閑話の一 『稲荷亭の二人』
麗らかな春の昼下がり。客足の落ち着いた稲荷亭では、板長と彼の妻である稲荷が遅めの昼食を取っている。賄いといえども手の込んだ料理を稲荷は美味しそうに食べ、板長はそんな彼女を嬉しそうに見つめながら食べている。
板長の名を京三、稲荷の名を篠という。稲荷亭を切り盛りするこの二人は所の者なら誰もが認めるおしどり夫婦である。そして、そんな二人が営むこの飯屋は安く旨いと評判の店だ。
「ふぅ…お昼も落ち着きましたねぇ」
「そうだな」
食事を済ませ、ゆったりとくつろぐ篠と京三であった。昼の稼ぎ時が過ぎると、こうして過ごすのが二人の習わしである。
二人仲睦まじく話をしていると、ぱらぱらと雨が庇を叩く音が聞こえた。篠は店の窓を開けると空を仰ぎ見た。空は青く晴れているが、一滴の雨が篠の頬を濡らした。
「あら、狐の嫁入りですねぇ」
「どこかで祝言を挙げているんだろう」
雨の匂いが風に運ばれ、店の中に満ちた。篠は頬に手を当てると恥じらいながら言った。
「そうですねぇ。ふふ、京三さんと祝言を挙げた日の事を思い出してしまいます」
まだ明るさの残る薄暗い道を小坊主が歩いている。この小坊主は京三が働く飯屋である美濃屋へ奉公に出ている丁稚だ。手に提灯と包みを持って歩くこの小坊主は稲荷神社が建立されている美濃山へ向かっていた。なぜこの小坊主が山へ向かっているかを説明するには、幾日か日を戻ることになる。
京三と篠が婚姻を決めた次の日ことだ。朝の習わしとして店の前を掃き清める京三の頭上から、声がかかった。不思議に思った京三が顔を上げると、店の屋根の上に九つの尻尾を持つ真っ白な狐がおり、京三を見下ろしていたのだ。
「美濃屋が料理人、京三で間違いないか」
京三はこの問いに首肯で答える。すると、白狐は大仰に頷き、言った。
「我が孫娘の篠と婚姻を結ぶにあたり、来る吉日の夕七つ半に美濃山へと遣いを出せ。遣いの証として…そうさな…油揚げでも持たせておくと良い。遣いが来た後、篠と結納の品をそちらへ寄越す故、お主は身成を整え、その身一つで待っているようにな」
白狐はぴょんと跳び、空中で一回りするとその姿を消してしまった。京三はそれこそ狐に摘ままれたような思いであったが、掃除が途中であることを思い出すと手早く済ませ、丁稚の小坊主に遣いを頼んだのだ。
かくして、小坊主は美濃山に向かうこととなった。
小坊主が美濃山の山道入口に着くと、道を塞ぐかのように一匹の狐が座っていた。狐は小坊主を見上げると、けん、と一鳴きし、人の言葉で話しかけた。
「美濃屋が料理人、京三の遣いか?そうであれば証を寄越せ」
小坊主は狐が唐突に人の言葉を話したことに驚きを隠せなかったが、狐の言うとおりにすることにした。手に持つ包みを開けて、地面にゆっくりと置く。中身は京三が作った厚手の油揚げが三枚ほどあった。狐はその油揚げに飛び付くと、旨い旨いと瞬く間に一枚平らげてしまった。
「あい分かった。まさに坊主は遣いの者である。着いてまいれ」
狐はそう言うと、残った油揚げをくわえて山へと歩きだした。小坊主は提灯の灯りを頼りに薄暗い山中へと分け入った。 籔を右へ左へ進み行き、山のどこにいるのか皆目見当が付かなくなった頃、籔が開けた。そして、そこには立派な門構えの屋敷があった。屋敷からは賑やかな話し声が漏れ聞こえる。
小坊主を案内していた狐は戸惑う様子もなく門をくぐると、一度ちらりと小坊主を振り返った。そして、もはや仕事はここまでと言わんばかりにさっさと屋敷の裏手にある籔へ消えた。
「庄屋様のお屋敷よりも立派な造りだなぁ…」
小坊主は恐る恐る門をくぐり、屋敷の戸を叩いた。
「ごめんください。美濃屋が料理人、京三の遣いであります」
