弥彦とお華
炊事場に包丁の小気味良い音が響いている。釜の隣で朝餉の支度をしているのはお華だ。まな板の上には刻まれた蕪がある。いちょう切りにされた蕪は味噌汁の具だ。お華はそれを慣れた手つきで集めると、水をはった鉄鍋へ入れて火に掛けた。
湯が沸いて蕪に火が通ると、お華は鉄鍋を火から下ろして味噌を溶かし込んだ。味噌の甘いともしょっぱいとも言えない香りが立ち、鼻をくすぐる。その汁の中へ細かく刻んだ蕪の茎が加わると、色味も鮮やかだ。
「空き腹にこの匂いはこたえるな」
そして、この時分になると弥彦が起き出す。
「おはよう、お華。おお、何とも美味そうな蕪の味噌汁だ」
「おはようございます、弥彦様。ふふ、ありがとうございます。さ、直に出来上がりますゆえ、弥彦様は卓の準備をお願いいたします」
「うむ、そうしよう」
濡らした手拭いを片手に、弥彦は卓を準備すべく炊事場を出た。お華はそれを見送ると、支度の残りをてきぱきと片付ける。
弥彦とお華の夫婦の、何時もの光景であった。
* * * * *
半刻(一時間)ほど掛けて朝餉を終え、身支度を整えていた弥彦は、雨が降りだしたことに気付いた。しとしとと降り注ぐ春小雨が辺りを濡らしていく。
「雨でございますね……」
お華の呟きの端に、弥彦は期待のような物を垣間見た。はたして何かあったかと思案した弥彦であったが、窓の外に答えを見付けた。
「お華、少し出るとしよう」
その一言にお華は顔を綻ばせた。付喪神となった今、お華に天気は関係ない。しかし、長らく傘として使われていた彼女にとって、雨の日は心弾むものである。
いつになくそわそわとしているお華を見て、弥彦は小さく笑った。楽しげに身支度を整える彼女の姿は純真な童のようだ。
「弥彦様、私は準備万端にございます」
「うむ、左様か。では行くとしよう」
そう言って連れ立つ二人の頭上を、お華の傘がふわりと漂う。一つ目を時折瞬かせている傘も、お華と同様にどこか嬉しそうである。
特別に行くあてもない二人は無言のままに歩き出した。雨粒が傘を叩く音のみが二人の間に流れる。しかしながら、その静寂は心地よい。二人の間に言葉は必要なく、雨音がお互いの存在を確かに伝えているからだ。
二人は橋の上で歩みを止めた。常ならば穏やかな眼下の川面も、今はささやかな賑わいを見せている。
「くしゅん」
お華が一つ、小さなくしゃみをした。
「春小雨と言えどやはり冷えるな。お華、そろそろ戻るとしよう」
「もう少しだけ……それに、こうしていれば寒くありませんよ」
弥彦の腕に自らの腕を絡め、お華は弥彦に身を預けた。弥彦の腕や肩の肉は固く締まっており、抱き心地が良いとは言えないだろう。しかしながら、お華はにこにこと微笑んでいる。お華にとって、弥彦は何よりも心安らぐ存在なのた。
「濡れにくくもあるな」
「はい、そのとおりにございます」
折しも、雨脚は強まりを見せ始めた。しかしながら、寄り添って傘の下にいる弥彦とお華が雨に濡れることはない。
雨に煙る川上から、滑るようにして舟が橋の下を行く。編笠に隠れて船頭の顔は窺えないが、舟歌がどこか寂しげに聞こえた。
「私が弥彦様の下へ帰りついたのも、雨の日でございましたね……」
「うむ。今でも、つい昨日の様に思い出せる」
「あれから色々なことがありましたが、弥彦様にはとても良くしていただいておりますね」
「なに、某こそお華には世話になってばかりだ」
「ふふ、お互い様ですね。けれど、これだけは言わせてくださいませ……弥彦様が主で、私は幸福者です」
「……お華、これからも某の隣にいてくれ」
「はい、勿論にございます!」
