ジパング捕物帳
夜の帳の降りきった町は、草木さえも眠りに着いたかのような静けさを湛えている。そんな闇夜を影が走り抜ける。魑魅魍魎か夜の町を跳梁跋扈する物盗りか。影はある大店の門前に辿り着くと怪鳥の如く飛び上がり、音も無く門の向こうへ着地した。眼前には男の後ろ姿。影は腰に差した短刀をするりと抜くと、口元に手を当てて欠伸をするその無防備な背中に突き立てた。
「ぐぅ…」
影が素早く短刀を引き抜くと、男はそう短く呻いて昏倒した。篝火が影を照らし出す。影の正体はクノイチであった。短刀を鞘に納め、後ろ手に纏められた髪が揺れると、クノイチは疾風の如く走り出した。向かう先にはこの大店の蔵がある。蔵が見えた所でクノイチは物陰に身を隠した。蔵の入り口には見張りが二人。そして、蔵の屋根の上には黒い装束を纏った男が一人。クノイチと男は互いを視認すると一つ頷き合う。
そして、男が刀を抜いて屋根から飛び降りると同時にクノイチは懐から取り出した手裏剣を投げ放った。見張りの一人が相方の後ろに怪しげな男が現れた事を伝えようとした瞬間、手裏剣が飛来して意識を刈り取った。
クノイチと黒い装束の男は合流すると、互いにしか聞こえない小さな声で話し出した。
「万事、抜かり無いか?」
「ええ、計画通りよ」
「よし」
男は頷くと、懐から鍵を取り出した。この大店に放った間者に鍵の型を取らせていたのだ。
鍵を差し込んで捻ると、かちゃりと音を立てて錠が外れた。クノイチと男は滑り込む様に蔵の中に入ると、幾つかの千両箱を持ち出した。
「よくもこれだけの金子を市井の民から掠め取れたものだ…」
「そうね。これは近々暗殺が必要かしら」
「そうだな。その前にこの金子を市井に返さねば」
二人は再び宵闇に消えて行った。
場所は変わって、火付け盗賊改めの頭の私宅。そこで頭と同心が何やら話し合っている。
「して、隣町の大店に出た盗人の目星は付いたか?」
「へい、お頭。見張りに着いていた雇われの破落戸共は切られたと言っておりやしたが、殺しはありやせんでした。しかも、あの大店はなかなか悪どいことをしていたそうで、恐らくは…」
「やはり、乱波衆か」
「そうかと…」
乱波衆とはこの頃ジパング全土で動きを活発にしている忍びの集団である。法を掻い潜って市井の民から金子を掠め取る者がいれば、そこから金子を盗み出して市井へ流す。そんな義賊紛いの盗人かと思えば、国に禁じられている舶来の怪しげな薬を密かに扱う商人を見つけ出しては火付け盗賊改めに告げるし、果てには暗殺さえもこなすという盗人なのか国の間者なのかはっきりしない者達だ。
そして、この火付け盗賊改めの頭は乱波衆の捕縛に心血を注ぐ一人であった。頭は煙管を一息吸って紫煙を吐き出すと同心に言った。
「奴等、次はこの町に来るやもしれん。何か所の破落戸どもに動きがないか調べてこい」
頭はそう言うと幾らか金子を包んで同心に持たせた。
「では、任せたぞ」
「へい」
同心は金子を懐にしまうと何処かへと駆け出した。
場所は再び変わる。弥彦たちの住む町にある、とある大店だ。この大店は霧の大陸や遥か海の彼方の大陸から運ばれてきた品々を扱っている。そして、そんな大店の敷地に商人には見えないなりの男達が屯している。その中には弥彦の姿があった。腰には唐傘を差している。
『何やら物々しい雰囲気ですね』
唐傘から声が聞こえる。この唐傘、弥彦の妻である唐傘おばけのお華が傘の形に変じた物だ。
「この頼みを引き受けてしまったのは失敗だったかもしれぬな」
『はい…何も起こらなければよいのですが…』
弥彦がこの場にいるのはこの大店の遣いに頼まれた為である。執拗なまでの頼みに半ば弥彦が折れた形だ。そして、弥彦はこの頼みを断らなかったことを後悔していた。弥彦の他に集められた男達の殆どは、一目見て堅気でないと分かる。大店が所の破落戸を抱え込むということは、それだけ後ろ暗いことをしているのだ。
