかな?」
そう言った師匠は普段よりも笑みを深めて、どこか艶っぽい表情で続ける。
「火を消せた分だけ自分が服を脱ぐっていうの♪」
「却下ぁ!!」
なんとも素晴らしい提案を当然のように断りを入れさせてもらった。
素晴らしい。素晴らしすぎて目眩がする。
ほぼ毎日顔を合わせるからこそそういう気まずくなることは避けたいというのにこの師匠はオレの心情をわかって欲しい。
健全な高校男児にとってそういうものはめちゃくちゃ望ましいことであり、同時に軽々しく手を出しちゃいけないものである。
っていうか師匠、毎度のことそういうことはやめましょうって言っているのに。
…正直嬉しくはあるんだけど。
「ちなみに今日は下着と道着あわせて四枚着てるから四つ消したら自分は…♪」
「いや、ですから師匠…」
「消せなかったら消せなかっただけユウタが脱ぐんだからね?」
「いや、師匠っ!!」
なんだそのルールは。
しかし反論する隙を与えず師匠は板の上に蝋燭を並べていく。
1,2,3,4…おや、と思った。
師匠が並べた蝋燭の数は五つ。
彼女が自分で言った着ている服の枚数よりも一つ多い。
「師匠、一つ多いんじゃないですか?」
「んふふ〜♪多くはないよ」
師匠は五本目の蝋燭を指で弄る。
撫で上げ、擦り、爪の先でくすぐるように弄るのを見せ付けてくる。
絡みつく指はどことなくいやらしく、無駄に艶かしい。
そうしてとんでもないことを言った。
「ユウタが四つ以上消せたらそのときは自分が何でも言うこと聞いてあげる♪人に頼めないようなこととかでもいいし、男と女しかできないこととかでもいいし、凸を凹しちゃうこととか何でもしてあげちゃうよ♪」
「凸を凹するって何ですか…」
「それを言わせちゃうの?んもう、ユウタったら〜♪」
げんなりした。
普段どおりにげんなりした。
いつもこれだもんな、師匠は。
常にこうだもんな、この女性は。
嫌なわけじゃないけど…もう少し抑えて欲しい。
師匠が蝋燭の前から体をずらし、並べられたそれがようやく見えるようになる。
赤や緑、黄色に紫とカラフルで白い線が下から上に向かって斜めにいくつも刻まれた細い蝋燭。
根元には銀紙が巻かれていたのかわずかに剥がした跡が残っていた。
そこにともされた炎は揺れ、吹けばすぐさま消えてしまいそうな儚さを感じさせる。
…っていうか、この蝋燭。
「誕生日のケーキの奴じゃないですか!!」
「やっぱりSM用の低音蝋燭が良かった?」
「そうじゃなくてっ!」
こんなもん吹かずとも数分で燃え尽きるっていうんだよ!
拳振るわなくとも横通るだけで消えるんだよ!
しかし師匠はまだ板の上に蝋燭を並べていく。
とん、とん、とん、ごんっと軽い音となぜか最後は硬い音。
板の上に並べられたものは合計で十個。
蝋燭ならば本で数えられたのだろうがどうも途中から本ではなくなっていた。
っていうか蝋燭とは比べ物にならないくらい太くなったそれは儚い炎というよりも燃え盛る業火を吐き出していた。
「師匠っ!途中からガスバーナーに変わるってどういうことですか!」
しかも最後にいたってはカセットコンロだし!
