銀の煙管 ??????(図鑑U-p.230)のネタバレあり
町を覆う空が赤みを帯び始めてきた頃、其処此処の家の勝手場から夕餉をしたくする煙が上がり始めた。あちこちを動いて回る姿から、お華もまたそうであると見える。稽古を付け、疲れて帰ってくるだろう夫を労うべく、滋味のある旬の物を用意しようとするお華に、ここにいないが弥彦は常に頭の上がらぬ思いであった。
「さて、今宵の夕餉は何かしらん」
「今宵は粉山椒を振るった鰆の照焼と、冬瓜の汁物をご用意いたしますよ」
夕餉の内容を聞いてくる声に、お華はそう答えた。そうして、はたと弥彦は未だ帰って来ていないことに気付く。お華は夕餉の支度の手を止めて振り返った。はたして、そこに居たのは銀の髪に菊の花飾りの簪を差し、着物の胸元を大きくはだけさせた女であった。女が燻らせる煙管からは紫煙ではなく闇が立ち上り、女の周りを漂っている。
「あら、百夜(ももよ)様ではないですか」
この百夜という女、その正体はこの界隈の妖怪を統べるぬらりひょんだ。お華が百夜と会ったのは、唐傘おばけに変じて弥彦と結ばれた後の面通し以来である。百夜は煙管を一息吸うと、さも当然であるように言った。
「さて、鰆の塩梅はいかがかな?」
「あ、いけない。暫しお待ち下さいませ」
「いやいや、それはいけないよ、華。直にお前さんの旦那さんが帰ってくるからね」
その直後、扉の前で人の立ち止まる気配がした。そして、只今帰ったという声と共に扉を開けたのは弥彦であった。
「ほら来た」
百夜は闇をぷかりと吐き出した。吐き出された闇はゆらゆらと天井へと上って行き、天井にぶつかると霧散して消えた。
夕餉の済んだ頃、百夜は持参した酒をお華に渡した。つまるところ、一献を共にしようということだ。お華は猪口を出して弥彦と百夜の前に置くと弥彦の隣に戻る。百夜は徳利を掴むと猪口へ酒を注いで一息に飲み干した。卓の向かいでは弥彦が舐めるように酒を飲んでいる。互いの猪口へ幾度か酒を酌んだ頃、弥彦が話を切り出した。
「久方ぶりであります、百夜様。此度はどういった御用向きで」
「うむ、久しいね。ちょいと華に頼みがあって寄らせてもらったのさ」
「私にですか」
「そうとも、そうとも」
百夜は猪口をぐいと煽って空にすると、弥彦を流し見た。そして、幾らか申し訳なさそうにしながら弥彦に言った。
「ただ、お華個人への頼みでねぇ・・・すまないが、暫く外してもらえるかい?」
言われ、弥彦はいささか怪訝そうな顔を見せた。面通しはしてあり、おかしな事をする相手ではないと分かっているが、そう思うのは仕方の無いことだろう。
「弥彦様、ここは申し訳ありませんが・・・」
「・・・うむ。では、某は稲荷亭へ行って参る。今の時分なら客足も落ち着いている頃だろう」
「すまないね」
そう言って軽く頭を下げる百夜に礼を返し、弥彦は稲荷亭へ向かった。
「それで、私にどのようなご用でしょうか?」
「それなんだけどねぇ・・・」
据わりが悪いのかもじもじと身じろぎをする百夜の頬は薄く朱が差している。そんな百夜の姿に得心のいったお華は、ぽんと手を打った。
「百夜様は、良い人が出来たのですね!」
「あっ!華、声が大きいよ・・・」
顔を真っ赤に染めて、百夜はお華の口を塞いだ。幸いにも隣の部屋に人は居ないらしく、物音は無い。それを確認して落ち着きを取り戻した百夜は、お華から離れると咳払いをして居住まいを正した。
「すみません、百夜様」
「まあ、事実そういった訳だからね。もう気にしちゃいないさ」
そう宥められたお華は、百夜と同様に居住まいを正すと真剣な面持ちで百夜に向き直り、言った。
「私に出来ることであれば如何様にも」
「そんな大仰なことではないよ。ただ、一つ相談に乗ってくれれば良いのさ」
百夜は袂から一本の煙管を取り出すと、それを卓に置いた。それは銀で作られた延べ煙管で、胴から火皿の元にかけて菊の飾り彫りが施されている。百夜はその煙管を愛しむかのように撫でると、とつとつと話し出した。
「この煙管を作ってくれた男に惚れてね・・・口数の少ない実直な男さ。そういった所は、少しばかり華の旦那に似ているだろう?」
お華は再び手を打ち、得心した様子を見せた。百夜の良い人を知っている訳ではないが、たしかに弥彦はそういった男だ。
「それで私に相談という訳なのですね」
「そういうことさ。なあ、華。どうやって弥彦を落としたんだい?」
この問いに、お華はいくらか頭を捻る思いだった。今でも弥彦と結ばれた時のことは鮮明に思い出せる。しかし、それは付喪神特有の性といっていいような物に従った結果であるだけに、助言となるか分からなかったからだ。