「何も起こらないことを祈るばかりだ」
弥彦は不安を隠すことなく、そう溢した。
時は過ぎ、夜になった。点々と灯されている篝火だけが辺りを照らす新月の夜である。
弥彦は篝火を頼りに敷地をあてどもなくふらついている。特に持ち場は決まっておらず、皆、思い思いの場所に陣取っているようだ。
「暗く静かな夜だな」
『ええ、これもまた趣のある夜でこざいますね』
「場所がここでなければ、尚の事な」
『それを言ってはなりませんよ』
弥彦とお華がとりとめもない話をしていると、店で働く者達が住み込む部屋から女中が一人出て来た。女中は弥彦とすれ違い様に目礼をすると、足音を立てる事なく静静と歩いて行った。
大店の裏口に、先ほどの女中がいる。傍らには、気絶させられたのか身動き一つしない男が簀巻きにされている。女中が裏口の閂を外して扉を開いた。すると、流水の如くするすると影が滑り込んで来た。女中は全ての影が入り込んだ事を確認すると、簀巻きにした男を抱えて何処かへと消えた。
何の変哲もない時間を、弥彦はぼぅっと星空を眺めながら過ごしていた。月の無い夜は、灯りが無ければ一寸先も伺い知れぬ闇夜であるが、空を見上げると爛々と星が煌めいている。
しかし、そんな静寂は微かな音に破られた。何かが空を切って飛来する音がしたと思うと、派手な音と火の粉を撒き散らしながら篝火が倒れた。そして、その光景は敷地の其処此処で引き起こされていた。
ぴんと張り詰めた緊張と、ちりちりと肌を刺す殺気の様な感覚が暗闇に溶け、じっとりとまとわりついた。姿形は見えないが、雇われの破落戸共が刀を抜いて辺りの様子を窺っているのが分かる。
『弥彦様…』
「ああ、どうやらお出でなすったらしい」
ぎゃっ!と、何処からか男の悲鳴が木霊すると、それに連鎖するように悲鳴が聞こえ始めた。そして、そこから乱戦が始まった。怒号、悲鳴、打ち合い凌ぎを削る音が響き渡る。
弥彦はこの騒乱に緊張を掻き立てられながらも、辺りをしっかりと見渡していた。一寸先は闇である。先手を取ることは叶わないだろう。弥彦がそう考えていると、目の前の闇が揺らいだ。突如として現れたクノイチが、短刀を弥彦に突き刺さんと躍りかかる。弥彦はすんでの所でこれをかわすと、脇を抜けて行ったクノイチを目で追った。クノイチは直ぐ様体勢を直すと闇に溶けた。だが、弥彦を仕留めることを諦めた訳ではないらしい。弥彦は出所の分からない視線を肌に感じながら、相手の動きを待った。空気は更に張り詰めた物になっていく。
『弥彦様、私をお使い下さい!』
「お華、しかし!」
この虚を突かんと、太刀を振りかぶったクノイチが再び闇から躍り出た。
『弥彦様!』
「ええい、ままよ!」
弥彦は腰から傘を抜くと、迫り来る刃を受け止めた。刀と刀がぶつかり合う様な音が鼓膜を叩き、クノイチは僅かに目を見開いた。弥彦は渾身の膂力でクノイチを押すと、クノイチは風に押される柳の如くふわりと宙を舞い、猫の如く静かに着地した。闇に慣れた弥彦の目が、遂にクノイチの姿を捉えた。こちらの全てを見透かすかのような瞳が、瞬き一つせずに弥彦を見据えている。
双方ともに攻めあぐねていると、クノイチが何やら印を結び始めた。そして、その姿がぶれたかと思うと、三人、五人と増えていく。
「分身!?」
弥彦は驚いて見回すと、総勢七人のクノイチが弥彦を取り囲み、三度闇に溶けた。ひゅっと何かが空を切る音がしたかと思うと、弥彦はそれを傘で弾いた。それは手裏剣であった。
「なんとも厄介な…」
飛来する手裏剣を時には弾き、時にはかわすことで弥彦は何とか持ちこたえていた。そんな時、弥彦は何故同時に仕掛けて来ないのか疑問に思った。総勢七人が同時にかかれば弥彦と言えど一たまりもないだろう。だが、それをしないという事には何か理由があるはずだ。
(飛来する手裏剣が常に一つということは、分身は目眩まし…搦め手を使ってくるのを見ると、もしや足止めが目的か!?)