これは吹いたところで消せるような代物じゃない。
というか、消させるつもりが全く見えない。
蝋燭五本にガスバーナー四個、そしてカセットコンロが一個。
前半は消せるだろうが後半は絶対無理だ。
「これを全部消せたら…んふふ♪」
「消せなかったり残ったりしたら?」
「それはユウタが…えへへ♪」
「…」
ちなみにオレが今日着用しているのは上下が道着で中にはパンツ。
動きやすさを重視しまた冬のように寒いというわけではないので薄手である。
それが見事裏目に出た。
いつもこの道場の更衣室を使わせて着替えているので私服はそこにおいてあるのだが…こんな状況で師匠は服を取りに行かせることもまして着なおすことも許すわけがない。
「さぁ、ユウタ!やってみようか!」
「師匠!ガスバーナーを横に向けないでくださいよ!蝋燭溶けてますから!」
オレの言葉通り板の上に乗せられた細い蝋燭がガスバーナーの吐き出す炎により解けていた。
かろうじて芯が燃えているがこのままではすぐに燃え尽きることだろう。
それ以前に…。
「これ板に燃え移りますから!」
.どろどろに溶けてなお燃える蝋燭の火。
それは徐々に広がり木でできた板に燃え移ること間違いない。
そのまま行けば板が燃え崩れ、道場の床にガスバーナーやコンロが落下。
床は当然木でできているのでまた着火。
道場、火事。
それはまずい!
「師匠!水!水はないんですか!!」
「水はないけどこれはどうかな?」
そう言って手渡されたのはバケツ一杯なみなみと注がれている液体。
揺らすとゆったりと波打つそれはどうみても水のそれではない。
しかし水ではなくとも、どこかもったりとしたそれは液体であることにかわりはない。
仕方ないのでガスバーナー、カセットコンロの火を消して、既に着火している板にそれをかける。
じゅわっと音がして火は消え、道場には焦げ臭い匂いが立ち込めた。
それと同時に手に残った液体の感触。
…独特のこの感じは。
「…師匠、ローションを用意しているなんてどうしたんですか?」
ねとねと手につき、摩擦を軽減する液体。
師匠の持っているすごくなっちゃうローションのようなあれだった。
というか、そのローションなんだけど。
何でこんなものを持ち出してきてるんだよ…。
「いや、終わった後で使うかな〜と思って」
「使わないでしょうが、普通」
「エアーマットも用意してあるんだよ?」
「用意周到ですね…」
師匠のほうを見たらそこにあったのは彼女の身長よりもずっと大きく幅広い灰色のエアーマット。
それは大人のビデオで風俗関係のものに出てきそうなそういうもの。
…どこで仕入れて来るんだ。
「っていうか、どこに隠し持ってたんですか?」
師匠の体よりもずっと大きく、オレと二人で寝たところで余裕あるそのマットはこの質素で特に置いてあるものはないここで隠すに隠せないはずなのに。
しかし師匠は楽しげに笑って答えた。
「女の子にはね色々としまい込める『穴』があるんだよ」
そうして笑みにどこか艶が掛かる。
「ユウタのもしまっちゃおっか♪」
「遠慮しときます」
当然お断り。
いや、魅力的ではあるしこのまま頷きたいのは山々なんだけど。
それでもオレと師匠はまだ師弟関係なのだから。
カセットコンロを板からおろし、ガスバーナーをまとめ、冷え固まった蝋燭を剥がして隅に積む。
する前に片付けてしまったが師匠がこんなとんでもないことをした以上、この稽古はなし。
そもそも師匠にとってこの稽古がメインではないのだろうし。
「…せっかくだからこっちの稽古しちゃおっか♪」
「しませんよ」
「ぶ〜」
「…はぁ」
火を消すために使ったローションを零れないように板の上にまとめ、これでとりあえず終わり。
片づけが済んでちょっと一息ついたそのとき、それは来た。
「…っ!」
手がじんわりと熱くなる。
内側から小さな火で燻られているような、小さな熱が徐々に温度を上げていく。
それどころかどこかぴりぴりするような、びりびりと刺激されるような。
濡れているからこそ空気に触れると冷たく感じるはずなのに…。
…いや、この感覚は。
「師匠。このローションってもしかして…入ってます?」
そんなオレの言葉に師匠は嬉しそうに頷いた。
「うん、入ってるよ。とびっきりの―
―び・や・く♪」
まかた!またこれか!
