読切小説
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青藍に染まる
 雲一つない青空に、裂帛の声気と、竹刀同士のぶつかり合う破裂音が響いた。山の中腹に建立された小さな神社の境内、そこで今まさに奉納剣道大会が執り行われている。神社に祀られている神格を意識する人は少なく、ただ長く執り行われてきた伝統と考える人がほとんどであった。けれど、剣士一人一人の熱意は確たるものであり、試合の一つ一つが祀られた神格に捧げられている。
「ほれ、そこじゃ! 打て打て!」
 神社の屋根の上から喜色を孕んだ声が投げ掛けられる。声の主は、人であるなら二十歳に届くかどうかという女だ。人であるなら、という枕詞の意味するところは、その女にある人ならざるもの。音に応じて動く耳と、ゆらりと揺れる尻尾は、まさに狐のそれであった。このように目立つ者が神社の屋根の上にいるとなると、尋常であれば騒ぎになるだろう。しかしながら騒ぎにならないのは、彼女こそがこの神社に祀られる神格の稲荷であり、彼女にとって人の目を欺くことなど容易いことだからだ。
「まずまず、であったのぉ。さて、次の試合は……。わはっ! あやつ気負っておるわ」
 稲荷の視線の先には一人の青年剣士がいて、己の出番を待っていた。いかった肩が面布団を持ち上げる様は、さながら威嚇する野生の獣の如く、傍目に見ても緊張の度合いが分かる。
「こりゃ!気負わんと、いつも通りにやれば良いのじゃ!」
 本来ならば誰にも聞こえるはずのない激励に、青年は顔を上げて応えた。面金越しに交差する視線と僅かな怒気を稲荷は感じた。
「おお、怖い。一丁前に怒りおってからに、あやつもまだまだじゃの」
 青年も初めは稲荷を見ることが出来ず、神社もたんなる素振りの場所程度にしか考えていなかった。稲荷の方も今時珍しい者がいる程度にしか考えていなかったが、暑さ寒さに負けじと素振りをする青年に興味を抱き、ついには姿を明かしたのだった。それ以来、青年にのみ彼女の姿が見え、声が聞こえている。
 ややあって、ついに青年の出番となった。互いに礼をした後に蹲踞して、試合の開始を待つ。
「始め!」
 掛け声と同時に青年はすっくと立ち上がり裂帛の声気を上げると、一躍、相手へと掛かって行った。

 試合が終わり、静けさのみが残る神社に、青年は一人いた。青年は足元に竹刀袋と防具袋を置き、拝殿の廊下に腰掛けて、ただぼうっと空を見上げている。
「負けたのぉ」
 背後から掛けられた声に青年はびくりと肩を震わせ、声の主を睨め付けようとしたが、稲荷と分かるや力無く俯いた。稲荷は青年の後ろへ立つと、勝色に染められた剣道着に触れて青ざめた、その首筋に視線を落とした。
「あれほど気負っては勝てるものも勝てまいて。まぁ、お主のことじゃ、儂のために勝とうとでも思っておったんじゃろ?」
 青年の青みがかった首筋から頬にさっと朱が差されたのを、稲荷は見逃さなかった。
「お、照れておるのか?うい奴じゃのぉ」
「……帰る!」
「まぁ、待て待て。お主、すぐに怒るのがいかん。ゆるりとしていけ」
 立ち上がりかけた青年の両肩を稲荷が押さえると、青年は素直に腰を落とした。
「手、藍で汚れるから触らない方がいいぞ。汗臭いし」
「かまわぬよ」
 稲荷はそう言って屈むと、青年の首筋に顔を埋めた。臭いを確かめる様な息づかいを首筋に感じ、青年の首筋と頬が更に赤く染まる。
「わはっ、確かに臭うのぉ。汗と藍染めの混じった妙な香じゃ。……そのままというのも、気分が悪かろう。どれ、少し待っておれ」
 稲荷は首筋から顔を離すとその場を離れた。離れ際に首筋を撫でた毛先のむず痒さにか、あるいは首筋を隠すためにか、首筋に青年の手が当てられた。
 しばらくして青年の後ろへ戻って来た稲荷の手には手桶があり、その中からうっすらと湯気が立ち上っていた。手桶には湯が張られていて、中には手拭いが浸っている。
「小さな神社でのぉ、湯殿は無いし替えの着物も用意出来ぬが、手拭いで清めてやろう」
「じ、自分でやる!」
 手桶を奪おうと伸びた青年の手を稲荷はひらりとかわした。手桶から湯が跳ね、湯の中で手拭いが揺蕩う。
「勝ち負けは兎も角としてのぉ、誰よりも儂を思っての試合であった。それに報いねば、曲がりなりにも神と祀られる儂の立場があるまいて」
「……分かったよ」
「うむ、素直でよろしい」
 青年は袴をいくらか緩めると、袖から両腕を抜いて上半身を露にした。緊張と羞恥から出た一粒の汗が、青藍に染まった背を滴り落ちる。
「さて、まずは腕からかのぉ」
 稲荷は青年の腕を取ると、固く絞った手拭いで肩から指先にかけてを拭った。
「儂は知っておるぞ。あの細腕をこうも逞しくした、お主のたゆまぬ努力」
 腕を取り、指を這わせ、拭う度に、たこの一つも出来たことのないであろう稲荷の柔らかな手の平が、白魚の如き細く白い指が青藍に染まっていく。青年は稲荷が汚れることに嫌悪を感じたが、己から移った色が、無垢な手の平と指を染める様に言い知れぬ興奮を覚えた。
「背も広くなった。ほれ、腕を上げい、よしよし。……胸板も厚くなりおって、一端の男の体じゃのぉ。……なんじゃ、急に手を掴みよって」
 胸元へ回された稲荷の手を、青年の手が掴んだ。
「神様ってのは、みんなこうなのか?それに、何で一人の人間なんかにこうも……」
「他は知らぬが、儂がこうしたいと思うのはのぉ、お主を好いておるからじゃ。今まで人にその様なことを思ったためしなぞ無かったのに、不思議なものよ」
 ふと緩んだ青年の縛めから逃れた稲荷の手は、名残惜しげに青年の体を伝い、離れた。
「なあ……」
「なんじゃ?」
「次こそは、次こそは勝ってみせる……」
「その台詞、前にも聞いた気がするのぉ」
「うるさい!」
 青年はそう怒鳴りながら振り返ったが、そこに稲荷の姿は無かった。それこそ狐につままれた思いの青年だったが、手桶の湯に沈んだ手拭いと滲み出た藍が、そこには確かにあった。
「わはっ!期待して待っておるぞ!わははっ!!」
 どこからとなく聞こえる稲荷の高らかな笑いと喜色に満ちた声は、雲一つない青空に響くことなく、青年の内のみへと染み入るのであった。
20/03/04 21:37更新 / トラペゾヘドロン

■作者メッセージ
登場人物の名前決められないマン。

こんな稲荷さんがいても悪くないのではと思うんですよ。
僕としては甘口。

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