弥彦はそう考えると合点した。捌く事は出来るが抜け出すことが難しいと思わせるこの布陣はまさに足止めのためであった。弥彦は傘を腰に差すと、地面に転がっている手裏剣を拾った。
『弥彦様!?』
「このままお華を盾にし続けるのは某には耐えられん!安心しろと無理は言わぬが、無茶はせぬ」
お華の非難の声を流しながら、弥彦は聴覚を研ぎ澄ませた。弥彦は風切り音を捉えると、その方向に手裏剣を投げ放った。弥彦は肩に手裏剣を喰らうも、自身の放った手裏剣を追った。その先には手裏剣をかわしたせいか体勢を崩したクノイチがおり、弥彦はクノイチの手を掴むと引き倒し、下げ緒で後ろ手に縛った。
「くっ、見事…」
弥彦はクノイチを一瞥すると、この大店の蔵のある場所へと駆け出した。肩に刺さった手裏剣を抜くが、血は付いていない。
『弥彦様!なんて無茶をなさるのですか!』
珍しいお華の声色に弥彦は驚いた。そして、ばつが悪そうに頬をかく。
「だが、あのままではお華が…それに魔物娘は人を傷付けんのだろう?」
『それでもです!弥彦様は私にとってかけがえの無い旦那様です。弥彦様にもしもの事があれば私は…』
今にも泣き出してしまいそうなお華の声色に、弥彦はひどく狼狽え、足を止めて謝った。
「…某のせいで要らぬ心配をさせてすまない」
『…分かっていただけたなら良いのです。ですが!家に帰ったならば私が良いと認めるまで、たんとお仕置きいたしますからね!』
「はは、お華には敵わんな…」
苦笑いを浮かべた弥彦は再び駆け出した。
眼前の蔵には籠や箱を抱えた忍びの者達がいる。弥彦が声を張り上げようとしたその時、呼子笛の音が騒乱を切り裂いた。辺りは水を打った様に静まりかえる。笛の音が二度三度と続くと、提灯の灯りが大店を取り囲んだ。
「火盗改めである!神妙にお縄につけい!」
割れ鐘の如き怒声が轟くと、扉という扉が掛矢で打ち破られ、灯りと人の波が押し寄せる。提灯と捕物道具を携えた男達が手当たり次第に破落戸と忍びを捕縛する。忍びの幾人かはこれを逃れるも、その場にいた者の殆どがお縄に着くこととなった。悲しいかな弥彦もその内の一人であった。
「お頭、店の頭取をお連れしやした」
「お頭さん!早い所、この盗人共を引っ立ててくだせぇ!」
同心に連れられた、身成と恰幅の良い男は捕縛された忍びを見るなり捲し立てた。火付け盗賊改めの頭は頭取の男の声に眉をしかめると、言い放った。
「こやつ等は確かに奉行所へ引っ立てる。だが、盗みに入られた奴等は皆、後ろ暗いことをしでかしているのも事実。熊、籠の中身を改めよ!」
「へい、お頭」
熊と呼ばれた男は頭取から離れると、手近な籠の蓋を開けて中身を改めた。どうやら中身は陶器の置物らしい。熊はその内の一つも持ち上げると置物の表面を穴が開くほどに眺めたり、指で叩いたりしている。
「お頭、中に何か詰まっていやす」
「構わん、割れ」
熊は十手の柄頭で置物を割ると、白い塵が舞った。どうやら粉状の何かが詰め込まれていたらしく、それが舞ったらしい。
「頭取、この粉はなんだ!?」
「し、知りませんよ!?何だって中にこんな物が!」
頭取はその後も知らない、霧の大陸で会った妖狐に掴まされただけだと叫んでいたが、無慈悲にも引っ立てられ、他の者達も奉行所へ連行された。
それから幾日か過ぎた。