以前にもこれにはお世話になった。
あの時は師匠が「道場破りが来たときの撃退方法で床一面に油をまくのがあるんだって。油はないけどこれなら代わりになるかな?」と言って出してきたのがこれだ。
美肌ではなくて、媚薬ローション。
お肌の健康、ハリ、艶を保つようなローションではなくえへへでんふふでうっふんあっはんなローション。
「師匠、手洗ってきますね」
「手を洗うくらいならさ」
そう言った師匠はにっこり笑っていつの間にかローションたっぷり入ったバケツを手に持っていた。
「これで洗い流しちゃえばいいんだよ♪」
あれは…何かいけないことをする前の顔だ。
もしも彼女に犬のような尻尾があったならはちきれんばかりに振っていることだろう。
それほどまでに師匠はこの先を期待して、楽しみにしているんだから。
「わーい♪」
大の女性がわーいとまで言いながら彼女はそれを両手に持ち、放った。
真上に、オレと二人で頭から被るように。
それは蛍光灯の明かりを艶やかに反射して一瞬宝石のような、煌く雫は幻想的な光景を生み出した。
しかし所詮それはいかがわしいことに使う液体であることは変わりない。
空中にばら撒かれた雫たちは重力に引かれてそして―
「だから嫌なんですよ、ローションって」
「…ごめんね」
結局その日は道場の床に巻き散らかしたローションの後始末で終了となった。
―これがオレと師匠の間ではよくあることであり。
―これがオレと師匠の日常である。
それは嘘みたいな美女であり、夢のような麗人であり、信じられないほどの美姫である。
そんな彼女のもとにオレは週に三回ほど、空手を習いに通っている。
オレが習っている空手の師こと師匠と初めて出会ったのは小学校二年生のとき。
オレがお父さんに頼んだことが始まりだった。
『じゅーどー、おしえて』
それは幼い頃にオレが思いついた簡単なことであり、覚悟したことである。
うちの家族で男であるのはオレとお父さんだけ。
お母さんに姉ちゃん、それから双子の姉の計五人家族。
だからこそ男である以上、兄も弟もいない以上オレがしっかりしないといけない。
幼くても、守りたい。
男はオレとお父さんだけなのだから。
我が父はいたって普通の社会人。
どこにでもいるような父親でちょっと寡黙で放任主義。
それでもどこか優しく、温かい人である。
そんなお父さんは柔道をやっていた。
それを教えてくれたのはお父さんの実家に住んでいる玉藻姐と先生。
もっとも教えてくれただけでそれがどれほどの実力なのか、本当にやっていたのかは定かではない。
だが、幼い頃のオレはどうでもよかった。
ただ強くなれるのであればそれだけでよかった。
姉を、双子の姉を守れるような男になれれば何でもよかったんだ。
だがおお父さんはそんなオレの頼みを断った。
ただ断っただけではなく、別の提案をして。
『どうせなら空手なんてどうだ?』
思えばそれが始まりであり、師匠との出会いへ続いていく。
あれがなければこうなってはいなかっただろうし、こうして師匠と二人になることもなかっただろう。
今現在、オレの目の前には絶世の美女といっても過言ではないほどの女性がいた。
彼女は真っ白でしわ一つ、汚れ一見当たらない胴着を着込んだ姿で立っている。
腰に巻かれた鮮やかな赤い色の帯、その端には唇が中に描かれたハートマークをリボンらしきもので飾ったなんとも風変わりなマークが刺繍されている。
背はすらりと高く、鉄心でも刺さっているのか真っ直ぐな姿勢。
胴着から出た肌は傷も染みも見当たらず、真っ白な様は陶磁器を思わせる。
普通の服と違って体の線が出にくいこの姿でも彼女の豊かな女性の象徴は隠しきれない。
丸みを帯びた臀部のライン、スリムな腹部は流石に見えないとしても厚手の生地でできた胴着を押し上げる胸は胴着の隙間から深い渓谷を覗かせる。