すると、屋敷の中から誰かが向かってくる足音が聞こえた。足音の主は戸を開けると快く小坊主を迎え入れた。礼装に身を包んだ稲荷である。八つの尻尾がゆらゆらと揺れている。
「まあ、可愛いお遣いだこと。さ、上がっていきなさいな」
小坊主は促されるままに屋敷へ上がった。すると、少し廊下を進んだ先の襖が開いた。中から壮年の男が出て来て小坊主を見ると、襖の向こうへ声を掛けた。
「遣いの者が来たぞ。さあさあ準備をせんと」
すると、向こうから返答と共に幾人かの稲荷と男が出てきた。
「まあ、そう急くない。お、坊主が遣いか。こっちゃ来い」
「あらあら、可愛い坊だこと」
緊張やら驚きやらで固まっていた小坊主を、一同が撫で回したり話しかけたりしていると、小坊主を招き入れた稲荷がぱんぱんと手を叩いた。
「京三様を待たせてはなりませんよ!準備にかかってくださいな」
その一声で小坊主を取り巻いていた者達や、客間に控えていた者達が三々五々に散って行く。
「まったくしょうのない人達だこと」
八尾の稲荷は呆れたと言った風に苦笑していた。そして小坊主に向き直るとにこやかに微笑んだ。
「ごめんなさいね、悪い人達じゃないんだけれど…」
「いえ、お気になさらず…」
「ありがとうね。さ、準備が終わるまで別の部屋で待っていてちょうだいな。お菓子もたんとあるし、私達の娘達もいるからいっしょに遊んであげて」
お菓子と聞いて喜んだ小坊主はそのまま部屋へ入っていった。
時刻が暮れ六つになった頃、月下の美濃山に京三は不思議な灯りの群れを見た。目測で十間程の長さの灯りが整然と並びながらゆっくりと美濃山を下っている。京三はあれが狐の嫁入り行列だと分かった。
ゆらりゆらりと揺れる灯りの行列の最後尾が山を下りきり京三の住む家へと向かい始めると、京三の緊張は高まった。かつて、これ程までに緊張したことがあっただろうかと思えるほどに心臓は早鐘を打ち、掌には汗が滲んだ。そして、ついに嫁入り行列が家の前に到着した。その行列は人によっては眉に唾を付けるような光景だった。前足で手持ち提灯を持ちながら後ろ足で器用に立って歩く狐、高針提灯を掲げる狐の面を被った男衆、人が二人は入れそうな駕籠、にこやかに微笑む稲荷達と手を引かれる彼女達の娘ら、数々の長持ち。それらが列をなし、京三の家の前に佇んでいる。
だが、京三の瞳は駕籠だけに向けられていた。駕籠の中には彼の妻となる稲荷の篠が居るのだ。込み上げる嬉しさが胸中を満たし、緊張は知らぬ間に解れていた。
「…篠」
京三の口から意図せず言葉が溢れた。すると、駕籠の側に控えていた男が京三の側に来た。後ろに撫で付けた総髪に白い物の混じった男は、面を外すと落ち着きある声色で京三に言った、
「今宵は我が孫娘、篠との婚姻を結ぶにいたり、当家より金二十両、家財一揃えを結納品としてお持ち致した。幾久しくお納めされたい」
京三がこれに頷くと、長持ちが次々に家の中へ運び込まれた。
「文伍、辰彦」
「「へい」」
駕籠舁きの二人が京三の前に駕籠を運ぶと、静かに降ろした。
「では京三殿、これよりは二人の時間ゆえ我等はおいとまいたす。よろしく頼み申す」
男はそう言うと行列の中に混ざった。
「京三様、お乗りくだせえ」
駕籠舁きの一人が駕籠の簾を持ち上げた。そこには白無垢に身を包み、頬を淡く赤らめた篠が居た。煌めく黄金色の髪が白に良く映え、月明かりの中、美しく煌めいていた。
京三が篠の向かいに座ると簾が降ろされ、駕籠が少し揺れた。駕籠の外に居た時は気付かなかったが、着物に焚き込まれている甘い香の薫りが京三の鼻をくすぐった。
「篠、綺麗だ」
京三の言葉に篠は頬をさらに赤く染め、俯いてしまった。
「京三さんも…男らしい素敵な姿です…」