かの長屋には弥彦とお華の姿があった。奉行所の調べと数々の証言から身の潔白が証明され、翌日の夕には釈放となったからだ。
あの大店の頭取は最後まで潔白を訴え続けたものの、身の潔白を証明することは叶わず私財差し押さえとなった上に多額の借金を負うこととなった。その後の消息は誰も知らないらしいが、噂によるとその借金は高利貸しで有名な刑部狸によるものらしい。
乱波衆と呼ばれていた忍びの者達に関しては、確かなことは誰も知らない。火付け盗賊改めに組み込まれたという話も聞くが、真偽のほどは定かではない。
「これからお仕置きされるというのに、弥彦様は全く悪びれぬお方ですね」
意図して顔と意識を反らしていた弥彦であったが、ぐいと顔を正面に向けられる。眼前には一糸纏わぬ姿のお華がおり、弥彦に跨がっている。
「ふふ、まだ宵の口ですからね。たんと、たーんとお仕置きして差し上げますよ」
「お手柔らかにな…」
お華はにこりと笑うと行灯の灯りを吹き消した。暗がりの中でどのようなお仕置きが行われているのかも定かではないが、それはそれは厳しいものだったらしい。
「ぐぅ…」
影が素早く短刀を引き抜くと、男はそう短く呻いて昏倒した。篝火が影を照らし出す。影の正体はクノイチであった。短刀を鞘に納め、後ろ手に纏められた髪が揺れると、クノイチは疾風の如く走り出した。向かう先にはこの大店の蔵がある。蔵が見えた所でクノイチは物陰に身を隠した。蔵の入り口には見張りが二人。そして、蔵の屋根の上には黒い装束を纏った男が一人。クノイチと男は互いを視認すると一つ頷き合う。
そして、男が刀を抜いて屋根から飛び降りると同時にクノイチは懐から取り出した手裏剣を投げ放った。見張りの一人が相方の後ろに怪しげな男が現れた事を伝えようとした瞬間、手裏剣が飛来して意識を刈り取った。
クノイチと黒い装束の男は合流すると、互いにしか聞こえない小さな声で話し出した。
「万事、抜かり無いか?」
「ええ、計画通りよ」
「よし」
男は頷くと、懐から鍵を取り出した。この大店に放った間者に鍵の型を取らせていたのだ。
鍵を差し込んで捻ると、かちゃりと音を立てて錠が外れた。クノイチと男は滑り込む様に蔵の中に入ると、幾つかの千両箱を持ち出した。
「よくもこれだけの金子を市井の民から掠め取れたものだ…」
「そうね。これは近々暗殺が必要かしら」
「そうだな。その前にこの金子を市井に返さねば」
二人は再び宵闇に消えて行った。
場所は変わって、火付け盗賊改めの頭の私宅。そこで頭と同心が何やら話し合っている。
「して、隣町の大店に出た盗人の目星は付いたか?」
「へい、お頭。見張りに着いていた雇われの破落戸共は切られたと言っておりやしたが、殺しはありやせんでした。しかも、あの大店はなかなか悪どいことをしていたそうで、恐らくは…」
「やはり、乱波衆か」
「そうかと…」
乱波衆とはこの頃ジパング全土で動きを活発にしている忍びの集団である。法を掻い潜って市井の民から金子を掠め取る者がいれば、そこから金子を盗み出して市井へ流す。そんな義賊紛いの盗人かと思えば、国に禁じられている舶来の怪しげな薬を密かに扱う商人を見つけ出しては火付け盗賊改めに告げるし、果てには暗殺さえもこなすという盗人なのか国の間者なのかはっきりしない者達だ。