本来きちんと着こなしていればそんなものは見えないというのに…見せ付けているのだろう、この女性は。
表情は普段どおり、何か嬉しいことがあったのか、それともこれから起きるのか期待しているニコニコ顔。
大人びた顔立ちにすっと通った鼻筋、細い顎に艶やかな唇。
それはいつものように端が持ち上がり、まるで愛らしい子供のように笑っている。
女性として完璧な体つき、女としてこれ以上ないほどの顔。
そして、何より特徴的なのが彼女の整えられた長髪。
黒いわけではなく、白いわけでもなく。
灰色である。
普通そんな姿は異常あるも自身の美貌が合わさって人間離れした美しさだと思えた。
かもし出しているのはどこか妖艶で、それでも高貴で、それなのに無邪気な雰囲気。
百人中百人が、むしろ誰もそれ以外の言葉を思いつかないのではないかというほどの美しさを持ったその人物。
「んふふ〜♪今日はね、こんな稽古をしてみよっか♪」
それがオレのたった一人の師匠である。
木でできた板を張り巡らせた床、高めの天井に輝く蛍光灯の明かり。
やや高い位置に作られた窓の向こうは墨で塗りつぶしたかのように真っ黒だ。
既に夜であるこの時間、無機質で質素で、とても広いこの空間にオレと師匠の二人っきり。
かたや絶世の美女、かたや平々凡々の高校生。
それは傍から見たらとんでもなく異常で異質なものであるに違いない。
それでも仕方ない。
オレにとっての師匠は彼女一人だけなのだし、彼女にとって弟子というのはオレ一人だけだ。
昔ならこの場にはオレ以外の生徒も沢山いたのだが…。
「師匠、こんな稽古って何ですか?」
「これだよ」
そう言って師匠が出してきたのは椅子二脚と、板。それから蝋燭数本。
一見何に使うかわからないがそれを見て思い出した。
それは一見遊びにも見える稽古内容。
なんとも稚拙で子供っぽい、それでもちゃんとしたもの。
椅子で支えられた板の上に火をつけた蝋燭を並べて立たせ、その蝋燭の火を消すというもの。
勿論ただ火を吹いて消すわけではない。
拳を突き出し、そのわずかな風で消すというものである。
ただそれをやっていたのは昔であり、打ち合い蹴りあう『組み手』や相手がいることを仮定して動く『形』と比べるとなんとも子供っぽいものである。
だから最近は、師匠と二人っきりになってからはやるはずもなかった。
「懐かしいですね」
「でしょ?でもあの時とは違うからね」
「?何が違うんですか?」
「ただ火を消しただけじゃすぐに終わるし、ユウタもこんな蝋燭の火を消すのに苦労しないと思うんだ」
そりゃ今まで師匠と二人っきりの稽古は皆がいた頃よりもずっときつく、激しいものだった。
それは自分のためであり、師匠のためでもあるから。
だから死に物狂いで必死にやったし、強くなった。
よって今のオレにとって蝋燭の火を拳で消すなんて容易いことこの上ない。
「ええ、まぁそうでしょうけど」
「だからね、こんなのはどうかな?」
そう言った師匠は普段よりも笑みを深めて、どこか艶っぽい表情で続ける。
「火を消せた分だけ自分が服を脱ぐっていうの♪」
「却下ぁ!!」
なんとも素晴らしい提案を当然のように断りを入れさせてもらった。
素晴らしい。素晴らしすぎて目眩がする。
ほぼ毎日顔を合わせるからこそそういう気まずくなることは避けたいというのにこの師匠はオレの心情をわかって欲しい。
健全な高校男児にとってそういうものはめちゃくちゃ望ましいことであり、同時に軽々しく手を出しちゃいけないものである。
っていうか師匠、毎度のことそういうことはやめましょうって言っているのに。
…正直嬉しくはあるんだけど。
「ちなみに今日は下着と道着あわせて四枚着てるから四つ消したら自分は…♪」
