読切小説
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ビアスプリッツァーをご馳走してよ
「やあ、いらっしゃい。どうぞこちらへ。」
 勧められた席は、サテュロスのマスターの正面。金曜日の21時、こうして彼女の営むバーで飲むのが私の楽しみだ。金曜日にしては珍しく、他にお客は見られない。
「さて、何を飲むかい?」
「じゃあ、ビールで。」
「……サテュロスの店に来て、真っ先にビールを頼むのは君くらいのものだよ。まあ、そんな所が君らしくて嫌いじゃないね。」
 彼女はそう言うと、ビールを注ぐためにカウンターを離れた。コツコツと響く蹄に合わせて尻尾が揺れる。
「初めはこの体に慣れなかったけれどね、悪くはないよ。さ、どうぞ。」
「……いただきます。」
 言い表しづらい思いが口を突いて出そうになるが、それをビールで飲み込む。どうなろうと彼女は彼女だし、このビールが美味しいことに間違いはない。
 二口、三口と飲むにつれ、黄金色の甘露が体に染み渡る。けれど、酔いが回るにはまだ少ない。気付けばグラスは空になっていた。
「次はどうしようか。……私としては、君に飲んで欲しいワインがあるのだけれどね。」
「……ワインは、まだ苦手なんだ。」
「そうかい。じゃあ、ビールをもう一杯だね。」
 けれど、カウンターに置かれたのは2つのワイングラスだった。
「ああ、勘違いはしないでほしい。無理に葡萄のワインを飲ませるつもりは無いよ。」
 そう言って彼女が注いだお酒は琥珀色をしていた。グラスから熟れた果実の様な香りが広がる。
「これはね、バーレーワインと言う麦のワインなんだ。エールの一種だから、本当はビールなのだけれどね。ともあれ、まずは乾杯といこうか。」
 グラス同士が触れあう、澄んだ音の後に一口含む。すると、普段飲んでいるビールとは違う味わいに目を見張った。とろりとした甘さ、果実の様な複雑な熟成香、そしてウィスキーのスモーキーさ。
「ウィスキーの樽で長期熟成したバーレーワインでね、香りも味も奥深いんだよ。ただ、普通のビールより度数が高いから、それこそワインの様にゆっくり味わってほしい。」
「これは、たしかにそうだな。ゆっくり味わないともったいない。」
 美味しいお酒を飲みながら、ゆっくりと過ぎる時間を楽しむ。彼女に教わった贅沢な時間の過ごし方だ。時おりカウンター越しに交わす取り留めのない会話もお酒を進ませ、過ぎ行く時間に彩りを与えてくれる。
「こうして二人きりで飲むのは久しぶりだな……。」
「そうだね……。あ、少し待っていてよ。」
 彼女はそう言うと店の扉へ向かい、扉を開けて『open』と書かれている掛け看板を裏返した。そして、扉に鍵を掛けると私の隣の椅子に座った。
「たまにはね、静かな金曜日の夜があってもいいと思うんだ。君はどうだい?」
「悪くないよ。」
 彼女は、それは良かったと呟くと、私の肩に頭を預けてきた。彼女の匂いとバーレーワインの香りとが混ざり合った芳香が、酔いで麻痺し始めた脳を更に鈍くさせる。
「角、痛くはないかい?」
「平気さ。」
 明るく、どこか飄々とした所のある彼女が見せた不安げな表情に、私は彼女の肩を抱きそうになった。けれど、彼女の昔の姿がふと思い出され、体は固まってしまう。
「……せっかくだし、ワインの話でもしてみようかな。どんなワインにも、それぞれ飲むべきタイミングはあるんだよ。分かるかい?」
「ああ、分かるよ。」
「それに、セラーにしまい込まれたままのワインに価値なんて無い、そう思っているんだ。飲んで美味しいと感じた時に、価値は見出だされるんじゃないかな?」
 私はその問いに答えることが出来なかったし、彼女自身が早急な答えを求めてはいない様だった。いくらかの間を置いて、彼女はグラスを持ち上げた。グラスの中のバーレーワインが揺れ、滑らかな琥珀色の輝きを見せる。
「けれど、長い熟成が必要なワインもあるね。このバーレーワインもそうさ。産み出された複雑な味と香りは、熟成を経て初めて円熟するんだよ。つまりはね、慌てないことが大事。」
「……ありがとう。」
「なに、ワインの話をしただけなんだし、礼には及ばないよ。ただ、そうだね……。」
 私の肩から頭を離した彼女は、バーレーワインを一口含み、ゆっくりと味わった後に名残惜しむようにして飲み込んだ。そして、ほぅ、という吐息は、体の内に溜まった熱を逃がしているように思えた。
「ただ、そう。君がワインを飲めるようになったのなら、私にビアスプリッツァーをご馳走してほしいね。」
20/02/28 15:13更新 / トラペゾヘドロン

■作者メッセージ
もちろん彼はビアスプリッツァーをご馳走しました。

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