雨は未だ止まずにいる。その雨の間隙を縫うようにして、一羽の燕が奔った。
湯が沸いて蕪に火が通ると、お華は鉄鍋を火から下ろして味噌を溶かし込んだ。味噌の甘いともしょっぱいとも言えない香りが立ち、鼻をくすぐる。その汁の中へ細かく刻んだ蕪の茎が加わると、色味も鮮やかだ。
「空き腹にこの匂いはこたえるな」
そして、この時分になると弥彦が起き出す。
「おはよう、お華。おお、何とも美味そうな蕪の味噌汁だ」
「おはようございます、弥彦様。ふふ、ありがとうございます。さ、直に出来上がりますゆえ、弥彦様は卓の準備をお願いいたします」
「うむ、そうしよう」
濡らした手拭いを片手に、弥彦は卓を準備すべく炊事場を出た。お華はそれを見送ると、支度の残りをてきぱきと片付ける。
弥彦とお華の夫婦の、何時もの光景であった。
* * * * *
半刻(一時間)ほど掛けて朝餉を終え、身支度を整えていた弥彦は、雨が降りだしたことに気付いた。しとしとと降り注ぐ春小雨が辺りを濡らしていく。
「雨でございますね……」
お華の呟きの端に、弥彦は期待のような物を垣間見た。はたして何かあったかと思案した弥彦であったが、窓の外に答えを見付けた。
「お華、少し出るとしよう」
その一言にお華は顔を綻ばせた。付喪神となった今、お華に天気は関係ない。しかし、長らく傘として使われていた彼女にとって、雨の日は心弾むものである。
いつになくそわそわとしているお華を見て、弥彦は小さく笑った。楽しげに身支度を整える彼女の姿は純真な童のようだ。
「弥彦様、私は準備万端にございます」
「うむ、左様か。では行くとしよう」
そう言って連れ立つ二人の頭上を、お華の傘がふわりと漂う。一つ目を時折瞬かせている傘も、お華と同様にどこか嬉しそうである。
特別に行くあてもない二人は無言のままに歩き出した。雨粒が傘を叩く音のみが二人の間に流れる。しかしながら、その静寂は心地よい。二人の間に言葉は必要なく、雨音がお互いの存在を確かに伝えているからだ。
二人は橋の上で歩みを止めた。常ならば穏やかな眼下の川面も、今はささやかな賑わいを見せている。
「くしゅん」
お華が一つ、小さなくしゃみをした。
「春小雨と言えどやはり冷えるな。お華、そろそろ戻るとしよう」
「もう少しだけ……それに、こうしていれば寒くありませんよ」
弥彦の腕に自らの腕を絡め、お華は弥彦に身を預けた。弥彦の腕や肩の肉は固く締まっており、抱き心地が良いとは言えないだろう。しかしながら、お華はにこにこと微笑んでいる。お華にとって、弥彦は何よりも心安らぐ存在なのた。
「濡れにくくもあるな」
「はい、そのとおりにございます」
折しも、雨脚は強まりを見せ始めた。しかしながら、寄り添って傘の下にいる弥彦とお華が雨に濡れることはない。
雨に煙る川上から、滑るようにして舟が橋の下を行く。編笠に隠れて船頭の顔は窺えないが、舟歌がどこか寂しげに聞こえた。
「私が弥彦様の下へ帰りついたのも、雨の日でございましたね……」
「うむ。今でも、つい昨日の様に思い出せる」
「あれから色々なことがありましたが、弥彦様にはとても良くしていただいておりますね」
「なに、某こそお華には世話になってばかりだ」
「ふふ、お互い様ですね。けれど、これだけは言わせてくださいませ……弥彦様が主で、私は幸福者です」
「……お華、これからも某の隣にいてくれ」
「はい、勿論にございます!」
雨は未だ止まずにいる。その雨の間隙を縫うようにして、一羽の燕が奔った。
17/05/01 00:19更新 / PLUTO
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