そして、この火付け盗賊改めの頭は乱波衆の捕縛に心血を注ぐ一人であった。頭は煙管を一息吸って紫煙を吐き出すと同心に言った。
「奴等、次はこの町に来るやもしれん。何か所の破落戸どもに動きがないか調べてこい」
頭はそう言うと幾らか金子を包んで同心に持たせた。
「では、任せたぞ」
「へい」
同心は金子を懐にしまうと何処かへと駆け出した。
場所は再び変わる。弥彦たちの住む町にある、とある大店だ。この大店は霧の大陸や遥か海の彼方の大陸から運ばれてきた品々を扱っている。そして、そんな大店の敷地に商人には見えないなりの男達が屯している。その中には弥彦の姿があった。腰には唐傘を差している。
『何やら物々しい雰囲気ですね』
唐傘から声が聞こえる。この唐傘、弥彦の妻である唐傘おばけのお華が傘の形に変じた物だ。
「この頼みを引き受けてしまったのは失敗だったかもしれぬな」
『はい…何も起こらなければよいのですが…』
弥彦がこの場にいるのはこの大店の遣いに頼まれた為である。執拗なまでの頼みに半ば弥彦が折れた形だ。そして、弥彦はこの頼みを断らなかったことを後悔していた。弥彦の他に集められた男達の殆どは、一目見て堅気でないと分かる。大店が所の破落戸を抱え込むということは、それだけ後ろ暗いことをしているのだ。
「何も起こらないことを祈るばかりだ」
弥彦は不安を隠すことなく、そう溢した。
時は過ぎ、夜になった。点々と灯されている篝火だけが辺りを照らす新月の夜である。
弥彦は篝火を頼りに敷地をあてどもなくふらついている。特に持ち場は決まっておらず、皆、思い思いの場所に陣取っているようだ。
「暗く静かな夜だな」
『ええ、これもまた趣のある夜でこざいますね』
「場所がここでなければ、尚の事な」
『それを言ってはなりませんよ』
弥彦とお華がとりとめもない話をしていると、店で働く者達が住み込む部屋から女中が一人出て来た。女中は弥彦とすれ違い様に目礼をすると、足音を立てる事なく静静と歩いて行った。
大店の裏口に、先ほどの女中がいる。傍らには、気絶させられたのか身動き一つしない男が簀巻きにされている。女中が裏口の閂を外して扉を開いた。すると、流水の如くするすると影が滑り込んで来た。女中は全ての影が入り込んだ事を確認すると、簀巻きにした男を抱えて何処かへと消えた。
何の変哲もない時間を、弥彦はぼぅっと星空を眺めながら過ごしていた。月の無い夜は、灯りが無ければ一寸先も伺い知れぬ闇夜であるが、空を見上げると爛々と星が煌めいている。
しかし、そんな静寂は微かな音に破られた。何かが空を切って飛来する音がしたと思うと、派手な音と火の粉を撒き散らしながら篝火が倒れた。そして、その光景は敷地の其処此処で引き起こされていた。
ぴんと張り詰めた緊張と、ちりちりと肌を刺す殺気の様な感覚が暗闇に溶け、じっとりとまとわりついた。姿形は見えないが、雇われの破落戸共が刀を抜いて辺りの様子を窺っているのが分かる。
『弥彦様…』
「ああ、どうやらお出でなすったらしい」
ぎゃっ!と、何処からか男の悲鳴が木霊すると、それに連鎖するように悲鳴が聞こえ始めた。そして、そこから乱戦が始まった。怒号、悲鳴、打ち合い凌ぎを削る音が響き渡る。