「はは、これは何とも気恥ずかしい」
京三も頬を少し赤らめると同様に俯いてしまった。何ともこそばゆい沈黙が二人の間に漂った。
「私達、ついに結ばれるのですねぇ…嬉しい」
「ああ、俺も嬉しいとも」
「京三さん…」
「篠…」
二人は互いに手を取ると、そっと触れるような口付けを交わした。唇には互いの熱が残っている。そんな、僅かな触れ合いの消えぬ余韻に二人は浸っていた。
「篠様、京三様、着きやした。足元にお気をつけくだせぇ」
夢の世界をたゆたっていたかの様な二人の意識は駕籠舁の声で現に戻ることとなった。
上げられた簾の先には神社があった。美濃山に建立されている美濃山稲荷神社である。
京三と篠は駕籠から降りると、互いに手を取り合って境内を歩いた。そして、神社の前に着くと、いつかの白狐がいることに京三は気付いた。白狐が跳び、一回りすると、白い毛並みの稲荷がいた。顔にうっすらと出来ている皺が、九尾狐という大妖として生きた長い年月を物語っていた。
「良くぞ参った。篠、京三、修跋の儀を執り行うゆえ、稲荷大明神様に拝礼いたせ」
二人はその言葉に従って拝礼すると、九尾の稲荷が御祓詞を唱え始めた。辺りの空気が清涼な物に変わった。そして、九尾の稲荷は唱え終えると神社へと向き直って一礼すると、祝詞を奏上した。
「掛けまくも畏き美濃山稲荷神社の大前に畏み畏みも白さく…」
場所は稲荷亭に戻る。
二人は茶を飲みながら、あの日を懐かしんでいた。
「まさかあの後に通された奥の間に布団が敷かれているとは、思いもしませんでしたねぇ」
「あれには驚かされた」
「あの夜の京三さんはとても激しく…」
「ゆ、夕の仕込みをせねば!」
「ふふ。からかってごめんなさいね、京三さん。篠も手伝いますよぉ」
篠のからかいに京三が顔を真っ赤にさせて逃げる様に厨房に引っ込んでしまうと、篠は京三の後を笑いながら追った。稲荷亭の二人の、和やかな一日。
板長の名を京三、稲荷の名を篠という。稲荷亭を切り盛りするこの二人は所の者なら誰もが認めるおしどり夫婦である。そして、そんな二人が営むこの飯屋は安く旨いと評判の店だ。
「ふぅ…お昼も落ち着きましたねぇ」
「そうだな」
食事を済ませ、ゆったりとくつろぐ篠と京三であった。昼の稼ぎ時が過ぎると、こうして過ごすのが二人の習わしである。
二人仲睦まじく話をしていると、ぱらぱらと雨が庇を叩く音が聞こえた。篠は店の窓を開けると空を仰ぎ見た。空は青く晴れているが、一滴の雨が篠の頬を濡らした。
「あら、狐の嫁入りですねぇ」
「どこかで祝言を挙げているんだろう」
雨の匂いが風に運ばれ、店の中に満ちた。篠は頬に手を当てると恥じらいながら言った。
「そうですねぇ。ふふ、京三さんと祝言を挙げた日の事を思い出してしまいます」
まだ明るさの残る薄暗い道を小坊主が歩いている。この小坊主は京三が働く飯屋である美濃屋へ奉公に出ている丁稚だ。手に提灯と包みを持って歩くこの小坊主は稲荷神社が建立されている美濃山へ向かっていた。なぜこの小坊主が山へ向かっているかを説明するには、幾日か日を戻ることになる。
京三と篠が婚姻を決めた次の日ことだ。朝の習わしとして店の前を掃き清める京三の頭上から、声がかかった。不思議に思った京三が顔を上げると、店の屋根の上に九つの尻尾を持つ真っ白な狐がおり、京三を見下ろしていたのだ。
「美濃屋が料理人、京三で間違いないか」
京三はこの問いに首肯で答える。すると、白狐は大仰に頷き、言った。
「我が孫娘の篠と婚姻を結ぶにあたり、来る吉日の夕七つ半に美濃山へと遣いを出せ。遣いの証として…そうさな…油揚げでも持たせておくと良い。遣いが来た後、篠と結納の品をそちらへ寄越す故、お主は身成を整え、その身一つで待っているようにな」