「何と言いましょう・・・思うままにすれば、万事が解決するかと」
事実、ぬらりひょんの百夜が思うままにすれば、意中の男を落とすのはそう難しくないだろう。それだけに、お華の中ではなぜそうしないのか疑問に思えて仕方が無かった。
「私も何度か一思いに襲ってしまおうかと考えたさ。けれどね、何をするにも真面目が過ぎるあいつを有耶無耶の内に襲うってのは、何だか忍びなくてさ」
心此処にあらずといった風の百夜は頬杖を突くと、ぬらりひょんのくせにねぇ、と溢した。百夜の生娘の様な姿を見て、お華はこの方にもこういった初々しい一面があるのだなと親しみを感じた。暫し、二人は何とも言い表しがたい雰囲気にあったが、これでは埒が明かないとお華が切り出した。
「いっそ、面と向かって思いの丈をぶつけてしまいましょう」
「・・・腐っても私は妖怪の総大将。ここらで一つ、腹を括るべきだね」
百夜はぴしゃりと頬を叩くと、すっくと立ち上がった。その顔は叩いたためか、はたまた羞恥からか、ほんのりと赤く染まっている。これを見てお華も立ち上がると、長屋の扉を開けに行った。
「世話になったね。結果はどうあれ、今度、改めて礼をさせてもらうよ」
百夜は煙管を咥えながら手をひらと振り、その場を後にした。煙管から漂い出た闇と夜の闇とが混じり合い、百夜の姿を包み隠す。そして、一陣の風が煙管から漂い出た闇をかき消すと、そこに百夜の姿は無かった。
草木も眠る丑三つ時。月も見えない夜の町は、じっと闇夜の中で息を潜めている。そんな夜半に煙管屋の男は目を覚ました。自分のものでも布団のものでもない温もりを感じたのだ。訝しんだ男が目を開けると、そこには百夜の姿があった。
「おや、起こしてしまったかい」
百夜は男の頬を撫でると、胸元へと掻き抱いた。誰だかは知らないはずなのに、男はこうして百夜の胸元に掻き抱かれることに安らぎを覚え、それが当たり前の事だと感じた。
「あたしは改めて面と向かって言うのがちょいと苦手でね・・・よぉく聴いておくれよ?」
男はこくりと一つ頷くと、それ以降口を噤んだ。その様子を見て、百夜は二、三度深く息をして言った。
「あたしをお前さんの妻にしておくれよ。勿論今すぐにとは言わないさ。これから、あたしはお前さんの家に入り浸らせてもらうんだ。何時までも待っているよ」
そう言うと百夜は男に覆い被さった。そして、男に長い口吸いをすると、彼の耳元で囁いた。
「それでもさ、今夜はあたしをお前さんの女にしておくれ」
「さて、今宵の夕餉は何かしらん」
「今宵は粉山椒を振るった鰆の照焼と、冬瓜の汁物をご用意いたしますよ」
夕餉の内容を聞いてくる声に、お華はそう答えた。そうして、はたと弥彦は未だ帰って来ていないことに気付く。お華は夕餉の支度の手を止めて振り返った。はたして、そこに居たのは銀の髪に菊の花飾りの簪を差し、着物の胸元を大きくはだけさせた女であった。女が燻らせる煙管からは紫煙ではなく闇が立ち上り、女の周りを漂っている。
「あら、百夜(ももよ)様ではないですか」
この百夜という女、その正体はこの界隈の妖怪を統べるぬらりひょんだ。お華が百夜と会ったのは、唐傘おばけに変じて弥彦と結ばれた後の面通し以来である。百夜は煙管を一息吸うと、さも当然であるように言った。
「さて、鰆の塩梅はいかがかな?」
「あ、いけない。暫しお待ち下さいませ」
「いやいや、それはいけないよ、華。直にお前さんの旦那さんが帰ってくるからね」
その直後、扉の前で人の立ち止まる気配がした。そして、只今帰ったという声と共に扉を開けたのは弥彦であった。
「ほら来た」
百夜は闇をぷかりと吐き出した。吐き出された闇はゆらゆらと天井へと上って行き、天井にぶつかると霧散して消えた。
夕餉の済んだ頃、百夜は持参した酒をお華に渡した。つまるところ、一献を共にしようということだ。お華は猪口を出して弥彦と百夜の前に置くと弥彦の隣に戻る。百夜は徳利を掴むと猪口へ酒を注いで一息に飲み干した。卓の向かいでは弥彦が舐めるように酒を飲んでいる。互いの猪口へ幾度か酒を酌んだ頃、弥彦が話を切り出した。
「久方ぶりであります、百夜様。此度はどういった御用向きで」
「うむ、久しいね。ちょいと華に頼みがあって寄らせてもらったのさ」
「私にですか」
「そうとも、そうとも」
百夜は猪口をぐいと煽って空にすると、弥彦を流し見た。そして、幾らか申し訳なさそうにしながら弥彦に言った。
「ただ、お華個人への頼みでねぇ・・・すまないが、暫く外してもらえるかい?」
言われ、弥彦はいささか怪訝そうな顔を見せた。面通しはしてあり、おかしな事をする相手ではないと分かっているが、そう思うのは仕方の無いことだろう。