弥彦はこの騒乱に緊張を掻き立てられながらも、辺りをしっかりと見渡していた。一寸先は闇である。先手を取ることは叶わないだろう。弥彦がそう考えていると、目の前の闇が揺らいだ。突如として現れたクノイチが、短刀を弥彦に突き刺さんと躍りかかる。弥彦はすんでの所でこれをかわすと、脇を抜けて行ったクノイチを目で追った。クノイチは直ぐ様体勢を直すと闇に溶けた。だが、弥彦を仕留めることを諦めた訳ではないらしい。弥彦は出所の分からない視線を肌に感じながら、相手の動きを待った。空気は更に張り詰めた物になっていく。
『弥彦様、私をお使い下さい!』
「お華、しかし!」
この虚を突かんと、太刀を振りかぶったクノイチが再び闇から躍り出た。
『弥彦様!』
「ええい、ままよ!」
弥彦は腰から傘を抜くと、迫り来る刃を受け止めた。刀と刀がぶつかり合う様な音が鼓膜を叩き、クノイチは僅かに目を見開いた。弥彦は渾身の膂力でクノイチを押すと、クノイチは風に押される柳の如くふわりと宙を舞い、猫の如く静かに着地した。闇に慣れた弥彦の目が、遂にクノイチの姿を捉えた。こちらの全てを見透かすかのような瞳が、瞬き一つせずに弥彦を見据えている。
双方ともに攻めあぐねていると、クノイチが何やら印を結び始めた。そして、その姿がぶれたかと思うと、三人、五人と増えていく。
「分身!?」
弥彦は驚いて見回すと、総勢七人のクノイチが弥彦を取り囲み、三度闇に溶けた。ひゅっと何かが空を切る音がしたかと思うと、弥彦はそれを傘で弾いた。それは手裏剣であった。
「なんとも厄介な…」
飛来する手裏剣を時には弾き、時にはかわすことで弥彦は何とか持ちこたえていた。そんな時、弥彦は何故同時に仕掛けて来ないのか疑問に思った。総勢七人が同時にかかれば弥彦と言えど一たまりもないだろう。だが、それをしないという事には何か理由があるはずだ。
(飛来する手裏剣が常に一つということは、分身は目眩まし…搦め手を使ってくるのを見ると、もしや足止めが目的か!?)
弥彦はそう考えると合点した。捌く事は出来るが抜け出すことが難しいと思わせるこの布陣はまさに足止めのためであった。弥彦は傘を腰に差すと、地面に転がっている手裏剣を拾った。
『弥彦様!?』
「このままお華を盾にし続けるのは某には耐えられん!安心しろと無理は言わぬが、無茶はせぬ」
お華の非難の声を流しながら、弥彦は聴覚を研ぎ澄ませた。弥彦は風切り音を捉えると、その方向に手裏剣を投げ放った。弥彦は肩に手裏剣を喰らうも、自身の放った手裏剣を追った。その先には手裏剣をかわしたせいか体勢を崩したクノイチがおり、弥彦はクノイチの手を掴むと引き倒し、下げ緒で後ろ手に縛った。
「くっ、見事…」
弥彦はクノイチを一瞥すると、この大店の蔵のある場所へと駆け出した。肩に刺さった手裏剣を抜くが、血は付いていない。
『弥彦様!なんて無茶をなさるのですか!』
珍しいお華の声色に弥彦は驚いた。そして、ばつが悪そうに頬をかく。
「だが、あのままではお華が…それに魔物娘は人を傷付けんのだろう?」
『それでもです!弥彦様は私にとってかけがえの無い旦那様です。弥彦様にもしもの事があれば私は…』
今にも泣き出してしまいそうなお華の声色に、弥彦はひどく狼狽え、足を止めて謝った。
「…某のせいで要らぬ心配をさせてすまない」