白狐はぴょんと跳び、空中で一回りするとその姿を消してしまった。京三はそれこそ狐に摘ままれたような思いであったが、掃除が途中であることを思い出すと手早く済ませ、丁稚の小坊主に遣いを頼んだのだ。
かくして、小坊主は美濃山に向かうこととなった。
小坊主が美濃山の山道入口に着くと、道を塞ぐかのように一匹の狐が座っていた。狐は小坊主を見上げると、けん、と一鳴きし、人の言葉で話しかけた。
「美濃屋が料理人、京三の遣いか?そうであれば証を寄越せ」
小坊主は狐が唐突に人の言葉を話したことに驚きを隠せなかったが、狐の言うとおりにすることにした。手に持つ包みを開けて、地面にゆっくりと置く。中身は京三が作った厚手の油揚げが三枚ほどあった。狐はその油揚げに飛び付くと、旨い旨いと瞬く間に一枚平らげてしまった。
「あい分かった。まさに坊主は遣いの者である。着いてまいれ」
狐はそう言うと、残った油揚げをくわえて山へと歩きだした。小坊主は提灯の灯りを頼りに薄暗い山中へと分け入った。 籔を右へ左へ進み行き、山のどこにいるのか皆目見当が付かなくなった頃、籔が開けた。そして、そこには立派な門構えの屋敷があった。屋敷からは賑やかな話し声が漏れ聞こえる。
小坊主を案内していた狐は戸惑う様子もなく門をくぐると、一度ちらりと小坊主を振り返った。そして、もはや仕事はここまでと言わんばかりにさっさと屋敷の裏手にある籔へ消えた。
「庄屋様のお屋敷よりも立派な造りだなぁ…」
小坊主は恐る恐る門をくぐり、屋敷の戸を叩いた。
「ごめんください。美濃屋が料理人、京三の遣いであります」
すると、屋敷の中から誰かが向かってくる足音が聞こえた。足音の主は戸を開けると快く小坊主を迎え入れた。礼装に身を包んだ稲荷である。八つの尻尾がゆらゆらと揺れている。
「まあ、可愛いお遣いだこと。さ、上がっていきなさいな」
小坊主は促されるままに屋敷へ上がった。すると、少し廊下を進んだ先の襖が開いた。中から壮年の男が出て来て小坊主を見ると、襖の向こうへ声を掛けた。
「遣いの者が来たぞ。さあさあ準備をせんと」
すると、向こうから返答と共に幾人かの稲荷と男が出てきた。
「まあ、そう急くない。お、坊主が遣いか。こっちゃ来い」
「あらあら、可愛い坊だこと」
緊張やら驚きやらで固まっていた小坊主を、一同が撫で回したり話しかけたりしていると、小坊主を招き入れた稲荷がぱんぱんと手を叩いた。
「京三様を待たせてはなりませんよ!準備にかかってくださいな」
その一声で小坊主を取り巻いていた者達や、客間に控えていた者達が三々五々に散って行く。
「まったくしょうのない人達だこと」
八尾の稲荷は呆れたと言った風に苦笑していた。そして小坊主に向き直るとにこやかに微笑んだ。
「ごめんなさいね、悪い人達じゃないんだけれど…」
「いえ、お気になさらず…」
「ありがとうね。さ、準備が終わるまで別の部屋で待っていてちょうだいな。お菓子もたんとあるし、私達の娘達もいるからいっしょに遊んであげて」
お菓子と聞いて喜んだ小坊主はそのまま部屋へ入っていった。
時刻が暮れ六つになった頃、月下の美濃山に京三は不思議な灯りの群れを見た。目測で十間程の長さの灯りが整然と並びながらゆっくりと美濃山を下っている。京三はあれが狐の嫁入り行列だと分かった。
ゆらりゆらりと揺れる灯りの行列の最後尾が山を下りきり京三の住む家へと向かい始めると、京三の緊張は高まった。かつて、これ程までに緊張したことがあっただろうかと思えるほどに心臓は早鐘を打ち、掌には汗が滲んだ。そして、ついに嫁入り行列が家の前に到着した。その行列は人によっては眉に唾を付けるような光景だった。前足で手持ち提灯を持ちながら後ろ足で器用に立って歩く狐、高針提灯を掲げる狐の面を被った男衆、人が二人は入れそうな駕籠、にこやかに微笑む稲荷達と手を引かれる彼女達の娘ら、数々の長持ち。それらが列をなし、京三の家の前に佇んでいる。