「いや、ですから師匠…」
「消せなかったら消せなかっただけユウタが脱ぐんだからね?」
「いや、師匠っ!!」
なんだそのルールは。
しかし反論する隙を与えず師匠は板の上に蝋燭を並べていく。
1,2,3,4…おや、と思った。
師匠が並べた蝋燭の数は五つ。
彼女が自分で言った着ている服の枚数よりも一つ多い。
「師匠、一つ多いんじゃないですか?」
「んふふ〜♪多くはないよ」
師匠は五本目の蝋燭を指で弄る。
撫で上げ、擦り、爪の先でくすぐるように弄るのを見せ付けてくる。
絡みつく指はどことなくいやらしく、無駄に艶かしい。
そうしてとんでもないことを言った。
「ユウタが四つ以上消せたらそのときは自分が何でも言うこと聞いてあげる♪人に頼めないようなこととかでもいいし、男と女しかできないこととかでもいいし、凸を凹しちゃうこととか何でもしてあげちゃうよ♪」
「凸を凹するって何ですか…」
「それを言わせちゃうの?んもう、ユウタったら〜♪」
げんなりした。
普段どおりにげんなりした。
いつもこれだもんな、師匠は。
常にこうだもんな、この女性は。
嫌なわけじゃないけど…もう少し抑えて欲しい。
師匠が蝋燭の前から体をずらし、並べられたそれがようやく見えるようになる。
赤や緑、黄色に紫とカラフルで白い線が下から上に向かって斜めにいくつも刻まれた細い蝋燭。
根元には銀紙が巻かれていたのかわずかに剥がした跡が残っていた。
そこにともされた炎は揺れ、吹けばすぐさま消えてしまいそうな儚さを感じさせる。
…っていうか、この蝋燭。
「誕生日のケーキの奴じゃないですか!!」
「やっぱりSM用の低音蝋燭が良かった?」
「そうじゃなくてっ!」
こんなもん吹かずとも数分で燃え尽きるっていうんだよ!
拳振るわなくとも横通るだけで消えるんだよ!
しかし師匠はまだ板の上に蝋燭を並べていく。
とん、とん、とん、ごんっと軽い音となぜか最後は硬い音。
板の上に並べられたものは合計で十個。
蝋燭ならば本で数えられたのだろうがどうも途中から本ではなくなっていた。
っていうか蝋燭とは比べ物にならないくらい太くなったそれは儚い炎というよりも燃え盛る業火を吐き出していた。
「師匠っ!途中からガスバーナーに変わるってどういうことですか!」
しかも最後にいたってはカセットコンロだし!
これは吹いたところで消せるような代物じゃない。
というか、消させるつもりが全く見えない。
蝋燭五本にガスバーナー四個、そしてカセットコンロが一個。
前半は消せるだろうが後半は絶対無理だ。
「これを全部消せたら…んふふ♪」
「消せなかったり残ったりしたら?」
「それはユウタが…えへへ♪」
「…」
ちなみにオレが今日着用しているのは上下が道着で中にはパンツ。
動きやすさを重視しまた冬のように寒いというわけではないので薄手である。
それが見事裏目に出た。
いつもこの道場の更衣室を使わせて着替えているので私服はそこにおいてあるのだが…こんな状況で師匠は服を取りに行かせることもまして着なおすことも許すわけがない。
「さぁ、ユウタ!やってみようか!」
「師匠!ガスバーナーを横に向けないでくださいよ!蝋燭溶けてますから!」
オレの言葉通り板の上に乗せられた細い蝋燭がガスバーナーの吐き出す炎により解けていた。
かろうじて芯が燃えているがこのままではすぐに燃え尽きることだろう。
それ以前に…。
「これ板に燃え移りますから!」
.どろどろに溶けてなお燃える蝋燭の火。
それは徐々に広がり木でできた板に燃え移ること間違いない。
そのまま行けば板が燃え崩れ、道場の床にガスバーナーやコンロが落下。
床は当然木でできているのでまた着火。
道場、火事。
それはまずい!