「弥彦様、ここは申し訳ありませんが・・・」
「・・・うむ。では、某は稲荷亭へ行って参る。今の時分なら客足も落ち着いている頃だろう」
「すまないね」
そう言って軽く頭を下げる百夜に礼を返し、弥彦は稲荷亭へ向かった。
「それで、私にどのようなご用でしょうか?」
「それなんだけどねぇ・・・」
据わりが悪いのかもじもじと身じろぎをする百夜の頬は薄く朱が差している。そんな百夜の姿に得心のいったお華は、ぽんと手を打った。
「百夜様は、良い人が出来たのですね!」
「あっ!華、声が大きいよ・・・」
顔を真っ赤に染めて、百夜はお華の口を塞いだ。幸いにも隣の部屋に人は居ないらしく、物音は無い。それを確認して落ち着きを取り戻した百夜は、お華から離れると咳払いをして居住まいを正した。
「すみません、百夜様」
「まあ、事実そういった訳だからね。もう気にしちゃいないさ」
そう宥められたお華は、百夜と同様に居住まいを正すと真剣な面持ちで百夜に向き直り、言った。
「私に出来ることであれば如何様にも」
「そんな大仰なことではないよ。ただ、一つ相談に乗ってくれれば良いのさ」
百夜は袂から一本の煙管を取り出すと、それを卓に置いた。それは銀で作られた延べ煙管で、胴から火皿の元にかけて菊の飾り彫りが施されている。百夜はその煙管を愛しむかのように撫でると、とつとつと話し出した。
「この煙管を作ってくれた男に惚れてね・・・口数の少ない実直な男さ。そういった所は、少しばかり華の旦那に似ているだろう?」
お華は再び手を打ち、得心した様子を見せた。百夜の良い人を知っている訳ではないが、たしかに弥彦はそういった男だ。
「それで私に相談という訳なのですね」
「そういうことさ。なあ、華。どうやって弥彦を落としたんだい?」
この問いに、お華はいくらか頭を捻る思いだった。今でも弥彦と結ばれた時のことは鮮明に思い出せる。しかし、それは付喪神特有の性といっていいような物に従った結果であるだけに、助言となるか分からなかったからだ。
「何と言いましょう・・・思うままにすれば、万事が解決するかと」
事実、ぬらりひょんの百夜が思うままにすれば、意中の男を落とすのはそう難しくないだろう。それだけに、お華の中ではなぜそうしないのか疑問に思えて仕方が無かった。
「私も何度か一思いに襲ってしまおうかと考えたさ。けれどね、何をするにも真面目が過ぎるあいつを有耶無耶の内に襲うってのは、何だか忍びなくてさ」
心此処にあらずといった風の百夜は頬杖を突くと、ぬらりひょんのくせにねぇ、と溢した。百夜の生娘の様な姿を見て、お華はこの方にもこういった初々しい一面があるのだなと親しみを感じた。暫し、二人は何とも言い表しがたい雰囲気にあったが、これでは埒が明かないとお華が切り出した。
「いっそ、面と向かって思いの丈をぶつけてしまいましょう」
「・・・腐っても私は妖怪の総大将。ここらで一つ、腹を括るべきだね」
百夜はぴしゃりと頬を叩くと、すっくと立ち上がった。その顔は叩いたためか、はたまた羞恥からか、ほんのりと赤く染まっている。これを見てお華も立ち上がると、長屋の扉を開けに行った。
「世話になったね。結果はどうあれ、今度、改めて礼をさせてもらうよ」
百夜は煙管を咥えながら手をひらと振り、その場を後にした。煙管から漂い出た闇と夜の闇とが混じり合い、百夜の姿を包み隠す。そして、一陣の風が煙管から漂い出た闇をかき消すと、そこに百夜の姿は無かった。
草木も眠る丑三つ時。月も見えない夜の町は、じっと闇夜の中で息を潜めている。そんな夜半に煙管屋の男は目を覚ました。自分のものでも布団のものでもない温もりを感じたのだ。訝しんだ男が目を開けると、そこには百夜の姿があった。
「おや、起こしてしまったかい」
百夜は男の頬を撫でると、胸元へと掻き抱いた。誰だかは知らないはずなのに、男はこうして百夜の胸元に掻き抱かれることに安らぎを覚え、それが当たり前の事だと感じた。
「あたしは改めて面と向かって言うのがちょいと苦手でね・・・よぉく聴いておくれよ?」
男はこくりと一つ頷くと、それ以降口を噤んだ。その様子を見て、百夜は二、三度深く息をして言った。
「あたしをお前さんの妻にしておくれよ。勿論今すぐにとは言わないさ。これから、あたしはお前さんの家に入り浸らせてもらうんだ。何時までも待っているよ」
そう言うと百夜は男に覆い被さった。そして、男に長い口吸いをすると、彼の耳元で囁いた。
「それでもさ、今夜はあたしをお前さんの女にしておくれ」
16/12/04 20:39更新 / PLUTO
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