だが、京三の瞳は駕籠だけに向けられていた。駕籠の中には彼の妻となる稲荷の篠が居るのだ。込み上げる嬉しさが胸中を満たし、緊張は知らぬ間に解れていた。
「…篠」
京三の口から意図せず言葉が溢れた。すると、駕籠の側に控えていた男が京三の側に来た。後ろに撫で付けた総髪に白い物の混じった男は、面を外すと落ち着きある声色で京三に言った、
「今宵は我が孫娘、篠との婚姻を結ぶにいたり、当家より金二十両、家財一揃えを結納品としてお持ち致した。幾久しくお納めされたい」
京三がこれに頷くと、長持ちが次々に家の中へ運び込まれた。
「文伍、辰彦」
「「へい」」
駕籠舁きの二人が京三の前に駕籠を運ぶと、静かに降ろした。
「では京三殿、これよりは二人の時間ゆえ我等はおいとまいたす。よろしく頼み申す」
男はそう言うと行列の中に混ざった。
「京三様、お乗りくだせえ」
駕籠舁きの一人が駕籠の簾を持ち上げた。そこには白無垢に身を包み、頬を淡く赤らめた篠が居た。煌めく黄金色の髪が白に良く映え、月明かりの中、美しく煌めいていた。
京三が篠の向かいに座ると簾が降ろされ、駕籠が少し揺れた。駕籠の外に居た時は気付かなかったが、着物に焚き込まれている甘い香の薫りが京三の鼻をくすぐった。
「篠、綺麗だ」
京三の言葉に篠は頬をさらに赤く染め、俯いてしまった。
「京三さんも…男らしい素敵な姿です…」
「はは、これは何とも気恥ずかしい」
京三も頬を少し赤らめると同様に俯いてしまった。何ともこそばゆい沈黙が二人の間に漂った。
「私達、ついに結ばれるのですねぇ…嬉しい」
「ああ、俺も嬉しいとも」
「京三さん…」
「篠…」
二人は互いに手を取ると、そっと触れるような口付けを交わした。唇には互いの熱が残っている。そんな、僅かな触れ合いの消えぬ余韻に二人は浸っていた。
「篠様、京三様、着きやした。足元にお気をつけくだせぇ」
夢の世界をたゆたっていたかの様な二人の意識は駕籠舁の声で現に戻ることとなった。
上げられた簾の先には神社があった。美濃山に建立されている美濃山稲荷神社である。
京三と篠は駕籠から降りると、互いに手を取り合って境内を歩いた。そして、神社の前に着くと、いつかの白狐がいることに京三は気付いた。白狐が跳び、一回りすると、白い毛並みの稲荷がいた。顔にうっすらと出来ている皺が、九尾狐という大妖として生きた長い年月を物語っていた。
「良くぞ参った。篠、京三、修跋の儀を執り行うゆえ、稲荷大明神様に拝礼いたせ」
二人はその言葉に従って拝礼すると、九尾の稲荷が御祓詞を唱え始めた。辺りの空気が清涼な物に変わった。そして、九尾の稲荷は唱え終えると神社へと向き直って一礼すると、祝詞を奏上した。
「掛けまくも畏き美濃山稲荷神社の大前に畏み畏みも白さく…」
場所は稲荷亭に戻る。
二人は茶を飲みながら、あの日を懐かしんでいた。
「まさかあの後に通された奥の間に布団が敷かれているとは、思いもしませんでしたねぇ」
「あれには驚かされた」
「あの夜の京三さんはとても激しく…」
「ゆ、夕の仕込みをせねば!」
「ふふ。からかってごめんなさいね、京三さん。篠も手伝いますよぉ」
篠のからかいに京三が顔を真っ赤にさせて逃げる様に厨房に引っ込んでしまうと、篠は京三の後を笑いながら追った。稲荷亭の二人の、和やかな一日。
16/05/06 20:30更新 / PLUTO
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