『…分かっていただけたなら良いのです。ですが!家に帰ったならば私が良いと認めるまで、たんとお仕置きいたしますからね!』
「はは、お華には敵わんな…」
苦笑いを浮かべた弥彦は再び駆け出した。
眼前の蔵には籠や箱を抱えた忍びの者達がいる。弥彦が声を張り上げようとしたその時、呼子笛の音が騒乱を切り裂いた。辺りは水を打った様に静まりかえる。笛の音が二度三度と続くと、提灯の灯りが大店を取り囲んだ。
「火盗改めである!神妙にお縄につけい!」
割れ鐘の如き怒声が轟くと、扉という扉が掛矢で打ち破られ、灯りと人の波が押し寄せる。提灯と捕物道具を携えた男達が手当たり次第に破落戸と忍びを捕縛する。忍びの幾人かはこれを逃れるも、その場にいた者の殆どがお縄に着くこととなった。悲しいかな弥彦もその内の一人であった。
「お頭、店の頭取をお連れしやした」
「お頭さん!早い所、この盗人共を引っ立ててくだせぇ!」
同心に連れられた、身成と恰幅の良い男は捕縛された忍びを見るなり捲し立てた。火付け盗賊改めの頭は頭取の男の声に眉をしかめると、言い放った。
「こやつ等は確かに奉行所へ引っ立てる。だが、盗みに入られた奴等は皆、後ろ暗いことをしでかしているのも事実。熊、籠の中身を改めよ!」
「へい、お頭」
熊と呼ばれた男は頭取から離れると、手近な籠の蓋を開けて中身を改めた。どうやら中身は陶器の置物らしい。熊はその内の一つも持ち上げると置物の表面を穴が開くほどに眺めたり、指で叩いたりしている。
「お頭、中に何か詰まっていやす」
「構わん、割れ」
熊は十手の柄頭で置物を割ると、白い塵が舞った。どうやら粉状の何かが詰め込まれていたらしく、それが舞ったらしい。
「頭取、この粉はなんだ!?」
「し、知りませんよ!?何だって中にこんな物が!」
頭取はその後も知らない、霧の大陸で会った妖狐に掴まされただけだと叫んでいたが、無慈悲にも引っ立てられ、他の者達も奉行所へ連行された。
それから幾日か過ぎた。
かの長屋には弥彦とお華の姿があった。奉行所の調べと数々の証言から身の潔白が証明され、翌日の夕には釈放となったからだ。
あの大店の頭取は最後まで潔白を訴え続けたものの、身の潔白を証明することは叶わず私財差し押さえとなった上に多額の借金を負うこととなった。その後の消息は誰も知らないらしいが、噂によるとその借金は高利貸しで有名な刑部狸によるものらしい。
乱波衆と呼ばれていた忍びの者達に関しては、確かなことは誰も知らない。火付け盗賊改めに組み込まれたという話も聞くが、真偽のほどは定かではない。
「これからお仕置きされるというのに、弥彦様は全く悪びれぬお方ですね」
意図して顔と意識を反らしていた弥彦であったが、ぐいと顔を正面に向けられる。眼前には一糸纏わぬ姿のお華がおり、弥彦に跨がっている。
「ふふ、まだ宵の口ですからね。たんと、たーんとお仕置きして差し上げますよ」
「お手柔らかにな…」
お華はにこりと笑うと行灯の灯りを吹き消した。暗がりの中でどのようなお仕置きが行われているのかも定かではないが、それはそれは厳しいものだったらしい。
16/05/21 22:20更新 / PLUTO
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