「師匠!水!水はないんですか!!」
「水はないけどこれはどうかな?」
そう言って手渡されたのはバケツ一杯なみなみと注がれている液体。
揺らすとゆったりと波打つそれはどうみても水のそれではない。
しかし水ではなくとも、どこかもったりとしたそれは液体であることにかわりはない。
仕方ないのでガスバーナー、カセットコンロの火を消して、既に着火している板にそれをかける。
じゅわっと音がして火は消え、道場には焦げ臭い匂いが立ち込めた。
それと同時に手に残った液体の感触。
…独特のこの感じは。
「…師匠、ローションを用意しているなんてどうしたんですか?」
ねとねと手につき、摩擦を軽減する液体。
師匠の持っているすごくなっちゃうローションのようなあれだった。
というか、そのローションなんだけど。
何でこんなものを持ち出してきてるんだよ…。
「いや、終わった後で使うかな〜と思って」
「使わないでしょうが、普通」
「エアーマットも用意してあるんだよ?」
「用意周到ですね…」
師匠のほうを見たらそこにあったのは彼女の身長よりもずっと大きく幅広い灰色のエアーマット。
それは大人のビデオで風俗関係のものに出てきそうなそういうもの。
…どこで仕入れて来るんだ。
「っていうか、どこに隠し持ってたんですか?」
師匠の体よりもずっと大きく、オレと二人で寝たところで余裕あるそのマットはこの質素で特に置いてあるものはないここで隠すに隠せないはずなのに。
しかし師匠は楽しげに笑って答えた。
「女の子にはね色々としまい込める『穴』があるんだよ」
そうして笑みにどこか艶が掛かる。
「ユウタのもしまっちゃおっか♪」
「遠慮しときます」
当然お断り。
いや、魅力的ではあるしこのまま頷きたいのは山々なんだけど。
それでもオレと師匠はまだ師弟関係なのだから。
カセットコンロを板からおろし、ガスバーナーをまとめ、冷え固まった蝋燭を剥がして隅に積む。
する前に片付けてしまったが師匠がこんなとんでもないことをした以上、この稽古はなし。
そもそも師匠にとってこの稽古がメインではないのだろうし。
「…せっかくだからこっちの稽古しちゃおっか♪」
「しませんよ」
「ぶ〜」
「…はぁ」
火を消すために使ったローションを零れないように板の上にまとめ、これでとりあえず終わり。
片づけが済んでちょっと一息ついたそのとき、それは来た。
「…っ!」
手がじんわりと熱くなる。
内側から小さな火で燻られているような、小さな熱が徐々に温度を上げていく。
それどころかどこかぴりぴりするような、びりびりと刺激されるような。
濡れているからこそ空気に触れると冷たく感じるはずなのに…。
…いや、この感覚は。
「師匠。このローションってもしかして…入ってます?」
そんなオレの言葉に師匠は嬉しそうに頷いた。
「うん、入ってるよ。とびっきりの―
―び・や・く♪」
まかた!またこれか!
以前にもこれにはお世話になった。
あの時は師匠が「道場破りが来たときの撃退方法で床一面に油をまくのがあるんだって。油はないけどこれなら代わりになるかな?」と言って出してきたのがこれだ。
美肌ではなくて、媚薬ローション。
お肌の健康、ハリ、艶を保つようなローションではなくえへへでんふふでうっふんあっはんなローション。
「師匠、手洗ってきますね」
「手を洗うくらいならさ」
そう言った師匠はにっこり笑っていつの間にかローションたっぷり入ったバケツを手に持っていた。
「これで洗い流しちゃえばいいんだよ♪」
あれは…何かいけないことをする前の顔だ。
もしも彼女に犬のような尻尾があったならはちきれんばかりに振っていることだろう。
それほどまでに師匠はこの先を期待して、楽しみにしているんだから。
「わーい♪」
大の女性がわーいとまで言いながら彼女はそれを両手に持ち、放った。
真上に、オレと二人で頭から被るように。
それは蛍光灯の明かりを艶やかに反射して一瞬宝石のような、煌く雫は幻想的な光景を生み出した。
しかし所詮それはいかがわしいことに使う液体であることは変わりない。
空中にばら撒かれた雫たちは重力に引かれてそして―
「だから嫌なんですよ、ローションって」
「…ごめんね」
結局その日は道場の床に巻き散らかしたローションの後始末で終了となった。
―これがオレと師匠の間ではよくあることであり。
―これがオレと師匠の日常である。
12/04/22 20:35更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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